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鈴木文治「労働運動二十年」を読む 1~10

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 1  

 鈴木文治の自伝「労働運動二十年」(一元社 昭和六年発行)は彼の生い立ちを次のように述べています。

宮城県栗原郡金成(かんなり)村―古く旧記を按ずれば、その昔源義経が兄頼朝の笞を逃れて、北の国へと落ち延びた時、その東道の主人を勤めしと伝へられる金売吉次の出生地―これが私の生声(うぶこえ)を揚げた土地なのである。」

 伝説の真偽は別として、この辺は平安時代、高鞍荘という荘園で平泉の奥州藤原氏が関白藤原忠実に寄進して自らは荘園管理者となった地でした(宮城県史編集委編「宮城県史」宮城県史刊行会)。鎌倉時代には源義経源頼朝も通ったと思われる官道松山道が金成村の西部を貫いていたので、昔から交通の要地であったのでしょう(高橋長寿遺稿「金成村誌」吉田千代「評伝鈴木文治」日本経済評論社 引用)。江戸時代同村は奥州街道の宿駅として繁栄しました。

 仙台藩は南・北・中奥・奥の4地方に各々郡奉行を設置していましたが、金成は中奥に属する三迫と磐井郡流郷の中心として代官所が置かれ、藩直轄の穀倉地帯で、代官は年貢の徴収を主な職務としていました。この代官の下に大肝入(おおきもいり)とよばれる村役人がいて、管下の政治を支配していたので、大肝入は豪農の中で人望のある人物の家から選ばれ、のちに世襲となりました。

 1853(嘉永6)年から1865(慶応1)年まで金成の酒造業泉屋の金野助三郎が大肝入を勤めていたのですが、この泉屋の番頭であったのが鈴木文治の曾祖父安治でした。

 鈴木文治は前掲自伝で「自分の生まれた家といふのは百年とかの古い家で、太い梁や柱が使ってあった。これ等の諸材や人夫や手間は殆んど悉く安治を徳とする人々の寄附で出来たのだと、祖母が語り聞かしたのを覚えて居る。」と述べています。

  今ではその屋敷跡の道路沿いに「鈴木文治ここに生まる」という記念碑(昭和42年建立碑文揮毫 片山哲)が立っているだけです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー片山哲

 安治は男子に恵まれず長女しうに婿養子として、石川家より泰治を迎え、鈴木家は泰治の代に農業に従事しながら麹屋をはじめました。泰治としうの間に1868(明治1)年文治の父益治がうまれました(吉田千代「前掲書」)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 2

 文治は1885(明治18)年9月4日上掲の地上町(宮城県栗原市)の旧家鈴木益治の長男として出生しました。

聚史苑―歴史年表―大正年表1―1912年 明治45年 大正元年8月1日― 鈴木文治   

 文治出生のころは祖父泰治が健在で 泰治が1888(明治21)年死去後、益治は酒造業にのりだしました。

 1890(明治23)年文治は金成小学校に入学、尋常科4年を終了すると岩ヶ崎尋常高等小学校に入学、金成少年学会に所属するようになりました。金成少年学会は1889(明治22)年7月当時13歳の菅原幸佐の提案により創立され、小学生から16歳ころまでの少年少女を会員とし、先輩や村の有識者が指導者となって毎夜講読会を開き、会員は漢文講義を聞いたり、作文を発表したりしていました。また年に2~3回は教師や先輩による大演説会も開催されました。とくに1892(明治25)年金成ハリストス正教会の中川崇伝道士が中心となって少年学会を指導するにいたり(吉田千代「評伝鈴木文治」日本経済評論社)、のちに鈴木文治が社会運動家として、文章や書に秀で、雄弁で多数の人々をひきつけた魅力もこの金成少年学会で養われたものでしょう。

 1895(明治28)年鈴木文治は父とともに金成ハリストス正教会で洗礼を受けました[金成教会銘度利加(メトリカ)第壱巻 吉田千代「前掲書」引用]。

栗原市―観光案内―カテゴリー一覧―栗原の文化―歴史探訪―金成ハリストス正教会

 1897(明治30)年3月岩ヶ崎小学校高等科を卒業した文治は創立されたばかりの宮城県尋常中学校志田郡立分校(古川高校前身 明治34年宮城県立第三中学校 のちに古川中学校)に入学しました。

 「中学のあった町は私の生地より八里離れた古川町吉野作造博士の出生地、私はこ丶で十三歳中学一年の時、二十歳仙台一中卒業の吉野氏と会った。爾年交遊三十五年、兄弟に等しい友誼を続けているーに行っていたが、毎週土曜日の午後は人力車を仕立て丶必ず家に帰った。そしてその車夫を一泊させてさらに月曜の朝までに学校へ通って行ったものである。」  (「労働運動二十年」)

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 3

 1902(明治35)年3月鈴木文治は宮城県立第三中学校を卒業、吉野と同じく第二高等学校を経て大学へ進学したい希望を持っていましたが、このころから鈴木家の家運は傾き、彼は一時進学をあきらめかけました。しかし母親が実家からもらって長年保存していた古金銀を元手に同年8月仙台で全国一斉の高等学校入学試験に合格、成績と志望順に全国に振り分けられ、山口高等学校(現在の山口大学)に入学を許可されました。 再び両親の金策の世話になり、彼は山口に赴く途中東京で吉野作造・内ヶ崎作三郎の両先輩と相談、内ヶ崎氏の知人であった山口高等学校教授戸沢正保先生への紹介状をもらっていったのでした。

華麗なる旧制高校巡礼―山口高等学校 

 戸沢正保は鈴木文治の保証人となり、戸沢の紹介で寄宿舎に入ることができました。しかし窮乏により校則に定められた制服を作ることができず、私服で登校したため横地石太郎教頭から度々注意され、「学校は人材の教育が主か洋服調製が主かと先生に喰ってかかり、眼玉の飛び出る程叱りつけられたことがある」(「労働運動二十年」)。ようやく父から送金があり制服をつくったのですが、外套はなしで翌年先輩から古外套を譲ってもらいました。靴も連隊営舎前の古靴屋で兵隊の古靴を25銭で買って穿いたのです。

 その年東北の大飢饉がおこり、両親からの仕送りはなくなり、鈴木文治は途方にくれ、死を思って彷徨したことも度々ありました。丁度その時一高の秀才藤村操が有名な「巌頭の感」を残して華厳の滝に投身自殺しました(1903.5.22 新聞集成「明治編年史」第十二巻 財政経済学会)。

小さな資料室―資料2 藤村操の「巌頭之感」

 鈴木文治は「私は山口から日光まで死に行く程の旅費も持たなかったが、藤村君の死がとっても羨ましかった」(「労働運動二十年」)と述べています。

 やがてこのような状態の鈴木文治を心配した戸沢先生の好意で、彼は約1年間先生の食客書生として戸沢宅に住み込みを許され、戸沢先生と同じく山高教授の戸川秋骨先生の筆耕(写字などによって報酬を得ること)に雇われ、学資の足しにすることができました。

 また当時東京帝大の学生(助教授と「労働運動二十年」に記されていますが、鈴木文治の記憶違い)であった吉野作造の尽力により、仙台の養賢義会よりの貸費生として月8円を支給されるようになり、山高入学と同時に学内の羊牢会というキリスト教青年会に所属していた鈴木文治は戸沢宅を出て美以教会の日曜学校校舎の留守番として住み込むことができました。

 山口より7里山奥の秋吉村において大理石の採掘加工を業としたキリスト教徒本間俊平は出獄人や不良少年の感化に情熱を傾注し、時々7里の山道をこえて山口に赴き、若者らに信仰の灯を与えて倦まなかったそうで、鈴木文治も彼の感化をうけた一人であり、彼が社会において偏見をうけ、不遇に苦しむ人々に注目するきっかけを与えた人として本間俊平は記憶すべき人物といえるでしょう。

Remnant―キリスト教読み物サイトーそのほかークイック移動―その他―本間俊平とその妻・次子    

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 4

 1905(明治38)年鈴木文治は山口高等学校を卒業、同年9月東京帝国大学法科大学政治学科に入学、郷土の先輩吉野作造・内ヶ崎作三郎らの世話で本郷台町の中央学生基督教青年会館に入りました。  

 「其頃日露戦争は漸く終ったが、講和の結果について国民の不満は実に猛烈であった。到頭日比谷の国民大会から焼打騒ぎとなったが、着京四日目に其騒動が起り、私は友人と一緒に本郷から日比谷までこれを見に行った。今の帝国ホテルのあるところに内務大臣の官邸があったが、その塀には桂首相や小村外相の生首の畫がベトベトに張ってあった。警官が それを剥ぎ取ろうとする、民衆は夫れを妨げる、…私は此大混乱の渦の中に捲き込まれて出るも引くも出来なかった。」(「労働運動二十年」・「坂の上の雲」を読む49参照)

 同年9月半ばころから大学の講義が始まり、穂積八束博士の憲法、金井延博士の経済学、岡田朝太郎博士の刑法、等々々、いずれも鈴木文治のような田舎学生には驚異でしたが、就中彼の心をとらえたのは4年生の時の桑田熊蔵博士の「工業政策」の講義でした。同博士の講義は名は工業政策でも実は社会政策で工場法のこと、労働組合のこと、消費組合のこと、労働保険のこと、労働紹介のこと、工業裁判所のこと等でした。彼はもっとも熱心に聴講、屡々先生を自宅に訪問して親しく教えを受けたものです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―くー桑田熊蔵

 一方彼の生活の内容は大学四年を通じてまことに恵まれないものでした。すでに仙台にでていた貧窮する鈴木一家を養うために、鈴木文治は月15円の生活費を仕送らねばならず、彼は海老名弾正の本郷教会(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 3参照)に属して、同師主催の雑誌「新人」の同人となり、毎日曜に師の説教を筆記して「新人」に掲載、後に「新人」の編輯主任となって多少の収入を得ることができました。其の他家庭教師などもして自らの勉学のかたわら家族を養っていかねばならなかったわけで、その苦労は並大抵なものではなかったでしょう。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 5

 鈴木文治は1909(明治42)年7月大学四年の課程を終了しました。東京帝大法科大学長穂積八束(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)は学生就職の世話をするために学生を引見、その志望を聞きました。鈴木文治は此の時新聞記者志望と答えて穂積八束を驚かせたのです。当時帝大―とくに東京帝大法科大学―は官吏の養成所と呼ばれ、また官界への登竜門で卒業生の大部分がみな官吏を志願したからです。

 穂積八束は「東京日々」社長加藤高明(「凛冽の宰相加藤高明」を読む10参照)への紹介状を書いてくれましたが、郷里の先輩小山東助の尽力で島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)の紹介により鈴木文治は同年7月1日印刷工場「秀英舎」(創立者 佐久間貞一「日本の労働運動」を読む7参照)に入社、工場法案の研究などの知識を広めるに役立ったのですが、どうしても印刷業を終生の仕事とする気になれず、1910(明治43)年3月同社を退社、同年4月「東京朝日新聞社」入社試験を受けて合格、5月1日より同社社会部記者として入社したのでした。  

 この入社試験の課題は「東京に於ける救済事業現況」で、十日以内に提出を命ぜられました。取材訪問のために8日の間本所若宮町の無料宿泊所をはじめとして破れ綿入れに色褪せた黒木綿の羽織を着て穴のあいた足袋にグダグダの中折れ帽をかぶって、トボトボと宿をもとめ、電車のなかでは車掌から権突をくらい、道を尋ねて巡査に叱られ、ようやく宿泊所にたどりつくと、取次人に怪しまれながら二階の大部屋へあがり来宿者の中に入って数時間を過ごしてみました。

 当時の救済事業はほとんど宗教関係者によって実施されていたので、救世軍の社会事業留岡幸助の家庭学校、原胤昭の出獄人保護事業、島貫兵太による苦学生救護の日本力行会などを訪問、さらに孤貧児の救済施設として東京市内第一の設備を持つといわれる市立巣鴨養育院分院などを視察、これらの取材ノートをもとに20回分の原稿を完成して試験委員に提出しました。同原稿は鈴木文治入社後、「東京に於ける社会改良事業現況」と題して東京朝日新聞に10回にわけて掲載されたものです。彼は1911(明治44)年2月「浮浪人研究会」を組織しています。

児童福祉施設 東京家庭学校―施設概要  

 入社3日目にハレー彗星の記事(1910.5.19ハレー彗星地球に最接近、流言・噂・不安を呼ぶ 新聞集成「明治編年史」第十四巻)を書くことを命ぜられ俄か天文学者となってあわてたりしたこともありました。大逆事件(「日本の労働運動」を読む47参照)の取材に当たっては、第1回公判開廷と同時に傍聴は禁止されたので、彼は幸徳秋水と親交のあった堺利彦(枯川)に会い、死刑判決後に幸徳と面会した様子を取材して新聞記事「最後の面影」をまとめ、さらに幸徳秋水と管野スガが堺に送った書簡を全文掲載しました。またこのころ朝日新聞社には石川啄木(「田中正造の生涯」を読む23参照)が校正係として勤務しており、鈴木文治と無政府主義について議論したこともあったようです(石川正雄編「石川啄木日記」第3巻 明治44年1月3日条 世界評論社)。

 やがて彼は夜の編集主任に昇進しましたが、同一記事を市内版と神奈川版とに二重掲載した誤謬の責任をとって、1911(明治44)年10月朝日新聞社を退社するに至りました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 6

 1911(明治44)年11月鈴木文治は再び郷里の先輩小山東助の奨めで日本ユニテリアン派教会(機関誌「六合雑誌」「日本の労働運動」を読む24参照)の附属伝道団体である統一基督教(弘道)会に社会事業を行う目的で、同教会の幹事として就職しました。このことは英国留学後帰国して同教会の牧師になった同郷の内ヶ崎作三郎の活動を側面から援助するためでした。

 ユニテリアン派教会の日本における活動拠点であった惟一館において鈴木文治は1912(明治45)年1月15日周辺の労働者を対象とする「労働者講話会」を開催しました。

 同日午後6時職工や近隣の女子供を含む住人約400名が集まり、鈴木文治司会により教会員の讃美歌から始まり、ピアノや独唱を交えながら、三宅鉱一東大医学部教授の「酒の話」をはじめとして救世軍山室軍平安部磯雄らが講演を行いました。

 同講話会は毎月15日(当時の労働者は1日と15日が休業)夜知名人を講師に迎え、映画・講談などの余興も交えて開催され、次第に労働問題の話などを加えて労働者を啓蒙する試みに着手しました。  

 同年3月には「労働者倶楽部」を開設して、労働者と親しく交流する機会をふやし、職場での労働者の処遇が上役への賄賂の多寡によって左右されているという前近代的労務管理の実態を知りました。

「そこで私は彼等に説いた。かういう実情に対抗し、横暴を打ち砕くには一人や二人の力には及ばない。団結の威力によるの外はないと、外国の労働組合の話をした。すると、感激の呻きが忽ち揚るという有様であった。」(「労働運動二十年」)

 そこで1912(大正1)年8月1日(同年7.30明治天皇死去)諒闇(天子が父母の喪に服する期間)第3日惟一館図書室において電気工・機械工・畳職・塗物職・牛乳配達・撒水夫等計十三名に現職の巡査1名(隠れた同志として極力奮闘を約す)及び鈴木文治を加えて15名が集まりました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 7

 座長席についた鈴木文治は『労働階級の向上と労働組合の結成とは必然的のものである。(中略)併し労働問題に対する世間の理解力極めて乏しく、官憲の圧迫も亦猛烈である今日―幸徳事件終了後漸く二年―到底直ちにその組織を作ることは困難である。暫く友誼的共済的又は研究的の団体で満足しようではないか。(中略)と云い、一同納得したので会名の詮衡に入った。(中略)そこで私は然らば「友愛会」という名はどうか。(中略)英国にフレンドリー・ソサイテイーというのがあるが、それは訳せば友愛会となる。(中略)日本の労働者も今は正しく隠忍して力を養ふべきときであると語り、英国労働運動の故智を学ぶことにしようではないかと述べ』(「労働運動二十年」)満場の同意をえました。

聚史苑―大正年表1―1912~1915-1912年8月1日―鈴木文治―友愛会

 鈴木が立案した、共済と相互扶助・修養と努力・社会的地位の改善を旗印とする綱領と会則とを決定(「六合雑誌」大正元年9月号 「総同盟五十年史」第一巻 総同盟五十年史刊行委員会 引用)、会長には鈴木文治が推戴され、幹事を互選、ユニテリアン・ミッションのマコーレー博士は名誉会員に推され、安部磯雄(「日本の労働運動」を読む22参照)を会長とする弘道会の人々は評議員や賛助会員となって友愛会を支援したのです。同年11月同会機関紙「友愛新報」[総同盟50年史刊行委員会編「大正昭和労働運動・社会民主主義研究資料」第1(友愛新報集成)柏書房]が創刊されました。

 「友愛新報」第二号には労使関係について「抑も物の生産は、何に依って出来るのであろうか。資本と労働との協力の結果ではないか。」(「資本と労働の調和」)と述べられているように労資協調主義がとられています(吉田千代「前掲書」)。

 鈴木文治は彼の自伝で友愛会創立時代に活躍した若き人々の中で特に異彩を放った3人として野坂鉄(参三)・久留弘三・酒井亀作(興)を挙げ、野坂鉄について次のように述べています。「野坂鉄君は大正二年の暮か、大正三年の春に堀江帰一(友愛会評議員)博士の紹介状を以て来訪した。慶応理財科の二年で、卒業論文労働組合のことを書きたいから、友愛会の実際運動を見せ、又話をして貰いたいというのである。(中略)大正四年春卒業と同時に友愛会本部員として入って来たのである。真面目な学究肌の人でつひに一回も演壇に立ったことはない。(中略)同君は当時共産理論に共鳴し、(中略)洋行以来一層其の信念を堅くしたもの丶ようである。(中略)私は今でも此力のある立派な闘将を我等の陣営より失わざるを得ざるに至ったことを残念に思ふものである。」(「労働運動二十年」)

杜父魚文庫―杜父魚ブログー2007.07.22 野坂参三の不思議 渡部亮次郎

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 8

 友愛会創立後1年も経たない1913(大正2)年6月末労働争議が起こりました。同月7日発会式を挙げたばかりの同会川崎支部の山中・長谷川両人が語るところによれば、日本蓄音器(レコードプレイヤーの前身)商会(日本コロンビア株式会社の前身)の従業員は同月28日会社側から次のような通告を受けました。1. 7~8月両月を会社の都合により暑中休暇とする。2. 其間の生活費は例年6月末に下げ渡してある賞与金(日給者)積立金(請負者)を7月末に半額、8月末に半額払い渡すという内容でした。従業員は協議の結果、会社に向かって次のような申し出をしました。夏季休業はいらないから、仕事を続けてほしい。でなければ二ヶ月分の給料を渡して貰いたい。

 しかるに会社は従業員の申し出を受け入れないので、一同協議の上、事件の解決を会長(鈴木文治)にお願いしようということになったそうです。

日本コロンビア株式会社―会社沿革 

 労働運動の最初の小手調べにに米人支配人(日本蓄音器商会は米国資本の経営で社長・支配人・工場長らは悉く米人)に一泡吹かせずに置くものかという猛烈な反感から、鈴木文治はこのお願いを引き受け、まずマコーレー博士(「労働運動二十年」を読む7参照)から同商会支配人ラビットに対する紹介状を書いてもらいました。

 つづいて彼は同月28日罷業に入っていた同商会従業員全員に談判の手段並びに従業員の実際行動についての全権委任をとりつけ、警察署長を訪問、鈴木が同商会と談判する際争議団員が同商会前広場に三々五々集まる程度なら警察は干渉しないとの了解をとりつけました。

 同月29日午後4時ころ支配人ラビットらと鈴木文治の談判が開始されましたが険悪な雰囲気で物別れとなり明朝再び会うこととなって、翌朝午前9時再会談の結果東京電気工業部長新荘吉生の裁決に従うことで合意しました。同日午後4時新荘吉生の裁決により同商会は次のような決定を回答しました。

1. 会社は7月15日まで仕事を継続、8月15日より仕事を開始する。この1ヶ月間は従来通りの賃金を支給する 2. 7月16日より8月14日まで休業する。但しこの期間の休業に対しては1週間分の給料を手当てとして支給する。 3. 賞与金は即時全額を支給する。

 この回答を鈴木文治が友愛会川崎支部にもたらすと、同商会従業員は喜び、300の会衆は友愛会万歳を唱和しました。

 同年11月鈴木文治はユニテリアン教会で内ヶ崎作三郎牧師司会により、井上ユキと結婚式を挙行しました(吉田千代「前掲書」)。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 9

 このころの鈴木文治の労働争議に対する姿勢は「親心ある工場主」(「友愛新報」大正3年3月1日号 吉田千代「前掲書」引用)の言葉が示すようにその解決を経営者の恩恵に期待する発言にその特徴があり、既述の日本蓄音器商会争議解決の過程に上述のような鈴木の考え方が反映されていますが、次に述べる東京モスリン争議の経過にも基本的にこのような彼の同じ姿勢が継続しているように思われます。

 1914(大正3)年6月1日不況で同業4社は操業短縮5割を決定、東京モスリン(薄手の平織り羊毛生地)紡織株式会社(大東紡織株式会社の前身)ではその直前男女工合計千百余名を解雇、さらに同月18日残留職工2800余名の減給処分(定傭給者は1割5分内外、請負者は4~5割)を工場内に掲示しました。

Daitobo―企業情報―会社沿革   

 これに対して従業員は憤慨、結束して同月20日夜作業の停止を断行しました。会社側はあわてて代表委員との折衝後、翌21日 1. 同年8月20日までに減給に相当する収入額を或方法で補填する。 2. 同年12月1日より減給前の俸給に復活する。但し復活の上は第1条項は廃止する。以上2項目の覚書で妥協することとなったのです。

Redondo1985―スカイツリー周辺の史跡―2012.09.24 スカイツリーと東京モスリン吾嬬工場跡

 ところが従業員たちは同月28日の定例休業日を利用して、有志7~80名が「工友会」という共済組合的労働団体を結成するに至りました。 しかしその附則には会社の不当解雇を受けたような場合、調査の上80円の恵与金を交付する旨記載されていました。

 会社側は工友会を切り崩そうとし、(ア)6月18日掲示の請負賃値下及び日給減額は来る12月1日より6月1日と同様に復旧すべきはずのところ、都合により来る7月20日より復旧する。(イ)但し大正3年8月20日迄の減給に相当する収入減を或方法で填補することは自然消滅する。以上のような内容を掲示しました。

 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む10

 しかし工友会の結束は堅く、同年7月14日登坂秀興同社作業部長は工友会幹部12名を順次呼び出し、工友会解散命令に不服従の者は今日限り解雇すると通告しました。これにより工友会は同盟罷業に入り、翌15日工友会長は治安警察法第17条違反(同盟罷工の扇動)を理由としで所轄小松川警察署に検挙されるに至ったのです。これをきっかけに工友会の結束は崩れさったのでした。

 此の時解雇された12名の一人が友愛会江東支部幹事より友愛会の存在を知り、協議の結果、救援依頼のため友愛会本部に鈴木文治を訪ねてきたのです。

 鈴木は工友会長釈放をもとめて小松川署長・警視庁・東京区裁判所検事局を歴訪しましたが、釈放はかなえられず、工友会長は裁判所で懲役3ヶ月、執行猶予3年の判決を受け服罪せざるを得なかったのです。

 解雇者(最終的に21名)の後始末について、鈴木文治は3回にわたり会社を訪問し談判、結果は何等会社側の譲歩を引き出すことはできず、物別れとなりました。

 しかし鈴木と同郷で友愛会評議員でもあり、当時東京府立職工学校長の職にあった秋保安治と云う人があり、登坂氏とも蔵前(東京職工学校?)の先輩・後輩の関係にあったので、同氏の斡旋で鈴木は登坂氏と再度職工学校で会見した結果、東京モスリンの青木専務の名で解雇者に対し同情金210円(一人当たり10円)を支出することで決着となりました。 これら解雇者たちは友愛会に加入、幹部として活動し、翌年2月やがて千数百名を数える友愛会本所支部が彼等の活躍の結果として誕生したのでした。

 すでに1914(大正3)年年11月1日「友愛新報」は「労働及産業」[法政大学大原社会問題研究所・総同盟五十年史刊行委員会共編「労働及産業」(復刻版)日本社会運動史料 法政大学出版局]と改題され月刊雑誌に発展していました。