児島襄「大山巌」を読む1~10

児島襄「大山巌」を読む1

 児島襄「大山巌」(文春文庫)はのちの元帥陸軍大将大山巌誕生の叙述から始まります。大山巌(岩次郎)は1842(天保13)年10月10日鹿児島城下加治屋町の下級武士大山彦八綱昌(西郷竜右衛門次男)の次男として出生しました。郷中頭西郷吉之助(隆盛)は岩次郎の従兄弟にあたり、6歳ころから習字と読書の指導を受けました。

旅路―①旅日記(汽車旅編)-南九州編ー③早春の薩摩路を行く(初日)ー維新の故郷、加治屋町

 当時の薩摩藩士は地区単位の郷中に属し、年齢によって6、7~13、4歳までの「稚児(ちご)」と、元服した14、5~23、4歳までの「二才(にせ)」にわかれ、「二才」の中で才能と人望を認められたものが郷中頭に選ばれました。

 稚児岩次郎は腕白少年で、いくさごっこで竹槍をかわしそこねて左眼を負傷、その視力は元通りにはなりませんでした。

 1855(安政2)年ころ、岩次郎は元服、弥助と改名し、明年薩摩藩槍術師範梅田九左衛門に入門しました(尾野実信編「元帥公爵大山巌」大山元帥伝刊行所)。

 

児島襄「大山巌」を読む2

  1858(安政5)年7月6日将軍家定死去(「維新史料綱要」巻3)、つづいて7月16日島津斉彬死去、死去の直前かけつけた異母弟久光に、久光かその子忠徳(茂久・忠義)を斉興に伺い後継者と定めよと遺言しました(芳即正「島津斉彬吉川弘文館)。同年7月21日徳川慶福は家茂(いえもち)と改名(「維新史料綱要」巻3)、同年10月25日将軍宣下(「公卿補任」)、家茂は14代将軍となりました(「天璋院篤姫」を読む9参照)。

 1860(万延1)年3月3日家茂を将軍に推した大老井伊直弼桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受け惨殺されました(「天璋院篤姫」を読む10参照)。  和宮降嫁という幕府の公武合体策に対して、尊皇攘夷派は1862(文久2)年1月15日坂下門外の変を起こし、老中安藤信行(信正・陸奥磐城平藩主)は水戸浪士らに襲撃され負傷しました(「維新史料綱要」巻4)。

 同年4月16日薩摩藩島津忠義父島津久光は藩兵を率いて入京、朝廷に幕政改革の意見書を提出するとともに、同月23日伏見寺田屋に集結した薩摩藩精忠組暴発派の有馬新七らを久光の命を受けた同藩士が斬殺しました(「天璋院篤姫」を読む12参照)。精忠組暴発派に加わっていた大山弥助ら22人は大坂藩邸を経て鹿児島に護送され、謹慎処分を受けました(尾野実信「前掲書」)。

nature-京都の散歩路ー維新の路ー伏見界隈 其の三 寺田屋事件

 同年6月10日島津久光の奉ずる勅使大原重徳の伝えた勅旨により、幕政改革が行われ越前藩主松平慶永政事総裁職に、一橋慶喜将軍後見職とし、松平慶永のすすめにより同年閏8月1日会津藩松平容保は、家老の諫止にもかかわらず、京都守護職を引き受け、任命されました(山川浩京都守護職始末」1 東洋文庫49 平凡社)。

 

児島襄「大山巌」を読む3   

 島津久光の行列は江戸からの帰途、同年8月21日イギリス商人ら4人が武蔵国生麦村で行列を横切ったことにより斬られるという事件を起こしました(生麦事件)。

 1863(文久3)年5月9日幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを支払いましたが、薩摩藩は犯人処刑の要求に応じなかったため、同年7月イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入、薩摩藩と交戦しました(薩英戦争・「天璋院篤姫」を読む12参照)。

 寺田屋事件関係者の謹慎も解かれ、大山弥助も動員されました。桜島に対面する鹿児島沿岸に北から祇園洲、新波戸、弁天波戸、大門口、砂揚場の各砲台が築かれていましたが、弁天波戸砲台に配属された弥助は斬り込み隊に応募、生麦事件犯人の海江田武次隊の一員として、黒田了介(清隆)、西郷信吾(従道)野津七左衛門(鎮雄)、伊東四郎(祐亨)らとともに西瓜売りをよそおって英国艦隊旗艦「ユリアラス」に乗り込むことに成功しましたが、他の斬り込み隊はいずれも乗り込みに失敗したため、斬り込みは中止、引き揚げとなりました(公爵島津家編纂所「薩藩海軍史」中 明治百年史叢書 原書房)。

敬天愛人―メインコンテンツー薩摩的幕末雑話―第七話「スイカ売り決死隊―薩英戦争の一場面―」

  同年7月2日薩英間の砲撃戦がはじまり、弁天波戸砲台の射程距離内に接近した「ユリアラス」号に砲台発射の弾丸が命中したようです。しかし薩摩藩側は甚大な損害を受けたのです。

薩摩藩は同年11月1日イギリス代理公使生麦事件賠償金10万ドルを交付(「維新史料綱要」巻5)してイギリスとの接近をはかるようになっていきました。

 

児島襄「大山巌」を読む4

 大山弥助は薩英戦争後近代的砲術の習得が必要と考えるようになりました。1863(文久3)年8月18日の政変(「天璋院篤姫」を読む13参照)後、同年9月12日島津久光上洛時弥助も久光に従って上洛しましたが、やがて11月16日江戸の江川太郎左衛門塾に入門のため江戸へ向かいました(尾野実信「前掲書」)。

重要文化財 江川邸―江川英龍―次へ(繰り返し)ー砲術と韮山塾

 1864(元治1)年7月19日禁門の変が起こり、同年7月24日幕府が長州征討(第1次長州征討)を命令、薩摩藩家老小松帯刀は大山弥助ら江戸詰め薩摩藩士22名に上京を命じました。弥助は征長軍に加わって筑前芦屋に移動しましたが、翌年再び江戸にもどりました。

 同年閏5月22日家茂は上洛参内して長州再征を奏上、西郷吉之助はこれを知ると京都へ上り、江戸藩邸の縮小をはかり、同年12月大山弥助は江戸から京都に移動、大砲隊談合役に任命され砲隊訓練を指導するようになりました。

 あけて1866(慶応2)年1月21日薩摩藩京都藩邸で薩長連合の盟約(「竜馬がゆく」を読む14参照)が成立、同年6月7日幕府軍艦は長州藩周防大島を砲撃(第2次長州征討開始)、しかし幕軍は連戦連敗でした。同年7月20日薩摩藩島津茂久(忠義)は父久光と連名で関白に提出した建白書において「即今兵庫・大坂ノ儀ハ将軍家御在陣中号令整粛、軍威四方ニ可輝(輝くべき)ノ処、(中略)米価ハ勿論諸色未曾有ノ騰貴ニテ、既ニ災旱水溢ノ憂モ不被図(図られず)此上兵端を開候テハ、争論日ニ長シ率土(国土のはて)分崩当年不可救(救うべからざる)勢ニ及候」(「島津久光公実記」二 日本史籍協会叢書 東大出版会)と戦争が民衆の蜂起を誘発して彼らの支配体制そのものが崩れさる危険性を指摘しています。大坂の打ちこわしで逮捕されたものに役人がその発徒人(首謀者)を問うと其の首謀者は大坂城中(当時大坂城で将軍家茂が長州再征の指揮をとっていました)にあると言ったものがいたそうです(「丙寅連城漫筆」第一 日本史籍協会叢書)。

 同年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、8月20日幕府は家茂死去を公表、徳川慶喜の宗家相続を公布、9月2日幕府軍艦奉行勝海舟長州藩広沢真臣と安芸厳島で休戦協定を締結、9月19日幕府は征長軍撤兵を命令しました。

 薩摩藩家老小松帯刀は京都の情勢を長州藩大宰府三条実美ら五卿に伝えるため、大山弥助を派遣しました(尾野実信「前掲書」)。

 

児島襄「大山巌」を読む5

 1866(慶応2)年12月5日徳川慶喜征夷大将軍に任命され、15代将軍に就任、ところが同年12月25日孝明天皇が死去、翌1867(慶応3)年1月9日睦仁親王明治天皇践祚、関白二条斉敬が摂政となりました。  1867(慶応3)年10月14日正親町三条実愛は同月13日付島津久光父子宛・同月14日付長州藩主父子宛の討幕の密勅を薩摩藩大久保一蔵、長州藩広沢兵助に発しました。しかるにこれをかわすかのように、同日将軍徳川慶喜は前土佐藩主山内豊信(容堂)の建白を容れ、大政奉還上表を朝廷に提出、翌日朝廷は大政奉還を勅許しました(「天璋院篤姫」を読む16参照)。これによって江戸幕府は倒壊したのですが、徳川慶喜天皇を頂点とする新政府において主導権を握ろうとしていたのです。

 これに対して同年12月9日朝廷は王政復古の大号令を発しましたが、薩長両藩は新政府における徳川氏の主導権を否定しようとし、徳川慶喜の辞官納地を命じることを決定、有栖川熾仁親王を総裁とする新政府を成立させました。

 当時京都二条城では征長に敗れた徳川軍と国許から京都へ上洛増強された薩長軍の間に一触即発の危機が迫っていました。この危機を回避しようとして慶喜は12月12日一旦二条城を退去、大坂城に入りました。、同年12月23日江戸城二丸が焼失、これは薩摩藩の関係者による放火ではないかとの嫌疑がかけられました。当時薩摩藩の益満休之助らが浪士を使って江戸で放火・強盗などをやらせ、騒乱状態が起こっていました。同月25日徳川方の指示で旗本・庄内藩兵らが江戸三田の薩摩藩邸に押し寄せ、これにより両者戦闘状態となり、薩摩藩邸は焼き討ち、浪士70余人が徳川方に捕らえられました(「維新史料綱要」巻7)。

 この薩摩藩の挑発が大坂城に伝わると、徳川慶喜は憤激する徳川軍を抑えられず、京都に攻め上り、迎え撃つ薩長軍と1868(慶応4・明治1)年正月3日鳥羽伏見で戦いを開始しました(「維新史料綱要」巻8)。

歴声庵―戊辰戦争関連の記事―鳥羽伏見の戦いー地図

 

児島襄「大山巌」を読む6

 同年1月5日徳川軍は下鳥羽に米俵を積んだ陣地を構築していましたが、薩摩軍の攻撃をささえきれず下鳥羽南西2キロの富ノ森に後退しました。伏見方面から応援にかけつけた大山弥助の2番砲隊が午前11時ころ会津兵の斬り込みを撃退、富ノ森陣地に臼砲攻撃を加えていると、前日征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王が下賜された錦旗を掲げて出陣してきました。

国立公文書館デジタルアーカイブーカテゴリー別―絵巻物―戊辰所用錦旗及軍旗真図

 2番砲隊は弾薬が少なくなっていたので、大山弥助は大刀を左手に、右手に六連発拳銃を握り、砲を捨てて銃をとり突撃するよう命令しました。すると一弾が弥助の右耳を撃ちぬき、手ぬぐいで頬冠りして突撃を続行しました(尾野実信「前掲書」)。

敗北した徳川慶喜は、同月8日軍艦開陽丸で老中板倉勝清、京都守護職会津藩松平容保らを従えて大坂を脱出、同月12日江戸へ逃げ帰りました。慶喜は鳥羽伏見戦で錦旗が出現したと聞き「あはれ朝廷に刃向かふ可き意志は、露ばかりも持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ」(渋沢栄一徳川慶喜公伝」4 東洋文庫 平凡社)と述懐したと伝えられています。

西郷隆盛の書簡(同年1月10日桂右衛門宛)で「人数多少をを比較いたし候得ば、賊軍(徳川軍)は五増倍(三倍「維新史」第五巻)の事に御座候得共、かくの如き勝利はいまだ聞かざる儀に御座候。京摂の間、余程人心を失い居り候事にて、今日に至りては、伏見辺は兵火のために焼亡いたし候得共、薩長の兵隊通行度毎は、老若男女路頭に出て、手を合わせて拝をなし、有難し々々と申す声のみに御座候。戦場にも路路粮食を持ち出し、汁をこしらえ、酒を酌みて戦兵を慰し、国中の人民(薩摩藩領民)よりはまさりて見え候事に御座候。」(「西郷隆盛全集」第2巻 大和書房)と薩長軍を京都の民衆が支持したことを得意そうに述べています。

 

児島襄「大山巌」を読む7

朝廷は1868(慶応4・明治1)年1月10日前将軍徳川慶喜会津藩松平容保らの官位剥奪、慶喜追討と幕府直領を没収する布告を発し、同年2月9日有栖川宮熾仁親王が東征軍大総督に任命され、東海・東山・北陸3道の軍を指揮することとなりました。東征軍は主力を東海道東山道中山道)に配置、東海道軍は箱根から品川へ、大山弥助が所属する東山道軍は諏訪で二分されて、一方は甲府を経て内藤新宿へ、他方は碓氷峠を越えて板橋へ向かい、品川・新宿・板橋3方面から江戸城を総攻撃することになっていました。

同年1月12日朝廷は「今度、不図(図らずも)干戈(かんか 戦争)ニ至リ候儀ニ付テハ、万民塗炭(とたん ひどい苦しみ)之苦モ不少(少なからず)、依之(之に依りて)、是迄幕領之分、総テ当年租税半減被 仰付(仰付けられ)候」(太政官編纂「復古記」第1冊 内外書籍)と旧幕領年貢半減令をだし民心の掌握に努めました。相良総三に率いられる赤報隊東山道各地に年貢半減令を宣伝しました。ところが小諸藩が出した訴状によれば赤報隊は徒党を企、頑民を語らい合い、連判状等取りたて(長谷川伸相楽総三とその同志」新小説社)とあるように農民を百姓一揆のような組織に組み込みつつあったことが推定されます。同年3月3日東山道先鋒総督府は先鋒嚮導隊相良総三らを偽官軍として逮捕し、下諏訪で斬罪としました(「維新史料綱要」巻8)。

幕末維新新選組―佐幕人・幕末人名鑑―赤報隊 相良総三

徳川慶喜は故将軍家茂夫人和宮親子内親王(「天璋院篤姫」を読む17参照)と天台宗管領・上野寛永寺住職輪王寺宮公現法親王を通じて、朝廷に恭順の意思伝達をはかりました。この影響もあって同年3月13日大総督府参謀西郷隆盛慶喜助命ならびに水戸謹慎を提案する旧幕府陸軍総裁勝海舟が、薩摩藩江戸藩邸で会見、翌日江戸城総攻撃中止、江戸城開城の合意成立となりました。

江戸城開城は同年4月11日に行われ、徳川慶喜も水戸に赴きました。しかし東征軍への降伏を受け入れない大鳥圭介指揮の徳川軍の一部は日光東照宮を拠点として、奥州の諸藩と連帯し抗戦する決意をかため、宇都宮にむかい、旧幕府海軍も海軍副総裁榎本武揚の指揮により館山湾に退きました。同年4月23日大山弥助の所属する官軍は宇都宮城を攻撃、大鳥圭介軍は奥州街道から北方へ退却していきました。つづいて同年5月1日白河城を陥落させると 同年5月3日奥羽各藩代表は仙台に集まり25藩が同盟条約を決議、ついで会津・庄内・長岡など8藩を加え、奥羽越列藩同盟が成立しました。

官軍側はこの情勢に対応するために、江戸上野に集結する彰義隊制圧を決意、同年5月15日彰義隊を攻撃鎮圧しました(「維新史料綱要」巻9)。

幕末歴史探訪―人物別分類―大村益次郎

写真紀行・旅おりおりー史跡を訪ねるー墓地・終焉の地―さ―彰義隊

―彰義隊の墓

 

児島襄「大山巌」を読む8  

官軍を迎え撃つ会津藩の軍制は年齢別の青龍(36~49歳)・白虎(びゃっこ16,7歳)・朱雀(すざく18~35歳)・玄武(げんぶ50歳以上)の4隊にわかれ、その外一般藩民の志願者を集め、強制することはなく、他に身寄りあらば逃れるもよしと布令がありました(石光真人「ある明治人の記録」会津人柴五郎の遺書 中公新書)。

守備兵力は官軍が接近するとみられる南の日光方面、北西の越後方面に力点がおかれ、東方は険しい安達太良山脈と猪苗代城(亀ケ城)に頼っていたのですが、1868(慶応4・明治1)年8月22日猪苗代城陥落の報をうけて会津若松が危機におちいると、藩主松平容保は弟の桑名藩松平定敬にも応援を求め、、日向内記の指揮する白虎隊二番中隊は会津若松城下から約8キロの十六橋西方大野ケ原に進出しました。

同年8月23日土佐藩兵を先頭とする官軍は会津若松城下に突入してきました。会津若松城下は鶴ケ城を囲む内濠と外濠の間に武家屋敷が集中し、外濠から内側に入る橋には郭門がありました。  土佐藩砲兵は鶴ケ城を砲撃、1弾が北角の櫓に命中、所蔵されていた火薬に引火して大爆発をおこし、藩士邸も放火されて市内に火煙が立ち上りました。

このころ鶴ケ城東北東2キロの飯盛山にたどりついた白虎隊二番中隊は火煙に包まれている鶴ケ城を見て自決しましたが、飯沼貞吉のみ蘇生して助けられました(「七年史」四 続日本史籍協会叢書)。

呆嶷館―会議室発言集―飯沼貞吉

 

児島襄「大山巌」を読む9

土佐藩部隊は鶴ケ城大手門の前に築かれた北出丸からの射撃で侵入を阻まれました。土佐藩部隊から救援を求められて、参謀伊地知正治は大山弥助の指揮する砲兵隊の出動を命じましたが、このとき弾丸が大山弥助の右股を内側から貫き弥助は転倒、同年8月24日後送されました。

 9月に入っても、約5000人の老幼男女と藩士が立てこもる鶴ケ城には砲撃と射撃がつづき、城内は食料不足に悩まされました。とくに城内での女性の活躍は著しく、松平容保の姉輝姫は負傷者の救護と炊事を指示して昼夜の別なく働きつづけました。

当時の榴弾は弾着後しばらくしてから炸裂し、焼弾は弾体の穴から火焔を噴き出して家屋を焼き尽くします。その対策として水に濡らした綿衣類や布団をかぶせて消火する役目が女性に課せられましたが、女性が砲弾とともに爆死する危険を伴ったのです。のちに大山弥助(巌)夫人となる会津藩家老山川大蔵(浩)の妹で当時8歳の咲子(捨松)もこれら女性の中にいたのです。捨松は後に当時を回顧して次のように述べています。「当時私は8歳でした。(中略)男達は皆戦いに出ていました。女子供も精一杯男達を助けて働きました。仕事の種類によって隊を編成し、米を洗って炊きだしをする者、前線にいる兵隊達のために弾薬を作る者、幼かった私に割り当てられた仕事は、蔵から鉛の玉を運び出し、弾薬筒につめられたものを他の蔵へ運びこむことでした。」(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生」中央公論社)。

同年9月14日官軍による鶴ケ城総砲撃がおこなわれ、藩主松平容保は開城を決意、9月22日ついに会津藩は官軍に降伏しました(「維新史料綱要」巻9)。

官軍参謀であった板垣退助は、後にこのころを回顧して次のように述べています。「東北に転戦し(中略)、会津が天下の雄藩を以て称せらるヽに拘らず、其亡ぶるに方って国に殉ずる者、僅かに五千の士族に過ぎずして、農工商の庶民は皆な荷担して逃避せし状を目撃し、深く感ずる所あり。(中略)蓋し(けだし おそらく)上下隔離、互に其楽を倶にせざるが為なり。(中略)我帝国にして苟くも東海の表に屹立し、富国強兵の計を為さんと欲せば、須らく上下一和、衆庶と苦楽を同ふし、闔(こう 全)国一致、以って経綸(けいりん 国家を治め整える)の事に従はざる可からず。」(「自由党史」上 岩波文庫)と考えるようになり、故郷土佐にかえって自由平等の宣言を発したと述べています。

 

児島襄「大山巌」を読む10  

大山弥助は1868(明治1)年11月20日鹿児島に帰り、砲隊塾を開きながら大砲の研究に取り組み、欧米製のものを改良した「弥助砲」を考案しました(尾野実信「前掲書」)。

尚古集成館―薩摩・島津家の歴史―1908 忠重、東京へ移るー公爵 島津家―弥助砲

1870(明治3)年3月弥助は東京(1868年7月17日江戸を改称「天璋院篤姫」を読む18参照)守備の薩摩藩兵として上京、弥助の率いる大砲隊一番大隊は数寄屋橋の旧江戸南町奉行所に駐屯しました。弥助は東京到着後同伴した薩摩藩鼓隊員を横浜に派遣、イギリス公使館軍楽隊長ジョン・ウイリアムズ・フェントンの伝習指導を受けさせることにしました。  ところが各藩徴兵の天覧(天皇御覧)演習が予定されており、当然国歌演奏が行われるべきだから、国歌の練習から始めようとフェントンが言うので、日本に国歌はないというと、フェントンは国歌を作ってくれば、自分が作曲するといっていると、伝習小頭頴川吉次郎が大山弥助に相談をもちかけてきました。

大山弥助は薩摩琵琶「蓬莱山」の一節にうたわれている「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」をフェントンに紹介させ、フェントンはこれをもとに作曲を試みました(尾野実信「前掲書」)。

しかし1883(明治13)年宮内省式部寮雅楽課の林広守が「君が代」を作曲しなおし、海軍省傭教師フランツ・エッケルトの編曲したものが、現在国歌とされている「君が代」です(小田切信夫「国歌君が代講話」君が代史料集成 第3巻 大空社)

JURASSIC PAGE―MIDIの森―もう一つの君が代