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司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む41~50

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む41

 午後2時8分バルチック艦隊旗艦スワロフの司令塔にいたロジェストウェンスキーは射撃を命令、スワロフの主砲が三笠に向けて砲撃しましたが、砲弾は三笠を飛び越えて水煙をあげ、バルチック艦隊主力艦は主砲・副砲を発射、その後三笠及び後続艦には命中弾も多かったのですが、連合艦隊は応射しませんでした。

 午後2時10分三笠は砲撃を開始、つづく諸艦の砲火はまずバルチック艦隊旗艦スワロフと戦艦オスラーヴィアに集中しました。バルチック艦隊は次第に東方へ変針、連合艦隊の最初の射撃後、スワロフの前部煙突が吹き飛び、2回目の射撃で司令塔内にいたロジェストウェンスキーは額を割られ、顔中血だらけになり、無電装置が破壊、無電技師は戦死しました。 5~6分後飛来した砲弾でロジェストウェンスキーは足を負傷しました。午後2時50分過ぎスワロフは舵機が破壊され、南東方から北方へ転針したかのように見えました。東郷・秋山はバルチック艦隊が南東方へむかう連合艦隊をやりすごして北方へ逃走をはかったと思い込み、連合艦隊に「左八点一斉回頭」(左へ90度回頭せよ)の旗信号を後続艦に指示し、第1戦隊はこれに従いました。

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 スワロフの行動を見た2番艦アレクサンドル3世艦長はスワロフが行動の自由を失ったと判断、スワロフの後を追わず、後続艦を南東方へ誘導しました。

 しかし連合艦隊第2戦隊旗艦出雲における参謀佐藤鉄太郎中佐は信号旗が揚がっていない事を理由としてスワロフの行動は舵の故障によると判断、上村司令官の決断で第2戦隊は東郷の指示に従わず、後続艦に「我に続け」の信号旗を掲げ、東南東に向かうバルチック艦隊の先頭艦アレクサンドル3世の前に廻り込むことに成功しました。やがて砲撃戦となり、アレクサンドル3世は浸水により艦は傾斜、戦線を離脱しました。代わってバルチック艦隊先頭艦となったボロジノ艦長は左回頭によって第2戦隊の後ろから北へ転針しました。連合艦隊第2戦隊もボロジノを先頭とするバルチック艦隊を追って北へ転針しました。

 戦艦オスラーヴィアは連合艦隊射撃開始後10分で後部煙突がなくなって2本煙突となり、舷側には無数の穴があき、艦首も破砕されて、午後3時10分ころ艦首を海中に没し、黒煙を残して沈没しました。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む42

 一方スワロフを追っていた連合艦隊第1戦隊はやがてスワロフのみが北上しているので、バルチック艦隊全体が北上するとの判断の誤りに気付き、南東方向にもどってバルチック艦隊を探していたところ、午後3時58分ボロジノを先頭とするバルチック艦隊に遭遇、これを追いかけてくる第2戦隊とバルチック艦隊を挟撃しました。この攻撃によってバルチック艦隊は戦艦ボロジノをはじめとして次第に沈没する艦が増加していったのです。ネボガトフ少将指揮下の第3戦艦戦隊(旧式戦艦4隻)は連合艦隊から黙殺されたため、運よく現場を逃れることができました。

 スワロフ艦内で負傷の手当てを受けていたロジェストウェンスキーは午後5時30分に駆逐艦ブイヌイに移乗しましたが、大破損したブイヌイから再び別の駆逐艦ベドウィに移乗しました。

 やがて日没を迎えたので東郷平八郎司令長官は午後7時28分主力艦への攻撃中止と鬱陵島への集結を命令しました。

 連合艦隊主力艦鬱陵島へ移動すると、翌日5月28日にかけて駆逐艦水雷艇が攻撃の主役となって策敵行動を開始しました。スワロフは4隻の日本水雷艇が放った魚雷によって撃沈されたのです。バルチック艦隊の新式戦艦5隻のうち4隻が沈没、戦艦アリヨールのみ逃れることができました。

 5月28日午後4時45分ころ露駆逐艦ベドウィと随行駆逐艦グローズヌイは日本駆逐艦漣(さざなみ)と陽炎(かげろう)に発見され、グローズヌイには逃げられましたが、漣はベドウィを捕獲、同艦に乗り込んだ海軍士官は頭を包帯で蔽った人物を発見、彼がロジェストウェンスキーであることを確認、同月29日このことを巡洋艦明石を通じて旗艦三笠に通報、漣はベドウイを佐世保へ曳航、ロジェストウェンスキー佐世保海軍病院に入院させました。

 5月28日夜明け連合艦隊第5戦隊はネボガトフ指揮下(旗艦ニコライ1世)の第3戦隊を発見、やがて連合艦隊主力も加わって包囲、ネボガトフ艦隊は降伏しました(外山三郎「前掲書」)。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー鬱陵島

 連合艦隊旗艦三笠と第1、2戦隊は1905(明治38)年5月30日佐世保に帰港しました。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む43

 1905(明治38)年6月1日小村寿太郎外相の訓令により駐米公使高平小五郎は米大統領セオドア・ルーズベルトに日露講和の友誼的斡旋を申し入れました。その文面は米大統領が「直接且全然其一己ノ発意ニ依リ」(外務省編「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争Ⅴ 巌南堂書店)両交戦国を接近させてくれることを希望するものでした。日本政府としては米国の斡旋が日本の依頼によるものであることを秘密にして、米大統領の一存で講和を斡旋するという形式をとってもらいたいということを意味しており、先に講和を申し出た方が交渉において不利になるからです。

 米大統領はこの日本の申し入れを受け入れましたが、日本が賠償金を望まず、樺太の割譲だけに止まるなら、講和の見込みがあると高平公使にくぎを挿すことを忘れませんでした。

 翌日ルーズベルトはロシア駐米大使カシニーと会談、ロシアに講和を勧告するとカシニーはロシアから講和を云いだしたら日本は苛酷な条件を要求する恐れがあるとしながらも、講和への関心を示し、これに対してルーズベルトは、日本が苛酷な条件を要求するとは思えないが若干の領土を割譲し、いくらかの賠償金を払う覚悟は必要であろうと述べました(「小村外交史」)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む44

 同年6月5日米大統領は駐露大使メイヤーに命じてロシア皇帝に、日露講和全権の会合を勧告、この会合をロシア皇帝が受諾するならば、そのことを秘密にして日本の承諾を取りつけるよう努力する旨を伝えさせました。同月7日メイヤーからロシア皇帝が米大統領の勧告を絶対秘密にする条件で受諾したとの電報が届きました。日本海海戦に敗北したロシアは講和を希望しながらも、自分から言い出せないだろうから、ルーズベルトを利用してロシアを講和にひきだそうとする日本政府の作戦が成功したのです。

 6月9日米大統領は正式に日露両国に講和を勧告、日本は6月10日、ロシアは6月12日講和を受諾しました(外務省編「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争Ⅴ)。

 7月3日日本は小村寿太郎外相と高平小五郎駐米公使を全権に、7月14日ロシアは閑職に左遷されていたウイッテとローゼンを全権に任命、講和会議の場所についてはアメリカ側がポーツマス軍港を指定、8月9日海軍工廠の一室で両国全権最初の予備会議が開かれました。

日露戦争特別展Ⅱー日露戦争史ー政治・外交ーポーツマス講和会議開始 

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む45

 1905(明治38)年6月30日の閣議は日露講和談判全権委員に対する訓令案を決定しましたが、その内容の要点は 甲 絶対的必要条件 ①韓国の自由処分をロシアに承諾させる。②一定の期限内に日露両国は満州から撤兵する。③遼東半島租借権及び哈爾賓(ハルピン)旅順間鉄道を日本に譲渡させる。 乙 比較的必要条件 ①軍費賠償金獲得。②薩哈嗹(サハリン 樺太)及び其の附属諸島割譲などを含む4条件などでした(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。1875(明治8)年5月7日樺太・千島交換条約(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)調印により樺太全島はロシアの領有となっていたのです。

北方領土問題―北方領土問題関連史料 入口―サンクトペテルブルグ条約(樺太千島交換条約)(日本語)フランス語 ロシア語 

 この要求実現をめざして同年7月7日第13師団は南樺太に上陸、翌日大泊占領、同月24日北樺太上陸、同月31日ロシア軍は降伏し降伏条件に調印しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。

 一方こうした軍事作戦と同時に外交で日露講和会議で要求する日本の国際的地位をあらかじめ英米両国に支持させようとする工作が推し進められていました。

 同年7月27日桂太郎首相はフィリピン視察の途上、来日中の米陸軍長官タフトと会談、 その結果桂タフト協定が成立しました(「日本外交年表竝主要文書」上 関係書類焼失により、米国務省文書収録)。その内容は次の通りです。①フィリピンをアメリカが統治することは日本にとっても利益である。②アメリカは日本が韓国に保護権を確立することを認める。

 つづいて同年8月12日ロンドンで第2回日英同盟協約が調印されました(「日本外交年表竝主要文書」上)。その要点は次の通りです。①両締約国の一方が他国の攻撃を受けたとき、他の締約国は共同戦闘に当たり、講和も双方合意により実行する。②日本は韓国において政事上、軍事上及び経済上卓絶な利益を持っているので、大不列顚国(英国)は日本が指導、監理及び保護の措置を韓国に実行する権利を承認する。③大不列顚国は印度国境の安全に関する特殊利益を持つので、日本は大不列顚国の印度領地を擁護するため必要な措置をとることを承認する。④本協約の有効期限を10年とする。

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む46

 このころロシアでは革命情勢が緊迫の度を高めていました。1905(明治38)年6月には戦艦「ポチョムキン」乗組員が艦の指揮をとる反乱が勃発しました(ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。

/歴史研究所―ロシア史―第8回 ロシア帝国の滅亡

 このような情勢を背景として同年8月10日日露講和第1回会議が開催され、日本側の講和条件12カ条を提出、同月12日より逐条審議に入りました。ウイッテは回答書で8カ条を原則的にまたは条件付きで承認しましたが、その具体的内容は日本の韓国保護権、日露両国の満州撤兵と門戸開放、旅順・大連の租借権及び東清鉄道南部支線の日本への譲渡、オホーツク海ベーリング海沿岸の漁業権を日本人に与えるなどの項目です。他方ウイッテが拒否したのは4カ条で、その内容は樺太割譲、賠償支払い、中立港で抑留されているロシア艦艇の引き渡し、ロシアの極東における海軍力の制限でした(「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争Ⅴ)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む47

 講和会議で最後まで難航したのは賠償金と樺太割譲問題でした。1905(明治38)年8月17日ウイッテはロシア皇帝に交渉の難航を報告、暗に樺太を日本に与えて講和を成立させる方がよいという見解を上申しましたが、皇帝は領土を割譲し、賠償金を支払うことを拒否しました。小村全権もロシア側がポーツマス引き揚げの様子を示して態度を変えなければ、戦争継続するしかないと報告、政府の訓令を求めました。

 しかし8月18日第7回講和会議秘密会でウイッテは樺太南部を日本領、北部をロシア領とする妥協案を示したことに対して、小村は現在樺太全体は日本の占領下にあるのだから、樺太北半をロシアに返還するのなら、代償として12億円をロシアが支払わない限り、日本政府は承認しないだろうと答えました。この案を日本政府は承認、代償12億円は多少下回ってもよいと訓令、8月23日第8回講和会議で小村全権は①北緯50度以南の樺太を日本領、北半をロシア領とする。②ロシアは北樺太返還の代償として12億円を日本に支払うなどを日本政府として正式に提案しました。これに対してウイッテは樺太全部を日本領とすることを承認する代わりに償金を支払わないことで講和成立を希望、同月28日を最終会談とすることを両者は取り決めましたが、もはや会談は決裂したと思っていたのです。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む48

 1905(明治38)年8月26日、ウイッテは9月5日発の欧州行き汽船に乗るためニューヨークのホテル予約を命じ、小村も同日桂首相にポーツマスを引き上げる旨の電報を打ちました。

 桂内閣は8月28日の最終会議を24時間延期するよう小村全権に命令、元老も参加した閣議を招集、8月28日午後8時35分「假令(たとい)償金割地ノ二問題を抛棄スルノ已ムヲ得サルニ至ルモ、此際講和ヲ成立セシムルコトニ議決セリ、然レトモ先ツ償金問題ヲ抛棄シ割地問題ヲ維持スルコトハ談判上従来我ノ執リタル態度ニ照ラシ此際ノ機宜ニ適シタル歩武(わずかの距離)ナリト思考」(外務省編「日本外交文書」)との桂外相訓令が小村全権宛発信されました。この訓令が発せられた直後に、露帝に謁見した米大使からの情報としてイギリス公使からロシア皇帝は樺太南部の割譲を認める気があるとの連絡があり、これも小村全権に報ぜられました。

 8月29日の会議でウイッテは皇帝が樺太南部の日本への譲与に同意したとの覚書を提出、小村全権がロシア側回答を受諾すると回答すると、急いで会議場を出たウイッテは別室の随員に「平和だ、日本は全部譲歩した!」と叫んだそうです(「小村外交史」)。

 同年9月5日日露講和条約ポーツマス条約)が調印され、①ロシアは日本の韓国保護権を承認。②日露両国の満州撤兵と門戸開放。③旅順・大連の租借権及び東清鉄道南部支線(長春旅順口間)の日本への譲渡。④ロシアは北緯50度以南の樺太を日本に譲与。⑤ロシアは日本海・オホーツク海ベーリング海沿岸の漁業権を日本人に許与するなどが主な内容です(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む49

 日本が黄海海戦に勝利した直後、ドイツ人医師ベルツの日記に『著名な雑誌「太陽」七月号に日本がやがて徹底的勝利の後に提示すべき要求事項を表明した、戸水教授(「坂の上の雲」を読む19参照)の一文が掲載されているーすなわち』として6カ条が挙げられていますが、その五にはエニセー河以東の全アジアロシアを日本に割譲すること、その六としてロシアは最低十億円の戦費賠償金を支払うことと記述されています(「ベルツの日記」下 明治37年8月26日付 岩波文庫)。

  日露戦争遂行に必要な国力が限界に達しているのもかかわらず、国民は何も知らされず、勝利のニュースばかり聞かされていた人々は講和会議が開かれる以前から代議士や新聞記者などが中心になって、領土では樺太は勿論のこと沿海州バイカル湖以東、賠償金は20億円から40億円を要求する大会が各地で開かれていました。

 ポーツマス条約が調印された1905(明治38)年9月5日東京の日比谷公園講和条約反対の国民大会が開催され、これを解散させようとした警察官と衝突した数万の民衆は首相・内相官邸に押し掛け、国民新聞社など政府系新聞社を破壊、交番などに放火、以後各地で講和反対大会が開かれました。政府は軍隊を出動、翌日東京市及府下5郡に戒厳令を適用して弾圧しなければならない状態でした(新聞集成 「明治編年史」第12巻 財政経済学会)。

日露戦争特別展Ⅱ-日露戦争史―政治・外交―日比谷焼打事件

 このような人たちはとくに講和会議で賠償金もとれず、譲歩したことを大きな不満として爆発したのでしょう。このように大事なことを国民に知らせない秘密主義は、のちの日本を蝕む要因の一つとなっていくのです。 かくして日比谷焼き打ち事件は排外主義を含みながらも、他面藩閥政権に対する不満を爆発させ、やがて講和反対運動が地方に拡大した点で、後の大正デモクラシー運動の起点としても評価されています(松尾尊兊「大正デモクラシー岩波書店)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む50(最終回)

 1916(大正5)年第1次大戦視察を終了して帰国した海軍少将秋山真之は第2艦隊第2水雷戦隊司令官に任命されましたが、このころから体調がすぐれず、日露戦争の作戦指導で全力を傾注した疲労がようやく出てきたかのように見えました。このこととどんな関係があったのでしょうか、秋山は当時急速に教勢を拡大しつつあった大本(おおもと)教に帰依しました。大本教発祥の地京都府綾部は軍港舞鶴に近いこともあってか海軍出身者との関係が深かったのです。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」の主人公たちー智謀如湧 秋山真之―年表、写真集、逸話集―真之と大本教―騎兵の父 秋山好古―年表、写真集、逸話集―秋山好古 年表―校長 秋山好古   

  第2水雷戦隊司令官を7カ月余で退いた秋山は翌年7月海軍将官会議議員という閑職に任命されましたが、しばしば激しい腹痛がおこって艦上勤務に堪えられなくなったからです。

 もはや秋山の命が長くないと察せられ、同年12月1日海軍中将に昇進しましたが、同日予備役に退く予定の待命となりました。小田原の山下亀三郎別邸で療養中1917(大正7)年2月4日死去しました(桜井真清「秋山真之秋山真之会)。

 秋山好古が内地に凱旋したのは1906(明治39)年2月9日で、騎兵第1旅団の千葉県習志野の兵舎に到着しました。

 好古は1916(大正5)年陸軍大将となり、1923(大正12)年予備役に編入、翌年北予中学校長に就任、1930(昭和5)年同中学校長辞任、上京後発病、陸軍軍医学校に入院、同年11月4日死去しました(秋山好古大将伝記刊行会編集・発行「秋山好古」)。