城山三郎「男子の本懐」を読む11~20

城山三郎「男子の本懐」を読む11

  帰国した年の10月、井上は検査役となり、星ヶ岡茶寮で毛利千代子(華族毛利家の娘)と結婚式を挙行しました。

THE CAPITOL HOTEL TOKYU―レストラン&バー

 1900(明治33)年12月25日熊本の第九銀行(安田銀行・富士銀行を経てみずほ銀行に吸収合併)に取り付け騒ぎが起こり、九州全体に金融不安が拡大しました(新聞集成「明治編年史」)。関西に出張していた井上は門司の日銀西部支店に赴き、熊本へも出かけて収拾に乗り出しました。結局山本総裁は安田善次郎に第九銀行の再建整理を引き受けてもらおうとしました。、安田善次郎は同上銀行に対する日銀の救済融資について、種々の注文をつけたため、井上は反発して安田善次郎と激しい口論になりましたが、井上の主張を日銀幹部は容認するに至らなかったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―むー武藤山治―やー安田善次郎

 このとき浜口は熊本税務監督局長在任中(「男子の本懐」を読む4参照)でしたが、井上とはすれ違いに終わりました。

 1901(明治34)年秋、井上は新築中の日銀大阪支店調査役(支店長補佐)として赴任しました。彼は支店員全員に洋服を着るよう命令、支店の新築披露で来賓にもフロック・コート着用を招待状に記し、来賓として招待された鐘紡の武藤山治が東京からの帰途だったので、フロック・コートの用意がなく、モーニング姿で現れると、井上は武藤の出席を断りました。

 政府による日銀からの借り入れが増加し、政府融資額に上限を設けるよう主張して山本総裁は政府と対立、任期満了で解任され、1903(明治36)年10月20日後任として大蔵省理財局長であった松尾臣善(しげよし)が日銀総裁に就任しました。松尾総裁は温厚な性格で、「松尾男(男爵)は仕事は白湯(さゆ)を飲むが如くでなければいけぬと屡言った。」(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)といわれるように、職務を無難に勤めたことで知られ、政府はこうした人物を総裁にすえることで日銀を政府の思惑通りに運営しようとする意図が誰にも見え透いており、日銀内部ではかかる総裁人事に反対の空気がつよく、井上も批判的でした。

  大阪支店調査役から井上は京都出張所長となり、やがて日露戦争が勃発すると、日銀は国債の消化を重要な任務とするようになり、井上も積極的に国債売却に飛び回り、高橋是清副総裁の外債募集(「坂の上の雲」を読む18参照)も応援しました。

 京都に1年居て、井上は36歳で大阪支店長心得として大阪へ戻ってきました。当時大阪支店長は50歳以上の役職とされていましたから、抜擢人事で大阪支店内部の摩擦が大きいことを予想した高橋副総裁が支店長心得として赴任させ、赴任後3箇月ほど支店内の雰囲気をうかがってから心得を外すという念の入れ様でした。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む12

 同じく高橋副総裁の推薦で、松尾総裁もこれを認め。1906(明治39)年井上は日銀営業局長に抜擢されました。井上は自信過剰に陥り、安田善次郎ら重要財界人と衝突を繰り返し、総裁に注意されても態度を変えません。日銀内部では営業局担当の理事を無視して総裁と問題の決着をつけたり、独断で物事を処理して総裁に事後承諾を求めることもありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上準之助

 温厚な松尾総裁も上述のような井上の増長した行動には我慢できなくなり、1908(明治41)年10月末井上に日銀営業局長を退き、海外代理店監督役の肩書でニューヨークへ赴任するよう命令しました。日銀の中枢から閑職への左遷です。

 井上はよほど日銀を退職しようかと思った程ですが、この年の秋妻千代子が病臥し、彼が看病してようやく回復したばかりであり、ここで退職すれば病みあがりの妻に心理的にも経済的にも負担を強いることになるので、退職はあきらめ、翌年1月20日妻子をのこして単身東京を出発赴任の途につきました(「渡米手紙日記」井上準之助論叢4)。

 横浜から多くの人々に見送られて米国船モンゴリア号で出港、同年2月6日サンフランシスコに入港、列車でロッキー山脈を横切るときは雪の中を走り、わずかにソルト・レイクの湖面をのぞき見ただけでした。ついでまた雪の大平原を走り、日本を出発してから25日目にやつと任地ニユーヨークにたどりつきました。

 任地では実質的にこれといった仕事はなく、部下は二人しかおらず、事務室も横浜正金銀行支店の一劃を借りているだけでした。宿はホテル・マルセイユ、長期滞在客の多いホテルでした。現地では井上に興味をもつ日本人倶楽部の宴会が毎夜催されたのです。

 ニューヨークでの井上に来た日本からの最初の知らせは生母の死去でした(「書翰」大分県日田 井上豊一郎宛 明治42年3月11日付 井上準之助論叢4)。母の追憶に耽りたいところでしたが、事務引き継ぎに伴う人との会談の約束が相次ぎ、忙しい毎日を過ごしました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む13

 妻千代子からの簡単な手紙を繰り返して読み、夜は家郷のことを思って寝られなかったようです。

 憂鬱な井上のニューヨーク生活をわずかに救ったのはスポーツでした。 彼は久しぶりにテニス・コートに立ち、さそわれてゴルフを始め、これで生気を少し取り戻すと、自分の置かれた境遇をやや客観的に眺める余裕が生まれたのです。

 1910(明治43)年秋、日銀吉井理事が海外視察の途中ニューヨークにやってきて、井上に横浜正金銀行三菱東京UFJ銀行の前身)役員として転出するようにという松尾総裁の内意を伝えました(「書翰」東京 松尾臣善宛 明治43年11月12日付 井上準之助論叢4)。11月26日本店より帰朝せよとの電報が入りました。

  1911(明治44)年6月井上は横浜正金銀行副頭取に就任、同月1日日銀でも松尾総裁は退任して副総裁高橋是清が総裁に昇進しました。

タイムスリップよこはまー関内駅周辺―旧 横浜正金銀行

 高橋は日銀副総裁時代に横浜正金銀行頭取を兼務していましたが、日銀総裁に就任すると兼務をやめ、新たに三島弥太郎(「大山巌」を読む31・40・45参照)が正金銀行頭取に迎えられました。三島は貴族院多数派「研究会」幹部で、この人事は第2次桂太郎内閣の貴族院対策と見られていました。三島は薩摩藩三島通庸(「大山巌」を読む31参照)の長男でアメリカに留学して昆虫を研究、帰国後貴族院議員となり、少しは財政経済の勉強はしていたものの、正金銀行頭取の実務には暗く、国際経済・金融の実務に精通した補佐役が必要でした。そこで井上が副頭取に起用され、正金銀行頭取としての実務はほとんど井上に任されたのです(吉野俊彦「前掲書」)。

 第3次桂太郎内閣は短命に終わり(「男子の本懐」を読む6参照)、1913(大正2)年2月山本権兵衛内閣(首・外・陸・海を除く全閣僚は政友会員)成立に際して、同じ薩摩閥の三島弥太郎に大蔵大臣就任が要請されましたが、三島は辞退、このため日銀総裁高橋是清大蔵大臣となり、三島が代って日銀総裁を引き受けたので、正金銀行頭取はしばらく水町日銀副総裁が兼務、同年9月井上が正金銀行頭取に昇進しました。

 山本権兵衛内閣がシーメンス事件(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15参照)で倒壊、1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣(副総理格に立憲同志会総理加藤高明入閣)が成立、若槻礼次郎蔵相の下で大蔵次官となった浜口雄幸が正金銀行頭取井上準之助としばしば顔を合わせるようになったことは既述の通りです(「男子の本懐」を読む6参照)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む14

 1914(大正3)年12月25日衆議院解散、翌年3月25日第12回総選挙が行われることになり、高知県立憲同志会立憲政友会に対抗して浜口を衆議院議員立補者に担ぎ出そうとする動きが本格化してきました。

 彼は演説が下手だと首をかしげる向きもあったのですが、大蔵次官の肩書や専売局長官時代の実績や人柄も評価されて総選挙への出馬を正式に要請されました。たしかに彼は政談演説が上手とは言えませんでしたが、各演説会場にふさわしい演説草稿を事前に作り、どんな僻地に出掛けることも厭いませんでした(政見要旨「消極政策か積極政策か」大正4年3月第35議会解散後、立候補 小柳津五郎「前掲書」))。

 総選挙で与党立憲同志会は大勝、浜口も当選、1915(大正4)年7月彼は大蔵省参政官(政務次官・政務官の前身)となりましたが、そのころ大浦兼武内相の野党政友会議員の買収容疑が問題となり(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18参照)、外相加藤高明・蔵相若槻礼次郎らは内閣総辞職を主張して閣外に去り、浜口も加藤らと行動を共にしました。

 1916(大正5)年10月5日第2次大隈重信内閣は総辞職、同年10月9日山県有朋の推挙により寺内正毅(長州閥)内閣が成立、翌10月10日立憲同志会中正会公友倶楽部が合同して憲政会(総裁 加藤高明)を結成、衆議院の過半数を掌握しました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18~19参照)が、結党大会で浜口は結党にいたる経過説明を行い、加藤総裁の下で総務を勤めました。

 しかし1917(大正6)年4月20日に行われた第13回総選挙で憲政会は政友会に敗北、浜口も落選して衆議院議席を失ったのですが、彼は事務員の徽章を着けて議会に通い、傍聴席で質疑に耳を傾けていました。

 すでに日本は日清戦争の賠償金(「大山巌」を読む39参照)を英ポンド貨で支払いを受けた(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)結果、1897(明治30)年10月1日貨幣法の「純金ノ量目二分(ふん 一分は一匁の1/10,二分は750㎎)ヲ以テ価格ノ単位ト為シ之ヲ圓ト稱ス」(「法令全書」)の規定により、我が国の中央銀行である日本銀行が発行する拾円兌換(だかん)銀行券を日銀はいつでも純金二匁を含む拾円金貨と交換、国際金融においては輸出入[金(法定)平価(円と外国通貨例えば米国通貨との比率)100円=約49.85ドル]との差額を金で支払うという金本位制を確立したのでした。

 第1次世界大戦により、とくに欧州諸国は輸入超過となったこと及びロンドン為替決済市場が閉鎖されたため、各国とも金輸出禁止の措置をとるようになりました。

  1917(大正6年)4月6日アメリカはドイツに宣戦布告し、同年9月10日金輸出を禁止したので、寺内内閣の蔵相勝田主計(しょうだかずえ)は同年9月14日金本位制を事実上停止する金貨幣・金地金輸出取締令(省令)を公布、金輸出禁止(通貨当局が金を輸出することは可能)にふみきりました(新聞集成「大正編年史」)。

YAHOO知恵袋―カテゴリー教養と学問、サイエンス―歴史―日本―日本史寺内正毅について(2012/11/30/)

 

城山三郎「男子の本懐」を読む15

 勝田主計は東大法科で浜口と1895(明治28)年卒の同級生でした。彼等は二八会というものを結成、大臣になったものが会員全体を招待し御馳走するという申し合わせをしていましたが、その最初の該当者となった勝田主計は同期生を蔵相官邸に招いてシャンペンを抜き乾杯、にぎやかな宴会を開きました。二八会で大蔵官僚となったのは勝田と浜口の二人だけ、勝田が終始エリートコースを歩んだのに、浜口は短期間大蔵次官を勤めただけで、当時は代議士でもなく無官でしたが、この会合に出席して勝田への祝辞を述べたのでした。

 寺内正毅内閣は1917(大正6)年1月20日日本興業銀行朝鮮銀行台湾銀行から資金を出させて、交通銀行(中国)へ500万円の借款(異なった国家間の長期にわたる融資)を供与する契約を締結しました(「日本興業銀行五十年史」日本興業銀行臨時史料室)。これをはじめとして翌年9月28日における上記3銀行による資金を満蒙4鉄道借款前貸金、済順・高徐2鉄道借款前貸金、参戦借款の3種各2000万円を供与する契約を中国政府(段祺瑞政権)と締結[いわゆる西原借款(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)、これまでの総計1億4500万円]しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

Weblio辞書―検索―西原亀三 

 勝田蔵相ははじめこの金額の一部を横浜正金銀行にも割り当ててきたのです。政府からさまざまな圧力がかかっても井上の方針は変わらなかったので、蔵相も無理押しをあきらめたようです。事実西原借款は本来の目的とは異なった軍閥政府の政治資金や戦費などに使用されて回収の見込みがなくなり、3銀行の債権は大蔵省預金部資金に肩代わりされ、国民の負担となって世論の非難を浴びたのでした。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む16

 寺内正毅内閣は米騒動で倒れ、1918(大正7)年9月29日原敬内閣(陸海外3相を除く全閣僚政友会員)が成立(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20~21参照)、同内閣の蔵相高橋是清は翌年3月13日井上準之助日銀総裁に任命しました(「日本銀行八十年史」)。はじめての日銀生え抜き総裁の登場です。

 大戦景気(「労働運動二十年」を読む15参照)がかげりを見せ、1919(大正8)年初頭には貿易収支が入超に転じていた(「日本経済統計総観」朝日新聞社)のに、経済界では依然として株式などへの投機がさかんでした。

 金輸出禁止の日本において、正貨準備(在内正貨ともいう。国内産金・輸入金貨及び金地金など、この中の朝鮮からの略奪的輸入額は輸入総額の約68%、大江志乃夫「日本の産業革命岩波書店)は約四億四千万円あり、これに加えて在外正貨(ポンド貨で受け取った日清戦争の賠償金及び日露戦争の際英国で募集された外債についての手取金などは日本政府から日本銀行に預託され、ポンド預金としてロンドンのイングランド銀行が保有)は約十二億円もありました(1919年6月現在、水沼知一「金解禁問題」岩波講座「日本歴史」19)。大戦後の同年6月アメリカは金(輸出)解禁にふみきって金本位制に復帰したことでもあり、井上は投機熱を冷やすためにも、金輸出禁止を解くことが必要だと考えたのですが、高橋是清蔵相は当時の中国情勢(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)を考慮、同国にいつでも投資できるよう正貨を貯えておく必要があると考えていたので、井上の主張は取り上げられませんでした。それで日銀は同年10~11月の二度も公定歩合(日銀が市中銀行にお金を貸し出すときの金利)の引き上げを実施、金融引き締め策を実施しました(「日本銀行八十年史」)。

 1920(大正9)年3月15日株式市場は株価暴落で混乱、東京・大阪株式取扱所は2日間休業せざるを得なくなりました。戦後恐慌が始まったのです(「労働運動二十年」を読む20参照)。

 日銀は株式市場救済のための資金融資を、同年4月13日商品相場が暴落すると、さらに産業界に対しても特別融資を決定しました。1921(大正10)年11月17日井上は関西銀行大会において消費節約を唱え、内務省・商業会議所などの消費節約運動がおこりました[日本銀行調査局編「日本金融史資料(明治大正編22)」大蔵省印刷局]。

 1922(大正11)年8月19日日銀は在外正貨を正貨準備に繰入れることを禁止、従来充当分も8月末日限り解消と発表、このころ金解禁問題をめぐる議論は活発となっていましたが、加藤友三郎内閣(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26参照)の蔵相市来乙彦は金解禁が尚早と声明していました(「日本金融史資料(明治大正編22)」)。

Weblio辞書―検索―市来乙彦  

 これは加藤(友)内閣の事実上の与党である立憲政友会の総裁高橋是清が金解禁反対を強硬に主張したためといわれています。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む17

 1923(大正12)年9月1日関東大震災(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27参照)が起ったとき、その直前に組閣命令をうけ、第2次山本権兵衛内閣が組閣中で井上準之助首相官邸に呼ばれて蔵相への就任を要請されました。彼は回答を保留して日銀にもどり、建物に異常はなかったが、念の為宿直員や守衛をふやすなどの指示をして帰宅しました。

 しかるに翌2日未明、日銀が燃えだしたとの報せをうけ、井上は日銀の近所に住む理事の深井英五を日銀へ急行させ、自身は陸軍省へ赴き、破壊消防の必要がでたときに備えて工兵隊の出動を要請しました。

Weblio辞書―検索―深井英五  

 彼がやがて日銀に駆けつけると、ポンプ車が窓から注水しても火勢が強くて鎮火出来そうになく、消防司令を先頭に井上はまず石垣をよじ登り、そこから細い板を渡し、その上を這うようにして二階の窓から中に入りました。彼はハンケチで鼻と口を押さえながら、重要な部屋の配置を次々と消防司令に教えると、司令は井上に建物外に出るよう指示、午後1時ころ漸く鎮火しはじめました。

日本銀行―対外説明・広報―日本銀行を知る・楽しむーバーチャル見学ツアー旧館入口―旧館外観ー歴史写真館入口―関東大震災で焼け落ちたドーム<大正12年>

 日銀の主要な建物は無事で業務に支障はなく、また日銀には安心して任せられる深井英五のような人物が育っており、井上は大蔵大臣に就任する決意を固めていたのです。 

 新首相山本権兵衛が同郷の前蔵相市来乙彦を留任させず、井上を蔵相に起用したのは、山本首相が関東大震災復興までしばらく見送るとしても、いずれ金解禁を実行せざるを得ないだろうという意向だったからです。内相として入閣した副総理格の後藤新平も井上の蔵相就任を強く望みました。

 同年9月2日宮中の露天芝生の上で摂政宮(裕仁親王、後の昭和天皇)臨席の下、第2次山本権兵衛内閣の親任式が行われ、新内閣が発足しました。

 翌日大蔵省全焼により臨時の大蔵省仮庁舎となった永田町の蔵相官邸に集合した大蔵官僚に対し、井上はモラトリアム(moratorium  天災・恐慌などのの際に起こる金融の混乱を抑えるために手形の決済、預金の払い戻しなどを一時的に猶予すること)実施を発表、9月7日支払猶予令(緊急勅令大日本帝国憲法」第八条による)が公布されました(新聞集成「大正編年史」)。

国立国会図書館―電子展示会―日本国憲法の誕生―資料と解説―憲法条文・重要文書―大日本帝国憲法   

 予算編成については、大正12年度予算十三億七千五百万円の中で大震災による租税減収が八千三百万円あり、この金額を各省予算に割り当て減額、大正13年度予算編成においても、各省に大幅減額を要求して歳入剰余(黒字)を生み出しました。

 同内閣は帝都復興院を設置、後藤内相に復興院総裁を兼任させました。 井上は復興予算財源については増税によらず、公債で賄うこととし、公債の利子支払い金額を毎年度予算における上記歳入剰余で充当できるように計算して復興予算総額七億二百万円を計上したのです。

 これに対して後藤新平復興院総裁は復興予算三十五億円を要求、烈しい対立となり、後藤は閣議の席をけって退出しかけた程でしたが、結局井上の原案をしぶしぶ承認させられました。

 しかし井上のこうした奮闘にもかかわらず、同年12月27日虎ノ門事件(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27参照)により、同内閣は総辞職し、短命内閣に終わりました。

 1924(大正13)年1月9日貴族院勅選議員となった井上は同年2月4日ヨーロッパへ向けて神戸を出港、フランス・イギリス・ドイツ・デンマークなどを訪問、政財界人や旧知の銀行家たちと会談、8月下旬に帰国しました。

日本の歴史学講座―日本戦前官僚事典―勅選貴族院議員一覧

 東京市会各派は全会一致で井上を東京市長に推挙、しかし井上は受諾せず、困惑した市会各派は渋沢栄一に井上説得を依頼したので、渋沢は後藤新平とともに井上を訪問、元日銀総裁山本達雄も加勢しましたが、井上は結局応ぜず、大日本連合青年団東洋文庫の理事長を引き受けただけでした。

東洋文庫―ライブラリー利用案内ー所蔵図書の概略―井上準之助氏旧蔵和漢洋書―井上準之助

 この年すでに大磯の別荘で療養中の井上の長男益雄が永眠、家族愛を大事にしてきた井上にとって大きな打撃であったでしょう。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む18

 1919(大正8)年3月26日浜口雄幸補欠選挙(「原内閣外交政策の無力」大正8年3月11日 補欠選挙における政見要旨 小柳津五郎「前掲書」)で勝利して代議士の議席を回復しました。憲政会の党本部では浜口が主に政務を、安達謙蔵が党務を処理、二人三脚と呼ばれました。 浜口の誠実で地味な政治家としての日常生活を加藤高明若槻礼次郎ら党幹部は高く評価していましたが、党外からも注目され、渋沢栄一らが彼を東京市長に推挙しようとしたこともありましたが、浜口は憲政会が逆境(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む22参照)にあるのに見捨てることはできないという理由で辞退しました。

 帝国議会の会期中(第42議会)になると、浜口は憲政会全体の質疑の方向や手順をきめるとともに、彼自身も原敬首相や高橋是清蔵相に対して、物価騰貴を招く放漫財政を質問批判し、物価調節機能を持つ金本位制復帰(金解禁)へ向かっての政策転換の必要を示唆したのでした(小柳津五郎「前掲書」)。

 1923(大正12)年夏珍しく浜口は次男の磐根とともに箱根に滞在、同年8月31日帰京、翌日関東大震災に遭遇しました。

 政党内閣ではない第2次山本権兵衛内閣の成立に憲政会は反対でしたが、憲政会政務担当総務で財政に明るい浜口は井上新蔵相に大きな期待を寄せていました。その期待に応えるかのように、井上は上述のようなモラトリアムなどの施策を強行し、浜口は見事だと感心したのでした。しかし野党憲政会の代議士として浜口は帝国議会での井上との対決も覚悟していましたが、同内閣はわずか4か月の短命で倒壊、両者対決の機会は訪れなかったのです。 

 第2次山本内閣倒壊後、成立した清浦奎吾内閣はまた非政党内閣であり、忍耐強い浜口もさすがに「心身共に倦怠を覚え」(八 敵は本能寺にあり 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)たと述懐した程でした。

 しかし1924(大正13)年5月10日第15回総選挙で護憲3派が大勝、同年6月11日加藤高明を首相とする護憲3派(憲政会・政友会・革新倶楽部)連立内閣が成立、浜口雄幸は蔵相に就任したのです(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む19

 浜口蔵相が取り組んだのは行政財政整理問題でした。1924(大正13)年11月から12月にかけて、行政整理のため諸官制の改正・廃止などの諸勅令を公布、翌年5月陸軍4個師団を廃止して人員整理をを行い、大正14年度一般会計歳出決算は前年度より約1億円減少しました(統計研究所編「日本経済統計集」明治・大正・昭和 日本評論新社)。

 税制整理については、1925(大正14)年7月30日の閣議で政友会出身閣僚の小川法相・岡崎農相が税制整理案に反対し退席、加藤高明内閣は閣内不統一で総辞職となり、同年8月2日第2次加藤高明(憲政会単独)内閣が成立、浜口蔵相は留任しました。

 翌年浜口は金解禁について議会で時期尚早であるという立場を述べています(「東洋経済新報」)。1924(大正13)年の年間輸入超過額は6億4637万円に達し、これまでの最高となっていました(「日本経済統計総観」東京リプリント出版社 朝日新聞社 昭和5年刊行の復刻)。

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 同年3月対米外国為替相場が47ドル台から44ドルに、年末に38ドル台に下落し、翌年末43ドル台に回復しました(「日本経済統計総観」)。しかしもしこの時点で金解禁を実施すれば、輸入品在庫及び輸入原材料による製品所有者が損害をうけ、投機が行われ、輸入はさらに増加、輸出も減少するおそれがありました。金解禁を実施するには為替相場が法定平価に近づくのを待つ必要があり、これが浜口蔵相の公式見解であったのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む20

 1926(大正15・昭和1)年1月28日加藤高明首相死去により、同月30日若槻礼次郎(「男子の本懐」を読む 6参照)内閣が成立、前内閣の全閣僚が留任しました。

 税制整理問題の処理に当たってきた浜口ははじめ同内閣の蔵相として留任したのですが、同年3月税制整理問題は一応決着したので、若槻首相は自分の後継者として浜口に内務行政も経験させるためでしょうか、あえて同年6月3日の内閣改造で浜口を内務大臣に就任させ、蔵相には早速整爾(はやみせいじ)、次いで彼の病死により片岡直温が後任として起用されたのでした(若槻礼次郎「前掲書」)。

 同年12月25日天皇死去、摂政宮裕仁親王践祚し昭和と改元、1927(昭和2)年1月20日追号大正天皇と公表しました(新聞集成「昭和編年史」明治大正昭和新聞研究会)。

 経済不況は依然として立ち直らず、同年3月14日片岡蔵相の失言を発端として始まった金融恐慌が鈴木商店と密接な関係にあった台湾銀行[台湾銀行法により1899(明治32)年設立された特殊銀行、台湾における貨幣発行権をもつとともに、融資も行う商業銀行でもある]に波及しました。

鈴木商店記念館―鈴木商店のあゆみー鈴木商店の歴史 

YAHOO知恵袋―カテゴリー教養と学問、サイエンス―歴史―日本―なぜ台湾銀行は鈴木商店に融資し続けたんですか? 

 若槻内閣は台湾銀行の破綻を救済するために、同年4月14日台湾銀行救済緊急勅令憲法第8条)案(1.日銀は台湾銀行に無担保特別融資、2.政府は日銀が台湾銀行への融資の結果、生じた損失に対し2億円の限度で補償)を用意してこれを枢密院天皇の諮問機関 憲法第56・70條)に提案(「男子の本懐」を読む17参照)しました。

 しかるに同年4月17日枢密院は同勅令案を否決、若槻内閣は総辞職に追い込まれました(新聞集成「昭和編年史」)。この時の状況を若槻礼次郎は次のように回想しています。

 『枢密院は、この事は憲法第七十条の緊急処分の条項に当たらんと言い出した。(中略)政府側では、議会を開くまでまで待てないから(中略)、緊急処分を要するというのだが、枢密院は頑として応じない。(中略)ある(枢密)顧問官は、(中略)暗にこの内閣が、この案を引っ込めないのは立憲的政治家でないという口ぶりである。(中略)

 その同じ老顧問官は、この案を討議するとき、政府の外交が軟弱であるといって、攻撃した。これは問題外であるから、私も外務大臣の幣原(喜重郎)も、黙って答えなかった。(中略)そしてその老顧問官は、ますます調子に乗って、(天皇)陛下の御前をも顧みず、「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という、俗悪な川柳まで引いて、外交攻撃をした。(中略)私はもう癪(しゃく)にさわって、一つ相手になってけんかをしたかったが、(中略)じっと腹の虫を抑えて黙っていた。(中略)私はかなり興奮していた。』(若槻礼次郎「前掲書」)

 上記の若槻礼次郎の回想文に記述されている「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という女房の浮気を知らない亭主を笑う川柳を引用してまで若槻内閣の外交政策を軟弱外交として批判した老顧問官とは枢密院のボス的存在である伊東巳代治(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10参照)であったことが明らかです(幣原喜重郎「外交五十年」日本図書センッター)。

 この伊東巳代治・平沼騏一郎(「日本の労働運動」を読む47参照)らの主導する枢密院の動きが野党立憲政友会と結んだ倒閣運動であったことは言うまでもないことでしょう。

 1927(昭和2)年6月1日野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結党、浜口雄幸は総裁に推挙されました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)。