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城山三郎「男子の本懐」を読む21~30

城山三郎「男子の本懐」を読む21

 1927(昭和2)年4月20日田中義一(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む30参照)政友会内閣(組閣中田中は井上準之助外相就任を要請したが、彼が辞退したため首相が外相兼任、蔵相は高橋是清元首相)が成立(「官報」)、同月22日3週間のモラトリアムを緊急勅令として公布し、同年5月9日日本銀行特別融通および損失補償法・台湾の金融機関に対する資金融通に関する法律の2法が公布(「法令全書」原書房)され、台湾銀行各支店は営業を再開しました(新聞集成「昭和編年史」)。翌5月10日井上準之助日銀総裁に就任しています(「日本銀行八十年史」)。彼は非常事態を切り抜ける間だけで、1年でやめることを宣言していましたが、高橋是清は40日あまりで閣外に去り、その後任は三土忠造に変わりました。1928(昭和3)年5月8日で日銀は特別融資を打ち切り[特別融通法によるもの6億8793万円、台湾金融機関融通法によるもの1億9150万円(「日本銀行八十年史」)]ましたが、かつて金解禁賛成論者であった井上は同年5月15日全国手形交換所大会で、特別融資の結果日銀が金融統制力を失った状況下では金解禁は尚早と発言しています(「井上準之助論叢」3)。約束通り彼は同年6月12日在任1年1箇月で日銀総裁を退任しました。総裁退任後の井上には毀誉褒貶がつきまとい、井上だから特別融資をこの程度の額におさえられたのだと称える向きもあれば、貸してもたたかれ、貸さなくてもたたかれたのです。

 退任後家族を連れて長崎・雲仙を訪れ、雲仙には1週間居てゴルフばかりやっていました。8月には下関から友人とともに南洋旅行にもでかけました(「南洋視察」井上準之助論叢4)。

せたがやー検索―駒沢のゴルフ場  

 

 ところが田中義一新内閣は同年4月施政方針を発表、中国における共産党の活動に日本は無関係であり得ないと声明しました(新聞集成「昭和編年史」)。伊東巳代治が前内閣の幣原喜重郎外相を軟弱外交と批判した理由もあわせて知るためには、ここで話題を変えて当時の中国情勢を概観する必要があります。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む22

 1911(明治44)年辛亥革命により清朝が滅亡し、翌年成立した中華民国においては、封建的軍閥が各地に割拠して、これらが外国勢力と結び対立抗争していました。1917(大正6)年9月10日孫文は北京の段祺瑞政権に対して、広東軍政府を樹立、同月13日対独宣戦布告したことは既述の通りです(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)。しかし同政府は不安定で継続せず、1919(大正8)年五四運動の刺激を受けて、同年10月10日中華革命党を国民大衆に基礎をおく中国国民党に改組、1921(大正10)年5月5日広東新政府を樹立しました。同年7月には五四運動の指導者の一人であった陳独秀らが上海で中国共産党を創立しました。

世界史ノートー現代編―第16章 3 アジアの情勢―国共の合作と分離(その1・2)  

 1926(大正15・昭和1)年7月蒋介石は国民革命軍を率いて北伐を開始、1927(昭和2)年1月20日英大使は上海防衛のための共同出兵を提議しましたが、当時の若槻内閣の外相幣原喜重郎は翌日これを拒否、同年3月24日国民革命軍が南京に入城したとき、日本領事館が暴行を受け、海軍軍人も無抵抗で武装解除される事件(南京事件)が発生しました。

クリック20世紀―1927/03/24 南京事件  

 外相幣原喜重郎は駐華公使芳沢謙吉に南京事件の解決は外交交渉によると訓令し、同年4月11日に米英日仏伊5国総領事は南京事件に関し、国民政府(1927.4.18蒋介石南京に国民政府樹立)外交部長に責任者処罰、其の他を申し入れました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 蒋介石率いる国民政府軍が華北に到達すると、1927(昭和2)年5月28日田中義一内閣は山東出兵を声明、以後3回の出兵を実行、翌年の第2次出兵の際、山東省済南で中国国民政府軍と衝突しました(済南事件・新聞集成「昭和編年史」)。

 ついで1928(昭和3)年5月18日田中内閣は中国南北両政府に戦乱が満州に波及すれば、治安維持のため適当・有効な措置をとると通告、駐華公使芳沢謙吉は当時北京政府を支配していた奉天軍閥張作霖に東三省(奉天吉林黒竜江の三省)復帰を勧告しました。よって同年6月4日張作霖奉天に引揚げの途中、関東軍[関東州(「伊藤博文安重根」を読む15参照)の守備隊]の一部(参謀 河本大作らで、関東軍首脳部も彼等の計画を知りながら黙認)がかならずしも日本の言う通りには動かない彼を殺害するための謀略を企て列車を爆破、死亡させました(張作霖爆死事件・外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 河本らは事前に中国人の浮浪者2名を殺して偽の密書を懐に入れ、国民政府軍の仕業であるかのように見せかけたのですが、殺される予定の浮浪者の一人が逃亡して張学良(張作霖の子)側に情報を伝えたことなどから、真相が明らかになって行きました(森島守人「陰謀・暗殺・軍刀岩波新書)。

南京事件―日中戦争 小さな資料集―第四部 日中戦争への視点―2 張作霖爆殺事件(1) 

 同年6月21日立憲民政党は田中内閣の山東出兵を軽挙妄動と非難した声明を発表、同年7月26日にも同内閣の対華外交批判の第2次声明を発表しています(新聞集成「昭和編年史」)。

 同年9月田中首相憲兵司令官を現地に派遣して調査、10月陸相張作霖殺害犯人が日本軍の仕業と認め、これを首相に報告したので、田中は事件の犯行者が日本の軍人らしいこと、犯人は軍法会議(軍人が軍人を裁く軍の裁判所)に付する方針である旨、これを天皇に奏上しました(「岡田啓介回顧録」中公文庫)。

 しかるにこの厳重処分方針に対する陸軍の猛反対に屈して、1929(昭和4)年7月1日政府は張作霖爆死事件の責任者処分を発表、関東軍司令官を予備役に、河本大作を停職とする行政処分にとどめたのです。田中がこの行政処分の件を天皇に奏上すると、天皇は「お前の最初に言ったことと違ふぢゃないか。」と田中の違約を叱責、田中の話を再び聞きたくないと側近の侍従長鈴木貫太郎)にもらしたことを聞いて彼は落涙したそうです[原田熊雄(「男子の本懐」を読む23リンク「系図で見る近現代」第13回参照)述「西園寺公と政局」第1巻 岩波書店]。

近代日本人の肖像―人名50音順―おー岡田啓介―すー鈴木貫太郎

 同年7月2日田中義一内閣は総辞職しました。同年9月29日田中義一は死去、同年10月12日立憲政友会は臨時大会で犬養毅(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)を総裁に推戴しました(「立憲政友会史」7 日本図書センター)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む23

 1929(昭和4)年年7月2日浜口雄幸は参内して天皇より組閣命令を受けました。すでに大臣候補者の腹案ができており、新聞はかなり正確な大臣一覧表を報道していましたが、新内閣の最重要ポスト大蔵大臣だけは空白となっていたのです。とりあえず浜口首相が蔵相兼任で新内閣は発足するのではないかという観測も流れていました。蔵相人選について浜口には意中の人があり、その人物の名を早くから出せばつぶされるおそれがあったので、少数の最高幹部に打ち明けていただけで、党内にも秘密にしておき、ぎりぎりの時点で強行突破をはかる作戦だったようです。

 組閣について党内からはさまざまの要望が出されていました。大臣の椅子は一つ残らず党員に配分すべきであるとか、貴族院議員の入閣も望ましくないなどですが、浜口はこうした要望を傾聴しながら、独自の判断で閣僚選考をすすめたのでした。まず外務大臣には非党員であるが協調外交の推進者として定評のある幣原喜重郎を、司法大臣には少数ながら民政党を支持してくれる貴族院議員のグループに属する渡辺千冬を、そして注目の大蔵大臣には非党員で貴族院議員の井上準之助が起用されました。井上は党内の要望とは正反対の人物で、しかも原敬なきあとの政友会総裁として首相も勤めた高橋是清にひきたてられた経歴は周知の事柄でした(「男子の本懐」を読む11参照)。

 井上の入閣について、閣僚予定者の中から反対の声があがりました。なかでも強硬に反対したのは、民政党きっての異色野人政治家小泉又次郎小泉純一郎元首相の祖父)です。

系図で見る近現代―目次―第27回 小泉純一郎―小泉又次郎(祖父)

 小泉又次郎は入閣(逓信大臣)を辞退すると浜口にねじ込んだのですが、浜口に説得されて辞意を撤回、入閣を承諾しました(井上は入閣後、民政党に入党)。親任式のため参内するとき御車寄せの位置がわからないからと内務大臣安達謙蔵の車に同乗して宮中に入りましたが、誰も大臣と思わず、安達の従者として扱われたそうです(梅田功「変革者 小泉家の3人の男たち」角川書店)。

 同年7月2日浜口雄幸(立憲民政党)内閣が成立、同年7月9日同内閣は対華外交刷新・軍縮促進・財政整理・金解禁断行など10大政綱を発表しました(新聞集成「昭和編年史」)。

 新内閣の金解禁即行方針のため、7月から8月にかけて株式相場は続落していきました(「朝日経済年史」朝日新聞社)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む24

 1926((大正15)年当時議会で金解禁は時期尚早と述べた蔵相浜口雄幸(「男子の本懐」を読む19参照)が1929(昭和4)年首相として金解禁断行を同内閣の政綱の一つとして掲げたのはいかなる情勢の変化があったのでしょうか。

 戦後恐慌・震災恐慌などの不況による輸入超過がつづく状況の下で、金輸出禁止政策により円の外国為替相場は法定平価(「男子の本懐」を読む14参照)を大きく低落した状態となっており[1929(昭和4)年3月対米為替相場は100円=44ドル台に下落(「金融事項参考書」大蔵省理財局)]、この状態で金解禁を実施すれば、手持ちのある輸入業者は大打撃で、輸出業者も高価格となって輸出不振に陥るおそれが大きくなります。また為替差益をねらう投機も活発となるので、金解禁を実施する以前に、円の外国為替相場を出来るだけ法定平価に近づけておく必要があり、そのために国家財政を中心として緊縮政策を実施、国内物価を引き下げ、輸出額を増加させねばなりませんでした。

 大戦後の国際情勢では1919(大正8)年6月アメリカは金輸出禁止を解いて金本位制に復帰、翌年にはスウェーデン、イギリス、オランダが金解禁にふみきりました。

 1922(大正11)年イタリアのジェノアで開催された国際経済会議は金本位制再建を決議、各国はこの決議に沿って続々と金解禁を実施、1928(昭和3)年にはフランスが金解禁を行い、めぼしい国家はほとんど金本位制に戻り、残る国は日本とスペインだけという状態になったのでした。

 さらに1930(昭和5)年に設立される国際決済銀行の出資国(国際連盟財政委員会構成国)の要件に金解禁の実施が盛り込まれ、大戦後「五大国」の一つとされた日本の威信にもかかわる事態となったのです。

 日露戦争の戦費として募った外債2億3000万円に相当する英貨公債の償還期限は1930(昭和5)年で、現金償還するだけの財政力は当時の日本政府にはなく、借り換え債を発行するためには、金解禁に踏み切らなければならないという有様でした。

つかはらの日本史工房―日本史のおはなしー兌換制度・金本位制・金解禁などについて

 1929(昭和4)年7月29日浜口内閣は9100万円(当初予算の約5%)減の緊縮予算を発表、つづいて同年8月28日浜口首相は緊縮政策を全国にラジオ放送、ビラ「国民に訴ふ」を全国各戸配布しました。

 つづいて同年10月15日同内閣は全国高級官吏の1割減俸を声明しましたが、判検事・鉄道省官吏らの反対運動が高まり、10月22日同声明は撤回されました。

 同年11月9日昭和5年度予算案を決定、その内容は一般会計16億800余万円で、1907(明治40)年以来はじめて一般会計で公債を発行しないという金解禁に備えた緊縮予算案となったのです(新聞集成「昭和編年史」)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む25

 浜口内閣による官吏の減俸声明の直後、前内閣時欧米諸国に派遣された大蔵省財務官津島寿一は再び井上蔵相の密命を受けて太平洋を渡り、バンクーバーから大陸横断鉄道でニューヨークにむかう途中、、ニユーヨークからの至急電報を受け取りました。1929(昭和4)年10月24日木曜日、ウォール街株式市場が暴落したという内容のものです。これは後に「暗黒の木曜日」とよばれる世界大恐慌のはじまりを告げる事件でしたが、津島はそんな大事件の開始であることを予想できず、株式暴落はよくある出来事であり、このことがどの程度の影響をもつものかを心配しながらニューヨークに到着しました(安藤良雄編「昭和経済史への証言」上 毎日新聞社)。

坂出市―市政情報―坂出市の紹介―名誉市民―津島寿一

 津島はモルガン商会の支配人ラモントらに会い、英米の銀行から1億円相当のクレジット(貸付)の約束をとりつけることに成功、同年11月19日横浜正金銀行と英米金融団との間に合計1億円のクレジットが成立しました。

 金解禁を実施するに当り、金輸出禁止以前の(旧平価)100円=約50ドル(「男子の本懐」を読む14参照)で解禁するか、それとも実勢為替相場の100円=44ドル(「男子の本懐」を読む24参照)前後(新平価)で解禁に踏み切るかという問題がありました。

 浜口内閣は旧平価による解禁を決断したのですが、その理由は(ア)旧平価による解禁ならば、大蔵省令による解禁で実施できるが、新平価による解禁の場合、貨幣法(「男子の本懐」を読む14参照)の改正を必要とする、(イ)衆議院(1928.2.20普選法による最初第16回総選挙)では金解禁反対の政友会が多数をしめ、法案改正には時間がかかると予想される(ウ)旧平価による解禁で輸出不振が予想されるが、産業合理化をすすめることによって物価の引き下げは可能であるなどでした。

 かくして大蔵省は同年11月21日金解禁に関する省令を公布、1930(昭和5)年1月11日施行ということになりました(新聞集成「昭和編年史」)。

 金解禁施行から40日後の1930(昭和5)年2月20日に行われた第17回総選挙で立憲民政党は273、立憲政友会は174議席を獲得、政府与党の大勝利に終わりました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む26

 1929(昭和4)年10月7日イギリスは日・米・仏・伊を補助艦保有量制限に関するロンドン海軍軍縮会議に招請、同年10月18日政府は同軍縮会議全権に若槻礼次郎(元首相)・財部彪(海軍大臣)・松平恒雄(駐英大使)を任命しました。つづいて同年11月26日閣議は同会議全権に対し、対米7割を要求する訓令を決定しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー財部彪 

 1930(昭和5)年1月21日ロンドン海軍軍縮会議が開会、アメリカは日本の要求に対して対米6割縮小案を提議、交渉は難航しました。

 同年3月14日ロンドン会議日本全権はアメリカ提示の最終妥協案につき、これ以上の譲歩は得難いとして、これを承認するかどうかについての訓令を要請してきました。その最終妥協案の大要は(ア)大型巡洋艦について、アメリカの18万トンに対し日本の現有保有量は10万8400トンで対米6割2厘の比率であるが、アメリカは18万トンの中で3隻については1933年より3年間に1隻ずつ起工するに止めると譲歩したのでアメリカの実質保有量は15万トンとなり、これで対米比率は7割2分になる、(イ)潜水艦について 日本は7万8000トンを要求、米英は全廃の主張で対立したが、日米英同量の5万2700トンで合意、という内容でした。

 同年4月1日浜口雄幸首相は米国妥協案承認の訓令を、海軍軍令部[1893海軍軍令部条例により設置された天皇直属の軍令(作戦・用兵など)機関、同時に海軍省官制改正により海軍大臣権限を軍政(予算・人事など)に限る]長加藤寛治らに内示[「現代史資料」(満州事変みすず書房]し、閣議で決定の上、上奏裁可後全権に回訓しました。

 同年4月22日ロンドン海軍軍縮条約が調印され、翌年1月1日公布となりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む27

 すでに同年4月20日海軍軍令部副部長末次信正はロンドン条約案に不同意の覚書を海軍次官山梨勝之進宛に送付[「現代史資料」(満州事変))みすず書房],していましたが、翌4月21日第58議会が招集されると、4月25日衆議院で政友会総裁犬養毅鳩山一郎鳩山由紀夫元首相の祖父・「男子の本懐」を読む23リンク「系図で見る近現代」第3回参照)はロンドン条約締結に関し、国防上の欠陥と統帥(とうすい)権干犯(かんぱん 干渉して他の権利を犯すこと)につき政府を攻撃批判しました。

第二次世界大戦資料館―用語辞典―た行―統帥権―統帥権干犯問題   

 このころ西園寺公望秘書原田熊雄は住友の別邸で内大臣秘書官岡部長景・外務省亜細亜局長有田八郎らとともにロンドン条約をめぐる統帥権問題につき、弁当を食いながら美濃部達吉博士の意見を聞きました。政府は大概美濃部博士の説をとる意向らしく、浜口首相も美濃部博士の説を可とすると言ってゐたけれども、美濃部博士は『軍令部は帷幄(いあく たれまくとひきまく転じて本陣の意)の中にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部の意見は政府はただ参考として重要視すればいヽので、何等の決定権はないものだ』という風に非常に軽く言ってゐたということです(「西園寺公と政局」第1巻 昭和5年4月条)。

ぶらり高砂―高砂ゆかりの人物―美濃部達吉

 同年6月10日海軍軍令部長加藤寛治天皇ロンドン条約反対の上奏文を提出しようとしても天皇側近に体よく妨げられて果さず、帷幄上奏(軍機・軍令に関する事項を内閣から独立して天皇に直接上奏すること)して天皇に辞表を提出、後任には谷口尚真が任命されました(「官報」)。

 同年7月23日海軍軍事参議官会議はロンドン条約に関する(天皇の)諮詢(しじゅん諮問)に奉答、兵力の欠陥を補うため、制限外艦船・航空兵力充実などの対策を要望、これによって政府と海軍軍令部との対立を緩和しようとする姿勢を見せ、7月26日この奉答文に関し浜口首相より財政の許す範囲内で対策実行に努力すると上奏しました。

 すでに同年7月24日ロンドン条約枢密院に諮詢され[「現代史資料(満州事変みすず書房」]、8月4日枢密院議長倉富勇三郎は浜口首相に上記奉答文の提示を要求、しかし奉答文は軍事参議官が天皇に提出したもので、政府の関知するものではなく、首相はこれを拒絶したのです(「西園寺公と政局」1)。

 同年8月18日枢密院第1回ロンドン条約審査委員会(委員長 伊東巳代治)が開催されました。委員会は繰り返し開かれ、その度に幣原外相や財部海相とともに呼び出された浜口首相は枢密顧問官たちから問いつめられ、つめよられました。

 奉答文の提出が繰り返し求められ、軍事参議官に転じた前海軍軍令部長加藤寛治の出席を要求されましたが、浜口首相はこれを拒否しつづけ、(ロンドン条約)補充計画の規模、内容などについても大体の数字でいいからと質問されましたが、浜口首相は責任ある答弁は出来ないと答えるばかりでした。

 補充計画は次年度予算編成時に大蔵省と海軍省との折衝によって11月ころに具体化するのであって、井上蔵相の活動の妨げになってはならぬとの配慮もありました。

 同年10月1日枢密院本会議はロンドン条約諮詢案を可決、翌日同条約は批准されました(今井清一浜口雄幸伝」下巻 朔北社)。

YAHOO知恵袋―検索―大日本帝国憲法 批准  

 同年10月27日ロンドン条約寄託式が英国外務省の「ロカルノ」の間において挙行され、浜口首相・マクドナルド英首相・フーバー米大統領がほぼ同じ時刻に世界に向って軍縮記念演説の放送を行いました(軍縮放送演説 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む28

 1930(昭和5)年10月3日財部彪は海軍大臣を辞任、後任には安保清保が任命されました(「官報」)。

 同年10月14日の閣議で井上蔵相は昭和6年度予算案について不景気による未曾有の歳入減が予想されるので、相当の緊縮予算となるはずである。このため新規要求は絶対に承認できない。また既定経費についても、思い切った削減を加える方針であると述べました。

 海軍省でつくられた(ロンドン条約)補充計画の当初案は第1案7億3300余万円、第2案5億600余万円を要求するという方針が確定していました。ところが同年10月24日の閣議で井上蔵相から示された大蔵省査定案では歳出総額が14億1000余万円で、これに見合う歳入額は公債発行なしであり、剰余金の計上もなく、井上の予告通りのの驚異的な節減案となり、各大臣はため息をつくばかりで各省に持ち帰って検討することになりました。

 各省にこの予算案が内示されると、どこも大騒ぎとなり、いっせいに復活要求の声が上がりました。緊縮続きで不景気は深刻となっていました。

 この年世界恐慌が日本に波及、物価(日銀調査東京卸売総平均指数)は前年比約18%下落、特に農産物価格は著しく下落し、工業製品との格差が拡大していきました。事業会社の解散・減資が激増、輸出は著しく減退したのです。

 同年10月1日第2回国勢調査が実施されましたが、内地人口6445万5人、外地(台湾・朝鮮・関東州・南洋群島)人口2594万6038人、失業者は全国32万2527人に達していました(「統計年鑑・日本帝国統計年鑑・日本労働年鑑(大原社会問題研究所)」)。

 都会で失業した人々が郷里へ帰ろうにも汽車賃がなく、東海道などの主要街道は妻子を連れて歩いて帰る姿が目立ちました。

 しかし彼等が帰る農村も生糸の暴落で不況に苦しみ、このため全国から町村長が東京に集まり、農村負担の軽減、農家負債整理などを訴えて集会を開き、陳情デモがうねりました。これでは民政党の人気が失われる、緊縮万能を改めよとの反発が党内からも高まってきました。

横浜金沢みてあるきーかねさわの歴史―コラム―昭和恐慌と農村

 

城山三郎「男子の本懐」を読む29

 予算編成の労苦について、浜口首相は次のように述べています。『昭和六年度予算編成の最中、余一夕五勺の晩酌に陶然として肱掛に凭れて眠る。夢に一客あり、卒然として余が室に来り、憮然として余に告げて曰く、 不景気の結果、歳入の減少すること一億二千万円、剰余金は皆無、此の上は歳出節約の外、途あることなし。於是乎(ここにおいてか)、大蔵大臣は各省の既定経費に向って節約を強要すること一億五千万円、陸軍聴かず、海軍肯(うけが)わず、各省亦従わず、予算編成の難きこと実に未曾有(みぞう)のことたり。

 子(あなた)、昨夏組閣以来、金解禁に、議会解散に次いで総選挙に、将又(はたまた)海軍軍縮問題に、諸般の難問題踵を接して起り、一難未だ去らずして、一難復来る、寝(い)ねて席に安んぜず、食うて味を甘しとせず、顔色憔悴形容枯槁す。

 今復空前の予算編成難に遭(あ)う。心を労し思を焦がす、余命幾(いくば)くもあらざらんとす、何ぞ速に印綬(いんじゅ)を解いて(首相を辞任して)江渚の上に漁樵し、心広く躰胖(ゆたか)に、以って夫(そ)の天命を楽しみ、老後を養わんとはせざる。』

 こう夢の中で問いかけられて、浜口首相は『好意多謝。余昨年七月組閣の大命を拝するや、当時心秘かに決する所あり、身神共に君国に捧ぐ。苟(いやし)くも上御一人の御信任のあらせ給わん限り、総選挙の結果国民の信任の失われざらん限り、敢(あえ)て駑鈍(どどん)に鞭(むちう)ちて自ら信ずる所を行わんのみ。安(いずく)んぞ子孫と共に一日の余生を楽しむことを願わんや。

 且つ夫れ、予算難は即ち予算難なりというと雖も、余を以て之を見れば、秀吉、家康が時鳥(ほととぎす)の類のみ。「鳴かざれば鳴かしてみしょう時鳥。」「鳴かざれば鳴く迄待とう時鳥」宜いか解ったか、努力は一切を解決す。努力の及ばざる所は時が之を解決す。鳴かしてみしょうは努力なり。鳴く迄待とうは時なり。』「(予算夢問答 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫

日本漢文の世界―英傑の遺墨が語る日本の近代―作品リストー作者名五十音検索―は行ー浜口雄幸   

 既述の海軍省ロンドン条約)補充計画要求額に対する大蔵省査定額3億2500万円が井上蔵相から小林海軍次官に提示されました。そのころ天皇を迎えての観艦式が神戸沖で挙行され、海軍大臣・海軍軍令部長ら海軍首脳部は東京不在で海軍予算と補充計画についての折衝は海軍次官に任せられていましたが、小林はその日の夜行列車で神戸に向かい、翌日朝御召艦霧島の帰港後、艦上で異例の海軍首脳会議が開かれました。その結果査定案は奉答文の趣旨を全く無視するものであるということになり、安保海軍大臣は急遽帰京して井上蔵相・浜口首相と復活折衝に入ったのです。

 同年11月9日の深夜になって、ようやく安保海相と井上蔵相との間に歩み寄りがみられました。それは海軍側が3億7400万円に譲歩するが、財務当局は1937~8(昭和12~3)年度まで、不足兵力量の補充実現のため財源を1000万円ずつ繰り延べて支出するという内容です(今井清一「前掲書」)。

 同年11月11日新宿御苑における観菊会の終了後、首相官邸で開かれた閣議は予算最終案総仕上げのためのものとなる筈でしたが、各大臣から再び復活要求が相次ぎ、閣議が終了したのは午後11時過ぎでした。総額14億4800万円の昭和6年度予算案がやっと成立したのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む30

 折から岡山で天皇統監の陸軍大演習が実施されており、1930(昭和5)年11月13日夜浜口首相は記者会見で予算編成難であったことを述べ、失業救済・労働組合法・行政整理などの今後の課題についての抱負を語った後、翌日陸軍大演習陪観のため東京駅に到着、駅長室で休憩してから地下道を通ってホームへ出ました。午前9時発の超特急「つばめ」号に乗車する予定だったのです。ホームには人が溢れ、同じ列車で、新任駐ソ大使広田弘毅が出発するので、幣原喜重郎外相らが見送りに来て居ました。原敬の東京駅頭遭難(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23参照)があってから、首相乗降時ホームに一般乗客を入れないようにしていたのですが、浜口はそれをやめさせました。

 浜口首相が歩いていく前方の人垣の中から、わずか3mほどの距離を隔てて佐郷屋留雄[右翼団体愛国社員、同社長岩田愛之助は元関東軍特務機関(日本軍の諜報・宣撫工作などを行う特殊組織)員で、後述する桜会とも関係あり]にピストルで彼は狙撃されました。『「ピシン」と云う音がしたと思うた一刹那(せつな)、余の下腹部に異状の激動を感じた。その激動は普通の疼痛(とうつう)と云うべきものではなく、恰(あたか)も「ステッキ」位(くらい)の物体を大きな力で下腹部に押し込まれた様な感じがした。(中略)余は思わず蹌踉(そうろう)として倒れんとしたから、周囲の人々は自分を抱き上げ、手取り足取り駅長室に連れて行った。』(十一月十四日 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫

HARUKOの部屋―目次―母が語る20世紀―浜口雄幸首相 

 異変を聞いた幣原外相はこの時のことを次のように回想しています。『ようやく貴賓室へかけつけると、浜口君はもうグッタリと横になっていた。(中略)浜口は苦しい呼吸の下からハッキリと、「男子の本懐だ!」といっている。そして「昨日の総予算案の閣議も片づいたので、いい時間だった」などといろいろ話しかける。私は、「物をいうとどんどん血が出るから、物を言っちゃいかん」と止めたが、私がいると話しかけるので、ソッと駅長室へ行った。』(幣原喜重郎「前掲書」)ここに記述されている「男子の本懐」(十一月十四日 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫にも同じ言葉が記述されている)という言葉が本書の題名になっているのです。

 とりあえず次男巌根が輸血し、駆けつけた医師団の協議で帝大病院に運び、開腹手術が行われました。翌11月15日在京の閣僚はとりあえず、宮中席次が一番上の幣原喜重郎外相を首相臨時代理に推挙しました(「官報」)。

 これよりさき陸軍大演習当日安達謙蔵内相は天皇に供奉して陪観、ところが浜口遭難の第一報が御野立所の近くの電話に鉄道次官から連絡が入り、大塚警保局長は受けた内容を記した手帳メモを安達に手渡しました。

 安達が天皇に浜口遭難を報告すると、「陛下には予が手にせる大塚メモを御覧にならんとし、御竜顔恐れ多くも予が前額の附近に接近遊ばされる始末であった。」(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)

 安達は天皇からの見舞の果物籠を預って東京に赴き、浜口の病室に届けました。安達はすぐ岡山に引き返し、浜口からのお礼言上のため、天皇に報告しました。