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児島襄「大山巌」を読む11~20

児島襄「大山巌」を読む11

 1870(明治3)年8月15日大山弥助らは普仏戦争観戦を命ぜられ、8月28日横浜から米飛脚船クレド・ハフリック号で出発、太平洋を横断、サンフランシスコからニューヨーク経由で大西洋を渡り、10月23日ロンドン到着、閏10月23日ベルリン着、11月11日(西暦1871年1月1日)以後普仏戦争(「米欧回覧実記」を読む14参照)を観戦しました。フランス政府がプロシヤに降伏後、弥助はパリに入り、3月19日マルセーユから日本への帰途につき、5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着しました(「元帥公爵大山巌」年譜)。  

 すでに 1870(明治3)年12月勅使岩倉具視らが鹿児島を訪問したとき、藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆盛は岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とすることを主張していました(「西郷隆盛意見書」(「西郷隆盛全集」第3巻 大和書房)。翌年2月13日政府は薩長土3藩の兵を徴して御親兵の編成を命令し、4月25日大山弥助は御親兵を統括する兵部省の役職兵部権大丞に任命されました(尾野実信「前掲書」)。

 同年7月14日天皇は在京56藩知事を集め、廃藩置県の詔書を宣下しました(「維新史料綱要」)。

イッシーのホームページー地理のページー府県の変遷

 同年8月15日大山弥助は陸軍少将に昇進しましたが、普仏戦争観戦の結果、国産兵器の発達をめざす研究のため欧州留学を希望、同年11月3日「兵部省出仕、仏国留学被仰付候事」という辞令を受けたのです(尾野実信「前掲書」)。

 同年11月12日岩倉大使一行は米欧回覧のため、午後1時横浜を出港しましたが、このとき同行した5人の女子留学生の一人として山川(咲子)捨松(「大山巌」を読む9参照)がいました(「米欧回覧実記」を読む2・4参照)。

 1869(明治2)年11月松平容保の嗣子容大をもって松平家再興が認められ会津藩23万石は斗南(となみ)藩3万石(青森県下北郡・上北郡・三戸郡岩手県二戸郡の一部)として陸奥半島田名部付近に移住させられてから、「過去もなく、未来もなく、ただ寒く飢えたる現在のみに生くること、いかに辛(つら)きことなりしか」「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」(石光真人「ある明治人の記録」会津人柴五郎の遺書 中公新書)と皆歯をくいしばり耐えぬいたのです。山川咲子は姉たちと畑に出て肥桶を担ぎ野良仕事を手伝いました。箱館のフランス人宣教師の家に預けられたこともあるので、それが女子留学生の一人となるきっかけになったのかもしれません。咲子の留学がきまると、咲子の母唐衣は咲子を一度は捨てるが、将来を期待して待つという意味をこめて、捨松と改名させました(久野明子「前掲書」)。

 同年11月12日午後8時大山弥助は横浜からフランス飛脚船でインド洋・地中海経由でパリーに向かいました(尾野実信「前掲書」)。

 

児島襄「大山巌」を読む12  

 李氏朝鮮政府の外交政策は清国の宗主権を認める「事大」と隣国日本と通交関係を維持する「交隣」の2原則からなり、他の諸外国に対しては鎖国政策をとっていました。このような鎖国政策を推進したのは若年の国王李熙(りき)の実父李昰応(りしおう 大院君)です。 江戸時代対馬の宗氏を介した外交交渉と貿易が行われ、日本には将軍の代替わりごとに朝鮮通信使の来日がありましたが、1811(文化8)年を最後として、通信使来日は中絶していました(中村栄孝「江戸時代の日鮮関係」日鮮関係史の研究 下 吉川弘文館)。   

 草梁倭館は朝鮮側が釜山草梁項に設けた外国人接待のための、建設維持費ともに朝鮮側負担の客館で、江戸時代対馬の宗氏は慣例によってその使用権を認められていたのです(田保橋潔「近代日鮮関係の研究」上巻 明治百年史叢書 原書房)。ここで貿易も行われ、その利益が対馬藩の財政を支える有力な財源の一つとなっていたので、対馬藩は朝鮮に対して卑屈な態度をとりがちでした。

 1868(明治1)年12月19日対馬藩主宗義達(よしあき)は家老樋口鉄四郎らを草梁倭館に派遣、新政府成立通告書を朝鮮地方官吏東莱府使を通じて朝鮮政府に提出しようとしましたが、東莱府使は通告書に「皇上登極(こうじょうとうきょく 天子即位)」などの文字が、対馬藩の副翰にも「勅」の文字が使用されているのは従来の慣例にそむき、朝鮮を下国として軽侮しているとし、通告書の受理を拒否しました(田保橋潔「前掲書」)。従来の慣例にそむくという理由は「皇」とは清国の皇帝のことで、「勅」とは皇帝の詔勅のことであり、これまで日本から朝鮮あての文書にこのような文字は使用していなかったということです。

 征韓論はすでに江戸時代に見られ(「世に棲む日日」を読む6参照)ますが、このとき木戸孝允は「兵力を以、韓地釜山附港を被為開度(開かせられたく)、是元より物産金銀の利益は有之間敷(これあるまじく)、却て御損失とは奉存候得共(存じ奉り候えども)、(中略)億万生の眼を内外に一変仕、(中略)此外に別策は有之間敷。」(「明治2年正月大村益次郎宛書簡」木戸孝允文書 三)と早くも征韓論を主張していたのです。

 

児島襄「大山巌」を読む13  

 1871(明治4)年4月27日明治政府は大蔵卿伊達宗城を欽差(勅使)全権大使とし、条約交渉のため清国派遣を決定、清国欽差全権大臣李鴻章と交渉、日本ははじめ欧米諸国にならって清国と不平等条約を締結しようとしましたが、清国案にもとづいて討議、同年7月29日対等条約である日清修好条規(大日本国大清国修好条規)を天津で調印しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 明治百年史叢書 原書房)。しかし1873(明治6)年4月30日批准書交換によりようやく発効したのです。

独学ノートー単語検索―日清修好条規

  1871(明治4)年年副島種臣肥前藩出身)が外務卿に就任すると、翌年8月18日外務大丞花房義質および森山茂らを軍艦で朝鮮釜山に派遣、9月16日草梁倭館を外務省直轄の在外公館として外務省官吏を駐在させ、従来の宗氏と朝鮮との私的貿易関係を廃止、宗氏の使者を退去させ、その旨を朝鮮側に通知しました(田保橋潔「前掲書」)。日本側は草梁倭館の歴史的事情にうとく、この措置に朝鮮側が反発したのは当然というべきでしょう。

 朝鮮側は従来の宗氏仲介による旧慣を主張して交渉に応ぜず、1873(明治6)年5月朝鮮の東莱府使が草梁公館の門前に「彼雖受制於人不恥[彼(日本人)は制を人(欧米人)に受くと雖も恥じず]、其変形易俗、此則不可謂日本之人[その形を変え俗を易(か)え、これすなわち日本の人というべからず]、不可許其来住於我境[其の我が境に来住するを許すべからず]、…」(田保橋潔「前掲書」)という文章を含む掲示を発表して日本の開化政策を非難、これにより日本政府内に征韓論が高まってきました。   当時岩倉大使一行は外遊中で留守政府首脳部は太政大臣三条実美以下西郷隆盛(薩)・板垣退助(土)・後藤象二郎(土)・大隈重信(肥)・江藤新平(肥)らの参議で構成されていました。  板垣退助は居留民保護のための兵を釜山に送ることを提案、これに対し西郷はまず自ら全権大使として朝鮮に赴き、もし危害を加えられたら軍隊を出動させるべきと主張、同年8月17日の政府首脳会議で西郷の朝鮮派遣を内定、三条は8月19日箱根御用邸にて明治天皇の裁断を上奏、天皇は「宜く岩倉の帰朝を待ちて相熟議し、更に奏問すべし」と述べました(宮内庁明治天皇紀」第三 明治六年八月十九日条 吉川弘文館)。

「征韓論」政変をめぐってー毛利敏彦氏に答える

 西郷隆盛は人情に厚く、版籍奉還(1869)後に推進された家禄の削減や、徴兵令の公布(1873)による士族の没落と困窮による不満を朝鮮との軍事的緊張に生かし、士族を救済するために、征韓論を利用したとも考えられます。

 

児島襄「大山巌」を読む14

 1873(明治6)年9月13日外遊から東京へ帰った岩倉具視は、まずすでに参議を辞任していた大蔵卿大久保利通を復職させ、同年10月14・15日大臣・参議会議(木戸病気欠席)において西郷・板垣・後藤・江藤・副島らの大使派遣論と岩倉右大臣および大久保・大隈らの内地優先論が激突、太政大臣三条実美は西郷の主張を認め、岩倉および大久保らは辞意を表明しました。

維新の嵐―明治十一年・東京―第9章 背景世界とか色々―明治政府―①組織―政府組織図

 ところが政府分裂の危機に直面して、三条実美は心痛のあまり、10月18日朝卒倒、人事不省となり、10月20日勅命により岩倉具視太政大臣代理を務めることになりました。

 同年10月23日岩倉具視天皇に上述の大臣・参議会議の決定と岩倉の意見(「朝鮮事件ニ関スル奏問書」岩倉具視関係文書 第1巻 日本史籍協会叢書)をともに上奏、翌日岩倉の意見を可とする天皇の裁断が下り、征韓派参議はただちに辞職しました(「岩倉公実記」下 明治百年史叢書 原書房)。  

1874(明治7)年1月14日右大臣岩倉具視が東京赤坂喰違で高知県士族武市熊吉らに襲撃される事件が発生しました(「岩倉公実記」下)。

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 岩倉具視は事態収拾策として西郷を上京入閣させる以外にないと考え、西郷を説得する使者として当時ジュネーブに留学中の陸軍少将大山弥助を呼び戻すことを協議、弥助を呼び戻す役として宮内少輔吉井友実に白羽の矢がたてられました。

 佐賀の乱の平定が布告された3日後吉井友実は辞職、三条実美岩倉具視連名の大山弥助宛て手紙を手にパリに赴き、同年5月2日ジュネーブからやってきた大山弥助に会って帰国を要請、弥助は一旦帰国を断りましたが、三条・岩倉両大臣は弥助に帰国命令の電報を打ち、同年10月3日弥助は東京に帰着(尾野実信「前掲書」)、その2日後鹿児島に向かいました。帰国以前弥助は大山巌と改名しています。

 鹿児島県では1873(明治6)年に実施された地租改正や太陽暦も行われませんでした。

 西郷隆盛は1874(明治7)年4月私学校を設立しました。それは賞典学校と銃隊学校、砲隊学校があり、厳密には銃・砲隊学校が私学校です。賞典学校は西郷隆盛らが戊辰戦争の功績により賜った賞典禄を経費に充て、銃隊学校は篠原国幹、砲隊学校は村田新八が指導、経費は鹿児島県令大山綱良が旧藩から県に引き継がれた公金から支出、次第に賞典学校は士官、銃隊学校と砲隊学校は下士官養成の教育組織となっていきました(陸上自衛隊北熊本修親会編「新編西南戦史」明治百年史叢書 原書房)。鹿児島県西郷隆盛の影響下に薩摩士族が民衆を抑圧する、明治新政府から軍事的、政治的に独立した政治組織となりつつありました。

 大山巌が鹿児島に滞在したのは同年10月7日から11月3日朝までで、その間何回西郷隆盛と会ったのかは不明です。11月12日東京に帰った大山巌大久保利通に西郷の説得が不調に終わったことを報告しています。同年12月18日大山は陸軍少輔の辞令を受け、陸軍省第一局長に補任されました。

 他方西郷と同じく征韓派として下野した板垣退助は同年4月土佐に帰り、片岡健吉、林有造、谷重喜らとともに立志社と称する政社を高知城下に設立しています(「自由党史」上)。

 

児島襄「大山巌」を読む15

 1874(明治7)年9月24日東莱府役人は朝鮮国王戚臣である禁衛大将趙寧夏の親書を草梁公館駐在の森山茂に手交しましたが、その内容は日朝国交梗塞に遺憾の意を表し、最近における日本国の革新を認め、新たな形式に従い、交隣を継続することを希望することを述べていました(田保橋潔「前掲書」)。これは国王・戚臣らが日朝国交再開を希望しているのに、大院君派の鎖国政策に妨げられている現状を打開するために国王・王妃閔(びん)氏一族とならぶ戚臣の中心人物である趙寧夏が国王の真意を日本側に伝達するするための措置であったようです。しかし森山茂は朝鮮の政情にくらく、趙寧夏親書の重大性を理解していなかったもののようです。  1875(明治8)年4月森山茂および広津弘信は外務卿寺島宗則に朝鮮では大院君と王妃閔(びん)氏一派の抗争が激化し、日本の軍事圧力によって朝鮮の開国が促進される可能性がある。すなわち日本の軍艦1~2隻を対馬・朝鮮の間に派遣して海路を測量したりすれば条約締結を督促する効果があるだろうという建白書(外務省編纂「日本外交文書」第8巻)を提出しました。

 清国は日清修好条規の批准や台湾出兵(1874)をめぐり、朝鮮が属邦ではあるが内政教令・和戦について自主独立の国であることを認めていたので、明治政府(内治派)は朝鮮に軍事的圧力を加える政策を採用、同年5月25日軍艦雲揚(艦長 井上良馨少佐)は釜山に入港、6月12日入港した軍艦第二丁卯(艦長 伊東祐亨少佐)とともに港内で軍事演習を実施、朝鮮側に恐怖感を与えました。

維新の志士たちー幕末維新 出来事一覧ー47 台湾出兵

 やがて雲揚は朝鮮東南西海岸より清国牛荘(にうちょわん 営口)辺にいたる航路研究の命をうけ、同西海岸を北上中、9月20日淡水補給のため江華島に接近、ボートをおろして漢江の支流塩河をさかのぼろうとしたところ、江華島砲台の砲撃をうけたので、同砲台に砲撃をかけ、永宗島永宗鎮砲台を攻撃、大小砲を奪い、9月28日午前8時長崎に帰港、海軍省に打電しました(明治8年10月8日付「雲揚艦長戦闘詳報」田保橋潔「前掲書」)。  

 1876(明治9)年1月6日特命全権弁理大臣黒田清隆・特命副弁理大臣井上馨以下27名の使節団は軍艦3隻・運送船3隻の艦隊をひきいて東京を出港、2月10日300の兵力とともに江華島に上陸しました。日本艦隊は同年2月11日紀元節の祝砲と称して砲声を轟かせる(「日本遠征記」を読む11参照)中で4回にわたる交渉の結果、同年2月27日「日朝修好条規」の調印が江華島で行われました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。

理解する世界史―サイトマップー世界史年表4 日朝修好条規の締結(朝鮮の開国)

  この条約は第1款で「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と規定し、清国の朝鮮に対する宗主権を否定しようとしたことが注目されます。しかし同条約は日本が一方的に領事裁判権をもつ不平等条約で、日朝修好条規附録に附属する宮本小一理事官の朝鮮国講修官趙寅凞宛往復文書(「日本外交年表竝主要文書」上)において「我人民ノ貴国ニ輸送スル各物件ハ我海関ニ於テ輸出税ヲ課セス貴国ヨリ我内地ヘ輸入スル物産モ数年間我海関輸入税ヲ課セサル事ニ我政府ノ内議決定セリ」と輸出入を無税とすることも規定されていました。

 同年1月11日33歳の大山巌は吉井友実の娘で15歳の沢子と結婚しています(「元帥公爵大山巌」年譜)。

 

児島襄「大山巌」を読む16

 1876(明治9)年3月28日廃刀令(大礼服着用および軍人・警察官・官吏制服着の場合を除き、帯刀禁止)が出され、つづいて同年8月5日金禄公債証書発行条例制定(内閣官報局「法令全書」第九巻ノ一 原書房)により翌年から華士族の家禄・賞典禄を廃止、公債を支給することで、毎年政府歳出の3分の1近くを占めていた家禄支給を停止することになったのです。

 これに対して同年10月24日熊本県士族大田黒伴雄らが熊本城鎮台を襲撃、鎮台司令長官種田政明陸軍少将らを殺害しました(神風連の乱)。

熊本県HP―検索コーナー分類から探すー観光・文化・国際―検索―種田政明邸跡  ダンナハイケナイ ワタシハテキズ

 つづいて同年10月27日福岡県士族(旧秋月藩士)宮崎車之助らが挙兵(秋月の乱)、10月28日には山口県士族前原一誠らが県庁を襲撃しようとして(萩の乱)、鎮台兵に鎮圧される事件が続発しました(「明治史要」)。大山巌は命により同年11月1日熊本城に到着、11月26日熊本鎮台司令長官谷干城陸軍少将が着任するまで、熊本鎮台司令長官代理を勤めながら、鹿児島の動向を探っていたようです(尾野実信「前掲書」)。

熊本城公式ホームページー歴史ドラマー神風連の変―西南戦争熊本城籠城戦

 

児島襄「大山巌」を読む17  

 1877(明治10)年1月5日大山巌夫人は女子を出産、信子と名づけられました。

明治天皇関西巡幸に陸軍卿山県有朋が随行するため、同年1月20日大山は陸軍卿代理を命ぜられました。

 ところがすでに1月18日内務卿大久保利通木戸孝允と会談、鹿児島にある弾薬引き揚げに合意、そのための三菱会社汽船「赤龍丸」が鹿児島に派遣されました。

 鹿児島には藩政時代に設立された集成館の銃器製作所、滝の神の火薬製造所が陸軍省所管となり、その制作と製造がおこなわれており、また草牟田、田上、上之原、小山田には火薬庫があって、赤龍丸は夜間、火薬弾薬の積み込み作業をしていました。

 一方1月上旬鹿児島に帰省した少警部中原尚雄らは政府の密偵または刺客であるとの噂が広まっていました。同年1月30日私学校生徒らは草牟田の火薬庫を襲撃、翌日銃器製作所と上之原の火薬庫を襲撃、銃器・弾薬を奪いとり、赤龍丸はあやうくも港外に逃れたのです。

 同年2月5日捕えられていた中原尚雄が拷問の末西郷暗殺の使命を自白した口供書に署名させられましたが、それが事実であったかどうかは不明です(「新編西南戦史」)。

明治・その時代を考えてみようー歴史上の事件に対する項目ー西南戦争とその時代ー西南戦争について

 同年2月15日西郷隆盛は政府に尋問の筋ありとして兵を率い、鹿児島を出発、熊本城をめざして北上を開始しました(「明治史要」)。
 

児島襄「大山巌」を読む18

 1877(明治10)年2月19日政府は西郷軍征討令を布告、有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督に任命され、本営を福岡の勝立寺に置き、征討参軍として陸軍卿山県有朋(陸軍中将)・海軍卿川村純義(海軍中将)が総督を補佐するこことなりました。征討軍は徴兵制による軍隊を主力とし、征討第一旅団司令長官として野津鎮雄陸軍少将、征討第二旅団司令長官に三好重臣陸軍少将、征討第三旅団司令長官三浦梧楼陸軍少将、別働第五旅団司令長官に大山巌陸軍少将が任命されました。

 北上した西郷軍は同年2月22日熊本城を包囲しましたが、予想と違って熊本城をせめあぐむうちに、3月征討軍は熊本北方の田原坂(たばるざか)と山鹿(やまが)に迫り、3月4日西郷軍幹部篠原国幹は戦死、征討軍は3月20日田原坂を越え、翌日山鹿を占領しました。

ワシモ(WaShimo)ホームページーコンテンツー旅行記―熊本県―田原坂を訪ねて

 一方3月8日勅使柳原前光は黒田清隆陸軍中将とともに征討軍と警察官に守られ。軍艦3隻汽船2隻にを率いて鹿児島に赴き、県令大山綱良を逮捕して東京に連行、明治政府鹿児島県政を掌握することに成功しました。  同年4月14日征討軍は西郷軍の包囲を破って熊本城に入り、戦争の大勢は西郷軍の敗色濃厚となってきました。

 西郷軍は人吉・都城(みやこのじょう)・宮崎・延岡に転戦、8月16~17日長井(延岡北方)で征討軍との決戦に敗北、西郷らは残った数百人を率いて峻嶮な可愛嶽(えのだけ)を越え、9月1日鹿児島に帰り、城山に立て籠もりました。大山巌は攻城砲隊司令長官に任命され、9月24日征討軍は総攻撃、撃たれて動けなくなった西郷隆盛は負われて城山背後の岩崎谷を下り、島津家一門の邸前で自刃しました。こうして西南戦争は終了したのです(「新編西南戦史」原書房)。  

 他方板垣退助によって土佐に設立された立志社は同年6月片岡健吉を代表として立志社建白を天皇に提出し、国会開設要求を中心として、重税に悩み地租改正反対一揆に立ちあがる民衆の声をとりあげようとする一派と林有造らの西郷に呼応して武装蜂起を計画する一派に分かれ、8月8日林有造が東京で逮捕されるに至りました(「自由党史」上)。
 

児島襄「大山巌」を読む19

 1878(明治11)年5月大久保利通が暗殺され(「雄気堂々」を読む16参照)、内務卿は工部卿伊藤博文が兼任となりました。つづいて同年8月23日近衛砲兵隊が俸給削減の不満などから暴動を企て、鎮圧(竹橋騒動)、同年10月13日陸軍裁判所は竹橋騒動参加者に死刑を含む処分を判決しました(陸軍省編「明治軍事史」上 明治百年史叢書 原書房)。

 同年11月大山巌は陸軍中将に昇進、12月5日参謀本部(12月24日本部長山県有朋)設立による軍政(人事・予算など、担当官庁 陸軍省)と軍令(作戦・用兵 担当官庁 参謀本部)の分離に伴い、参謀本部次長となり、1880(明治13)年2月18日陸軍卿に就任、参謀本部次長を兼任しました。  

 1881(明治14)年3月参議大隈重信は国会開設意見書を左大臣有栖川宮熾仁親王に提出しましたが、その内容は1883(明治16)年より国会を開設し、中立永久官の下の政党内閣制を主張するものでした。同年6月27日三条実美太政大臣を通じて大隈意見書を借覧した伊藤博文は同年7月5日大隈と会見、君権を人民に放棄するものと非難(「伊藤博文伝」春畝公追頌会)、来るべき国会の性格をめぐって大隈と伊藤の対立が激化してきました。  

 同年7月21日参議兼開拓使長官黒田清隆北海道開拓使官有物払下げを太政大臣に申請、閣議は有栖川宮大隈重信の反対で紛糾しましたが、払下げを決定、7月30日勅裁(「伊藤博文伝」)となりました。各新聞は北海道開拓使払下げ事件を暴露、世論の批判が高まってきました。

エピソード日本史―第八章 近代国家の成立(2)-182-1自由民権運動Ⅲ

 同年10月11日午前会議(天皇臨席で行われる政府首脳会議)で立憲政体に関する方針や北海道開拓使官有物払下げ中止、参議大隈重信罷免などを決定(明治14年の政変)、翌日発表、明治23年に国会を開設するとの詔書が発せられました(「伊藤博文伝」)。これに対して大隈免官に反対し矢野文雄・犬養毅尾崎行雄らがいっせいに辞任するに至りました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 日本評論社)。 

 同年10月18日自由党が結党、同月29日総理に板垣退助を選挙、11月9日板垣は総理を受諾しました(「自由党史」中)。

 このころ私擬憲法憲法試案)も多く起草されましたが、中には後の日本国憲法におおきな影響を与えたとみられる植木枝盛「日本国々憲案」(「東洋大日本国々憲案」)もありました(江村栄一編「日本近代思想大系」第9巻 憲法構想 岩波書店)。彼は国内では基本的人権の尊重による自由・平等を認め、国外では「万国共議政府」(現国連に近い国際組織)の創設と「宇内無上憲法」(現国連憲章に近い国際規約)を制定することによって、軍備の縮小あるいは廃止をめざす小国主義(田中彰「小国主義」岩波新書)を主張していたのであって、欧米列強にならい武力を背景とした朝鮮進出をめざす日本政府の大国主義路線と真っ向から対立する国家構想を展開していたのです(家永三郎植木枝盛研究」岩波書店)。

土佐の歴史散歩―地域別―高知市―中心部―植木枝盛旧邸

 同年12月28日陸軍刑法・海軍刑法を制定(「「法令全書」第14巻 原書房)して軍人の政治関与を罪とすることが定められました。1882(明治15)年1月4日軍人勅諭が陸軍卿大山巌に下達されました(「明治軍事史」上)。

 知識の殿堂―文書―自習―現代語訳『軍人勅諭』

 1882(明治15)年4月16日立憲改進党が結党され、大隈重信を総理に推戴しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇)。

 同年5月福島事件(「自由党史」中)がおこり、6月3日政府は集会条例を改正(太政官布告)して、地方長官に1年以内の演説禁止権、解社命令権、内務卿に一般的な結社集会禁止権を与え、政治結社の支社設置禁止などを追加しました(「法令全書」第15巻 原書房)。

エピソード日本史―第八章 近代国家の成立(2)-184-1民権運動の激化Ⅰ

 同年6月後藤象二郎板垣退助に外遊をすすめ、旅費を華族蜂須賀茂韶から借資することで板垣も了承しました。しかるに党内外からその旅費の出所が政府であるとの疑惑を呼びながら、同年11月11日板垣・後藤は横浜から渡欧、翌年6月22日帰国、8月20日大阪中之島において「欧洲観光の感想」と題する談話を発表しました。この談話の内容を要約すると次の如くです。彼が横浜から欧州にいたる途中でみた光景は欧州人がアジア人を野蛮として奴隷のように虐待する現実でした。このような現実の下で我が国が条約改正を実現するためには欧州人が讃嘆するような至善至美の法律を作るか、海軍を拡張して彼らが恐怖するような武力を養成することである。しかし現在急速に完全な法律を作ることができない状況においては海軍拡張による武力養成が急務である(「自由党史」中)とその主張の力点が民権から国権へと移行していったのです。

 

児島襄「大山巌」を読む20

 排外主義の大院君は引退、朝鮮国王と閔氏一族は国内改革を開始し1881年日本から陸軍少尉堀本礼造を軍事顧問に招聘、別技軍という日本式軍隊を訓練していましたが、別技軍は服装も給与も旧軍よりよく、旧軍隊は現物給与の米の遅配が続いており、不満が高まっていました。

 日本との貿易輸出の8割は米で、その影響でソウルの米価が2~3倍に騰貴し、政府の腐敗した現物管理の高官が米の横流しをやったり、米の配給を担当する下級官吏が米の量目をごまかすことがおこり、これが旧軍隊の米遅配や量目不足の背景となっておりました。

 量目不足の米を受け取る事を拒否した兵士らが倉庫番を殴り、倉庫番の上官が兵士を刑殺しようとしたことから、兵士らは上官閔謙鎬の屋敷を破壊し大院君に訴えでました。大院君はこの反乱軍を閔氏一族打倒と排日武力闘争に利用、1882(明治15)年7月23日反乱軍は日本人教官堀本礼造を殺害、日本公使館には反乱軍兵士や民衆が押し寄せ、花房義質公使らは7月26日済物浦よりイギリス測量船に助けられ、7月30日長崎に帰着しました(壬午事変 外務省編「日本外交文書」第15巻・田保橋潔「前掲書」)。

近代日本人の肖像―人名50音順―おー大山巌

 北海道・青森に出張していた大山巌は同年7月30日東京から朝鮮における壬午事変を知らせる三条実美からの緊急電報で、至急帰京せよとの命令を受け取りました。8月5日大山は東京に到着(尾野実信「前掲書」)、8月7日井上馨外務卿の訓令を受け、花房義質公使は下関から海軍少将仁礼景範指揮の軍艦4隻に高島鞆之助陸軍少将指揮の歩兵一個大隊を乗せて朝鮮仁川に向かいました。

 ところが駐日公使黎庶昌からの電報により壬午事変を知った清国は8月9日北洋艦隊司令長官丁汝昌に命令、彼は軍艦3隻を率い馬建忠とともに朝鮮に赴き、翌日仁川に到着、馬建忠は8月23日兵を率いて漢城に入り、8月26日大院君は清国軍に拘束され翌日天津に送られ軟禁されました。

 このような情勢の下で花房公使は同年8月30日朝鮮と済物浦条約を締結、壬午事変の犯人処罰、賠償金50万円、公使館駐兵権などを朝鮮に認めさせました(「日本外交年表竝主要文書」上)。

 同年9月30日清国軍は壬午事変を鎮定、大院君を保定に移し、清国軍は引き続き朝鮮に駐留する旨を各国公使に通告、10月1日清・朝鮮間に商民水陸貿易章程を締結、清の朝鮮に対する宗主権が強化されたのでした。  

 壬午事変に対する政府の出兵について、自由党は「我邦ノ内治未ダ整ハザル┐ヲ知ラザルベカラズ、此戦乱ノ費幾何ナルヤヲ察セザルベカラズ且ツ征軍勝利ノ後民権ノ上ニ如何ナル結果ヲ為スヤヲ思慮セザルベカラズ」(自由党機関紙「自由新聞」1882年8月8日付)と平和をもって主眼となすことを強調しました(信夫清三郎・林茂監修「復刻 自由新聞」第1巻 三一書房)。