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江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)11~20

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)11

 

 1915(大正4)年1月加藤高明外相の訓令にもとづき、日置益駐華公使中華民国大総統袁世凱に5号21ヵ条要求を提出、秘密交渉とするよう求めました。5月4日閣議は21ヵ条要求から第5号を削除、5月7日日置公使最後通牒(自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ、自由行動をとるべき旨を述べた外交文書、通常一定期限を付ける)を中国政府に交付、同年5月7日中国政府は日本の要求を承認、同月25日21ヵ条要求に基づく日中条約並びに交換公文に調印しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17参照)。

 これに対して吉野作造は列強と並んだ日本の中国分割参加を積極的に支持していましたが(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 9参照)、湛山は露骨なる領土侵略政策の敢行は帝国百年の禍根をのこすものと批判して次のように述べています。

 「(前略)そもそも我が対支要求の内容はこれであると、未だ当局からの明示には接せぬが、内外の新聞に各様に報ぜられたものによって、ほぼ想像は出来る。(中略)欧洲列強が自分の火事に全力を傾け、他を顧みるの遑(いとま)なきに乗じて、(中略)南満および福建に、我が立場を確立する要求を支那に持ち出したのである。(中略)

 しかしながら、いかに支那が積弊の余の衰弱国であるとしても、(中略)かような大胆な希望が、(中略)果して無事に、安々と、実現し得られるものであろうか。(中略)吾輩はこの点において大疑問がある。(中略)

 支那の独立や、支那人の希望の如き、毫(ごう)も眼中に置くの要なし、これを破却し、蹂躙(じゅうりん ふみにじる)して可なりというのであろうか。(中略)

 もしも、支那が(中略)わが要求の大部分を容れたらば、吾輩は意外なる局面を惹起(じゃっき)して来はせぬかを恐れる。(中略)これらの諸国(欧米列強)は日英同盟破毀を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、(中略)それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。(中略)

 その直接の責任は(中略)大隈首相と加藤外相の失策にあるといわねばならぬ。」(「禍根をのこす外交政策東洋経済新報 大正4.5.5号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)12

 

 1916(大正5)年、雑誌「中央公論」1月号に吉野作造は論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」を発表、いわゆる民本主義の主張を展開しました(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10参照)。

 吉野によれば、民主主義とは「国家の主権は法理上人民に在るべし」という意味で、民本主義とは「国家の主権の活動の基本目標は政治上人民に在るべし」という意味に用いられる。

 かかる意味で唱えられる民主主義は我が国で容れることのできない危険思想であるが、民本主義の精神は、明治初年以来我が国の国是であったとし、我が国における国民主権論を否認したのです(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造16参照)。

 これに対して湛山は、吉野が民本主義論を展開したとほぼ同時期に、山川均に代表されるような社会主義者とは異なった観点からの国民主権論を次のように論述しています。「(前略)代議政治を以て、君主もしくは貴族から、民衆が主権を奪うたものと言うけれども、私の見解を以てすれば、そうではない。元来主権は国民全体にあったのである。それをただ円滑に働かしむるものが代議政治である。(後略)」(「代議政治の論理」東洋経済新報 大正4.7.25号 時論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 このような国民主権の立場から、湛山は帝国議会常設の必要を説いて、次のように主張するのです。「(前略)吾輩は、我が帝国議会の会期を三ヵ月とせる現在の規定を改めて十二ヶ月とし(即ち一年中常設)、ただ議事なき場合には議会自ら休会することに致したい。

(中略)もっとも帝国議会の会期をかく改むるには、憲法の改正を要する。即ちその第四十二条に「帝国議会ハ三箇月ヲ以テ会期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ」とあるを、「帝国議会ハ十二箇月を以テ会期トス」とせねばならぬ。(中略)

憲法の改正は勅命による必要あり、(中略)あるいは断行に躊躇する向きもあろう。(中略)国民の希望にして、而して善事なれば、勿論勅命も賜ること疑いない。」(「帝国議会を年中常設とすべし」東洋経済新報 大正5.8.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)13

 

 1917(大正6)年ロシア革命が起こり、同年11月レーニンの指導するボルシェヴィイキ政権が樹立されました。これに対してアメリカならびに日本など連合国は1918(大正7)年チェコ軍救出を名目にシベリア出兵を敢行するに至りました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。

 これに対して湛山はシベリア出兵に反対して次のように主張しています。「(前略)露国の問題に関し、何よりもまず我が国民の注意を乞いたいは、やはり同国の革命の性質である。幾十百年の間、他国民のほとんど想像だも出来ぬ激しさを以て圧伏せられて来た農民労働者が、一時にその圧迫を蹴破って起ったのが、今回の露国の革命である。不幸にして露国の農民労働者には教育が足りない。民衆政治の訓練が足りない。(中略)彼らは(中略)勝手次第に地主の土地財産を強奪分配せるが如き、その一例である。(中略)

 これさえ改まれば、即ちそこに統一は生じ、そこに混乱は終熄(しゅうそく)する。しかしながら、そは果して外国の圧迫で、能く行い得る処であろうか。(中略)今の露国で反革命党を援け、あるいは革命党を圧迫するのは、あたかも明治維新の際、幕府を援け、討幕党を圧迫するのと異ならない。(中略)ただ彼らの首領たる識者の努力に待つより他に途はない。

 故に吾輩はいう。過激派を承認しろ過激派を援けろと。(中略)ここに疑うべからざる一の事実は、(中略)露国の主権は、過激派政府が握っておることである。(中略)無名の兵を露国に出だし、露国民の憤激を買うが如きは絶対にすべからざる事である。もしそれ過激派政府が、恣(ほしいまま)に戦争を熄(や)めたという非難にに対しては、吾輩は、戦争を熄めたは一過激派政府の所為にあらずして、実に露国の実情がこれを熄めざるを得ざらしめたものと見る。(後略)」(「過激派政府を承認せよ」大正7.7.25号 東洋経済新報 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)14

 

 1918(大正7)年夏、シベリア出兵とほぼ同時に起こった米騒動(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)について、湛山は次のように述べています。

 「(前略)政府ならびにいわゆる官僚政治家の多くは、米騒動を以て単純に米価の騰貴に帰し、米価さえ引き下げれば、それで万事解決、(中略)今後再び騒擾を起し得ぬように、騒擾犯者を厳罰に処して今後を懲(こ)らすべしなどというものさえある。(中略)

 もし今日の我が思想界に危険なものがありとすれば、これに優るものはない。(中略)

 しからば米価は何が故にかくの如く暴騰をしたのか。(中略)米価の狂騰は即ち全く政府の愚劣なる輸出奨励の作出した思惑の結果と見るほかに説明のしようがないのではないか。

(中略)その結果は大多数の無産者の犠牲を以て、少数有産者に利益を与うることになる。

(中略)今回の事件は(中略)有産対無産の階級戦の大烽火を挙げたるの観さえある。されば吾輩は(中略)単に米騒擾に過ぎずなどと軽視し、もしも多数を騒擾罪に問うて懲罰に付する如きあらば、かえって由々しき結果を惹起するに至るべきを深く恐るるものである。」

(「騒擾の政治的意義」東洋経済新報 大正7.9.5号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 1918(大正7)年1月、米大統領ウイルソンが掲げた14カ条の提案(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)における民族自決主義の呼びかけは大きな感動をよびました。パリ講和会議が開催された1919(大正8)年、3月に起こった朝鮮の独立を要求する三・一運動(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造26~27参照)について湛山は次のように論述しています。

 『(前略)在鮮邦人について、這次(しゃじ)暴動(三・一運動)に関する所感を叩け。(中略)彼らはいう、「(前略)群衆が団を成して喧騒はしたが、暴力を訴うる元気も憤激も看取し得なんだ。あれで何が出来るものか」と。(中略)彼らはまた眉を顰(ひそ)めて、鮮人のために日本婦人の辱めらるるもの続出するので、婦人の夜出を戒め居る旨を語りながら、これを単に鮮人の悪習に帰して居る。(中略)

 およそいかなる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来ほとんどない。(中略)衷心から日本の属国たるを喜ぶ鮮人はおそらく一人もなかろう。故に鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するは勿論、(中略)その反抗はいよいよ強烈を加うるに相違ない。(中略)

  もし鮮人のこの反抗を緩和し、無用の犠牲を回避する道ありとせば、畢竟(ひっきょう)鮮人を自治の民族たらしむるほかにない。しかるに(中略)鮮人の暴動を見て、鮮人元気なし、腰抜けなり、というて、鮮人の暴動を軽侮し、はた鮮人の日本婦人凌辱を、(中略)単なる悪習と見去る如きは、何という無反省のことだろう。(中略)はたまた鮮人の生活を奪い居ることに気が注(つ)かぬのか。かくの如き理解の下には、断じて何らの善後策もあり得る訳がない。』(「鮮人暴動に対する理解」東洋経済新報 大正8.5.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 同年東洋経済新報社に入社した高橋亀吉は、記事を書いても湛山から文章が下手だと酷評され、屑かごに棄てられる有様でした。しかし同社の編集会議では編集記者たちが取材したテーマを自由に討論する気風に富み、湛山が編集長となってから、その気風は一段と活発になり、高橋はここで実力を養うことができたのです(鳥羽欽一郎「生涯現役―エコノミスト高橋亀吉東洋経済新報社)。

東洋経済新報社 創立115周年記念サイトー湛山・亀吉のプロフィールー石橋湛山 高橋亀吉

 米騒動をきっかけに、同年再び普選運動が盛り上がり(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)、普通選挙期成同盟会なるものが数寄屋(すきや)橋付近の小さなレストランの二階に設けられ、3月1日には、日比谷の音楽堂前広場で国民大会を開き、そこから直ちに示威行列を行って、銀座を通過し、二重橋前で万歳を三唱して散会しました。湛山は当時「東洋経済新報」の仕事が忙しくて、街頭運動に参加することは好まなかったのですが前々からの関係もあって引っ張り出されました。

 「しかし日本の普通選挙は、あまりにもおくれておこなわれた。(中略)せめて大正七、八年ごろ、諸政党が(中略)普選実行の決意をいだいたら、日本の民主主義はその時代にもっと固まり、したがって、昭和六年以後軍閥官僚が再びその勢力を盛り返すがごとき不幸を防ぎ得たかもしれない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)15

 

 1921(大正10)年米大統領ハーディングの提唱により軍備制限ならびに太平洋・極東問題を議題とするワシントン会議が開催され、我が国も参加しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)。

東洋経済新報社 創立 115周年記念サイトー東洋経済の歩みを動画で見る

 このワシントン会議について湛山は次のように述べています。「(前略)在朝在野の政治家に振り向きもせられなんだ軍備縮少会議が、ついに公然米国から提議せられた。おまけに、太平洋および極東問題もこの会議において討議せらるべしという。(中略)吾輩は欧州戦争中から、必ずこの事あるべきを繰り返して戒告し、政府に国民に、その政策を改むべきを勧めて来た。(中略)

 我が国の総ての禍根は、(中略)小欲に囚(とらわ)れていることだ、(中略)我が国民には、その大欲がない。朝鮮や、台湾、支那満州、またはシベリヤ樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。(中略)彼らには、まだ、何もかも棄てて掛れば、奪われる物はないということに気づかぬのだ。(中略)

 例えば満州を棄てる、山東を棄てる、其の他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、(中略)また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。

 英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば(中略)その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、其の他の列強属領地は、一斉に、(中略)我にも自由を許せと騒ぎ立つだろう。(中略)

 以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりする人があるかも知れぬ。(中略)しかしかくいうただけでは納得し得ぬ人々のために、吾輩は更に次号に、決して思い煩う必要なきことを、具体的に述ぶるであろう。」(「一切を棄つるの覚悟」太平洋会議に対する我が態度 東洋経済新報 大正10.7.23号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)16

 

 「(前略)吾輩の議論(前号に述べた如き)に反対する者は、、多分次の二点を挙げて来るだろうと思う。

 (一)我が国はこれらの場所を、しっかりと抑えて置かねば、経済的に、また国防的に自立することが出来ない。少なくも、そを脅(おびや)かさるる虞(おそ)れがある。

 (二)列強はいずれも海外に広大な殖民地を有しておる。しからざれば米国の如くその国自らが広大である。而して彼らはその広大にして天産豊なる土地に障壁を設けて、他国民の入るを許さない。この事実の前に立って、日本に独り、海外の領土または勢力範囲を棄てよというは不公平である。

 (中略)第一点より論ぜん。朝鮮・樺太・台湾ないし満州を抑えて置くこと、また支那シベリヤに干渉することは、果して我が国に利益であるか。(中略)まず経済上より見るに、けだしこれらの土地が我が国に幾許(いくばく)の経済的利益を与えておるかは、貿易の数字で調べるが、一番の早道である。今試みに大正九年(1920)の貿易(朝鮮及び台湾の分は各同地の総督府の調査、関東州の分は「本邦貿易月表」に依る。当ブログの筆者、本文掲載の統計数字を省略)を見るに、我が内地および樺太に対して、この三地(朝鮮・台湾・関東州)を合せて、昨年我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした。(中略)

 もし経済的自立ということをいうならば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国といわねばならない。(中略)

 しからばこれらの土地が、軍事的に我が国に必要なりという点はどうか。軍備については、(中略)(一)他国を侵略するか、あるいは(二)他国に侵略せらるる虞れがあるかの二つの場合のほかにはない。他国を侵略する意図もなし、また他国から侵略せらるる虞れもないならば、警察以上の兵力は、海陸ともに、絶対に用はない。(中略)

 しかしながら吾輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的でないとすれば、(中略)一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのかということである。(中略)我が国を侵略する虞れがあるとすれば、(中略)戦争勃発の危険の最も多いのは、むしろ支那またはシベリヤである。(中略)さればもし我が国にして支那またはシベリヤを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起らない(中略)。」(「大日本主義の幻想」一東洋経済新報 大正10.7.30号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)17

 

 「(前略)前号の吾輩の議論では、なおその証明足らずという人があるかも知れぬ。例えば内地との貿易額は、なるほど比較的僅少(きんしょう)であるかも知れぬが、(中略)それらの地方に内地人が移住して生活しておる者もある、それが多いならば、仮令(たとい)内地との貿易額は少なくとも、以てそれらの地方を経済的に価値なしとはいえぬであろうと。

(中略)最近の調査(大正七~八年 当ブログの筆者統計数字を省略)によるに、内地人にして台湾・朝鮮・樺太・関東州を含める全満州・露領アジア・支那本部に住せる者は総計八十万人には満たぬ。これに対して我が人口はは明治三十八(1905)年日露戦当時から大正7(1918)年末までに九百四十五万の増加だ。(中略)九百四十五万人に対する八十万人足らずでは、ようやく八分六厘弱に過ぎぬ。(中略)内地に住む者は六千万人だ。八十万人の者のために、六千万人の者の幸福を忘れないが肝要である。

 一体、海外へ単に人間を多数送り、(中略)人口問題を解決しようなどいうことは、間違いである。(中略)悪くいうなら、資本と技術と企業脳力とを持って行って、先方の労働を搾取(エキスプロイット)する。もし海外領土を有することに、大なる経済的利益があるとするなら、その利益の来る所以は、ただここにある。(中略)

 しかし世の中には、以上の議論を以てしても、なお吾輩の説に承服せぬ者があるであろう。(中略)それは仮りに彼らの盲信する如く、大日本主義が、我に有利の政策なりとするも、そは今後久しきにわたって、とうてい遂行し難き事情の下にあるものなること、これである。

(中略)思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族、または異国民を併合し支配するが如きことは、とうてい出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うるほかないことになるであろう。(中略)即ち大日本主義は、いかに利益があるにしても、永く維持し得ぬのである。

 (中略)また軍事的にいうならば、大日本主義を固執すればこそ、軍備を要するのであって、これを棄つれば軍備はいらない。(中略)吾輩は次に、前号所掲の論者の第二点に答うるであろう。」(「大日本主義の幻想」二 東洋経済新報 大正10.8.6号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)18

 

 「吾輩の主張に対する反対論の第二点は、列強が広大なる殖民地または領土を有するに、日本に独り狭小なる国土に跼蹐(きょくせき 身の置き処のない思い)せよというは不公平であるという論である。

(中略)吾輩が我が国に大日本主義を棄てよと勧むるは決して小日本の国土に跼蹐せよとの意味ではない。これに反して我が国民が、世界を我が国土として活躍するためには、即ち大日本主義を棄てねばならぬというのである。(中略)しかしながら世界には現前の事実として、大なる領土を国の内外に所有し、而して他国民のここに入るを許さぬ強国がある。されば日本もまた彼らと競争して行くがためには、どこかに領土を拡げねばならぬではないかという論の起るのも、一応もっともでないではない。

 これに対しては、吾輩は三つの点から答える。第一は前すでに説ける如く今になってはもはや我が国は(中略)四隣の諸民族諸国民を敵とするに過ぎず、実際において何ら利する処なしということこれである。第二は(中略)列強の過去において得たる海外領土なるものは、漸次独立すべき運命にある、(中略)第三は我が国は(中略)列強にその領土を解放させる策を取る(中略)例えば我が国が朝鮮・台湾に自治を許し、あるいは独立を許したりとせよ、英国は果してインドや、エジプトを今日のままに行けようか、米国はフィリピンを今日のままにして置けようか。(中略)道徳はただ口で説いただけでは駄目だ。(中略)他人に構わず、己れまず実行する、ここに初めて道徳の威力は現わるる。ヴェルサイユ会議において、我が大使が提案した人種平等待遇問題(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)の如き、わけもなく葬り去られた所以はここにある。我が国は、自ら実行していぬことを主張し、他にだけ実行を迫ったのである(鈴木文治「労働運動二十年」を読む18参照)。(中略)

 かくいわば、あるいはいうであろう。仮りに列強いずれも、その海外領土は解放するとするも、なお米国の如き自国の広大なる処がある。また解放せられたるそれぞれの国も、あるいは皆その国境を閉じて、他国の者を入れぬかもしれぬ。これらに対してはどうすると。

 これについては吾輩は次の如く答うる。(中略)それは移民についての話である。商人が、米国内で商業を営むに、何の妨げもない。(中略)一人の労働者を米国に送る代りに、その労働者が生産する生糸をまたはその他の品を米国に売る方が善い。(中略)

 あるいはいうかも知れぬ。自国の領土でなければ、そこで或る種の産業は営むことが出来ぬ。例えばいずれの国でも鉱業の如きは、外国人の経営するを許さない。あるいは仮りに経営し得たりとするも、少しくそれが盛んになれば、何のかのというて妨げられる。あたかも米国における日本人の農業の如き、それであると。これはいかにももっともの苦情である。

(中略)しかし吾輩の見る処によれば、(中略)なお外国人が、経済的に、そこに活動する範囲は相当に大きく開かれておる。(中略)仮令種々の制限はあるにしても、資本さえあるならば、これを外国の生産業に投じ、間接にそれを経営する道は、決して乏しくないのである。(中略)しからば則ち我が国は、いずれにしてもまずその資本を豊富にすることが急務である。(中略)而してその資本を豊富にするの道は、ただ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。(中略)

 以上の諸理由により吾輩は、我が国が大日本主義を棄つることは、何らの不利を我が国に醸さない。否(中略)かえって大なる利益を、我に与うるものなるを断言する。(中略)

 もし(中略)米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢(きょうまん おごりあなどる)であって、東洋の諸民族ないし世界の弱小国民を虐ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲(ようちょう こらしめる)すべし。(中略)今回の太平洋会議は、実に我が国が、この大政策を試むべき、第一の舞台である。」(「大日本主義の幻想」三 東洋経済新報 大正10.8.13号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)19

 

 1922(大正11)年2月1日元老山県有朋が死去しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む25参照)。

 湛山は彼の死去に際して、次のように述べています。「山県有朋公は、去る一日、八十五歳で、なくなられた。(中略)維新の元勲のかくて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。

(中略)急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。(中略)

 政友会は二日に陸軍縮小建議案を議会に提出した。(中略)憲政会の領袖さえ、天下取りの政党は、うかと陸軍縮小などは叫べないという世の中だ(加藤総裁はその後これを唱えたといえども)。(中略)陸軍閥が恐いからだ。(中略)その背後に絶大の政治権力を有する山公が控えていたからだ。しかるに憲政会よりも(中略)八方円満主義の政友会が事もあろうに陸軍縮小の建議をする。山公の死、少なくともその予感がなくては出来ない事だ。(後略)」(「死もまた社会奉仕」 東洋経済新報 大正11.2.11号 小評論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

落合道人「わたしの落合町誌」―カテゴリ-気になるエトセトラー2007.08.31石橋湛山は「主婦之友」の愛読者だった

 また1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造28参照)における朝鮮人虐殺について、湛山は次のように論述しています。「(前略)鮮人というから(中略)個々の不良の徒が混乱に際して、若干の犯罪をした。それも官憲の発表によれば、ほとんど皆風説に等しく、(中略)かくてはその犯罪者が、果して鮮人であったか内地人であったかも、わからぬわけである。(中略)日本は万斛(ばんこく 非常に多量)の血と涙とを以て、過般(かはん さきごろ)の罪をつぐなわなければならぬ。」(「精神の復興とは」 東洋経済新報 大正12.10.27号 小評論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 しかし上述のような、現在の日本国憲法の理念を先取りしたとも言える東洋経済新報における湛山の主張は当時の日本では少数派にとどまり、国民の間に広く浸透することはありませんでした。

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)20(最終回)

 片山 潜に対する日本政府の圧迫は、同氏がソ連に入国後も継続しました。それは日本に残した同氏の夫人(声楽家原信子の姉の娘 たま 1903片山の先妻フデ死去後 再婚 片山潜「自伝」年譜 岩波書店)に対してです。地方で女学校の教師をしていた夫人は、突然東洋経済新報社に湛山を尋ねて来て、学校に就職しても片山潜の妻とわかると首にされ困っている、片山とは文通もないので、法律上離婚する方法はあるまいかということでした。

 幸いに片山氏の戸籍は神田区にあり、湛山は片山氏と親しかった区長を区役所に尋ね相談、区長に、片山氏から離婚に異議がないという意思表示を手紙ででもしてもらえないか、といわれたので、ロンドンの友人を通じて、湛山は片山氏にその事情を申し送りました。片山氏の返事の中にペン書きで「離婚を承諾す。片山 潜」と記述した紙片が同封されていたので、湛山は同紙片を区長に見せ、手続きは一切区長がやってくれました。それは大正12(1923)年4月でした。

 「(前略)世の中には、片山氏がいたために、東洋経済新報は社会主義化したといった人があったと聞いたが、もしほんとうにそんな評判があったとすれば、それは全然事実に反する想像であった。(中略)

 私は、こうして、しばしば片山氏と手紙のやり取りをしたが、しかしその後『東洋経済新報』も過激な議論を書くというので、官憲から目をつけられているらしいので、万一家宅捜索でも受けては、やっかいだと思い、片山氏からの手紙は一切焼いてしまった。しかし近ごろ、古手紙類を調べて見たら、右の離婚を承諾すという紙片と、二、三枚の葉書が残っているのを発見した。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫