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久米邦武「米欧回覧実記」を読む11~20

久米邦武「米欧回覧実記」を読む11  

 「実記」には1872(明治5)年10月10日の記事がありませんが「木戸孝允日記」(明治五年十月十日条)に「六字過伊藤来て南貞介(助)の寄留せるアメリカンジョイントナショナルバンク之困難を告げ為其南貞介并同人同居の英人某に面会し其趣を一々承得せり雖然其所致如何とも難致依て使節一統談合の上吉田少輔へ探索吟味を托せり為其伊藤吉田の処へ至れり此バンクへ日本書生と使節一行の金を預けしもの不少余亦其一人也」と記述されています。

 岩倉使節団が米国新約克(ニューヨーク)府に到着したとき、南貞助(長州出身 高杉晋作の従兄弟)という人物が使節団の旅費50万ドル(田中光顕理事官管理)を南が関係する「ナショナル・エゼンセー」に預金するよう進言しました。 

幕末を駆け抜けた男達―月別アーカイブー2008年8月―高杉晋作の義弟 南貞助2008/08/28(木)

 南貞助は幕末ロンドンに留学、帰国後外国官権判事に任ぜられましたが、1870(明治3)年東伏見宮嘉彰親王(「米欧回覧実記」を読む8参照)のイギリス留学に随行、滞英中「ボールズ」銀行頭取「ブルーズ」と知り合い、彼が設立した「ナショナル・エゼンセー」の重役となりました。南貞助に使節団旅費を預けることに田中光顕が反対したので、南と既知の木戸・大久保はじめ久米邦武らは手持ちの私費を南貞助に預金しました。

 しかるに「ボールズ」銀行のボストン支店が、同地の大火で大損害を受けた保険会社の影響で閉鎖したのをきっかけに閉店、「ボールズ」銀行ロンドン本店にも波及した結果、「ナショナル・エゼンセー」は倒産、使節団面々の「へそくり」は無に帰したのです。

木戸孝允日記」には翌十月十一日条にも、この事を皮肉った狂歌「白はき(しらはぎ)に見とれもせぬに百ポンドとんと落したる久米の仙人」(「今昔物語集」巻第十一 久米仙人、始造久米寺語第廿四 日本古典文学大系24 岩波書店 参照)が記述され、「是は久米の風姿甚雅朴(上品で飾り気がない)人称仙人(人仙人と称す)然るに同人平素倹素(倹約素朴)猥りに不散(散財しない)豈図(あにはからんや どうして考え及ぶだろうか)又係此難(この難にかかわる)依有此戯(よってこの戯れあり)」と書いてあります。

(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第二一三項 銀行取引に慣れぬ失敗 参照)

奈良の昔話と観光スポット―奈良県内―久米仙人(橿原市)久米寺

 

 久米邦武「米欧回覧実記」を読む12  

1872(明治5)年11月2日岩倉使節団は「パークス」氏らの案内で達迷斯(テームス)河下流「ウィクトン」の瓦斯会社を視察しました。この会社は倫敦における最大瓦斯会社です。石炭を窖煆(こうか 密閉加熱)して炭酸水素瓦斯を取るとき、密閉加熱した石炭を「コークス」といい、鋼鉄を熔かすにはこの「コークス」を用います。窖煆により蒸鎦(じょうりゅう)する流液には石炭「テール」と石油を含み、此内に含有する一種の「アニリン」酸を分拆して紅黄紫藍の顔料(着色・染色の材料)を製します。瓦斯について「実記」は「瓦斯分ニハ、元来価ハナキモノナリ、市街ニテ毎夜ヲ照ス燈光ハ、只其管樋ニツキテ、価ヲ収メル所ナリト云、「(第四十巻 倫敦府後記)と述べているに過ぎません。

 しかし瓦斯会社の労働問題について言及した「実記」は次のように述べています「吾(われ)英国倫敦ニアリシトキ、瓦斯会社ノ職工、ミナ増給ノ議ヲ起シテ社員ニ逼(せま)リ、議論沸騰シ、其労動ヲ止メ、一夕満街ノ瓦斯燈、忽然トシテ消ヘシコトアリ、(中略)何(いずれ)ノ国ニテモ、職工ノ景況ハ同一ナルモノニテ、多クハ愚昧朴魯(ぐまいぼくろ 愚かで道理に暗く、飾り気がなくて鈍い)、(中略)日日労動ノ傭給ハ、直ニ飲食ニ擲(なげう)チ、淫欲ニ費シ、殖財ノ念ヲ賭博ニ注キ、終年ノ労動ハ、反テ身心ヲ腐敗スル資トナリ、一旦衰老疾病シ、労動ヲ得サルトキハ、其振救を雇主知音(ちいん 親友)ニ勒索(ねだる)ヲ、公然タル権利ト思フニ至ルハ、職工ノ常態ナリ、」(第九十二巻 欧羅巴洲工業総論)。、

茶目斜目ブログー過去記事―2009年08月―ロンドンのガス燈 2009年08月31日

 同年11月5日ヴィクトリア英女皇への謁見が行われました(外務省編纂「日本外交文書」第5巻 六四 英国女皇ニ謁見シタル次第報告ノ件 外務省蔵版)。

歴誕―歴誕歴史人物伝―歴誕歴史人物伝バックナンバーーヴィクトリア

 

 久米邦武「米欧回覧実記」を読む13

  1872(明治5)年11月16日朝7時15分に「ホッキンハムハレイス、ホテル」を出発、「ヴィクトーリヤ」駅より蒸気車で9時「トーブル」(ドーヴァー)の埠頭に到達、郵船は「ドーブル」より仏国の「ガレイ」(カレー)に12時に到着しました。ホテルで昼食後、蒸気車で6時に巴黎(パリー)府の「ディスト」駅到着、馬車で「シャンゼルセー」の広衢(辻)を通って「アレチツリヨン」」門前の館[仏国政府より在留中借用 元土耳其(トルキー)公使館 「ル、デ、プレシボルク」街に門を開く白石の三層楼]に入りました。

 同年11月17日「実記」は凱旋門について次のように記述しています『「アルチツリョム」トハ、凱旋門ト訳ス、○此門ノ造営ハ、拿破侖(ナポレオン)第一世ノ経営セル所ナリ、(中略)○往年ニ普魯西ノ軍兵巴黎ヲ囲ミシトキ、(中略)此門ニ向ヒテ砲発スルコトヲ禁シ、囲城ヲ畢(おわ)ルマテ、一点ノ瑕(きず)モ負ハサリシニ、其後「コンミュン」ノ乱(パリー・コンミューン 世界最初の労働者政権成立)トテ、国内ニ一揆起リテ、(中略)其時ニ民党ノ一揆トモ、此門ニ大砲ヲ上セテ、砲台トナシテ、(中略)政府ヨリ巳(やむ)ヲ得ス、砲ヲ打掛ケテ之ヲ攘(はら)ヒ退ケタリ、此時ニ北方ノ一面毀傷セルヲ以テ、当時ハ修覆中ナリケリ、』(第四十二巻 巴黎府ノ記一)。

 既に1871(明治4)年2月(太陽暦3月)パリー・コンミューン成立とほぼ同時期にパリーに赴いた西園寺公望は橋本実梁(さねやね)宛の書簡で「(前略)仏ハ昨年普に打負しより国内更ニ紛乱し、遂に解兵ノ時より事起り共和政事を名とし姦猾無恥之徒大ニ愚民を煽動し以干戈(かんか 武器)ヲ用にいたれり。」(明治4年4月26日付書簡 立命館大学編「西園寺公望伝」別巻一 岩波書店)と述べています。

近代日本人の肖像―人名50音順―さー西園寺公望

 また公園について「実記」は『○巴黎中ノ公苑を数フレハ、七十ヶ所に及フ、(中略)東鄙ニ「ビットショーモン」苑アリ、北鄙ニ「ボアーデ、ブロン」苑アリ、「ボアーデ、ブロン」ハ、巴黎第一ノ公苑ニテ、米国新約克(ニューヨーク)ノ「センタラールパーク」ニモ超越スヘキ名苑タリ、凱旋門ヨリ北ナル郭外ニアリ、(中略)日曜日ノ夕ニハ貴豪ノ家、ミナ車ヲ馳セテ来遊ス、馬ハ騏騮(きりゅう 駿馬)ヲ較ヘ、衣裳華麗ニシテ籹(粧)飾都雅(優美)ナリ、(中略)諺ニ曰ク、倫敦ノ食倒レ、巴黎ノ衣倒(きだお)レト、(中略)東鄙「ビットショーモンパーク」ハ後ニ詳記スヘシ』(第四十二巻 同上)と述べています。

同年11月22日英国辧務使より、日本で改暦の電信到着の報知があり、来月3日を新暦明治6年1月1日とする旨を衆に公布しました。

 同年11月26日館第(かんてい)で仏大統領「ルイ、アトルフ、チエル」(ルイ・アドルフ・ティエール)氏に謁見しました。

 「実記」は仏大統領「ルイ、アトルフ、チエル」の経歴を紹介した後、その印象を「短小ナル老翁ニテ、言容(言語と容貌)温温、和気掬(きく)スヘシ(穏やかな様子が外に現れる)、」と述べています。

 『チェール氏は当年七十五歳能くコンミュン暴徒を鎮めた武略もあれど、温和な矮小老爺で、容貌は尼の如く、我が副使木戸・大久保の身長偉大なるが目立った。米国渡般以来両副使は白人に交って遜色なかったが、独り岩倉公は短身で、頭蓋の大なる方であったので、、折々白人の骨相家などが来て、「体質を検して見たい」と申し込む事もあった位で、大統領チェール氏も我が大使と招宴の時、食卓に相対し、公の頭蓋の魁偉なるを眺めて居た。』(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第二一四項 大統領チェール氏に謁見)

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む14

1872(明治5)年12月2日(明治6年1月1日)大使は外務省に赴き賀正しました。

同年1月10日使節団は巴黎東方辺鄙の墓地を経て「ビットショーモン」の公園を訪問しました。この「ビットショーモン」苑について、「実記」は次のように記述しています。

すなわち『拿破侖(ナポレオン)第三世カ、仏国ノ大統領ニ推挙サレシヨリ、遂ニ帝位ニ登リ、「セダン」ノ戦ニ敗レテ普国ノ軍ニ降リシマテ、二十二ヶ年ノ間ハ、(中略)殊ニ傭工細民ノタメニ、勧奨救助ノ良法ヲ与ヘタル功績ハ、反テ拿破侖第一世ノ上ニ出ルト、世ニ賞誉セラル、(中略)今日覧観シタル、「ビットショーモン」苑ハ、其美挙中ノ一ナリ、(中略)此ハ巴黎製作場ノ集ル所ニテ、此苑ニ盤遊(楽しみ遊ぶ)スル住民ハ、平常其中ニ止息シ、労作ヲナス職工ナリ、(中略)一千八百四十八年、仏国ノ沸騰ハ、実ニ非常ノ際会ニテ、此時ニ当リ、職工上ニ就キテ、労動権利ノ説ナルモノ起レリ、其主旨ハ、(中略)政府ハ宜(よろし)ク人民ノ為メニ其労動ヲ遂クヘキ作業ヲ与ヘテ、各人ニ生活ヲ済セシムル方法ヲ謀ルヘキコトヲ主張セリ、(中略)』と記し、この説を批判して『其迂闊(うかつ うっかりする)モ亦甚タシ、(中略)如此キ論ヲ沸起シテ、社会ノ間ヲ撹乱(こうらん)シ、小民に懶惰(らんだ 怠ける)ヲ教ヘテ無望ノ福ヲ、希フニ至ラシムルハ、西洋文明ノ国モ免レサル所ニテ、其論ノ激昂スルニ当レハ、全国ノ騒乱ヲモ引起スニ至ル、仏国ノ内訌(内乱)ヲ起ス、多クハ此等ノ弊習ニヨル』(第四十四巻 巴黎府ノ記三)と記述しています。

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 帰路に「レテポットチャーモン」街の「ワリコレー」氏の製鉄所を見学しました。「実記」は、この製鉄所について『○此場ハ、仏国ニ於テ最大ナル製鉄場ノ一ニテ、近年埃及(エジプト)国ヨリ、四万八千磅ノ価ニテ、其国王ノ花苑ニ用ヒル、四百五十尺ノ屋根ヲ頼マレテ、成就セリトテ、其門上ノ飾リ、柱ノ彫刻等ミナ其副ヲ作リテ、留メタルヲ、示シヌ、頗ル手入ノ細工ナリ、』と述べ、英仏両国の工芸を比較して次のように記述しています『英国ノ工芸ハ、麁大(そだい 粗大)ノ物ヲ製シテ、、世ノ需用ニ供スルを目的トナス、(中略)仏国ノ工芸ハ、全ク之ニ反シ、華麗繊細ナル手技ニ於テ、独歩ナリ、而テ建築、造船、銃砲、紡織ミナ能(よく)セサルナシ、(中略)是両国ノ相対シテ、富庶ヲ競フ概形ナリ、』(第四十四巻 巴黎府ノ記三)。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む15

 1873(明治6)年2月17日午後2時半、仏国巴黎の「レデプレスボルク」館を出発、3時45分蒸気車で南駅発車、仏国境で白耳義ベルギー)国接伴掛が出迎え、夜11時半、白耳義の都府「ブロッセル」府に到着、政府の手配で王宮側の「ホテル、デ、ペルウェー」に宿泊することになりました。

 同年2月18日午後1時宮内省差し回しの馬車で御者はみな緋衣金装、護衛兵付きで宮内長官が出迎え、王宮で「レオポルド」第二世陛下に謁見しました。

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 「実記」はベルギー・オランダ両国について次のように述べています「今此ニ三国(米英仏)ノ巡回ヲ畢リテ、一二ノ小国ヲ経歴セントス、即チ白耳義(ベルキー)荷蘭佗(ホルランド)是ナリ、此両国ハ其地ノ広サト、其民ノ衆(おお)キトヲ語レハ、我筑紫一島ニ較スヘシ、其土ハ瘠薄(せきはく やせ地)ノ湿野ナリ、然レトモ、能ク大国ノ間ニ介シ、自主ノ権利ヲ全クシ、其営業ノ力ハ、反テ大国ノ上ニ超越シテ、自ラ欧洲ニ管係(関係)ヲ有スルノミナラス、世界貿易ニ於テモ影響ヲナスハ、其人民ノ勉励和協ニヨルニアラサルハナシ、其我ニ感触ヲ与フルコト、反テ三大国ヨリ切ナルモノアルヘシ、」(第四十九巻 白耳義国総説)。

 即ち岩倉使節団は日本の将来を模索して米欧を回覧しながら、その模範を米英仏三大国のみに求めたのではなく、ベルギー・オランダなどの小国のあり方にもなみなみならぬ注目を集めていることに気付くのです。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む16

 同年2月24日朝9時白耳義の都府「ブロッセル」府を出発、同月25日雪の降る中荷蘭佗国の京師海牙(ハーヘ ヘッグ)に到着、4時騎兵を護衛として宮内長官が迎え、王宮で維廉(ウリヤム)第三世陛下に謁見しました。

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 この国と清国・日本を比較して「実記」は「其人民ノ勉強倹勤ナル、世界富国ノ一ト推サレタリ、蘭人ノ心ヲ以テ、支那ノ野ニ住セハ、其幾百ノ荷蘭国ヲ東方ニ生スルヲ知ラサルナリ、顧フ我日本ノ如キモ、亦荷蘭ノ勉メタルニ比スヘキ歟、抑(そもそも)支那ノ惰(だ 怠る)ナルノ類ナル歟、」(第五十二巻 荷蘭佗国総説)と述べ、厳しい日本の現状への反省をこめた文章を見ることが出来ます。

 この国の地勢を「実記」は次のように述べています「蘭国ノ山ナシ、急流ナシ、堤防ノ設ケハ、溝渠汎溢(はんいつ)シ、水郷トナルヲ拒ムノミ、風車ノ転纔(わずか)ニ絶レハ、国中其害ヲ受クルモノアリ、日本ノ銚子口、越後河末、及ヒ両肥ノ海浜ト、其地勢ヲ同シクスルモノアリ、」

また白蘭両国を比較して「○白蘭ノ両国ハ、兄弟ノ国ト看做(みな)セトモ、其人種、風俗、絶テ同シカラス、白ハ武国ナリ、其境ニ入レハ、即チ意気凛森(りんしん 気をひきしめる)ノ状ヲミル、蘭ハ文国ナリ、其境ニ入レハ、意思縝密(しんみつ 綿密)ノ状ヲミル、(中略)蘭国ノ兵ハ、常備軍六万ニ及ハス、専ラ義兵ヲ主トシ、徴兵ハ二十歳ヨリ、五年間ノ役ニ服スル法ニテ、(中略)然レトモ全国ノ民丁、甚タ徴兵ヲ厭ヒ、兵ヲ逃ルヽモノ益(ますます)多キヲ加ヘ、(中略)民兵役ヲ逃ルヽ弊ハ、各国ミナアル通患ナレトモ、蘭国ノ甚タシキカ如クナラス、」[第五十三巻 海牙(ハーヘ)鹿特担(ロツトラタム)及ヒ来丁(レーデン)ノ記]と記述しているのです。

 同年2月28日朝9時「ドクトル、ポンペー」氏の案内で来丁(レイデン)府に赴きました。「実記」は彼を「○「ポンペー」氏ハ曾テ我長崎ニ来リテ医業ヲ人ニ授ケルコト八年、本朝医学ノ進ミニ於テ、頗ル力アル人ナリ、」とたたえています。

長崎大学薬学部―長崎薬学史の研究―第二章 近代薬学の導入期―1 ポンペ、ハラタマなどオランダ医師薬剤師の来日―第二次海軍伝習とポンペの来日―医学伝習のはじまり

 此府の大学附属博物館について「実記」は「諸物ノ討捜(とうそう たずねさがす)ニ富ミタルコト、欧陸地ニ於テ高名ナリ、」と紹介し、さらに『諸国ノ博物館ニ、日本ノ動物ハ稀ナリ、此館ニ猿類ノ無尾ニシテ赭顔(しゃがん 赤い顔)ナルヲミル、之ヲ問ヘハ、即チ「シーボルト」氏日本ヨリ送リ致セルモノナリ、』とシーボルトの日本におけるコレクションを見学したことを述べています。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む17

 1873(明治6)年3月7日海牙を出発同月9日朝7時伯林(ベルリン)駅に到着、宮内省の手配で「ウンテルデン、リンデン」街の「ホテル、デ、ローマ」に宿を定めました。

 同年3月11日午後1時宮内省用意の馬車で騎兵を護衛とし「コーニングスパレイス」に於いて維廉(ウリヤム)第一世皇帝に謁見しました。

 「実記」はベルリンについて『○伯林ハ普魯士(プロイス)ノ国都ニテ、今ハ以テ日耳曼(ゼルマン)聯邦(連邦)ノ首都トナセリ、○府内ノ地ヲ、五区ニ分ツ、第一を伯林ノ本部トス、此ニ寺院、学校、武庫、病院、孤院等アリ、第二ヲ「コローン、オンセ、スプレー」トス、帝宮、及ヒ帝家ノ菩提寺等此ニアリ、第三ヲ「フレデルヒ、ウエルデン」トス、皇帝ノ別宮、医学校、運上所、造幣局等、此ニアリ、第四を「ドローツェンス、ダット」トス、新府ノ謂(いい)ナリ、此ノ帝家ノ学校、天文台、解剖所等アリ、此ニ建タル城門ヲ「ブランデンブェルゲル」ト謂フ、府内ニテ最モ美観タリ、第五ヲ「フレデルヒス、ダット」トス、此ニ金銀器ノ細工所、及ヒ大裁判所等あり、「フランデンブェルケル」ノ城門ヨリ、一条ノ大衢ヲ通ス、之ヲ「ウンテルデンリンデン」街ト云、府中第一ノ広街ナリ、』(第五十七巻 伯林府総説)と記しています。

暦史研究所―ヨーロッパ史―第56回 プロイセンからドイツ帝国へ ドイツ帝国成立へ

 

 久米邦武「米欧回覧実記」を読む18

 ところが眼を転ずると、「実記」は普魯士国及び伯林について次のような叙述もしています。「○此他ノ風俗モ、英米トハ甚タ異ナル所モ多キ中ニ、婦人ヲ尊フ儀甚タ簡ナリ、伯林ニテハ婦人ト雖モ、亦米英ノ人カ、婦人ニ卑屈スルヲ笑ヒテ、奇俗トスルニ至ル、」(第五十五巻 普魯士国ノ総説)『○(前略)曾テ「ウンテルデン、リンデン」街ノ写真店ニユキシニ、店(ミセノモノ)夥酔テ秘戯ノ写真ヲ、公然ト売ントセシコトアリ、欧洲ノ各都ニテ春画ヲ公然ト人ニ販(ひさ)クニアヒシハ、只此府アルノミ、』(第五十七巻 伯林府総説)

 また『○集画館ハ、王宮(私宮)ノ前ニアリ、建築ノ宏大ナル、府中ニテ眉目トスル屋観ノ一ナリ、(中略)此ニ男女ノ人ニ、給料ヲ与ヘ、裸体ニテ立チ、或ハ臥シ、或ハ踞(きょ)セシメテ、其皮肉筋骨ノ真態ヲ模写ス、石雕師ハ泥ヲ以テ之ヲ模造ス、此日ハ一ノ美婦人アリ、裸体ニテ床ニ臥シ、画工ノ粉本(手本)トナレリ、穏臥シテ動カサルコト、一時半ニテ一休ヲナシ、毎日同様ニテ、一周日ニテヤメ、或ハ久シキハ、七周日ニモ至ルトナリ、人ノ肉体ヲ写スコトハ、画工ノ最モ心ヲ尽ス技倆ナリ、然レトモ其精ヲ求ムル弊ハ、此醜状ニ至ル、頗ル厭(いと)フヘキヲ覚ヘタリ、』(第五十八巻 伯林府ノ記 上)とも述べています。

 

山梨大学マンドリンクラブOB&OGのホームページーなんでも写真館―INDEX―「ドイツ・ベルリンの旅~その5 ベルリン市内4」【ウンター・デン・リンデン】 

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む19

 岩倉使節団は皇帝に謁見した3月11日には宰相ビスマルクとも会見していましたが、同月15日夜ビスマルク侯より招宴がありました。

 「実記」は「○本日ノ享会(饗宴)ニ於テ、侯親(みずか)ラ其幼時ヨリノ実歴ヲ話シテ言フ」と前置きして、ビスマルクの演説を大要次のように紹介しています。

 「方今世界ノ各国、ミナ親睦礼儀ヲ以テ相交ルトハイヘトモ、是全ク表面ノ名義ニテ、其陰私ニ於テハ、強弱相凌キ、大小相侮ルノ情形ナリ、我普国ノ貧弱ナリシハ、諸公モ知ル所ナルヘシ、(中略)大国ノ利ヲ争フヤ己(おのれ)ニ利アレハ、公法ヲ執ヘテ動カサス、若シ不利ナレハ、翻スニ兵威ヲ以テス、小国ハ(中略)以テ自主ノ権ヲ保セント勉ムルモ、其翻弄凌侮ノ政略ニアタレハ、殆ト自主スル能ハサルニ至ルコト、毎(つね)ニ之アリ、是ヲ以テ慷慨シ、(中略)一国対当ノ権ヲ以テ外交スヘキ国トナラント、(中略)数十年ヲ積テ、遂ニ近年ニ至リ、纔ニ其望ヲ達シタルモ、(中略)然ルニ各国ハミナ当国ノ兵ヲ四境ニ用ヒタル跡ヲ以テ漫(みだり)ニ憎悪シ、(中略)人ノ国権ヲ掠(かす)ムルモノト、非難スルト聞ク、(中略)諸公モ必ス内顧自懼ノ念ヲ放ツコトハナカルナラン、(中略)故ニ当時日本に於テ、親睦相交ルノ国多シトイヘトモ、国権自主を重ンスル日耳曼ノ如キハ、其親睦中ノ最モ親睦ナル国ナルヘシト謂ヘリ、」そうして「実記」はこのビスマルクの演説を「玩味スヘキ言ト謂(いい)ツヘシ、」(第五十八巻 伯林府ノ記 上)と同感の批評を記述しています。

 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む20

 同年3月28日8時に大久保利通副使は帰国の途につきました。岩倉使節団は夜11時半伯林を出発、露国に向かいました。

 車窓に展開する光景を見て「実記」は次のように述べています。『米欧列国ヲ歴訪シテ、深ク遐陬(かすう 辺地)ニ入リシハ、露西亜(ロシヤ)国ヲ以テ最トス、仏国巴黎ヲ発セシヨリ、漸ク東スルニ従ヒ、開化漸クニ浅ク、「ボルチック」海浜、及ヒ波蘭(ポーレン)ノ北ハ、漠野(果てしなく広い野原)茫茫(ぼうぼう 広く果てしない様子)トシテ、森林榛榛(しんしん 草木がさかんに茂っている様子)タリ、(中略)地図ヲ開キテ之ヲ検スレハ、(中略)文明ト呼ヒ、開化ト叫フモ、全地球上ヨリ謂(い)ヘハ、(中略)陸壌ノ広キ十ノ九ハ、猶荒廃ニ属セルナリ、露国ノ壌地ハ、莫大ナリト雖モ、多ク荒寒不毛ノ野ニテ、人棄テ我有(自分勝手に領有)セルニ過キス、』(第六十一巻 露西亜国総説)

 同年3月30日岩倉使節団は聖彼得堡(セントペートルボルク)駅に到着、露国政府接伴掛に出迎えられ、王宮の側の「ホテルフランセ」に宿をとりました。

 同年4月3日午後11時宮内長官出迎えで馬車に乗り、皇帝の宮に至り、皇帝亜歴山大(アレキサントル)第二世陛下に謁見しました。

ロシアのHP-―ロシア史―5ロマノフ朝~帝政ロシアへー(10)(11)アレクサンドル2世の時代