平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む21~30

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む21

 1911(明治44)年、かぞえ年26歳を迎えた彼女は、相変わらず坐禅と図書館通い、それに英語の勉強に明け暮れて、人ともあまり交わらず、といってこれという仕事もない毎日を送っておりました。

 こんな彼女に対して、生田先生はしばしば、女ばかりの文芸雑誌の発行をお勧めになるのでした。あるいは、先生のお勧めではじめた先きの閨秀文学会の回覧雑誌―森田先生との事件で一回きりで中絶したーが、ずっとまだ尾を引いていたのかもしれません。

 生田先生のせっかくのお勧めも、彼女はいいかげんに聞き流していましたが、生田先生は雑誌の話をなかなかお忘れにならず、だんだん具体的な計画まで話されるようになりました。

 何部刷って、印刷費はいくらぐらいかかる。そのぐらいの費用は、お母さんに御頼みになればきっと出してくださいますよ。お友達を集めて、一つ本当にやってごらんなさいーと、いよいよ熱心に勧められるのでした。

 彼女はそのころ彼女の家を泊り場所にしていた保持研(子)さん(「元始、女性は太陽であった」を読む14参照・らいてう研究会編「前掲書」)に生田先生からのお話をもらしたのです。保持さんは四国の今治の人で結核療養の後、再び学校にもどって、同年春ようやく卒業、寮をひきはらってから、そのころ姉はもう結婚して、夫の任地神戸へいっていましたから、彼女の家に寄寓して東京で職をさがしていました。

 生田先生からのお話に保持さんはとびつき、「ぜひやりたい、いっしょにやりましょう」と、まだ決心のきまらない彼女を促します。

 そこで二人の計画を母に話すと、「そんなことなら、あなたのためにとってあるお金があるから、そのなかから幾らか出してあげましょう」といって、最初の印刷費百円を、「お父さんは承知なさるまいけれど…」と、出してくれることになりました。雑誌が出るまでには、この百円のほかにも、少しずつたびたび母からもらっております。

 雑誌発行の趣意書や規約草案ができると、まっさきに生田先生を訪ね、保持さんをまず先生に紹介して、「二人でやってみようかと思います」というと、たいへんよろこんでくださいました。

 生田先生を保持さんとお訪ねしたのは同年5月29日でしたが、この日は雑誌の誌名のことが話にでました。生田先生も、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って「いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。」ということになったのでした。

Weblio辞書―検索―青鞜

 明治二十年代の日本では、このブルー・ストッキングを紺足袋党と訳したといいますが、彼女たちは生田先生と相談して、これに「青鞜」の訳字を使うことにしました(田中久子『「青鞜」とヨーロッパのブルー・ストッキングについて』(「国語と国文学」1965年7月号 至文堂)。
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む22

 1911(明治44)年6月1日青鞜社第1回発起人会が開催され、中野初子、木内錠(てい)子、物集(もずめ)和子(らいてう研究会編「前掲書」)、保持研子、平塚 明の5人が発起人となり、同社事務所(らいてう研究会編「前掲書」コラム)は物集氏宅に設置することになりましたが、彼女は保持さん以外とはだれもそう親しくはありませんでした。

発祥の地コレクションー東京文京区―青鞜社(文京区)-「青鞜社」発祥の地

 はじめて発起人会を開催した駒込林町の物集邸は樹木に囲まれた宏大な屋敷でした。本来ならば彼女の家に事務所を置くべきでしたが、父への遠慮もあり、片手間仕事で「青鞜」をやろうとしていた当時の彼女にしてみれば、こんなことで自分の本拠をかき乱されたくないと願っていたからです。このときの会合で、雑誌の編集発行人を中野初子さんに、雑誌の表紙は長沼智恵子(のちの高村光太郎夫人・らいてう研究会編「前掲書」)さんに引受けてもらうことになりました。

 麹町六番町の与謝野さんのお住居を、訪ねたときの印象も忘れられません。4年前の閨秀文学会当時とは大変な変り様で、萩、桔梗などの秋草模様の浴衣がけに、はやりの大前髪をくずれるにまかせたようなお姿は、むしろ個性的で異様にさえ見えました。

 ともかく賛助員になって頂きたいこと、創刊号にぜひ御寄稿願いたいことなど、ずい分欲ばったことを頼んで帰りました。ところが与謝野さんの原稿(十あまりの短詩「そぞろごと」)は第一着の原稿として8月7日に到着し、「青鞜」創刊号巻頭に掲げました(抄 堀場清子編「『青鞜』女性解放論集」岩波文庫)。

 いよいよ「青鞜」を世に送り出すにあたっては、「発刊の辞」といったものが必要ではないかということになり、忙しい保持さんから「あなた書いて頂戴」ということになって、彼女が引受けることになりました。八月下旬のむし暑い夜から夜明けごろまでに、ひと息に書きあげました。「元始、女性は太陽であった」の一文(「平塚らいてう著作集」1 大月書店)は、ずいぶん稚拙で舌足らずなものではありましたが、そのころの彼女の張りつめた魂の息吹きが、ひたむきに吐露されております。

 創刊の辞を書きあげたとき、彼女は雷鳥を筆名にすることを思いつきました。「雷鳥」を「らいてう」とひらがな書きにしたのは、雷という字のイメージが、あの鳥の姿にも、彼女自身にもなにかしっくりしないように思われたからです。このときから、半世紀をこえる「らいてう」-雷鳥との因縁は、松本平を越えて北アルプスを朝夕のぞむ、信州の山の中の生活(「元始、女性は太陽であった」を読む19参照)から生まれたものでした。 1911(明治44)年9月1日雑誌「青鞜」(復刻版 龍溪書舎)が創刊されました。

しづのをだまきー過去の記事―2011年09月21日 「青鞜」創刊号―本文を読む

  「青鞜」創刊号の反響は予想外に大きなものでした。現在の女の生活に、疑いや不満や失望を抱きながら、因襲の重石(おもし)をハネのけるだけの勇気と実力を欠いていたこの時代の多くの若い女性の胸に、「女ばかりで作った女の雑誌」「青鞜」の出現が、一つの衝撃を与えたことは確かでした。

 「青鞜」の運動というと、すぐいわゆる婦人解放と、世間から思われていますが、それは婦人の政治的、社会的解放を主張したものでなく、この時分の彼女の頭の中には欧米流のいわゆる女権論というものは全く入っていませんでした。しかし、後日、その発展段階において政治的、経済的、社会的な婦人の自由と独立への要求として発芽するものは内蔵されていたと見るべきでしょう。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む23

 1911(明治44)年9月22日~24日坪内逍遥の文芸協会が同協会研究所第1回試演会で、イプセン(らいてう研究会編「前掲書」)作・島村抱月訳「人形の家」を初演、松井須磨子(「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)4参照)のノラは好評だったといわれています(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)。

Net個人指導道場―読書感想文 Archives―外国文学編―ヘンリック・イプセン(ノルウェー)―人形の家   

 さらに同年11月開場した椅子席の帝国劇場で「人形の家」が再演されると、圧倒的な話題となり、ノラに扮した松井須磨子(らいてう研究会編「前掲書」)の評判はすばらしいものでした。

 当時は新劇運動の発生期で、イプセンの投げかけたこの問題劇のテーマは、文壇はもとより社会的にも大きな論議を集めました。

 「人形の家」(岩波文庫)について、彼女は女子大時代に、だれの訳文であったか日本語訳を読んでいて、一人でこっそり後ろの席で見ました。松井さんの舞台はこのときがはじめてでしたが、どういうものか劇自体からも、松井さんの演技からも、世評のような感動が伝わってきませんでした。

 「人形の家」の合評「社員のノラ批評及感想」は「青鞜」翌四十五年1月号の付録に掲載されました。この合評に彼女は無署名ですが、家出をするノラの自覚というものが、次元の低い安易なものであるから、ノラはまずなによりも、その自覚が本物になってこそ、真の人間としての自由も独立も得られるのだから、中途半端な自覚(?)から家出するノラを危ぶんでいるのでした(「平塚らいてう著作集」1)。

 1912(明治45)年4月18日「青鞜」は二巻四号(小説特集号)に掲載された荒木郁子(らいてう研究会編「前掲書」)の小説「手紙」(堀場清子編「前掲書」)によって、最初の発禁処分を受けました。荒木さんの小説「手紙」の内容は、人妻が若い愛人にあてた手紙の形式で、密会のよろこびを語るといった官能的なものでした。

 荒木さんは「青鞜」創刊の最初からの社員で、神田三崎町の玉名館という旅館の女主人として、彼女より年下の女性でした。女子大卒業生がほとんどの最初の社員にまじって、毛色の変わった荒木さんが入社したのは、保持さんの紹介によるものでした。

 荒木さんは、ものの考え方にとくに新しいもの、進歩的なものを意識的にもっていたわけではなく、むしろ感覚的、情緒的に素早くものをとらえて行動するひとでしたから、当時としては因習的ななにものにも縛られず、その環境のなかで大胆で自由な生き方をした一つの典型的な女性でした。

 発禁処分を受けたことも一つの原因となって、物集邸内に「青鞜」事務所を置くことを断られ、この年5月半ばに、本郷区駒込蓬莱町万年山勝林寺に、事務所を移すことになりました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む24

 青鞜社には毎日のように、日本全国の文学好きな若い女からー時には男も混じっていろいろの真面目な、また不真面目な手紙や葉書が舞こんでいましたが、そのなかに混って尾竹(富本)一枝(らいてう研究会編「前掲書」・渡辺澄子「尾竹紅吉伝」不二出版)さんの手紙は異色のものでした。それからたびたび手紙がくるようになり、社内では「大阪のへんな人」ということで、すっかり知られた存在となっていたのですが、たまたま年末の社員会にに出席した小林哥津(かつ・らいてう研究会編「前掲書」)さんから彼女はこの未知の、大阪の「へんな人」についていろいろと聞くことができたのでした。

 小林さんは、発起人の一人の木内錠(子)と学校がいっしょだった関係で、木内さんの紹介で創刊の年の10月に社員になった人でした。小林さんの遠縁にあたる早稲田の学生と尾竹(富本)一枝(尾竹越堂画伯の長女)さんが知り合いだったことから、前に一枝さんが上京して尾竹竹坡(ちくは 画伯 一枝の叔父)氏の家に寄寓していたときに紹介され、それから二人は手紙のやりとりをすることになったのだそうです。

 一枝さんはそれからも手紙を矢つぎばやによこしましたが、自分の名前が手紙のたびごとにいろいろ変わり、それがいつの間にか「紅吉(こうきち)」「紅吉」と自分を呼び出しました。彼女はこの変わり者に入社承諾の返事を出し「あなたは絵を勉強していられるそうですが(女子美術学校中退)、『青鞜』の素晴らしい表紙を描いてみる気はありませんか。いいものが出来れば、今のをいつでも取替えます」と書き添えました。

 1912(明治45)年4月尾竹紅吉が小林さんに連れられて、彼女の円窓の部屋(「元始、女性は太陽であった」を読む15参照)を訪ねてきました。

 はじめて見る紅吉という人は、細かい、男ものの久留米絣の対の着物と羽織にセルの袴をはき、すらりと伸び切った大きな丸みのある身体とふくよかな丸顔をもつ可愛らしい少年のような人でした。

 このとき以来紅吉はよく訪ねてくるようになり、社の事務所へも顔を出して、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事など、なんでも手伝ってくれるようになりました。

 大阪から一家が上京して中根岸に落ち着くと、さっそく自宅を提供して、同年5月13日同人会を開き、みんなで巽(たつみ)画会第12回展覧会に出品した紅吉の二曲一双の屏風の作品が三等賞をとったこと、及び社員の林(河野)千歳(らいてう研究会編「前掲書」)さんがズーデルマン(らいてう研究会編「前掲書」)の「故郷」に、マグダの妹役で出て成功をおさめたことに祝杯をあげたのでした。

1912(明治45)年5月3日ズーデルマン作・島村抱月訳「故郷」(文芸協会3回公演)有楽座にて初演(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)。  

 林千歳さんは「紅吉」と同じころ「青鞜」に入社した人で女子大国文科卒、ご主人の林和氏は劇作家で、同時に俳優でしたから二人で舞台に立っていました。「故郷」では、マグダの妹マリーに扮して「松井須磨子に次いでの有材」と評されましたが、松井さんとは違った知性の持主で、それがかえって舞台で伸びる邪魔となったかもしれません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む25

 彼女たちが「新しい女」と呼ばれるようになったのは、既述のようにイプセンの「人形の家」を「青鞜」で取り上げたのにひきつづき、同人作「幽霊」(岩波文庫)を話題に上せ、さらにズーデルマンの「故郷」[「世界文学全集」第35巻(近代戯曲集)新潮社]が上演禁止となり世論が沸騰すると、その女主人公マグダの生き方をめぐって6月号で論評(「平塚らいてう著作集」1)を加えました。ノラやマグダを論じたことが、そのまま「ノラを礼賛しマグダを理想とする」新しい女というふうに受けとられ、「和製ノラ養成所青鞜社」などとジャーナリズムは揶揄します。

 こうして青鞜社の女たちが、時の言葉「新しい女」の名の下に、ジャーナリズムの好奇の眼にさらされているとき、紅吉がなんの考えもなく、無邪気に、得意気に「青鞜」誌上に書いたことなどが災いしたものか、国民新聞に1912(明治45)年7月11日から4日間にわたって「所謂新しい女」の見出しで、想像を逞しくしたデマ記事があらわれました。

 この「国民新聞」の記事にもある「雷鳥が美少年に五色の酒を与へ、少年が麦藁で吸ふのを恍惚として眺めている」とか「吉原遊興」については、いまなお青鞜社のスキャンダルとして話題にされますが、このことには紅吉がからんでおります。

 「青鞜」は発足以来、経営を助けるために、みんなが手分けして広告(らいてう研究会編「前掲書」コラム)をとっておりましたが、文学雑誌などによくレストラン兼バー「鴻の巣」(らいてう研究会編「前掲書」コラム)の広告の出ているのを見た紅吉はここから広告をもらうために同店に赴き、主人からフランスでいま流行しているという五色の酒を、眼の前で注いで見せられました。これは一つのコップに、比重、色彩の異なった酒を、重いものから順に注ぎ分けたものですが、紅吉はそれを飲んだわけでもないのに、それからことごとに五色の酒について書き立てるようになったのです。  

 「吉原遊興」という伝説も、これは、紅吉が「鴻の巣」で五色の酒を見せられたあとのことですが、ある日紅吉が叔父の尾竹竹坡氏からの話として、吉原見学の誘いを突然もちこみました。

 紅吉から持ち込まれた話があまりにも急でしたから、やっと連絡のついた中野初子さんと彼女(平塚明)、紅吉の三人が、竹坡氏がお膳立てをしておいてくれたお茶屋を通して、妓楼に上がったのでした。そこは吉原でも一番格式の高い「大文字楼」で「栄山」という花魁(おいらん)の部屋に通されました。おすしやお酒が出て、「栄山」をかこみながら話ををしたわけですが、その夜彼女ら三人は花魁とは別の部屋に泊り、翌朝帰りました。

 紅吉は吉原見学も黙っていられず、そのころ越堂氏の下にに出入りしていた、東京日日新聞社会部記者小野賢一郎さんに、このことを話したので、「吉原遊興」のニュースはたちまち世間にひろまり、じつに下品な攻撃がはじまったのでした。

 青鞜社に対する世間の非難攻撃は、とりわけ彼女に対して強く、だれの仕業か、彼女の家には石のつぶてが投げられたりしたものでした。

 南湖院での長い闘病生活の間に、クリスチャンのような一面ももっていた保持さんにとっては、女だてらの吉原登楼ということが、許しがたく思われたのでしょう。怒りながらも保持さんは外部からの青鞜社に対する非難に対しては、どこまでもたたかってゆくという、つよい態度と気力を示し、受難期の「青鞜」をもり立ててゆく頼もしい存在でした。

 青鞜社内に内訌こそは起こりませんでしたが、こうしたジャーナリズムの攻撃がもとで、動揺が起こったのは事実でした。紅吉は「退社してお詫びします」といいますが、彼女は紅吉のこれくらいの過失を責めようという気持にはなれませんでした。このころ紅吉は自分の左腕に刃物をあてるという自分の肉体を傷つけるというようなこともしております。やがて紅吉は肺結核の宣告が下され、茅ケ崎の南湖院でしばらく療養生活を送ることになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む26

 8月の半ばを過ぎたある日、彼女たち(保持、紅吉、平塚)は南湖院(らいてう研究会編「前掲書」コラム)の応接間で、二人の未知の男客を迎えました。その一人は、当時文芸図書の出版社として有名な東雲堂の若主人で、詩人でもあった西村陽吉(らいてう研究会編「前掲書」)さんです。たまたま紅吉は竹坡氏との関係で西村さんと知り合いの間柄でした。そんなことから、東雲堂が「青鞜」の発行経営を引受けたいという希望を、紅吉を橋渡しにして先ごろから申し込まれていたのでした。今後は東雲堂に発行、発売をまかせることにして、こちらは編集と校正だけするということで、最終的な取りきめをするために、若主人がわざわざ茅ケ崎へ訪ねてみえたのです。当時東雲堂からは、北原白秋編集の「朱欒(ザムボア)」という詩歌雑誌が出ているほか、そのころの新しい文芸関係の出版物が発行されていて、そこから持ち込まれた話は、「青鞜」にとっても悪い話ではなかったのです。

茅ケ崎市文化生涯学習ポータルサイト マナコレー文化・歴史―文化・歴史写真アーカイブー②-最盛期の南湖院

 さて、このときの西村さんの連れの客というのは、西村さんにくらべ、骨太で、図抜けた長身に真黒な長髪をまん中からわけた面長の青白い顔が、異様なまでに印象的な青年で、奥村博(らいてう研究会編「前掲書」)と名乗りました。

 このとき奥村が西村さんと同行したいきさつはあとで聞いたことですが、その日の朝、奥村は父の知人に会うため、藤沢駅の待合室で、列車の入ってくるのを待っていましたが、向かい側のベンチににかけている若い男の手にしている雑誌「朱欒」が目に入りました。奥村はその「朱欒」最新号が見たくてたまらず、見知らぬ青年に声をかけて、それを見せてもらいました。その青年が西村さんで、「これから茅ケ崎の南湖院へ用があって行くのですが、ごいっしょにどうです?」と誘われました。病院の応接室で最初に彼女を見た瞬間、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見たーと、奥村はのちに述懐しました。

 ところが、後に知ったことですが、その夜か、その翌朝かに、早くも紅吉は、らいてうが奥村の再来訪を待っているという内容の手紙を、紅吉の署名入りで出していたのです。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む27

 二、三日して写生の帰りだといってスケッチ箱をもった奥村が突然彼女の宿である漁師の家を訪ねてきました。彼女はふと「青鞜」1周年記念号の表紙を、この人にかいてもらいたい気になり、さっそく頼んだのでした。

 彼女は奥村を連れて、南湖院に行き、紅吉の提案で保持さんと保持さんの親しい入院患者の小野さんを誘って、その日の夜、柳島(馬入川が茅ケ崎の海にそそぐ川口の洲のあたり)に小舟を出しました。奥村は藤沢に帰る汽車にのりおくれ、保持さんの紹介で、病院の松林の奥の藁屋に泊まることになり、彼女は自分の宿へ引き上げました。

 ところが激しい雷鳴に驚いた彼女は宿のおかみさんに提灯をもって付き添ってもらい、奥村を迎えにゆきました。その夜大きな緑色の蚊帳の中に寝床を並べて朝を迎えたときから、奥村に対する彼女の関心は、しだいに関心以上のものへと、急速に高まってゆくのでした。

 こうして奥村が彼女の宿で一夜を過ごしたことは、夜明けを待ちかねて彼女の宿の様子を窺いに来た紅吉の知るところとなりました。すっかり逆上した紅吉は「きっとこの復讐はするつもりです。わたしはらいてうを恋しています」というような脅迫状を奥村に送って、奥村を驚かせたのです。

 この年1912(明治45)年7月30日には明治天皇崩御され(「労働運動二十年」を読む6参照)、9月13日の大葬の日を待って、乃木大将夫妻殉死があるなど、新聞、雑誌は天皇の御病中から、大きくその関係記事を取り上げるという時代でした。

四国の山なみーTopjcs―土佐の怪異譚―(参考)乃木希典の殉死

 「天皇」を意識することも、社会に目を向けることも少ないこのころの彼女たちでしたから、奥村の表紙に飾られた「青鞜」1周年記念号には、世を挙げての諒闇色といったものはなにひとつ反映されていません。

 9月が訪れると彼女は東京へ帰り、やがて紅吉も月の半ばには退院して東京に帰りました。

 このころ奥村は城ヶ島に渡り、そこの宿に滞在して画をかいていました。そんなある日前田夕暮氏の主宰する短歌雑誌「詩歌」の同人で編集の手伝いなどもしている新妻莞(にいづまかん)さんが奥村を訪ねてきて、奥村と同居することになりました。

 しかるに新妻さんは、奥村宛に届く手紙などから彼女の存在を知って「あんな女とは絶交するのが若い君の身のためだ」と熱心に忠告、奥村は紅吉の脅迫状のこともあり、すっかり不愉快になって、彼女に一通の手紙に気持ちを「若い燕」の寓話に託して彼女の前から姿を消してしまいました。この寓話は新妻さんが作った「お話」を書いたものですが、このときから「若い燕」ということばが時の流行語となり、いまなお生きているようです。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む28

 たしか晩春のころと思いますが、彼女のもとへ、九州に住む未知の少女から長い手紙が届きました。差出人は「福岡県糸島(いとしま)郡今宿(いましゅく)村 伊藤野枝(らいてう研究会編「前掲書」)」と、素直な、しっかりした字で書いてあります。その内容は肉親たちから強制されている結婚の苦痛などを訴えたもので、手紙を一読した彼女は、本気で一生懸命に、からだごと自分の悩みをぶっつけてくるような、その内容につよく動かされました。近いうちに上京してお訪ねするから、ぜひ会ってほしいと書いてあります。

 それから何日か後に九州の少女が彼女を訪ねてきました。紅吉よりも、哥津ちゃんよりもずっと子どもっぽい感じで、その黒目勝ちの大きく澄んだ眼は、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さでみひらかれていました。

 そのときの野枝さんの話は、さきに寄越(よこ)した手紙の内容を、より具体的にしたもので、今は上野女学校で英語の先生であった辻潤(らいてう研究会編「前掲書」)氏の家に、世話になっている、とのことでした。一度九州へ帰ってすっかり後かたづけをしてくるといって帰った野枝さんから、家人の隙を窺って再度の家出をしようと思うが、その旅費をなんとか都合して送ってほしいとの再度の手紙を受け取ったのは、それから一(ひと)月近くのちのことでした。

 彼女はまず野枝さんが世話になっていたという辻さんの意見を尋ねてみると、彼は野枝さんの上京後のことは自分が責任をもつということでしたから、彼女は自分のポケットマネーから旅費を送ることにしました。当時の彼女は野枝さんが再度上京して辻さんとの相愛生活をはじめてからも、なおそれに気づかず、妊娠したときいてやっと気がつくという有様でした。辻さんが野枝さんのことで職を失ったことはあとできいて知ったことでした。

「五色の酒」や「吉原遊興」事件によってまき起こった世間の誤解や非難が、新しい女の上に集中するにつれて、社の内部には、「わたしは新しい女ではない」という逃避的な声がつよまり、われ一人よしとする逃げ腰の態度が、社員のなかに目立つようになっていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む29

 これに対して、彼女(平塚明)はここに改めて、「新しい女」とは何か、とみずからに問いかけ、真実を主張し、悪ジャーナリズムにあやまられた新しい女の実態を示すことで、勇敢に起ちあがらなければいけないと考えたのでした。

 「中央公論」編集長の滝田樗陰(「大正デモクラシーの群像」読むⅠ―吉野作造9参照)さんが再度来訪して大正2年(1913)新年号に「新しい女」という題の文章の寄稿を頼まれ、断りきれず、その日に書いたのが「自分は新しい女である」(「平塚らいてう著作集」1)という書き出しの小文です。この文章は、のちに幾分か字句の修正をしてその後の著書(平塚らいてう「円窓より」複製版 叢書女性論8 大空社)に収録してあります。「青鞜」同年第三巻一号は「新しい女、其他婦人問題について」と題する特集を付録とし、同付録にらいてう訳のエレン・ケイ(らいてう研究会編「前掲書」著「恋愛と結婚」 原田実訳 岩波文庫)の掲載が始まりました。

 生田先生のおすすめで同年2月15日青鞜社(新しい女)講演会(らいてう研究会編「前掲書」コラム)が開催され、生田長江のほか、馬場孤蝶、阿部次郎(らいてう研究会編「前掲書」)、岩野泡鳴の諸先生および岩野清子(泡鳴夫人 青鞜社員)さんが演壇に立たれました(阿部次郎は講演予定だったが、風邪のため中止となり、出席のみ)。

 講演会の準備を進める社員のなかに、ビラや入場券の作成を受け持って、たのしそうに動きまわっている、紅吉の姿もありました。すでにおもて向きは退社となっていながら、紅吉は編集室へも彼女の円窓の部屋へも、相変わらず顔を見せていますし、三巻新年号からの表紙絵―それはアダムとイブを描いたすぐれたものでしたがーを、自分で木版を彫るなど、たいした骨のおり方でした[その絵の下絵は、富本健吉(らいてう研究会編「前掲書」)氏の描かれたものであることを、紅吉自身の話でによって最近知りました]。

 どんなきっかけで紅吉が生田先生宅へ寄寓ようになったのか、よく分かりませんが、生田家にいる姉のもとへ、家からのおつかい役で来りする紅吉の妹、福美(ふくみ)さんを、佐藤春夫が見染めたのもこのころでした。

 そのころ、佐藤さんは慶応義塾の学生で生田家に玄関番の生田春月(らいてう研究会編「前掲書」)とともに同居していたのでしたが、佐藤さんから託された恋文を、紅吉が福美さんに手渡すようなこともあったようでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む30

 1913(大正2)年初頭、国内の政情は大きくゆれ動いていました。第3次桂太郎内閣に対する尾崎行雄の弾劾演説が同年2月5日の議会で行われ、同内閣が倒壊する大正政変(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13~14、「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造8参照)が起こっていましたが、こうした新しい時代の胎動をよそに、「新しい女」に対する偏見と迫害は根強いものがありました。

青鞜」第三巻二号は「婦人問題の解決」福田英子(「田中正造の生涯」を読む28参照)、「冷酷なる愛情観と婦人問題」岩野泡鳴、「談話の代りに」阿部次郎、「恋愛と結婚」エレン・ケイ、らいてう訳を付録として掲載したのでしたが、これが同年2月8日「安寧秩序をを害するもの」という理由で、発禁処分となりました。だれの書いたものが抵触するかについてはふれられていませんが、福田さんの「婦人問題の解決」は、社会主義的婦人論の荒筋のようなものでした。もしこの論文が当局の忌諱(きい)にふれたとするなら、おそらくその内容よりも、平民社(「日本の労働運動」を読む32参照)に関係のある、福田さんの名前がいけなかったのでしょう。

 ところが、この発禁処分がもとで、彼女の家庭では父との間に一悶着が持ち上がりました。「青鞜」への世間の悪評に、いままでただ一言も文句をいったことのない父が、このときは自分の部屋に彼女を呼びつけ、真正面から怒りをぶっつけたのでした。

内田聖子のホームページー聖子・歴史の小径-福田英子と解放運動

 「青鞜」の原稿を依頼した当時、福田さんは、石川三四郎(「日本の労働運動」を読む40参照)さんといっしょに横浜の根岸に住んでいました。後に青鞜社の巣鴨の事務所[1913(大正2)年4月移転 ]へ見えるようになったころは、石川さんを海外へ送り出したあと、上京して駒込橋付近で養鶏をしていたのでしょうか、生みたて玉子を売り歩いていました。

 はじめてお会いした福田さんの印象は、大柄な中年を過ぎたこわい感じの婦人で、ちょっとたじろぐ思いでした。でも老いた女壮士といった風格がどこかにありました。

 彼女は後に福田さんを姉に紹介しました。姉は義兄が逓信省庶務課長であった関係で、新橋汐留(しおどめ)駅に近い逓信省の官舎に住んでいました。

 姉の方でも話し好きの福田さんをいい話し相手にしていたらしく、やがて福田さんはしげしげと姉のところに出入りするようになりました。

 1927(昭和2)年5月2日福田さんは危篤状態のなかで、礼をいいたいからどうしても姉に会わせてほしいと家人にせがんだそうで、知らせを受けて、姉は南品川の福田さん宅に駆けつけましたが、間に合いませんでした。