児島襄「大山巌」を読む21~30

児島襄「大山巌」を読む21

 1882(明治15)年8月5日大山巌が帰京したとき、夫人沢子は病床に伏し、容体は重篤となっていました。大山はドイツ人医師で1876(明治9)年東京医学校(東大医学部の前身)教授として招聘されたエルヴィン・ベルツの往診を求めましたが、周辺の必死の介護もむなしく、沢子は同年8月24日死去したのです。

 「今日、国民の中で第一流の女性の一人である、陸軍卿大山大将夫人の葬儀が行われた。産褥熱におかされて、二日前に永眠したとき、夫人は二十三歳だった。(中略)一週間前、夫人の病床に呼ばれたときは、もう意識もなく、青白くやつれ果てていた。夫人を診察したのは発病後三週間目のことで、すでに絶望状態にあった。だが大山将軍は、夫人を毎日みてくれるようにとの希望だった。自分はその希望に従い、夫人が徐々にではあるが確実に、死の手におちてゆくのを見守ったのである。その時、医術の無力、人間の無能をどれほど痛感したことか!」(トク・ベルツ編「ベルツの日記」上 明治15年8月25日条 岩波文庫

  大山巌は5歳の長女信子をはじめ3人の幼娘をかかえて若妻に先立たれ、途方にくれていました。

 

児島襄「大山巌」を読む22

 大山巌私邸を故沢子の父吉井友実が訪問して巌に縁談を持ち込んできました。候補者は陸軍大佐山川浩(大蔵)の妹山川捨松だったのです。

鹿鳴館の貴婦人

呆嶷館(ほうぎょくかん)-会議室発言集―山川大蔵

 山川捨松(「米欧回覧実記」を読む2・4参照・「大山巌」を読む9・11参照)はアメリカ留学後ニューヘヴン市の宣教師レオナード・ベーコン博士宅に寄宿、同地のハイスクールを経てヴァッサーカレッジに進学しました。彼女の友人マリアン・ホイットニー夫人の回想によれば、彼女は「ほっそりとして優しい感じのする女の子」で、同じころエール大学にに留学していた山川健次郎(後に東京帝国大学総長)は捨松が母国語を忘れないよう毎週1回彼女に日本語のレッスンを受けさせたので、捨松はどの科目より難しいとこぼしていたそうです。

 1882(明治15)年6月14日山川捨松はヴァッサーカレッジを卒業、ニューヘヴン病院で2カ月看護婦コースを修学、同年11月末津田梅子とともに帰国しました。同年12月捨松と同じアメリカ留学仲間永井繁子と結婚した海軍兵学校教官瓜生外吉の結婚記念パーティに大山巌も招待されましたが、このとき在留外人の素人芝居―シェークスピア「ベニスの商人」の英語劇が開催されました。このときユダヤ商人シャイロックをやりこめるポーシャの役をつとめたのが山川捨松で大山巌はこのとき彼女を見ていた筈です。

 大山巌の希望を得て吉井友実が捨松の兄山川浩に彼女の結婚について意向を内々に探ってみると、山川浩は即座に辞退したようです。やはり幕末以来の薩摩に対する会津の敵意と遺恨はそう簡単に水に流せる事柄ではなかったのでしょう。

 その後この二人の縁談がどのように進められたのか不明ですが、この縁談をまとめるために徹夜の説得も辞さなかったのは西郷従道西郷隆盛弟)であったそうです(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松中央公論社)。1883(明治16)年11月8日に大山巌と捨松の結婚式が挙行されました。両人の結婚披露宴は新築の「鹿鳴館」で開催されたのです。

発祥の地コレクションー東京千代田区ー鹿鳴館時代の発祥地

 

児島襄「大山巌」を読む23

 1881(明治14)年10月12日明治23年に国会を開設する旨の詔書が発せられると、翌年3月14日伊藤博文憲法調査のため東京を出発、主としてドイツに滞在、ベルリン大学教授グナイスト、ウイーン大学教授スタインの憲法講義を受け、ドイツ宰相ビスマルクと会見、彼の政見を聴取して1883(明治16)年8月3日帰国しました(「伊藤博文伝」)。

 このような日本の将来の政治体制をドイツに範をとる方向を見定めて、1884(明治17)年2月16日陸軍卿大山巌は川上操六・桂太郎両陸軍大佐らを随員として欧州兵制視察のため横浜を出発、ドイツからメッケル少佐を陸軍大学教官として招聘契約(尾野実信「前掲書」)、1885(明治18)年1月25日帰国しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 日本評論社)。

杜父魚文庫ブログ―ARCHIVES―August 2006―2006.08.13-明治陸軍育ての親・メッケル少佐 古沢襄

 1884(明治17)年9月加波山事件が起こり、自由党首脳部はこのような自由民権運動の激化に恐怖感を抱いたもののようです。同年10月29日自由党大会が大阪で開催され自由党は解党、板垣退助は「暫らく郷里に帰りて午眠を為さんとす」(解党の演説「自由党史」下)と述べています。

散歩の変人―カテゴリー関東― 2010.04.16 下館・益子編(2)加波山事件志士の墓(09.8)

 

児島襄「大山巌」を読む24

 この間に1884(明治17)年12月4日朝鮮では甲申事変が起こりました(外務省編「日本外交文書」第17巻)。壬午事変以後清国への依存度を深めた閔氏政権が再建されました。清国は朝鮮政府を指導して日本の進出を防ぐため、1882~6年の間に米・英・独・伊・露・仏との間に通商条約を締結させました。

 清国の影響力拡大、日本の勢力後退という情勢の下で、朝鮮政界は閔氏一族ら清国に依存する事大党と日本と結び改革を実行しようとする金玉均・朴泳孝ら独立党との対立が激しくなりました。

 「自由党史」によれば、金玉均・朴泳孝らは日本政府が対朝鮮政策で積極的でないことを歎き、三田慶応義塾福沢諭吉に援助をもとめ、福沢は後藤象二郎金玉均らに紹介しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ふー福沢諭吉

 後藤は独立党援助のための政治資金の調達に悩み、1884(明治17)年秋、板垣退助に相談、板垣は仏国公使を介して仏銀行家より資金調達の約束を取り付けました。たまたま後藤と会った伊藤博文は後藤から独立党援助計画を聞き、これを井上馨外務卿に伝えたところ井上はこのような大事を在野の人物に託してはいけないとし、済物浦条約の償金50万円のうち40万円を返附して朝鮮改革の資金とする方針に転換したと言っています。

 1884(明治17)年ヴェトナムをめぐって清仏戦争が起こり、8月清国がフランスに敗北すると、同年11月12日朝鮮駐在公使竹添進一郎は朝鮮における清国勢力打破のため、(甲案)親日派を扇動して内乱を起こすか、(乙案)親日派を保護するにとどめるかにつき、伊藤博文井上馨両参議に請訓、両参議は11月28日乙案を可とし、公の干渉を行わないよう電訓しました(市川正明編「日韓外交史料」第3巻 原書房)。しかしこの電訓が届かないうちに金玉均・朴泳孝らは閔氏政権を打倒するために日本と結んで武装蜂起し、独立党政権を樹立する計画を練り、その期日として同年12月4日が選ばれたのです。

 この日は漢城郵征局(郵便局)落成式があり、漢城駐在の公使・領事や政府要人の閔氏一族も出席することになっていました。日本の竹添進一郎公使は急病を理由に欠席、代理が出席していました。  落成祝宴中金玉均一派が郵征局付近に放火、局外に出ようとした閔泳翊が切られ局内に逃げ込んだため、局外に出てくる閔氏一族を暗殺する計画は失敗しました。そ こで金玉均は清兵作乱を国王に告げ、王宮から景祐宮に国王を移し、国王自筆の「日使来衛」と書いた紙片を日本公使館に届けさせ、公使館護衛の駐屯日本軍は出動して景祐宮の四門を警備しました。

 知らせを受けて景祐宮に駆けつけた政府要人のうち、金玉均が指定した人物だけを宮廷内にいれ、閔氏一族ら清国派が暗殺されました。同年12月6日早朝独立党は親日派政権を樹立、政綱を発表しました。  

 ところが12月5日の朝宮廷重臣の一人が清国軍兵営に来て、国王を日本軍から救出するよう要請があり、12月6日午後日清両国の軍事衝突が起こり、竹添進一郎公使と日本軍は日本公使館に撤退せざるをえないことになりました(田保橋潔「前掲書」)。

 12月6日竹添公使は機密書類を焼き、国旗を降ろして公使館警備日本軍とともに仁川に避難、途中公使館付武官磯林真三大尉ほか日本人男女40人が殺害され、公使館は再びおしよせた暴徒に焼かれました。竹添公使を除いて公使館関係者および日本軍兵士ならびに金玉均らは12月11日定期船「千歳丸」で仁川を出港、日本に逃れました(「朝鮮京城事変始末書」明治文化全集 第11巻 外交篇 日本評論社・田保橋潔「前掲書」)。

 1885(明治18)年1月9日特派全権大使井上馨外務卿は左議政金宏集全権と甲申事変処理の漢城条約(「日本外交年表竝主要文書」上)に調印、朝鮮政府は国書により日本に謝罪、死傷者に賠償金支払い、犯人処罰、日本公使館再建を約束しました。  

 同年4月18日参議伊藤博文全権大使は清国直隷総督李鴻章と天津条約(「日本外交年表竝主要文書」上)を締結、朝鮮から日清両国軍共同撤兵、将来派兵の際の行文知照(公文書のやりとり、照会)、両国とも軍事教官を派遣しないことなどを約束しました。

 

児島襄「大山巌」を読む25

 1885(明治18)年12月22日太政官制を廃止し、内閣総理大臣および宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の各大臣を置き、宮内以外の大臣で内閣を構成することを定めました(「法令全書」第18巻ノ2 原書房)。また内閣職権を定め、内閣総理大臣の権限(各大臣の首班として行政を統督、ただし軍機事項は陸軍大臣より報告を受けるにとどまる、すなわち統帥権の独立の法文化)を規定しました。 

 また同日内閣総理大臣伊藤博文外務大臣井上馨、陸軍大臣大山巌海軍大臣西郷従道、農商務大臣谷干城文部大臣森有礼らが任命され、第1次伊藤博文内閣が成立しました(「明治政史」明治文化全集 第9巻 正史篇 上)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー谷干城

 相次ぐ朝鮮半島における壬午・甲申事変の続発と清国の朝鮮支配の強化に対抗して、海軍大臣西郷従道は陸軍大臣大山巌と協議、1886(明治19)年6月15日海軍公債証書条例を公布(勅令)、海軍拡張のため利率5分で1700万円を公募する措置をとりました。また陸相大山巌は明治20年度予算に陸軍軍備増額を要求、苦慮した伊藤首相は天皇に帝室費の一部を下賜することを奏請、天皇は海防整備のため手許金30万円を下賜することを決定しました。同年3月23日伊藤博文鹿鳴館に地方長官を招集、地方有志の海防費献金を求めることを訓示、9月末までに203万円余を集めました(「伊藤博文伝」)。また蔵相松方正義は年収300円以上収入に1/100~3/100の所得税を創設しました(勅令)。

 

児島襄「大山巌」を読む26

  一方我が国外交の重要課題の一つに条約改正問題があります。1886(明治19)年5月1日井上馨外相は各国公使と第1回条約改正会議を外務省で開催、正式に条約改正案を提出しました(外務省編「日本外交文書」第19巻)。翌年4月22日第26回条約改正会議は裁判管轄に関する英独案を修正議了しましたが、その内容は次の如くです。①批准後2年以内に日本内地を外国人に開放、②泰西(西洋)主義による司法組織、法律を制定、③外国籍の判事・検事を任用する(外務省編 条約改正関係「日本外交文書」経過概要 巌南堂書店)

 また同年4月20日には首相官邸仮装舞踏会が開催(「伊藤博文伝」)され、伊藤首相は伊太利ベニス貴族の服装、大山巌陸相はチョン髷で大小を腰にさしていました(時事新報の記事「自由党史」下 引用)。 このころ同様の舞踏会が鹿鳴館で開かれ、卑屈な欧化政策として非難の声が高まりました。

 同年6月1日司法省法律顧問ボアソナードは条約改正に関し裁判管轄条約案に反対する意見書を内閣に提出(条約改正関係「日本外交文書」経過概要)、さらに同年7月3日農商務相谷干城は裁判管轄条約案に反対し、条約改正は国会開設後に延期せよとの意見書を伊藤首相に提出、後辞職しました(平尾道雄「子爵谷干城伝」富山房)。

世界の法律家―ボアソナードと民法成立の嵐

 かくして8月になると条約改正に反対する各地代表が続々と上京、元老院や諸大臣に要求を提出、この間ボアソナード谷干城の意見書が秘密出版で流布、10月には高知県代表片岡健吉らが植木枝盛起草の三大事件建白書(地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回)を元老院に提出(「自由党史」下)、一時衰退したかに見えた自由民権運動は再び盛り上がる情勢となってきました。

 これに対して政府は同年12月26日保安条例を官報号外により公布施行、秘密の結社集会の禁止・屋外の集会運動の制限・危険人物の退去命令などで、中江兆民尾崎行雄・林有造ら570人を皇居3里以外に追放しました。拒否した片岡健吉ら15名は軽禁錮2年半(3年 自由党史)に処せられました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 上)。

 

児島襄「大山巌」を読む27

 1888(明治21)年1月4日伊藤博文首相は大隈重信外相に迎えて局面打開を図りました。伊藤博文は同年4月30日枢密院官制が公布されると枢密院議長に就任、同日黒田清隆内閣が成立しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 上)。

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布されました(「法令全書」第22巻ノ一 原書房)。当時日本が模範とした欧米列強の中でもロシヤなどはまだツアーの専制政治下にあり、アジアで日本が最初に憲法による政治の近代化を成し遂げたことは評価されるべきでしょう。

明治・その時代を考えてみようー歴史上の事件に対する項目―大日本帝国憲法・国会開設

 しかしながらこの憲法は欽定(勅命によって定められた)憲法として専制的であり、ベルツが「東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。至るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だがこっけいなことには、だれも憲法の内容をご存じないのだ。」(「ベルツの日記」上 明治22年2月9日条 岩波文庫)とか「残念ながらこの祝日は、忌まわしい出来事で気分をそがれてしまった―森(有礼)文相の暗殺である。」(ベルツ「前掲書」明治22年2月11日条)というような在日外人の否定的評価をうけることになったのです。

History of modern Japan―日本近現代史研究―人物に関するデータベースーもー森有礼

 また外人のみならず、中江兆民は「吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物乎(か)。玉耶(か)将(は)た瓦耶(か)。未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ。我国民の愚にして狂なる何ぞ如此(かくのごと)くなるや。」と批判し、憲法を大阪で一読して、あまりに専制的なのにあきれ苦笑するばかりであったそうです(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)。また民衆の中には「欲張り連は、政府から絹布の半被(はっぴ)を下さるのだと思った」(高田早苗「半峰昔ばなし」明治文学全集 明治文学回顧録集一 筑摩書房)人もいたようです。

 憲法発布の翌日黒田清隆首相は鹿鳴館に地方長官を集め、政府は超然として政党の外に立つとの方針を訓示(超然主義演説)しました(「明治政史」明治文化全集 第10巻 正史篇 下)。

 

児島襄「大山巌」を読む28

 黒田清隆内閣に留任した大隈外相井上馨とは異なり、国別交渉により欧米列強間の対立を巧みに利用して最強硬のイギリスを孤立させつつ、極秘に条約改正交渉をすすめましたが、1889(明治22)年4月19日その内容を「ロンドンタイムス」が論評、この記事を外務省翻訳局長小村寿太郎が紹介したといわれ(「大隈侯八十五年史」第2巻 明治百年史叢書 原書房)、同年5月新聞「日本」(主筆 陸羯南 くがかつなん)がこれを翻訳掲載しました。

近代日本人の肖像ー日本語―人名50音順ーくー陸羯南

 大隈案は井上案に比して前進した点が多かったのですが、そこで問題となったのが大審院に外人判事を任用することで、これには内閣法制局長官井上毅の外人法官任用は憲法第19条「日本国民ハ法律命令ニ定ムル所ノ資格ニ応シ、均シク文武官ニ任セラレ、其ノ他ノ公職ニ就クコトヲ得」に違反するという見解が出され、同年10月18日大隈外相は閣議の帰途玄洋社員来島恒喜に爆弾をなげられて負傷するに至りました(「玄洋社社史」近代史料出版会)。

 負傷した大隈重信を診察したドイツ人医師ベルツはこのときの様子を次のように述べています。「下腿を動かすと、骨がまるで袋にはいっているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。」(「ベルツの日記」上 明治22年10月18日条 岩波文庫)。

 同年12月10日閣議は条約改正交渉延期を決定、12月14日大隈外相は辞表を提出しました(徳富蘇峰「公爵山県有朋伝」中 明治百年史叢書 原書房)。

 

児島襄「大山巌」を読む29

 同年12月24日第1次山県有朋内閣が成立、翌1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が行われ、民党(野党)の立憲自由党(同年9月15日結成)と態勢をたてなおした立憲改進党が、吏党(与党)を抑えて多数派を占めたのです。 

 同年10月30日戦前日本の教育の背骨を形成する教育に関する勅語が発布されましたが、翌年1月9日第一高等中学校始業式において講師内村鑑三教育勅語に対して拝礼せず(小沢三郎「内村鑑三不敬事件」新教出版社)、国家主義者・仏教徒らによるキリスト教への批判攻撃が高まってきました。

はなごよみーもくじー雑学資料室―歴史資料―修身教典 第二-勅語―教育勅語

歴史が眠る多摩霊園―著名人(頭文字)-あー内村鑑三

 1890(明治23)年11月15日明治天皇は有栖川熾仁親王ら皇族と山県有朋首相ら閣僚らとともに大山巌の私邸(東京府豊多摩郡千駄谷町)を訪問しています(宮内庁編「明治天皇紀」第七 吉川弘文館)。    同年11月29日開会された第1通常議会において、12月6日山県有朋首相は施政方針演説で「国家独立自衛の道は一に主権線を守禦し、二に利益線を防護するに在る。」(「公爵山県有朋伝」下)とし、主権線とは国疆(境)、利益線とは主権線の安全と緊しく相関連するの区域(朝鮮)であり、そのためには軍備増強が必要であると主張、松方正義蔵相は軍艦製造費521万余円、鉄道建設費250万円を含む8307万円余の予算案を提出しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山県有朋

 明治23年は凶作で、産業界も日本資本主義最初の恐慌が起こるという背景の下で、民党は民力休養・政費節減をスローガンに、軍艦建造費など政府予算案の800万円近い大削減で対抗しましたが、1891(明治24)年2月20日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました(「大日本帝国議会誌」大日本帝国議会誌刊行会)。

 この切り崩された土佐派の中に植木枝盛がいたのです(家永三郎植木枝盛研究」岩波書店)。

 

児島襄「大山巌」を読む30

 第1議会が終わると山県有朋は辞表提出、1891(明治24)年5月6日第1次松方正義内閣が成立、外務大臣は青木周蔵(このとき大山巌陸相辞任と高島鞆之助陸軍中将の就任内定、やがて大山巌陸軍大将に昇進)、しかるに同年5月11日滋賀県大津で巡査津田三蔵が来日中のロシヤ皇太子に斬りつけた傷害事件(大津事件)が発生しました(外務省編「日本外交文書」第24巻)。松方首相・山田顕義法相らは大津事件犯人に刑法第百十六条の皇室に対する罪(死刑)を適用する方針でしたが、大審院長児島惟憲は津田三蔵を謀殺未遂罪に該当する旨の意見書を首相・法相に提出(「伊藤博文伝」)、5月27日大審院は刑法第二百九十二条其の他の謀殺未遂罪により無期徒刑を判決しました(「日本外交文書」第24巻)。 

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー児島惟憲 

 同年11月26日第2通常議会開会 すでに同年3月19日立憲自由党自由党と改称しましたが、昔の民衆運動と結合した大衆政党から地主・ブルジョア政党としての性格を強め、改進党と連携して、松方内閣の軍事費を大幅に削減、このため政府は衆議院を解散、1892(明治25)年2月15日第2回総選挙施行、選挙干渉により各地で騒擾事件が起こりましたが(衆議院参議院編「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻 大蔵省印刷局)、結局民党側の勝利に終わりました。同年5月6日第3特別議会開会、政府の露骨な選挙干渉が問題となり、河野敏鎌内相は干渉選挙の責任者処罰を断行、干渉選挙を支持した高島鞆之助陸相、樺山資紀海相は7月28日辞表を提出、同日松方首相も辞意を奏上しましたが天皇に慰留され一旦留任を決意、ところが大山巌陸軍大将は陸軍中将川上操六・海軍中将仁礼景範とともに松方首相を訪問して辞職を勧告、後任の陸・海相に就任するものはいないと述べ辞去、これにより7月30日松方内閣は総辞職しました。