江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)1~10

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 1

 江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―(河出書房新社)は1999(平成11)年に出版された石橋湛山の伝記小説です。わたしは石橋湛山の生涯を(A)生誕から大正末年まで、(B)大正末年から1945(昭和20)年の日本敗戦まで、(C)戦後から1973(昭和48)年死去までの3期に区分してたどることにしたいと思います。

 石橋湛山は1884(明治17)年9月25日東京で杉田湛誓(日蓮宗僧侶)を父として生まれました。湛山の父は当時東京市麻布区芝二本榎(東京都港区二本榎)にあった東京大教院(立正大学の前身 日蓮宗最高学府)助教補(助手)として勤務しておりました。母きんは昔江戸城内の畳表一式を請け負っていた石橋藤左衛門の次女であり、石橋家は承教寺(日蓮宗)の有力檀家で同寺内にあった東京大教院に在学中の湛誓とも親しい間柄でした。

気ままに江戸―カテゴリー―大江戸散歩―2013.02.09 承教寺(高輪散歩6)

 湛山は湛誓の長子で幼名を省三(せいぞう)といい、〝私は事情があって、この母方の姓を名乗って、石橋というのである。(中略)私も生まれた時から湛山と命名されたのではなく、外に省三という幼名があって、セイゾウと呼ばれていた。(中略)「吾れ日に三たび吾が身を省みる」という『論語』の有名な言から出ている(中略)。私の名も中学を卒業するころ湛山と改めたのである。“(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)と述べています。

石橋姓を名乗ったのは当時の日蓮宗における慣習として、表向き妻帯は許されていなかったからといわれています(熊王徳平「田舎文士の生活と意見」未来社)。

 湛山が生まれた翌年父が郷里の山梨県増穂村の昌福寺住職となったので、彼は母とともに甲府市稲門に転居、大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年4月稲門小学校に入学、同小学校3年のとき初めて父と同居することとなり、増穂村の小学校に転校しました。

 父は厳格な人で湛山が小学校4年のころ、学校から帰ると父に呼ばれて漢文の本を教えられたが、それがなかなか覚えられず泣きそうになったこともありました。

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 2

 1894(明治27)年日清戦争がはじまり、黄海海戦が起こった9月、父が静岡の本覚寺住職となったとき、湛山は山梨県中巨摩郡中条村の長遠寺住職望月日謙に預けられ、翌年春甲府市山梨県立尋常中学校(後の甲府中学)に入学しました。その後中学を卒業するまでほとんど父母との交渉はありませんでした。

 中学にははじめ寄宿舎、のちには甲府市において家庭生活を営んだ日謙宅から通ったのですが、一時鏡中条村から二里半の道を歩いて通学したこともありました。その往復の間に買い食いに月謝を使い込むこともあり、勉強もせず二度落第するという悪童ぶりを発揮したのです。

 しかし日謙はすこしもこごとをいわず、使い込んだ月謝も、学校から連絡があると、黙って払い込んでくれました。これが少年を育てる日謙のこつであったようで、湛山は恐縮し反省したそうです。

 「私は、もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいは、その余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。父にも、またそんな懸念があって、早く私を望月師に託し、いわゆる子を易(か)えて教ゆ(「孟子」)の方法を取ったのかもしれぬ。いずれにしても私が、望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。

 湛山が2度落第したお陰で出会った中学校長が大島正健でした。彼は札幌農学校北海道大学の前身)第1期卒業生の一人として、アメリカから招聘されたウイリアム・クラーク博士の直接指導を受けた人物で、熱心なキリスト教徒でもありました。

北海道開拓スピリットと甲府中学校長大島正健―カテゴリーフォルダー大島正健略伝

「私はこの大島校長から、しばしばクラーク博士の話を聞いた。そして私の一生を支配する影響を受けたのである。(中略)博士が一切の、やかましい学則を設けず、ただビー・ゼントルマンの二語ををもって学生に臨み、また北海道を去るにあたり、送ってきた一同の学生に向かい、馬上から、ボーイズ・ビー・アンビシャスの三語を残したことは有名な話である。(中略)私は幸いに大島校長に会うことにより、クラーク博士の話を聞き、なるほど真の教師とは、かくあるものかと感動した。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 3

 1902(明治35)年3月湛山は中学校を7年かけて卒業、同年7月第一高等学校東京大学教養学部の前身)を受験しましたが不合格、翌年再び同校の受験に失敗、早稲田大学高等予科の編入試験に合格、9月入学しました。

 日露戦争がはじまった1904(明治37)年9月湛山は予科を修了、大学部文学科の哲学科に進級しました。当時の校長(後の総長)は鳩山和夫、文学科講師(教員)には高田早苗安部磯雄・内ヶ崎作三郎・坪内雄蔵(逍遥)・島村滝太郎(抱月)・波多野精一・田中喜一(王堂)などが顔を揃えていました。

 このような早稲田大学文学科の講師たちのなかで、湛山は当時の日本に支配的だったカントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論に興味を示さず、アメリカのシカゴ大学に学び、デユーイのプラグマティズムを日本に紹介した田中王堂に強い影響を受けました。

独学ノートー単語検索―プラグマティズム   

 「われわれが早稲田大学で初めて王堂氏の講義を聞くことになったのは、明治三十八年、私が大学部二年の時であったが、(中略)白晢(はくせき)温顔(白い柔和な顔)にして、長い髪と短い三角の顎鬚(あごひげ)とをたくわえ、それに赤ネクタイを結んだ氏は、一見していかにも哲学者らしい風彩を具えていた。(中略)しかしその説くところは、われわれには、つかまえがたく、わからない。(中略)氏の哲学が、簡単にいえば作用主義に立脚し、従来われわれが無批判に受入れた形而上学(けいじじょうがく 現象の背後にある本質を探究しようとする学問)的哲学と鋭く異なっていたからであった。(中略)私は(中略)卒業後もとくに田中氏に親近し、(中略)もし今日の私の物の考え方に、なにがしかの特徴があるとすれば、主としてそれは王堂哲学の賜物であるといって過言ではない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

早稲田大学―検索―History早稲田の歴史

 1907(明治40)年7月湛山は同大学部文学科の哲学科を首席で卒業、彼は特待生として宗教研究科に進級し、月に二十円を給与されました。しかし将来の大学教師の望みもなく、当時私立大文学科出身のものの職業としてもっともよかったのは地方の中等学校の教諭でしたが、ここでは高等師範と帝大が堅く学閥を作っていました。ただ新聞界と文芸界とは腕次第の社会で、学閥はなかったのです。
 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 4

 1908(明治41)年12月湛山は島村抱月(江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)3参照)の紹介により、東京毎日新聞社(1870横浜毎日新聞として創刊 1906此の名称となる 現在の「毎日新聞」とは無関係)に入社しました。

MY HOME TOWN(島根県浜田市)-島村抱月 

東京紅團―テーマ別散歩情報―東京情報―松井須磨子と牛込早稲田界隈

 東京毎日新聞は1908(明治41)年ころ島田三郎(木下尚江「田中正造の生涯」を読む13参照)の所有となり、島田は同社の経営を大隈重信に譲与しました。大隈は田中穂積(後に早稲田大学総長)を副社長兼主筆とし、事実上の経営者としました。島村抱月は田中穂積と親しく、湛山を同社に推薦してくれたのです。

 しかし大隈が率いる憲政本党(児島襄「大山巌」を読む47参照)は立憲政友会(児島襄「大山巌」を読む48参照)に押されて党勢不振となり、犬養毅(寺林 峻「凛冽の宰相加藤高明」を読む13参照)と他の幹部との争いが激化、ついに分裂状態に到ったのですが、大隈の影響をうけた東京毎日新聞社も二派に割れて抗争が起こり、田中穂積が退社声明を出すと幹部社員もこれに同調、1909(明治42)年夏湛山も徴兵検査に合格して入営が近くなっていたこともあり退社しました。

 同年12月1日湛山は麻布竜土町の歩兵第三連隊に入営、当時新兵虐待のうわさがあり、覚悟していましたが、彼は社会主義者と思われたらしく、監視のため好遇を受けたようです。

1910(明治43)年11月末湛山は軍曹に昇進して除隊となりました。

 田中穂積の紹介で1911(明治44)年1月湛山は東洋経済新報社(当時牛込天神町六番地所在)に入社しました。

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 5

 東洋経済新報社日清戦争終結後の1895(明治28)年11月、大隈系の郵便報知新聞記者退職後イギリス留学を終えて帰朝した町田忠治が創設、経済専門誌「東洋経済新報」(「復刻版」 東洋経済新報社)を創刊しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー町田忠治 

 やがて町田は日本銀行に入り、大隈重信の推薦で1897(明治30)年3月天野為之(東京専門学校、後の早稲田大学教授、John S.Millの研究で知られる)が後継者として同社を引き継ぎました。

歴史が眠る多摩霊園―著名人ー頭文字―あー天野為之

 湛山が同社に入社したとき、天野はすでに退任、天野門下の植松考昭(ひろあき)が3代目の主幹[1907(明治40)年]となっていました。植松考昭は旧彦根藩士の家に生まれ、1896(明治29)年東京専門学校を卒業、1898(明治31)年東洋経済新報社に入社しました。彼は片山潜の在米時代の友人杉田金之助(「日本の労働運動」を読む15参照)の縁者が植松考昭の在学中の同級生であったことから片山潜片山潜「日本の労働運動」を読む8参照)と知り合いになったそうです(片山潜「自伝」岩波書店)。

 植松は山県有朋伊藤博文元老が背後で操縦する桂園時代(片山潜「日本の労働運動」を読む36参照)政治を打破するために「東洋経済新報」論説「議院改革」(1907.3.5-4.15)ではじめて普通選挙を要求、以後、社説「普通選挙を主張す」(1908.7.5-9.15)を連載、繰り返して普選実現を主張し、労働者階級の覚醒に期待を寄せたのです(松尾尊兊「大正デモクラシー岩波書店)。植松が官憲のきびしい監視下におかれ、社会主義者の同志からも孤立しがちであった片山潜を1909(明治42)年東洋経済新報社員として迎え入れたのも、上述のような状況を背景としていたことから理解することができます。

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 6

 主幹の植松を補佐したのが副主幹格の三浦銕(てつ)太郎(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」同時代ライブラリー35 岩波書店)という人物です。彼は植松と東京専門学校の同期生で、植松に1年遅れて東洋経済新報社に入社しました。

Weblio辞書―検索―三浦銕太郎

 明治40年代の日本では文学界において自然主義が流行、思想界・政治界においても個人主義自由主義の思潮が勃興していました。もともと個人主義者・自由主義者で、普通選挙を主張していた植松・三浦は、上記のような風潮の下で、経済専門誌「東洋経済新報」だけの発行に満足できず、1910(明治43)年5月三浦主宰で社会評論を主とする「東洋時論」(東洋経済新報社編「東洋時論」復刻版 竜渓書舎)を創刊しました。

 しかし「東洋時論」は創刊号から発売禁止となり、その後もさらに1回同様の処分をうけたのです。

 湛山を東洋経済新報社に紹介した田中穂積は三浦銕太郎と同じ東京専門学校の同窓生で、田中は湛山に友人から近頃始めた社会評論雑誌の編集者の世話を頼まれているので行かないかと声をかけ、湛山は三浦の面接を受け、その際論文「福沢諭吉論」を提出、同論文が三浦の評価を得、上述の通り1911(明治44)年1月湛山は同社員として月給18円で入社したのでした。このときすでに片山潜が同社員として勤務していたことはすでに記述した通りです(片山潜「日本の労働運動」を読む50参照)。

 「東洋時論」の社説は主として植松・三浦、後には湛山も社説およびその他の評論を執筆しました。同誌において「国家も、宗教も、哲学も、文芸も、其の他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬ」(「国家と宗教および文芸」東洋時論 明治45年5月号 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫)と述べているように、湛山は明確な個人主義の立場を表明しました。またこのような考え方は『湛山が、宗教を道徳や政治などと同様、人間の「生活機関」(生活の方法)の一部分であり、したがってそれらが「生活に不便」を与えるものとなれば、新しい方法を現実の中から探し出せばよいとのプラグマティックな根拠に立ったことは、明らかに王堂哲学を継承している。』(増田 弘「石橋湛山リベラリストの真髄―」中公新書)と指摘される理由となっています。

所沢市立所沢図書館―コラム「所沢の足跡」―所沢ゆかりの人物編―郷土の哲学者田中王堂

 

 江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 7

 1911(明治44)年3月11日衆議院は松本君平ら提出の普通選挙法案を可決しましたが、同年3月15日貴族院で同法案は否決されました(片山潜「日本の労働運動」を読む49参照)。

 そのころ湛山は「東洋時論」の記者として当時東京市長であった尾崎行雄(児島襄「大山巌」を読む47参照)を訪問、普選について意見をただしました。尾崎から普選促進論を期待していた彼は意外にも普選反対論を聞かされたのです。その主張の要点を述べると、英国の如く、国民に訓練があり、秩序を重んずるところでは、普選も害はないだろうが、日本の一般大衆に権利だけを与えると、社会の秩序が保てない危険があるというのでした。

 湛山は後に尾崎の意見も誤りであるとはいえないと思うようになったが、当時ジェー・エス・ミルなどの説を金科玉条としていた湛山にとって尾崎の普選反対論は承諾できませんでした。なぜなら選挙権を大衆に与えることは彼等を政治的に教育し訓練する手段であるからで、これを恐れていたら、社会の進歩は望み得ないと考えていたからです(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫・「犬養・尾崎両氏に与う」大正2.3.5「東洋経済新報」社説)。

 1912(明治45・大正1)年7月30日明治天皇死去(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む12参照)に際して湛山は次のように主張しました。「多くの人は明治時代の最大特色を以ってその帝国主義的発展であるというかも知れない。(中略)しかし僕は明治時代をこう見たくない。而してその最大事業は政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックな改革を行ったことにあると考えたい。(中略)東京市長の椅子を占めた阪谷芳郎男は、その就任第一の事業として、日枝神社へ御参りをした。それから第二の事業として明治神宮の建設に奔走しておる。(中略)しかしながら阪谷男よ。(中略)卿らの考えは何でそのように小さいのであるか。(中略)真に、先帝とその時代とを記念せんと欲せば、吾人はまず何をおいても、先帝陛下の打ち立てられた事業を完成することを考えなければならぬはずである。(中略)しかるにこれらのものは棄て置いて、一木造石造の神社建設に夢中になって運動しまわる。(中略)それでもなお何か纏った一つの形を具えた或る物を残して、先帝陛下を記念したいというならば、(中略)「明治賞金」を作れと奨めたい。」(「愚なるかな神宮建設の議」東洋時論 大正元年9月号 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー阪谷芳郎

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 8

 1912(明治45・大正1)年9月東洋経済新報社主幹植松考昭が病死すると、同社第4代主幹に就任した三浦銕太郎は売れ行き不振の「東洋時論」廃刊(1912.10月)を決意、湛山も同意して、彼は「東洋経済新報」の記者として再出発しました。

 1912~13年にかけて三浦は帝国主義批判を主題とする論文を発表していますが、中でも「満州放棄乎軍備拡張乎」(「東洋経済新報」大正2.1.5号~同年3.15号 論説)「大日本主義小日本主義乎」(「東洋経済新報」大正2.4.15号~同年6.15号 論説)(三浦銕太郎論説集「大日本主義小日本主義か」松尾尊兊編集・解説 東洋経済新報社)において帝国主義すなわち「大日本主義」の害毒を指摘、「小日本主義」の具体策として満州放棄を主張しました。

 また三浦は植松死後も片山潜を引き続き援護、、彼の入獄中(片山 潜「日本の労働運動」を読む50参照)月給(50円を30円に減額)を支給、1914(大正3)年片山の渡米に際しては、あらゆる便宜を与えてくれました(片山 潜「わが回想」下 徳間書店)。

 すでに同社に入社してから哲学専攻であった湛山は植松主幹のすすめで天野為之の「経済学綱要」を読んで経済学の勉強をはじめていました。

 1912(明治45・大正1)年11月三浦銕太郎は貞夫人の教え子岩井うめ(梅子)を湛山の配偶者として紹介、仲人をして結婚させています(石橋梅子「思い出の記」長幸男編「石橋湛山 人と思想」東洋経済新報社)。湛山の結婚後も湛山夫人が病気になると、貞夫人が子供の面倒を見たり、避暑に湛山一家を一緒に連れていったりしたほど両家は家族ぐるみの親密な間柄でした(年譜「石橋湛山全集」第15巻 東洋経済新報社)。

 湛山は結婚後もひきつづき経済学の勉強に励み、本所錦糸堀近所の二階借りの自宅から牛込天神町の新報社まで通勤する電車の中でセリグマン「経済学原論」やそれと前後して田中王堂推奨のトインビー「十八世紀産業革命史」などを原書で読んでいます。

 同年12月5日第2次西園寺公望内閣が2個師団増設問題で総辞職(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)、憲政擁護運動が高まり、同月13日東京の新聞雑誌記者・弁護士などが憲政作新会を組織して師団増設に反対を表明したとき、湛山は経済学研究や執筆活動だけでなく、この運動に若干の援助をしていますが、中野正剛も学校卒業早々で、この運動に参加してきた一人でした(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。

歴史が眠る多摩霊園―著名人索引―頭文字―なー中野正剛

 

 江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 9

 米国における日本人移民によって労働市場が圧迫されるとする排日の気運は日露戦争終了後の1905(明治38)年後半から顕著となり、1913(大正2)年5月カリフォルニア州で日本移民の土地所有を禁止する法律が制定されて、同地で農業方面に進出していた日本移民に大打撃を与え(鈴木文治「労働運動二十年」を読む11参照)、日米開戦論まで唱えられるほどで、日本の新聞・雑誌などは一斉に対米批判を展開しました。植松主幹時代の「東洋経済新報」も同じく対米批判を行った新聞・雑誌の一つだったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー石橋湛山

 湛山はこれに反して、次のように対米移民の不要を主張しました。 「(前略)しからば則ちその根本的解決法は如何。(中略)けだし世往々にして武力の万能を信ずる者あり。(中略)しかれども思え、(中略)戦争は決して人種問題に根本的解決を与うるものにあらざるなり。(中略)

 思うに今我が国民は一つの謬想(びゅうそう 誤った考え)に陥れり。人口過剰の憂ということこれなり。(中略)しかれども吾輩は思う、我が人口は果してしかく過剰なるや。(中略)人ややもすればすなわち食料の不足をいい、(中略)即ち直ちに人口の過剰を意味する如く考うといえども、(中略)工業盛んに起り、貨物の外国に出すこと多きを得ば、(中略)あに六千万、七千万の人口に過剰を苦しまん。(中略)アメリカの富源は移民にあらずんば利用せられざるものにあらず。我は決して強いて彼に移民を送るの要なきなり。(後略)」(「我に移民の要なし」東洋経済新報 大正2.5.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)10   

 

 1914(大正3)年7月第1次世界大戦が勃発すると、大隈重信内閣の外相加藤高明日英同盟の情誼と、この機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、日本の国際的地位の向上をはかる利益から参戦断行を主張、同年8月15日独逸に膠州湾租借地(「大山巌」を読む44参照)交付を要求、同月23日独逸に宣戦布告、11月7日青島(山東省)を占領しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)。

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 日本の新聞・雑誌のほとんどが政府の方針を支持した中にあって、湛山は参戦はもとより、青島占領及び領有に反対して次のように述べています。

 「アジア大陸に領土を拡張すべからず。満州も宜しく早きに迨(およ)んでこれを放棄すべし、とはこれ吾輩の宿論なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。

 (中略)ドイツの青島租借、山東経営を以て、(中略)仮りに、我が政府当局および世人の多数の考うる如く、東洋の平和に害ありとせん。しかれどもドイツを支那大陸の一角より駆逐して、日本が代ってその一角に盤踞(ばんきょ 広大な土地を領有し、勢力を張る)すれば、それが、何故に東洋の平和を増進することとなり得るや。

 (中略)支那の領土に野心を包蔵すと認められつつあるは、露独日の3国なり。(中略)

 我が国が満州に拠り、山東に拠ることは、国際的に内乱的に、支那に一朝事ある場合には我が有力なる陸海軍を迅速に、有効に、はたらかして、速やかに平和の回復を得しめ、はたまた禍乱を未発に防止する所以なりと、説かんも、支那国民自身および支那大利害を有する欧米諸国の立場より見れば、これほど、危険にして恐るべき状態はあるべからず。  

 這回(しゃかい 今回)の戦争において(中略)、我が国がドイツと開戦し、ドイツを山東より駆逐せるは、我が外交第一着の失敗なり。(中略)青島割取は断じて不可なり。」(「青島は断じて領有すべからず」東洋経済新報 大正3.11.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫