片山 潜「日本の労働運動」を読む21~30

片山 潜「日本の労働運動」を読む21

 かくして明治時代の組織的な労働運動は僅かな例外を残して壊滅状態に陥ったのです。僅かな例外としては「活版工組合誠友会」と「大日本労働至誠会」が挙げられます。

 活版工組合誠友会は活版工組合規約運用停止とともに結成され、機関雑誌「誠友」を発刊、労働条件の改善、治安警察法の廃止、普通選挙法発布等を主張しました。その活動にあたり岸上克己は「(活版工)組合の失敗に鑑みる所あり、誠友会は決して世の名士なるものを頼まず、また資本主の協力をも冀(こいねがわ)ず、飽迄(あくまで)も職工の自力によってのみ活動せんことを期せり。」(附録(6)「活版工の過去及現在附将来為すべき事業」本書①)とのべています。

 大日本労働至誠会は1902(明治35)年春南助松と永岡鶴蔵が北海道夕張炭鉱の坑夫を組織して結成(「日本労働運動史料」1 東大出版会)されたもので、やがて1906(明治39)年には南助松が夕張炭鉱から足尾銅山に移ってくると、同会足尾支部が結成され、労働至誠会の坑夫待遇改善運動が活発となっていくのです(「日本労働運動史料」2・辻野功「明治の労働運動」紀伊国屋新書)。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―別巻2 新史料発掘―13 [資料紹介]永岡鶴蔵自伝「坑夫の生涯」      

 日本の労働運動にとって極めて困難なこの時期において、もっとも必要であったのは、活版工組合誠友会の岸上克己や大日本労働至誠会の南助松・永岡鶴蔵のように地味な取り組みで、片山潜も後に南助松と永岡鶴蔵の活動を世界に紹介しています(「本書」②)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む22

 安部磯雄(「田中正造の生涯」を読む24参照)は1865(慶応1)年2月4日福岡黒田藩下級武士岡本権之丞の次男として生まれました。磯雄が新島襄(「米欧回覧実記」を読む4参照)によって1875(明治8)年に設立された同志社英学校に入学したのは1879(明治12)年9月のことでしたが、その目的は海軍軍人になろうとして英語を学ぶためで、当時キリスト教を邪教であると思い込んでいた磯雄は、同英学校がキリスト教主義の学校であることを知らずに入学したのです。

 徴兵検査が近くなると、私立学校であった同志社英学校には官立学校と異なり徴兵免除の特典がなかった(「日本の労働運動」を読む11参照)ので、郷里の父の指示と手続きにより、彼は養子ではなく戸主になるために、19歳の時、33歳の独身女戸主の所へ10~15円を提供する代わりに、彼女と形式的結婚をして兵役免除適用者となりました。かくして磯雄は竹内姓を名乗ることになりましたが、1885(明治18)年徴兵令改正が行われ、徴兵免除の特典は60歳以上の老人を扶養する義務を負う者に限定されることとなったのです。磯雄の父はあわてて磯雄を竹内家から離縁してもらい、「年は六十以上の婦人、実子はあるけれども籍は別になっている。実子が彼(老婦人)を扶養しているのでなんら他の者に厄介をかける必要はない」(安部磯雄社会主義者となるまで」改造社)という家を見つけ、15円を贈ってその家の養子となり、彼は安部磯雄と名乗るに至ったのです。

学校法人 同志社―募金のご案内―新島遺品庫資料―新島遺品庫のご紹介―同志社のはじまりー1.英学校

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む23

 安部磯雄は5年間の同志社における学生生活で新島襄の人格と思想に大きな影響を受けました。新島はすすんで学生の行事に参加して学生との交流に努め、「私共は神の前において誰も同胞兄弟であるから、今後皆さんはどうぞ私を新島さんと呼んで下さい」(安部磯雄「前掲書」)と学生に要求、また彼は学生を呼び捨てにせず、どんな人も何々さんと呼びました。磯雄が同志社に入学した翌年、有名な「自責の杖」事件が起こりました。

学校法人 同志社―募金のご案内―新島遺品庫資料―新島襄遺品庫のご紹介―VTRで見る新島遺品庫資料(自責の杖)

 磯雄は「自責の杖」事件について何も言及していませんが、このような新島の態度に驚嘆、2年生になると海軍軍人志望を放棄してキリスト教に深い関心をもつようになったのです。

 きっかけは1880(明治13)年12月末期末試験の勉強中鼻と唇の間に腫物ができ、府立病院で診察の結果、瘍(ちょう 皮膚下の化膿性疾患 激痛を伴い、死に至ることもある)の手術をうけ、数日間生死の境をさまよいました。

 この時磯雄は「若し基督教の説くが如く死後尚ほ来世があるとすれば、私共は敢て死を恐れるに足らぬではないか。然し永遠の生命ということが果して事実であるかどうか。幸にして此度死を免れることが出来るならば、真剣に基督教を研究しよう。」(安部磯雄「前掲書」)と決心、1882(明治15)年2月5日同級生らとともに、今出川通の第一教会で新島襄から洗礼を授けられました。

 磯雄は同志社の北に位置する臨済宗相国寺境内をよく散歩したものですが、そこで彼は乞食の姿をよく目にし、明治維新後豊かな生活は一変して貧乏となった磯雄の心情を揺さぶりました。1883(明治16)年はじめて経済学を学んだ磯雄は「精神生活は宗教により、物質生活は経済学によりて指導されるべきものである」(安部磯雄「前掲書」)という抽象的な結論を得たに過ぎませんでした。

 1884(明治17)年同志社英学校を卒業後、しばらく母校の教員を勤め、やがて岡山教会に赴任、1891(明治24)年同教会からアメリカのハートフォード神学校(コネチカット州)に留学、1893(明治26)年6月夏季休暇を利用してニューヨーク市の社会事業見学に赴きました。同じころ磯雄はエドワード・ベラミー(Edward Bellamy)の小説「百年後の社会」(Looking Backward  警醒社書店)を読んで「恰(あたか)も盲者の目が開いて天日を仰いだ」(安部磯雄「前掲書」)感があったということです。

Loisirーspaceのblogー月別アーカイブー2010-11-03[本][文学]エドワード・ベラミー「顧りみれば」   

 「現在の経済組織には貧乏が発生するという必然的素因が含まれて居る。これを社会主義に改造すれば貧乏問題も根本的に解決されることになる。」(安部磯雄「前掲書」)これが「百年後の社会」を読んだ安部の感想でした。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む24

 安部磯雄は3年間アメリカ留学後、さらにベルリン大学で研鑚して1895(明治28)年2月帰国、洪水で被害を受けた岡山教会の再建に尽力し、1897(明治30)年1月再び同志社の教壇にもどりました。 ところが当時の同志社では学校のあるべき姿をめぐって小崎弘道と湯浅治郎が対立していました。この騒動にまきこまれた磯雄は在職2年で同志社を退職、1899(明治32)年岸本能武太(一緒に洗礼をうける)の推薦で東京専門学校(早稲田大学の前身)講師となったのです。同年彼は社会主義研究会に加入しました。

 社会主義研究会は1898(明治31)年10月結成(「『六合(りくごう)雑誌』の研究」教文館)され、「本会ハ社会主義ノ原理ト之ヲ日本ニ応用スルノ可否ヲ考究スルヲ目的トス」という性格の団体で、その本部はユニテリアン協会の惟一館(芝区四国町)に設置されました。

 本会の理論的指導者は村井知至で、その他岸本能武太・片山潜幸徳秋水らが加入、主流はユニテリアン派のクリスチャンで、片山潜はユニテリアン派ではなかったが、クリスチャンであり、キリスト教と無縁な幸徳秋水は異色の存在でした。

 社会主義研究会は1900(明治33)年1月28日、会の名称を社会主義協会と改め(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会)、「社会主義の原理を討究し、之を我邦に応用するを以て目的とす。」(規約第2条)という性格をもつ団体となり、会長は安部磯雄、幹事は片山潜でその本部を片山潜の経営するキングスレー館に設置することになりました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む25

 すでに述べたように労働組合運動は治安警察法の制定によって、ほとんど壊滅に近い状態となり、その行きづまりを労働者政党結成によって打開しようとするに至りました(「日本の労働運動」を読む21参照)。日鉄矯正会は「若し社会主義を基礎として政党が組織されるならば、二千有余の組合員は悉くこれに参加すべし」と片山潜に伝えてきたほどでした(安部磯雄「明治三十四年の社会民主党」社会科学 辻野功「前掲書」引用)。

 かくして社会主義協会安部磯雄片山潜幸徳秋水・西川光次(二)郎・河上清・木下尚江6名は1901(明治34)年5月18日「社会民主党宣言書」(安部磯雄起草)を発表して「社会民主党」を結党(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会・「本書」②)しました。

法政大学大原社会問題研究所―公開活動―企画展示―高野房太郎と労働組合の誕生―10 社会民主党の結成

脚光 歴史を彩った人々―15 木下尚江

 社会民主党の母胎となった社会主義協会の主流がアメリカ留学の安部磯雄片山潜にあり、同党結成に参加した6名中5名までがキリスト教信者であったため、社会民主党宣言・綱領はアメリカ的でキリスト教的であったのは当然でしょう。同党宣言は米ウイスコンシン大学教授イリー博士の著作「社会主義と社会改良」が参考とされ、綱領にも反映しているのです(赤松克麿「日本社会運動史」岩波新書)。

 社会民主党宣言は次のような文章から始まっています。「如何にして貧富の懸隔(かけ離れること)を打破すべきかは、實に二十世紀に於けるの大問題なりとす。」

 続いて当時の日本の現状を「今や我国に於ける政治界の有様をを見るに、政治機構は全く富者の手中に在るものゝ如し。貴族院が少数の貴族富豪を代表するは言ふまでもなく、衆議院と雖も其内容を分析すれば悉く地主資本家を代表せるものにあらざるはなし。(中略)然れども記憶せよ国民の大多数を占むるものは田畠に鋤鍬を採る小作人、若くは工場に汗血を絞る労働者なることを。」と指摘、「我党は(中略)社会主義と民主主義に依り、貧富の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を得せしめんことを欲するなり。故に我党は左に掲ぐる理想に向って着々進まんことを期す。」として軍備全廃など8項目の理想綱領と、全国の鉄道・電気瓦斯事業・都市における土地などの公有・酒税など消費税の全廃とこれに代えるに相続税などの直接税を以ってすること・少年、婦女子の夜業禁止・一日の労働時間を8時間に制限・労働組合法と小作人保護法の制定・普通選挙法、公平選挙法(比例代表制)、重大問題に関する一般人民の直接投票制実施・貴族院廃止・軍備縮少・治安警察法の廃止など28項目の実践綱領を掲げました。

 同宣言はさらに「帝国議会は吾人が将来に於ける活劇場なり、多年一日我党の議員国会場裡に多数を占めなば、是れ即ち吾人の抱負を実行すべきの時機到達したるなり。(中略)選挙権にして一たび多数人民の手に帰せんか、(中略)之に加ふるに公平選挙法を採用して、少数者の意見をも代表し得るの途を開かば、(中略)尚ほ諸君の代表者を議会に送るを得べし。故に我党は其目的を達する最初の手段として、先づ選挙法の改正を絶叫せんと欲す。」と述べ、民主主義的手段による社会主義の実現を主張しました。

  この「社会民主党宣言書」は「労働世界」、東京の「万朝報」「毎日新聞」「報知新聞」などの日刊新聞、京都の地方紙「日出新聞」に掲載報道されました(「本書」②注)。

 社会民主党結成の動きを察知した当局が派遣した刑事を安部磯雄は共鳴者とし、同宣言書が印刷される数日前、所轄警察署長が安部磯雄を訪問、綱領の中の軍備全廃及び縮少・一般人民直接投票制・貴族院廃止の3項目を削除するならば、結党を許可するとの政府側の内意を伝えましたが、安部磯雄はこれを拒絶しました(「明治三十四年の社会民主党」「社会科学」)。

同年5月20日治安警察法第8条第2項違反を理由に社会民主党は結社禁止となり、同宣言書を報道した紙誌は差し押さえられ、安寧秩序紊乱で起訴されました(「官報」)。安部磯雄らは経済問題を中心に綱領を作成することにして、同年6月3日社会平民党の結社届を出しましたが、これも即日禁止となったのです(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む26

 社会主義研究会と普通選挙期成同盟会の正式接触は1900(明治33)年1月28日の社会主義研究会第11回例会において同上同盟会幹事北川筌固と小野瀬不二人が、すでに両組織に属していた幸徳秋水の紹介で同上研究会に入会、その時北川筌固が普選運動の現状について報告したことに始まります。このことがきっかけで、社会主義研究会の村井知至・安部磯雄らが同盟会に加入、同上同盟会側でも中村太八郎・木下尚江らが社会主義協会に加盟することになりました(辻野功「前掲書」)。

 1901(明治34)年4月3日二六新報社主催東京向島において開催された第1回日本労働者大懇親会は参加者3万人余といわれ、片山潜の提案によって工場法と普通選挙法の制定を要求することを決議しました(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」1 東大出版会)。

 かかる普選運動の活発化を背景として、1902(明治35)年2月12日中村弥六・花井卓蔵・河野広中らは最初の普通選挙法案を衆議院に提出しましたが、同年2月25日否決されました[衆議院参議院編「議会制度七十年史」(帝国議会議案等件名録)大蔵省印刷局・松尾尊兊「前掲書」]。普選法案は当時の納税資格10円以上[1900(明治33)年山県有朋内閣のとき、納税資格は10円以上に引き下げ、「火の虚舟」を読む18参照]の人々の反発を買ったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー河野広中

 1902(明治35)年から翌年ころになると、はじめ普通選挙期成同盟会の主流は自由民権運動の流れに属しながらも、その中心からはずれた人々でしたが、やがて片山潜幸徳秋水安部磯雄・木下尚江・西川光次郎らの社会主義者に移行していったといえるでしょう。

 1903(明治36)年日露両国関係の緊迫とともに普通選挙同盟会は主戦論と非戦論で対立激化、事実上解体してしまいました。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む27

 幸徳秋水は1871(明治4)年9月22日父幸徳篤明・母多治子の3男伝次郎として、高知県幡多郡中村町(現 四万十市)に生まれました。父篤明は薬種業・酒造業を営んでいましたが、伝次郎が2歳のとき死去、以後母の手でそだてられました。

 彼は高知中学校中村分校在学中1885(明治18)年分校が暴風雨で倒れて廃校となり、同級生たちは本校の高知中学校へ転校しましたが、家が貧しかった優等生伝次郎は転校をあきらめ、憂鬱な日々を酒に紛らわせていました。1887(明治20)年8月17日伝次郎は旅費50銭をもち高知へ家出、自由民権運動発祥の地であった高知では条約改正問題への反対論で盛り上がり、郷土出身の谷干城板垣退助が脚光をあびた存在でした(「大山巌」を読む26参照)。伝次郎少年は本を売って得た4円50~60銭を入手、友人とともに上京して郷土出身の林有造の世話で林の兄岩村通俊の別邸に住むこととなりました。

 ところが同年12月25日保安条例が発布され、条約改正反対を叫んでいた人々は24時間ないし3日以内に東京を退去させられました。伝次郎も土佐出身だというそれだけの理由で東京を去らねばならなくなったのです。彼はとぼとぼと東海道を徒歩で郷里へ向かいました。「嗟(ああ)帰路実に寒かりし、飢えたりし。」(「後のかたみ」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社) この辛い思い出を彼は終生忘れることができなかったのです(田中惣五郎「幸徳秋水三一書房)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む28

 1888(明治21)年10月1日保安条例は解除、上京勝手次第となったので、伝次郎は親友横田金馬が当時大阪で角藤定憲壮士芝居を創始、保安条例で大阪に来て「東雲新聞」を発行していた中江兆民壮士芝居の顧問をしていた関係をたどって中江兆民の学僕に住み込むことになりました(「火の虚舟」を読む17参照)。

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法発布とともに大赦令が公布され、保安条例処刑者中江兆民も自由の身となり、やがて東京と大阪を往復、同年10月東京表神保町に定住するに至り、伝次郎は相変わらず中江宅の玄関番をしていました。

 1890(明治23)年7月1日第1回衆議院選挙が実施され、中江兆民は大阪から立候補当選しました(「火の虚舟」を読む18参照)が、伝次郎は総選挙以前病気に倒れ同年9月帰郷、翌年4月三度目の上京後、再び病に倒れて療養生活を続け、国民英学会に入って英語学習に努めました。1893(明治26)年23歳で国民英学会卒業、同年3月伝次郎は一時離れていた中江家に戻り、「自由新聞」の翻訳記者として採用され、中江兆民から秋水の号を与えられました(「火の虚舟」を読む19参照)。

 自由新聞入社とともに秋水は中江家の玄関番をやめ、1895(明治28)年2月広島新聞に移り、以後転々と勤務先を変えながら、1896(明治29)年4月麻布市兵衛町に借家で一戸を構えて故郷から母を呼びよせ、友人の世話で旧久留米藩士某の娘で17歳の朝子と結婚しました。すでに年少で吉原通いをしていた秋水でしたが、無教養なこの娘にあきたらなかったらしく、彼女を里帰りさせて、あとから三行半(離縁状)を郵送したのです。

 1898(明治31)年2月秋水は中江兆民の紹介で黒岩涙香(「田中正造の生涯」を読む22参照)創刊の「万朝報」記者となりました。

高知県立文学館ー常設展―常設展示ご案内ー常設展示室ー近代文学ー「黒岩涙香と万朝報」

 1899(明治32)年7月秋水は師岡正胤(節斎 国学者)の次女千代子(戸籍名千代)と再婚しました。彼女は父の薫陶をうけて国文ばかりか英仏語にも通じる才媛だったようです。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む29

 1898(明治31)年11月18・19日、秋水が万朝報(「同左」25日本図書センター)に論文「社会腐敗の原因と其救治」を発表すると、村井知至・片山潜は秋水に社会主義研究会入会を勧誘、秋水は喜んで同月20日惟一館において開催された同研究会第2回例会に出席しました(週刊「平民新聞」54号)。さらに翌年6月25日同研究会第8回例会で秋水は「現今の政治社会と社会主義」と題する発表を行い、彼が思想的に社会主義へ傾斜していったことがわかります。つづいて1900(明治33)年2月17・18日の「万朝報」(「同左」30日本図書センター)で治安警察法公布に先立ってかれは同法を批判攻撃しました。

 同年の義和団の乱(「大山巌」を読む49・50参照)に際して、日本は列国とともに派兵、日本軍の規律はロシア軍の清国民に対する蛮行に比して立派だと喧伝されましたが、実は日本軍にも分捕(馬蹄銀)事件(「坂の上の雲」を読む19参照)と呼ばれる略奪行為がありました。おそらく幸徳秋水らはこれを「万朝報」(「同左」37・38日本図書センター)[無署名「北清分捕の怪聞」1901(明治34)年12月1日~1902(明治35)年1月19日まで連載]でとりあげ、きびしく追及したため、当時陸軍少将真鍋斌を休職に追い込み、山県有朋ら軍部の恨みを買って、これが後の大逆事件の遠因になったとする研究があります(小林一美義和団戦争と明治国家」汲古書院)。

 1900(明治33)年6月1日憲政党(旧自由党系)総務は伊藤博文に党首就任を要請したところ、同年7月8日伊藤はこれを断り、新党組織を示唆、8月23日憲政党総務は新党への無条件参加を申し入れました。8月25日伊藤博文は政友会創立委員会を開き、宣言および趣意書を発表すると、9月13日憲政党臨時大会は政友会参加のため解党を宣言、9月15日立憲政友会発会式(総裁 伊藤博文)が挙行されました(「大山巌」を読む48参照)。大阪毎日新聞主筆原敬も同会創立慰労会に参加しました(「原敬日記」第1巻 明治33年9月15日条 福村出版株式会社)。

横浜金沢見てあるきー附録―日本史ミニ事典―図表―政党の変遷

 同年8月26日付の手紙で、中江兆民幸徳秋水立憲政友会を批判した「祭自由党文」を執筆するよう依頼、これに応えて秋水は同年8月30日「万朝報」(「同左」32日本図書センター)に「自由党を祭る文」を掲載しました(「火の虚舟」を読む20参照)。

忠臣蔵―高校日本史―日本史史料集(近代編)―10 立憲自由党~政党政治への批判―1107自由党を祭る文

「歳は庚子(明治33年)に在り八月某夜、金風(秋風)浙瀝(せきれき 風が木を鳴らす音)として露白く天高きの時、一星忽焉(こつえん たちまち)として墜ちて声あり、嗚呼(ああ)自由党死す矣。」という有名な文章から始まるこの祭文(祭祀の時、神霊に告げる文)はつづいて「専制抑圧の惨毒滔々四海に横流し、維新中興の宏謨(こうぼ 大きなはかりごと)は正に大頓挫をを来たすの時に方(あた)って、祖宗(現代以前の代々君主の総称)在天の霊は嚇として汝自由党を大地に下して、其呱々(乳飲み子の鳴き声)の声を揚げ、其円々の光を放たしめたりき。」と述べ、明治維新天皇制中興とし、これを妨害するのが専制官僚で、自由民権運動は「祖宗在天の霊」によって生まれたと主張、民衆の動向に言及していません。

 また「吾人年少にして林有造君の家に寓す、一夜寒風凛冽の夕、薩長政府は突如として林君等と吾人を捕へて東京三里以外に放逐せることを、当時諸君が髪指の状宛然(そっくりそのまま)目に在り。忘れざる所也。」と保安条例の恨みを忘れていないようです。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む30

 1901(明治34)年4月20日秋水は「廿世紀の怪物帝国主義」(幸徳秋水帝国主義岩波文庫)を発表、内村鑑三はこの著作に序文を寄せ「友人幸徳秋水君の『帝国主義』成る、君が少壮の身を以て今日の文壇に一旗を揚るは人の能く知る処なり、君は基督信者ならざるも、世の所謂愛国心なるものを憎むこと甚し、君は曾て自由国に遊びしことなきも真面目なる社会主義者なり、余は君の如き士を友として有つを名誉とし、茲に此独創的著述を世に紹介するの栄誉に与かりしを謝す。」と述べています。

法政大学大原社会問題研究所―研究活動・刊行物―デジタルライブラリー「社会労働運動大年表」解説編―全項目一覧―1901-5-<廿世紀之怪物帝国主義>[文]1901.4.20 ―<社会主義神髄>1903.4.19

  同年5月18日幸徳秋水も参加した社会民主党が結党され(「日本の労働運動」を読む27参照)ましたが、同月20日治安警察法により結社禁止となったことは既に触れた通りです。幸徳秋水の提唱で事務所を秋水の自宅(麻布宮村町)に置く「社会平民党」が社会民主党実践綱領の国民投票死刑廃止貴族院廃止・軍備縮少・治安警察法ならびに新聞紙条例廃止の諸項を削除(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)、同年6月3日結社届出をしましたが、再び結社禁止となりました。