松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 1~10

松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 1

 松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」(同時代ライブラリー35 岩波書店)は次の項目で構成されています。

大正デモクラシ-とは何か        美濃部達吉

明治末期のルソー            吉野作造 その朝鮮・中国論

夏目漱石 その政治思想 「野分」の背景 佐々木惣一

三浦銕太郎               山本宣治

石橋湛山 追悼の記 その平和主義    大正デモクラシーと現代

 私はこれら諸項目の中から、吉野作造の生涯を主として田中惣五郎「吉野作造―日本的デモクラシーの使徒」(未来社)で辿り、その朝鮮・中国論が彼の思想の中でどのように位置付けられるのかを調べてみたいと考えます。

 吉野作造(戸籍名は作蔵)は1878(明治11)年1月29日宮城県志田郡古川町字大柿96番地(宮城県大崎市)で父吉野年蔵の長男(母こう)として出生しました。吉野家は「吉野屋」あるいは「綿屋」の名で呼ばれ、農家に原綿を渡し、委託加工させていたが、後、機械紡績が出現してからは、製綿・織布・織糸の小売を業としていました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―よー吉野作造

 吉野作造が生まれたとき、2人の姉があり、この地方の商人のならわしとして長女が養子を迎えて家業の後継者となることは珍しくなかったようです。

 1883(明治16)年寺子屋式(しばらく年長の姉のそばに机を並べることを許可される)古川尋常小学校に入学、1886(明治19)年4月小学校令公布で小学校も学校らしい体裁を整えるようになりました。   彼が尋常小学校4年の1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布され(児島襄「大山巌」を読む27参照)、この年の春高等小学校1年生となりました。1890(明治23)年7月第1回総選挙施行、第2回臨時総選挙が行われた1892(明治25)年宮城県尋常中学校(仙台一中)に入学しましたが、彼は成績抜群の秀才で高等小学校卒業生総代として答辞を読み、古川町では中学校進学第一号という名誉を担ったのです。

 同年養子を迎えた長姉しめが死去、次姉りえが養子の後妻として吉野家の後継者となりました。

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 新島襄(久米邦武「米欧回覧実記」を読む4参照)はかねてから仙台に同志社分校の設立を希望しており、友人富田鉄之助の援助により1885(明治18)年宮城英学校を設立しましたが、翌年東華学校と改称、教師スタッフも同志社から送りこまれていました。  

 ところが欧化主義に対する反動があったため、1892(明治25)年東華学校は廃校となり、同年中学校改正令により教職員・生徒はそのまま宮城県尋常中学校(仙台1中)に引き継がれたのです。同校初代校長は大槻文彦[蘭学者大槻玄沢の孫で明六社に属す。国語辞典「言海」の著者]でした(「仙台一中・一高百年史」)。  

 1897(明治30)年彼は首席で仙台一中を卒業、同年9月仙台の大学予科法科(二高)に入学しました。

 第二高等中学校は1887(明治20)年4月宮城県仙台区(仙台市)に設立された旧制高等中学校(略称二高)です。1894(明治27)年6月25日高等学校令により第二高等学校と改称、帝国大学進学者のために大学予科を設置していました。  

 1898(明治31)年ミス・ブゼル(尚絅女学校)のバイブルクラスに参加、翌年7月4日洗礼を受け、キリスト教(カルヴィン主義の流れをくむプロテスタントの一派―浸礼派)に帰依(内ヶ崎作三郎「吉野作造君と私」 赤松克麿「故吉野博士を語る」中央公論社)、同年秋阿部たまの(父弥吉は秋田藩士出身で仙台監獄において受刑者の職業補導に従事)と結婚しました。

尚絅学院大学―大学概要―沿革

 

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 1900(明治33)年9月吉野作造東京帝国大学法科大学政治科の新入生として上京、 本郷台町の寄宿舎(中央学生基督教青年会館)に入り、やがて海老名弾正の本郷教会(機関誌「新人」)に参加、借家して翌年仙台から夫人と愛娘を迎えましたが、彼は勉学に励む毎日が続き、相変わらず成績優秀でした。

歴史が眠る多摩霊園―著名人索引―頭文字―あージャンプーえー海老名弾正 

 当時設立まもない京都帝国大学(1897年設立)は別として、官学の最高学府であった東京帝大法科大学はどのような特徴を持っていたのでしょうか。  

 「恰度その頃(三十四五年頃)から大学の諸教授も割合に緩(ゆっ)くりした気分で学生に接する様になったと思う。今から回顧するに、それ以前に在ては政府でも条約の改正だ法典の編纂だ、弊制の改革だと新規の仕事に忙殺され、従て学者の力を藉(か)る必要も繁(しげ)かったので、帝大の教授は隠に陽に大抵それぞれ政府の仕事を兼ねさせられていたものらしい。今日は閣議がありますからとて講義半途に迎の腕車(わんしゃ 人力車)に風を切って飛んでゆく先生の後姿を羨しげに眺めたことも屡々ある」(民本主義鼓吹時代の回顧 吉野作造「閑談の閑談」抄 人間の記録 日本図書センター)  

 このように吉野作造が東京帝大法科大学に入学する以前、大学教授は政府閣僚を兼任することも多く、大学は政府と一体化していたのが実態だったともいえるでしょう。  

 しかるに吉野作造の法科大学入学のころから帝大は政府から独立し、教授の個性ゆたかないわゆる学派が成長してくる傾向が顕著となります。   たとえば法科大学学長に穂積陳重が就任、「憲法国法学講座」(明治27年9月~34年9月)は一木喜徳郎担当の第一講座「国法学」と穂積八束(陳重の弟)担当の第二講座「憲法」で構成されており、明治34年9月から「憲法国法学講座」は憲法と国法学の独立した2講座に分かれ、前者を一木喜徳郎の学統をつぐ美濃部達吉が担当して天皇機関説を、後者を穂積八束の学統をつぐ上杉慎吉が担当して天皇神権説を講じ対立するようになりました。美濃部達吉についてはのちに詳説します。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー一木喜徳郎―ほー穂積八束

 

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 吉野作造が主として受講した「政治学講座」はあまり重要視されぬ分野でしたが、1900(明治33)年「政治学政治史講座」として新設され、翌年10月ドイツ留学から帰朝した小野塚喜平次が教授としてこの講座を担当、吉野作造は小野塚喜平次にもっとも深い印象を受けたのです(民本主義鼓吹時代の回顧 吉野作造「閑談の閑談」抄)。小野塚は政治権力者が法の上にあるとする従来の絶対主義的君権主義を批判するゲオルグ・イェリネックらの影響をうけた人物であったことに注目する必要があります。  

 1901(明治34)年吉野作造安部磯雄片山潜「日本の労働運動」を読む22~25参照)・木下尚江(木下尚江「田中正造の生涯」を読む20参照)らキリスト教社会主義者の講演会(本郷教会の別働隊「明道会」主催)に参加するようになりましたが、他の社会主義者の一派である唯物論幸徳秋水らにはその放縦ともいえる男女関係も関係して反発を感じていたようです(片山潜「日本の労働運動」を読む34参照)。また浮田和民(早稲田大学教授)執筆の雑誌「太陽」における巻頭論文にもひきつけられました(民本主義鼓吹時代の回顧 吉野作造「閑談の閑談」抄)。

 歴史が眠る多摩霊園―著名人リストーあ行―ジャンプーうー浮田和民

 日露関係が緊迫した1903(明治36)年6月10日東京帝国大学法科大学教授戸水寛人・小野塚喜平次・富井政章ら7博士は政府に建議書を提出、満韓交換の対露方針に反対、 同年6月24日東京朝日新聞に公表しました(七博士事件・司馬遼太郎坂の上の雲」を読む19参照)。

 やがて日露講和の内容が知られるに及んで、戸水寛人・金井延・寺尾亨・中村進午・建部遯吾・岡田朝太郎の6博士は世に伝えられる講和の内容は開戦の目的を達成するものではなく、戦争が継続するのもやむを得ないとする上奏文を宮内省に提出、「六博士の奏上」事件が起こるに到りました。  

 1905(明治38)年8月25日文部省は戸水寛人を休職処分としましたが、東京・京都帝大教授らは大学の自治を要求して抗議運動を開始、同年12月2日東京帝大総長山川健次郎は辞職、東京・京都帝大教授らも抗議して辞職したため、同年12月8日文相久保田譲は辞表を提出、翌年1月29日戸水寛人が復職(「官報」)して事件は解決しました。   

 これら一連の事件については、さまざまな見解がありますが、このことによって東京帝国大学は国家権力からの不当な干渉に対して独自性をつよめ、大学自治の確立にむけて一歩前進したといえるでしょう(立花隆天皇と東大:大日本帝国の生と死」上 文芸春秋)。

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 1903(明治36)年9月吉野作造穂積陳重教授の法理学演習に参加、「ヘーゲルの法律哲学の基礎」という課題をえらび翌年7月報告論文(優秀論文としてやがて出版)を提出、東京帝大法科大学を卒業、就職を希望せず、学究として立つ決心で、ひきつづき政治史研究のため東京帝大大学院に入りました。一方日露戦争について吉野作造はこれを支持する態度をとっています(吉野作造「露国の満州占領の真相」「新人」明治37年3月号 松尾尊兊編「中国・朝鮮論」-吉野作造 東洋文庫161 平凡社)。  

 ところが明治30年代に同業者とともに吉野年蔵は羽二重合名会社を創立したのですが、 日露戦争後における機械製糸の発展は吉野家のような田舎の小資本家を圧倒、吉野家は没落して吉野作造一家の生活ならびに学資を支えることは困難となっていったのです。  

 1906(明治39)年1月22日吉野作造は夫人と二女を伴い、1901(明治34)年李鴻章没後北洋大臣兼直隷総督を引き継いだ袁世凱(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15参照)の招きによりその長男克定の家庭教師として天津へ出発しました(「新人」明治39年2月号)。

 

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 このようなことが実現した背景としては、日露戦争を立憲政治を確立した日本の専制政治ロシアに対する勝利ととらえ、日本の立憲政治を清国にも導入しようとする機運が清朝において推進された事情があり、1906(明治38)年8月12日北洋大臣袁世凱は立憲準備を上奏、同年9月1日清朝は立憲予備を上諭(数年後に立憲政治実施を宣言)、同年11月6日中央官制改革を実施、全国に36師団の陸軍(新軍)を設置、1907(明治40)年袁世凱は軍機大臣に就任、その中心人物となっていました。一方穂積陳重教授らの尽力と紹介で、生活費にも事欠く吉野作造が学究として自立できるまでの暫定的な就職口を世話しようという意図と上述のような清国情勢の推移が合致したものと思われます。  

 この時点で吉野はとくに清国への関心があって渡航したわけではなく、清国の将来についても悲観的で「結局外国の勢力に依って僅かに治まるのかとも思われる。」(「再び支那人の形式主義」「新人」明治39年9月号 松尾尊兊編「中国・朝鮮論」-吉野作造)と述べ、日本の対清国政策に無批判でした。

 このような情勢の下で清国に赴いた吉野作造はただ袁克定の家庭教師というだけでなく、袁世凱の参謀将校たちに国際法の講義も担当させられています。

 ところが1908(明治41)年11月14日清国の光緒帝が、同月15日西太后が没し、同年12月2日溥儀(光緒帝の甥3歳)宣統帝が即位、その父醇親王が摂政として政権を掌握すると、袁世凱と対立していた醇親王は翌年1月2日軍機大臣袁世凱を罷免、袁世凱河南省に引退しました。

 

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 かくして吉野作造は1909(明治42)年清国より帰国、同年2月5日東京帝国大学法科大学助教授に任ぜられ、政治史講座を担当することになったのです。1914(大正3)年7月には東京帝大法科大学教授となりました(田中惣五郎「前掲書」)。  

 1910(明治43)年1月政治史及び政治学研究のため、彼は満3年間ドイツ・イギリス・アメリカへ留学を命ぜられ、同年4月15日新橋を出発、途中パリーのキリスト教青年会で当時欧州に滞在していた王正廷(後に中国国民政府外交総長)の噂を聞き、王に会いたいと念願、その後の王の活躍を聞いて、吉野ははじめて清国における革命運動に強い関心をもつようになったのです(「支那問題に就いて」松尾尊兊編「中国・朝鮮論―吉野作造東洋文庫161 平凡社)。この間に日本では大正政変(第1次護憲運動・寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13~14参照)が起こりました。  

 吉野作造のデモクラシー思想はキリスト教信仰に基礎づけられるものでした(吉野作造「デモクラシーと基督教」「新人」大正8年3月号 岡義武解説「吉野作造評論集」岩波文庫)が、吉野外遊中の大正政変や其の他は吉野作造の立場を有利にする出来事であったので、ここで再度とりあげることにします。しかし今回は権力者並びに議会外の民衆の動向に焦点をあててみましょう。

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1913(大正2)年2月10日再開された議会の周辺の様子を「東京朝日新聞」は次のように伝えています。「刻々にその数を増す内外の群衆は、次第に気を得てさらに万才を絶叫すれば、議院内に入った国民党の代議士約百五十名は、一時に議院の露台に立ちあらわれ、白バラを打ち振りつつ内外の群衆に和して万才を唱う。ついには犬養木堂(毅)氏までが露台上にあらわれ、これに和する数千の群衆、いまは我をわすれて熱狂し、騎馬隊(憲兵)は 二手にわかれて議院前の通路を遮断し、通行を禁止するなど、ほとんど底止するところを知らざる有様であった。」(「大正政変」信夫清三郎「大正デモクラシー史」日本評論社

 このような情勢の中で桂太郎首相は衆議院議長大岡育造の勧告を受け入れて総辞職を決意、3日間の停会命令が出されましたが、議会を包囲していた民衆は日比谷公園に向かいました。ところが警視庁は騎馬巡査を先頭にしてこれを阻止しようとしたため、激昂した民衆に逆襲される状態となり、民衆の一部はすぐ近くの政府寄りの記事を売り物にしていた都新聞社の襲撃を開始しました。

「その時大野伴睦は二十四才の青年で明治大学の学生であった。彼もまた血にわく民衆の一人として焼打に参加した。徳川夢声の「問答有用」で彼は語った。 伴睦―都新聞へいってね、活字いれてあるケースをぼくはひっくりかえした。(中略)ぼくは出る時に、騒擾罪というものはどのくらいの罪かということを見ていったんや。それにね、首謀者は無期から死刑まで、卒先助勢者は六ヵ月以上七ヵ年以下の懲役に処すと書いてある。

 付和随行者は五十円以下の罰金だというんですな。もしひっかかったら、なんでもかまわん、付和随行にもっていきゃええと思ってね。(笑)あとで調べられたときにね、「君は扇動演説をやったんじゃないか」という。「冗談いっちゃいけません。おれは知らん。都新聞、都新聞というから自分は都新聞へワッショワッショというて付和随行していった」というた。(笑)」(信夫清三郎「前掲書」引用)

温泉ドライブのページー4.旅のあれこれ①―俳人―大野伴睦

 

松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 9  

 1913(大正2)年7月3日吉野作造は欧米留学から帰朝、横浜に帰着しました。 シーメンス事件とよばれる海軍収賄事件(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15参照)が新聞に報道された1914((大正3)年1月23日綜合雑誌「中央公論」新年号に吉野作造の論文「学術上より観たる日米問題」が掲載されたのをはじめとして、同年3月号には山本権兵衛内閣倒閣運動を背景とした「民衆の勢力によって時局を解決せんとする風潮を論ず」という「中央公論」の特輯欄に吉野は「民衆的示威運動を論ず」と題して、欧米留学中見聞した示威運動を紹介しました。  

 このような綜合雑誌「中央公論」誌上における吉野作造の所信発表とその影響力拡大を可能にしたのは、編集主幹滝田哲太郎(樗隠)の援助によるところが大きかったといえるでしょう(亡友滝田哲太郎君と私 吉野作造「閑談の閑談」抄)。

東京紅團―地区別散歩情報―千代田区の散歩情報―「中央公論社」の足跡を歩く

 1914(大正3)年8月23日第2次大隈重信内閣はドイツに宣戦布告、翌年加藤高明外相の訓令にもとづき日置益公使は中国政府に対華21ヵ条要求を提出、同年5月9日中国政府は日本の要求をすべて受諾、内政において同内閣は懸案の2個師団増設問題をめぐる議員買収問題で動揺、政局不安定となっていました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17~18参照)。  

 1915(大正4)年6月吉野作造は「日支交渉論」(吉野作造選集8 岩波書店)を刊行、上述の対華21ヵ条要求について論じていますが、 「予はこの度の対支要求の如きは、大体に於て我国の最少限度の要求を言現わしたものであると信ずる。」とし、「支那に対する帝国将来の地歩を占むる上から見て、極めて機宜に適した処置であったと信ずるものである。」(「支那に対する帝国の実際的態度」「日支交渉論」第三章の三 松尾尊兊編「中国・朝鮮論―吉野作造東洋文庫161 平凡社)と述べ、列強と並んだ日本の中国分割参加を積極的に支持していました。

 

松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10

 しかるに1916(大正5)年「中央公論」1月号に吉野作造の論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」(岡義武編「吉野作造評論集」岩波文庫)が発表されたのです。

聚史苑―大正年表2-1月 吉野作造 「中央公論」で民本主義論を展開

 同論文の冒頭において「憲政の何たるかに通ぜざるは、独り一般下級の国民ばかりではない。上級のいわゆる識者階級また然りである。(中略)かくて今日は、上下一般に向かって最も率直に、最も大胆に、最も徹底的に立憲政治の真義を説くべき時ではあるまいか。」と述べられています。

 同論文の「序言」において「立憲政治のやや完全なる形式を備えながら、国民智徳の高いと低いとの差によって、憲政の運用上両極端の現象を呈して居るものは北米合衆国と墨西哥〔メキシコ〕とである。(中略)かくの如く、相隣しておりながら、一方は隆々たる勢いを以って栄え、一方は紛乱に紛乱を重ねて居るものは、そもそも何の理由によりて然るか。 (中略)これ畢竟両国民の智徳の程度に大いなる高低の別があるからである。これには深い歴史上の原因がある。第一に北部は主として英国のいわゆるアングロ・サクソン族の移住し来った所であり、南部は例外を除き、専ら西班牙よりの移住民である。

 第二にこれら両国よりの移住民は元来本国においていかなる階級に属しておったかというに、合衆国に移住した英国人は、本国において概して最も優等なる階級に属しておったものである。これに反して墨西哥の移民は如何というに、この方は本国における無頼の徒にあらざれば、労働者あるいは兵卒等皆下層階級の者が主となっておる。(中略)  

 第三にこれら両国移住民の移住後における家族関係の点も参酌する価値がある。英国より渡来し来った者は、概してみんな家族を率いて移住してきた。然らざるも清教徒ピューリタン)の事なれば、移住後も土人と結婚するというが如き者は一人もなかった。しかるに 墨西哥に移住した者は、労働者兵士等、皆妻子を有って居る者ではない。忽ち土人と雑婚し、ために多くの混血児を生じた。しかしてこれらの混血児は、これをかのピューリタンの輩が、人種の純潔を保ちつつ、その高尚なる理想を子孫に伝えたのに比すれば、もとより同日の談ではない。我々はこれらの例に徴して、切に憲政の成功にはいかに国民の教養が先決問題として肝要であるかを知らねばならぬ。」と結ばれています。