平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む41~50

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む41

 ここへ来てから半月ばかり後、11月号の「青鞜」と野枝さんからの厚い手紙が届きました。その手紙の内容は、大体つぎのようなものでした。

 「自分がつくった雑誌があまりに不出来なので、自分にあいそがつきた。出来るなら12月号の編集はお断りしたい。」と一応12月号の編集を断ったうえで、「この仕事をあなたの代理としてやるのはやりにくくて困る。もしあなたが『青鞜』の編集、経営のすべてを私共の手に委(まか)して下されば、もう一度覚悟し直して、辻と一緒に出来るだけやってみてもいいとも思う」といい、「とにかく冷静なあなたの判断を待ちます。」と書いてありました。

 彼女はとりあえず「12月号は、あなたが一たん引受けたことであり、とにかく今のままでやって下さい。これからのことは今考えています。わたくしの考えがまとまるまでしばらく待って下さい」という意味の返事を出しました。

 自分自身の内部の声は、ここで右か左かの決断をしいられれば、躊躇(ちゅうちょ)することなく、奥村と二人きりで静かに勉強したり、書いたりという自由な生活を選ぶことでしょう。そのためには「青鞜」はここできれいに廃刊すべきです。

 しかし、そう思う一方で、もしほんとうに野枝さんたちの手で続けてもらえるものなら、それも結構だけれど、野枝さんの現在の生活でそれが可能だとは、どうしても彼女には思えないのでした。でもとにかく会ってよく話してみようと思い、野枝さんの手紙を受取ってから約5日後に上京しました。けっきょく、野枝さんの烈しい気性におされて廃刊を断念、野枝さんに「青鞜」を任せることにしました。その日はそのまま別れました。

 二日目に改めて彼女の上駒込の家の事務所に来てもらい、青鞜社の所有品全部を野枝さんの引っ越し先、小石川竹早町の家にへ運んでもらいました。

 これで1915(大正4)年以降の「青鞜」は名実ともにすべて野枝さんの責任において発行されることになりました。

 彼女はその日すぐ上駒込の家をたたみ、荷物は曙町の家の物置に移して、ふたたび奥村の待つ御宿海岸の宿に引返しました。そしてこの美しい海べで大正4年の元旦を、奥村とふたりで心しずかに迎えたのでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む42

 御宿海岸との別れを惜しみながら、やがて東京へ帰り、小石川西原町一ノ四に新居を定めました。この借家に落ちつくと、すぐ奥村は近くなった小石川の植物園へ日課のように大きなカンバスをさげて描(か)きに出かけます。彼女は山田嘉吉(らいてう研究会編「前掲書」)先生のお宅へ通い、まずウォード(らうてう研究会編「前掲書」)の社会学の勉強をはじめることにしました。そのかたわら、食べるための必要から、生まれてはじめて小説というものを書きはじめました。「時事新報」に連載された「峠」という小説(「平塚らいてう著作集」2)がそれですが、前年、御宿に滞在中、訪ねて来た「時事新報」の記者との交渉の中から生まれたことで、それも森田先生との、あの塩原事件をテーマにしてということでした。

 ところが、書いているうちに、ある日突然胸のむかつきを覚えるようになり、すぐつわり(傍点、筆者省略)ということはわかりました。その気分の悪さに加えて、「峠」を書きだしてからの、奥村の態度の変わり方は、彼女にはつわり以上にもこたえました。まだ数え年二十四歳の若い男の心には、自分が父親になるという実感ももてなかったでしょう。まして一方で嫉妬になやんでいる心にはー。

 こうして、けっきょく「峠」はつわりの苦しみと、奥村の嫉妬のはねかえりのために、心ならずも、途中で筆を折ることになってしまいました。 ずっと後にきいたことですが、徳富蘆花(とくとみろか 「大山巌」を読む45参照)さんが、この作品に興味をもたれ、毎朝読んでいられたということでしたが、亡くなられたあと、遺品を整理していたら、「峠」の切りぬきが出てきたと、愛子未亡人からうかがったことがあります。

 母となることにも、自主的でなければならない。すべての婦人が母となるについて、自由をもつべきであるという考えのもとに、恋愛を肯定したのちにも、なお母となることを避けて来た彼女ですが、子どもがほしくなければ、自制すべきだという考えに支配されがちな彼女は、全面的には避妊を受けいれかねるという甚だ不徹底な態度の結果、母となる十分の条件がととのわないうちに、心ならずも、母となる日を迎えることになってしまいました。

 こんな思いのとりこになっているとき、偶々やはり妊娠中の原田皐月さんが、彼女と同じような悩みのなかからまことに大胆な堕胎肯定論を、その月(大正4年)の「青鞜」(5巻6号)誌上に発表しました。それは「獄中の女より男に」(堀場清子編「前掲書」)と題するもので、堕胎罪をおかした女が、獄中から男にあてた手紙の形をとったものでした。

 皐月さんのいおうとしていることは、けっきょく親として満足できる状態でないかぎり、親になるべきではない。そのためには堕胎もやむを得ない。それが法律にふれることであっても、自分の信念にしたがうほかないということで、いかにも皐月さんらしく、思いきったものでした。「青鞜」(5巻6号)は久しぶりに発売禁止の処分をうけました。

 皐月さんのこの堕胎論に対して、エレン・ケイの母性主義を信奉する山田わか(らいてう研究会編「前掲書」)さんは、真正面から反対し、四周年記念号(5巻8号)に「堕胎に就いて」の一文を寄せました(堀場清子編「前掲書」)。

歴史が眠る多摩霊園―頭文字―やー山田わか 

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む43

 彼女にとっても、この問題は、母となる日を前にして、いうまでもなく切実なものでした。同じ四周年記念号に彼女は「個人としての生活と性としての生活との間の争闘に就いて」(「平塚らいてう著作集」2)という長文の感想を寄せました。それは野枝さんあての手紙の形式で書いたもので、それは大体、こんな意味のことでした。

 「自分も妊娠の初期に一時やはり堕胎の妄想にとらわれたことがあった。一番気になることは、今子どもを否定することが、自分たちの現在および未来を通しての生活全体のために、はたしてもっとも正しい、そして賢いことだろうか。他日悔いるようなことはしたくないということであった。もしここに十分な思慮と落ちつきをもって堕胎を行なう人がいたとしたら、それをも許しがたい罪悪だと責められるだろうか。」

 このような一連の堕胎論議も、妊娠中絶という言葉で、平気で行われている今日の時代からは、どのように見られ、受けとられることでしょうか。

 避妊問題についても同様です。いま避妊は当然の個人の権利だというように考えられていますが、当時はそうした視野はなく、避妊の方法など実際的な知識を与えられる機会など全くなかった時代(避妊薬のあることをなにかで知っていた程度)でした。日本で避妊が公然と社会的な問題になったのはサンガー夫人の来日[1922(大正11)年3月10日 新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会]以後のことです。

 彼女の書いた「個人としての生活と性としての生活との間の争闘に就いて」の一文に対して、このとき、まだお目にかかったことのない有島武郎氏から、初めて長文の手紙をもらいました。安子夫人が「青鞜」を読んでいられた関係で、お目にふれたものらしく、「たいへん感動して読んだ……改めて敬意を表する」というような懇切な内容のもので恐縮しました。

北海道ニセコ町―まちのご案内―有島記念館―有島武郎についてー有島武郎略年譜  

 こういう女の問題を、真面目に読んでくれる男のひとのあるのはうれしいことでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む44

 ひどかったつわりが、ようやく回復しはじめた1915(大正4)年7月初旬、彼女たちは、西原町の家をたたんで、四谷南伊賀町の、山田嘉吉先生の裏隣の貸家へ移ることになりました。山田先生は社会学が専門で、婦人問題についても造詣が深く、当時彼女が取り組んでいたエレン・ケイについての知識も豊富で、毎朝おわかさんのためにケイの著書を読んであげていることを知り、その仲間に自分もいれていただいていたわけです。 ここに来て、いよいよ午前のエレン・ケイの「児童の世紀」を勉強する時間のほかに、午後の時間を設けて、ウォードを読むことになりました。

 レスター・ウォード(1841-1913)はアメリカの有名な社会学者で、最初に社会学という新しい学問を体系化した人です。

 青鞜社員の斎賀琴(子)(のちの原田・らいてう研究会編「前掲書」)さんらは彼女より先に、山田先生のもとで、英語を習っていたのですが、それは斎賀さんが意にそわぬ結婚を強いられて家出し、恩師宮田修氏の家に厄介になっていたころのことでした。

JKSK 女子教育奨励会―黄金の鍵 語りつぐ、女性の物語―バックナンバーリストー2003年7月 『青鞜』第9回 「家父長制度と新しい女」斎賀琴子

 斎賀さんの「青鞜」(5巻10号)に出ている「戦禍」(堀場清子編「前掲書」)という感想は、いま読み返しても、つよい感銘をうける、反戦的文章といえましょう。

 1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が勃発(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)しておりますが、「青鞜」誌上には、ほとんどその反映が見られません。そのなかで、斎賀さんのこの感想は、貴重なものでした。

 「(前略)恐ろしい戦争の惨禍は只に幾多の貴い精霊を犠牲にし、その白骨を風雨に曝すばかりではなく、残された人々の上に負い難い苦痛を授けます。一国にとりましても勝敗何れにかゝはらず、損害を斎(もたら)すもので御座ゐます。何故に人類は多額の費用と時と知識とを、無益にして徒な殺生に耽るのでせうか!」

 南伊賀町に移った1915(大正4)年の夏、そのころの奥村は、フランス語の勉強と、植物園へスケッチに通うことを仕事にしていましたが、お盆前後から、だんだん咳きこみ方が激しくなってきました。医者嫌いの奥村がようやく納得して、診察を受けた結果は、一期の終りか二期のはじめという診断でした。

 七度前後の熱が五、六日つづいたところで、ようやく院長からゆるされて、汽車にのり、茅ケ崎の南湖院へ奥村を送ったのは、秋風の吹きはじめたころでした。

 身重のからだでいまより以上に働くことは、思うにまかせないことでした。いろいろと仕事の約束をしては、借りられる限りの金を商店や雑誌社から借り、奥村の絵も、売れるかぎりは売るということにしました。ときにはおわかさんに、急場しのぎの借用を申しこむこともありました。このあたりのことは、翌1916(大正5)年の「中央公論」12月号に「厄年」という題で書いた小説(「平塚らいてう著作集」2)に詳しく出ております。

 いよいよ出産の予定日をむかえ、最初の陣痛を覚えた彼女は、赤ん坊の産着や手まわりの支度をととのえ、俥をやとって、本郷東片町の篠田病院へ向かいました。この病院長は女医で曙町の家のかかりつけの医師であり、ここをすすめてくれたのは母です。

 院長からは前もって、齢をとってからの初産であり、多分難産だろうとは警告されていました。ようやく明け方になって生まれた赤児は、逆児(さかご)で、胞衣(えな)を首に巻きつけ、仮死状態でこの世にあらわれ、しばらくして力強い呱々(ここ)の声を上げました。

 病院では、一にも二にも彼女のことを気遣い、面会謝絶の札を出してくれましたが、どこから洩れるものか新聞記者たちが、毎日のように押しかけて来ます。いちばん最初に花の鉢をもって見えたのは田中王堂氏で、たまたま押しかけてきた新聞記者を、おだやかな笑顔で追いかえしてくれました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む45

 子どもの籍をどうするか—−このことは、妊娠に気づいたときから、胸にあったことですが、いよいよ子どもの出生届を出すきわになって、はたと困ってしまいました。というのは、いわゆる私生児を生むこと、これに対する社会の非難も、少しも恐れる彼女ではありませんが、父がこうむるであろう今後の迷惑については、胸の痛むものがありました。

 子どもは奥村と彼女二人のものに相違ありませんが、結婚届を出さず、二人は戸籍を一つにしていませんから、子どもの籍を入れるとすれば、母方に属するのが自然であると思い、彼女はその前に分家の手続きをとろうとしたのでした。出生届の日限のこともあり、気をもむうちに、ようやく家から書類が届き、彼女は分家の戸主ということになりました。

 さっそく父の認知した庶子として、彼女の戸籍に入れるよう、使いをたのんで区役所へその手続きをさせにやったのですが、戸籍吏がこれを受けつけてくれません。父が認めた子どもは、庶子として父方の家に入るのだといってきかない、それをようやくのことで、母方の戸籍に入れることができました。

Weblio辞書―項目を検索―庶子―庶子に似た言葉―私生児  

 奥村は彼女の籍のことも、子どもの籍のこともまったく無関心で、そんな形式などどうでもよいという人間ですから、こうしたことはすべて彼女のひとりの考えではこびました。父の認知した子どもは、すべて「庶子」の名で呼ばれるものと思っていましたが、曙生の場合は—−−暁に生まれたので、曙生と名前をつけました−−−母方の家に入ったために、戸籍上「私生児」となっていることを、あとで知りました。

 こうして、奥村のいない家に、生まれたばかりの赤ん坊と暮らすようになって、思ったことは、この新しい生命の存在が、彼女の心までもこうも変えてしまうものかというおどろきでした。彼女の心はかぎりなくやさしい気持に満たされ、愛らしさの思いが胸にふくらんでくるのです。

 けれども一方では、にわかにふえた雑務と睡眠不足、時をかまわぬ泣き声が、彼女を苦しめます。

 こうして新たに自分の中に生まれた母の愛と、エゴイズムの葛藤にわれとわが心をのぞきこむような思いですごしているある日、名も知らぬ訪問者がわが家を訪れて、出産祝いの贈物を置いてゆきました。この人が、二葉保育園の野口幽香女史の下で働く徳永恕(とくながゆき)さんと知ったのは、のちのことです。

 世間のあざけりの的であった「新しい女」の生んだ子どもを、いちはやく祝福してくれた徳永さんは貧民街の保育事業にとびこまれた人で、齢は彼女と同じくらいでしょうか。徳永さんはその後毎年12月9日の曙生の誕生日には、彼女たち一家がどこに引越しどこに住んでいても、一度も忘れることなくかならずプレゼントをくださるようになりました。これが曙生の女学校卒業の年までつづいております。

 彼女たち親子に対する、過分な厚情の動機といったものについて、その後、人を介して伺ってみたことがありました。徳永さんは、言葉少なく、こんなふうに語られたといいます。

 「私がこんな仕事をするようになったのは、絶対愛に生きたいという気持からで、私の対象は神の子、キリストよりほかなかったのでした。(中略)この自分の絶対愛に生きたいという気持が、平塚先生の示して下さった絶対の生き方に、うたれることになったのでしょうか。絶対の歩み方、絶対恋愛の実行者として生きられたことに、私は敬意を表さずにいられなかったのですが、引っこみ思案の私は、親しくおたずねする勇気が、なかったのでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む46

 南伊賀町の家をたたんで、奥村の待つ茅ケ崎へ向かったのは、彼女の30回目の誕生日、1916(大正5)年2月10日の翌日でした。

 前にいたことのある懇意な家の一室を借りて、そこから毎日曙生をはんてん(ねんねこ半纏)におんぶして、病院の奥村のもとへ、お弁当を届けにゆく日課がはじまりました。

もりのいえ 菜の花日記―キーワード検索(このブログ内)―ねんねこはんてんー ねんねこはんてんでお散歩

 生まれながら菜食主義者の奥村には、病院の結核患者向きの、わけてもきらいな牛乳や生玉子の毎日多量につく献立がよほどこたえるようでした。栄養のあるもので、奥村の口にあうような菜食料理のお弁当をつくってゆくことが、まずさしあたりの彼女の仕事なのです。

 うれしいことには彼女たちの茅ケ崎へくるのを待ちかまえていたように、奥村の病状が奇蹟的に好転しはじめました。そしてやがて、ベッドのなかから「海気室」まで出ることを許されるようになると、まるでピクニック気分で、そこでいっしょにお弁当を食べるのを、たのしみにするようになりました。海気室というのは、小松林のなかの、海に面して建ちならぶあけ放たれた小屋ですが、少しよくなった患者たちが、ここへ出てきて、きれいな海の空気を存分に吸うことになっています。

 やがて夏も終わるころ、入院生活から自宅療養にきりかえることを、院長に許してもらい、南湖院に近い場所にある、「人参湯」という湯屋の廊下つづきのはなれ座敷を借りうけ、そこへ奥村をむかえいれました。育児と看護と生活のための仕事、という三つのことをかかえては、とうてい家事に手がまわりかねます。このとき結婚いらいはじめて、手伝いの娘を頼むことにしました。赤ん坊への感染を恐れる院長から、消毒についてやかましくいわれていましたから、消毒に要する手間だけでもたいへんです。 それに、育児にかける手間が、予想をこえたものでした。一カ月近くも病院にいるあいだ、彼女から全く離されていた赤ん坊は、人工栄養のゴムの乳首にすっかり慣れてしまって、彼女の飲みにくい小さな乳首をきらい、じれて火がつくように泣き立て、そのうちとうとう母乳を、飲まなくなってしまいました。

 すると、もともとさほど出のよくない彼女の乳は、まもなくとまってしまい、人工栄養に頼るほかなくなってしまいました。

 ミルクの支度を待ちかねて、烈しく泣く子、そのうえ入院中、看護婦が抱き癖をつけてしまったので、下に寝かせるとすぐ泣くので、泣かせまいと思えば夜となく、昼となく抱いていなければなりません。隣室の病人の安眠をさまたげてはならないと赤ん坊を抱いて、人参湯の長い廊下をホイホイあやしながら行きかえりして夜を明かすようなこともあり、新米の母親は、こちらこそ泣きたいような思いをくり返したものでした。

 実際母の仕事というものは、無数の不規則な雑務の連続で、かつて経験したことのない気ぜわしさ、とりとめない腹立たしさのような焦燥感に、仕事のための二晩や三晩の徹夜など平気な彼女が、すっかり疲れてしまいました。

 しかし曙生はやがて母の顔をよく覚え、彼女に対して特別の笑い方をするようになりました。そうなると彼女の母性もまた、赤ん坊と同じく、日ごとに成長してゆくのが、はっきりと感じられるのでした。

 はじめて母となっての心の葛藤はいなみがたいものではありましたが、この茅ケ崎での毎日は、いわば、彼女が主婦としての生活に没頭した時期であり、それはそれとして苦しみのなかに十分たのしさもあったといえます。奥村も、やがてもう寝たり起きたりという回復状態となり、ぼつぼつ写生に出ることも許されました。高田院長は破格の厚意で、医療費を、奥村の画と引換えにするよう申し出てくれました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む47

 伊藤野枝さんが、大杉(栄 「日本の労働運動」を読む37参照・らいてう研究会編「前掲書」)さんのもとへ走ったことを耳にしたのは、その年[1916(大正5)年]の4月のことです。辻(潤 「元始、女性は太陽であった」を読む28参照)さんとの家庭生活については、いろいろな悩みを訴えられてはいましたが、大杉さんについては、野枝さんの口から直接きかされたことは一度もありませんでした。

 茅ケ崎で暮らすようになって、野枝さんと会う機会もなくなった彼女の耳に、きこえてくる野枝さんと大杉さんとの噂は、しぜんと彼女の胸に、大杉さんの糟糠の妻堀保子さんの、病身のさびしげな姿を思い起こさせ、野枝さんの新しい愛の行く手のきびしさを、考えさせるのでした。しかも一方、大杉さんのフランス語研究会に出入する神近市子(らいてう研究会編「前掲書」)さんと大杉さんとの噂がやがてよそからきこえてくるようになると、いっそう彼女は、あやぶまずにはいられませんでした。

港区ゆかりの人物データベースーゆかりの人物リストーかー神近市子

 野枝さんの近況を案じながらも、なんの便りもなく過ぎているところへ、とつぜん野枝さんから、家出を告げる手紙が届いて、彼女を驚かせました。ごく簡単な文面で、むろんこの手紙にも大杉さんのことは、ひとこともふれておりません。

 長男の一ちゃんを生んでからの、野枝さんの生活は、いちだんとたいへんだったように思います。辻さんとの相愛生活のはじめから、姑、小姑夫婦との雑居生活のなかへ、異分子として入った野枝さんは、辻さんの家族との感情的な摩擦や、貧困の苦しみから逃れる日はなかったのでした。

 しかも、辻さんはお子さんが生まれてからも、相変わらずお金になる仕事をしようとしませんし、子どもに対しても、父親らしい愛情を示したり、世話をするといったこともありません。お姑さんも、孫を可愛がる世間普通のおばあさんらしいところがなく、あまり面倒などみてくれないので、いつ訪ねていってみても、野枝さんが家のなかのただ一人の働き手というように、忙しそうに見えました。自分の勉強や思索や、仕事のための時間を、まったく失ってしまった野枝さんは、それでも負けぬ気をふるい起こして、お子さんを膝にしながら、あわただしい心で原稿を書いておりました。

 ことに、長く住み馴れた染井の地に居られなくなり、小石川竹早町のある家に、姑や小姑夫婦らといっしょに住むようになった1914(大正3)年夏の野枝さんは、いたましいまでにやつれが出てどこかイライラとヒステリカルな状態にさえなっていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む48

 伊藤野枝さんは、辻さんの交友関係を通じて、社会主義者の影響を知らず知らずうけたということもありましょうが、端的にはそれは、辻さんに欠けているもの(たとえば実践力)をもっている大杉さんに対する微妙な愛情(こころ)の屈折を示すものであったと思います。

 彼女が千葉県御宿海岸にいったあと、編集をまかせた「青鞜」4巻10号(大正3年11月号)と次号11号の「編集室より」で、野枝さんは、大杉、荒畑(寒村 「坂の上の雲」を読む19参照)両氏の仕事に敬意を表したりしています(定本「伊藤野枝全集」第二巻)。

 やがて野枝さんの家庭生活の根底を破壊するような、重大な問題がおこりました。それは辻さんが、野枝さんの従姉の千代子さんに、愛を移したという事件です。野枝さんはこの裏切られた痛手について、「青鞜」5巻7号の「偶感二、三」のなかで、切々と語っています。そしてそれからまもない7月中旬には、三ヵ月の滞在期間を予定して、九州の実家へお産のためという表面の理由で、辻さんや長男といっしょに帰りました。そのため留守中の「青鞜」の事務は発売所の日月社に、編集は生田花世(「元始、女性は太陽であった」を読む38~39参照)さんに委任したのでした。

 これは、彼女のまったくの想像にすぎませんが、二人のこの旅行は、お産のためとはいえ、東京での行き詰まった生活や、忙しい仕事から離れて、傷ついた二人の間の愛をふたたびもとにかえしたいふたりの願いがあってのことではなかったでしょうか。

 しかし野枝さんのこれらの願いも、努力も、結果から見るとすべて失敗でした。野枝さん夫妻が東京に帰ったのが、だんだんのびて11月下旬、長男も赤ちゃんもいっしょでした。 

 「青鞜」は新年号から創刊以来の規約も形式も捨てて、見るからに簡素な、貧弱な、よくいえば圧縮した感じのものに変わりました。2月号も続いて出ました。そしてその4月に、野枝さんは辻さんも長男も「青鞜」もなにもかも捨て、ただ赤ちゃんひとりだけ連れて家出を決行したのです。それはいうまでもなく、大杉栄氏のもとに走ったのです。

 こうして「青鞜」は、6巻2号(大正5年2月)以後、無期休刊の状態に入りました。野枝さんの手に移ってから、それでも1年2ヵ月です。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む49

 茅ケ崎へ、なんの前ぶれもなく、大杉さんと野枝さんが連れ立って見えたのは、その年の秋11月6日の昼下りのことです。葉山へゆく途中を、奥村の見舞に寄ってくれたということでした。

 野枝さんが、日本髪を結ったのは、前にも見て知っていますが、いま目の前に見る野枝さんは、下町の年増の結う、つぶし銀杏返しとかいう、世話にくだけた髪を結い、縞お召(絹織物の一種、お召縮緬の略)の着物を、抜き衣紋(えもん)に着て(後襟を下げ、襟足が見えるように着て)、帯をしめた格好はどう見ても芸者ほどのアカぬけしたものではなく、お茶屋の女中というところです。思わず、「変わったわね」と連発する彼女に、野枝さんはニヤニヤ笑うばかりでした。

てんちょの部屋―てんちょ的日本髪―記録(髪型別)―輪者―銀杏返し

 大杉さんには、後にも先にも、このとき唯一度お目にかかったきりですが、この日の大杉さんは、痩せた、けれど、がっちりしたからだに大島(大島紬の略)かなにかの飛白(かすり)の着流し(袴をつけぬ和装)で、色黒のきびしい顔に、クルクルと大きな目の印象が、なにより先にくる人でした。

 二月以後、ずっと休刊をつづけている「青鞜」のことにふれられるのが、その日の野枝さんには、いちばんつらいことだったのでしょう。廃刊を主張する彼女に真正面から反対し、全責任を負うからぜひとも自分にやらせてほしいといい張ってきた手前、いまさら野枝さんとして弱音は吐けますまい。しかしそれも、野枝さんのその場のせめてものつよがりであったのでしょうか。その後「青鞜」はついに出ませんでした。この日、大杉さんと野枝さんには二人の尾行がついていました。

 午後の日が傾きかけたころ、これから逗子に行くというふたりを、彼女たちは道に立って見送りました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む50(最終回)

 葉山の「日蔭茶屋事件」(らいてう研究会編「前掲書」)[1916(大正5)年11月9日(新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会)]はその2日後の事件でした。

臼井吉見の「安曇野」を歩くー94.日蔭茶屋事件

 大正5年11月10日の東京朝日新聞は「大杉栄 情婦に刺さる 被害者は知名の社会主義者、 凶行者は婦人記者神近市子、相州葉山日蔭の茶屋の惨劇」という見出しもとに、この行き過ぎた自由恋愛の生んだ不祥事件を伝えました。

 「青鞜」から遠ざかっていった神近市子さんとは、その後直接のつきあいがなくなっておりましたが、嫉妬の激情から、大杉さんを刺さなければならないほどの深い二人の間柄とはまったく知らずにいました。

 彼女は恋愛の自由ということを踏みはずしたあの多角恋愛の破綻が、古い封建道徳に反対し、新しい性道徳を打ちたてようと努力するものの行く手の大きな支障となることを、おそれずにはいられませんでした。そのころ彼女は「いわゆる自由恋愛とその制限」(「平塚らいてう著作集」2)と題する、次のような一文を発表しています。

 「(前略)恋愛の自由といふことは、氏(大杉栄)等が意味するやうな、一種の一夫多妻主義(或時は多夫一婦ともなり、多夫多妻ともなる)委しく言へば、相愛の男女は別居して、各自独立の生計を営み、また若し是等の男女にして他の男女に恋愛を感ずれば、其等とも同時に、しかも遠慮なしに結合することが出来るのみならず、愛が醒めれば、子供の有無に拘らず、いつでも勝手に別れることが出来るというやうな無責任な、無制限な、従って共同生活に対する願望も、その永遠の意志をも、欫いた性的関係でありませうか。これは恋愛の自由の甚しき乱用でなくて何でせう」「然るにその新婦人と呼ばれる者の中から真の恋愛の自由は私が前に述べたやうな、永久の共同生活に対する願望と、未来の子供に対する責任感との伴った恋愛のみにある事を忘れ、自分の愛人の間違った恋愛観を、深き反省も批判もなく受け容れ、それを実行させるやうな婦人を出したといふことは、しかもその果は殺傷沙汰を引き起したといふことは、どう考へても残念なことでした。」

 大杉さんは野枝さんと同棲をつづけ、堀保子さんは別居して、彼女たちが住んでいた山田さんの裏の借家に、ひとりさびしく余生を送りました。そして大杉夫妻があの悲惨な運命に斃(たお)れた(甘粕事件「労働運動二十年」を読む26参照)のち、半年ほどで、そのあと追うようにして、病のため永眠されたそうです。

 多くの錯雑した、容易に解決しがたい問題がー少なくとも個人の力ではどうすることもできないような多くの問題が、目の前にむらがってきました。

 ここで、彼女たちの「青鞜」は終わりました。そして「日蔭茶屋事件」が好むと好まざるとにかかわらず、彼女たちの「青鞜」の挽歌であったこともいなみ得ないことです。同時に彼女自身の青春も、このへんで終わったのではないかと思います。