平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む31~40

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む31

 ジャーナリズムの非難、攻撃、揶揄(やゆ)と同調して、彼等の描く青鞜社なるものを目の敵にして騒いだのは当時の女子教育家たちでした。下田歌子を筆頭に津田梅子というような人びとが、おそらく「青鞜」は読みもせず,見当はずれの批判をしました。彼女の母校女子大の成瀬校長までが、この年の「中央公論」4月号に「現今日本に起こりつつある所謂新しい女の一派は(中略)、いかにも常識が欠けてをる。自分の事以外親の事も家の事もそれらは総て顧みないといふやうな人がある。」ときめつけました。

 青鞜社の受難期にに際して、社員の結束を新たにして出発するために、公開の文芸研究会と、主として地方の社員のための講義録の発行を計画したのでした。「青鞜」三巻四号の巻頭には見開きで、「青鞜社文芸研究会会員募集」の要項がでております。ところが1913(大正2)年4月7日開催予定の同上研究会は会場確保に苦労したにもかかわらず、予定の人数が集まらず、中止に追いこまれました。彼女たちは「青鞜」をとりまく世評の嵐のなかで、急速に婦人問題の方向へと傾いていきました。

 新しい事務所ができてひと息ついたころ、同年4月25日警視庁高等検閲係から出頭通知を受けました。保持さんと中野さんが出向くと、『「青鞜」4月号(三巻四号)には日本婦人在来の美徳を乱すようなところがたくさんあり、発売禁止するところだが、編集者に注意するにとどめておく』と申し渡されました。とくに名指しはされませんが、同誌4月号に彼女の書いた「世の婦人達に」(「平塚らいてう著作集」1)が当局の忌諱にふれたのでした。 この小文で彼女は、良妻賢母主義に対する疑問を提出し、結婚のみにしばられた在来の女の生き方を否定し、現行の結婚制度をー主として民法親族篇の不条理をあげて、女の新しい生き方を訴えています。また上記の頑迷な女子教育家に対する挑戦でもありました。

OKWave―民法上の家の廃止   

 それから間もなく、同年5月1日出版した彼女の処女評論集「円窓より」(東雲堂刊 複製版 叢書女性論8 大空社)が、発売とともにただちに発禁となりました。これはいままで「青鞜」其の他へ発表した評論、感想などを収めたものですが、この中に「世の婦人達に」が入っていたからで、彼女は「世の婦人達に」を削除、改版し、書名も装幀も全部変えて「扃(とざし)ある窓にて」の名で、またすぐに出しました。

 青鞜社に対する世間のあまりの非難に対して、このころから生田先生が幾分か逃げ腰気味になられたようにも思います。新しい女を認めながら、感情のうえでは解放された女の姿よりも、家のなかでひっそりと縫いものなどしている女を讃美する先生にとって、だんだん婦人解放問題へと傾斜してゆく「青鞜」の女たちは感情的に否定したい存在となっていたのかもしれません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む32

 思いがけない運命の扉が開かれました。ふたたび奥村の姿を見る日がきたのです。しかもその道をつけたのが紅吉でしたから、なにか皮肉といえば皮肉な思いもします。

 生田先生の家に寄寓していた紅吉はあるとき日ごろ親しくしている上山草人氏宅を訪れ、同氏夫人が開いていた眉墨などの化粧品を売る店「かかし屋」で、帝国劇場において近代劇協会が1913(大正2)年3月27日から31日まで上演する(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)、ゲーテ作、森鴎外訳「ファウスト」に奥村が出演することを耳にしたのです。

国立国会図書館―電子展示会―写真の中の明治・大正―東京編―キーワード検索―帝国劇場

 自分がさんざん脅かした相手であることも、それがもとで彼女から離れていったということもまるで忘れたかのように、紅吉は顔を輝かせながら彼女のもとへ飛んで来て、手柄顔にこのことを伝えるのでした。

 近代劇協会から招待されていた彼女は3月27日の初日に帝国劇場にひとりで出かけました。日本ではじめて上演されるこの「ファウスト」(岩波文庫)の配役は上山草人ファウストを演じ、奥村は「アウエルバッハの窖(あなぐら)の学生・酒宴の場」の学生に扮して鼠(ねずみ)のうたをうたっていました。自分が来たことだけを告げるために、幕間に、真紅の小さなバラの花束を楽屋へ届けて、彼とは会わずに帰りました。

 奥村が、この「ファウスト」の舞台に出ることになったきっかけが、いかにも奥村らしい、のんきな話からはじまったことを、のちに聞かされました。

 奥村は、あの燕の手紙を彼女によこしたあと、有楽座で上演中の文芸協会の(バーナード)ショウ(らいてう研究会編「前掲書」)の喜劇「二十世紀」(「春陽堂」)を観に出掛けたとき、幕間に廊下を歩いてくる一人の男の姿に興味をもちました。「どうしてそんなにぼくの顔を見るんですか」と先方の男原田潤(声楽家)が声をかけてきたのがきっかけで、二人はつきあうようになり、南房州の海岸で放浪生活を楽しんでいました。

 やがて近代劇協会の上山草人氏から原田さん宛の、上演する「ファウスト」出演勧誘の電報が届き、原田さんに勧められるままに「アルバイト」のつもりで試験をうけて、一座に加えてもらったのだそうです。「ファウスト」は帝劇上演以後、同年5月1日から大阪の北浜帝国座で公演することになり、奥村も大阪にゆき、彼女の病気を大阪朝日新聞の学芸消息欄で知って、絵葉書の便りを彼女によこしてくれました。その一葉の絵葉書がつたえてくれるぬくもりに、彼女の心は満たされました。

Weblio辞書―項目を検索―上山草人

 奥村の住所を近代劇協会其の他へ問い合わせて、大塚窪町の新妻莞さんのアドレスを奥村の下宿先と信じた彼女は、処女出版の「円窓より」に手紙を添えて、その宛先に送りました。ところが新妻さんは奥村宛の彼女の手紙を奥村には渡さなかったのです。

 奥村は6月初め帰京すると、すぐ曙町の家を訪ねてくれたのですが、なかへ入りかねて、置手紙を門のポストにへ残したまま帰りました。彼女は奥村がうらめしく、すぐ追いかけて手紙を書きました。奥村とはその二、三日あとに再会しました。向かい合う二人の心の絆(きずな)は、どうしようもない力で、つよく、かたく結ばれてしまったのです。

 この日の朝、彼女は新妻さんから、妙な手紙を受けとっていました。なんにしても新妻さんとしては、一人の親しい友人を奪われることの嫉妬(?)もいくらかはあったかもしれませんが、それよりも、彼女と接近しようという気持としか思えません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む33

 再会の日から、ほど近い6月の下旬、彼女は奥村を誘い、新緑の赤城の山へ、二人だけの時を求めて、旅立ちました。

赤城山ポータルサイト   

 この山上で、奥村は白樺の林や山つつじの咲き乱れた高原や、放牧の牛などスケッチ板四、五枚の収穫をもって彼女より一足さきに山を下りました。有楽座でやる伊庭孝の旗あげ芝居のバーナード・ショウの「武器と人」(「早稲田大学出版部」)の稽古がはじまるためですが、彼女はなお数日残って「青鞜」に送るかきかけの原稿をここで書きあげることにしました。ところが、まったく思いもかけぬことが起こりました。

 「至急親展」と朱字で書いた新妻さんからの手紙が東京の自宅から転送されて来たのです。それはまるで脅迫状で「自分を無視する気なら、お礼として、今度の事実の全部と、あなたが奥村にあたえた手紙の全部を公開する……」という内容のものです。

 彼女は即座に筆をとって、「二人の愛に対しては、何人の干渉も絶対に許しません。どんな障碍もきっと克服します」というような意味の相当長い公開状を書き、山から青鞜社に送りました。これが「青鞜」9月号に「手紙の中から」(「平塚らいてう著作集」1)として発表されたものです。

 公開状の形式をとった理由の一つは、直接新妻さんに返事など出したくなかったからだけではなく、因習的な世間の圧迫、周囲の干渉に悩み、苦しんでいた当時の青年男女のこころ(筆者傍点省略)を代弁して、対社会的に、あらゆる障碍とたたかって、恋愛の権利を主張し、その自由を確立する必要を同時に感じていたからでした。

 奥村を赤城に誘ったときの気持は、まだそれほどつきつめたものではなかったのでしたが、赤城を境にして、二人はもうどうしようもない力で、一つの道を歩みはじめました。

 そのころ奥村は築地の南小田原町の下宿に原田潤さんといっしょにいましたが、曙町のすぐ近くの小石川原町に移り、しばしば彼女の家を訪ねてくるようになりました。奥村はよそを訪ねたら適当な時間に切り上げるということができないたち(筆者傍点省略)で、母にしてみれば、奥村の存在がどんなにか気になったことでしょう。「もうこれ以上このまま家にいるわけにはいかないのだ、やがては家を出なければ……」という決意が、だんだんと心にかたまってくるのでした。

 9月のある日の午後、彼女は奥村をつれて、突然海禅寺にでかけ、中原秀岳和尚を奥村に紹介しましたが、奥村にとって、同和尚はなじめない存在でしかなかったようです。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む34

 家を出る前に彼女は、どうしても一度、奥村の母に会いたいと思うようになりました。そこで奥村にも話したうえで、訪ねることにしました。

 もう秋風のたつころでした。奥村の家は藤沢の遊行寺の近くにありますが、いきなりそこを訪ねることを遠慮し、-80歳を越えしかも失明しているという彼の父を驚かしたくなかったのでー駅前の旅館から使いのものを出し、旅館の奥座敷に母を迎えました。

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見るからに善良そうな地方人らしい老婦人は、無愛想とも見える人ですが、それでも初対面の彼女に対して家庭の事情をうちあけ、目の不自由な年寄の世話で手いっぱいで、なにをしてやることもできませんから、よろしく頼むと繰返されました。

 小石川原町の奥村の下宿は未亡人らしい品のよい老婦人が、身内の若い娘を使ってやっている素人下宿ですが、あまりしばしば彼女がそこを訪ねることが、女主人の気に障ったものか、ある日とつぜん奥村によそへ越してほしいと申し出ました。彼女はいよいよ、家を出るときの迫ったことを知りました。

 といっても、家を出てから奥村と営む生活について、明らかな見通しをもっていたわけではありません。現行の家族制度にもとづく結婚の形態に、反発しないではいられない彼女としては、世間並みの結婚生活というものをまったく考えていませんでしたから、二人の世界はいよいよ未知の冒険ともいえるものでした。

 それで、彼女は奥村に思いきって8項目のほどの質問状を出し、責任のある回答を求めることにしました、その8項目の中には① 今後、ふたりの愛の生活の上にどれほどの苦難が起こってもあなたはわたしといっしょにそれに堪えうるか。(中略)② もしわたしが最後まで結婚を望まず、むしろ結婚という(今日の制度としての)男女関係を拒むものとしたら、あなたはどうするか。③ 結婚はしないが同棲は望むとすればどう答えるか。④ 結婚も同棲も望まず、最後までふたりの愛と仕事の自由を尊重して別居を望むとしたら、あなたはどうするか。⑤ 恋愛があり、それにともなう欲求もありながら、まだ子どもは欲しくないとしたらあなたはどう思うか。⑥ 今後の生活についてあなたはどんな成算があるのか。-大体にこんなようなことを挙げました。これに対する奥村の回答は、自然な、素直なもので、柔軟な受けとり方に感心しました。彼女の家出の決意はいよいよかたまり、、この上は実行あるのみとなりました。

 その年の大晦日の夜、二人は行きつけの鎧橋際の「メーゾン鴻の巣」で、この年最後の晩餐を共にしました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む35

 1913(大正2)年9月、青鞜社創立2周年を期して、彼女たちはいいよ社則の改正に踏み切りました。例えば、第1条の「本社は女流文学の発達を計り云々」は「本社は女子の覚醒を促し云々」と改められ、また「本社の目的に賛同したる女流文学者、将来女流文学者たらんとする者、及び文学愛好の女子は人種を問わず社員とする云々」という5条は全部削られました。そして、在来の社則によった社員を一応全部解散し、新社則のもとに責任を感じ、新しい決意をもって,改めて入社を申込んでもらうことにしたのでした。「青鞜」もこれで従来の婦人文芸誌という狭い観念から脱却することができたわけですが、このことは、前からの彼女の望むところであったのは確かでした。

 それにいま一つ、社の財政確立の課題も一方にありました。それで社則の改正と同時に、青鞜社補助団という別個のものを、青鞜社の事業の完成のために、経済的な補助をするという目的でつくりました。

 補助団には社員はもちろん、社員以外の支持者多数の入会を希望していたものの、女の経済力のない時代のことですから、けっきょく入会者は社員と直接購読者の範囲で、予期したほどの結果は得られませんでした。社員の中には社費の払えないという貧しさにいるひとも、少数ながらありました。

 今度の新社則では、全員から社費をもらわないことにしたのです。大部分の社員が進んで補助団に加入し、いままで以上の高い会費を負担してくれました。この補助団の構想は、おばさん(保持研子)だけの知恵でなく、後に保持さんと結婚した小野さん、岩野泡鳴夫妻の助言もあったように思われます。

 東雲堂に発行と発売を一任した「青鞜」は、その時の最初の部数は二千部ほどのものでしたが、それがぐんぐん伸びて、最盛期には三千部に達しました。ところが編集費は元のままでしたから(「元始、女性は太陽であった」を読む26参照)、東雲堂が儲けすぎている、この際編集費の値上げをしてもらおうと、保持さんがいいだしたのです。ところがこの編集費値上げ要求は、東雲堂側から一蹴されることとなりました。そのため東雲堂との関係は1913(大正2)年の三巻十号かぎりで切れ、社員の荒木郁子さんが紹介してくれた懇意な書店―神田南神保町の尚文堂に発売を一任することになりました。しかし売上部数はへり、地方へ行きわたっていないこともわかりました。

 1914(大正3)年春ころ、これも荒木さんの紹介で、岩波書店にまかせる話がまとまりました。そのころ、岩波書店の主人、岩波茂雄氏一家の住んでいた南神保町の借家は、荒木さんの持ち家か、あるいは、荒木さんが管理していた家で、彼女は荒木さんに案内され、岩波氏とお店の方で会いました。彼は30歳をちょっと越えた歳のころで、思いのほかのうちとけた態度で初対面の彼女によく話しました。 それで間もなく保持さんを連れて二回目の面会をし、「青鞜」についての取りきめも万事うまく運んで、早速原稿を入れ、ゲラ刷りの初校というところまですらすらと進んだところで、突然また思いもよらぬ事態がおこりました。

諏訪市―サイト内の検索―岩波茂雄 

 そのとき校正に出掛けたのは保持さんと、たしか伊藤野枝さんの二人ですが、岩波氏の奥さんが、おそらく初対面の挨拶もかねて、校正刷りをもって二階へあがってきたのを受けとるのに、保持さんが岩波氏の奥さんとは知らず、ただ「うん」といったということで、奥さんがすっかり腹を立ててしまいました。

 翌日、彼女宛に、岩波氏から長い丁重なことわりの手紙が速達便で届いたときは、あまりの意外にびっくりしました。真面目そのもののような岩波氏が、奥さんの強い抗議に困惑しながら、いそいでこの手紙を認めていられる様子が目に見えて、恐縮しながらも、なにかおかしくて、吹き出しそうになったことを覚えております。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む36

 1914(大正3)年1月13日予定通り、彼女は家を出、いよいよ独立にふみきりました。まず、金の用意が必要でした。つぎに二人の住むところを探さねばなりません。都合よく、青鞜社の事務所に近い、巣鴨のとげぬき地蔵前の裏通り、廃兵院の近くに小さな二階家(植木屋の広い庭にぽつんと建った離れ家)を見つけ、その閑静さがなによりも気に入りました。

巣鴨地蔵通り商店街―御参りをするーとげぬき地蔵尊 高岩寺  

 奥村の方は、もうこれでいつでも引越せるわけですが、彼女の方には、両親の承諾を求めるという大きな問題が最後にありました。自分の気持を父はもとより、母にも十分にいいあらわすには、筆の力をかりるほかありません。そこで、両親あての手紙をしたためることにしたのですが、それは長い長い手紙で書くのに二、三日かかったように思います。ようやく書きあげた手紙を、すぐ母の手に渡しました。母もそれと知って、涙を浮かべていました。

 このときの手紙は「青鞜」四巻二号に「独立するに就いて両親に」(「平塚らいてう著作集」1)と題して載せました。この手紙は私信ですが、あえて公表することにしました。古い封建的な結婚制度に反対し、恋愛が発展して自然的に実を結んだ、自由な共同生活に新しい性道徳の基礎をおく彼女の考えと、それを身をもって行なうことの意義を、社会に、ことに多くの同じ問題になやむ婦人たちに、知らせたい気持からでした。

 こうして、両親が見て見ぬふりをしてくれるなかで、彼女は、家を出る支度にひとりでとりかかりました。円窓の部屋に置いてあった机、本箱などや、さしあたり必要な手廻りのものを入れた行李(こうり)1個、ふとん包などを、若い、家事見習いに来ていた母の親戚の娘が手伝ってくれて、出入りの俥屋(くるまや)に運ばせました。

 さて、こうして一日先に引越していた奥村に迎えられ、ぽつんと建った離れ家に落着きました。

 「青鞜」誌上で、ふたりの共同生活を公表してから、新しい女への非難がいっそう激しくなりました。非難の中心点は、奥村が彼女より五つも年下であるということ、恋愛から入った自由結婚で、不道徳で、野合というものではないかということ、その上、法律を無視し

同棲しながら結婚届を出すのを拒んでいるーつまり合法的な結婚でないということでした。

 しかし世間からなんといわれようと彼女たち二人は、愛する者同士であり、二人の間柄は、日本婚姻法に定められているような、夫と妻の関係ではありませんし、またあってはならないのでした。自分の納得できない法律で、自分たちの共同生活を承認し、また、保証してもらうという、そんな矛盾した、不合理なことが出来るでしょうか。こ こで彼女が結婚届を出すことは、現行のこの結婚制度を、認めることにほかならないのです。法律結婚をしないことが、この時代として可能な、唯一の抵抗だと考えた彼女は、最初から既成観念のともなう、「結婚」という言葉を使うことさえ避け、とくに「共同生活」といって、はっきりそれと区別していたのでした。

 また彼女は、女が結婚すると、いままでの姓を捨て、男の姓を名のらねばならないことにも、前まえから大きな疑問と不満をもっていました。

 親の家を離れるとともに、たちまちひしひしと身に迫るものは貧乏でした。質屋への使いは奥村の役目です。奥村は質屋通いには慣れており、牛込の方に馴染みの店がありました。

 炊事は、その折りおりの都合でどちらかが引き受け、また時にはいっしょにしました。奥村は自炊をしたことがあるので、料理もうまくつくりました。家事には興味がなく、仕事に気をとられて、煮物をよく焦がすような彼女に較べて、まだしも奥村の方が、おいしいものをつくってくれたものです。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む37

 こんな話を聞いた伊藤野枝さんが、彼女を助けるつもりで、炊事を引き受けましょう、実費程度のものを出して下されば……と申し出てくれました。

 彼女は台所から解放されるのがなによりもうれしく、野枝さん夫婦の家と道路一つへだてた上駒込妙義神社前の新しい貸家に移り、野枝さんの家へ、たしか月十円であったか出すことにして、奥村といっしょに昼と夜の食事をしにゆくことになりました。

宗教法人 東京都神社庁―都内神社のご紹介―豊島区―妙義神社

 そのころ野枝さんの家には辻(潤)さんと野枝さんと赤ちゃんとの三人暮らしでした。いつ行っても辻さんは、三畳の書斎のまんなかに机を置き、スピノザの石版刷りの額の下で、翻訳のペンを運んでいましたが、疲れると好きな尺八を吹いて楽しんでいるようでした。

 辻さんは、野枝さんを最初「青鞜」に導いた人であり、青鞜社の運動についてはもちろん、もっと広く婦人問題、婦人運動についても、深い理解をもつ人でした。

 ところで野枝さんのつくってくれる食事ですが、いま思うと、よくあそこで食事をしたものだと、おかしく思われます。家の中には、炊事道具などほとんどなく、金盥(かなだらい)がすき焼き鍋に変わったり、鏡を裏返して、俎板(まないた)代りに使われたりしていました。茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯の盛りつけです。

 野枝さんは、料理が下手というより、そんなことはどうでもいいというふうで、コマ切れのシチューまがいのものを、ご飯の上にかけたものなど、得体の知れないものをよくつくりました。仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気です。

 野枝さんの家と垣一つへだてて野上弥生子(のがみやえこ・らいてう研究会編「前掲書」)さんのお宅があって、ちょうどそのころ野上さんご夫妻は、大分の郷里へ帰国中でした。その留守番を、野枝さんが頼まれていたので、広い野上さんのお家の方へ行って、食事をすることもまれにはありました。

 野枝さんのせっかくの好意ではじまったこの共同炊事を、生まれつき肉嫌いで、食物に好悪のひどい奥村が我慢しきれないのは無理もありません。一カ月も続かなかったかと思います。

 そのあと彼女たちは、駒込橋近くの河内屋という、やや高級なめし屋に通うことにして、炊事の時間を浮かして、勉強にあてました。夫婦で通う人など、彼女たちのほかにはありません。ここには、季節ものがいろいろあって、今日は木の芽田楽が出来るとか、茄子のしぎやきが出来るとかあるいは粕汁だとか、その日その日の特別なものが、茶半紙に書いて貼り出してあるので、つい誘惑されてそれもとることになり、予算を超過するのが、悩みの種でした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む38

 青鞜社事務所を任せている、保持さんの上にも、変化がおこっていました。保持さんの、最初の恋愛の相手は、南湖院の薬局で働いていた薬剤師のKさんでしたが、自分の薬局を開いてから結婚するという、彼の煮え切らない態度に保持さんは不満で、婚約は解消されました。Kさんと婚約解消のあと、新しい恋人の小野東(丸善勤務で南湖院入院患者だった)さんを得た保持さんには、難関があって、小野さんの家庭の問題(小野東は妻帯者)が、なかなか思うように片づかないのです。多くの障害を乗り越えて、二人は結ばれることになりましたが、そんな悩みをかかえているせいか、保持さんはいつも暗い顔で考え込んでいるようになり、事務所の仕事が、停滞して困るようになりました。

 いまでいう、ノイローゼ状態のつづく保持さんに困った彼女たちは、相談のうえ、保持さんにひとまず静養することを勧めました。 1914(大正3)年4月末に保持さんは四国今治へ久しぶりでの帰国の旅に立ち、それで、巣鴨の事務所を一応たたみ、書類その他の家具を上駒込の彼女の家に運び、いや応なしに、編集だけでなく、経営その他一切の責任をしょい込むことになりました。

 保持さんが郷里に立つ前か後か忘れましたが、枇杷(びわ)の実の熟するころ、枇杷の産地、西伊豆の土肥(とい)温泉にふたりででかけました。留守中のことは野枝さんに頼み、1週間以内の約束ででかけました。この旅のことは「七日間の旅」という題で「青鞜」に出しましたが、このときの写真がいま二枚残っております。温泉町の写真屋を呼んできてわざわざ撮らせたまずい写真ですが、これが彼女たちのいま思えば結婚記念写真であり、この旅行がいわば、新婚旅行かもしれません。

といおんせん 伊豆土肥の観光情報サイト   

 1914(大正3)年の「青鞜」を語る上で、ぜひ落としてならないのは、西崎花世(はなよ)さんと安田皐月(さつき)さんのことです。

 大正2年の暮のことですが、西崎花世さんが曙町の家へ訪ねてこられました。久しぶりに円窓の部屋で向かい合った花世さんは銀杏返し(「元始、女性は太陽であった」を読む49参照)に結った髪が乱れかかりひどくやつれていました。先ごろから下町のことぶき亭という寄席に女中として住み込み、おもに下足番をやっていることなど話し出しました。

 花世さんは、そこでの毎日がかなり激しい労働ではあるけれど、いろいろ変わった生活を見ることができて、その間にノートを何冊も書いた、毎日見聞したことをなんでも学生ふうに書いていると、満足そうに話します。そしてことぶき亭でのわずかな収入では、青鞜社の会費が払えないというので、むろん彼女は、会費はいらないから、原稿をどしどし書いて送ってほしいといいました。

 花世さんが、大正2年から3年にかけて書いたあの多くの感想は、「青鞜」誌上に発表されたあらゆる文学のなかの、最もとはいえないまでも価値高きものであったといえるでしょう。

 1914(大正3)年1月号の「青鞜」に発表された「恋愛及生活難に対して」(「青鞜」第四巻上 不二出版)という感想などが、多感の、若き詩人生田春月(「元始、女性は太陽であった」を読む29参照)氏の魂をゆり動かし、花世さんが春月氏と結婚したのは3、4月ころのことでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む39

 この年、生田長江氏主幹の文芸評論雑誌「反響」9月号に、花世さんは「食べることと貞操と」という、この人独自の例の告白的感想文を発表しました。たまたまこれが導火線となって、安田皐月さんが「生きることと貞操と」題して、痛烈な駁(ばく)文を、この年十二月の「青鞜」に発表しました。つづいて、伊藤野枝さんが「貞操についての雑感」(定本「伊藤野枝全集」第二巻 学芸書林)を書き、この三人の貞操感に対して彼女が最後に、「処女の真価」(「平塚らいてう著作集」2)という一文を書くというようなことで、「青鞜」は大正3年から4年にかけて、貞操論―もっとも、未婚婦人の場合の貞操問題でしたがーで、賑わうことになりました。

 花世さんの「反響」の所説は、次のようなものです。「女が食べるために、ことに自分だけでなく、養育の責任ある弟妹などある場合はなおさら、他に生活手段がないとき、女の最後のものを食に代えることは、やむを得ないこととして許されるべきである。(中略)在来の道徳が処女を捨てさせまいとするのは、それが決して罪悪だからではない。処女であることが、結婚の有利な条件だからに過ぎない。だから結婚の場合の不利さえ覚悟の上なら、貞操を売って生活するのも、また自由ではないか。」

 ところが安田皐月(らいてう研究会編「前掲書」)さんにすれば、こんな考えや行ないは、自己を侮辱し、女性を侮辱したもので、腹立たしくてならないものなのでした。「(前略)操といふものは、人間の、少なくも女の全般であるべき筈だ。決して決して部分ではない。部分的宝ではない。これだけが貞操で、これからが貞操の外だなどと言ひ得るわけがない。人間の全部がそれでなければならない。(後略)」と皐月さんはいいます。

 皐月さんのこの一文(堀場清子編「前掲書」)は、肝心の貞操がなぜそれほど大切なのかということの説明が、ほとんど欠けていましたが、それが在来の女徳としての貞操観念でないのはあきらかなことで、それを、自己とか、愛とかいう言葉に置きかえてもよいと思われる内容のものでした。

 この一文を書いたときの皐月さんは、新たな恋愛のさなかにいたので、なおさら花世さんの論旨に納得しかねるものがあったのでしょう。ところで、その相手というのが、原田潤さんであったことには、その偶然に驚きました。

 原田潤さんは、彼女たちと前後して、帝劇の女優をしていた人と結婚しましたが、この人は重いつわりがもとで急逝しました。新妻を失った原田さんは、悲しみのあまり、流浪の旅に出て、千葉の大原海岸にやってきました。

 そのころ、皐月さんは、隠退して、この地大原で余生を送っていた父上、母上といっしょに住んでいましたが、たまたまこの放浪の原田さんに出会って、同情、世話をしているうちに恋愛が芽生えたということです。

 この恋愛に勇気づけられて、皐月さんは一人で生きる道を切り開こうと、東京へ帰って、小石川白山の坂の途中に「サツキ」という水菓子(果物)店(らいてう研究会編「前掲書」コラム)を開きました。 前々からの青鞜社員であった皐月さんと原田さんは、年が改まると間もなく結婚しました。

 その後、原田さんは小林一三氏に招かれて宝塚少女歌劇の創設にあたることになり、大阪に移住、彼女と同じころに最初の子どもが生まれました。

宝塚歌劇

 やがて原田さんにに女性問題がつぎつぎに起こったことのほかに、二番目の子どもが疫痢から精薄児となり、その子どもの扱い方や教育の仕方について、二人はいつも対立するようになりました。

 それから二十年、結婚生活に絶望した皐月さんは、子どもを一人連れて、生活での苦闘の末、病気となり、友人、知人の救いの手をもしりぞけ、四十六年の生涯を自分自身の手で立ち切ってしまいました。

 同じく二十年後、花世さんもまた、結婚生活の苦労を重ねた上で、夫君を失われたのでした。けれども花世さんの場合は、皐月さんの場合とは反対に、自殺者は夫君春月氏であったことを思うとき、同じ明治、大正の時代を、いずれも女性として荊(いばら)の道を切り開きながらたたかってきた人ながら、その生き方の上の大きな相違を思わずにはいられません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む40

 花世、皐月、野枝三氏の所説のあとをうけて最後に彼女の書いた「処女の真価」という一文は一応、この論争のしめくくりとなったものでしたから、その要旨を次に記しておきます。

 「処女は重んじなければならぬ。(中略)軽々しくそれを捨ててはならぬーと、だれもが無条件で思いこんでいるが、処女を捨てることが、なぜ不道徳なのだろう。生田、原田、伊藤の三氏は、(中略)処女それ自身の真価についてきわめようとする態度のないことでは、一致している。

 すべての女子は彼女の所有する処女を、捨てるにもっとも適当な時がくるまで、大切に保たねばならない。(後略)」

 この「もっとも適当な時」の説明について「恋人に対する霊的憧憬(愛情)の中から官能的要求を生じ、自己の人格内に両者の一致結合を真に感じた場合ではあるまいか。(後略)」と書いています。

 この文章は、田中王堂(「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 6参照)氏の目にとまり、大変褒められたのは意外なことでした。巣鴨宮仲の岩野泡鳴氏のお宅でお目にかかったことがありましたが、王堂氏は岩野氏のお宅をよく訪ねていたようで、清子さんにも相当好意をもっていたらしく、二人で散歩に出かけた話など、清子さんから聞いていました。王堂氏は、当時もう六十歳を過ぎていられたでしょうか見るからに〝上品な老紳士〟といった感じで、もの腰がどこか女性的な、控え目がちな人柄でした。

 1915(大正4)年のことですが、「丁酉倫理会」の新年会に招かれ、夫婦で出席することになっていたようですが、王堂氏は独身、彼女は夫婦出席を知らず、一人で出席し、二人並んですわらされ、それを皆が冷やかします。その夜の帰り道、どうことわっても彼女の家まで送ってくれようとするのに、困ってしまいました。

 保持さんが郷里に帰り、案じていた通り、「青鞜」に関する一切の仕事が、彼女一人の肩にかかってきました。5月~8月と号を重ねてどうにかやってはゆきましたものの、自分の原稿もその中で書かねばならないというあわただしさに加えて、毎月の欠損を、自分たちの生活とともに心配してゆかねばなりません。

 そのうち、頭痛もはじまり、そのため9月号は休んでしまい、1914(大正3)年9月であるべき「三周年記念号」を10月に入ってようやく発行したものの、そのときの彼女はもうなにをする気力もない人間となっていました。砂丘が美しいと原田さんから聞いていた、上総(かずさ)の御宿(おんじゅく)海岸へまるで逃げるように、絵具箱をもった奥村といっしょに東京をたちました。それは10月12日のことです。

おんじゅく 御宿町観光協会公式サイト 

 留守中のことはすべて野枝さんに頼みました。赤ちゃんをかかえて、人一倍忙しい野枝さんですけれど、「お留守の間のことは引受けます。辻にも手伝ってもらいますからー」と、旅にでる彼女を励ましてくれるのをほんとうにうれしく思いました。

 御宿海岸には、この年いっぱい滞在の予定でしたので、しばらくこの地に1軒しかない旅館にいたあと、漁師の家の広い部屋へ移り、当座の必需品は母屋(おもや)から借りて、形ばかりの自炊生活をしました。

 彼女もお天気さえよければ、朝から浜に出て、半裸体で日光浴をしたり、歩けるだけ歩き、疲れれば坐ったり、寝たり、時には本を読んだりしました。夜は東京の出版元から送ってくる「現代と婦人の生活」(のちに反響社より刊行)とエレン・ケイの「恋愛と結婚」の校正をしました。