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司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む31~40

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む31

 その後何度か石炭を積み込みながら、アフリカ西岸を南下し、喜望峰及びアグラス岬の灯台を回って艦隊はインド洋に入り、1905(明治38)年1月9日マダガスカル島のノシベに入港しました。ノシベ港にはすでにフェリケルザム支隊が到着して艦隊主力の来航を待っていました。 ロジェストウェンスキーはここで旅順陥落の情報を入手しただけでなく、本国で血の日曜日事件が勃発、首都ペテルブルクが騒乱状態に陥っているという噂も聞いたのです(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「前掲書」)。

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争―日露戦争年表―バルチック艦隊リバー出港―バルチック艦隊航行図    

Fabrik―最近のコメントー2010-01-22 TAMO2-血の日曜日事件

 バルチック艦隊はこのノシベで2カ月停泊しました。その理由の一つは石炭問題にありました。バルチック艦隊に供給する石炭は無煙炭とすることを、ロシア政府はドイツのハンブルク・アメリカン会社と契約していましたが、同会社はイギリスの妨害で艦隊への石炭供給を拒否、ロシア政府は同会社を契約違反と批判し、交渉の結果ドイツ汽船は艦隊と同航するが、日本艦隊に出会ったときは降伏すると主張しました。他の理由はロシア政府がバルチック艦隊を増強してさらに一艦隊を追加し、ネボガトフ少将指揮の第3太平洋艦隊を編成するために、老朽軍艦をかき集めていました。ロジェストウェンスキー提督はこれに反対する電報を本国政府に打ったのですが、彼の意見は聞き入れられませんでした(外山三郎「日露海戦史の研究」教育出版センター)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む32

 明石元二郎筑前福岡藩の明石助九郎の子として1864(元治1)年に生まれ、藩校修猷館を経て1883(明治16)年陸軍士官学校卒業、1889(明治22)年陸軍大学校卒業、フランス公使館付を経て、1902(明治35)年ロシア公使館付陸軍武官に転任しました(小森徳治「明石元二郎」上 明治百年史叢書 原書房)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―あー明石元二郎 

 寺内正毅陸相の決断で陸軍省からその工作資金として100万円を送らせたそうです(長岡外史文書研究会編「長岡外史関係文書」回顧録篇 吉川弘文館)。当時の国家予算が2億3000万円程度であったことを考えると明石に支出された100万円がいかに多額であったかがわかります。

 日露開戦とともにペテルブルグ日本公使館はスウェーデンストックホルムに移転しました。栗野慎一郎駐露公使一行がストックホルム駅に到着するとロシアと開戦した日本歓迎の人々がホームに集まっており、偶然離宮に赴く途中のスウェーデン国王と駅で栗野公使が握手したとき、明石元二郎も国王に紹介されました。

 明石はストックホルムでロシアに独立を奪われたフィンランド憲法党のカストレンに面会を申し入れましたが断られました。しかし彼の定宿ホテルを訪ねてきたフィンランド独立運動指導者コンニー・シリヤクスを通じてカストレンに会うことができ、他の地下運動指導者とも知り合いになることができたのです。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む33

 1904(明治37)年明石はストックホルムからロンドンに移りました。やがて同年10月1日シリヤクス主催の反露諸派の合同会議がパリで開催され、明石も出席しました。会議は共同の目的をツアーリズム(ロシア皇帝の専制政治体制)打倒にあるとし、ツアーリズム打倒のために、各党派はもっとも得意とする方法をとることで合意しました。この会議以後ポーランドでは主要都市でゼネストが起き、11月から12月にかけてロシア本国でもモスクワ、キエフオデッサなどで学生や労働者のデモが頻発、このような情勢の中で1905(明治38)年1月22日血の日曜日事件が起こったのです。

 明石はこの流血事件をストックホルムの宿で聞いた後パリへ向かいました。シリヤクスらの企画と要請により、明石がスイスで買い付けた兵器弾薬はバルチック方面向け小銃16000挺・弾丸300万発、黒海方面向け小銃8500挺・小銃弾120万発で、彼はこれをシリヤクスらに渡すための秘密輸送に苦心しましたが、これがロシアの革命派の手に渡ったのは日露戦争終了後でした(小森徳治「明石元二郎」上 原書房)。

 「風采といひ、顔付といひ、アノ変な男が、敵国たる露西亜の内部を撹乱して、夫婦喧嘩をさせるといふ手際には、私も始めて吃驚(びっく)りしたのだ。(中略)欧羅巴から帰ると、先づ真直に参謀本部へ来て、二十何万円かの残金を返す時も、『百留の紙幣を吹き飛ばしたから、少し足らなくなるが、大体は之れで計算が合ふつもり』といって、其受取書や使ひ途などを、スッかり持って来て差出した。此等の残金などは参謀本部でも当てにはしては居なかった。」(「陸軍中将長岡外史氏追懐談」小森徳治「明石元二郎」下 原書房

 のちに上原勇作が明石を山県有朋の許に連れて行ったとき、季節は厳寒時で風邪をひいていた山県は足を真綿でつつみ、そばにストーブを置いていました。そのストーブ越しに明石は小便をもらしているのに気付かず話に熱中し、山県の足を濡らしたそうです(「元帥上原勇作男追懐談」小森徳治「明石元二郎」下 原書房)。この話は誇張されている可能性がつよいのですが、明石の一側面を知る挿話として紹介します。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―うー上原勇作

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む34

 1905(明治38)年1月12日大本営は第3軍の再編と鴨緑江軍の新編成を決定しました。それは第3軍から第11師団を引き抜き、これに後備第1師団を追加して鴨緑江軍とし、韓国西北部を防衛、できれば満州ロシア軍主力の左翼に進出させ、将来ウラジオ攻撃作戦に投入することも考えていましたが、満州軍総司令部はこれに反対、奉天付近と予想される両軍主力決戦に集中させるべきと主張、結局できるだけ早く撫順方面に進出して奉天会戦に参加させることになりました。第3軍も旅順から満州軍左翼へ向け北進していったのです(古屋哲夫「日露戦争中公新書)。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上も雲」と日露戦争―日露戦争(陸戦)―奉天会戦

 黒溝台の戦い(「坂の上の雲」を読む24参照)の後、1905(明治38)年2月20日大山巌満州軍総司令官は各軍司令官を集め、次のように訓示しました。この大作戦の主目的は出来るだけ多くの損害を敵に与えて、再起できないようにすることで、土地や陣地を奪うことではない。また弾丸の製造能力から豊富な予備弾をもつことはできないから、1発たりとも無駄な弾丸を撃たないようにとの注意も与えました。

 総司令部作戦はまず鴨緑江軍を最右翼として前進させ、この間に第3軍を左翼から北進させてロシア軍を包囲しようという計画でした。第2軍の秋山支隊はこの作戦の途中で3月2日臨時に第3軍司令官乃木希典の指揮下にはいることになります。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む35

 同年3月1日日本軍は奉天に向かって総攻撃を開始、攻撃は思うように進展せず、第3軍の迂回北進のみ順調に進みましたが、孤立するおそれがあり、第2軍左翼と連携して奉天西側面に向かって包囲網を絞る方針に変えました。3月7日総司令部から第3軍の行動が遅いとの指示を受けると、温厚な性格の乃木希典司令官も怒って軍司令部を急に前進させたため、軍司令部が銃弾の飛び交う前線に突出するという事態に至りました(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)。

 ところがこの日ロシア軍は退却を開始しました。鴨緑江軍と第1軍は3月8日から追撃、例えばロシア軍総退却を目撃した第1軍前衛の歩兵中尉多門二郎はその様子を次のように述べています。夜明けとともに朝食をとるため六家子という部落で大休止、炊事担当の兵士以外他の兵は寒気の中で疲労して死人のように眠りこんでいました。

 多門中尉はやや高所に上って前方の渾河左岸を見ると、「雲霞の如き大軍」と形容するほかないほどのロシアの大軍が地を覆ってうごき、その動きは地平のはてまで続いていました。

 このとき多門中尉は追撃というような考えは瞬時も浮かびませんでした。それよりも動物的恐怖心―もしこの大軍が逆にわが方にむかって逆襲してくれば日本軍はどうなるのかーということだけが、全身をとらえつくしていました(多門二郎「予ガ参加シタル日露戦役」後篇 兵事雑誌社)。

 第2・第3軍が展開する左翼では、ロシア軍は退路を確保するために反撃しましたが、3月10日第2・第4軍は奉天付近を占領、第1・第3軍は左右から鉄道線路に近付き、第3軍からは30分ごとにロシア兵を満載して列車が北上するのが目撃されましたがどうすることもできませんでした。

 3月16日日本軍は鉄嶺を占領しましたが、ここで追撃を打ち切りました。奉天会戦日露戦争最大の会戦でしたが、日本の戦争能力は限界に達し、外交交渉による早急の講和が緊急の課題として浮上してきたのです(旧参謀本部編 桑田忠親山岡荘八監修「日露戦争徳間書店)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む36

 日本がアメリカの日露戦争調停を期待して特使金子堅太郎を派遣したことは既に述べた通りです(「坂の上の雲」を読む16参照)。1905(明治38)年1月15日米大統領セオドア・ルーズベルトは駐米公使高平小五郎に対して講和条件に関する次のような見解を伝えました。戦後日本は旅順を領有し、韓国を勢力範囲に入れる権利がある。しかし満州は清国に返還、列国保障のもとに中立地域にすべきである。私はこの見解を書面にしてイギリス・フランス・イタリア3国に送ったと(外務省編「小村外交史」原書房)。

クリック20世紀―人物ファイル一覧―ラー(セオドア) ルーズベルト

 米大統領は日露戦争について、イギリスに旅行中のロッジ上院外交委員長に次のような書翰を送っています。「露国の勝利は文明に対する一打撃であると同時に、東亜の一国としての露国の破滅も予の所見にては均しく不幸であろう。日露相対峙し互いに牽制して、その行動の緩和を相計るというのが最善である。」(1905年6月16日付書簡 外務省編「小村外交史」原書房) 

 つまりルーズベルトはロシアの満州支配に反対するために日本を支持したのですが、日本がロシアに代わって満州を支配することにも反対であったのです。

 同年1月22日外相小村寿太郎は高平公使に対して、次のような講和問題に関する日本政府の見解を米大統領に伝えるよう訓令、高平公使は同年1月25日日本政府見解を申し入れました。即ち①韓国の保護権を日本が掌握する。②満州について日露両国ともすみやかに撤兵し清国に返還することが必要で、満州将来の行政は改革と善政の保障を条件として清国に行わせる方が国際的中立化より優れている。③遼東半島租借権をロシアから譲り受ける権利がある。④一時の休戦に止まるような条件では講和できないなどの4項目でした(「平和克復後に於ける満韓、旅順に関する我政府の意思竝びに希望の件」外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。 

 同年2月8日米大統領はフランス大統領を介して講和勧告をロシア皇帝に送ってくれるよう依頼したのですが、ロシア皇帝はバルチック艦隊満州における数十万の大軍を頼み、講和勧告を拒絶しました(「小村外交史」)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む37

 1905(明治38)年3月16日バルチック艦隊はようやくマダガスカル島ノシベを出港、インド洋を東進してマラッカ海峡を通り、4月8日シンガポール沖に到達しました。同年4月13日南ベトナム(フランス領)カムラン湾付近で艦隊は停止、石炭積み込みを開始しました。翌日カムラン湾内に入り、ここで種々の物資を補給するとともにネボガトフ少将指揮下の第3太平洋艦隊の到着をここで待っていたのです。

記念館「三笠」-観覧マップ―中央展示室―バルチック艦隊の回航

 ところが中立の立場をとるフランスはバルチック艦隊カムラン湾退去を要求、艦隊は4月22日カムラン湾を去り、同月26日北方のヴァン・フォン湾(フランス領)に入り、また追い立てられて外洋に去るという行動をとり、艦隊乗組員の信頼感を低下させました。

 ネボガトフ艦隊は同年2月15日リバウを出港、地中海からスエズ運河を経て紅海を経由、インド洋を横断して5月4日明けがたシンガポール付近に達したとき、旅順艦隊所属で旅順陥落後捕虜となり、本国送還中のロシア水兵が汽艇でネボガトフ艦隊に接近、シンガポール駐在ロシア領事から聞いた情報―ロジェストウェンスキー艦隊はカムラン湾かヴァン・フォン湾にいるーをネボガトフに伝えました。5月9日正午過ぎネボガトフ艦隊はロジェストウェンスキー艦隊旗艦スワロフとの交信に成功、同日午後4時両艦隊は接触することができたのです。同年5月14日朝バルチック艦隊はヴァン・フォン湾を出港しました(ポリトゥスキイ・ノビコフ・プリボイ「前掲書」)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む38

 203高地が陥落し旅順艦隊が壊滅すると、伊東祐亨軍令部長の命令で東郷平八郎連合艦隊司令長官は第2艦隊司令長官上村彦之丞を伴って上京、1904(明治37)年12月30日伊東軍令部長山本権兵衛海相東郷平八郎・上村彦之丞らと海軍最高首脳会議を開き、バルチック艦隊行動の推論にもとづき、日本海軍の配置について検討、まず全力を朝鮮海峡に置き、以って敵の第二太平洋艦隊バルチック艦隊)の行動を監視、機に応じて動作することを決定(「明治三十七八年海戦史」)、艦隊を鎮海湾に集結することになりました。

 海軍最高首脳会議の決定にもとづき、連合艦隊参謀長加藤友三郎は先任参謀秋山真之に作戦計画の策定を任せ、1905(明治38)年4月12日連合艦隊司令長官東郷平八郎の名で連合艦隊の詳細な戦策が提示されました(「極秘 明治三十七八年海戦史」田中宏巳「秋山真之吉川弘文館 引用)。具体的には七段構えの戦法とよばれるものです。

  七段構えの戦法で採用された連携水雷黄海海戦時、日本駆逐艦が露旅順艦隊の針路を通過したとき、石炭叺(かます)を海に投棄すると、機雷敷設と誤認した露艦が針路変更したことをもとにして作戦が計画されました。これはバルチック艦隊の針路に9連群36個の連携水雷[数キロに及ぶ長大なロープの100m間隔に水雷をつなぎ水面下に漂わせる。 海軍軍令部「極秘明治三十七八年海戦史」(防衛省防衛研究所図書館蔵書)]を投下、同艦隊を変針させて丁字戦法にもちこむ作戦だったのです。

   同年5月14日ヴァン・フォン湾を出港し、東シナ海に入ったバルチック艦隊はその後行方不明となり、日本側は津軽海峡へ向かったのではないかとの見方が強くなりました。連合艦隊司令部は「相当の時期までに当方面に敵影を見ざれば、当隊は明夕刻より北海方面に移動す」と軍令部に打電しました。5月25日東郷は旗艦「三笠」に各司令官と参謀長を招集、午後3時津軽海峡に向けて移動することを決定しかけた時、遅れて会議に参加した第2艦隊参謀長藤井較一が移動に反対、第2艦隊第2戦隊司令官島村速雄(連合艦隊前参謀長)も藤井の意見に同意、同月26日正午まで移動を延期しました。その期限直前バルチック艦隊の一部が清国呉淞(ウースン 上海の外港)に入港したという情報がはいり、移動中止となりました(田中宏巳「秋山真之吉川弘文館)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む39

 1905(明治38)年5月27日午前2時45分仮装巡洋艦哨戒艦信濃丸艦長成川揆は左舷の闇の中に浮かび上がった燈火を見ていました。午前4時30分ころ、艦長は艦を燈火近くに接近させて備砲をもたない病院船であると推定、やがて夜が白みはじめると信濃丸は無数の軍艦(バルチック艦隊)の真っただ中にいることがわかったのです。信濃丸はバルチック艦隊群を脱出するために転舵しつつ、「敵の艦隊二〇三地点(長崎県五島列島西方白瀬岩礁付近)に見ゆ。時に午前四時四十五分」と繰り返し暗号で打電、さらに午前四時五十分「敵航路東北東、対馬東水道に向かうものの如し」との電文が対馬に停泊中の第三艦隊旗艦厳島を中継して午前5時5分鎮海湾に待機していた連合艦隊旗艦「三笠」に入電しました。信濃丸にもっとも近い位置にあった3等巡洋艦和泉も信濃丸の第1報を受信すると周辺の海を駆け巡り、約2時間後の午前6時45分バルチック艦隊を発見、同艦隊の勢力、陣形、針路などを詳細に報告しました(外山三郎「日露海戦史の研究」下 教育出版センター)。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー敵艦見ゆ

 東郷平八郎連合艦隊司令長官は艦隊に出動を命令し、次の有名な電文が大本営に打電されました。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直(ただち)ニ出動之ヲ撃(沈)滅セントス本日天気(候)晴朗ナレトモ波高シ」(「明治三十七八年海戦史」)(水野広徳「此一戦」国書刊行会)この電文は諸書によって若干の相違があります。

 この電文で「天気晴朗」以下がもともと用意されていた電文に秋山真之が追加したものとされています。司馬遼太郎氏はこの小説で、この追加文は砲撃能力において日本が露艦隊よりはるかに優れており、波高しという状況はきわめて我が方に有利であることをこの一句で象徴したのであると東京の軍令部は理解したと云っています。  

 ところが上記連携水雷作戦は静かな海面でないとできず、「波高し」とは同作戦が「変更やむなしの事態もある」ことを大本営に事前通知したとの戸高一成説(「日本海海戦に丁字戦法はなかった」中央公論 平成3年6月号)が「極秘明治三十七八年海戦史」の公開とともに有力となり、司馬遼太郎氏は同書を読んでいない(読むことができなかったのでしょう)との指摘がなされています(木村勲「日本海海戦とメディアー秋山真之神話批判―講談社選書メチエ」)。

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む40

 同日午後1時39分連合艦隊は対馬東水道で北東に向かう2列縦陣のバルチック艦隊を発見しました。

 つづいて司馬遼太郎氏は『旗艦「三笠」最上艦橋には司令長官東郷平八郎と参謀長加藤友三郎、参謀秋山真之が立ち、その外砲術長安保清種少佐と測距儀操作長谷川清少尉などが残り、他の幕僚たちは一段下の装甲で覆われた司令塔に入った。

 どういう陣形で戦うのか、東郷も加藤も明示しなかったため、砲術長がたまりかねて「もはや8000m」と叫ぶと、彼の眼前で背を見せていた東郷の右手が高く上がり、、左へ向かって半円を描くように一転、参謀長は「艦長取舵一杯」と叫び、三笠は艦首を左へ急転した。有名な敵前回頭がはじまったのである。日本の海軍用語でいうところの「丁字戦法」を東郷はとった。』(概略)と述べています。

ネイビイブルーに恋をしてー記念館三笠見学―三笠艦橋の図

 しかるに三笠艦橋の司令塔内部では戦術をめぐる対立が起こっていました。「反航(すれちがい)戦にするか同航(並行)戦にするかとの議論が艦橋において起こるに至った。こんなに接近して未だ射撃準備も出来上がらないのに、同航戦をするため針路を転ずるときは多大の損害を受けるから、一時反航戦をして好機会を待つにしかずという論と、そんな事をすれば敵を逸する恐れがあり、なんでも同航戦をして雌雄を決すべしとの論が起こった」(田中宏巳「秋山真之吉川弘文館

 よって次のような批評がでてくることになります『同文中(松村談話速記)の「取舵に大角度の転針」が、後世「敵前大回頭」として有名になった。しかし転針は迷いに迷った末の決定であり、東郷英雄伝説に描かれる格好のよいものではない。』(田中宏巳「前掲書」)。