平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11~20

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11

 女学校四、五年の一時期に、彼女が富士登山を思いたった気持の背景には、その当時、女性の富士登山者がぼつぼつ現れて、それを新聞などが賞賛的に書き立てていたことなどもいくらか影響したのでしょうか。

 いよいよ夏休みとなり、彼女は精一杯の勇気をふるって、父に富士登山の許しを求めました。小さいころ、あれほど父に可愛がられていた彼女でしたが、いつのころからか次第に、父に対して、気軽に話ができないようになっていました。はたして、彼女のひたすらな望みは、ひとたまりもなく父に退けられました。「馬鹿な。そんなところは女や子どもの行くところじゃないよ。」嘲りとあわれみをふくんだ、彼女にとってはなんとも不愉快な表情で、父ははねつけました。彼女はまったく承服できない気持のまま、にじみ出る涙をおさえて、黙って引きさがるだけでした。

松本正剛の千夜千冊―バックナンバーで探すー全読譜―1201-1300-1206-平塚らいてう

 その年の秋であったか、翌年の春であったか、祖母に付き添われて、胸を病む姉が久しく療養していた小田原十字町の宿を足がかりにして、海賊組のひとりの友達といっしょに、草鞋(わらじ)ばきで箱根の旧道を登ったことで、彼女は悶々とした思いを多少解消した形になりました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む12

 五年生のころ、クラスで隣の席に、当時仏教学者として名高かった、村上専精(せんじょう)博士の娘さんがいました。新聞かなにかでこの村上さんのお父さんの講演会のあることを知った彼女はその講演会に行ってみる気になりました。

 会場は神田の錦輝館で、法然(ほうねん)上人か親鸞(しんらん)上人の何百年祭かの記年講演会でした。当時の彼女は、この講演や会場の雰囲気から大きな感銘を受けました。いま振りかえってみると、村上博士の講演からうけた感銘がのちに彼女を、宗教や哲学に近づける一つの機縁となったことは、疑いないことのように思われます。

 こうして急速度に、宗教や倫理、哲学などの方向に興味をもちはじめた彼女は、今後の研究に打ちこんでゆくために、開校まだ日の浅い、日本女子大学への入学を願うようになりました。

日本女子大学―大学案内―建学の精神と歴史   

 当時女子大には、国文科、英文科、家政科の三つの科がありましたが、彼女の志望は英文科でした。ところが、彼女の志望を父に話してみると。「女の子が学問をすると、かえって不幸になる」と彼女の希望は一言のもとにはねつけられたのです。そのとき父が「親の義務は女学校だけで済んでいるのだ」といったことばが、その後いつまでも、彼女の耳底に残りました。

 物ごとを一途に思いつめてあとへひかない彼女の性質をよく知っている母は、母親らしい愛情から、彼女のためにいろいろとりなしてくれ、そのおかげで、「英文科ではいけないが、家政科ならば…」という条件つきで、ようやく父から女子大入学の許しが出ました。

 大きな期待に胸を躍らせながら、創立間もない女子大の第3回入学生として、目白の校門をくぐったのは、1903(明治36)年4月のことでした。この時分の女子大生には何年か小学校の先生をしてきた人とか、未亡人、現に家庭をもちながら入学してきた人などもいて、なかには「小母さん」と呼んでいいような、中年の婦人もいました

。家政科の学生は百人近くいて一番多く、国文科ががもっとも学生の少ない科でした。「自主、自学」を建前とする学校だけに、すべてのことが生徒の自治にまかされているので、お茶の水ではまったく経験しないことばかりでした。

 週1回、午後二時間の校長の実践倫理は、各部の新入生を一堂に集めて行われるのですが、あくまでも、自学、自習、創造性の尊重ということに重点を置いて、たんなる知識の詰込み、形式主義の教育を排撃するという成瀬先生の説明は、お茶の水の押しつけ教育にうんざりしていた彼女をどれほど喜ばせたことでしょう。試験というものがなく、成績点もなければ、落第もなく、卒業のとき論文を出すだけという女子大の教育は、入学したばかりの彼女には、まったく理想的なものに映りました。

 

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 さて、こうして通学していると、当時の女子大は寮生活が中心でしたから、寮に入らないと本当の校風が分からないということで、リーダーがしきりに寮に入ることを勧めるようになりました。彼女は、家の反対を押し切るようにして、二年のはじめころ寮にはいることにしました。

 そのころの寮は学校の構内の裏側にあり、木造日本建築の下宿屋のような建物で、棟割り長屋式に幾棟かに別れて立っており、それが一寮から七寮までありました。一寮が一家族ということになっていて、およそ二十人ほどですが、付属女学校の生徒から大学の上級生までがふくまれていて、寮母は上級生か女の先生がつとめました。

 彼女が入った七寮は付属高女の平野先生が寮監で、その下に家政科三年生の大岡蔦枝さんがお母さん役で責任をもち、その下に彼女と信州飯田出身で付属高女からきた出野柳さんがリーダー役で活躍していました。

 自分からすすんで寮に入った彼女でしたが、やがて寮の生活に疑問と幻滅を感じるようになりました。寮は八畳の部屋に四人ほど入っているのですが、机に向かっても、向い合わせの机に人がすわっているので、気持が落着きません。夜は夜で、修養会とか、何々会とか集まりばかりが多く、それらにいちいち出席していたら、自分のことがなにも出来なくなるのでした。

 自主、自治、独創ということは、成瀬先生からつねづねいわれていることですし、また自学自習主義が建前であるはずなのに、自主的な研究時間などは全くなく、同じような会合につぶす時間があまりにも多いことも、納得できないことでした。

 こうした学生の会合には、いつも出るのを渋っていた彼女でしたが、家政科の授業にはまじめに出席しました。料理の実習には、週二回の午後の時間が全部あてられていましたが、彼女はたいていさぼって、図書室に行ったり、文科へ傍聴にゆくことにしていたので、大体料理が出来上がるころを見はからって料理室にゆき、試食の段どりになると、すまして食べるだけはたべたものです。

 文科の講義では、西洋美術史の大塚保治先生は、「お百度詣り」の詩で有名な、竹柏園(佐佐木信綱の雅号)の歌人、大塚楠緒子(なおこ 「坂の上の雲」を読む21参照)さんの御夫君で、文学博士、帝大の教授ですが、この先生の講義のときは講堂がいっぱいになりました。幻燈でラファエルやミケランジェロの絵が見られるので、たのしい時間でした。

 

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 学生が勉強しないことについての疑問とともに、もう一つ彼女には釈然としないことがありました。そのころの女子大では、家政学部が成瀬教育の寄りどころのようになっていて、学校にとって大事なお客様(主として当時の政、財界の知名人)が学校に見えると、その接待役は家政科の学生でした。お料理からお菓子なにもかもみんな学生の手作りですから、こんなとき真先きに働くような人が、共同奉仕の精神の持主として賞讃されるのでした。彼女はそんな評価の仕方が納得できないので、こうした接待のときはさぼりがちでした。

 それよりももっといやなことは、こうした後援者に対する成瀬校長の、過度な感謝の態度というか、その表現の仕方で、彼女は校長がつくづく気の毒になってしまうのでした。

 岩崎、三井、三菱、住友、渋沢などの財界の当主や、伊藤、大隈、近衛、西園寺などの政界の代表的人物が、なにかの時には学校へ見え、まれには話をきくこともありましたが、この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどなく、こういう種類の人たちをとうてい彼女は偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした。

 とくに大隈伯はいかにも傲慢な感じの爺さんで、横柄な口のきき方でした。その説くところの女子教育の必要も、女子自身を認めてのことでなく、日本が列強に伍して行くようになって、女が相変わらずバカでは国の辱(はじ)だとか、男子が進歩したのに、女子がそれにともなわないでは、内助はおろか、男子の足手まといになるだけで、けっきょく、それだけ日本の国力が減退することになるといったものなので、呆れました。

 こうした周囲の雰囲気のなかで、彼女はやがて、成瀬先生の講義そのものに対しても、いままでのように打ちこめなくなってきたのでした。校長の実践倫理の講話は、校内では至上命令的で「神の声」のようなものですから、コントのポジティヴィズム実証主義)のあとジェイムスのプラグマティズム(「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 3参照)が説かれるようになると、ひどく狭い実用主義、実利主義が学内を風靡するようになり、彼女にはもう我慢できないことでした。

独学ノートー単語検索―実証主義   

 こうした雰囲気のなかで、勉強しているもの、本などにかじりついている者は異端視され、ことに実証主義的でない本など読んでいる者は危険思想の持主としてかんたんに睨まれるようになりました。

 とにかくそのころの彼女は読書欲にかられ、まるで本の虫のようにして書物を漁ったものでした。読むものは、宗教、哲学、倫理関係のもので、彼女はちょっとの休み時間にも図書室にかけこみ、ときには講義を休んで終日ここですごすようなこともありました。九時半だったかの消燈後も、食堂へこっそり入って、ろうそくの火で本を読んでいて、寮監にたしなめられたことなど思い出します。

 そうこうしているうちに、彼女は突然発熱し、パラチブスという診断を校医から受けて、家へ帰されました。

 彼女に女子大入学を許した以上、姉にも女子大の教育をうけさすべきだという父の意向で国文科ならば入ってもいいという姉に父が妥協、姉は彼女より1年遅れて、女子大国文科にはいりましたが、二年になって肺結核の初期という診断で療養生活に入り、結局中途退学してしまいました。やがて結核専門の療養所である茅ケ崎海岸の南湖院で同級生の保持研(子)(よしこ)さんと闘病生活を慰めあっていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む15

 当時の日本は日露戦争のさなかで、国をあげて戦争に協力していましたが、自分の内的な問題にばかりとり組んでいた彼女は、一度も慰問袋をつくったりするようなことをやった覚えがありません。

 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」については、当時女子大が明星派の新しい文学を拒否していたからか、学校では話題にならなかったように思います。もともと学校自体も、ときの政治問題などについて、学生を社会的影響から隔離しようという方針でしたから、この時分の女子大生は、彼女に限らず、そのほとんどが新聞を読んだり、読まなかったりで、、どちらかといえば、読まない日の方が多かったことでしょう。いまふりかえってみて、日露戦争の印象は、小学生時代の日清戦争の記憶よりもずっと希薄なのはおどろくばかりです。  

 先にいた七寮を、なにかの用事で訪ねたついでに、木村政(子)(らいてう研究会編「『青鞜』人物事典」大修館書店)という同級生の部屋に立ち寄ったとき、机の上に置かれた「禅海一瀾」という和綴木版刷り、上下二巻の本が目にとまりました。著者は鎌倉円覚寺の初代管長今北洪川老師ですが、めくっているうちに、ふと、「大道求于心。勿求于外。」(大道を外に求めてはいけない、心に求めよ)という文字が目に入りました。このことばこそ観念の世界の彷徨に息づまりそうになっている、現在の自分に対する、直接警告のことばではありませんか。

楽道庵ホームページー根源的大道としての禅  

 この本は禅家の立場から、儒教―ことに論語、大学、中庸のなかの諸徳を批判したもののようでした。彼女は息をのむ思いで、矢もたてもなくこの本を借りうけて帰りました。

 それから間もないある日、彼女は木村さんに案内されて、日暮里の田んぼのなかの一軒家、「両忘庵」の偏額(へんがく 門戸または室内にかけた額)のかかったつつましい門をくぐりました。女子大三年の初夏のころだったと思います。

 迷いも悟りも二つながら忘れるというこの両忘庵の庵主、釈宗活老師は鎌倉円覚寺二代管長、釈宗演老師の法嗣(仏法統の後継者)で、両忘庵で独り暮しをされ、後藤宗碩(そうせき)という大学生が侍者(和尚に侍して雑用を務める者)をつとめていました。

 この日彼女は、相見(面会)につづいて参禅を許され、老師から公案(参禅者に示す課題)を頂き、後藤さんから坐り方を教えてもらい、その日から彼女にとって坐禅という、自己探究の果てしのない、きびしい旅がはじまりました。

 しかし他方で、卒業期が近づき、卒業論文提出の締切日がきてしまいました。この学校には試験というものが全然なく、卒業論文を提出して卒業がきまるので、クラスの人たちはみんな早くから、論文に夢中になっていました。しかしこの人たちとは反対に、いままで得たあらゆる知識を捨てる修行に日夜骨身をくだいている彼女には、論文を書くのはじつに辛いことでした。といって卒業だけはどうしてもしてしまいたかったので、短いものを、なるだけ時間をかけずに書くことにしました。

 1906(明治39)年3月数え年二十の春、彼女は家政科らしからぬ筋違いの論文がパスして、家政科第3回卒業生として社会に送り出されました。

 同年冬、一応健康を回復した姉と、帝大卒業を控えた義兄との結婚式が挙げられました。

 姉たちは結婚とともに姉たちのために建てた新しい家に引越しましたので、彼女は義兄がそれまで占領していた別棟の二間つづきの部屋に移りました。

 大きな円窓のある三畳の狭い方の部屋を書斎にし、四枚の襖で仕切られた四畳半を寝室兼坐禅の間として、そこには床の間に花瓶、床脇に香炉一つ置くほか何ももちこまないことにしました。床の間には、宗活老師にたのんで揮毫してもらった、書の掛け軸をかけました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む16

 卒業とともに、英語の書物を自由に読みこなせるように、英語の力をつけようと思った彼女は、両親には無断で、麹町の女子英学塾(津田塾大学の前身)[校長 津田梅子(久米邦武「米欧回覧実記」を読む2参照)]予科二年に入学しました。その帰りには近くにある三島中洲先生の二松(にしょう)学舎に寄って漢文の講義をききました。それは禅をはじめてから、漢文で書いた書物を読むことが多くなったからです。そのために必要な学費は、家からもらう小遣いと、女子大三年のとき、講習会其の他で貴族院速記者に習った速記の収入でどうにかやりくりをしました。  

 しかし女子英学塾の授業は狭い意味での語学教育に終始し、使う教科書も内容のないものでしたから、彼女は一学年の終わりを待たず。飯田町仲坂下の成美女子英語学校に転じました。1907(明治40)年の正月だったかと思います。

 こうして英語学校。二松学舎、速記の仕事という忙しい生活の中でも。両忘庵通いはいっそう熱心につづけました。ようやく老師に認められて見性(けんしょう 悟りの境地)を許されたのは、女子大卒業の年の夏で、慧薫という安名(あんみょう 禅宗で新たに得度受戒した者に初めて授与する法諱)を老師からいただきました。

 求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。さすがにうれしさのやり場がなく、彼女はその日、すぐに家に帰る気になれず、足にまかせてどこまでも歩きました。それからの彼女はずいぶん大きく変わりました。坐禅の先輩の木村政子さんといい相棒になって、芝居や寄席のような場所にも、足を運ぶようになりました。

 1907(明治40)年正月から通いだした成美女子英語学校はユニヴァサリストという教会付属の学校で、ここは英学塾のように文章をやたらに暗記させることもなく、出欠席もとらないという自由な学校で、読むものも英学塾より面白いのが取り柄でした。

 ここで生田(長江)先生から、若きウェルテルの悩み、相馬(御風)先生にアンデルセンの童話、などを学びました。生田先生も相馬先生もまだそれぞれの大学を出て一、二年というところで、生田先生は少しのひげをぴんとひねりあげて、頭髪もきれいに分け、いつも洋服をきちんと着込んだ身だしなみのよい紳士でした。相馬先生は、赤門出の先生方のなかに、ひとり早稲田出ということでやや異色の存在でしたが。いつも粗末な和服姿で、気どりがなく、やさしいけれども神経質な気むずかしさと、どこか気の小さな人のよさの感じられる方でした。

花の絵―文化(CULTURE)―月別インデックスーNovember 2011-―不屈の評論家 生田長江について   

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む17

 同年6月になって成美のなかに閨秀(けいしゅう 学芸に秀でた婦人)文学会(らいてう研究会編「前掲書」用語解説)という、若い女性ばかりの文学研究会が生まれました。これは女性の文章に、非常に興味をもっていられた生田先生の肝入りでつくられた会で、講師の顔ぶれは新詩社系の人びとが中心で、与謝野晶子戸川秋骨平田禿木馬場孤蝶(らいてう研究会編「前掲書」)、相馬御風、などの諸先生と生田長江先生、そのお友達の森田草平先生などでした。

渋谷・時空探究―一覧―第三話 与謝野晶子と東京新詩社

 会員は成美で英語を勉強している生徒有志のほか、外部からも加わって、全部で十数人ほど、彼女も誘われるままによろこんでこの会に加わりました。学校の授業のあと、一週に一回の集まりを開きましたが、おそらく講師の先生方は無報酬で来ていられたにちがいありません。

 はじめて見る与謝野先生の印象が、いままで想像していた人と、あまりに違うことにびっくりしました。ふだん着らしく着くたびれた、しわだらけの着物といい、髷をゆわえた黒い打紐がのぞいて垂れ下っているような不器用な髪の結い方といい、見るからにたいへんななかから、無理に引っぱり出されてきたという感じでした。やがて先生の源氏物語の講義が始まりましたが、それはまるでひとりごとのようなもので、しかもそれを関西弁で話されるので、講義の内容は誰にもほとんどわからずじまいでした。

 彼女は閨秀文学会に加入してから生田先生の推薦で急速にツルゲーネフモーパッサンなどの外国文学に親しむようになり、他方「万葉集」などの国文学を系統的に読みはじめていました。これは閨秀文学会で知り合った青山(山川)菊栄さんの刺激が多分にあったように思います。

フェミニズムの源流 山川菊栄  

 アメリカへ布教のため、弟子たちを連れて旅立たれた両忘庵主の釈宗活老師から、自分の留守中、他の師家につくなと戒められていましたが、あるとき興津清見寺住職の坂上真浄老師の提唱(禅宗で宗師が大衆のために宗旨の大綱を提示して説法すること)があったときその枯淡な印象が忘れられず、浅草松葉町の海禅寺で同老師の接心(禅宗で僧が禅の教義を示すこと)があると聞くと、紹介もなしに参禅することになりました。

 そのころの長らく無住だった海禅寺を復興させるため、鎌倉(円覚寺)から住職代理として、手腕のある青年僧中原秀岳和尚が来ていたのです。

 その日も海禅寺で参禅していた彼女は夜の八、九時になっているのに気付くと、急いで立ち上がり、宗務室の中原秀岳和尚が開けてくれた潜り戸から外へ出ようとしたとき、この青年僧になんのためらいもなく、和尚の好意に対するあいさつとして、接吻してしまったのです。

 数日後、中原秀岳和尚から結婚申し込みをうけ、当惑した彼女は木村さんに宥め役になってもらい、かなりの時を経過して、3人はなんでも遠慮なく話し合えるようになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む18

 閨秀文学会の会員の作品を集めて、回覧雑誌をつくることになり、このとき彼女は小説を生まれてはじめて書きました。彼女のほかに小説を書いたのは青山(山川)さん一人でした。彼女の「愛の末日」と題する小説は全くの想像で、女子大か何かを出た女性が恋愛を清算し、独立を決意して、地方の女学校の教師となって、愛人にわかれて、任地にひとり旅立って行くというようなものでした。

 この小説(?)を読んだ森田先生から、長い批評の手紙をもらったのは、1908(明治41)年1月末のことでした。

Weblio辞書―項目を検索―森田草平―ダヌンツイオ  

 達筆の薄墨で巻紙にしたためられた森田先生の手紙は「愛の末日」についての過分の讃辞にみちたものでしたが、彼女も巻紙に筆で返事を返事をしたためてだし、文通するようになりました。

 かくしてオープンな若い男女交際の場に乏しい当時の日本において、森田草平は彼女を男女関係の経験者と思い込んだ形跡があり、彼女は森田草平のだらしのない男女関係の実態をよく知らず、デートを重ねるうちに、森田草平が説くダヌンチオ「死の勝利」(生田長江訳 昭和初期世界名作翻訳全集22 ゆまに書房)の世界へと彼女が引き込まれていったようです。 

 1908(明治41)年3月24日森田草平・平塚明子心中未遂で塩原尾頭峠(栃木県)を徘徊中、発見されました[塩原(煤煙)事件](新聞集成「明治編年史」第13巻 財政経済学会)。

クリック20世紀―1908-1908/3/24森田草平・平塚らいてう心中未遂(煤煙事件)  

 二人は宇都宮警察の巡査に発見され、、案内された温泉宿には生田先生、すこし遅れて母まで来ていました。母とともに帰宅して、心痛のため腸をこわして寝床についていた父は、、深く頭をたれて枕元に坐った彼女を見すえて、「たいへんなことをしてくれたね」といっただけでしたが、激怒を精いっぱいおさえていることは彼女のからだにすぐ感じられました。

 この事件の解決策として夏目(漱石)先生の側から、生田先生を通じて、父に述べられたことは、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにご両親に十分謝罪させる、その上で時期を見て平塚家へ令嬢との結婚を申込ませる」という内容だったようです。ところが父は、直接娘におききなさいと無愛想に答えたらしく、母に案内されて彼女の部屋に入ってきた生田先生に彼女は森田先生との結婚の意思はないと申しました。事件の後始末が、事件の当事者同士の話し合いにゆだねられず、第三者による結論としての結婚のおしつけに彼女は不満だったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー夏目漱石

 その後何日かして夏目先生(一高の語学教師として彼女の父とは面識あり)から父あての「あの男を生かすために、今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。」という内容の丁重な親展の手紙がきました。 母は父に代わって、それは受け入れがたいことを伝えに、夏目家を訪れましたが、夏目先生の強い懇願をうけ、父の意向は通らずじまいでした。

漱石は正直に『よく解らない』といいながら、この事件の表に出た形と想いとはくいちがっていることを指摘している。」(塩原尾花峠・雪の彷徨事件 井手文子「平塚らいてうー近代と神秘―」新潮選書)
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む19

 山から帰って十日ほどあと、いちはやく母校の女子大から、除名の通知がもたらされました。寮監で桜楓会(同大同窓会)役員の出野柳さんが、その使者役となって彼女の家にみえました。彼女は「自分としては、母校の名を傷つけるようなことをしたとは思いませんが、桜楓会でそういうふうになさりたいのなら、むろんわたくしはそれをお受けします」とあっさり答えました。

 こうして世間がかってな見方で騒ぎ立てることはうるさく、不快なことには相違ありませんが、いちばん失礼だとおもったのは当時の新聞記者の、面会を強要するひどい態度です。

わかってもらえそうな程度のことを少しばかり話すと、それが違った意味のものに作りあげられているのには驚きました。

 こんなことから、父は彼女を当分の間、家に置きたくないといいはじめ、彼女は鎌倉の円覚寺や母とともに茅ケ崎の貸別荘で過ごしたりしました。今度の事件の渦中に木村さんも巻き込まれた形となり、母校の女子大から妙な眼で睨(にら)まれるようになったので、女学校の家事の先生になって急きょ関西へ赴任してしまいました。

 1908(明治41)年9月初め、かつてお茶の水高女で「海賊組」の一人であり、女高師を出て松本の高等女学校に赴任した小林郁さんを訪ねて、彼女はひとりで、信州の旅に向かいました。

 一時小林さんから紹介された松本市内の繭問屋の蔵座敷に滞在しましたが、1週間ほどで松本から数里東南方の東筑摩郡中山村字和泉の養鯉所に落ち着くことになりました。彼女はここで散策と坐禅と読書に明け暮れる毎日を過ごしたのです。

Goro―登山と散策 

 森田先生からは、この山のなかへも時おり手紙がきました。先生は謹慎していた夏目先生の自宅から、近くの、牛込横寺町にあるお寺に下宿し、そこで小説「煤煙」(岩波文庫)を書きはじめていました。彼女はそれが作品として立派なものであってほしいと願っていました。

 やがて朝夕眺めていた日本アルプスの連峰は雪をかぶり、彼女の部屋にも炬燵が入って、信州滞在も終りを告げねばならない季節となりました。  こんなとき、森田先生から、例の小説がだいたい書けた。朝日新聞に、夏目先生の紹介で、来春元旦から発表されることになったと知らせてきました。
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む20

 中山村の養鯉池から引き上げたのは、十二月のなかばに入ってからでした。信州から帰京後、彼女は神田美土代町の日本禅学堂において、坐禅修行をはじめました。日本禅学堂はお寺ではなく、中原南天棒全忠老師(鎌倉禅の批判者)門下の駿足といわれた岡田自適(外科開業医)が私財を投じて独力で開いたものでした。

 森田先生の創作「煤煙」は、予告通り1909(明治42)年元旦から「東京朝日」に連載されました。新聞は毎朝配達されてきますから、父や母の眼に触れないはずはなく、読んでいるかも知れないのです。彼女も部屋に持ち込んで、ひそかに読んでいました。

 もともと「死の勝利」を下敷にしたともいえるこの小説が、自分の実感によるものでないのは仕方がないとしても、あれほど自分の趣味や嗜好で、また自分よがりの勝手な解釈で作り上げないでもよさそうなものだと思われるのでした。しかしほんとうに「一生懸命」に書いた苦心の作であることだけは、はっきりと感じられます。

 1909((明治42)年十二月下旬彼女は西宮市海清寺禅堂において臘八接心(釈迦が成道した12月8日にちなんで12月1日から8日まで徹夜で行われる接心)に参加、南天棒老師より「全明」の安名を受けました。

 一方新たな意気込みで英語の勉強にとりくみ、同年4月から神田の正則英語学校に通い、ここで斉藤秀三郎先生の英文法を聴きましたが、まるで講釈師がするように、折々扇子で机をたたいて講義されるのには驚きました。馬場孤蝶先生や生田先生宅へも時折伺っておりましたが、社会や政治の問題を、自分自身の問題として考えることもなければ、当時(明治43)年、世上やかましくさわがれた幸徳事件(「日本の労働運動」を読む47~48参照)についても、生田先生のところで話題に出るほか、とくに関心はもちませんでした。

 塩原事件以来、海禅寺へふたたび出入りするようになったのは、1910(明治43)年の夏のことでした(「元始、女性は太陽であった」を読む16参照)。

 その年の暑中休暇に東京へ帰ってきた木村さん(「元始、女性は太陽であった」を読む15・19参照)が海禅寺にゆくと、秀岳和尚が彼女にひどく会いたがっているということで、木村さんに連れられるような格好で、再び出入りするようになったのでした。それがきっかけで、その後、木村さんが関西へ帰ってからもひとりでたまには海禅寺を訪ねたりするようになりました。

 遊びの味を覚えた和尚は、お酒が入ると馴染みの若い芸者の話などを得意そうにきかせるので、彼女がその待合を見たいといったことから、その日和尚の行きつけの待合に出掛けることになりました。

 ここでついに彼女は和尚と結ばれることになりました。しかし未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。それにしても、塩原事件というものがなかったなら、和尚とそんな関係になることは考えられないことでした。彼女にも性に対する好奇心が、無意識のうちに育っていたことは確かなことのように思われます。

 和尚は、それ以後の彼女に対する態度も控え目で、積極的に自分から待合へなど誘うようなことはありませんでした。