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司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む1~10

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む1

 司馬遼太郎坂の上の雲」(「司馬遼太郎全集」24~26 文芸春秋)は伊予松山出身の秋山好古・真之兄弟・正岡子規の生涯を中心に、日清戦争日露戦争時の日本の栄光と発展を明るく描写した作品です。

 司馬遼太郎氏はこの小説の意図を次のように記述しています。

 「庶民は重税にあえぎ、国権は重く民権はあくまで軽く、足尾鉱毒事件があり、女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識のみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師の多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。(中略)  

 いまからおもえば、じつにこっけいなことに米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍をもとうとしたことである。陸軍も同様である。人口五千ほどの村が一流のプロ野球団をもとうとするようなもので、財政のなりたつはずがない。(中略)

 明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。(中略)

 町工場のように小さい国家のなかで、スタッフたちは(中略)そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。

 このながい物語はその日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみみつめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ 花や雲を数える語)の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」(第一部あとがき)

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む2  

 秋山信三郎好古は1859(安政6)年伊予松山藩松平家(久松家)で下級武士の役職である徒(かち)目付秋山平五郎久敬の三男として生まれました。

 久松家は徳川家康の異父弟を家祖とする家柄であったので、明治維新の際には官軍である土佐・長州藩兵の占領下におかれて賠償金15万両を課せられ、藩士の生活は困窮しました。

 好古は8歳で藩校「明教館」の附属幼年部「養成舎」に入学しました。 1871(明治4)年松山に士族・町家の別なく入学できる小学校が設立されましたが、好古は小学校に入学せずやがて設立された中学校にも入らず、家が貧困であったせいか風呂屋の風呂焚きをしていたそうです。

松山市HP―検索 秋山兄弟生誕地

 1872(明治5)年5月東京に師範学校が設立され、翌明治6~7年にかけて大阪、仙台、名古屋、広島、長崎、新潟にも設置され、学費は官費でした。師範学校入学資格は19歳であるのに、好古は16歳であったので、検定試験による小学校教員の資格を大阪でとり、19歳まで待つことを勧められ、1875(明治8)年好古は船で大阪へ行きました。  

 彼は堺県で受験、首尾よく代用教員試験に合格、ところがただちに本教員の検定試験が大阪府庁でおこなわれ、好古はこれにも合格して、月給9円で野田小学校勤務を命ぜられました。その月給から彼は松山から大阪へ出るための船賃の外に借りた旅費を両親に返済したのです。

 彼は年齢を偽って17歳で大阪府師範学校に入学を許可され1年で卒業、「三等訓導」の辞令をもらいました(「秋山好古秋山好古大将伝記刊行会)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む3

 しかるに旧松山藩士の先輩である愛知県立名古屋師範学校付属小学校主事和久正辰の勧誘で、好古は同付属小学校に赴任しました。1877(明治10)年好古は和久から東京の陸軍士官学校(1874年設立)応募を勧められ、士官学校に出願、1月に試験があり第三期生として合格、彼は騎兵科に配属されました。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーあー秋山好古 

 好古は1879(明治12)年陸軍少尉に任官、1883(明治16)年陸軍大学校入学、1886(明治19)年陸軍騎兵大尉となり、すでにフランスに留学中の久松定謨(さだこと)の補導役として1887(明治20)年フランスへ留学、仏騎兵を研究、1891(明治24)年帰国、東京駐屯の騎兵第一大隊中隊長となりました。1893(明治26)年好古は彼が陸軍少尉のころ下宿していた旧旗本佐久間家の長女多美と結婚しています(「秋山好古」)。

 1894(明治27)年日清戦争が起こりましたが、司馬遼太郎氏は「この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。」とこの小説(「第一部 日清戦争」で述べています。日本が「受け身」であったかどうか、日清戦争前後の朝鮮情勢について(「大山巌」を読む12~15、20、24、32~39、41~~44、49~50)を参照して下さい。1894(明治27)年9月の黄海海戦後、大山巌を軍司令官とする第二軍が編成され、陸軍騎兵少佐秋山好古の率いる騎兵第一大隊は第二軍第一師団に所属して旅順攻略戦に参加(「大山巌」を読む37参照)しました。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む4

 秋山淳五郎真之(さねゆき)は好古の弟で、父久敬の五男として1868(慶応4)年松山城下に生まれました。

 真之はやがて儒学者近藤元修の塾で「論語」「孟子」などの四書五経素読を繰り返す毎日で、間違えると師匠近藤の鞭が机を容赦なく叩いたと云います(水野広徳「提督秋山真之秋山真之会)。和歌も七・八歳のころからよみはじめ、雪の朝北窓から放尿して「雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにチンコちぢまる」と詠んだということですが、本格的には14歳ころから歌人井手正雄(桜井真清の伯父)について学ぶようになりました。

 朝暗い時に近藤塾に通い、そのあと勝山小学校に登校する毎日でした。真之は12~3歳のころ手のつけられない悪童だったようで、、いつも8歳の桜井真清(さねきよ)を子分のように連れ歩いていましたが、ある日真清の家で花火の火薬調合書をみつけ、何日もかかって打ち上げ花火を作り、13~4人の子供を集めて町はずれの野原で花火を打ち上げたのです。巡査が駆けつけたとき、真之らは逃げ散ったあとでした。しかし巡査が桜井家を訪問、真之が首謀者であることがすぐにわかったようで、真之は母親お貞から短刀をつきつけられて、母親と一緒に死ねと叱られたそうです(水野広徳「提督秋山真之秋山真之会)。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーあー秋山真之 

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む5

 正岡子規は1867(慶応3)年9月17日伊予国温泉郡藤原新町(松山市新玉町)に生まれ、幼名は処(ところ)之助で4~5歳のころ升(のぼる)と改名しました。父正岡隼太(はやた)は松山藩の下級武士で馬廻り加番(候補)役でした。母は藩の儒学者で藩校明教館の教授であった大原有恒(観山)の長女八重です。1868(明治1)年新玉町の屋敷を売って湊町新町(湊町四町目)に移転、升は上京するまでここに居住しました。

 1872(明治5)年父病没、翌年から母方の祖父大原観山に手ほどきをうけたのですが、観山は1875(明治8)年死去するまで結髪をしていた人物で、孫の升にもなかなか断髪を許しませんでした。板垣退助らが民撰議院設立建白書を発表した1874(明治7)年升は松山市智環学校に入学、のち勝山学校に転校しました。1880(明治13)年9月には松山中学校に入学します(「子規全集」第22巻 年譜・資料 講談社)。

 松山中学校の前身は藩校明教館で、1875(明治8)年に愛媛英学所となり、創設者は土佐出身の自由民権論者岩村高俊が前年愛媛県権県令として松山に赴任したとき、内藤鳴雪を県学務課長に抜擢し、2人で相談をして慶応義塾出身の草間時福を中学校長に任命しました。でも升が松山中学に入学したころ、中央の干渉により岩村高俊らは愛媛を去っていました。

宿毛市立宿毛文教センター宿毛歴史館―宿毛人物史―岩村高俊

 しかし升は1882(明治15)年民権論の影響をうけ、青年会で「自由何クニカアル」(草稿「無花果艸紙」子規全集 第9巻)などの演説をしたり、柳原正之(極堂)らと自由民権雑誌創刊を計画したりするようになりました(柳原極堂「友人子規」博文堂書房)。

 1883(明治16)年5月松山中学を中退を決意、この年2月ころから東京遊学について、叔父加藤恒忠(拓川)からの手紙により上京を決心、6月10日出発、14日東京到着、恒忠や友人の居所などに宿泊、6月末久松家の書生部屋に入りました。

 升は共立学校(のちの開成中学)などに通って勉強し1884(明治17)年9月大学予備門の入試をうけて合格しました。

東京紅団―文学散歩情報―ま行―正岡子規 散歩―東京を歩く3

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む6

 秋山好古は陸軍少尉に任官すると弟真之の松山中学校の学資の面倒をみていましたが、真之は正岡升が上京すると、おそらく兄好古に懇請したのでしょうか、真之は兄の指示で上京、東京麹町番町にあった好古の下宿に同居しつつ、大学予備門に入学しました。

 好古が陸軍大学校に入学すると、真之は神田猿楽町の正岡升の下宿に移り、帝国大学(東大の前身)入学をめざしてともに勉学に励みました。勉学の余暇に寄席見物にいくのが楽しみであったようです。

 しかるに真之は帝国大学入学をやめて、1886(明治19)年海軍兵学校に入学しました。志望変更の理由は不明という外ありませんが、兄に学費負担をかけることへの気兼ねがあり、学費なしの学校としては陸軍士官学校海軍兵学校師範学校くらいで、教師になる気持ちはなかったとすれば、軍人しかなく、兄の助言で海軍を選んだのではないでしょうか。

 当時の海軍兵学校は東京築地にありましたが、1888(明治21)年瀬戸内海の江田島に移転しました。

海軍砲術学校―サブメニューー懐かしの艦影―番外編―江田島 旧海軍兵学校 写真集

 1890(明治23)年7月秋山真之海軍兵学校首席で卒業、少尉候補生となり練習艦隊に乗り組み、同年10月出帆翌年1月イスタンブール入港、1891(明治24)年5月15日品川沖に帰着しました。真之はイギリスで建造された巡洋艦「吉野」の廻航委員として1893(明治26)年6月渡英しました。

 日清戦争を真之は巡洋艦「筑紫」乗り組みで戦ったのですが、豊島沖並びに黄海海戦には参加せず、偵察や通報などが主で、1895(明治28)年の威海衛作戦時(「大山巌」を読む39参照)にめだつ活躍をした程度です。この威海衛作戦について真之は故郷の井手正雄に宛てた手紙で次のように述べています「開戦以後此ニ半歳、其間海陸之激戦数次骨ヲ白沙ニ暴(さら)し屍ヲ漁腹に埋ムル者其数幾何(いくばく)何老幼飢凍百姓流離ス小子ハ陸ニ平壌旅順威海衛ノ惨烈なる光景ヲ見又吾甲板上ニハ粉骨飛肉之悲状ヲ目撃シ戦勝之今日万感交々発シ自ラ謂ク此天地間ニ生ヲ享(う)ケテ父母兄弟ヲ有スル蒼々たる丞民(意気さかんな庶民)も此ニ至リ而(て)ハウジ蟲同様之有様ト存候」(桜井真清「秋山真之秋山真之会)。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む7

 はじめ政治家志望であった正岡升は1885(明治18)年春哲学者志望となりましたが、同年7月語学力不足と数学の点数の不足により学年試験に落第、同年夏帰省、歌人井戸正雄(真竿)に和歌の手ほどきを受けました。叔父加藤恒忠の紹介で陸羯南を四谷に訪問したのもこのころです。 加藤恒忠と陸羯南とはかつて司法省法学校(東大法学部の前身の一つ)に学び、賄征伐に関する校長の態度に反発して1879(明治12)年4月ともに退学した仲間でした(陸羯南著・鈴木虎雄編「羯南文録」大日社)。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーくー陸羯南 

 1887(明治20)年7月の帰省のときには大原其戎(きじゅう)について俳句を作り始めました。また野球に熱中するのもこのころからです。

  雅号についての一般論を述べた正岡升の文章(「雅号」筆任勢 第二篇 「子規全集」第10巻 講談社)で滝沢馬琴大田南畝の雅号について記述した後、自己のペンネームとして「野球」を紹介しています。

 『「ベースボール」を訳して「野球」と書いたのは子規が嚆矢(こうし 物事の最初)であった。が、それは本名の升(のぼる)をもじった「野球」(ノボール)の意味であった。』(余録 二 嗜好 河東碧梧桐「子規の回想」沖積舎)とあるのは雅号としての野球の読み方としては正しいのですが、子規が「ベースボール」を訳して「野球」と書いたというのは誤りのようです。「日清戦争初まるや欧化主義の反動として、国粋論が起り、ベースボールに反対する者さへ生じてきた。これを憂へて一高(東大教養学部の前身)出身の中馬庚氏が日本式の野球術語を完成した。」(横井春野「日本野球戦史」日東書院)との指摘が正しいとされています(久保田正文正岡子規吉川弘文館)。

 1888(明治21)年4月正岡升は第一高等中学校(東京大学予備門の後身)古荘嘉門校長の官僚主義教育に反発、寄宿舎の「賄征伐」(食堂の食器を投げたり壊したりなどしていやがらせをする)事件に参加(「賄征伐」筆任勢第二編 「子規全集」第10巻)、同年8月 横須賀・鎌倉方面に遊び、鎌倉で血を吐きました。

 同年9月本郷真砂町の常盤会(旧藩主久松家設立の育英会)寄宿舎に移りましたが、翌年5月喀血が1週間つづき、はじめて子規と号したのはこのときでした。

 子規とは「ほととぎす」を意味する語句で、その啼く声が血を吐いてなくようにせつないことを自分の喀血にかけたのです。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む8

 1890(明治23)年6月第一高等中学校の卒業試験を終え、9月東京大学(文科大学)哲学科に入学しましたが、翌年2月国文科へ転科、春ドイツ人ブッセの担当する哲学総論の試験に苦しみ、同年6月試験放棄、12月常盤会寄宿舎を去り文学者として身を立てる決心をしました。

 1892(明治25)年2月陸羯南の隣家へ転居、6月学年試験を受け落第、12月陸羯南の日本新聞社入社、月給は15円でした。

 1893(明治26)年2月子規は日本新聞文苑欄に俳句を載せはじめました。同年3月大学中退、翌年2月東京下谷区上根岸町に転居、1895(明治28)年2月従軍記者の希望がかない、4月近衛師団付きで宇品出発 金州、旅順などに赴きましたが、5月帰国途中の船内で喀血、8月帰省、夏目漱石の下宿に移りました。同年10月漱石と別れて松山を出発、大和路を歩いて法隆寺に至ったとき、浮かんだ句想をもとに、次の有名な作品が生まれました。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(「寒山落木」巻四 子規全集第2巻・○御所柿を食ひし事 くだもの 同全集第12巻 講談社)。

K-SOHYA POEM BLOG-月別アーカイブー2010/11/14-柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 1896(明治29)年1月日本新聞に「従軍記事」を発表、翌年1月「ほととぎす」創刊号が松山からでました。

 1898(明治31)2月「歌よみに與ふる書」(「子規全集」第7巻)を日本新聞に発表して和歌の革新運動を開始しました。

壺斎閑話ーアーカイブー2009年1月17日 歌よみに与ふる書

 1901(明治34)年10月子規は中江兆民の「一年有半」(「火の虚舟」を読む20参照)を読み、「浅薄ナコトヲ書キ並ベタリ」(「仰臥漫録」二 子規全集第11巻 講談社)と酷薄な批評を投げかけています。

 子規は1902(明治35)年9月18日朝「絲瓜咲て痰のつまりし仏かな」以下3句をのこして翌日午前1時死去しました(「子規全集」第22巻 年譜 資料 講談社)。 

日本の墓ー著名人の墓ー50音順で探すーまー正岡子規

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む9

 1895(明治28)年秋山好古は騎兵中佐に昇進、翌年陸軍乗馬学校長となり、1897(明治30)年「本邦騎兵用法論」と題する論文を書き注目されました。

 巡洋艦「筑紫」乗り組みの秋山真之日清戦争中に海軍中尉(戦後大尉)となり、1895(明治28)年長崎に入港、翌年横須賀鎮守府水雷術練習所学生を命ぜられ、やがて水雷艇隊付きとなり、海軍軍令部諜報課員となりました。

 1897(明治30)年6月アメリカ留学を命ぜられた真之ははじめ海軍大学校に入学するつもりでしたが入校を拒否され、紹介でかって海軍大学校長ですでに現役を退いたマハン大佐の許を訪問、独学で過去の戦史を研究するよう助言されました。

 スペイン領キューバ島の独立運動激化にともなう不穏な情勢により在留アメリカ人の救出が必要になる場合に備えてハバナ港に派遣されていた戦艦メーン号は1898(明治31)年2月原因不明の爆発で沈没しました。これをきっかけにアメリカはスペインと開戦、スペイン領のキューバとフィリピンで行動を起こし、スペイン軍を制圧しました(「米西戦争」)。

 セルベラを司令官とするスペイン艦隊が5月19日キューバ島のサンチャーゴ港に入港すると、港の入り口がせまく突入不可能と知ったアメリカ軍によって港口封鎖のため、給炭船を自沈させる作戦に失敗すると、艦隊による直接封鎖がおこなわれました。

 6月13日真之は観戦武官としてフロリダ半島タンパ港から輸送船「セグランサ」号に乗り込み、カリブ海域に向かいました。

無限蒸気艦―特集 坂の上の雲―秋山真之 年譜 戦役 事件 事象―米西戦争関係艦

 7月3日早朝サンチャーゴ港内のセルベラ艦隊はフィリピンに向かう目的で、危険と知りながら出港し、米艦隊の攻撃を受けて大損害を被りました。

 真之はこの戦闘後4隻のスペイン艦の残骸を調査、8月3日以後ニューヨーク日本領事館で「極秘諜報」(「諜報」第百十八号 防衛省防衛研究所蔵)を完成、8月15日付で海軍軍令部第三局諜報課に送付しました。 真之はここでスペイン艦の被弾が少ないのに、火災とそれが弾薬庫に引火して起きた爆発の被害が大きいこと、スペイン艦隊が長い停泊で艦底についた付着物のため減速して出港し、米艦の餌食になりやすかったことを指摘しており、この観察が後の日露戦争における海戦に役立ったといわれています。

 以後真之は米北大西洋艦隊旗艦「ニューヨーク」に乗艦して経験をつみました(島田謹二「アメリカにおける秋山真之朝日文庫)。

 1900(明治33)年英国駐在として4月ロシヤ駐在の広瀬武夫とロンドンで再会、イギリスで建造中の戦艦「三笠」、ドイツ建造の巡洋艦「八雲」などを視察(島田謹二「ロシアにおける広瀬武夫」朝日選書)、真之は同年8月14日横浜に帰着、同年10月31日常備艦隊参謀として海上勤務につきました。

 

司馬遼太郎坂の上の雲」を読む10

 すでに1895(明治28)年日清戦争後の朝鮮駐在公使三浦梧楼による朝鮮王妃閔妃暗殺関与事件(「大山巌」を読む42~43参照)後、ロシアの朝鮮への影響力は強大化し、翌年2月11日露朝鮮駐在公使ウエーバーは朝鮮国王と世子を露公使館に移し(露館播遷 1897.4.2宮廷にもどる)、朝鮮政府は親露派の要人で内閣が組織されるなどの朝鮮情勢変化が起こっていました。

 1898(明治31)年3月19日西徳二郎外相はロシア駐日公使ローゼンに対し、ロシアが韓国(1897朝鮮国号を大韓と改称)に対し助言・助力を日本に一任すれば、満州は日本の利益範囲外と認める旨(満韓交換論)を通告しましたが、同年4月2日露公使は拒絶と回答しました(外務省編「日本外交文書」第31巻第1冊 巌南堂書店)。

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争    

 同年4月25日西徳二郎外相は露駐日公使ローゼンと朝鮮問題に関する議定書(西・ローゼン協定)に調印、日露両帝国政府は①韓国の独立を認め、直接の内政干渉を行わない ②韓国に練兵教官・財政顧問を送るときは事前に協議する ③露西亜帝国政府は韓国における日本の商工業の発達を認め、日韓両国間における商工業関係の発達を妨害しないことを約束しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

 北清事変(「大山巌」を読む49参照)が起こり、1900(明治33)年7月4日建設中の東清鉄道を義和団が攻撃しはじめると、ロシア東部シベリア軍は清国軍による黒竜江の対岸ブラゴヴェシチェンスク[中国黒竜江省愛琿(黒河)の黒竜江を隔てた対岸の町]砲撃事件をきっかけに国境を越えて満州全土を占領してしまったのです。日本人が満州に潜入することも困難となりました(石光真清「曠野の花」中公文庫)。しかしロシアは8月25日満州占領は一時的な措置であると弁明しました。

 1901(明治34)年1月7日露公使は列国共同保証の下に韓国の中立化を提案しましたが、同月23日駐露公使珍田捨巳(ちんだすてみ)は満州からの露軍撤退が先決と回答しました(「日本外交文書」第34巻)。