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佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む11~20

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む11

 李麟栄は1896(明治29)年の初期義兵で柳麟錫の下に参加、解散後農業に従事していましたが、原州で決起した李殷瓚・李九載らの勧誘で倡義(義を唱える)大将として1907(明治40)年8月関東(大関嶺より東の江原道)に移動、解散兵200名を含む義兵を募集し、統監と漢城駐在の各国総領事宛倡義理由書を送付しました。京畿道揚州に進んだとき、各地から一万人以上の義兵が結集、漢城に進入し統監府に迫って韓国の独立と皇室の安全をかちとり、奸臣を殺害する計画を練っていましたが、同年12月25日李麟栄の父死去の報を受け、彼は後事を許蔿に託して帰郷しました(海野福寿「韓国併合史の研究」)。

 1908(明治41)年許蔿は漢城東大門30里外に迫ったのですが、日本軍の迎撃に敗退、彼は同年6月11日憲兵隊に捕えられ(朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」 海野福寿「前掲書」引用)、10月13日絞首刑に処せられました(「李朝実録」第五十六冊 学習院東洋文化研究所)。

 「ロンドン・デイリー・メイル」特派員として漢城滞在中、日本軍がその地域全体を破壊し大規模殺人を実行しているとの情報を得たマッケンジーは1907年秋義兵闘争の盛んな忠清道に赴き、利川・提川・原州で焼き払われた村落住民たちから日本軍の強姦・住民殺害・掠奪などの暴行を聞き、焼き払われた廃墟を見ました。さらに危険を顧みず、義兵の根拠地を訪れ、義兵と接触することに成功しました。その様子を彼は次のように述べています。

 「五、六名の義兵が庭に入って来て、私の前に整列し、そして敬礼した。彼らはいずれも、十八歳から二十六歳くらいまでの青年であった。賢そうで容貌の端正な一人の青年は、いまだに韓国正規軍の古い制服を着ていた。もう一人は、一着の軍服ズボンをはいており、二人は軽いぼろぼろの朝鮮服をまとっていた。革靴を穿いている者は一人もいなかった。彼らは腰のまわりに、自家製の木綿の弾帯を巻いており、半分位弾丸が入っていた。(中略)

 私は彼らの持っている銃を見せてもらった。六人の者がそれぞれちがった五種類の武器を持っていたが、その一つとしてろくなものはなかった。一人はもっとも古い型の火縄銃として知られている昔の朝鮮の先込め銃を誇らしげに持っていた。(中略)

 しばらくすると、その日の戦闘を指揮した将校が私を訪ねて来た。(中略)私は義兵軍の組織について、いろいろ彼に尋ねてみた。(中略)彼が私に語ったところから察すると、彼らはじっさいなんら組織されていないということがあきらかであった。(中略)

 彼は、自分たちの前途が必ずしも明るいものでないことを認めた。『われわれは死ぬほかはないでしょう、結構、それでいい、日本の奴隷として生きるよりは、自由な人間として死ぬ方がよっぽどいい』。彼はそう言った。(中略)

 日本軍は至る所を焼打ちするとともに、反乱軍を手助けしたとの疑いのある者を、多数射殺している。私がこういうことを書きつけている時に、韓国人がいつもきまっておしまいに言うことは何であるかというと、一斉射撃を浴びせかけたあと、焼打ちを指揮している日本軍将校は、死体に近づいて、その剣で突き刺したり斬ったりしたということである。」(マッケンジー「朝鮮の悲劇」東洋文庫222 平凡社

 1909(明治42)年6月14日伊藤博文枢密院議長に転出、後任統監には副統監曾禰荒助が任命されました(「官報」)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む12

 1905(明治38)年10月12日桂首相は米鉄道資本家ハリマンと南満州鉄道長春・旅順口間の鉄道 略称 満鉄)に関する日米シンジケート(公債・社債引受けのために銀行其の他の金融機関によって組織される証券引受団体)組織(米資本提供で日本の法律にもとづく)につき予備協定覚書(「日本外交年表竝主要文書」上)を交換しましたが、同月16日帰朝の小村外相の反対でハリマンに覚書中止を通告(外務省編「小村外交史」原書房・「伊藤博文安重根」を読む3参照)、以後満州をめぐる日米関係は次第に対立を深めるようになりました。

 1906(明治39)年3月19日英駐日大使は満州における日本官憲の通商妨害について抗議、門戸開放・機会均等の実行を申し入れ、同月26日米大使も同様抗議しました(「日本外交文書」第39巻第1冊)。

 一方日露戦争まで満州をめぐって対立抗争してきた日露両国は満州進出を企図する米国に対抗、1907(明治40)年7月30日日露協約(第1回)を締結(「日本外交年表竝主要文書」上)して相互の領土・権利の尊重、清国の領土保全、機会均等を承認、秘密協定で満州に鉄道・電信利権に関する利益分界線を設けるに至りました。

 アメリカの満州進出に対抗するため、満州で共通利益をもつ日露間で、さらに意見交換するため、1909(明治42)年10月14日伊藤は露蔵相と会見するため大磯(神奈川県大磯町)から満州へ出発しました(「日本外交文書」第42巻第1冊)。本書の記述はここから始まります。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―交通史―鉄道(史)―会社―東清鉄道―南満州鉄道

 同年10月18日彼は大連港から遼東半島に上陸、21日旅順から南満州鉄道の列車に乗り22日夕刻奉天に到着、24日中村是公満鉄総裁の案内で撫順炭坑を視察、25日夕刻長春に到着しました。同日夜寛城子駅でハルビンに向かう東清鉄道の特別夜行列車に乗り込みました(室田義文翁物語編纂委員編「室田義文翁譚」常陽明治記念会 海野福寿「伊藤博文韓国併合」青木書店 引用)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む13

 1909(明治42)年10月26日午前9時伊藤と室田義文(むろたよしあや 貴族院議員)ら随員を載せた特別列車はハルビン駅に到着しました。やがて列車最後尾の貴賓車両にココフツェフ蔵相が乗り込んできてハルビン総領事川上俊彦の通訳により、伊藤博文はココフツェフと初対面の挨拶を交わしました。

 伊藤はロシア鉄道守備隊を閲兵(軍隊を整列させて検閲すること)、各国代表団の名士たちと言葉を交わし在留日本人団から歓迎の言葉をかけられた伊藤が日本人団に数歩歩み寄ったとき、伊藤の3mほど後ろを歩いていた室田は「ピチピチという音、それから爆竹様のもの音を聞いた。そこで歓迎のためなのだなと思っていると、つづいてパン!パン!と音がした。はっとして気がついて見ると、堵列(垣根のように並ぶ)した儀仗兵(儀礼・警備のために外国高官などにつけられた兵隊)の間から、小さな男が恰度(ちょうど)大きな露兵の股の間をくぐるような恰好(かっこう)をしながらピストルを突き出している」(「室田義文翁譚」)のを見ました。伊藤はココフツェフの身体にもたれるように倒れこんだので、伊藤は列車内に運ばれました。

 『気附ノ薬ニモトテ先ヅ「ブランデー」ヲ勧メルコトトナリ第一回ニ其一杯ヲ勧メタルトコロ苦モナク飲ミ干サレマシタ丁度其際テアッタト思ヒマスガ通弁(通訳)ガ来テ犯人ハ韓人テアル直ニ捕縛シタリトノコトヲ告ケタルニ公爵ハ之ヲ理解シ「馬鹿ナ奴ダ」ト申サレマシタ(中略)五分間の後尚「ブランデー」一杯ヲ勧メタルニ際シ公爵ハ最早其ノ首ヲ上グルコトモ出来ナクナリ(マシ)タノデ、其儘(まま)口ニ注キ込ミ夫(そ)レヨリ一二分ノ間ニ全ク絶命セラレタル次第デアリマシタ』(明治42年12月16日室田義文の東京地裁検事局 古賀行倫検事に対する陳述 市川正明「安重根と日韓関係史」原書房

 10月26日夜『伊藤公爵加害犯人は、韓国人安応七(安重根の通称)、平壌生まれ(黄海道海州生まれの誤り)、住所不定、年齢三一歳なる者、公爵狙撃の目的を以て、元山(咸鏡南道)よりウラジオストクを経、昨夜、当地着。停車場付近を徘徊(はいかい うろつく)しつつありし旨自白せり』という電報による捜査報告が届きました(海野福寿「前掲書」)。

安重根(アンジュングン)義士紀念館

 同日夜伊藤博文暗殺の報が日本に届くと、石川啄木(「田中正造の生涯」を読む23・24参照)は岩手日報への通信記事「百回通信」の十六~十八を伊藤博文追悼に当てました。その十六において啄木は「偉大なる政治家偉大なる心臓――六十有九年の間、寸時の暇もなく、新日本の経営と東洋の平和の為に勇ましき鼓動を続け来りたる偉大なる心臓は、今や忽然として、異域の初雪の朝、其活動を永遠に止めたり。」と伊藤の功績を称えつつも、その十七において「其損害は意外に大なりと雛ども、吾人は韓人の愍(あはれ)むべきを知りて、未だ真に憎むべき所以(ゆゑん)を知らず。寛大にして情を解する公も亦、吾人と共に韓人の心事を悲しみしならん。」(「啄木全集」第9巻 岩波書店)と安重根への同情の念を表明していることに注目する必要があります。

 1909(明治42)年11月4日伊藤博文の国葬が行われました(「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)。与謝野寛(鉄幹)は歌集「相聞」に「伊藤博文卿を悼む歌。明治四十二年十一月」と前書きする数首の一つとして「伊藤をば惜しと思はば戦ひを我等のごとく皆嫌へ人」を掲載していますが、上記石川啄木と同様の所感を表明したものと思われます。大岡信氏は「彼の門下にあった石川啄木にも、これだけ率直な述志の歌はないだろう。」(大岡信「第四 折々のうた岩波新書)と批評しています。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む14

 1909(明治42)年10月27日伊藤の遺骸を収めた仮棺は大連ヤマトホテルの旧館に運ばれ、その特別室で遺体に防腐剤処理が行われた際、小山善侍医らによる銃弾の摘出が行われたのではないかと推定され、室田もこれに立ち会った可能性が高いと思われます。

 同年11月20日室田は赤間関(下関)区裁判所検事田村光栄の安重根の写真提示による事情聴取に対して「此写真ニアル人物ハ…多分自分ヲ狙撃シタル人物ニ相違ナシト思フ。…公爵ヲ狙撃セシモノハ此写真ニアル狙撃者デナク他ノ者ナラント思ハレル」と伊藤狙撃犯は安重根とは別人とする陳述をしました(市川正明「前掲書」)。

 室田義文は後に伊藤博文狙撃犯人について「その時、例の小男(安重根)は既に兵隊の手で取り押さえられていたが、真実、伊藤を撃ったのは此の小男ではなかった。」(「室田義文翁譚」)と述べ、安重根伊藤狙撃犯人説を重ねて否定していることが注目されます。室田説の根拠となっているのは(イ)伊藤の被弾がフランス製騎兵銃(カービン銃)の弾丸3発で(ロ)被弾の射入角度が右上方から斜め下に向けたもので、階上から発射したものと推定の2点です。

 室田の主張はロシアとの関係悪化を心配した山本権兵衛海軍大将から口止めされたため、彼は口惜しかったのか、終生それを孫の福田綾に語ったそうです(海野福寿「伊藤博文韓国併合」青木書店)。

谷中・桜木・上野公園―「谷中墓地」から「上野・桜木・池之端の墓地」へ―谷中墓地―碑 室田義文

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む15

 安重根は伊藤狙撃現場でロシア側の東清鉄道警察署長心得ニキフオーホーロフらに逮捕されましたが哈爾賓(ハルビン)は清国領土で東清鉄道付属地であるとともに公開地である、日本は清国に対して自国民の治外法権領事裁判権)を有する、しかるに日韓協約(第2次)により日本領事が在外韓国人の保護を兼務することになったのであるが、外務大臣の命令により、安重根の裁判は日本領事にかわって関東都督府[関東州(ポーツマス条約によりロシアから清国政府の承諾を得て獲得した旅順口・大連を中心とする遼東半島租借地)管轄並びに満鉄線路・付属地の保護取締まりに当たる官庁]法院で日本刑法により行われることとなりました(満州日日新聞社編「安重根事件公判速記録」復刻版 韓国併合史研究資料96 龍溪書舎)。

 ハルビンに出張した横溝孝雄検察官の尋問で安重根は伊藤殺害理由として15項目の理由を述べました。その中には孝明天皇暗殺などまとはずれと思われる項目もありますが、韓国の独立を武力による圧迫で奪ったことを批判する内容(「安応七訊問調書」明治42年10月30日 哈爾賓日本総領事館 市川正明「前掲書」)です。彼は同年11月3日関東都督府典獄(刑務所長)の監督下に置かれ旅順に連行されました。

天気清朗なれども浪高しー検索-旅順監獄―2010-03-28

 1909(明治42)年11月24日第6回尋問(市川正明「前掲書」)で安重根は横溝検察官の「其ノ方ノ言フ東洋平和ト言フノハ如何ナル意味カ」との質問に彼は3人兄弟(清・韓・日)の寓話に託して「此三家ハ兄弟デアルト言フ事ハ明カデアルカラ同心ニテ他ニ当レハ三家ヲ安全ニ維持スル事が出来ルノデ…。(中略)結局伊藤ノヤリ方ガ悪イ為メ韓国ハ今日ノ状態ニ至ッタノデ若シ奸策強制ヲ加ヘネバ無論東洋ハ至ッテ平和ニ為ッテ居ル事ト思ハレマス」と述べています。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む16

 同年12月13日から起稿、翌年3月15日自分史「安応七歴史」(市川正明「安重根と日韓関係史」原書房)または「安重根伝記及論説」(七条清美関係文書 国立国会図書館憲政資料室所蔵 中野泰雄「安重根―日韓関係史の原像」亜紀書房 引用)を完成しました。この記録によれば、安重根は1879(高宗16)年9月2日(旧暦7月16日)黄海道海州で両班(やんばん 朝鮮の貴紳階級の家柄)に属する旧家安泰勲の長男として生まれました。安泰勲は親日派の朴泳孝と親密だった人物です。安重根は少年のころから狩猟に熱心で、短銃射撃術は抜群でありました。 1894年安重根は金氏の娘(亜麗)と結婚していますが、東学党の乱(「大山巌」を読む33参照)とよばれる農民蜂起が起こると、郡守の要請により安泰勲とともに重根は乱鎮圧に参加し、まもなく日清戦争が始まると農民蜂起は鎮圧されました。ところが農民軍からの戦利品をめぐる争いで安泰勲の身辺に危険が迫り、安一家はフランス人のキリスト教カトリック)教会に数カ月かくまわれたことがあり、これをきっかけに安一家はキリスト教の洗礼を受けました。1905年日露戦争終了後、日韓協約(第2次)が締結され、伊藤博文が初代統監として漢城に駐在する(「伊藤博文安重根」を読む6・7参照)に至ると安泰勲は日本の韓国支配に失望、清国移住をもとめて平安道鎮南浦に引っ越す途中死去、安重根は鎮南浦で米穀や石炭の取引に従事するようになりました。。 

 1907年日韓協約(第3次)(「伊藤博文安重根」を読む10参照)が締結され、反日義兵闘争が高まると、安重根は鎮南浦を去って山岳ゲリラに参加しました。1908年6月彼は間島(韓国側の呼称、清国行政区では吉林省の一部)を経て李範允の大韓義軍に属して参謀中将となり、咸鏡北道へ出撃、日本軍と交戦しました。はじめはゲリラ戦を有利に展開したが、やがて日本軍に包囲されて敗退しました。

世界飛び地領土研究会―関東州―満州国の地図(1933年)

 1909年正月ポシェトのノウォキエフスク(烟秋)付近で、11人の農民・労働者・義兵の同志と「断指同盟」を結び、全員左手薬指を切り、その血で大極旗(韓国国旗)の白地に「大韓独立」と書き、韓国独立のため献身する証しとしたのです。

 1909年秋ウラジオストクにいた安重根伊藤博文が近くハルビンを訪問する噂を聞き込み、新聞社でその情報が事実であることを確かめました。同月21日彼はウラジオストク駅からシベリア鉄道でポグラニチナヤに到着、清国側の綏芬河駅に接続して、ここでハルビン行きの列車に乗り換えたのです。安重根ハルビンの新聞で伊藤博文の日程を詳しく知ることが出来ました(中野泰雄「前掲書」)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む17

 1910(明治43)年2月7日から関東都督府地方法院における安重根他3名の公判が開始され、2月12日まで5回行われました。公判で提出された小山善侍医の尋問調書では伊藤の負傷は3発とも右側から水平に射入したと述べられ、地方法院に提出された安重根の「証拠金品目録」(海野福寿「伊藤博文韓国併合」引用)にはブラヲニング式短銃 一、発射したる弾丸 一、とあり、伊藤の遺体から摘出されたと思われる弾丸も、安重根が伊藤を撃った後に随員に向けて撃った弾丸も、田中清次郎満鉄理事に命中したと思われる弾丸一発を除いて、証拠品としては提出されていないのです。すなわち室田義文の二重狙撃説は採用されていません。

 安重根は結審の同年2月12日「私は個人的にやったのでなく義兵としてやったのであるから戦争に出て捕虜となってここに来て居るものだと信じて居りますから私の考へでは私を処分するには国際公法万国公法に依て処断せられん事を希望いたします」と抗議しましたがうけいれられませんでした。同年2月14日安重根に死刑の判決が下りました(満州日日新聞社編「安重根事件公判速記録」復刻版 韓国併合史研究資料96 龍溪書舎)。

 同年3月26日安重根の死刑が執行されました(朝鮮総督府「韓国ノ保護及併合」市川正明編「日韓外交史料」第8巻 原書房)。本書の記述はこれを以って終了しています。

 本書刊行後上垣外憲一「暗殺・伊藤博文」(ちくま新書268 平成12年刊)・大野芳「伊藤博文暗殺事件」(新潮社 平成15年刊)が発表されました。両書とも安重根単独犯行説を否定、室田二重狙撃説を前提として立論されている点に特徴があります。そうした犯行を計画したのは伊藤と対外政策において対立してきた山県有朋桂太郎ら長州閥陸軍首脳並びに右翼勢力とする観点を史料を駆使して提供した作品として注目されます。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む18

 伊藤博文韓国併合構想について、まとまった意見書を執筆したことはありませんでした。

 1907(明治40)年日韓協約(第3次)締結直後の7月29日伊藤は次のように演説しています。「日本は韓国と合併するの必要はなし、合併は甚だ厄介なり。韓国は自治を要す。(中略)独逸(ドイツ)のババリヤに於けるが如く、日本は韓国に対して雅量を示すの必要あり、」(在韓新聞記者招待晩餐会における演説 春畝公追頌会代表 金子堅太郎「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)

 この演説で伊藤は韓国の合併に反対、ドイツにならって日本の指導下に連邦制をとれと主張しているのです。これは同年の韓国軍隊解散の詔勅発布後に予想された軍隊反乱などの韓国側の反発を考慮した伊藤の巧妙なリップサーヴィスだったとも思われます。

 伊藤の韓国併合構想を知る他の手がかりとなる伊藤直筆メモ[堀口修・西川誠監修編集「公刊明治天皇御紀編修委員会史料 末松(謙澄)子爵家所蔵文書」下 ゆまに書房]には併合後の韓国に、80人の地方選出議員による衆議院と修正機関として50人の元老選出議員による上院を設置、併合後の朝鮮総督にあたる日本人「副王」の下に韓国人による「責任内閣」をつくる構想が記述され、ドイツの連邦制についての言及は見られません。

西日本シテイ銀行―検索―末松謙澄―西日本シテイ銀行・地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」No.9

 しかし伊藤の死去により、彼の韓国併合(自治植民地)構想は消滅したのです。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む19

 1910(明治43)年3月20日山県有朋桂太郎寺内正毅の「三巨頭」は会談し、韓国統監曾禰荒助の解任と韓国の「合邦(直轄植民地)断行」を合意したそうです(永島広紀編集「木内重四郎伝(岩崎弥太郎の女婿 貴族院議員)」復刻版 ゆまに書房)。

 同年5月2日夜桂太郎首相と会見した西園寺公望は「秋頃合邦を断行する筈(はず)」で統監には寺内正毅陸相を「当分兼任せしむる積り」と聞かされ、「合併に不同意も唱へ難きに因り、其も宜しからん」と桂に応えたことを、原敬は西園寺から聞きました。原は「急ぐ必要なし、後(おく)るれば後るゝ程無事に合併し得べし」と西園寺に翻意を求めましたが、西園寺の意見は変わらなかったそうです(「原敬日記」第3巻 明治43年5月3日条 福村出版)。

 同年5月30日寺内正毅は陸軍大臣兼任のまま韓国統監に任命されました(「官報」)。6月3日閣議は併合後の韓国に対する施政方針を決定、その要点は(ア)統治において日本憲法は施行しない、(イ)天皇に直隷(直属)する総督が政務を統轄、法律にかわる命令の布告権をもつ、(ウ)現行の行政機構を改廃するなどです。

 寺内正毅は副統監山県伊三郎(山県有朋の養嗣子)を韓国に先行させ、自身は東京において併合準備委員会による「併合実行細目」を7月8日の閣議で決定、7月23日漢城に着任しました(黒田甲子郎編「元帥寺内伯爵伝」大空社)。

 同年8月16日寺内統監は李完用韓国首相を統監官邸に招き、併合は「合意的条約」によるべき事を述べ、「併合方針覚書」を手交しました。李完用は「国号ハ依然韓国ノ名ヲ存シ皇帝ニハ王ノ尊称ヲ与ヘラレタキコト」を強く求めましたが、日本政府はこれを認めませんでした。

 韓国皇帝が統治権の譲与を申し出、これを天皇が受諾するという内容の併合条約案は8月22日韓国側午前会議にかけられ、寺内の報告によれば、まず皇帝が「統治権譲与ノ要旨ヲ宣示シ且条約締結ノ全権委任状ニ躬(みずか)ラ名ヲ署シ国璽ヲ鈐(けん 押印)セシメ之ヲ内閣総理大臣ニ下付セラル」と述べ、「内閣総理大臣ハ其ノ携フル所ノ条約案ヲ上覧ニ供シ、逐条説明スル所アリ列席者孰(いず)レモ異議ヲ唱フル者ナク皇帝ハ一々之ヲ嘉納(喜んで受け入れる)シ裁可ヲ与ヘラレタ」と寺内は宮中に居た国分秘書官から経過報告をうけました(海野福寿解説「韓国併合始末 関係資料」復刻版 不二出版)。しかし午前会議の実態は「諸臣、あい顧みて色を失う。興王(高宗の兄)は対えるに極まり罔(な)しを以てし、総相(李完用)は対えるに勢い奈何(いかん)ともする無しを以てし、余(金允植)は対えるに不可を以てす。他の大臣は皆言(ことば)無し。闕(けつ 宮廷)を退く」[金允植(中枢院議長)「続隠晴史」海野福寿「伊藤博文韓国併合」青木書店 引用]という状態でした。

 同日李完用首相・趙重応農商工相が統監官邸を訪問、李完用が全権委任状を提示、日韓両文の「韓国併合に関する条約」(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)調印書2通に寺内正毅李完用が記名調印しました(山本四郎編「寺内正毅日記」明治43年8月22日条  京都女子大学)。この条約第1条に「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本皇帝陛下ニ譲与ス」と記述され、日本の併合強制の実態に反する条文となった理由はすでに先行する諸条約で日本が韓国の自主独立を保障することを繰り返し確認していたため、併合を韓国側から希望する形式を取らざるを得なかったということでしょう。

 日本では同日午前10時40分より、天皇臨席の枢密院会議が開催され、「韓国併合ニ関スル条約」案及び関連勅令案を審議して可決、11時45分閉会、議長山県有朋天皇にこれを奏上、天皇は直ちに之を裁可しました(宮内庁編「明治天皇紀」第十二 明治43年8月22日条 吉川弘文館)。

 同年9月30日朝鮮総督府官制が公布され、総督は陸海軍大将とし、他に政務総監を置くことに決定、10月1日付で初代朝鮮総督寺内正毅陸相兼任のまま任命されました(海野福寿編集解説「外交史料 韓国併合」下 不二出版)。

 

佐木隆三伊藤博文安重根」を読む20(最終回)

 韓国では1910(明治43)年8月22日の韓国併合条約調印から8月29日の日韓両国「官報」による公布まで報道管制が敷かれたので新聞記者もこれを知る者もなく、同月26日の山県副統監の記者会見で初めて知らされ、28日午後、条約文其の他の提供をうけて29日の新聞で報道しました(釈尾東邦「朝鮮併合史」朝鮮及満州社)。韓国民衆の動向については「此ノ日京城漢城)及龍山ニ於テハ韓人ハ掲示板ノ下ニ群集シテ勅語其ノ他ヲ閲読シ 三々伍々集リテ囁(ささや)クモノアリト雖(いえども)概(おおむ)ネ平日ト異ルコトナク(中略)依然平穏ニシテ警備上特別ノ処置ヲナスノ必要ヲ認メス」[吉田源治郎(第二師団司令部参謀)「日韓併合始末」韓国併合始末 関係資料 所収]という状況であったようです。しかしそれは韓国民衆が併合を冷静に受け止めたからではなく、厳しい警備弾圧態勢に屏息(へいそく 息をひそめる)するほかはなかったからです(釈尾東邦「前掲書」)。

 併合後まもなく朝鮮に赴いた高浜清(虚子)は拷問のため歯を抜きとられた朝鮮人を見て日本人が朝鮮人を人間以下にしか見ていない様子をうかがい知ることが出来ました。また安重根の写真を持っている妓生(きーせん 韓国の芸妓)に出会い、韓国民衆が安重根を英雄視していることも知り、彼はこの衰亡の国民を憐れむとともに、日本人という発展力の偉大なる国民の一員としての誇(ほこり)を感じたと云っています(虚子「朝鮮」実業之日本社)。

むしめがねー目次ー俳句の歴史ー高浜虚子

 併合条約が公表された同年8月29日東京では軒並みに日の丸が掲げられ、記念の花電車に喜んで乗り込む人々の姿が見られました(釈尾東邦「前掲書」)。

 片山潜らの「社会新聞」(労働運動史研究会編「明治社会主義史料集」 第7巻 明治文献資料刊行会)でも併合直後の同年9月15日号に「日韓併合は事実となった。之が可否を云々する時ではない。今日の急務は我新朝鮮を治むるに当たり高妙なる手段方法を用ゐることである。(中略)彼等は今尚ほ未開の人民である指導教育は我責任である。」(「日韓合併と我責任」)と述べています。

 同年9月9日夜石川啄木は「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」その他を詠み、これを若山牧水主催の文芸短歌雑誌「創作」(明治43年10月号)に「九月の夜の不平」中の1首として発表しました(「啄木全集」第1巻 岩波書店)。これはメディアを通じてなされた唯一の韓国併合批判として有名です。近藤典彦氏によれば韓国併合批判の作品は他にも数首あるといわれています。

石川啄木著『一握の砂』を読む 近藤典彦ー韓国併合批判の歌 六首