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児島襄「大山巌」を読む31~40

児島襄「大山巌」を読む31

 1892(明治25)年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立、外務大臣陸奥宗光大山巌は陸軍大臣に復帰しました(「官報」)。

 同年11月30日フランスから廻航していた砲艦千島が瀬戸内海で英国船ラヴェンナ号(ピーオー社所有)と衝突沈没する事件が発生、日本政府は翌年5月横浜領事裁判所に損害賠償請求の訴訟を起こしました。しかるにピーオー社は逆に日本側に責任があるとして1893(明治26)年10月25日上海の英高等裁判所で日本が敗訴しました(外務省編「日本外交文書」第26巻)。

 1892(明治25)年11月29日第4議会開会、民党は翌年1月26日政府予算案の軍艦建造費などを削減、2月7日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)、2月10日「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告グ」の詔書が出され、軍備拡張のため、内廷費毎年30万円ずつ6年間下付、同期間中は文武官俸給の1割を納付させて製艦費補助に充てることを命ぜられました。これにより衆議院は2月22日製艦費を含む予算案を可決しました(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)。

 1893(明治26)年4月24日大山巌の長女信子16歳が西郷従道夫妻の媒酌で三島弥太郎(故三島通庸の長男)と結婚しました。

近代日本人の肖像―日本語ー人名50音順―みー三島通庸 

 このとき大山巌50歳、夫人捨松33歳、次女芙蓉子12歳、三女留子10歳、四女久子8歳、長男高7歳、次男柏3歳でした。

 やがて同年7月10日信子は嫁ぎ先から実家に帰されてきました。肋膜炎または肺患(肺結核)の疑いがあるとの医師の診断で沼津の別荘や横須賀の親戚などに転地療養となりました。

 やがて大山巌の長女信子の嫁ぎ先三島家から信子の離婚話が持ち込まれてきました。大山家は冷却期間をおいて信子の療養に取り組むべきだと考え、横須賀の親戚に頼んで三島家との音信を信子に知らせずに絶つことを依頼しました。ところがこのままでは離婚になるかもしれないとの夫三島弥太郎の書簡を偶然見てしまった信子は高熱を発して倒れ、大山巌は横須賀の親戚から信子を千駄谷の自宅に連れ帰りました。そのころ三島家から信子の嫁入り道具や衣装が送り返されてきていました。大山巌は自宅の庭の一隅に離れ屋を建て信子の療養所としたのです。

 

児島襄「大山巌」を読む32

 一方千島艦事件の日本敗訴により、同年10月安部井磐根、大井憲太郎らは大日本協会を組織し対外硬派を形成して内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責を主張、改進党も同調、自由党は反対しました(林田亀太郎「日本政党史」大日本雄弁会)。

 1893(明治26)年11月28日第5通常議会が開会、12月19日衆議院に安部井磐根ら提出の現行条約励行案を上程、10日間の停会を命じられました。さらに12月29日陸奥外相の現行条約励行反対の演説後さらに14日間の停会を命じられ、政府は大日本協会に解散を命令、翌日衆議院は解散となり、翌1894(明治27)年3月1日第3回臨時総選挙実施、結果は民党が130議席を占め、無所属を何人か民党側に引き寄せることができるなら、衆議院を支配できる情勢となっていました。

 かくして国内の世論は排外主義・対外硬・対清硬に向かっていました。キリスト教の立場から戦争に反対していた北村透谷北村透谷「平和」発行之辞 其の他 家永三郎編「日本平和論大系」 第1巻 日本図書センター)は同年5月自殺、反戦の立場を守ったのは少数のキリスト教徒だけでした。

エッセイの森―もう一つの森―15 北村透谷・小田原

 同年3月27日陸奥外相がイギリス駐在の青木周蔵公使に宛てた書簡で「内国ノ形勢ハ日又一日ト切迫シ、政府ハ到底何カ人目ヲ驚カシ候程ノ事業ヲ、成敗ニ拘ラスナシツヽアルコトヲ明言スルニアラサレハ、コノ騒擾ノ人心ヲ挽回スヘカラス。サテ人目ヲ驚カス事業トテ、故モナキニ戦争を起ス訳ニモ不参候事故、唯一ノ目的ハ条約改正ノ一事ナリ。」と述べています(「陸奥宗光関係文書」国立国会図書館憲政資料室 藤村道生「日清戦争」岩波講座「日本歴史」近代3 引用)。

 同年5月15日第6特別議会開会、5月30日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)、6月2日衆議院はまたもや解散されました。第2次伊藤博文内閣がかかる強気の対応に踏み切った理由は何だったのでしょうか。

 

児島襄「大山巌」を読む33

 1894(明治27)年6月1日朝鮮駐在代理公使杉村濬は東学党指導の農民暴動による全州占領と朝鮮政府の清国への援兵要請を陸奥外相に報告、日本政府はこの報告を6月2日受信しました(「日本外交文書」第27巻ノ二)。

理解する世界史&世界を知りたいー理解する世界史ー年表4-1894 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)

 日本政府は同年6月2日の閣議で清国の出兵に対抗、混成1個旅団の朝鮮派遣を決定、同月5日大本営(戦時中に設置された大日本帝国陸海軍の最高統帥機関)を参謀本部内に設置しました(陸軍省編「明治軍事史」明治百年史叢書 原書房)。  

 6月7日清国公使は陸奥外相に朝鮮国王の要請により属邦保護のため出兵することを通告、外相は朝鮮を清国の属邦と認めないと抗議、駐清代理公使小村寿太郎は清国政府に公使館保護のため日本軍出兵を通告しました。6月10日休暇帰国中の大鳥圭介朝鮮駐在公使は軍艦八重山に搭乗、海軍陸戦隊に守られて漢城に帰任、同月12日混成旅団先頭部隊は仁川に到着しました(「日本外交文書」第27巻ノ二)。

 

児島襄「大山巌」を読む34

 大鳥公使漢城に入ると意外に平穏で清国派遣の軍隊も牙山に滞陣、さらに内地に進軍する様子もないので、同公使はしきりに日本政府に電報を送り、当分の間多数の軍隊を派出するのは外交上得策でないことを勧告してきました。これに対して陸奥外相は「然れども翻て我国の内情を視れば最早騎虎の勢(物事の勢いに乗じて中途でやめにくいこと)既に成り中途にして既定の兵数を変更する能はざる」により「仮令外交上の多少の紛議あるも大島少将の率いる本隊(即ち混成旅団)をして尽く京城漢城)に滞陣せしめ尚ほ朝鮮政府に対し速に其内乱を鎮圧するの得策なるを説き之が為めには我が兵を仮し援助すべしと申込むべしと訓令したり」(陸奥宗光「蹇蹇録(けんけんろく)」岩波文庫)と述べています。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―むー陸奥宗光 

 6月16日陸奥外相は清国公使東学党の乱の共同討伐ならびに朝鮮内政の共同改革を提案しましたが、清国は拒絶、日本は内政改革実現まで撤兵せずと通告しました。

 同年6月末から7月にかけて、英露両国は日清関係の調停斡旋を申し入れてきましたが、清国政府はこれを拒絶、調停は失敗しました。

 すでに1891年3月29日ロシヤ皇帝アレクサンドル3世はシベリヤ鉄道建設の勅書を発表、来るべきロシヤの極東への影響力増大に衝撃をうけたイギリスは極東の同盟国として憲法制定による政治の近代化を達成し、経済における産業革命に突入しつつあった日本を評価、不平等条約の撤廃と対等条約調印に同意する情勢にありました。

 かくして1894(明治27)年7月16日日英通商航海条約(領事裁判権撤廃、関税率引き上げ実現・外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)が調印されたのです。このとき英外相キンバーレーは「此条約ノ性質タル日本ニ取リテハ清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ寧ロ遙ニ優レルモノアリ」と述べたと青木周蔵公使は報告(対英談判終了に付青木公使報告 外務省編「前掲書」)しています。

 同年7月23日日本軍は漢城の朝鮮王宮を占領、朝鮮軍を武装解除し、国王は日本の圧力により大院君に国政総裁を命じました。7月25日大院君は清・朝鮮宗属関係の破棄を宣言、牙山の清国軍撤退を大鳥圭介公使に依頼しました(「日本外交文書」第27巻ノ一)。

 

児島襄「大山巌」を読む35  

 1894(明治27)年7月19日大本営は連合艦隊に清国軍増援部隊の阻止を命令しました(参謀本部「明治二十七八年日清戦史」第1巻 東京印刷)。  

 同年7月25日連合艦隊第1遊撃隊 吉野(旗艦)、秋津洲、浪速3艦は豊島沖で清国軍艦 済遠、広乙を攻撃(海軍軍令部編「廿七八年海戦史」春陽堂)。日本側公式戦史はすべて清国軍艦が先に発砲したと主張しています。これに対して清国側は開戦の上諭(天子がさとし告げる文 「清光緒朝中日交渉史料」巻十六引用 「日本外交文書」第27巻ノ二)で「我備えざるに乗じ、牙山口外海面に在りて、砲を開いて轟撃し」(原漢文 書き下し文とする)と述べ、日本軍艦が先に発砲したと主張しています。日本軍艦浪速は清国軍を乗せた英国籍船舶高陞号を撃沈、英国の世論は日本の賠償を要求しましたが、英国国際公法学者「ホルランド」らは浪速艦の行為を失当にあらずと論述、英国政府も納得するに至りました(「蹇蹇録」)。この豊島沖の海戦により日清戦争が開始されました。

大連紀行―日清・日露戦争―大連と日清・日露戦争―日清戦争

 

児島襄「大山巌」を読む36

 つづいて7月29日大島混成旅団は朝鮮の成歓を、同月30日には牙山を占領、8月1日日本は清国に宣戦布告しました。宣戦の詔勅は「苟(いやしく)モ国際法ニ戻ラサル限各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」(「日本外交年表竝主要文書」上)と宣言しています。  

 成歓の戦いで中隊長松崎直臣大尉と死んでもラッパを口から離さなかった第9中隊ラッパ卒白神源次郎は日清戦争における陸軍戦死者第1・2号とされましたが後に死んでもラッパを口から離さなかったのは第12中隊のラッパ卒木口小平に訂正され、国定修身教科書で「キグチコヘイハ(中略) シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と記録されたのです(西川宏「ラッパ手の最後 戦争の中の民衆」青木書店)。

 9月1日第4回臨時総選挙が実施され、10月18日第7臨時議会が広島で開会されましたが、臨時軍事費特別会計法や軍費支出のための公債募集にかんする法律を可決、議会は戦争に協力しました(衆議院参議院編「議会制度七十史」帝国議会史 上巻)。

 一方同年9月1日大本営は第1軍を編成(軍司令官 山県有朋大将 12月18日野津道貫中将に交代)、同月15日平壌を総攻撃、翌日占領。このとき大院君が清将に送った密書が発見され、彼の面従腹背が明らかとなりました(「蹇蹇録」)。大本営は広島に移され、9月15日明治天皇は広島に到着しました(「官報」)。

 同年9月17日連合艦隊(司令長官 伊東祐亨海軍中将)は清国北洋艦隊(司令長官 丁汝昌)主力に遭遇、北洋艦隊に損害を与えました(黄海海戦・海軍軍令部編「廿七八年海戦史」春陽堂)。黄海海戦の勝利により、日本軍は黄海制海権を握り、遼東半島上陸作戦が可能となったのです。

 同年10月25日新たに朝鮮駐在公使として漢城に赴任した井上馨は後に平壌で発見された大院君の密書を彼に提示し、大院君を政権から放逐しました(「蹇蹇録」)。

 

児島襄「大山巌」を読む37

 1894(明治27)年10月3日大本営は第2軍を編成(軍司令官 大山巌大将)、同月24~26日遼東半島花園口に上陸、11月6日金州城を占領しました(参謀本部編「明治廿七八年日清戦史」参謀本部)。さらに11月21日旅順口攻略をめざして、11月17日第2軍は前進を開始したのです。ところが11月18日第2軍先鋒秋山好古少佐指揮の捜索騎兵ならびに第3連隊第1大隊は旅順口北方の土城子の戦いで、第2軍の半島攻略戦最初の戦死者11名を出したのでしたが、その死体は例外なく斬首されて頭部を持ち去られ、身体にもあるいは両腕を切られ、腹部を乱刺し、中には陰部をえぐられた遺体もあったということです。

 「實ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路(第一師団長 山地元治陸軍中将)将軍ハ大ニ怒リ此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪除セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ實ニ惨又惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感ヲ致シマシタ」[向野堅一(第一師団司令部付き通訳官)「明治廿七八年戦役余聞戦役夜話」井上晴樹「旅順虐殺事件」筑摩書房 引用 ]

 第2軍の旅順虐殺は土城子における清国軍の日本兵士死体損壊がきっかけであったとされていますが、清国兵の死体損壊行為の理由の一つは日本兵の首や身体各部に懸賞金がかけられていたからであると「チャイナ・ガセット」(8月27日付)は述べています(井上晴樹「前掲書」)。しかし第2軍兵士はこのような清国軍の行為に復讐心をたぎらせたことはたしかで、しかも師団長という第2軍幹部の組織的命令が「婦女老幼ヲ除ク」と限定されていたにもかかわらず、婦女老幼を含めた殺戮へとエスカレートしていった主要な要因であったことは確かです。

 有賀長雄(第2軍司令部参謀部付法律顧問)の著作(「日清戦役国際法論」哲学書院)によれば、第2軍司令官大山巌は住民が殺戮されたことを認めています。

 

児島襄「大山巌」を読む38

 虐殺された人数は何人あったのでしょうか。旅順白玉山の東麓に旅順虐殺事件から2年目にあたる1896年11月21日殉難した人々を弔うために「万忠墓」の3文字を刻んだ石碑が建立され、官兵商民男婦の被難者一万八百余名が火葬され、遺灰は集められてここに葬られている旨の41文字が彫られているということですが、曲伝林「万忠墓記」には一万八百余名は誤りで、実際は一万八千余名と記されていて、これが現在の中国側の公式数字とのことです(井上晴樹「前掲書」)。しかし虐殺は旅順周辺にまで及んだことを考えるとその人数は一万八千余名をさらに上回ると考えられます。

 同年11月22日ワシントンにおいて日米通商航海条約(対等条約)が調印(「日本外交文書」)され、元老院(上院)で審査中、陸奥宗光は「其後幾程もなく不幸にも彼の旅順口虐殺事件と云ふ一報が世界の新聞紙上に上るに至れり」(「蹇蹇録」)と述べ、米国の新聞紙中には痛く日本軍隊の暴行を非難、暗に今回の日米新条約で治外法権を放棄するのは危険との意を諷するに至ったと言い、英国の国際公法学博士「ホルランド」は「日清戦争に於ける国際公法」と題する論文において彼ら(日本の将卒)は戦闘の初日を除き其翌日より四日間は残虐にも非戦者、婦女、幼童を殺害したと述べていることを紹介し、「これ過大の酷論なるべし」と記述しています。陸奥外相は12月17日付米国「ワールド」紙に「真の非戦闘員のほとんどは、日本が包囲する前に旅順を立ち去っていた」などの弁明を掲載しましたが、この弁明が事実でなかったことを大江志乃夫氏が詳説(「東アジア史としての日清戦争立風書房)しているので、興味のある方は御覧ください。

 

児島襄「大山巌」を読む39

 1895(明治28)年1月20日第2軍主力は山東半島栄城湾に上陸、2月2日威海衛軍港陸岸を占領、2月11日北洋艦隊司令長官丁汝昌は自決、北洋艦隊は翌日連合艦隊に降伏しました(参謀本部編「明治二十七八年日清戦史」第6巻 東京印刷)。

 すでに清国は張蔭恒・邵友濂を講和全権委員に任命したことをアメリカ公使を通じて日本に通告、日本側は内閣総理大臣伊藤博文外務大臣陸奥宗光が、清国代表と交渉する全権弁理大臣に任命され、広島で会談、ところが清国全権は全権委任状を持たないことを理由に同年2月1日日本全権は清国全権との交渉を拒否しました。そこで清国は2月19日講和全権に李鴻章を任命したことをアメリカ公使を通じて我が国に通告、これに対して日本は下関を両国全権会談の地に指定、同年3月20日伊藤・陸奥両全権は下関春帆楼で来日した李鴻章と全権委任状を交換、第1回会談が行われました(「日本外交文書」)。

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 陸奥宗光李鴻章を評して「彼は古希(70歳)以上の老翁に似ず状貌(容貌)魁偉(大きく立派)言語爽快にして曾国藩が其容貌詞令以て人を圧服するに足ると云ひしの的評なるを覚ゆ」(「蹇蹇録」)と述べています。

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 同年3月24日李鴻章は第3回講和会議帰途暴漢に狙撃されて負傷、このため3月30日かねて清国が要求していた日清休戦条約(台湾・澎湖列島を除く)に調印(「日本外交文書」)、同年4月17日日清講和条約調印(「日本外交年表竝主要文書」上)、清国は朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖列島を日本に割譲、賠償金として庫平銀2億両を日本に支払い、日本と欧米諸国並みの通商条約(不平等条約)締結を約束、講和条約施行の担保として日本軍隊の山東省威海衛占領を承認しました。

 しかるに4月23日在東京露・独・仏公使は外務省に林董次官を訪問(陸奥宗光外相播州舞子で病気療養中)、本国政府の訓令を受けたとして遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出しました(三国干渉・「日本外交年表竝主要文書」上)。  

 同年4月24日広島における御前会議は三国干渉に関し列国会議招集による処理にまとまりましたが、翌日舞子に来訪した伊藤首相に陸奥外相はこの問題を列国会議にかけても意見はまとまらず、かえって下関条約全体が破滅する危険性があるとして反対、結局三国に対しては譲歩せざるを得ないが、清国に対しては一歩も譲歩しない方針とし、天皇の裁可を受けました(「蹇蹇録」)。同年5月4日政府は閣議で遼東半島の全面放棄を決定、翌日露・独・仏三国公使にこの旨を通告しました(「日本外交文書」)。

 

児島襄「大山巌」を読む40

 1895(明治28)年5月21日大山巌は征討大総督小松宮彰仁親王とともに神戸に帰港、同月25日神戸から京都に向かい、歓迎群衆に囲まれる中を京都御所に到着、明治天皇臨席の立食宴の後、夕刻から開かれた京都府民の凱旋祝賀会に臨みました。同月26日大山巌陸相に復帰、29日帰京する天皇に従い、30日東京に到着(尾野実信「前掲書」)、京都を遙かに越える群衆の歓迎に迎えられたのでした。大山を迎えた家族は夫人捨松はじめ18歳の長女信子、14歳の次女芙蓉子、12歳の三女留子、10歳の四女久子、9歳の長男高、6歳の次男柏みな元気でしたが、巌は捨松から長女信子の病状は楽観を許さず、信子の夫三島弥太郎の再婚の話がすすめられ、三島家から正式に離婚申し入れがあったことを告げられたのです。

 同年6月8日大山巌は夫人捨松と長女信子を伴い、凱旋報告のための伊勢神宮参拝の名目で西下しましたが、実は旅行中信子にそれとなく離婚問題を納得させるための旅行だったようです(久野明子「前掲書」)。

 同年6月19日大山は奈良見物に向かう捨松夫人、信子とわかれて、日本政府との打ち合わせのため神戸に来た井上馨朝鮮駐在公使との会談に赴きました。  同年9月16日大山巌長女信子は三島弥太郎と正式に離婚しました。