寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む11~20

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む11

 鉄道国有は満州進出を強化するための軍事輸送確保をめざす軍部が常に強く主張するところで、桂太郎内閣は総辞職以前の最後の閣議でこれを決定、後継の西園寺公望内閣にこの案踏襲を一条件として提案したところです。西園寺内閣首脳部は43000万円で全国17の私設幹線鉄道を買収する具体案を閣議にはかり、また元老にも了解を求めました。

 しかし閣内において上記内容の鉄道国有法に一人反対したのは加藤高明外相でした。西園寺公望首相・原敬内相・寺内正毅陸相らが外相を説得、とくに原敬外相所管事務でもないのに、職を賭してまで反対論を唱える必要なしと彼をなだめましたが、1906(明治39)年2月17日の閣議で加藤外相は(ア)私権(財産権)蹂躪(ふみにじる)、(イ)国債の負担過重、(ウ)官営多分拙劣という理由を挙げて反対、翌日外相は岩崎久弥らに辞職せざるをえないことを告げています。同年2月28日西園寺公望内閣は閣議で鉄道国有法案を決定、3月3日加藤高明外相辞任が確定しました。以後原敬との交友はほとんど断絶したものとなりました。

 同年3月末鉄道国有法は議会を通過成立しましたが、買収された私有鉄道は17社、その建設費は25800万円、その買収価格は45600万円に増加、その利子2280万円となり、翌年10月1日買収を完了しました。

 当時加藤高明が私有鉄道の大株主三菱の利益を代弁するために鉄道国有法に反対したという批判があり、これに対しては岩崎弥之助が末延道成に「加藤が姻戚関係から三菱の為に主張するように噂されることは、誠に気の毒に堪えない。」と語った言葉を引用して、上記の批判が不当であるとする意見(伊藤正徳「前掲書」)があります。

 しかしながら岩崎家の働きかけがなかったとしても、この問題について彼は岩崎家と密接に連絡をとりあっており、鉄道国有法案反対が岩崎家の利益と矛盾しない行動であった事はたしかで、「かれは朝鮮の鉄道を強制買収することには異論をとなえずに賛成していたのだから、その主張には矛盾があったばかりでなく、財閥の利益を擁護しようとする意図はみえすいていた。」(信夫清三郎「明治政治史」弘文堂)という見解も説得力があります。

 加藤外相鉄道国有法に反対した理由としては、上記軍部(山県有朋桂太郎ら)の圧力に対する反感もあったと考えられます。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む12

 桂太郎小村寿太郎加藤高明の関係は以前から交流がなかったのですが、1908(明治41)年第1次西園寺公望内閣が赤旗事件(「日本の労働運動」を読む44参照)で総辞職、同年7月14日第2次桂太郎内閣が成立、同年8月27日小村寿太郎が駐英大使から外相に就任すると、加藤高明外相から駐英大使引き受けの要請を受けました。

マネー辞典―分野別辞典―政府―索引―ター大使館   

 7月上旬桂太郎からの招電に接した小村寿太郎は自分の後任に経済の理解がある加藤高明を推薦しました。桂は加藤とはほとんど面識がなかったので、伊藤博文松方正義(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む6参照)に根回しを依頼、加藤は事前に岩崎久弥と相談の上小村外相と会見、同年9月12日彼の駐英大使親任式がおこなわれました。同年12月17日加藤大使は夫人と娘を同伴して新橋駅を出発、下関から平野丸に乗船、翌年2月11日ロンドンに着任しました。

 1894(明治27)年7月16日調印された日英通商航海条約(「大山巌」を読む34参照)は領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部撤廃を規定しており、1899(明治32)年7月17日から実施となりましたが、同条約第21条において本条約は実施の日より11箇年経過後両締約国が本条約終了の意思を他方に通知すれば、1箇年経過後本条約は消滅する旨の規定がありました。加藤駐英大使の第一の任務はこの日英通商航海条約の改定交渉にあり、1911(44)年4月3日新しい日英通商航海条約(外務省編「日本外交文書」第44巻第1冊 巌南堂書店)が調印され日本は関税自主権の回復に成功しました。

 加藤大使の第二の任務は第3回日英同盟協約(「坂の上の雲」を読む12・45参照)改定交渉でした。これは日露戦争後日米関係の悪化にともない、日英同盟廃止の世論が高まるイギリスが要求したもので、本協約第4条「両締約国ノ一方カ第三国ト総括的仲裁裁判条約ヲ締結シタル場合ニハ本協約ハ該仲裁裁判条約ノ有効ニ存続スル限右第三国ト交戦スルノ義務ヲ前記締約国ニ負ハシムルコトナカルヘシ」の規定が重要です。条文の意味が判りにくいと思いますが、要するに英国が米国と総括的仲裁裁判条約を締結したとき、日本と米国が戦争しても、英国は米国と戦争する義務はないという意味です。また本協約第6条で有効期限は10年とされました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年8月加藤高明は勲功により男爵、旭日大綬章を授けられました。

 同年8月25日桂太郎首相は政綱実行の一段落を期として辞表を提出、後任首相に西園寺公望を推薦(徳富蘇峰編「公爵桂太郎伝」坤巻 原書房)、8月30日第2次西園寺公望内閣(外相内田康哉)が成立しました。

 1912(明治45)年7月30日天皇逝去の公電が加藤大使に発せられたのはロンドン時間の7月29日午後9時ころで、ただちに皇太子嘉仁親王践祚、大正と改元、8月27日追号明治天皇と決定しました(「官報」)。

 同年8月13日大正天皇元老ならびに西園寺公望首相に先帝の遺業を継ぐに当たっての勅語を下し、内大臣兼侍従長桂太郎を任命しました(「官報」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13

 1911(明治44)年9月加藤高明駐英大使は賜暇を得て10月東京に帰着したのですが、翌年山本権兵衛(「坂の上の雲」を読む16参照)海軍大将の仲介で彼が桂太郎と会談したのはロンドンへ帰任する約2週間前の4月上旬でした。

 このとき軍人の政治を嫌悪していた加藤は桂から希望により近く後備役(現役・予備役を終了したものが服務する兵役)に編入されること、及び政党についての考え方などを聴き、桂の軍人らしくない一面を見、桂は山本権兵衛が加藤を外交第一人者として推挙する通りの識見をもった人物として評価したようです。

 1912(大正1)年11月10日西園寺公望首相は師団増設問題で元老山県有朋と会見、意見一致せず、同月22日上原勇作(「坂の上の雲」を読む33参照)陸相は朝鮮に2個師団増設案を閣議に提出しましたが、同月30日の閣議は上記増設案を財政上不可能として否決したため、上原陸相は12月2日帷幄(いあく)上奏(閣議を経ず直接天皇に上奏)により天皇に単独辞表を提出、陸軍は後任陸相を送らなかったので、同月5日第2次西園寺公望内閣は総辞職(原奎一郎編「原敬日記」3 福村出版株式会社)、12月17日桂太郎に組閣の大命が降下すると、彼はロンドンの加藤高明外相就任を要請、その承諾を得ました。同年12月21日第3次桂太郎内閣が成立(徳富蘇峰編「前掲書」)、同年12月24日第30通常議会が招集されました。しかし早くも翌1913(大正2)年1月17日政友会8団体の交渉委員は同会本部で協議の結果、西園寺総裁に、我党は現内閣に反対の意思を表明す、其手段方法及び時機に就ては最高幹部に一任すと決議しました。これに対して桂は新党組織を計画、1月21日議会に15日間の停会命令がだされ、この間に桂首相は何とか危機をのりきろうとしていたのです。ところが1月24日憲政擁護第2回連合大会が東京新富座で開催され、聴衆は場内満員に及ぶ盛会となりました(新聞集成「大正編年史」大正昭和新聞研究会)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む14

 1913(大正2)年1月28日夜加藤高明は東京に帰着、翌同月29日桂太郎首相と会談、入閣条件として対支策・対満蒙外交に関して、陸軍側が外務当局の意思を無視し、又は独断にて計画を進めることは、日露戦争以来、現実の弊であった。自分が外相となって責任を取る場合には、外交は外務大臣の意見に従って統一節制あるものにしたいとの要求を出し、桂首相はこれを受け入れました。

 同年2月5日数万の民衆が議事堂を包囲する中で議会は再開され、立憲政友会立憲国民党両党は桂内閣不信任案を提出、政友会の尾崎行雄(「大山巌」を読む47参照)が「彼等は常に口を開けば直に忠愛を唱ヘ、恰(あたか)も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りまするが、其為すところを見れば、常に玉座(天皇の座席)の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。(拍手起る)彼等は玉座を以て胸壁となし詔勅を以て弾丸に代ヘて政敵を倒さんとするものではないか。」(「大日本帝国議会誌」第8巻 大日本帝国議会誌刊行会)と叫んで桂首相を指さすと、桂太郎の顔はさっと青ざめたそうです(尾崎行雄「咢堂回顧録」下 雄鶏社)。

 5日間の停会命令が下されましたが、議事堂周辺には護憲派民衆の示威行進が行われていました。

 同年2月7日桂首相は新党を立憲同志会と命名、宣言書を発表しました(新聞集成「大正編年史」)。

History of Modern Japan―日本近現代史研究―政党議会に関するデータベースー2.政党に関するデータベースー戦前期:衆議院院内会派ー立憲同志会

 加藤外相の建策により、2月8日首相官邸において桂首相は立憲政友会総裁西園寺公望と会見、内閣不信任案の撤回を要望しましたが、翌日西園寺は加藤高明を介してこれを拒絶したので、大正天皇は西園寺に衆議院の紛糾を解決せよとのご沙汰を下しました。2月10日西園寺は政友会総裁辞任を上奏したのですが、政友会議員総会は不信任案を撤回しないと決議しました。

 同日再開された議会周辺を護憲派の民衆が包囲する情勢の下で、桂首相は衆議院議長大岡育造の勧告により内閣総辞職を決意、3日間の停会命令が出されましたが、民衆の中には政府系新聞社や警察を襲撃するものが出、軍隊が出動する騒ぎに発展しました(第1次護憲運動)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15

 1913(大正2)年2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職、元老会議は後継首相に山本権兵衛を推薦、翌日山本権兵衛(「坂の上の雲」を読む16参照)に組閣命令が出されました。同年2月13日山本権兵衛よりの加藤高明留任要請を謝絶、2月20日山本権兵衛内閣(首・外・陸・海を除く全閣僚は政友会出身)が発足しました。

 桂太郎立憲同志会加藤高明を引き入れたいと熱望していたので、かれは同年4月同志会に入党、同年4月25日より中国視察旅行に出かけ、6月7日東京に帰着、この間北京到着後袁世凱、上海では孫文らと会見しました。

 1911清朝は外国資本を導入して鉄道の国有化をはかりましたが、強力な反対運動が起こって同年10月10日武昌が革命軍に占領されるとまたたく間に中国の大半が革命軍の手に落ちました(辛亥革命)。 1912年1月1日革命軍は南京において中華民国成立を宣言、孫文が迎えられて臨時大総統に就任しましたが、2月12日清朝宣統帝は退位、軍閥袁世凱に臨時共和政府組織の全権を与え、ここに清朝は滅亡しました。袁世凱は南京の革命政府と協定して大総統の地位を引き継ぎ、北京政府を樹立、革命を弾圧したので、孫文は1913年第二革命を起こしたが失敗、日本に一時亡命しました(尾形勇・岸本美緒編「中国史」世界各国史3 山川出版社)。

孫文・梅屋庄吉と長崎ー歴史年表ー1900年~1915年

 1913(大正2)年加藤高明は7月15日同志会5常務の筆頭となりましたが、同年10月8日桂太郎は彼をを枕頭に招いて立憲同志会と憲政のために尽力を依頼、同月10日死去しました(徳富猪一郎編「前掲書」)。よって同年12月23日立憲同志会は結党式を挙行、総理に加藤高明が就任しました(新聞集成「大正編年史」)。

 山本権兵衛内閣は同年6月13日陸・海軍省官制改正を公布、軍部大臣の現役武官制を撤廃し、軍部の横暴を非難する世論に配慮を示しました(「官報」)。

 しかし1914(大正3)年1月23日各新聞はベルリン裁判所におけるシーメンス社勤務リヒテルの裁判で、同社より日本海軍高官に贈賄した証拠が出たと報道、立憲同志会の島田三郎は衆議院予算委員会シーメンス事件に付き政府を攻撃、3月24日山本権兵衛内閣は総辞職しました(新聞集成「大正編年史」)。

聚史苑―歴史年表―大正年表―大正年表1:1912~1915年―1914(大正3)年1月22日ーシーメンス事件     

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16

 元老会議は徳川家達貴族院議長)らに組閣を要請しましたが辞退され、ついに井上馨大隈重信(「田中正造の生涯」を読む12参照)を後継首相に推薦説得、しかしすでに十数年も政治の実際から離れていた老齢の大隈重信加藤高明を訪問、大命(天皇の組閣命令)を拝受すべきか否かについて彼の意見を聞きました。出来る限りお助けするから、今後のことは少しも御心配には及ばぬとの彼の激励をうけて大隈重信も政権を担う決意を固めました。かくして1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が成立、副総理格として加藤高明立憲同志会総理)が外相として入閣しました。

 1898(明治31)年以来外務省が外交機密往復文書の写しを悉く元老の手許に送付する慣例がありましたが、加藤外相はこれを廃止、必要ある場合外務当局に精説させることにしました。これが元老とくに山県有朋の反感を買うに至った理由の一つです。

 1914(大正3)年6月28日オーストリア皇太子がオーストリア国籍のセルビア人に暗殺されるサラエボ事件をきっかけに7月28日オーストリアセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦がはじまりました。

歴史年代ゴロ合わせ暗記―第一次世界大戦と日本―サラエヴォ事件

  同年8月4日英国はドイツに宣戦布告、8月7日同国はドイツ武装商船撃破のため、日本の対ドイツ戦参加を希望してきました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。同日午後10時から早稲田の大隈首相私邸で開かれた閣議で加藤外相は「日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。(中略)ただ、一は、英国からの依頼に基く同盟の情誼と、一は、帝国が此機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高めるの利益と、この二点から参戦を断行するのが機誼の良策と信ずる。(下略)」と述べ、閣議が対独参戦を決定して散会したのは8日午前2時でした。

 8月9日加藤外相は英大使に東アジアのドイツ勢力一掃のため参戦と説明したことに対して英国は日本が第1次世界大戦を利用して中国侵略を推進しようとする動きを警戒、日本の軍事行動開始見合わせを希望しましたが、同月12日英国は戦地極限を条件として日本の参戦に同意しました。

 同年8月15日日本政府はドイツに膠州湾租借地山東省・「大山巌」を読む44参照)の交付を要求する8月23日の期限付最後通牒(自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ、自由行動をとるべき旨を述べた外交文書)を発し、無回答であったので、同日ドイツに宣戦布告しました(外務省編「前掲書」)。9月2日日本軍は山東省に上陸開始、10月14日までに日本海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を、11月7日日本軍は青島を占領しました(「大正編年史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17

 前年12月3日付加藤外相の訓令にもとづき、1915(大正4)年1月18日日置益駐華公使中華民国大総統袁世凱に5号21カ条の要求を提出し秘密交渉とするよう求めましたが、それは旅順・大連の租借期限延長・山東省ドイツ利権(山東利権)の譲渡をはじめとする膨大な利権を要求するものでした(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

横浜 金沢 みてあるきー付録―ファミリー版 日本史ミニ事典―コラムー対華二十一ケ条要求  

 

   同年1月22日から2月8日にかけて日本政府は上記対中国要求を第5号(「中央政府ニ政治財政及ビ軍事顧問トシテ有力ナル日本人ヲ傭聘セシムルコト」など7カ条)を除いて英・仏・露・米に通告、ところが中国は第5号の存在を在中新聞特派員に漏らしたので、2月20日米大使から第5号について問い合わせがあり、日本政府は第5号が希望条項であると説明、2月27日までに英・仏・露・米に第5号を内告せざるを得ませんでした。この点について、第36議会では加藤外交の失敗として厳しい追及を受けています。

 5月4日閣議は元老の意見や英外相グレーの通告をを考慮、21カ条要求から第5号を削除、同月6日午前会議で最後通牒案を決定、5月7日日置公使最後通牒を中国外交総長陸徴祥に交付、同月9日中国は日本要求を総て承認、同月25日21カ条要求に基づく山東省に関する条約・南満州・東部内蒙古に関する条約などの日中条約並びに交換公文に調印しました。

 同年11月22日英・仏・露3国大使は中国の独・墺との国交断絶勧誘に関し、日本が支持するよう要請する覚書を提示しましたが、12月6日日本政府は中国の対独・墺国交断絶に反対なる旨英・仏・露に回答しました(外務省編「前掲書」)。その理由はドイツ山東利権継承をのぞむ日本にとって、ドイツへの戦勝国として中国が講和会議に参加した場合、日本のドイツ山東利権継承に反対するおそれがあったからです。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18

 懸案の2個師団増設問題について、1914(大正3)年12月25日衆議院は軍艦建造費を可決しましたが、2個師団増設案を否決したため、衆議院は解散されました。1915(大正4)年3月25日第12回総選挙が実施され、与党立憲同志会は解散時の議席95から151議席に躍進して第一党となり、野党立憲政友会(1914.6.18総裁 原敬立憲政友会史」4)は解散時の議席185から104議席に減少(衆議院議席381)し、与党が大勝(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)、同年5月17日第36特別議会が招集されました(衆議院参議院編「前掲書」帝国議会史編)。

 ところが政友会所属議員板倉中・白川友一は大浦兼武内相に、第35議会で2個師団増設案を通過させるため、買収されたとの容疑で拘引され、7月29日大浦内相は辞表を、翌日大隈首相以下も辞表を提出しました。

 しかるに元老会議を主導した山県有朋桂太郎なき後の長州陸軍閥の後輩寺内正毅に組閣させたい意向でしたが、まだその準備が整わず大隈首相に留任を勧告、8月10日大隈重信内閣は外相加藤高明・蔵相若槻礼次郎海相八代六郎が辞任、内閣改造で留任することになりました(「大正編年史」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―てー寺内正毅

 1916(大正5)年3月26日大隈首相は元老山県有朋を訪問、立憲同志会総理加藤高明を後継首相に推薦しましたが、4月上旬山県有朋は挙国一致の必要を理由に政党首領の組閣に反対と返書しました(徳富蘇峰編「公爵山県有朋伝」下 原書房)。

 同年7月14日加藤高明は日独戦争以来の功績により子爵を授けられ、旭日桐花大綬章と3500円を下賜されました。

 同年10月4日大隈首相は加藤高明を後継内閣首班に推薦して辞表を提出、元老会議は後継首班に寺内正毅を推薦、寺内正毅に組閣命令が下され、10月9日寺内正毅内閣が成立しました(「大正編年史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19

 1916(大正5)年10月7日加藤高明立憲同志会総理は寺内正毅後藤新平ら(同志会脱党)が入閣すれば寺内内閣に反対と申し入れ(鶴見祐輔後藤新平」第3巻 勁草書房)ましたが、同月9日寺内新内閣に内相として後藤新平が入閣しました(「大正編年史」)。

 同年10月10日立憲同志会中正会公友倶楽部は合同して憲政会(総裁 加藤高明)を結成、衆議院の過半数を握るに至ったのです(「大正編年史」)。

横浜 金沢 みてあるきー付録―ファミリー版 日本史ミニ事典―図表ー政党の変遷―憲政会

 1917(大正6)年1月25日衆議院に憲政会・国民党共同提出の内閣不信任案が上程されましたが、提案理由説明の演説で国民党の犬養毅は憲政会を批判、衆議院は解散されました(「大日本帝国議会誌」・「大正編年史」)。同年4月20日第13回総選挙の結果、立憲政友会が大勝、憲政会は敗北しました(衆議院参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー犬養毅

 同年6月2日寺内正毅首相は原敬立憲政友会)・加藤高明(憲政会)・犬養毅立憲国民党)3党首に挙国一致の外交を行うための臨時外交調査会委員就任を懇請、原敬犬養毅は受諾しましたが、6月4日加藤高明は拒絶しました(「大正編年史」)。このころ第1次世界大戦をめぐる国際情勢は大きく局面を転換しつつあったのです。

 イギリス海軍の海上封鎖に苦しんだドイツが1917年1月9日無制限潜水艦作戦を決定すると、同年1月11日英国は輸送船団護衛のため日本軍艦の地中海派遣を要請、同年2月初旬日本軍艦は地中海へむけて出発しました。

 同年2月3日アメリカは対独断交(同年4月6日対独宣戦布告)、米駐中国公使は北京の段祺瑞政権に対し対独参戦を要請、1月20日寺内内閣は北京の段祺瑞政権に借款を供与(西原借款のはじめ)するとともに2月9日閣議で中国の参戦に関する米国の勧誘を支持すると決定、同月12日独・墺との国交断絶を中国に勧告しました(中国同年3.14対独国交断絶、同年8.14宣戦布告)。これに対して孫文は同年9月10日大元帥に就任、広東軍政府樹立を宣言、同年9月13日対独宣戦を公布したのです。

 同年1月27日外相本野一郎はグリーン駐日英大使と会談、講和会議の際山東ドイツ利権竝赤道以北のドイツ領諸島の処分に関し日本の提出する要求を英国政府が支持する旨の保障を得たいとの希望を開陳しました。これに対して同年2月13日英外相は駐英大使珍田捨巳に講和会議山東省のドイツ利権ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持と回答、日本がそれまで反対してきた中国の対独参戦に同意することを条件に3月1日フランス、3月5日ロシア、3月23日イタリアも英と同内容の支持を回答しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 同年6月13日日本政府は米国差遣特命全権大使に石井菊次郎を任命、同大使は7月28日横浜を出発、11月2日同大使は米国務長官ランシングと中国に関する交換公文において、米国は日本が領土の近接する中国において特殊利益を有することを認め、同時に両国は中国の独立・門戸開放・機会均等の尊重を約束(石井・ランシング協定)しましたが、中国をめぐって対立する日米が共通の敵ドイツを屈服させるまで、一時妥協せざるを得なかったということでしょう。

 1918年1月8日米大統領ウイルソンは戦争終結の条件として14ヶ条の提案を発表しました(外務省編「前掲書」)。

世界史の窓―ハイパー世界史用語集―世界史用語―15章 二つの世界大戦―ウ.大戦の結果ー十四ヵ条―オ.ソビエト政権と戦時共産主義―シベリア出兵

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20

 1917年3月12日ペトログラードに労働者・兵士ソビエト評議会)組織が成立、同月15日リヴォフ公首班の臨時政府が成立、ニコライ2世は退位してロマノフ王朝が滅亡しました(ロシア2月革命)。同年5月1日ロシア臨時政府は連合国に最後の勝利まで戦争継続と声明、7月21日ケレンスキーペトログラードソビエト議長・社会革命党)内閣が成立しました。

 しかるに同年11月7日ペトログラードでレーニンの指導するボルシェヴィーキ(ロシア社会民主労働党多数派)は武装蜂起してケレンスキー政権を打倒、全露ソビエト政権を樹立してレーニンは議長に就任(10月革命)、第2回全露ソビエト大会は交戦国の政府と国民に即時無併合無償金の講和締結を提唱するレーニンの「平和に関する布告」を採択しました。  しかしこの提唱は受け入れられず、1918年3月3日ソビエト政権は独・墺とブレスト・リトウスク条約を締結して単独講和にふみきりました。

 このころロシア国内にはオーストリアからの独立を希望するチェコスロバキア軍がいたのですが、ソビエト政権が独・墺と講和したため、英米側に移動しようとするチェコ軍救出を名目に連合国はシベりアに出兵(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)して革命干渉に乗り出したのです(和田春樹編「ロシア史」世界各国史22 山川出版社)。

 1918(大正7)年4月5日日英陸戦隊はウラジオストクに上陸を開始していましたが、同年6月21日英首相ロイド・ジョージは珍田捨巳駐英大使に日本のシベリア出兵を要請、7月8日米国はチェコ軍救援のためウラジオストクに日米共同出兵を提議してきました。

 8月2日日本政府はシベリア出兵を宣言、9月中旬までに日本軍はハバロフスクやチタを占領、ニコラエフスクにも陸戦隊が上陸しました。10月末シベリアの日本軍は北満派遣も含めて72000に達し、同年11月16日アメリカは日本の兵力増派に抗議してきました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。ところが前年の夏ころから米価の暴騰が激しくなり、8月3日富山県中新川郡西水橋町に米騒動が起こったのをきっかけに、騒動は全国に波及しました(井上清・渡部徹編「米騒動の研究」有斐閣)。

日本歴史巡りー大正―米騒動    

 同年9月21日寺内正毅首相は辞表提出、9月27日立憲政友会総裁原敬に組閣命令が出されました(「大正編年史」)。

 米騒動は明治時代において弾圧された労働運動や普選運動をはじめとする社会運動(「日本の労働運動」を読む46~50参照)が再び活発化するきっかけとなりました。

 米騒動がようやく沈静化した直後の1918(大正7)年10月6日富山県滑川(なめりかわ)で普通選挙期成同盟会が結成され(斎藤弥一郎「富山県社会運動史」富山県社会運動史刊行会 松尾尊兊「政党政治の発展」岩波講座 日本歴史 現代2引用)、これが新聞を通じて全国に報道されると、新しい普選運動を呼び起こす役割を果たしたのです。