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城山三郎「男子の本懐」を読む31~40

城山三郎「男子の本懐」を読む31

  1930(昭和5)年11月下旬、井上は恒例の製造貨幣試験に立会い、あわせて銀行大会などに出席するため、関西へ赴きました。

財務省―トップページー検索―製造貨幣大試験について  

 政府の政策として、労働者の権利伸長のための労働組合法の制定にとりかかっており、労働者側は協力しているのに、資本家側は反対で話し合いに代表すら送ろうとしないので、財界に顔のきく井上に上記内容の話し合いの場に出席するよう資本家を説得する役割が期待されていたのです。

 また彼はさまざまな機会をとらえて金本位制堅持を主張する必要を感じてもいました。それは政友会を中心として、金輸出再禁止に転換することにより、金準備量とは無関係に通貨を発行できるようにして、インフレ政策により不景気を脱出しようという意見が高まろうとしていたからです。

 幣原喜重郎が首相代理となったことについて、やがて民政党内部から不満の声が聞かれるようになりました。彼は衆議院議席を持たず、民政党の党員でもありませんでした。そのような人物が民政党内閣の首相代理となるのは問題があると云う理由からです。

 幣原よりも安達謙蔵内相(首相代理決定の際在京せず)の方が首相代理にふさわしいという人々も多くいました。彼は幣原に欠けた上記資格を具えていただけでなく、その政治経歴からみても、浜口首相自身が「副総理格」として入閣させた経緯があったからです。

好古齋-Site Menu―松篁収蔵品-日本軸⑬1861~1870生―安達謙蔵

 この年の暮近くになって浜口は少しずつ元気を取り戻しつつありました。1931(昭和6)年1月22日浜口は退院、和服でステッキをもち、両脇を支えれるようにして官邸に帰りました。

 同日すでに前年12月26日開会され、休会中であった第59議会が再開されました。その冒頭、政友会の鳩山一郎幣原喜重郎の首相代理を認めないという緊急動議を提出しました。この動議は否決されましたが、議会は波瀾の幕開けとなったのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む32

 1931(昭和6)年1月22日井上蔵相は衆議院本会議で財政演説を行いましたが、その論旨は大要次のような内容でした(「井上準之助論叢」3)。

 不景気は金解禁の結果というよりも世界恐慌によるものであり、その恐慌は予測できなかったものである。世界の物価が低落する情勢の下で、もし日本が金解禁と緊縮により物価引き下げを行っていなかったら、国際収支は破滅的な赤字になっていただろう。不景気の中で合理化に努力した企業は生産費の切り下げのおかげで、すでに安定した立ち直りを見せている。中小企業の救済や整理促進のため特別な措置をとる他は、従来の政治路線を堅持して、何等の支障もない。

トリバタケハルノブのイラストとか日記ブログー12 浜口雄幸 金解禁を宣言する井上準之助   

 これに対して政友会きっての財政通であった三土忠造前蔵相は要約すると次のように井上の論旨を批判しました。 

 不景気は、政府が金解禁の時期と方法を誤ったために起こったものであり、経済は一向に立ち直りを見せず、むしろ悪化する一方である。

 同年2月3日衆議院予算総会で政友会の中島知久平議員がロンドン軍縮条約について、国防の不足をきたしたのなら、浜口首相・幣原外相の責任は重大である。明確なる返答を承りたと質問したところ、幣原首相代理は「この条約は御批准(「男子の本懐」を読む27参照)になっております。御批准になっていることを以て、国防を危うくするものでないことは明らかであります。」と答弁(この答弁については幣原首相代理の弁明あり。幣原喜重郎「前掲書」参照)したため、議場は騒然となり、島田俊雄議員が「それは国務大臣としての輔弼(ほひつ 補佐)の責任を忘れ、陛下に責任をなすりつけるものと言わねばならぬ」と非難、予算審議は10日中断しました(新聞集成「昭和編年史」))。

 もともと幣原外相を首相代理としたことには問題があり、やはり浜口首相が登院しないとまともな予算審議ができないとする声が高まり、体調を回復しつつあった浜口は毎日新聞を精読して議会の成り行きをよく知っていましたから、登院の意向を示していました。

 このため幣原首相代理は同年2月19日の貴族院本会議で「浜口首相も経過は至って順調であるから、今後意外の変化のない限りは、三月上旬には登院出来るであろう」旨を自発的に声明するに至りました(浜口雄幸「前掲書」)。

 ところが登院の約束をして2月下旬から3月上旬にかけて、浜口の病状は悪化しはじめました。激しい腹痛、便秘と下痢の繰り返しが続き、食欲はなく、わずかな葛湯かパン粥などしか喉を通りません。痛みのため不眠症がひどくなりました。

 家族や医師の反対にもかかわらず、同年3月10日午後1時半浜口首相は登院、休憩室で閣議を開き、午後2時5分衆議院本会議場に入り、議員は総起立、拍手して迎えました。

 浜口首相は大臣席につき、演壇に立って次のように挨拶しました。「諸君、私不慮の遭難のため時局多事の折柄数箇月の間国務を離るるのやむなきに至りました。(中略)以来健康も次第に回復をいたし、昨日をもって幣原首相臨時代理の任を解かれ、同時に私自ら総理大臣の職務に当ることとなったのであります。ここに御報告かたがた特に一言申上げる次第であります。」(小柳津五郎「前掲書」)

 

城山三郎「男子の本懐」を読む33

 つづいて犬養毅立憲政友会総裁が心のこもったいたわりの言葉をかけ、再び拍手の嵐の中を浜口首相は退場しました。首相官邸に帰り、椅子に坐ると浜口はがくんと首を垂れ、家人があわてて臥床させるほど疲労していました。

 翌3月11日浜口首相は再び登院、貴族院本会議で挨拶、その様子を貴族院で見た若槻礼次郎は「挨拶はすらすらとはできず、とぎれとぎれで、すこぶる苦しげな様子であった。」と述べています(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録―」講談社学術文庫)。浜口が姿を消すと議場には、ため息があちこちで洩れたほどでした。

 この後浜口首相は衆議院予算総会に出席、首相挨拶の後、政友会の島田俊雄議員が質問に立ち、首相代理の法理的根拠、軍縮問題、不景気問題などを挙げ、「これらについては、ぜひ首相の言明を承りたいが、お見受けするところ健康はまだ十分でないようである。首相は果して議会の質問応答に堪え得るかどうか」と浜口の顔を見て「かかる健康状態で議会に臨まれることは、野党として甚だ迷惑至極である」とただしました。

 浜口首相は立ち上がることができません。「首相答弁せよ!」の声が飛ぶと、島田議員は見かねたように「私は挨拶を述べたのであって、強いて答弁を求めたもではないから、とくと考慮されたい」と発言をしめくくり、浜口首相はようやく予算総会から解放されました。

 浜口首相が回復どころか、衰弱しきった状態であることは誰の目にも明らかでした。閣僚・与党幹部及び医師団は協議して、翌3月12日首相を休養させることにしました。ところが新聞が「僅か二日で早くも休養」と書き立て、首相はまた登院します。

 3月18日首相は鳩山一郎らの首相代理問題や財政問題などのきびしい質問にさらされ、演壇にたち、答弁します。

 浜口首相が本会議場に入ったのは午後2時30分で、首相が政戦の陣頭に立った時間は2時間43分に及び、議長が休憩を宣言して首相はようやく本会議場近くの休憩室に入りました。首相は休憩室で2時間半も待機した後、閣僚や党幹部の説得で首相官邸に引揚げました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む34

 1931(昭和6)年3月17日衆議院は政府提出の進歩的な労働組合法案・労働争議調停法改正案などを可決しましたが、政府内部にも安達謙蔵内相ら積極派と江木翼鉄相、宇垣一成陸相らの消極派の対立があり、これが保守的な貴族院への働きかけを弱めたとの見方もあり、浜口首相が指導力を発揮できる状態にはなく、結局貴族院はこれを否決、第59議会は同年3月27日閉会となりました。

 症状が悪化した浜口は同年4月4日帝大病院に再入院、深夜の午前1時から2度目の開腹手術を実施して結腸の一部を切り、人工肛門をつくりました。しかしそれでも症状は好転せず、4月9日午後11時3度目の開腹手術により、銃創の化膿による硬結を切開しました。このころ浜口はつぎのような句を詠んでいます。「紅葉より桜につづく嵐かな」(病院生活百五十日 その二 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫

四季折々―カテゴリーアーカイブー橋の話題―第73話 浜口雄幸と雄幸橋

 閣僚の間には議会を乗り切ったことでもあり、なお浜口に望みを託して内閣の延命をはかろうとする意見も多かったのですが、井上蔵相は浜口辞任を強く主張しました(「木戸幸一日記」上巻 昭和6年4月7日条 東大出版会)。

歴史が眠る多摩霊園―著名人全リストー頭文字―かー木戸幸一

 井上準之助は今浜口にもっとも必要なのは政権維持ではなくて、治療のための静養がなによりも大切であるということで、ここで浜口が政界を引退したとしても、元老西園寺公望らはなお浜口内閣の財政ならびに外交政策の継続を望んでおり、天皇の大命(組閣命令)は民政党に降下することは確実とふんでいたからです。

 同党内では後継総裁は現役の衆議院議員でなければならぬとして、若手を中心に安達謙蔵を推戴しようとする動きがあり、他方江木翼や党外の幣原喜重郎らは若槻礼次郎山本達雄(「男子の本懐」を詠む10参照)らを擁立しようとする動きを示していました。

 浜口に後継総裁を要請され、江木翼と安達謙蔵が若槻礼次郎の自宅を訪問し、「どうしても引き受けろという。山本は出ず、外にだれといって見当はつかない。(中略)どうにも仕様がない。とうとうそれでは引き受けようということになり、それで浜口の後を承けて民政党の総裁になり、ついで大命を拝して再び総理大臣となった。」(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史-古風庵回顧録―」講談社学術文庫)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む35

 1931(昭和6)年4月14日第2次若槻礼次郎内閣が成立、井上準之助蔵相はじめ多くの閣僚が留任しました。

 同年5月2日午後10時過ぎ、三河台の井上私邸の冠木門脇の物置が大音響とともに爆破されました(新聞集成「昭和編年史」)。

 同年5月16日政府は閣議で官吏の減俸を決定、浜口内閣の官吏減俸方針(「男子の本懐」を読む24参照)に対するそれに劣らぬ反対運動が巻き起こり、同月21日には東京地裁・区裁の判事連合協議会が減俸反対を申し合わせ、同月25日鉄道省職員が辞表を提出するなど騒然とした雰囲気がみなぎりました。

 しかし政府は5月27日俸給令(約1割減俸)改正を公布、官吏減俸に踏み切りました。

 浜口は病床に伏したまま、リンゲル、鎮痛薬、催眠薬など絶えず注射を打ち、注射針のあとばかりが増えていきました。やがて催眠薬の量を減らされたため眠れず、浜口は大学病院の病室でひとり目ざめて痛みに耐えていました。

 新聞だけは読んでもらい、ついに減俸が断行されたことを知りましたが、それについて特別意見をいうこともなかったようです。

 レントゲン照射が効いたのか、6月に入ると浜口の症状はいくらか好転し、同月28日退院して久しぶりに久世山の私邸に戻りました。だが8月2日浜口は悪寒と痙攣に襲われ40度の高熱を発したため急に衰弱していきました。10日ほどで熱は下がりましたが、食欲はなくなり、言語もはっきりしなくなりました。

 逝去の数日前浜口は子供たちを呼び、死後のことなどについて話しました。8月26日激しい発作が起こり、浜口は危篤状態に陥りました。「みんなの顔はまだ見えるぞ」というのが最後の言葉であったそうです(北田悌子「父浜口雄幸」日比谷書房)。

日本の墓―五十音順で探すーはー浜口雄幸 

 

城山三郎「男子の本懐」を読む36

 ここで話題を転換して、右翼国家主義者の動向をたどってみましょう。 枢密院でロンドン軍縮条約の諮詢が終わろうとしていた1930(昭和5)年9月下旬、陸軍中佐橋本欣五郎(陸大卒業後、満州里の特務機関長を経て、参謀本部ロシア班長)を筆頭に参謀本部若手陸大出身者らが中心となって桜会を結成、国家改造のための武力行使を辞せずと決議しました(「現代史資料」国家主義運動1 みすず書房)。

 「(前略)今や此頽廃し竭(つく)せる政党者流の毒刃が軍部に向ひ指向せられつつあるは之を『ロンドン条約問題』に就て見るも明らかな事実なり。(中略)過般、海軍に指向せられし政党者流の毒刃が陸軍軍縮問題として現れ来たるべきは明らかなる処なり。故に吾人軍部の中堅をなすものは充分なる結束を堅め、日常其心を以て邁進し、再び海軍問題の如き失態なからしむるは勿論、進んで強硬なる愛国の熱情を以て腐敗し竭せる為政者流の腸(はらわた)を洗うの慨あらざるべからず。」(桜会趣意書 中野雅夫「橋本大佐の手記」みすず書房

  1931(昭和6)年橋本欣五郎桜会の一部将校及び大川周明[東大卒 インド哲学専攻 学生時代参謀本部で独語翻訳に従事 北一輝と親交あり、後の「日本改造法案大綱」(1923出版)の原稿を上海より日本に持ち帰る、満鉄に入社し、関東軍高級参謀板垣征四郎らと親交あり]ら軍部武装蜂起による軍部政権樹立を企図、失敗して桜会は10月事件後解体しました(3月事件・10月事件 「現代史資料」国家主義運動1 みすず書房)。

松岡正剛の千夜千冊―全読譜―0901-1000-0942-北一輝―日本改造法案大綱

 中国では1928(昭和3)年6月9日北伐軍が北京に入城(北伐完了)、張学良は国民政府に合流しました。張学良政権は翌年までに打通線(打虎山―通遼)、吉海線(吉林―海竜)の2鉄道を開通させましたが、この2鉄道は満鉄平行線となったため、満鉄世界恐慌のあおりと相まって大打撃をうけるようになり、それに抗議すればするほど反日運動は強化されていく状態となりました。

 幣原喜重郎外相はこうした中国に対してその主権を尊重し、内政不干渉方針をとりながら日本の権益を守ろうと努めていましたが、このとき関東軍高級参謀板垣征四郎を頂く参謀石原莞爾は将来の日米戦に備えて満蒙を日本の領土とする必要があると考えており、その立場から見れば幣原外交は生ぬるいものでしかなかったようです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む37

 1931(昭和6)年6月以降永田鉄山陸軍省課長級並びに山脇正隆ら参謀本部課長級は建川美次(参謀本部第一部長)を長とする秘密委員会で「満蒙問題解決方策の大綱」を決定、関東軍の計画は南次郎陸相(第2次若槻礼次郎内閣)ら軍首脳部にも受けいれられました[「現代史資料(満州事変)」みすず書房]。

 陸軍首脳部は昭和10年までに満蒙問題を解決するとして関東軍の暴発を防ごうとしましたが、同年7月2日満州万宝山で朝鮮人農民と中国農民・官憲との大衝突事件が起こり、同月4日には朝鮮各地で中国人に対する報復暴動が起こるとか、北満地方視察中の中村震太郎大尉外1名が軍事探偵として中国兵に殺害された事件が8月17日公表され、幣原外交が苦境にたったとき、満州事変が勃発したのです。

 同年9月18日奉天郊外の柳条湖で満鉄線路が爆破され(柳条湖事件)、関東軍司令官本庄繁はこれを中国軍の行為として総攻撃を命令しました[「現代史資料」(満州事変みすず書房]。しかし9月19日奉天総領事林(久治郎)は今次の事件は軍部の計画的行動と想像されると幣原外相に報告しています(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 事実については花谷正(はなやただし 奉天特務機関補佐官)の証言(花谷正「満州事変はこうして計画された」別冊 知性5 秘められた昭和史 河出書房)があります。この証言を聞き出した秦郁彦氏はこの花谷証言を次のように要約しています。(1)事件の謀議に直接関わったのは、花谷のほか板垣、石原、今田新太郎大尉(張学良軍事顧問補佐官)、川島正大尉、河本末守中尉、三谷清憲兵少佐(奉天憲兵分隊長)、独立守備隊の小野正雄大尉、歩兵二九連隊の児島正範少佐、名倉栞少佐、他に補助的役割を分担した者に河本大作予備大佐、甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉のほか数人の浪人がいた。(2)軍中央部の建川少将、重藤大佐、永田大佐、橋本中佐ら、朝鮮軍の神田中佐は事前に大体の構想を知らされ、支援を約束していた。(3)「留め男」の建川少将の訪満を知らされ、九月十五日の夜半に謀議者たちが特務機関で会合した席で、くりあげ決行論(今田)と中止延期論(花谷)が対立し、エンピツをころがすクジで中止と決めたが、決行論者の説得で、十八日決行に再転した。(4)建川は奉天到着までに以上の経過を報告され、了解を与えていた。(5)爆薬は今田が調達し、川島の指揮下に河本中尉が自身で爆破作業を担当した。(秦郁彦「昭和史の謎を追う」上 文芸春秋社

クリック20世紀―年表ファイルー1931/03/17 三月事件―09/18 柳条湖事件―10/17  十月事件 

 関東軍は政府や軍中央の不拡大方針にもかかわらず、止まるところを知らない進撃を継続しました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む38

 満州事変の勃発は軍事支出の増大を招き、これまでの緊縮財政を一挙に突き崩しかねない情勢となってきました。

 一方中国では反日運動が激化、日本商品不買運動が高まり、産業合理化による企業の体質改善で輸出増大をはかろうとしていた政策の出足をくじかれることになりました。

 1931(昭和6)年9月21日イギリスが金輸出再禁止に踏み切り、金本位制を離脱、スウェーデンデンマークノルウェー・カナダなどが続々とこれにならいました。

 このような国際情勢は、従来から金輸出再禁止を主張していた立憲政友会を勇気づけ、閣内でも安達謙蔵内相が政友会と同様の再禁止論を唱えて若槻首相に迫るようになりました。しかし井上蔵相は金本位制維持の主張を変えることはありませでした。

 金輸出再禁止必至とみて、そのときには円暴落は避けられないから今円をドルに代えておけば差益で大儲けできるとみてドル買いがさかんとなりましたが(大蔵省財政史室編「昭和財政史」13 東洋経済新報社)、井上は同年10月6日日銀に公定歩合を2厘引き上げさせて1銭6厘とし、さらに11月5日2厘引き上げて(「日銀八十年史」)、ドル買いのための円資金借り入れを妨げる作戦に出たのです。

 同年10月1日昭和7年度予算案が各省に内示されました。歳出総額は13億3千万円余、前年度に比して1億2千万円の削減となっています。この予算案内示は各省の井上蔵相への憎悪を深めただけでなく、若槻内閣の存在そのものが揺らぎはじめました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む39

 安達謙蔵内相は浜口内閣の副総理格として入閣したのに、浜口首相遭難後は首相代理を幣原外相に奪われ、浜口引退時には次期総理を期待する声も高かったのに、当然辞退すると思われていた若槻の再出馬で首相就任の機会を失った悔しさもあったでしょう。

 安達の回想(「安達謙蔵自叙伝」)によれば、若槻首相は満州事変・イギリスの金輸出再禁止によって自信を失い、しばしば辞意を表明、これに対して安達は挙国一致内閣をすすめたところ、若槻は賛成したそうです。

 若槻の回想(「古風庵回顧録」)によれば、満州軍(関東軍)を政府の命令に服従させるには民政党だけの内閣でなく、各政党の連合内閣を作れば、政府の命令は国民全体の意志を代表することになり、政府の命令が徹底することになる。そこで若槻は安達にこのことを話し、各党の意向を打診することを頼みました。他方こういう連合内閣について幣原外相・井上蔵相に賛成をもとめたところ、両君は断然これに反対であったので、若槻は連立内閣を断念し、安達に先日頼んだことは中止されたいと告げたそうです。・

 同年11月21日安達謙蔵内相は政友・民政両党の協力内閣を主張して声明書を発表しました(新聞集成「昭和編年史」)。若槻首相が閣議をひらいても安達謙蔵内相は出席しません。同年12月11日第2次若槻内閣は安達内相の辞職拒否により、閣内不統一で総辞職しました。

 このとき若槻や井上は、組閣の大命が若槻に再降下すると期待していました。元老西園寺公望が依然として幣原の協調外交や井上の金解禁政策を支持していると読んでいたからです。従って若槻に大命が降下すれば、安達謙蔵だけを内相からはずして、実質的に内閣改造すればよいと考えていたようです。

 たしかに元老西園寺公望松本清張「火の虚舟」を読む9参照)は若槻礼次郎内閣を支持していましたが、第2次若槻内閣総辞職に伴う後継内閣首班奏請に際して、西園寺はいつもの彼に似あわず、秘書原田熊雄に「貴下はどう考えられるか」と繰り返して尋ねました。

 原田熊雄はこのことについて次のように述べています。『公爵としても、現下の外交の経緯からいって幣原外務大臣が辞め、この財政の危機を控えて井上大蔵大臣を引き下がらせる、というようなことは、頗る遺憾に思はれたのであらう、独言のように「幣原も井上も大分くたびれたろうから、この際休んで、再び力を養って出る方が、或は御奉公ができやしないか」と言ってを(お)られた。』(「西園寺公と政局」2)

 同年12月13日犬養毅立憲政友会)内閣が成立(外相 犬養毅兼任 のち芳沢謙吉 蔵相 高橋是清 陸相 荒木貞夫)しました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む40(最終回)

 十月事件の際、民間右翼の日蓮宗僧侶井上日召(井上昭 満州浪人の生活を送り、帰国後仏門にはいる 日本精神にもとづく国家改造の信念で護国堂を開いて青年を教育、1930年に海軍の藤井斉を通じて海軍青年将校と深交を結ぶ)らは西田税(にしだみつぎ 陸軍士官学校を経て陸軍騎兵少尉となるが、病気で予備役編入 北一輝の心酔者)を通じて、その計画を知っていましたが、彼は大部隊の軍隊を動かして政権を奪取したりすることには反対で、血盟団を結成、国家改造のための手っとり早い方法として政財界の指導者を暗殺するテロリズムを重視していました。

 十月事件が挫折すると、彼らはその具体化にとりかかり、1932(昭和7)年1月18日上海事変が起って藤井斉らが出動したので、民間右翼の血盟団だけで実行にとりかかりました(「現代史資料」国家主義運動1・2 みすず書房)。

 1931(昭和6)年12月13日犬養毅政友会内閣は初閣議で金輸出再禁止を決定しました。

 翌日株式・商品相場は暴騰、逆に為替相場は暴落、同年12月31日現在で対米為替相場は100円=35ドル1/4まで低下しました。輸出額ではとくに対中国輸出が激減、小麦・木材・硫安はじめ輸入品は一斉に値上がりしはじめました。

 1932(昭和7)年1月5日から井上準之助朝日新聞紙上に3回にわたり、「金の再禁止について」次のように論じています。

 英国が金本位制停止に追い込まれた事情にくらべ、わが国にには再禁止すべき根拠が薄弱であり、「今日金(輸出再)禁止をなす事はドル買い思惑を実行した一部資本家あるいは三、四の大銀行にばく大ななる利益を提供する以外何ものもないのである。しかして貨幣制度の根本を破壊された一般国民は不安と動揺の渦中に投じられるのみである。

 金の輸出再禁止のみで深刻な不景気が回復するはずはないから、(中略)次に来るべき通貨膨張政策であらねばならぬ。(中略)政府は我国の前途を一体どうしようとする考えであるか疑惑なきを得ない。(中略)ドイツが今日如何に過去の通貨膨張に悩まされつつあるか、今少しこの点を反省してみる必要があろう。」

 同年1月21日井上は貴族院本会議で高橋是清蔵相を対し緊急質問に立ち、再禁止の非を述べましたが(「井上準之助論叢」3)、衆議院は同日解散となりました。立憲民政党では井上が筆頭総務に推され、彼は来る2月20日の総選挙に向けて選挙委員長として総指揮をとることとなったのです。

 政党政治には豊かな政治資金が必要とされていました。若槻礼次郎が党および内閣での統率力が弱かったのは、若槻自身も認めたように、政治資金調達力が弱かったことも一因だったのでしょう。

 井上が日銀総裁や蔵相を経験して培った金融・産業界との人脈も、民政党内閣の緊縮財政及び産業合理化政策の及ぼす厳しい現実にそっぽを向き、犬養内閣の再禁止政策によるドル買いに走って井上を裏切りました。井上に財界からの政治資金調達力を期待できないのは明らかでした。しかも軍部と対立し、すでに浜口は逝き、安達謙蔵も脱党して資金源に乏しい民政党の総選挙を闘う困難は井上自身がよく知っていたことでしょう。

 同年2月9日夜井上は民政党候補駒井重次の演説会場である本郷駒本小学校に応援演説のため到着、車から降りて数歩歩いたとき、一人の男小沼正が群衆の中から飛び出し、拳銃を3発発射しました。井上は約15分後に絶命、即死同然の死であったようです。

東京紅團―地区別散歩情報―千代田区の散歩情報―5.15事件を巡る(下)-昭和史を歩くー5.15事件を巡る(上)-<前大蔵大臣井上準之助暗殺>

 小沼は現場で逮捕され、自分は農村青年で、農村の今日の困窮は井上の責任だから殺害したと述べ、背後関係は一切明かしませんでした。このあと3月5日三井合名会社(1909年三井家同族会管理部を法人化)理事長団琢磨が菱沼五郎に射殺されました。警視庁はピストルの出所が藤井(斉)海軍大尉で事件の中心人物が井上日召であることをつきとめ、3月11日井上日召は自首しました(血盟団事件・新聞集成「昭和編年史」)。

 青山霊園の木立の中に、死後も呼び合うように、盟友二人の墓は仲良く並んで立っています。 

有名人の墓―青山霊園―井上準之助