寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21~30

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21

 原敬は政党党首としてはじめて首相に任命された人物で、爵位をもたず藩閥でもない衆議院議員であり、「平民宰相」と呼ばれました。また外相内田康哉陸相田中義一海相加藤友三郎のほかの閣僚はすべて政友会出身であり、本格的政党内閣のはじめと評価されたのです。

 1918年11月11日ドイツは連合国と休戦協定に調印、第1次世界大戦は終了、1919(大正8)年1月18日パリ講和会議が始まりました。

世界史の窓―ハイパー世界史用語集―世界史用語―15章 二つの世界大戦―第2節 ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 ア. パリ講和会議―ベルサイユ条約―国際連盟

 講和会議の中心は5大国(米・英・仏・伊・日)2人ずつの全権で構成される10人委員会にあり、ここで戦後処理に関するすべての問題を決定、其の他の講和会議参加国は自国に関係する議題が上程されたときに10人委員会に召喚され発言する機会が与えられました。

 日本全権は西園寺公望(主席全権)と牧野伸顕が任命されたのです(「官報」)。

 会議の主導権は米大統領ウイルソン・英首相ロイド・ジョージ・仏首相クレマンソーの手中にありました。

 同年1月27日牧野伸顕全権は山東半島のドイツ利権および赤道以北のドイツ領諸島の無条件譲渡を要求(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)、これに対して翌日中国全権団(南北両政府代表で構成)の顧維鈞(駐米公使)は山東省のドイツ権益は直接(日本の介入を認めず)中国に返還されるべきと主張、日本と対立しました。

 同年4月11日日本全権は国際連盟規約委員会で人種的差別撤廃の趣旨を規約前文に挿入するよう提議しましたが不成立、同年4月21日日本政府は山東問題に関する要求が通らないときは米大統領ウイルソンが提唱する国際連盟規約調印見合わせを日本全権団に訓令、4月22日山東問題に関する第1回首相会議がウイルソンの宿舎で開催、同月28日日本は国際連盟規約に同意、同月29日第2回、同月30日第3回首相会議が開催され、同年5月4日の講和会議で日本全権牧野伸顕山東還付(ただし経済的特権および青島に専管居留地設置の権利を留保)を声明しました(外務省編「前掲書」)。

 これに対して北京の学生3000人余が山東問題に抗議して示威運動(五・四運動)、同年6月28日ベルサイユ講和条約が調印されましたが、中国北京政府は調印を拒否しました。  

 結局パリ講和会議山東問題を解決出来なかったのです。

 他方朝鮮ではこれより以前の同年3月1日京城漢城)・平壌などで朝鮮独立宣言が発表され、示威運動が朝鮮全土に拡大しました(「大正編年史」)。

北九州のあれこれー北九州の歴史―大正時代―4三・一運動と五・四運動

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む22

 寺内正毅内閣はいわゆる超然内閣(「大山巌」を読む27参照)で議会内に与党を持たなかったが、立憲政友会は事実上の与党としての役割を果たしていました。だから寺内正毅内閣が米騒動により崩壊後、原敬立憲政友会総裁を首相とする内閣が1918((大正7)年9月29日成立すると、憲政会幹部の間に寺内・原は同罪として原内閣打倒が主張されたのも、それなりの説得力があったのです。

 しかし加藤高明憲政会総裁は議会の第一党に政権が移って政党政治の第一歩が築かれたと評価するとともに、1919(大正8)年年9月14日名古屋における憲政会東海大会において原内閣に対する厳しい論戦を挑みました。

 その第1点は同年5月4日日本全権の山東還付声明を8月2日内田康哉外相が再確認しましたが、この山東還付声明における青島専管居留地設置についての関係国との解釈の食い違いがあると指摘したこと、第2点は同年4月11日日本全権が国際連盟規約委員会で人種的差別撤廃の趣旨を規約前文に挿入するよう提議しましたが不成立に終わったことなどを追及しました。

 内政においては普選運動の高まりに対する政府与党と野党の対応の問題が緊急の課題として浮上してきたのです。

  1918(大正7)年12月25日招集の第41議会の最中に1919(大正8)年3月8日原敬内閣提出の衆議院議員選挙法改正案(小選挙区・選挙権資格を直接国税3円以上に拡大)を可決、普選論主張の村松恒一郎ら6名が立憲国民党より除名され脱党する騒ぎが起こり(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)ましたが、同年12月20日には憲政会政務調査会でも普選案の条件(納税資格を撤廃しても「独立の生計を営むもの」という制限を有権者資格に加えるか否か)を巡って対立がめだつ情勢となってきました(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)。同年12月24日第42通常議会が招集され、1920(大正9)年2月14日衆議院では憲政会・国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されましたが、2月26日普選法案審議中に解散となりました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23

 加藤高明憲政会総裁は翌日『原(敬)君は今回の提案(普選法案)を以て「帝国の国情に鑑みざるものにして、社会組織を脅威し国家の前途に危害を及ぼすものなり」と云ひたるが、、吾人は帝国の国情に鑑み其の将来の安寧・秩序を保つが為には、本案(普選法案)を最も必要なりと確信す。』と述べて党員を激励しました。

 1920(大正9)年5月10日第14回総選挙が実施され与党立憲政友会が大勝する結果となりました(衆議院参議院編「前掲書」)。第43議会で同年7月12日衆議院は野党提出の普選法案を否決、このため普選運動は1919~1920年にかけて普選運動の中心であった友愛会など労働者組織の多くが運動より離脱、普選運動は一時衰退する傾向を見せましたが、加藤高明原敬内閣の失政を追及することをやめませんでした。

 彼は以前からシベリア撤兵を主張していましたが、同年3月2日原敬内閣は閣議でシベリア出兵の目的をチェコ兵救援より朝鮮・満州のへの過激派の脅威阻止のためと変更して駐留することを決定、とくにニコラエフスク黒竜江の河口に位置し、樺太防衛上の要地であるから、同地に駐屯する我が守備兵は依然留置することになりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 ところが同年3月12日ニコラエフスクの日本軍は休戦中のパルチザン赤軍の別働隊)を攻撃して敗北、3月18日戦闘停止、5月24日より収容中の日本軍民多数が殺害されました(尼港事件及樺太内必要地点ノ一時占領ニ関スル件 外務省編「日本外交文書」大正九年 第1冊 下巻 外務省・井上清「日本の軍国主義」Ⅱ 東大出版会)。

 加藤高明は同年6月27日の憲政会東海大会において「遠く西伯利(シベリア)の内地に出兵し、其後過を改めて撤兵せむと欲せば、屡々撤兵の機会ありたるに拘わらず、(中略)終に撤兵の機を失し、(中略)外は帝国国際上の立場を困難ならしむるのみならず、之が為露国民の反感を招き不祥の事件は頻々として吾人の耳朶を打つに至る。最近に於けるニコラ(イ)エフスク虐殺事件の如きは其最も甚しきものなり。(下略)」と原敬内閣の外交政策を批判したのです。同年12月25日招集の第44議会においても、1921(大正10)年1月24日彼は貴族院でシベリア撤兵を主張しています。これに対して原首相は日本のシベリアに対する地理上の関係は他国と異り、同地の政情は直ちに朝鮮・満州に波及、またシベリアの日本居留民の生命・財産を保護するために今ただちに撤兵できぬと答弁しました(大日本帝国議会誌刊行会「大日本帝国議会誌」第12巻)。

 同年2月3日衆議院では憲政会・国民党より各々提出の普通選挙法案を否決(大日本帝国議会誌刊行会「前掲書」)しました。

 同年11月4日原敬首相は政友会近畿大会出席のため向かった東京駅で中岡艮一に刺殺され、翌日内閣は総辞職、同月13日高橋(1921.12.21立憲政友会総裁「立憲政友会史」5)に組閣命令が出され、原内閣の全閣僚留任のまま高橋是清内閣が成立しました(新聞集成「大正編年史」)。

Musasino Rest Gallery―目次―胸を打つ人間ドキュメントータイトルー平民宰相・原敬暗殺  

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24

 1921年7月11日米大統領ハーディングは軍備制限ならびに太平洋・極東問題でワシントン会議を開くことを非公式に提案(同年8.13日本を正式招請8.23参加回答)海軍軍縮には米・英・日・仏・伊の5国、太平洋・極東問題には前記5国の外、中国(北京政府のみ、広東政府招請されず)・ベルギー・オランダ。ポルトガルの9国が参加しました。9月27日同会議全権に加藤友三郎(原内閣海相)・徳川家達貴族院議長)・幣原喜重郎(駐米大使)が任命されました(新聞集成「大正編年史」)。

世界史の窓―ハイパー世界史用語集―世界史用語―15章 二つの世界大戦―第2節 ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 ア. ヴェルサイユ体制とワシントン体制―ワシントン会議

 ワシントン会議第1回総会で米国務長官ヒューズは建造中の主力艦の廃棄・保有比率の設定を提案しています。

 当時米・英・日3国は建鑑競争をやめず、1920年の戦後恐慌による経済の低迷によって重い財政負担にあえいでおり、その解決を軍備縮小にもとめていたのです。しかし軍縮を達成するにはベルサイユ講和条約に規定された第1次世界大戦後の国際秩序(ベルサイユ体制)を維持できるか否かにかかっていたのです。ところがベルサイユ条約山東問題を解決できず(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)、戦争の火種はなくなっていませんでした。同会議が太平洋・極東問題を議題として採択しなければならなかった理由はこれでおわかりでしょう。

 同年12月13日締結された太平洋方面における島嶼たる属地及島嶼たる領地に関する四国(米・英・仏・日)条約(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)は太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約し、同条約第4条で大不列顚国及日本国間の協約(日英同盟)終了が規定されました。

 いわゆる日英同盟ははじめロシア、後にドイツを対象とする軍事同盟でしたが、英国にとってロシアは革命によって崩壊、ドイツも第1次世界大戦に敗北したので存続の利益がなくなったのに、日本の中国支配強化に利用されるだけの存在となっていたから、1921年英帝国会議においてオーストラリアやニュージーランド日英同盟存続を望んでいたにもかかわらず、日本と対立する米国と関係の深いカナダが日英同盟の廃棄を強く主張、同会議を主導するに至り、英国は日英同盟廃棄にふみきったわけで、これによって日本の外交は国際的孤立を深めたのです。

 山東問題に関する日中会談は米英両国のオブザーバーが臨席して日中直接交渉がワシントン会議の外で行われました。中国はワシントン会議の正式議題として山東問題を討議したい希望でしたが、同会議出席の9国中6国がベルサイユ講和条約に拘束されている状況の下では現実に希望は成立せず、1922(大正11)年2月4日締結された山東懸案解決に関する条約(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)は日本の膠州湾租借地還付、中国の同地開放、日本軍の撤退などを規定しています。

 同年2月6日に締結された中国に関する九国条約其の他(外務省編「前掲書」)は中国の主権・独立ならびに領土保全を尊重、中国の門戸開放・機会均等を約束しました。また同日成立した海軍軍備制限に関する条約(外務省編「前掲書」)は米・英・日・仏・伊の主力艦保有量比率を5・5・3・1.67・1.67とし、航空母艦もほぼ同様の比率で保有量が制限されました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む25

 加藤高明ワシントン会議における日英同盟存続の可否について、いろいろの関係からやはり存続して赤の他人となってしまわぬ方がよいと思っている。英国側で種々議論が出て、何うなっても介意せぬと云うなら寧ろ廃棄するがよいと述べ、また海軍制限に関しては財政的に行詰っているから、英米とお互いに縮小することは必要だ。併し常に対等の権利だけは主張するが宜いとして英米の主力艦保有量7割確保を主張、結局6割に同意した政府を批判しました。

 1922(大正11)年2月6日ワシントン会議が終了する直前の同年2月1日加藤高明の政敵であった元老山県有朋が死去(徳富蘇峰編「公爵山県有朋伝」下 原書房)したことは元老の政界における影響力の衰退を象徴する出来事でした。

 1919(大正8)年末に招集された第42議会以後普選運動の主な担い手となったのは地域の市民的政治結社で1922(大正11)年春より普選運動は再び高揚しました。1921(大正10)年末に招集された第45通常議会において提出された憲政会・国民党・無所属組の統一普選案(憲政会の従来「独立の生計を営む者」という条件を削除、国民党は選挙権年齢20歳を25歳に改める)が翌年2月23日衆議院に上程され、討論中傍聴席より生蛇を投入した者が出ました。同夜普選要求の群集が警察官と衝突する騒ぎが起き、2月27日普選案は否決されました(新聞集成「大正編年史」)。しかし政友会内部にも普選法案にたいする動揺が拡大しつつあったのです。

 高橋是清内閣は同議会に過激社会運動取締法案を提出しました。床次竹二郎内相はロシアの過激派と連絡する赤化運動と朝鮮独立運動の取り締りを目的とすると説明しましたが、とくに新聞社などがこの法案は言論報道の自由を圧迫するおそれがあるとして反対運動を展開、同年3月24日貴族院は同法案を修正可決しましたが、衆議院で審議未了となり、翌日衆議院は各派共同提出の陸軍軍備縮小建議案などを可決しました(「大日本帝国議会誌」第13巻)。

 高橋是清内閣は最初から不安定な内閣でしたが、同内閣が第45議会をのりきると、高橋に辞職をもとめる動きが活発となり、同内閣は1922(大正11)年年6月6日閣内不統一により総辞職、6月9日元老松方正義枢密院議長清浦奎吾と相談、加藤友三郎を第一候補とし、彼が辞退すれば憲政会総裁加藤高明を推す方針をきめ、病中の西園寺公望の同意を得ました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー清浦奎吾 

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26

 憲政会の安達謙蔵は同郷のよしみで清浦奎吾に探りを入れ、「ともかく大森駅のプラットホームで人目を避けて、手真似で指を二本出したら加藤友三郎とか、一本出したら加藤高明であるとか、ちょっと合図をすることにしようとの約束で、時日の打ち合わせまでして置いて辞去した。そして予は其の指定の時日の大森駅に行って待っていると、程なく清浦子が見えて約束のサインを受けたわけであるが、」(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)元老の後継首相候補加藤友三郎であることを知り、落胆したそうです。 松方正義加藤友三郎に組閣の意思を確かめると加藤友三郎は即答を避けました。一方床次竹二郎(政友会)は加藤友三郎を訪問、組閣を引き受けるよう説得し、加藤(友)も政友会が援助することを条件に組閣を承諾しました(岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌―」大正十一年六月十二日条 岩波書店)。かくして1922(大正11)年6月12日加藤友三郎内閣が成立しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー加藤友三郎 

 同年日本軍は漢口・青島・北満州沿海州からの撤兵を終了していましたが、同年6月24日日本政府は10月末までにシベリアからの撤兵を完了すると声明、10月25日尼港事件の賠償をもとめて北樺太を除き声明を実行していました。同年9月25日極東共和国ソビエト政府との交渉は決裂しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 1923(大正12)年1月加藤高明貴族院において加藤友三郎首相に対し、北樺太駐兵其の他に関し、次のような質問演説を行いました。

 すなわち北樺太駐兵の目的は第一に国家が其の多数国民を失った、其悲惨事に対して、道義的補償を得ること、第二に被害者遺族に対する精神的、経済的補償を得ることであるが、利害を考慮すれば、此際、北樺太における軍隊を撤退して、好機来たらば、他の方法によって、要求の貫徹を期するのが、利益であろうという趣旨でまた山東利権については譲歩しすぎて国威の失墜を招いているとの質問でした。

 同年8月24日加藤友三郎首相は病没し、翌日内閣は総辞職、同月28日山本権兵衛に組閣命令が出されました(新聞集成「大正編年史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27

 山本権兵衛は組閣命令を受けて直ちに政・憲・革の3党首をはじめ、政界の主要人物を水交社(1876創設 海軍将校の親睦団体)に招いて入閣を要請しましたが、加藤高明は政党内閣を理想とすることを理由に承諾せず、即刻開催された憲政会最高幹部会でも入閣拒絶の党議が成立、1923(大正12)年8月30日加藤高明は水交社を訪問して入閣辞退を回答しました。

 しかるに同年9月1日関東大震災が起こって、戒厳令が公布され、9月2日朝鮮人暴動の流言がひろがり、朝鮮人迫害がはじまる情勢の中で(「関東大震災朝鮮人」現代史資料6 みすず書房)、第2次山本権兵衛内閣が成立しました(「大正編年史」)。

関東大震災90周年の夏・写真レポート/山村武彦

 野党憲政会内部にはこのままでは憲政会へは政権はこないという失望がひろがり、非政友会勢力合同論と反対論が対立、また1919(大正8)年12月以来加藤高明は普通選挙の断行を政見の第一に掲げていましたが、元老およびその周囲はまだこれを回避しようとしており、憲政会に政権を渡そうとしないので、加藤高明を総裁から追放しようとする加藤排斥派と擁護派がいがみあい、これに非政友会勢力合同論がからんで、憲政会は分裂の様相をみせはじめました。しかし加藤高明はこの難局をきりぬけ、引き続き加藤総裁が指導する憲政会の団結をまもることに成功しました。

 同年12月27日難波大助が摂政(1921.11.25皇太子裕仁摂政となる「官報」)を狙撃する事件(虎ノ門事件)が発生し、山本権兵衛内閣は総辞職、1924(大正13)年1月7日清浦奎吾(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28参照)内閣が貴族院研究会の援助を受けて成立しました。

クリック20世紀―年表ファイルー1923年―虎ノ門事件 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28

 清浦奎吾内閣を松本剛吉は「清浦内閣は(山本内閣と)同じく寄木内閣にして、而(し)かも其寄木は前内閣の如く棟梁自ら為せるにあらず、叩き大工の寄合に委して思ひ思ひの工夫を持寄り作り上げたるものにして、首相の抜擢推薦に依れる閣臣一人もなし。首相の威令何に因ってか行はれん。其命脈の如き永くて三月、短かくて一ヶ月ならんことを予は断定す。」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十三年一月七日条 岩波書店)と批評しています。

 1924(大正13)年1月10日政友会・憲政会・革新倶楽部護憲3派有志ははやくも清浦内閣打倒運動を開始しました(第2次護憲運動発足)。同年1月15日政友会総裁高橋是清は同会幹部会で清浦内閣反対を声明、これに対して山本達雄・中橋徳五郎・床次竹二郎・元田肇らは脱党し(新聞集成「大正編年史」)、同月29日政友本党を結成、第1党として清浦内閣の与党となりました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)。

 同年1月18日高橋是清加藤高明犬養毅3党首は枢密顧問官を辞職した三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)の斡旋で会談し、政党内閣確立を申し合わせました(新聞集成「大正編年史」・「観樹将軍回顧録」大空社)。同年1月30日憲政擁護関西大会が大阪中央公会堂で開かれ、3党首も出席、その帰途加藤高明は名古屋で下車しましたが、護憲3派幹部乗車の列車転覆未遂事件が起こり、翌日衆議院で列車転覆未遂事件に関する浜田国松の緊急質問中、暴漢3人が壇上を占拠、議場混乱のため休憩中解散となりました(新聞集成「大正編年史」)。

 憲政会の議会解散に対する声明書が「現内閣は此の如くして故らに国民の階級的自覚心を喚起し、左なきだに動揺を免れざる国民思想をして、益々険悪に赴かしめ、其の極まる所、或は恐る、彼の戦慄すべき階級闘争を惹起するに至らむことを」(「憲政会史」下巻 原書房)と述べているように、彼等は清浦内閣に代表される貴族支配への民衆の反感が社会主義と結合した民主主義運動の展開に移行していく事を深く恐れていたのです。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29

 1924(大正13)年5月10日第15回総選挙が実施され、憲政会当選者は153名に達して第1党となり、これに対して清浦内閣の与党政友本党は114名に止まり、護憲3派の大勝となりました。

 同年6月7日清浦奎吾内閣は総辞職した結果、憲政会に反対してきた元老西園寺公望(同年7.2松方正義死去)も「政局并に人心の安定を期する」(岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治・松本剛吉政治日誌」大正十三年六月十一日条 岩波書店)には加藤高明を推す外なしとの松本剛吉の建策を受け入れ、彼を首相に推薦、6月9日加藤高明に組閣命令が出されました。かくして加藤高明は高橋・犬養両党首を訪問、3派連立を協議、6月11日第1次加藤高明内閣が成立、若槻礼次郎(内相 憲政会)、浜口雄幸(蔵相 憲政会)、高橋是清(農商務相 政友会)・横田千之助(司法相 政友会)・犬養毅逓信相 革新倶楽部)・外相幣原喜重郎らが入閣しました(「官報」)。

三菱グループー三菱グループについてー三菱人物伝―三菱の人ゆかりの人―vol.18 幣原喜重郎  

weblio辞書ー検索―松本剛吉

 加藤内閣がまず取り組んだのは行財政の整理で陸軍の4個師団の廃止・実行予算3000万円節約が閣議決定されましたが、軍部大臣武官制の改正などは見送られました。

 外交では1925(大正14)年1月20日北京で日本国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間の関係を律する基本的法則に関する条約(日ソ基本条約)が調印され、同年5月15日北樺太派遣軍の撤兵が完了しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

 懸案の普選問題については同年3月2日衆議院で普通選挙法案(衆議院議員選挙法改正案)が修正可決されましたが、松本剛吉は西園寺公望の意をうけて加藤高明首相を訪問、「若しも通過困難なる場合は、断然意を決して解散の処置を執られ、真の我党内閣に改造せられては如何でありますか(貴族院で普選案の通過が困難ならば断乎として解散し、憲政会内閣を作ってはいかがですか)」と勧めました。ところが松本は「(加藤)首相は身を震はし、火鉢に両手を突き、頗る緊張して之を聴かれ、下の如く答へらる。曰く御親切の段感謝に堪えず、実は解散の事に関しては(中略)浜口、若槻、安達抔よりは二三回此の事を申出でたれども、自分は御承知の如く病身にして如斯事迄も断行してやり通す勇気がありません、兎に角此の議会は如何様にしても、假令(たとえ)曲りなりにも、通過する様御配慮を願ひ度旨答へられたり。」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十四年三月五日条)と述べています。同年3月29日両院協議会案が成立、結局25歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権を与え、欠格条項として「貧困ニ因リ生活ノ為公私ノ救助ヲ受ケ又ハ扶助ヲ受クル」者が除外されました(内閣印刷局「法令全書」第一四巻ノ二 原書房)。

 同年3月7日衆議院治安維持法案が修正可決され、3月19日貴族院も可決しました(「法令全書」同上 原書房・「大日本帝国議会誌」)。 その内容は「国体(天皇統治の国がら)ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」などで、従来の治安警察法が政治活動や社会運動などの具体的行動を取り締まるものであったのに対して、治安維持法は国体変革と私有財産の否認という思想・信条を取り締まるもので、社会主義運動や労働者・農民運動をを取り締まるだけでなく、のちには拡大解釈されて民衆の諸権利と自由を弾圧する悪法の代表例となりました。

 同年5月5日貴族院令が改正されましたが、有爵議員を若干減員、帝国学士院互選の勅選議員を設置するなどの微温的改革が行われたに止まりました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む30(最終回)

 1925(大正14)年4月4日立憲政友会総裁高橋是清が引退を表明、同月16日商相兼農相を辞任、後任には政友会より野田卯太郎、農相に岡崎邦輔が任命され、4月13日田中義一が莫大な政治資金を準備したといわれ、大会で政友会総裁に就任しました(新聞集成「大正編年史」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田中義一 

 同年4月15日田中義一政友会総裁は加藤高明首相と会見、現内閣支持を共同声明しましたが、5月10日革新倶楽部総会は政友会との合同を決議、5月30日合同反対派の尾崎行雄らは中正倶楽部残留派とともに新正倶楽部を組織、5月14日政友会は臨時大会で革新倶楽部中正倶楽部と合同しました。また5月28日加藤内閣逓相犬養毅が政界引退を表明、5月30日逓相を辞任したので(後に地元で推薦され、補欠選挙で再選して政友会に所属)後任に安達謙蔵(憲政会)が任命されました(新聞集成「大正編年史」)。

 このように第1次加藤高明内閣を支えた護憲3派に変動が起こる中で、同年7月30日閣議は税制整理案をめぐって対立激化、小川平吉(法相 政友会)、岡崎邦輔(農相 政友会)らは退席、7月31日加藤高明内閣は閣内不統一により総辞職、一方政友会と政友本党幹部は提携を申し合わせていました(新聞集成「大正編年史」)。

 「総裁(田中義一)は自分が働き出せしにあらずして、自然と政本提携又は合同成立の見込あり(自分がはたらきかけたのではないが、おのずと政本提携または合同が実現する見込みである)」と唯一人の元老となった西園寺公望に伝えるよう松本剛吉に依頼しました。松本が報告すると西園寺公望は「政権を執るが為めに俄かに企んだことならん(政権をとるためににわかにたくらんだことであろう)田中が働き出した訳ではない抔(など)は其言訳ならん(田中がはたらきかけたのではないというのはいいわけであろう)、実に驚いた者共である」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十四年七月二十八日条)と非難、同年8月1日加藤高明を再び首相に推薦、翌日第2次加藤高明内閣(憲政会単独)が成立しました。

 しかし憲政会単独では衆議院の過半数に達しないため政局は不安定となり、憲政会では浜口雄幸蔵相や安達謙蔵逓相らは繰り返して解散断行を主張しましたが、貴族院議席をもつ加藤高明首相や若槻礼次郎内相は解散する勇気がなく、政友本党と妥協して議会をのりきる方針を変えませんでした。

 かかる情勢において同年12月25日第51議会が招集されましたが、1926(大正15)年1月26日首相加藤高明は病気により内相若槻礼次郎を首相代理に任命(「官報」)、しかるに同年1月28日加藤高明首相は67歳で死去、勲功により伯爵を授与されました。

この小説は加藤高明死去の有様の叙述で終了しています。

 「加藤は初め風邪だったが、それが肺炎になり、結局心臓麻痺で亡くなられた。(中略)加藤がまだ野党の総裁でやっていたころ、私は加藤の心臓のよくないことを、ひそかに聞いていた。(中略)それがなぜ私たちに伝えられたかというと、お前がたは努力して加藤を助けているが、あの人の身体は、いつどんな変化があるかわからん。それは覚悟しなければならんという意味だったろう。(中略)

 私が明治二十五年に大蔵省に入ったときは、(加藤は)監督局長だったと思う。(中略)そのころから加藤を知っていた。(中略)

 原(敬)はなかなかの利口者だから、山県(有朋)公などにはよほど取り入っていた。(中略)そこへいくと、加藤は老人を喜ばせることのできない男であった。うっかりすると、怒らせてくる。」(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史」-古風庵回顧録―講談社学術文庫

 若槻礼次郎の指摘はたしかにその通りですが、山県有朋に取り入ることの上手かった原敬が、結果として衰退しつつあった元老の影響力を温存し、明治国家を民衆のために改革するという側面をもった大正デモクラシーを不徹底なものにしたことは確かで、元老を怒らせた加藤高明も国家の不徹底な改革に終わったことは原敬と同様ですが、1932(昭和7)年5.15事件による犬養毅政友会内閣の倒壊まで、継続する政党内閣の慣例を切り開いた点で、その実績は高く評価されるべきでしょう。