木下尚江「田中正造の生涯」を読む21~30

木下尚江「田中正造の生涯」を読む21

 正造は川俣事件被告51名のために大弁護団を組織、1900(明治33)年10月10日前橋地方裁判所で川俣事件第1回公判が開催されると、同公判を傍聴、12月なかごろまで前橋に滞在(「全集」⑮№九四八-九七二)、同年11月28日同事件第15回公判における検事論告に憤慨して欠伸(あくび)をしたため官吏侮辱罪を適用され起訴となりました。

 同年12月22日前橋地裁は川俣事件に対し判決、被告51名中29名が有罪(治安警察法違反罪2名、官吏抗拒罪26名、官吏侮辱罪1名)となり、検事・被告ともに控訴しました(1902.12.25控訴控訴棄却により裁判消滅)。

 1901(明治34)年3月16日増税法案(北清事変費・建艦費補充など)を可決した第15議会において、3月24日正造は「鉱毒を以て多大の国土及び人民を害し兵役壮丁を減損せし古河市兵衛を遇するに位階(1900年従五位授与「古河市兵衛翁伝」)を以てせし儀につき質問書」を提出、演説を要求(「全集」⑧四四三-四五〇)しましたが、同議会は閉会しました。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む22

 しかし田中正造を支援する人々が次々と行動に立ちあがっていたことも忘れてはいけないことでしょう。同年5月21日神田基督教青年会館で三好退蔵・富田鉄之助・田口卯吉3名の発起により、鉱毒調査有志会が結成(「全集」⑮№一〇三五)され、51名が参加しました。

 その中には三宅雪嶺(「田中正造の生涯」を読む18参照)・陸羯南(「坂の上の雲」を読む7参照)・徳富蘇峰(「大山巌」を読む45参照)・秋山定輔・黒岩周六(涙香)などのジャーナリスト、島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・高田早苗(「大山巌」を読む27参照)・谷干城(「大山巌」を読む25参照)・三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)らの貴衆院議員、松村介石らのキリスト教徒、潮田千勢子・三輪田真佐子・矢島楫子・山脇房子らのキリスト教婦人矯風会幹部、島地黙雷、田中弘之らの仏教徒など広範囲にわたる人物が網羅されていました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー河上肇ーくー黒岩涙香

  同年11月20日本郷中央公会堂で鉱毒地救助演説会が開かれ、島田三郎・木下尚江の外、牧師田村直臣(北村透谷の結婚式を司会)も演説、田村の演説に感動した東京帝大学生河上肇は演説会終了後、着ていた外套とえりまきを脱いで被害民のために差し出しました(河上肇「自叙伝」五 思い出・断篇の部 6 木下尚江翁 岩波文庫)。

 同年11月29日神田基督教青年会館で鉱毒地救済婦人会発会式が行われ、潮田千勢子が会長に選ばれ、同日の潮田・矢島・山脇らに安部磯雄・島田三郎らも加えた演説会に出席させた女中から鉱毒被害の様子を聞いた古河市兵衛の妻タメは翌日神田川に投身自殺しました(明治34年12月1日付 新聞集成「明治編年史」第11巻 財政経済学会・河上肇「前掲書」)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む23

 すでに田中正造は同年10月23日衆議院議員を辞職していました(五七 「議員辞職」政論「全集」②)。顧みれば正造は10年間鉱毒問題を訴え続けて政府・議会に裏切られつづけ、かくなる上は鉱毒問題に関する世論の盛り上がりを背景に、人の意表をつく行動にでて、この問題をひろく国民に訴えようと決意したようです。

 1901(明治34)年12月10日第16議会開院式に臨み、帰途につく天皇の馬車に向かって群衆の中から駆けだした正造は直訴状[原案 幸徳秋水(「火の虚舟」を読む19参照)執筆 本書]を手に「お願いでございます。」と叫びながら馬車に近付き、護衛の騎兵がこれを遮ろうとして落馬、正造も躓いて転び、警戒中の警察官にとりおさえられました(1「直訴に関する談話」参考資料「全集」③)。彼は麹町警察署で取り調べの上釈放、不起訴となりました。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―略歴(足跡)―1901(明治34)年 鉱毒事件を天皇に直訴―翌日の時事新報―直訴状全文はこちらを参照ー直訴に関する事実―正造の関係者―石川啄木

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む24

 この事件は新聞にも報道され、反響は大きく、同年12月27日千余名の大学・専門学校・中学校の学生・生徒を田村直臣・安部磯雄・木下尚江・内村鑑三らが引率、被害地を見学し、被災民と交流しました。

 志賀直哉足尾鉱毒地の視察を計画したところ、祖父がかつて古河市兵衛足尾銅山を経営していたという理由から反対され父と衝突、以後の決定的な不和の原因となりました(年譜「志賀直哉全集」第14巻 岩波書店)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―しー志賀直哉

 また石川一(啄木 当時盛岡中学校生徒)は正造の天皇直訴の報道をきくと、その心境を和歌に託し、翌年1月29日青森歩兵第五連隊第二大隊の八甲田山雪中行軍遭難事件を報道する「岩手日報」号外を友人とともに盛岡で売り、その利益を鉱毒被害民への義捐金として贈りました(啄木案内 年譜「啄木全集」岩波書店)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む25

 1900(明治33)年田中正造は川俣事件第15回公判における検事論告に対する欠伸で官吏侮辱罪に問われましたが、1902(明治35)年5月9日東京控訴院は正造に対し禁錮40日、罰金5円を判決(同年6.12大審院上告棄却)。この結果彼は同年6月16日~7月26日巣鴨監獄で服役しました(「全集」⑮№一二二九-一二三二)。この間病監に入り、差し入れの新約聖書を読み(明治35年7月27日付原田定助宛書簡「全集」⑮№一二二八)、強い影響を受けたのです。

ケペル先生のブログーバックナンバーー2011年6月2日―新井奥邃(あらいおうすい)と田中正造

 正造の直訴を契機とする鉱毒世論の高揚によって、鉱毒事件が政治問題化することを恐れた桂太郎(第1次)内閣は同年3月17日閣内に第2次鉱毒調査委員会を設置、4月から実地踏査を開始しました。

 『明治三十五年十月、谷中村の染宮太三郎氏方に於て翁の政談演説があった。(中略)当時十四歳の筆者は片隅の柱の陰にかくれて各弁士の演説を聴いていた。やがて田中翁が演壇に現われた。白地の立縞の単衣(ひとえ)と黒い袴、背丈は高くないが、頭の大きな肩巾の広い、実に頑丈な体格、筆者は小学校の読本で見た坂上田村麻呂のようだと直観した。(中略)筆者は帰る時、聴衆の中でただ一人の小さな子供だったので、翁の眼にふれ、「何処から来たか」とたずねられたが、はにかみ性の筆者は、モジモジしながら別れたのを昨日のように記憶している。翁はその年、数え年で六十二歳であった。』(島田宗三「前掲書」)

 1903(明治36)年5月28日第18議会において島田三郎が足尾鉱毒に関して質問演説すると、政府は同年6月3日島田の質問演説に関する答弁に代えて鉱毒調査委員会の調査報告書を発表しました(「全集」⑮一三八五、一三八七)。

 同調査報告書によれば、(1)農作物に被害を与える銅成分は明治30年の鉱毒予防命令(「田中正造の生涯」を読む18参照)以前に銅山から排出され、銅山付近及び渡良瀬川河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小部分に過ぎない、(2)現在の被害の原因は鉱毒と洪水の両者にあるとし、(3)この観点から次のような鉱毒処分法の勧告を行いました、すなわち(ア)足尾銅山の予防工事を厳重にすること、(イ)足尾の林野経営、(ウ)渡良瀬川の治水事業、などを列挙しています(「栃木県史」通史編8)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む26

 この報告書は(3)-(ウ)について、渡良瀬川の治水は堤防の修築だけでは不可能であるから、渡良瀬、利根及び思(おもい)川の合流する付近に渡良瀬川の流量の一部を遊水させ、本川の減水を待ってこれを排水する遊水池を設けることが必要であると述べています。

 この報告書は結局鉱毒問題を治水問題に置き換えようとする意図をもっていたといえましょう。

 この遊水池の場所について報告書では明示されていませんが、調査委員会の審議で谷中(やなか)村が候補地に挙げられていました。

 栃木県下都賀郡谷中村は栃木県の最南端、渡良瀬川の北岸に位置し、北に赤麻沼があり、谷中村の東端で巴波(うずま)川・思川が合流して渡良瀬川に注ぎ、同村は三方を堤防で囲まれる輪中(わじゅう 水害を防ぐため、村落が堤防で囲まれ、水防協同体を形成したもの)の村でした。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―谷中村跡―仮小屋

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む27

 1904(明治37)年7月30日谷中村問題に専念のため、田中正造は以後同村川鍋岩五郎方を根拠地として寄留するようになりました。(「全集」⑯№一六六五、一六六六)。

 日露戦争が開始された後の1904(明治37)年12月10日栃木県会は秘密会において堤防修築費の名目で谷中村買収案を可決、同日閉会しました。

 社会主義思想に理解を示さなかった正造は日露戦争に対して非戦論を主張し、そのために闘った社会主義者たちの行動には理解を示し、谷中村問題を彼らに理解してもらおうと努力しました。当時正造の直訴に感動、学業を放棄して鉱毒地に入り活動していた黒沢酉蔵[1925北海道製酪販売組合(雪印乳業の母胎)設立に参加]に正造は手紙で幸徳秋水堺利彦らの平民社月例会に出席して谷中村問題を訴えるよう依頼しています(「黒沢酉蔵宛書簡」明治37年11月5日付 №1753 「全集」⑯)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造の関係者―黒沢酉蔵

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む28

 1905(明治38)年3月18日栃木県知事は告諭第2号により谷中村土地被買収者には補償と代替地を貸与(将来は移譲)、非土地所有者には別途救済を約束し(「全集」⑫p407)、同年7月10日には瀦(貯)水池用測量のため谷中村立ち入りを通告してきました。また県当局は村長のなりてがないことを理由に下都賀郡役所書記を管掌村長とし、村民の買収を推し進めたのです。1906(明治39)年7月1日管掌村長は村会決議を無視して谷中村を藤岡町に合併、翌年1月26日西園寺公望(第1次)内閣は谷中村に土地収用法の適用を公告(田中正造日記三-三「全集」⑪p21)、同法所管の内務大臣原敬(1905.3.24古河鉱業副社長就任、内相就任とともに同社顧問)は谷中村の強制買収を決定したのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー原敬―ふー福田英子

 1907(明治40)年4月14日付で谷中村残留民は栃木県に土地収用反対意見書を提出(飯塚伊平宛書簡写本「全集」⑰№二二五〇)、正造も同年4月17日福田英子らとともに栃木県知事に対して「旧谷中村の土地収用に対する意見書」(谷中村問題四六「全集」③p四八三)を、5月10日には安部磯雄らとともに、内務大臣原敬へ「土地収用法適用につき訴願書」(谷中村問題四八「全集」③p四九三)を提出、瀦水池なる文言は法律にはない、政府の措置は法に反し、法律を破壊するものであることを強調しました。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む29

 1907(明治40)年6月29日から7月5日にかけて、栃木県は谷中堤内残留民屋16戸を強制破壊、正造は破壊現場に立ち会い、抗議の意思を表明しましたが実力で破壊を阻止する行動には出ませんでした。「而してこれがために家を失ひたる者は、竹を柱とし、芦を屋根とし麦稈(むぎわら)を板敷となし、その上に筵(むしろ)を覆ひて、蚊帳(かや)をうち釣れるもあり。小舟を沼田に浮べ、竹もてこれに蚊帳を張りかけ、寂しき夢を結べるもあり。あるひは雨戸を寄せ、筵を張りなどして、僅かに雨露を凌(しの)げるもあり。中には蚊帳なくして、終夜藪蚊(やぶか)に攻められつヽ、苦しみ明かす者もあり。見るも憐(あわ)れ深き寒村の荒涼たる沼田の水に、夜半(よわ)の月影清く映りて、凄愴の景、坐(そぞ)ろに人をして泣かしむ。」(荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫

 三宅雪嶺・島田三郎夫妻・矢島楫子・弁護士今村力三郎らの尽力で谷中村救済会が東京で結成されると、7月21日谷中残留民は救済会宛に「憲法および国民の生命権利に対し安全保証を与えられ、又人道のために臨時救済の方法を立てられ併せて谷中村の土地復活を期せられたき請願書」[谷中・治水問題(一)「全集」④]を提出しました。

歴史が眠る多摩霊園―著名人―頭文字―あーいー今村力三郎

 同日救済会は残留民に不当買収価格に関する民事訴訟を起こすことを提案、正造と残留民は土地収用法の適用を不法としていたので、買収価格の高低を争うことに疑問をもったが、残留民らは安部磯雄田中正造らとともに宇都宮地方裁判所栃木支部に訴訟を起こし、残留民の団結を守るための力となりました(参考資料一三「全集」別巻p四〇九)。

 同年8月25日渡良瀬川は大洪水を起こし、谷中残留民の仮小屋が流失、正造は26日船を借りて残留民の救出に乗り出しましたが(逸見斧吉・柴田三郎宛書簡 明治40年8月29日付「全集」⑰№二三六六)、彼らは病人すら船の収容に応ぜず、正造は「此人々の自覚は神にも近き精神」と称賛しました(「逸見斧吉宛の書翰」明治40年9月1日付 本書)。しかし社会運動から手を引いていた木下尚江は強制破壊に立ち会ったのですが、やがて風雨にさらされる残留民を残して上州伊香保に帰山しました。その理由を木下は次のように述べています「今日まで彼等は翁(正造)の命令的態度に慣れ来りて自決ということに不経験なれば、この大機に際して彼等の精神に一大転化を与へざるべからずと思ふ」(「逸見斧吉宛の書翰」明治40年7月19日付「木下尚江全集」第19巻 書翰・草稿・補遺)。

 

木下尚江「田中正造の生涯」を読む30(最終回)

 1908(明治41)年7月21日栃木県は谷中堤内に25日より河川法準用を告示、これにより残留民の仮小屋も谷中堤内の耕作も県の許可が必要となることになります。

 同年9月19日正造は谷中残留民名義の「瀦水池認定河川法準用不当処分取消の訴願書」を藤岡町を経て内務大臣に提出(1909年却下)[谷中・治水問題(一)三三「全集」④]しました。

 1909(明治42)年9月内務省は栃木・群馬・埼玉・茨城4県に同省起業渡良瀬川改修工事費分担(渡良瀬川の河身変更、谷中村堤内外を中心に遊水地化)を諮問、正造は谷中残留民とともに陳情書を作成、栃木県会へ提出するなど反対運動をつづけましたが、各県会はやがて同改修案を可決、これをうけて1910(明治43)年3月23日第26議会も総工費750万円、14箇年継続事業として渡良瀬川改修案を可決しました(年譜「全集」別巻)。

 1913(大正2)年正造は過労で病床に伏す日々が多くなりましたが、それでも河川調査をやめようとはしませんでした。足利・佐野の友人を訪問しながら谷中へ向かう途中、同年8月2日足利郡吾妻村大字下羽田の庭田清四郎宅で倒れ、そのまま臥床してしまいました。9月3日医師和田剣之助は正造の病気を胃癌による幽門狭窄と診断、翌日午後零時50分正造は木下尚江に支えられて端坐すると、「ハァ」と大きな息をして呼吸をやめました。枕元に残された菅の小笠と繻子(しゅす 経糸・緯糸の浮いた組織の織物、古来帯地に用いることが多い)の袋には、日記3冊と「苗代水欠乏農民寝食せずして苦心せるの時、安蘇郡、及び西方近隣の川々細粒巡視及其途次に面会せし同情者の人名略記内報その一号書」と題された草稿、新約聖書一冊、帝国憲法と馬太(マタイ)伝を白糸で綴じあわせた小冊子、それに石ころ数個と鼻紙が少々あったということです(島田宗三「前掲書」)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―田中霊祠

栃木県の土木遺産―土木遺産目次―Ⅲ 河川砂防―渡良瀬遊水池―関連事項―足尾銅山―足尾銅山「光と影」年表