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寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む1~10

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む1

 寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」(講談社)は第24代首相加藤高明の生涯を述べた伝記小説として1994(平成6)年出版された作品です。

 この小説第一章は加藤高明の生まれ故郷の描写から始まります。彼は1860(安政7・万延1)年正月3日尾張藩徳川御三家の一つ)下級武士服部重文(しげあや)の二男總吉(ふさきち 母 久子)として尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市代官所の手代屋敷に生まれました。彼の祖父服部作助以来服部家は佐屋代官所手代を務め、武士としての地位は低かったようですが、役得が藩手当を上回り、経済的には豊かでした。

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 1864(元治1)年12月父の鵜多須(愛西市)代官手代転任により同地に移転、1867(慶応3)年秋祖父母(作助・加奈子)が代官手代職を嗣子重文に譲って名古屋に移転するとき、祖父母の懇望と本人の希望で總吉は名古屋に転住、寺子屋前田修観堂に就学して「十八史略」の素読を学ぶに至りました。

 明治新政府は信州の伊那・筑摩両郡の旧幕領取締りを尾張藩に命じ、1868(明治1)年閏4月伊那県を設置しましたが、役人には依然として尾張藩士を多く任用しました(「長野県史」近代史料編 第1巻 長野県史刊行会)。同年末服部重文も伊那県出仕を命ぜられ、翌年3月妻子を連れて就任、まもなく塩尻勤務となり、總吉も塩尻に移ったとき1870(明治3)年正月4日の出産時に母久子が死去しました。

 父重文は久子死後佐屋に帰って旧職に復帰(代官所は邑宰方、手代は属吏と改称)、亡妻の妹鐐子と再婚、名古屋で祖父母と同居するようになり、總吉も同年3月名古屋でかつての藩校明倫堂に入学しましたが翌年7月明倫堂は廃校となってしまいました。

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 1872(明治5)年8月服部總吉は加藤家の養子として加藤姓を名乗ることになりました。總吉の祖父作助の妻加奈子は羽田野左次郎の三女で、加奈子の姉(左次郎の長女)あい子が加藤家の久兵衛(二代)に嫁いでいました。加藤家の武五郎(三代)の子鐘子は幼歿、武兵衛(四代)が同年6月に死去、總吉が後継者に選ばれたのです(伊藤正徳編「伝記・加藤高明」伝記叢書175 大空社 以下とくに記述しない限り、加藤高明個人の記事は同書による)。

 1872(明治5)年12月加藤總吉は名古屋洋学校に入学しました。この洋学校は1870(明治3)年6月の創立ですが、總吉はその教育内容に満足せず、1873(明治6)年12月叔父安井譲(司法省権大録)の薦めもあり上京、叔父宅に寄宿して翌年4月東京外国語学校(のちに英語学校、さらに大学予備門と改称)に入学、同級生に末松謙澄(「伊藤博文安重根」を読む18参照)がいました。1874(明治7)年安井叔父は總吉に改名をすすめ、「中庸」第二十六章から「高明」の2字を選んでくれ、以後加藤高明となのることになったのです。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む2

 1875(明治8)年7月加藤高明は東京英語学校を卒業、愛宕下の叔父宅から神田錦町の共立学舎(旧旗本の古屋敷で学生の寄宿舎兼受験予備校)に転居、同年9月東京開成学校に入学して寄宿舎に入りました。 1877(明治10)年4月開成学校は法・理・文・医の四学部で構成される東京大学の一部となり、高明は同大学法学部の1年級に編入されました。

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 法学部では鳩山和夫教授が原書でイギリスの契約法を講義した外はほとんど英人教授が英法の諸講義を担当、教室で日本語が通用しないことは開成学校と同様でした。

 1881(明治14)年7月高明は東京大学法学部を首席で卒業、法学士の学位を授与されました。彼は当時の東大卒業生がめざした薩長藩閥万能の官界における立身出世の風潮に見切りをつけ、岩崎弥太郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)の経営する郵便汽船三菱会社に入社しました。同社社長岩崎弥太郎は有望の大学生を自宅に招いて晩餐会を催すことが度々あり、高明が知人を介して入社の希望を岩崎社長に伝えると岩崎弥太郎は喜んで加藤高明を平社員最高給50円で本社調役として採用しました。その仕事は主として買収した太平洋汽船会社の航海諸規則の翻訳だったのです。

 同年10月から翌年にかけ神戸支社・小樽・大阪出張所勤務を経て、1882(明治15)年12月本社に呼び戻され、翌年4月高明は洋行を命ぜられて岩崎社長の私費負担で横浜を出港、6月ロンドンに到着し、岩崎弥太郎の紹介状をもってリヴァプール親日派豪商(羊毛問屋)ボースを訪問、当地に下宿してボースの事務所に通い、英国の商売の実情ならびに英国紳士の人格や慣行にいたるまで貴重な経験を学びとりました。

 1884(明治17)年2月彼はロンドンに移り実地の各所見学や新聞・雑誌の閲読ならびに各種講演の聴講に過ごし、時には議会(「米欧回覧実記」を読む9参照)を傍聴してグラッドストーン首相の演説に耳を傾けることもありました。

 当時ロンドン在住の日本人は少数で、彼らはよくチャーリングクロスのカレドニアンホテル等で会合を持って談笑したものですが、加藤高明の生涯に大きな影響を与えたのは陸奥宗光(「大山巌」を読む34参照)との出会いでした。陸奥宗光紀州藩徳川御三家の一つ)出身で1877(明治10)年の西南戦争に際し、政府転覆の陰謀に加担して投獄されましたが、赦免されて伊藤博文の勧めもあり、英国に外遊中でした。彼は獄中英語も勉強しましたが、英国では彼の英語は通じず、英国政治家などと会見の際には加藤高明が通訳をつとめるようになりました。こうした陸奥との交流を通じて彼は陸奥の政治論を傾聴し、敬意を払うようになったのです。

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 しかし1885(明治18)年2月7日岩崎弥太郎は死去(新聞集成「明治編年史」第6巻 財政経済学会)、その訃報電報につづいて帰社命令が届き。加藤高明は同年6月末三菱本社に出勤しました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む3

 1885(明治18)年8月18日加藤高明は三菱本社副支配人に昇格、月給100円を支給されました。当時三菱と共同運輸との競争が激化、同年7月末両社の合同の合意成立、同年10月1日日本郵船会社が発足し、高明は本社庶務課の副支配人を命ぜられ、その仕事はほとんどが外国人との接触でした。それは当時日本郵船の幹部の一部・船員および主要技術者はすべて外人で、その部門に関する通達は英語で行われ、日本人にはとくに英文を付記することになっていたからです。

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 加藤高明に縁談が持ち込まれました。岩崎弥太郎加藤高明の才幹を高く評価していたことは既述の通りですが、岩崎弥太郎が生前高明を岩崎家の婿にしたいとの意思表示も遺言もなかったようです。しかし1886(明治19)年春岩崎弥太郎の一周忌明けに際して弥太郎長女春治の婿定めが重要話題としてとりあげられたとき、岩崎弥之助(弥太郎弟)はためらうことなく加藤高明を指名、弥太郎母美輪子もこれを支持したようで、岩崎家は加藤高明の身辺調査の上、人を介してこの縁談を加藤高明に伝えたのです。彼は岩崎家の申し出にしばしの猶予を希望、一説には陸奥宗光に相談したともいわれますが、決断は自身で下し、同年4月8日神田駿河台加藤高明自宅で結婚式を挙行しました。以後「三菱の婿」という世評が一生彼につきまといました。

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寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む4

 1886(明治19)年2月陸奥宗光は帰国すると、同年10月外務省に出仕、井上馨外相の懐刀と呼ばれていました。彼は英国外遊中に知り合った加藤高明の外務省入省を強く働きかけたであろうと思われます。

 1887(明治20)年1月加藤高明公使館書記官兼外務省参事官に任命され、奏任官三等下級俸(月給約120円)を給与され、総務局政務課勤務となり、翌年2月大隈重信外相に就任すると、外相秘書官兼政務課長に抜擢されました。しかし大審院の外人判事任用問題で条約改正問題が紛糾、1889(明治22)年10月大隈外相遭難(「大山巌」を読む28参照)で辞職するに至り、黒田清隆内閣は総辞職、しばらく内大臣三条実美が臨時首相をつとめました。このころ加藤高明の父服部重文が死去しています。

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 同年12月山県有朋内閣が成立、青木周蔵外相が慰留したにもかかわらず、加藤高明は翌年2月5日外務省を去り、1890(明治23)年9月大蔵省(蔵相松方正義)参事官に任命されましたが、その人事をめぐる経緯は不詳です。

 同年は帝国議会が開かれた年にあたり、第一から第六議会までは加藤高明の大蔵省在任期間に相当する時期に当たりました。歴代内閣は政府予算をめぐって衆議院としばしば対立(「大山巌」を読む29~32参照)したため、大蔵省は議会ごとに帝国議会交渉事務取調委員会を組織、議会に提出する法律と予算の一切に関して、この委員会で討議しました。加藤高明は同上委員を命ぜられ、同委員会の論客として活躍しました。1892(明治25)年8月主税局長となり、第五・六議会においては政府委員として代議士の質問にたいする答弁を担当しています。

 1892(明治25)年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立、陸奥宗光外務大臣に就任しました。1894(明治27)年7月25日豊島沖の海戦により日清戦争が勃発すると、同月28日加藤高明は再び外務省に復帰、特命全権公使兼政務局長に任命されました。陸奥宗光外相の下に林董(「伊藤博文安重根」を読む8参照)次官・加藤高明政務局長・原敬(「田中正造の生涯」を読む28参照)通商局長らが外相を補佐したのです。

 同年11月23日彼は駐英公使に任命され、1895(明治28)年1月23日ロンドンに着任しました。

  同年4月17日日清講和条約(「大山巌」を読む39参照)調印、日本は清国から遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲され、償金として庫平銀2億両(テール 中国で生まれた質量の単位)の支払いを受けるなどの権利を獲得するに至りましたが、同年4月独・露・仏3国公使はそれぞれ外務次官林董(陸奥外相は病臥)に遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出(三国干渉)しました。本国政府の訓令により翌日加藤高明駐英公使はキンバレー英外相と長時間会談し、英国の後援を懇請しました。これに対して4月29日英外相は三国干渉に関し日本に助力できない旨、加藤駐英公使に通告、同年5月4日閣議は遼東半島の全面放棄を決定、翌日上記3国公使に通告しました。また同年11月8日奉天(遼東)半島還付条約・付属議定書調印、日本は遼東半島還付報償金として庫平銀3千万両(テール)の支払いを受けることとなりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

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寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5

 1895(明治28)年7月6日清国の対日賠償金調達のため、露仏借款4億フランが成立、10月31日日本は清国より講和条約第4条にもとづき、軍事賠償金2億両の第1回払込分5000万両に相当する英貨822万余ポンドをロンドンで受領、同年11月16日清国より遼東半島還付報償金3000万両に相当する英貨493万余ポンドをロンドンで受領しました(「明治財政史」第2巻 丸善株式会社)。これに対して1896(明治29)年3月23日英独対清第1次借款(対日賠償金)1600万ポンドが成立、同年5月7日日本は清国より賠償金第2次払込英貨851万余ポンドをロンドン・ベルリンで受領しました。

 しかるに清国は償金調達に苦しみ、1898(明治31)年2月1日償金支払いの延期を要請してきました。日本政府は同年2月中旬加藤駐英公使に英国が露国と共同して清国公債の募債に応ずる意思がないのかを探れとの訓令を発しましたが、加藤公使は清国における英露対立の国際情勢の下で英露共同募債は不可能であることを説き、ソールスベリイ英首相が公債金は英国の大蔵省より直接支払うべきものと明言したことを報告、2月25日政府は貴下の聡明なる裁量(wise discretion)を信じて財務契約の全権を一任する(外務省編「日本外交文書」第31巻 第1冊 巌南堂書店)旨加藤公使に打電しました。同年3月1日日清戦争賠償金支払のため英独第2次対清借款1600万ポンドが成立、かくして同年5月7日日本は清国より軍事賠償金残額1192万余ポンドをロンドン・ベルリンで受領、償金は全額受領済みとなり、同月10日威海衛占領軍に引き揚げを命令しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

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寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む6

  日清戦争における日本の勝利をみて列強は清国分割(「大山巌」を読む44参照)を争っていました。1898(明治31)年3月19日西徳二郎(「大山巌」を読む49参照)外相は露駐日公使ローゼンに対し「満韓交換論」(「坂の上の雲」を読む10参照)を通告しましたが、拒絶されました。

  加藤高明駐英公使は「満韓交換論」に反対し「完全に露国を韓国から撤退せしめ、(中略)若し露国が之を拒むなら、日本は行動の自由を保留」すべきとの意見を述べて戦争の起こることを覚悟し、英国を加えての対露強硬外交を主張しました。

 しかし19世紀末年ころから始まっていたオーストラリアにおける日本人労働者排斥の動きについての英国との交渉で、日本政府がアジア人排斥法案中「日本人を除外する」ことでの交渉を訓令したにもかかわらず、加藤駐英公使は「人種による区別よりも、寧ろ能力による制限を受けるほうが(中略)賢明である」と英国政府に申し出たのです。

 これは対露強硬外交を主張する加藤高明が対英交渉では公使の権限をこえた軟弱外交を展開しているとしか考えられないのですが、彼自身この矛盾に気づいていたのでしょうか。

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寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む7

 1898(明治31)年9月15日付願書で加藤高明駐英公使は賜暇帰朝を大隈重信外相に願い出たのですが、種々の感情的行き違いと混乱があり、加藤高明は翌年4月15日ロンドンをを出て、米国・カナダ経由で5月22日横浜に帰港、1899(明治32)年7月17日青木周蔵(「大山巌」を読む50参照)外相に駐英公使辞任を申し出たのです。

 1899(明治32)年義和団(「大山巌」を読む49・50参照)が山東省に蜂起すると、翌年列強は清国に出兵、とくにロシアは1900(明治33)年7月以降満州に出兵、またたく間に満州全土を占領下におきました(「坂の上の雲」を読む10参照)。日本ではこれに対して伊藤博文らの対露協調路線と山県有朋らの日英同盟路線が対立していました。

 1900(明治33)年2月23日山県有朋首相は加藤高明の駐英公使罷免を決定、このころから加藤高明山県有朋より伊藤博文に親近感を持つ傾向が著しくなったようです。同年10月19日成立の第4次伊藤博文立憲政友会)内閣において加藤高明(政友会非所属)は外相に就任しました。

 1901(明治34)年1月7日露公使の韓国中立化提案に対して、同月23日駐露公使珍田捨巳は満州からの露軍撤退が先決と回答しました(「坂の上の雲」を読む10参照)。

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 同年3月6日ロシアは清国に協約調印を要求、3月10日イギリスは対露抗議しました。

 同年3月12日加藤高明外相伊藤博文首相にロシアの満州占領に対する方針について閣議で討議を要請する意見書(「坂の上の雲」を読む11参照)を提出しました。その方針は三案から成り、第1案はロシアが満州撤兵に応じないときは日露戦争を開始、第2案は韓国を占領または保護国化するなど同国をわが国の勢力下に置く、第3案はロシアの満州占領に対して抗議にととめ、後日臨機の措置を講じるとの内容でした。

 同年3月20日加藤外相は清国公使満州に関するロシアの期限(3.26)付要求を拒否するよう勧告、3月25日にも珍田公使より露外相に要求撤回を勧告、4月5日露政府は満州に関する対清交渉断絶を声明しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 しかし伊藤博文首相は同年5月2日閣内不統一のため辞表提出、6月2日第1次桂太郎内閣が成立し、9月21日外相小村寿太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)が任命されました。伊藤博文は日露協調の途を求めて同年9月18日欧米外遊のため横浜を出発しました(「坂の上の雲」を読む11参照)が、この交渉は失敗に終ったのです。

 1902(明治35)年1月30日ロンドンで日英同盟協約調印(「坂の上の雲」を読む12参照)後、伊藤博文乗船の膠州丸が2月25日長崎港外に到着すると加藤高明は船上で伊藤に面会、さらに同船が神戸に回航して以後、伊藤の大磯邸まで付き添って日英同盟締結に至る情勢を説明、伊藤を説得しました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む8

 1902(明治35)年第7回総選挙が近づくと、加藤高明立候補の要請が各方面から寄せられるようになりました。同年6月23日土佐政友派の片岡健吉・林有造の両氏が板垣退助(「龍馬がゆく」を読む18参照)を通じて彼の立候補を要請すると、反対派は大石正巳らを通じて彼に運動を試みるという状態で、困惑した加藤高明は同月中に口頭および書面で謝絶の意を表明したのでした。

 しかるに高知県の反板垣派は彼の不承諾にもかかわらず、彼を推薦、自費で運動をはじめ、当選したら受諾を乞う旨の電報を寄こしました。

 同年8月10日第7回総選挙に際して加藤高明高知県郡部の定員5名中848票を得て4位で当選しました。かくして当選受諾を迫る地元と拒否する彼との押し問答の末、加藤高明は当選受諾の意思をかため、8月21日板垣退助を訪問してその経過を報告したところ、板垣退助の激怒を買ってしまったのです。加藤高明はその帰途原敬の許に立ち寄り板垣を宥めるための相談をもちかけ、原敬は片岡健吉に板垣説得を依頼してくれましたが、板垣の怒りは容易に解けませんでした。

近代日本人の肖像―日本語-人名50音順―いー板垣退助

 桂太郎内閣は対露軍備拡張のため地租増徴継続による海軍拡張計画をめざしていましたが、同年12月3日伊藤博文政友会総裁は加藤高明の斡旋で憲政本党総理大隈重信と会談(「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)、両党提携の機運がたかまり、12月4日政友会・憲政本党はそれぞれ大会を開いて地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減に依れと決議しました(「立憲政友会史」)。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む9

 1902(明治35)年12月16日衆議院において地租増徴継続(地租条例改正)法案を委員会で否決したため、同年12月28日地租条例改正案の採決寸前に衆議院は解散されました。

 第8回総選挙を前にして加藤高明は高知からの立候補要請を拒否しましたが、伊藤博文より横浜選挙区からの立候補勧告をうけ、彼は大隈重信岩崎弥之助(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)・原敬らに相談の上、立候補を承諾しました。しかるに1903(明治36)年3月1日に実施された第8回総選挙において加藤高明の政敵島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)1106票、奥田義人430票を得て当選したのに、加藤高明は418票の得票に止まり落選してしまいました。しかし奥田義人が横浜選挙区当選を辞退したため彼は補充当選を受諾する屈辱を味わったのです。

 同年5月19日衆議院において地租条例改正案が委員会で否決され、翌日桂首相は政友会との妥協交渉を開始、同月24日政友会議員総会は妥協案(海軍拡張費を公債で充当)を承認(「原敬日記」明治36年5月24日条 福村出版株式会社)、かくして加藤高明が尽力した伊藤と大隈の提携は崩壊したのです。

 1904(明治37)年2月10日日露戦争が開始された後、同年3月1日の第9回総選挙に際して加藤高明は立候補を断念しました。

 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10

 1904(明治37)年政治から遠ざかっていた加藤高明奥田義人を通じて伊東巳代治を知り同年8月20日奥田義人が彼を訪ねて、伊東社長の東京日日新聞売却希望を伝えました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊東巳代治

 加藤高明は岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男)らと協議し、同年10月11日東京日日新聞(以下東日と略)を10万円で入手したのです(1907年5月東日社長を退く)。

 彼が東日紙社長となると、従来大隈重信を眼の敵にしていた東日が一転して大隈に対し好意的に変化したことは世間を驚かせました。

 1905(明治38)年9月5日日露講和(ポーツマス)条約(「坂の上の雲」を読む48参照)が締結され、その内容が10月16日に発表されると、翌日東日紙は加藤高明執筆の「講和条約の発表」と題する論文を掲載、特に樺太南半しか領土として獲得できなかったことや償金を得られなかった点を軟弱外交として非難しました。

 1905(明治38)年12月21日第1次桂太郎内閣は総辞職、加藤高明西園寺公望(1903.7.14立憲政友会総裁「伊藤博文伝」)の意向をうけた原敬の訪問を受け、岩崎弥之助・久弥や木内重四郎(岩崎弥太郎の女婿)らとも相談の上入閣を受諾しました。同年12月22日西園寺公望との会談で彼は外務大臣就任を承認、翌1906(明治39)年1月7日第1次西園寺公望内閣が成立するに至りました。しかし鉄道国有問題で加藤外相は在任わずかに56日で退陣するに至ったのです。