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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む11~20

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む11

坂本龍馬がお龍を知ったのは1864(元治1)年夏、池田屋事件の前ころと推定されます。お龍は青蓮院宮家侍医楢崎将作三姉妹の長女で、将作の死後禁門の変が起こり京都は焼亡、一家は離散、美貌の妹たちは悪人の手にかかり京都の島原や大坂の遊郭に売りとばされようとしたので、お龍は妹たちの救出にでかけました。このときの様子を龍馬は書簡で次のように述べています「其悪もの二人をあいて(相手)に死ぬるかくこにて、刃ものふところにしてけんくわ(喧嘩)致し(中略)わるものうてにほりもの(刺青)したるをだしかけベラホヲ口にておどしかけしに元より此方ハ死かくごなれバとびかゝりて其者むなくらつかみ、かを(顔)した(た)かになぐりつけ(中略)とふ々(とうとう)其いもと(妹)おうけとり京の方へつれかへりたり」(「坂本龍馬関係文書」一)。

つづいて龍馬はお龍を次のように紹介しています「此女乙大姉をしてしんのあね(姉)のよふにあいたがり候。乙大姉の名諸国にあらハれおり候。龍馬よりつよいというひょうはん(評判)なり。○なにとぞおび(帯)かきものかひとつ此者ニ御つかハし被下度此者内々ねがいいて候。(中略)今の(の)名ハ龍と申私しニに(似)ており候」(慶応元年9月9日付姉乙女、龍馬の乳母おやべ宛・「坂本龍馬関係文書」一)。

幕末英傑録―佐幕人幕末人の章―幕末女傑名鑑―お龍

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む12

1864(元治1)年7月24日幕府は西南21藩に長州出兵を命令(第1次長州征討)、同年11月16日征長総督徳川慶勝は広島に本営を設置し、長州藩の領地周防国の没収などの徹底的な処分を考えていましたが、征長軍の薩摩藩西郷隆盛はこのような強硬処分が長州藩の「暴徒蜂起」を引き起こすとして反対、同年12月27日征長軍は長州藩処分未決定のまま撤兵を開始しました(「維新史料綱要」巻5)。しかるに長州藩の正義派(討幕開国派)高杉晋作らは同年11月16日挙兵、1865(元治2・慶応1)年2月長州藩の主導権を掌握しました(「維新史料綱要」巻6)。

坂本龍馬は同年4月5日大坂から京都の薩摩藩邸に帰り(土方久元「回天実記」幕末維新史料叢書7 新人物往来社)、4月25日薩摩藩汽船胡蝶丸に乗り、神戸塾生を連れて京都から鹿児島へ帰る小松帯刀西郷隆盛らに同行、5月1日鹿児島到着、同月16日まで同地に滞在しました。

 同年5月16日龍馬は鹿児島を出発、肥後熊本の東南沼山津に横井小楠を訊ね、さらに太宰府三条実美に面会、渡海して同年閏5月1日下関に到着、同月5日白石正一郎宅で土方久元と会うことができました(「回天実記」)。土方久元は土佐勤王党の同志で、三条実美に従って長州に赴き、実美の命により中岡慎太郎とともに上京して京都情勢を探索していた人物です。

坂本竜馬人物伝―関連人物―関連人物一覧ー中岡慎太郎

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む13

 土方久元の話によると、土方と中岡は京都にいて薩長両藩の和解が必要であることを感じました。そこで中岡は西郷が上京のとき、下関に立ち寄ることを説得するために薩摩に向かい、土方は長州藩木戸孝允を説得するために下関に立ち寄ったとのことでした。この土方の話に同感した龍馬は直ちに木戸と連絡をとり同月6日木戸は下関に現れました(「回天実記」)。しかし8月18日の政変や禁門の変において薩摩藩と戦った長州藩には薩摩藩への敵愾心がつよく、木戸は薩長和解には容易に同意しませんでしたが、龍馬らは3日がかりで木戸を説得することに成功しました。

 一方鹿児島に向かった中岡は西郷隆盛薩長和解を説き、西郷は上京途中下関にたちよることに同意しました。1865(慶応1)年閏5月15日西郷は鹿児島を出発しましたが、途中佐賀で大久保一蔵から至急上京せよとの連絡をうけ大坂に直航、中岡だけが下関に現れ(中岡慎太郎「海西雑記」維新勤皇遺文選書 地人書館 慶応元年閏5月21日条)、薩長和解は不成功に終わったのです。

 しかしながら長州藩側から幕府の禁止により当藩は長崎で外国から必要な銃砲や艦船などを購入できないため、それを薩摩藩名義でやってもらえないだろうか、薩摩藩がこの提案を受け入れるかどうかで、同藩の意向を知ることができようとの要望が出され(末松謙澄「防長回天史」柏書房 第5編上第8章 長薩和解の端緒)、龍馬と中岡はこの提案に賛成して同年閏5月29日下関を出発、京都に向かいました。

 龍馬らは同年6月下旬入京すると西郷に面会して上記長州藩の提案を伝え、西郷が同意したので、龍馬は京都から太宰府へ帰る予定の三条実美随従の土佐出身者楠本文吉に途中下関に立ち寄って、上記提案に西郷同意の旨を長州藩側に伝えるよう依頼しました。

 この知らせをうけた長州藩はただちに伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を長崎に派遣することを決定、途中太宰府に立ち寄って薩摩藩士の紹介状を貰い、楠本文吉が同行、長崎で両人を薩摩藩に紹介したのが龍馬とともにかつて神戸塾で学んだ土佐出身者の多い亀山社中の連中でした。彼等は龍馬と鹿児島へ同行し、龍馬とわかれて薩摩藩小松帯刀とともに長崎へきていました。彼等は長崎の亀山に宿所を構えたので亀山社中とよばれたのです。

幕末歴史探訪―人物別分類―坂本龍馬―亀山社中

 亀山社中近藤長次郎(「龍馬がゆく」を読む7参照)は両人を小松帯刀の屋敷に潜伏させ、井上とともに鹿児島へ同行、慶応元年7月21日伊藤は社中の高松太郎の斡旋で英国商人グラバーからミネー・ゲーベルの最新小銃4300挺の購入に成功(「維新史料綱要」巻6)、薩摩船胡蝶丸・海門丸に積み、薩摩から引きあげてきた井上・上杉とともに同年8月下旬三田尻・馬関に入港(末松謙澄「防長回天史」第5編11章 長薩和解の進行并銃砲軍艦購売談判 柏書房)、長州藩が長崎で購入した汽船ユニオン号(櫻島丸)は当時下関に来ていた龍馬の仲介で長州藩海軍総管の統制下に所有は長州藩、旗号は薩摩藩、乗り組みは亀山社中という約束となりました。

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む14  

1865(慶応1)年9月21日将軍徳川家茂長州藩再征の勅許をうけ、同年11月7日彦根藩はじめ諸藩に長州藩征討への動員を命令しました(「維新史料綱要」巻6)。

 同年12月初旬在京中の薩摩藩小松帯刀西郷隆盛らの使者として黒田了介(清隆)が下関にやってきて長州藩桂小五郎木戸孝允)の上京を要請、同年12月26日桂は品川弥二郎らをつれて山口を出発、1866(慶応2)年正月8日入京すると薩摩藩邸に入り小松・西郷・大久保らと会談しましたが、両藩提携の問題は従来の複雑な経緯がからんでなかなか議題に上りませんでした。

 坂本龍馬は下関でユニオン号問題に決着をつけると正月10日下関を出発、同月17日大坂に到着、翌日同地に滞在中の大久保忠寛(一翁)から幕府側が龍馬らを手配探索していることを聞かされ、高杉晋作にもらったピストルを用意、同月19日夜京都に到着しました。薩長提携の話が少しも進展していないことを知ると、彼は薩摩藩の消極的な態度を批判、ただちに薩長両藩の攻守同盟についての具体的な検討に入るよう勧告、同年正月21日薩長同盟(連合)が成立するに至りました(「維新史料綱要」巻6)。

幕末千夜一夜―幕末物語―56.薩長同盟はチト大げさではないでしょうか?

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む15

 1866(慶応2)年正月22日龍馬は桂小五郎らが京都を出発するのを見送り、翌23日龍馬が定宿にしていた伏見の寺田屋にやってきました。寺田屋には龍馬とともに上京してきた長州藩支藩長府藩の三吉慎蔵が待っていましたが、その翌朝午前3時ころ龍馬らは伏見奉行配下のものに襲撃されました。

 このときの様子を龍馬はのちに桂小五郎宛書簡で簡潔に次ぎのような文章で報じています「(前略)去月廿三日夜伏見ニ一宿仕候処、不計(はからずも)幕府より人数さし立、龍を打取るとて夜八ツ時(午前2時)頃二十人計寝所ニ押込ミ、皆手ことに鎗とり持、口々に上意々々と申候ニ付(中略)彼高杉(晋作)より被送候ビストールを以テ打払、一人を打たをし候(中略)そのひまニ隣家の家をたゝき破りうしろの町ニ出候て薩(摩)の伏水(見)屋敷ニ引取申候 二月六夕 木圭先生 机下」(慶応2年2月6日付「坂本龍馬関係文書」一)。

 さらに兄坂本権平と一同宛の書簡でこのときの様子を大要次のように述べています「(前略)伏見の難は去る正月廿三日夜八ツ時半(午前3時)頃なりしが、(中略)もふねよふと致候所に、ふしぎなるかな[此時二階ニおり申候]人の足音のしのびしのびに二かいしたをあるくと思ひしにひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ折柄兼てお聞に入れし婦人[名は龍、今妻と致し居り候]勝手より走せ来り云様御用心なさるべしはからず敵のおそい来りしなり」(慶応2年10月頃「坂本龍馬関係文書」一)。

 またこの場面をお龍は後の回想で次のように語っています「あの時、私は風呂桶の中につかって居ました。これは大変だと思ったから、急いで風呂を飛び出したが、全く着物を引掛けて居る間も無かったのです。実際全裸で恥も外聞も考へては居られない。夢中で裏梯子から駆け登って、敵が来たと知らせました。」(安岡重雄「坂本龍馬の未亡人」二 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。

 同年3月4日龍馬はお龍を連れて大坂を出発、同月10日鹿児島に到着、その後お龍とともに日当山(ひなたやま)・塩浸(しおひたし)温泉で襲われたときの傷を治し、日向の霧島に遊び、このときの様子を龍馬は姉乙女宛の書簡で次のように述べています「此所に十日計(ばかり)も止りあそひ、谷川の流にてうおヽつり、短筒をもちて鳥をうちなとまことにおもしろかりし是より又山深く入りてきりしま(霧島)の温泉に行、此所より又山上ニのほり、あまのさかほ(天の逆鉾)を見んとて、妻と両人つれにてはるばるのほりし(後略)」(慶応2年12月4日付「坂本龍馬関係文書」一)。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む16

 1866(慶応2)年6月2日龍馬はユニオン号(櫻島丸→乙丑丸)に乗って鹿児島を出発、同月16日下関に到着しました。すでに同年6月7日幕府軍艦が大島郡の海岸を砲撃し、第2次長州征討が始まっており、長州藩高杉晋作は幕府老中小笠原長行が指揮する小倉藩領の幕府軍攻撃を計画、高杉晋作が指揮する丙寅・癸亥・丙辰3艦は田ノ浦、龍馬が指揮する乙丑と帆船庚申2艦は門司を攻撃し勝利しました。陸上でも幕府軍は連敗がつづくうちに同年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、9月2日幕府軍艦奉行勝海舟長州藩広沢真臣らと安芸国厳島で休戦協定を締結するのやむなきに至ったのです(「維新史料綱要」巻6)。

 このような第2次長州征討における長州藩の勝利と幕府の敗北は当時の政治情勢に大きな転換をもたらすことになりました。

  第2次長州征討が終了すると長州藩亀山社中に乙丑丸を提供する必要はなくなり、亀山社中は同年11月薩摩藩小松帯刀の援助で洋型帆船大極丸を購入しましたが、経済的にゆきづまり、龍馬は社中の解散も考えねばならぬ苦境に追い込まれました。

 一方土佐藩ではすでに土佐勤王党が弾圧され、前藩主山内豊信によって、かつての参政吉田東洋のグループに属していた後藤象二郎らが登用されていました。

 彼等はもはや安易な公武合体政策が破綻したことは明白であり、とりあえず諸藩の動向を探索するとともに、藩としての富国強兵策を強化するに越したことはないと考えたのでしょう(平尾道雄「前掲書」)。1866(慶応2)年2月後藤らによって完成した開成館はその後の土佐藩富国強兵政策の中心的機関となり、軍備の近代化と・殖産興業・藩営貿易を推進する目的を果たす役割を担ったのです。同年7月後藤は長崎に出張、上海にも渡航し同年8月から1年の間に軍艦・商船7隻、銃砲弾薬類を総計約43万両近く買いつけ、土佐商会(開成館貨殖局長崎出張所)の実務担当者岩崎弥太郎が金策に苦しむほどでした(池田敬正「坂本龍馬中公新書)。

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む17

1867(慶応3)年2月下旬後藤象二郎は、龍馬とも面識があり当時砲術修行のため長崎に来ていた土佐藩士溝淵広之丞の仲介で清風亭の酒席に坂本龍馬を招待しました。

 そこには龍馬が隠れてなじみにしていた芸妓お元が呼ばれていました。このときの両人の会談内容は不明ですが、将来を心配する亀山社中のものに、龍馬は後藤が自分の過去の武市瑞山処刑などの出来事に一切触れようとせず、これからの問題だけを話題にしたことに感心したと述べたそうです(坂崎紫瀾 瑞山会編纂「維新土佐勤王史」日本図書センター)。

 後藤象二郎とともに土佐藩内の指導的位置にあった福岡藤次(孝弟 たかちか)はすでに1866(慶応2)年10月上京して薩摩藩西郷隆盛と接触し、翌年2月15日西郷は高知を訪問、彼と会談した山内豊信は山内家は薩摩藩と違って、徳川家には格別の関係もあるが、地球全体から見れば小さなことだと述べたとのことです。福岡の尽力により1867(慶応3)年2月には龍馬とのちに陸援隊を組織する中岡慎太郎の脱藩赦免が決定されました。同年4月福岡藤次は藩命により長崎に赴き、才谷楳(梅)太郎(坂本龍馬の変名)は脱藩の罪を許されるとともに海援隊長に任命されました(「海援隊日史」坂本龍馬関係文書其一)。後藤象二郎亀山社中が先に購入した大極丸残金其の他を海援隊発足とともに土佐商会から支払いました(千頭清臣「坂本龍馬伝」日本伝記叢書 新人物往来社)。

 同年4月19日いろは丸(伊予大洲藩所有)が長崎で購入した武器弾薬類を一航海15日間500両の契約で海援隊が請け負い大坂へ運ぶため出帆しましたが、同月23日夜讃岐沖で明光丸(紀州藩所有)に衝突され沈没する事件が発生しました。龍馬は大藩紀州藩を相手に、最後は後藤象二郎を表にたてて交渉、紀州藩は非を認めて賠償金を支払いました(「いろは丸航海日記」「坂本龍馬関係文書」二)。

坂本龍馬と海援隊へようこそ!!―海援隊の関連事件・事項録―6 海援隊約規―7 いろは丸衝突・沈没事件

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む18

 1867(慶応3)年6月9日坂本龍馬後藤象二郎とともに藩船夕顔で、大政奉還建白案を京坂にとどまる山内豊信に勧めるため長崎を出発しました。瀬戸内海航行中船上で後藤と相談して、長岡謙吉に書き取らせのが有名な「船中八策」(「日本近代思想大系」9 岩波書店)と呼ばれるものです。

 この「船中八策」は近代的な共和政(国家主権が国民にあり、国政が合議制で行われる政治)の主張に近い政治構想の可能性があるとする説もあります(池田敬正「坂本龍馬中公新書)。

坂本龍馬と海援隊へようこそ!!―海援隊の関連事件・事項録―9 船中八策

 後藤上京の翌日京都の土佐藩士らはこれを藩の方針とすることを決定しました。この船中八策土佐藩が危惧する前年正月に成立した薩長同盟のような武力討幕方針を回避できるかもしれなかったからです。また土佐藩は幕府との武力対決を恐れ、それが民衆蜂起の原因に連なる不安があったからです。同年6月22日後藤は土佐藩武力討幕派の乾(板垣)退助を抑えて、幕政返上路線で薩土盟約(宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)を結びました。

幕末維新新選組―ENTER-屯所入口―佐幕人・幕末人名鑑―土佐藩士 乾退助

 このころ龍馬は姉乙女宛に次のような書簡を送っています「○先頃より段々の御手がみ被下候。(中略)私を以て利をむさぼり、天下国家の事おわすれ候との御見付のよふ存ぜられ候。○又、御国の姦物役人(後藤象二郎)ニだまされ候よふ御申こし、右二ヶ条ハありがたき御心付ニ候得ども、(中略)御国(土佐)よりハ一銭一文のたすけおうけず、諸生の五十人もやしない候得バ、一人ニ付、一年どふしても六十両位ハいり申候ものゆへ、利を求メ申候。(中略)かれこれこの所かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより廿四万石(土佐藩)を引て、天下国家の(の)御為致すが甚よろしく、おそれながら、これらの所ニハ乙様の御心には少し心がおよぶまいかと存じ候」(慶応3年6月24日付・宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む19

 1867(慶応3)年9月18日龍馬はオランダから購入したライフル銃1000挺を長崎出帆の震天丸(芸州藩船)で高知へ回送しました(中城直正手控「随聞隋録」宮地佐一郎「龍馬百話」引用)。そのころ土佐藩では乾退助が藩兵の組織を銃隊中心とする軍制改革を行っていたところで、龍馬がもたらしたライフル銃はすべて藩が引き取りました。このように龍馬は武力による圧力が大政奉還徳川氏の政権返上)実現を促進するものと理解していたもののようです。同年9月29日竜馬は脱藩以来久しぶりで帰省した実家(「尾崎三良談話」史談会速記録 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)にもゆっくりすることなく、同年10月1日京都へ向かいました。

 同年10月3日後藤象二郎は前土佐藩主山内豊信名義の大政奉還建白書を一通、他の一通は土佐藩家臣神山左多衛・福岡藤次・後藤象二郎・寺村左膳の連名によるもので、主として船中八策を骨子とするものを幕府老中板倉勝清に提出しました(渋沢栄一徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。つづいて10月13日将軍徳川慶喜は在京10万石以上の諸藩重臣を二条城に招集、大政奉還について諮問しました(「維新史料綱要」巻7)。

 この日龍馬は後藤に次のような書簡を書き、「建白之議万一行はれされば固より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹(将軍)参内の道路に待受社稷のため不(倶)戴天の讐を報じ、事の成否ニ論なく先生(後藤象二郎)ニ地下ニ御面会仕り候」(慶応3年10月13日付「坂本龍馬関係文書」一)と二条城に赴く後藤に死を覚悟するよう要請し、もし下城しないときは国家のため将軍を殺害し、自分も死ぬであろうと訴えています。

 翌日将軍慶喜大政奉還の上表を朝廷に提出しましたが、同日前権大納言正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)は長州藩父子に討幕の密勅を出しました(「維新史料綱要」巻7)。

明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画集―5 大政奉還―[解説5]

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む20(最終回)

 1867(慶応3)年10月16日龍馬は戸田雅楽(尾崎三良 三条実美の家臣)らと相談して船中八策を実現する新政権運営のための新官制擬定書ならびにそれを担う人材を候補として挙げました(坂崎紫瀾編述「坂本龍馬海援隊始末」三 宮地佐一郎「坂本龍馬全集 光風社書店)。それは「関白」として三条実美、「議奏」として松平春岳ら雄藩諸侯と岩倉具視ら公卿、「参議」として小松帯刀木戸孝允後藤象二郎由利公正横井小楠らが候補とされていたのです。龍馬と同席していた戸田雅楽は「関白」の次に「内大臣」として徳川慶喜が候補として挙げられていたといささかの差異があったことを指摘しています(「尾崎三良自叙略伝」上巻第1篇 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。この官制案を西郷に見せたとき、西郷が龍馬を候補として挙げた職がない理由を問うと「僕は役人を厭ふ」と答え、西郷がさらに「然らば官職を外にして何をか為す」と質問すると竜馬は「左様さ、世界の海援隊でもやらんかな」と答えたそうです[千頭清臣「坂本龍馬伝」(遺事雑記)]。

しかし坂本龍馬が参議の候補として入っていたとする史料(「尾崎三良手扣」「坂本龍馬関係文書」一)もあり、上記の話が事実かどうかは今後の研究を待ちたいと思います。

 同年10月24日龍馬は京都を出発、福井で松平慶永に会見、越前藩士由利公正に新政府の財政を担当するよう求めました(三岡丈夫著述「由利実話」由利公正伝 第二篇 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。

 越前から帰って龍馬は同年11月船中八策を簡単にまとめた「新政府綱領八策」(宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)を書き、最後に「諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主トナリ、コレ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々。…」とあり、天皇を頂き、おそらく徳川慶喜か山内豊信をはじめとする雄藩・諸侯が協力を誓約する新政権構想を示したものと言えるでしょう。一方薩長両藩の武力挙兵の動きは着々と進行していました。

 同年11月15日夕刻中岡慎太郎銀閣寺近くの陸援隊屯所から龍馬の下宿近江屋(土佐藩醤油等御用達)を訪問、龍馬は彼を母屋の二階に案内しました。夜になって本屋の倅峯吉に軍鶏を買いにやらせた後、十津川の郷士と称する3人の刺客が近江屋に現れ、龍馬に面会を求めました。相撲取りあがりの下男藤吉がその名刺をもって二階に上がってきたところを刺客は背後から下男を斬り付けました。中岡・坂本は二階に飛び込んできた刺客に応戦する暇もなく、龍馬は頭を斬られて転倒、中岡も斬られて重傷を負いました。竜馬は刺客が帰った後店の主人を呼び、医師を呼ぶよう命じ、主人が二階にあがると龍馬はすでに絶命していました。中岡は翌々17日に死去しました(「坂本龍馬関係文書」一・二)。

この小説は竜馬が刺客に襲われて死去したところで終了しており、次のような文章で結ばれています「しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」。

なお龍馬・中岡を暗殺した犯人は長い間新撰組だという説が有力でしたが、1870(明治3)年箱館五稜郭落城によって降服した元京都見廻組今井信郎の「刑部省口書」(「坂本龍馬関係文書」一)により、今井信郎ら見廻組の犯行であることが明らかとなり、現在ではこれが定説となっているようです(池田敬正「前掲書」)。

京阪奈ぶらり歴史散歩―歴史のチシキー龍馬暗殺犯を推理する