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片山 潜「日本の労働運動」を読む1~10

片山 潜「日本の労働運動」を読む1

 片山 潜「日本の労働運動」(岩波文庫 以下「本書」と略)には① 片山 潜・西川光次郎合著「日本の労働運動」(序文に明治三十四<1901>年五月の日付がある)、② 片山 潜「日本における労働運動」(英語版)-社会主義のために―(序言にニューヨーク市において一九一八(大正七)年七月九日の日付がある)の2著作が収録されています。

 この2著作によってわが国の労働運動の黎明期すなわち職工義友会の結成から労働組合期成会による労働組合の発展と衰退、社会主義政党の結成と治安警察法による弾圧、日露戦争反戦運動足尾銅山の暴動事件、大逆事件東京市ストライキなど明治日本の労働運動・社会主義運動の概観を知ることが出来ます。この2著作の史料としての価値については同書解題をご覧ください。

 高野房太郎は1869年1月6日(明治元年11月24日)長崎府彼杵(そのき)郡長崎町銀屋町18番で和服仕立業を営んでいた高野岩吉の四男仙吉を父とし、母マスの長男として出生しました。1871年9月16日(明治4年8月2日)には弟岩三郎(後に帝国大学法科大学教授)が生まれています。

教育文化協会(ILEC)―出版・広報事業―本と資料の紹介コーナー2010年6月の紹介本ールーツを求めてー二村一夫『労働は神聖なり、結合は勢力なり』(岩波書店)

 1877(明治10)年父仙吉は上京、神田で旅館兼回漕業「長崎屋」を開業しました。

 上京の動機は西南戦争による不景気で家業がやりにくくなり、横浜で汽船問屋をしていた房太郎の伯父高野亀右衛門や弥三郎が呼び寄せたもののようです(高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」)。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―別巻3―目次―回想記・追悼記など―2 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」 

 

  ところが1879(明治12)年父仙吉は死去、1881(明治14)年長崎屋は火事により全焼してしまいました。しかし高野一家は日本橋小網町に転居、旅館「長崎屋」を再建しています。

 同年江東高等小学校を卒業した房太郎は翌年横浜商法学校に通いながら、伯父高野弥三郎の経営する横浜の汽船問屋兼旅館「絲屋」(三菱会社代理店)の住み込み店員となりました。

 1886(明治19)年房太郎の母マスは「長崎屋」を廃業、横浜へ転居するつもりだったようですが、同年4月高野弥三郎が死去したため、彼女は東京大学付近で学生下宿を営み、渡米を希望する房太郎の思いに応えたのです。

 同年12月2日房太郎は太平洋郵便汽船会社の客船ニューヨーク号で横浜を出港、同月19日サンフランシスコ入港、現地で「スクールボーイ」(通学時間を保障して家事手伝いをさせるアルバイト)としてサンフランシスコの対岸オークランドの会社経営者アルバート・ブレイトン家に住み込み、家族同様に可愛がられたようです。

 翌年房太郎は1箇月ほど日本に帰り、アメリカにおける日本雑貨店開業のための資金を作り、房太郎をよく知っていた高田早苗(「大山巌」を読む27参照)の紹介で「読売新聞」通信員となりました。彼は帰米後1887(明治20)年12月22日第1回の「米国桑港通信」を「読売新聞」に掲載しています。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む2

 1888(明治21)年サンフランシスコのコスモポリタンホテルで客引きの副業をしながら、同年5月ころ房太郎は友人中川宇三郎と共同出資で日本雑貨店を開きましたが、約半年で経営破綻、彼はサンフランシスコを離れて、ブレイトン家の息子たちと働いたことのあるカリフォルニアのポイント・アリーナに赴き、マクニール編「労働運動―今日の問題」というアメリカ労働運動の百科全書ともいうべき書物に接し、労働運動にかんする関心を深めました。

 房太郎が労働組合の存在に気づいたのはサンフランシスコでの靴工城常太郎との出会いがきっかけだったとおもわれます。城常太郎は日本で靴工の労働運動に参加した経験者で、製靴業は明治以後、主として陸軍の需要を中心としており、一般市場の需要が極端に小さかったことと雇用主と徒弟・職工の関係もうまくいかず、1888(明治21)年秋日本人靴工の新たな職場開拓の目的でサンフランシスコへやってきたのです。彼が渡米後最初に得た働き口はコスモポリタンホテルの皿洗いだったので、おそらく同ホテルの客引きをしていた高野房太郎の世話によるものでしょう(牧民雄「ミスター労働運動 城常太郎の生涯」彩流社)。

日本で初めて労働組合を作った男―評伝・城常太郎 

 そのころアメリカ西海岸で「白人靴工労働同盟」は中国人排除のために、白人組合員が製造した靴にだけ「ユニオン・ラベル」を貼り、非組合員が製造した製品のボイコットを呼び掛ける戦術をとっていたのです。城常太郎と高野房太郎の間でこのことがきっと話題になったことでしょう(二村一夫「労働は神聖なり、結合は勢力なりー高野房太郎とその時代―」岩波書店)。房太郎がアメリカの労働運動を紹介した「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」(ワシントン州タコマにて、「読売新聞」米国通信欄 明治二三・五・三一 第四六五一号以下 ハイマン・カブリン編著「明治労働運動史の一歯句(せき 場面)」有斐閣)は次のように述べています「吾人は北米合衆国の政史を読む毎に常に労役者が其政治上に於て偉大の勢力を有するを認む。吾人の労役者の此勢力の結果として支那人拒絶条例の発布を見たり」。

 このような状況において労働組合期成会の前身「職工義友会」(牧民雄「前掲書」によれば「労働義友会」)がサンフランシスコで創立されたのです。「本書」①はこのことについて、次のように述べています『職工義友会は日本に於て創設せられし者にあらざりき。爰(ここ)に面白き意味あり。此の会は明治廿三年仲夏、米国桑港に於て当時同地に労働しつつありし、城常太郎、高野房太郎、澤田半之助、平野栄太郎、武藤武全、木下源蔵、外四五名の労働者によりて組織せられし者にして、その帰するところは「欧米諸国に於ける労働問題の実相を研究して、他日我日本に於ける労働問題の解決に備へんとするにあり」たり。』(第一編第二章第一節)

 「本書」によれば「職工義友会」の創立は1890(明治23)年ということになりますが、二村一夫氏の考証によれば、同会の創立は1891(明治24)年であったことが指摘されています(二村一夫「前掲書」)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む3

 やがて房太郎は1893(明治26)年夏タコマからサンフランシスコ経由でシカゴに赴き、シカゴ万博の日本品即売所で、同年11月からはマサチューセッツ州グレイト・バーリントンのホワイティング家で働き、翌年3月6日はじめてアメリカ労働総同盟(AFL)会長サミュエル・ゴンパースに手紙を書いています。

国際労働財団―JILAF Database―NC―地域別ー北米―アメリカ合衆国―アメリカ労働総同盟・産業別労働組合―略史   

 この時の房太郎とゴンパースとの往復書簡邦訳は下記1の通りです。なお英文の原文をご覧になりたい方は下記2を参照して下さい。

オンライン版 二村一夫著作集 

下記1 同上著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―4 アメリカ時代―(43)東部への旅(2)-グレイト・バーリントン

下記2 同上著作集―総目次―別巻3-関連史料一覧―5 Correspondence between Fusataro Takano and Samuel Gompers

 房太郎のゴンパース宛書簡の要点は次の如くです。(1)私は数年以前に渡米したが、アメリカ労働者の豊かさに比して日本の労働者の社会的・物質的に哀れな状態を思い、帰国後には、彼等の境遇の改善に努力したい。

(2)現在日本には労働団体は存在せず、その原因は彼等の無知にあり、労働者を教育するには彼等を労働組合に組織する必要がある。

(3)労働者を組織するには、貴同盟のような職業別組合の路線をとるべきか、あるいは労働騎士団のような地域的組織を選ぶべきか迷っている。

(4)こうした問題についてあなたのご助言を賜りたい。貴組合の規約あるいは印刷物があれば、ご恵与願いたい。

  これに対する同年3月9日付ゴンパースの返信の要点は次の如くです。(1)お便りを拝見し、言葉に表現できない程の喜びを感じる。労働者は各職種や職業単位の組合に組織されるべきである。

(2)要請に応じ参考文献を送付するので、研究をお願いしたい。

(3)この問題についてあなたと話し合う時間をとるので、いつかニューヨークをを訪問することを希望する。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む4

 1894(明治27)年4月房太郎はグレイト・バーリントンからニューヨークに赴き、水兵に応募するため「海軍工廠」を訪ねました。水兵志願の理由はサンフランシスコにおける日本雑貨店破綻によるもの及び東京の高野家における借金返済の必要があり、水兵になれば衣食住保証で30ドル余の月給が支給されるからでしょう。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―4 アメリカ時代―(44)ニューヨークにて(1)-アメリカ海軍へ入隊―注*3

 水兵(食堂関係のウエイター)として採用された房太郎は出航まで約半年の待機期間に労働組合に関する情報収集に努めるとともに同年9月4日ゴンパースに面会、ゴンパースは彼をアメリカ労働総同盟の日本担当オルグ(organizerの略 未組織の労働者などを組合に組織する人)に任命しました。

 同年11月20日房太郎乗り組みの米アジア艦隊所属機帆船砲艦マチャイアス号は日清戦争の主戦場である北東アジア海域でアメリカ合衆国の利益を守ることを任務としてニューヨーク海軍基地を出港しました。同号は1895(明治28)年4月25日から27日まで長崎に停泊、このとき唐津にいた房太郎の姉キワとその夫井山憲太郎に再会、長崎を出港した同号は中国海域を航行後、同年11月24日朝鮮半島済物浦(仁川)に入港、1896(明治29)年4月4日済物浦出港、同月6日長崎到着、一旦中国海域に戻った後、同年5月末神戸を経て同年6月18日横浜に入港しました。同号の横浜繋留中、房太郎はマチャイアス号をから逃亡帰国したのです。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む5

 帰国後、高野房太郎はやがて横浜発行の英字新聞「デイリー・アドヴァタイザー」記者として就職しました。

 「本書」①は我が国における「職工義友会」の再建について次のように述べています『然るに明治廿九(1896)年の末に至り、彼等の多くは帰朝し、先ず澤田半之助及び城常太郎の両氏は日本に於ける労働運動の時期巳に熟せるを見たりしかば、翌三十(1897)年四月に東京麹町区内幸町に職工義友会を起こし、「職工諸君に寄す」てふ印刷物を普(あまね)く各工場に配布しぬ。是れ日本に於ける労働運動の最初の印刷物なるを以て、吾等はその全文を左に記載せん。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(57)運動開始を決断―(60)「職工諸君に寄す」―*4

 先是義友会は適当なる運動員を得るの必要を感ぜしを以て、元桑港に於て義友会の一人たりし人にして、当時横浜に於て洋字新聞「アドバアタイザア」の記者たりし高野房太郎氏に嘱目(注目)し、澤田半之助氏を使はして高野氏を説かしめしに、高野氏は甘諾(快く承諾)職を捨て丶東京に出で来りぬ。』。

 しかるに1896(明治29)年11月高野房太郎は労働運動開始を決心、同年12月アドヴァタイザーを辞職、靴造りを職業にしている友人(城常太郎)と相談するために上京しています(1896年12月11日付ゴンパース宛書簡 オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(57)運動開始を決断 参照)。

二村一夫氏は上記書翰史料を根拠として、本書①の誤りを指摘しているのです。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む6

 「職工諸君に寄す」は次のような文章から始まっています。「来る明治三十二(1899)年は実に内地開放の時期なり。外国の資本家が低廉なる我賃銀と怜悧なる我労働者とを利用して、巨万の利を博せんとて我内地に入り来るの時なり。」(「本書」①)

 幕末に締結された不平等条約において外国人は居留地に住むことおよび遊歩制限を義務づけられていました(例 1858 日本国米利堅合衆国修好通商条約第3条 「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。対等条約調印より少なくも5年後に外国人は日本国内を自由に旅行あるいは居住することができ、外国人居留地は廃止されることになっていました(例 1894 日英通商航海条約第1条、第18条、第21条 「同上書」上 原書房)。「職工諸君に寄す」冒頭の言葉はこのことを指し、警戒を呼びかけているのです。

 さらに「職工諸君に寄す」は次のように述べています「家を守るべき妻、学校にあるべき小児が、工場に働くとは誠に不自然極りたる次第にて、更に其原を尋ねて賃銀の安き為め男一人の腕にては妻子を養ふことを得ざるに依ることを思へば、誠に一大恨事の極なりと云はざるべからず。」。すなわち職工義友会が組織化を呼び掛けているのは男子労働者のみで、当時の製糸女工や紡績女工のほとんどは年少で嫁入り以前の一時期の女子労働者(「雄気堂々」を読む19参照)として組織化の対象とはされていなかったことに注意する必要がありましょう。

 つづいて「職工諸君に寄す」は次のように主張します『或る人は云ふ「(前略)富者益々富み貧者益々貧し。労働者の蒙むる不正其沈淪(ちんりん おちぶれはてる)せる境遇実に悲惨の極にして、之を改良せんとする唯革命あるのみ。貧富を平均するにあるのみ。」(中略)貧富平均論は言ふべくして行ふべき事にあらず。左れば我輩は諸君に向って断乎として革命の意志を拒めよ(中略)と忠告するに躊躇(ちゅうちょ ためらう)せざるものなり。(中略)労働は神聖にして結合は勢力なり。(中略)我輩は爰に再び諸君に同業組合の組成を勧告する者なり。然らば如何にして同業組合は組織すべきか。』。

 このように呼び掛け、問いかけて「職工諸君に寄す」は7人以上ある職業者が集って地方同業組合を設け、これを地方連合団・全国同業連合団・大日本同業連合団に拡大、また同業組合の積立金を基礎に共済活動も可能になることを述べています。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む7

 1897(明治30)年6月~7月にかけては横浜付近の船大工約400人が組合を結成、賃上げを要求して同盟罷工(ストライキ)を決行しました(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会 製作 中央公論事業出版)が、そのきっかけとなったのは「職工諸君に寄す」であったと推察することができます(「高野日記」)。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(62)「職工諸君に寄す」の影響  

 同年7月5日「労働組合期成会」発起会が開催され、規約を討議決定、最後に仮幹事として高野房太郎・城常太郎・澤田半之助3人を選出、規約にもとづく役員選出までの運営を委託しました(「本書」①)。労働組合期成会はそれ自体が労働組合ではなく、文字通り労働組合結成を援助する啓蒙宣伝組織です。 

 同年8月1日労働組合期成会は第1回月次会を開き、次のように役員を選出しました(「本書」①)。

幹事 片山 潜(「坂の上の雲」を読む21参照) 澤田半之助 高野房太郎

村松民太郎 山田菊三 小出吉之助 松岡乙吉 島粛三郎 石津弥一 馬養長之助

常置委員 田中太郎 野村 莠 間見江金太郎 松田市太郎 岩田助次郎

 幹事長は互選により高野房太郎を推し、役員中より運動委員 演説会委員を選出しました。

評議員 佐久間貞一 鈴木純一郎 後に日野資秀 島田三郎 村井知至 安部磯雄

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(59)後援者・佐久間貞一 (64)片山潜と高野房太郎 (68)鈴木純一郎のこと   (69)期成会の仲間たち  

 同年12月1日には日本最初の近代的労働組合「鉄工組合」が結成され、発会式の当日我国最初の労働雑誌(実体は新聞)「労働世界」(「労働新聞社」刊行 編輯部長 片山潜・労働運動史料委員会編「労働世界」労働運動史料刊行委員会 製作 中央公論事業出版) 第1号が発刊されました。同号は「労働世界の方針は社会の改良にして革命にあらず。その資本家に対するや敢て分裂的争闘を事とせんとするにあらずして真正の調和を全うせんとするにあり」と主張しています。鉄工とは金属機械工場で働く労働者の総称です。発足時の鉄工組合員は13支部 1183人で、主として東京砲兵工廠で働く労働者で構成されていました。

 同年12月10日同組合本部委員総会で高野房太郎は本部参事会員(中央執行委員)に選出されています。

 翌年4月1日警視庁は4月3日上野で開催予定の労働組合期成会主催の大運動会(集会ならびに示威行進)に対し禁止を命令しました(「労働世界」10号 労働運動史料刊行委員会)。

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む8

 高野房太郎とともに日本労働運動黎明期の指導者であった片山 潜とはどのような人物であったのでしょうか。

 片山 潜は「卑俗なる予の生涯を茲(ここ)に少しも修飾を加えず赤裸々に語る?(中略)之が唯一の目的は予のもっとも愛する子供等に其の父が如何なる場所で、而も如何なる父母に依って生育したか、又如何なる青年時代を如何なる境遇で過したか、その壮年時代は何処で暮らしたか如何なることを為したかを詳細に語るのである。」(片山 潜「自伝」岩波書店)と述べています。この文章が獄中で執筆を開始したものであることを考えると、彼がなぜこのような「自伝」を書くことを考えたかがよく理解できるように思います。

 片山 潜は1859(安政6)年12月3日美作国久米南条郡羽出木村の庄屋藪木葭三郎の孫、父国造(戸籍では国平)・母きちの次男藪木菅太郎として生まれました。国平は越尾村から藪木家へ養子にきたのですが、故あって菅太郎4歳のとき家を去り僧侶となったので、菅太郎は兄とともに母に育てられたのです。彼の幼時曾祖父はまだ健在で、菅太郎は曾祖父から昔話を聞き、また「庭訓往来」(「市塵」を読む2参照)などの本を読むことを教えられました。

岡山県久米南町―暮しの情報―文化―文化ー郷土の偉人―町の先人たち―片山 潜

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む9

 7~8歳のころ氏神様の神主家本駿河守の処に行き、「いろは」の手本を書いてもらって、これを手習いするのですが、この寺子屋では生徒は菅太郎一人しかいませんでした。やがて彼はずる休みをするようになり、困った母は菅太郎を遍庄院(遍照院)という寺に預け、手習いの外「孝経」(孔子が弟子曾参に孝道を説いたものを曾参の門人が記録したものといわれる)の素読(書物の意味を理解せず、文字だけを高声で読むこと)を教えられましたが、すぐに忘れ、学問がきらいになっただけでした。津山藩の儒学者大村綾夫先生に四書(大学・中庸・論語孟子を指す、五経とともに儒学の根本の書)の素読や「十八史略」(十八史から抜き出した初学者用の読本)の講義の指導をうけたこともありましたが、理解できず、居眠りをして叱られたようです。

 間もなく誕生寺(法然の誕生地に弟子が建立した寺院)の建物を利用して成立小学校が設立され、菅太郎は1872(明治5)年14歳で同小学校に入学、前後百日通学しました。学校では内藤・長井の両先生の指導を受けたのでしたが、菅太郎は夜学において内藤先生に算術で分数の初歩まで習い、はじめて勉強の面白さを知りました。彼は『斯様な田舎で勉強するよりも、東京に行って大学にでも入った方がよい』と放言して先生や同級生から嘲笑されたのですが、女生徒の級長をしていた頼子(蕾子)だけが同情してくれたそうです。

 1877(明治10)年菅太郎自身で焼いた炭6俵を牛に、4俵は自分で背負って大戸の問屋へ売りに行っていたとき、大戸の蔵本塾で多くの学生が勉学している姿を見て、同年正月自分も学問で身を立てることを決心、母の激励で弓削小学校の助教となり、翌年故郷を離れて津山の植月小学校(植月村の観音寺)に転勤、同年8月徴兵令を回避するためか、神目村農業片山幾太郎の養子となりました。

町人思案橋・クイズ集―サイト内検索ー兵役免除ー明治時代、いくら払えば兵役を免除されたの?  

 

片山 潜「日本の労働運動」を読む10

 1880(明治13)年菅太郎は岡山師範学校に入学、成績優秀で級頭となりましたが、岡山師範時代の友人で上京していた渡辺益見を頼って東京遊学の志を立て、兄杢太郎に旅費を都合してもらって上京、銀座鍋町の印刷業績文社の活版工[初め車廻し、後文撰 (活字拾い) ]として働きながら、やがて下宿屋の学生の紹介で、岡鹿門(おかろくもん 仙台藩出身)が仙台屋敷の長屋を2~3軒借りて開いていた漢学塾に住み込みで入門しました。当時の教育はすべて西洋風で英語がもっとも盛んでしたが、官立学校(陸海軍および法律関係の諸学校)へ入学するには漢学の素養が必要で、岡塾もそれで入門者が絶えなかったのです。菅太郎はやがて活版工をやめて岡塾の塾僕(先生の講義の時間を知らせ、講堂の清掃と入学希望者の受付をするなどが仕事で、飯と味噌・醤油を供給される外、給金なし)となり、岡鹿門から四書及び書経詩経易経礼記・春秋とともに五経と呼ばれる)・左(氏)伝(春秋の解釈書 伝左丘明作)の講義を受けました。とくに左伝の筆誅(罪悪をを記して責めたてること)的論法は後に論理や哲学を研究するときに役立ったのですがその思想は菅太郎にとって空虚と感じられたのです。

 1883(明治16)年渡辺益見の周旋で菅太郎は芝新銭座の攻玉社(社長 近藤真琴)に塾僕として入りました。攻玉社幹事に藤田潜という人物がいて、「予の名が潜であったのを不平を云った」(片山潜「自伝」)とあるので、このころ菅太郎は潜(ひそむ)と名のっていたらしく、以後「片山潜」の呼称を用いることにします。

 攻玉社学生は皆海軍志願者ばかりで、その主要研究は数学でした。潜はやがて分校の測量部でもっぱら数学を勉強しつつ、矢野文雄「経国美談」を読んで感動しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー矢野(文雄)竜渓

 しかし数学はできたが、製図は苦手であったため、攻玉社をやめ、岡塾に戻りました。