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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む1~10

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む1

 司馬遼太郎「龍馬がゆく」(司馬遼太郎全集第3巻 文芸春秋)は1962(昭和37)年6月21日から1966(昭和41)年5月19日にかけて「産経新聞」の夕刊に連載された長編小説です。

 近世の土佐藩関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が中世以来の長宗我部氏の領国土佐国山内一豊に与えた時からはじまります。しかし土佐には多くの一領具足とよばれる旧長宗我部氏の遺臣が土着しており、山内氏は彼等に郷士という身分を与えたのでした。この人々が慶長郷士ですが、のちには町人や豪農が郷士株を譲渡されることもしばしばありました(平尾道雄「土佐藩吉川弘文館)。

 坂本家は明智光秀一門の出身であるといわれ(寺石正路「南国遺事」高知聚景園武内書店 宮路佐一郎「龍馬百話」文春文庫引用)、近江坂本城落城後、土佐に逃亡、同国長岡郡才谷村に定住しましたが、4代目のとき高知城下に出てきて町人才谷屋として繁栄するようになりました。6代目八郎兵衛直益は郷士株を譲渡されてこれを長男に継がせ、次男に酒造業才谷屋を継承させました。才谷屋は9代目八太郎直与の時代の1849(嘉永2)年に酒造業をやめて質屋と武士の俸禄を抵当に貸金をする仕送屋を営業していました。

 土佐藩身分制度は士格と足軽などの軽格に分けられていましたが、郷士とは軽格中の最上位の身分でした。

坂本龍馬は1835(天保6)年11月15日土佐藩家老福岡宮内お預かり郷士坂本八平直足の次男として、高知城下本町で出生しましたが、異説もあります(「坂本龍馬年譜」宮地佐一郎編「坂本龍馬全集」光風社書店)。3丁目には坂本家の本家であった豪商才谷屋がありました(「才谷屋記録」日本都市生活史料集成3 城下町篇Ⅰ 学習研究社)。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む2

 龍馬の幼少期については「初め龍馬は怯懦にして暗愚なるが如く、居常寡黙、十歳を過ぎても夜溺(よばれ 寝小便)の癖止まず、隣人称して洟垂(はなたれ 痴児)といふ。十二歳の時、始めて市外小高坂楠山某の学舎にはいりしも、業進まず通学の途上屡々学友に揶揄せられ泣きて家に帰る」(千頭清臣「坂本龍馬伝」新人物往来社)と記述されています。

 この心身虚弱な龍馬を愛し、根気よく鍛え上げたのは三歳年上の姉乙女(とめ)でした。彼女は成長した龍馬の体格に匹敵するほどの女丈夫で料理・裁縫は苦手でしたが、剣術・馬術・弓術・水泳に秀でており、経書を学び和歌・絵画も巧みで、琴・三味線・一弦琴・舞踊などの芸事にも通じていました(土居晴夫「坂本龍馬系譜新人物往来社)。

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 龍馬は14歳ころから小栗流の剣客日根野弁治道場に通い、剣術の修行を通じて、次第に逞しく成長しはじめるのです。1853(嘉永6)年3月龍馬は剣術修行の目的で江戸へ旅立ちました。このとき父八平から「修行中心得大意」(京都国立博物館所蔵・「坂本龍馬関係文書」一 日本史籍協会叢書 東大出版会)という訓戒を与えられています。 

この小説は龍馬が剣術修行のため江戸へ旅立つ前日、龍馬の姉乙女が針仕事にいそしむ場面から始まります。

 龍馬が江戸で入門したのは幕末三剣客の一人北辰一刀流千葉周作の実弟千葉定吉の剣術道場でした。この年ペリーが浦賀に来航、龍馬も江戸品川海岸の警備を命ぜられて参加、

「異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と奉存候。其節は異国(人)の首を打取り、帰国可仕候。」(嘉永6年9月23日付父宛書簡「坂本龍馬関係文書」一)と述べています。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む3

 1854(安政1)年6月高知に帰ってきた龍馬は土佐安政地震安政元年11月5日)の直後、龍馬の近所に避難してきた狩野派画家河田小龍を訪問したといわれています。

 1852(嘉永5)年米国より帰国した土佐国幡多郡中浜村の漂流民漁師万次郎(ジョン万次郎)から河田小龍は藩命により海外事情を詳細に調査し「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」(川田維鶴撰 高知市民図書館)という著書をまとめ、山内容堂に献上しました。 また彼は1854(安政1)年8月土佐藩から薩摩藩に派遣された反射炉視察団の一人でもあったのです。龍馬は小龍に江戸での見聞を語るとともに、最新の海外知識を授けられたことでしょう。小龍は龍馬に洋式の汽船を購入して人と貨物の交流をさかんにすることが急務であることを説きました(「藤陰略話」宮地佐一郎「前掲書」)。そしてこのことが龍馬に強い印象を与え、後の亀山社中海援隊の構想を発展させる土台となったようです。

 1856(安政3)年8月龍馬は再び剣術修行のため江戸にきていましたが、同じころ武市半平太(瑞山)が江戸の鏡新明智流桃井春蔵道場に来ていました。

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 土佐尊攘運動の中心人物武市瑞山土佐国長岡郡仁井田郷吹井(ふけ)村の白札郷士の家に生れ、剣に秀でてのちに高知城下に道場を開くほどの腕前でした。彼はおそらく江戸で龍馬や他藩の武士との交流を深めたことでしょう(嶋岡晨「土佐勤王党始末」新人物往来社)。瑞山は翌年9月祖母の病気のため帰国しましたが、龍馬は1858(安政5)年正月吉祥日に千葉定吉より「北辰一刀流長刀(なぎなた)兵法 一巻」(高知桂浜龍馬会所蔵)を授けられました。この末尾に千葉定吉政道とその子女の名すなわち「千葉重太郎一胤・千葉佐那(さな)女・千葉里幾(りき)女・千葉幾久(いく)女」が連記されています。同年9月龍馬は江戸遊学を終了して高知に帰国しました。

 龍馬が前後3年余江戸に居て薙刀の目録しか貰わなかったとは考えにくく、土居晴夫氏は佐那女との将来の結婚を約束した引出物として授けられたものではなかろうかと推定しています(土居晴夫「坂本龍馬とその一族」新人物往来社)。

 龍馬は姉乙女への書簡(文久3年8月14日と推定)で「此人ハおさな(佐那)というなり。かほかたち平井(加尾 龍馬の高知時代の初恋の女といわれる)より少しよし。心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず夫(それ)ニいたりてしづかなる人なり。」と述べており、千葉佐那との恋を伝える唯一の史料です(宮地佐一郎「龍馬の手紙」講談社学術文庫)。

幕末英傑録―佐幕人幕末人の章―幕末女傑名鑑―千葉佐那子

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む4

 1848(嘉永1)年土佐藩主となった山内豊信(とよしげ 容堂)は1853(嘉永6)年吉田元吉(東洋)を参政に起用し、洋式軍備強化をめざす藩政改革に着手しました(平尾道雄「土佐藩吉川弘文館)。

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 土佐藩主山内豊信は老中阿部正弘指導下の幕政に発言権を強めて参勤交代その他の負担免除を要望、阿部正弘歿後の将軍継嗣問題では一橋派に属していました。

1858(安政5)年井伊直弼大老に就任、同年10月幕府は土佐藩主山内豊信を隠居させ、翌年9月前藩主豊信は謹慎を命ぜられました。参政吉田東洋土佐藩を幕府の方針に従う方向に転じました。

しかるに1860(万延1)年3月桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺され、幕府独裁体制が崩壊すると、同年7月武市瑞山は再び江戸に赴き、長州藩久坂玄瑞・・桂小五郎高杉晋作らと接触、1861(文久1)年8月江戸で土佐勤王党を結成しました(「土佐勤王党盟約書」武市瑞山関係文書一 日本史籍協会叢書 東大出版会)。

龍馬の遺伝子―坂本龍馬講座―坂本龍馬、武市瑞山の「土佐勤王党」に第九番目の加盟

 瑞山は翌月高知に帰り坂本龍馬中岡慎太郎吉村寅太郎らが加盟する200余名の大組織に発展させました。彼等は郷士及び庄屋などの豪農層が大部分で長宗我部遺臣の子孫が多く、山内家に忠実な士格に属するものはほとんど居ませんでした。ここに土佐勤王党の性格がよく現れています。

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む5

1862(文久2)年正月瑞山は龍馬を長州の久坂玄瑞の許に派遣、龍馬はこのとき同時に久坂を訪ねてきた薩摩藩の樺山三円から島津久光上京の情報を入手、龍馬は久坂から瑞山宛の「草莽の志士糾合義挙の外には迚(とて)も策無之事と私共同志中申合居候(中略)坂本(龍馬)君ニ御申談仕り候事ども篤く御熟考可被下候」と記された書簡(文久2年正月21日付「坂本龍馬関係文書」一)を託され、大坂・京都を経由して同年3月1日高知に帰着しました。

しかし武市瑞山はこのような藩を越えた尊攘運動に一線を画し、あくまで土佐一藩の藩論を尊攘運動にまとめようと画策していました。

一方龍馬は武市瑞山に同調せず、同年3月24日夜脱藩しました。龍馬と同じ勤王党の同志であった郷士平井収二郎は翌日当時京都の公卿三条公睦(三条実美の兄)未亡人信受院(山内豊信の妹)の侍女であった妹かほ(加尾)に「坂本龍馬昨廿四日の夜亡命定めて其地へ参り申すべく龍馬国を出づる前々より其許の事に付相談に逢ひ候事御座候たとへ龍馬よりいかなる事を相談いたし候とも決して承知不可致(中略)元より龍馬は人物なれとも書物を読ぬゆへ時としては間違ひし事も御座候得はよくよく御心得あるべく候」と記した書簡(文久2年3月25日付「坂本龍馬関係文書」一)を送っており、竜馬が高知在住のとき平井加尾に浅からぬ思いを寄せていた様子が推察されます。しかし龍馬は京都には現れず、下関から九州を経て同年6月11日大坂に姿を現し、やがて江戸に向かいました。

Golden Cadillac―竜馬伝・坂本竜馬関係―登城人物・関係人物―平井加尾(広末涼子) 

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む6

他方武市瑞山は上述のような意図の実現をはかり、1862(文久2)年4月8日土佐藩参政吉田東洋土佐勤王党那須信吾らによって暗殺されました(「維新史料綱要」巻4東大出版会)。武市瑞山は京都で画策、同年6月11日孝明天皇の内旨をうけた尊攘派公卿三条実美土佐藩京都留守居役に土佐藩主はただちに上京、薩長両藩とともに京都警衛にあたるべきことを伝達しました。かくして土佐藩主山内豊範は1862(文久2)年7月25日兵を率いて上京、幕府に攘夷を命ずる勅使三条実美に従って江戸に下ることになりましたが、武市瑞山は公家に変装して東下しました(瑞山会「維新土佐勤王史」日本図書センター)。

武市瑞山に先んじて江戸に入った龍馬は、おそらく横井小楠を通じて、当時幕府政事総裁職であった越前藩主松平慶永(春嶽)に面会、さらに慶永の紹介で幕府軍艦奉行並であった勝海舟を訪問しました。このとき千葉重太郎(「龍馬がゆく」を読む3参照)が同行しています(「続氷川清話」幕末維新史料叢書二 人物往来社)。勝海舟幕臣でありながら、幕府のためではなく国家のための開国を主張していた人物でした。

近代日本人の肖像―人物名50音順―おー大久保一翁―かー勝安芳―まー松平慶永―よー横井小楠

 この時のことを海舟は後年「坂本龍馬。彼れはおれを殺しにきた奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(おちつ)いて、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。」(「氷川清話」講談社学術文庫)と語っています。

攘夷論者であった龍馬は勝海舟の見識に圧倒されて開国論者となり、彼の門弟となったといわれていますが、すでに攘夷論に疑問を感じていた龍馬が海舟の開明的立論に目を開かれたというのが真相ではないでしょうか。

1862(文久2)年12月17日龍馬は海軍奉行並勝海舟の家来で幕艦順動丸に乗って西に向かい。やがて翌年はじめには京都に現われ、彼の仲間であった人々を次々と海舟の影響下に引き入れ、海軍の隆盛や航海術習得の同志を集め、さらに「人斬り以蔵」と呼ばれた武市瑞山配下の刺客岡田以蔵をも海舟の警護役にしています。

翌年正月25日龍馬は海舟の紹介で幕臣大久保忠寛(一翁)を訪問しました。この直後一翁から横井小楠に宛てた書簡(文久3年正月日付「坂本龍馬関係文書」一)で、龍馬のことを「大道可解人」と評し、「素意之趣」を話すと、龍馬と沢村惣之丞は「手ヲ打計(ばかり)ニ解得候」と記し、おおいに意気投合した様子が伺えます。松平慶永政事総裁職在職中一翁は「幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加り、駿(河)、遠(州)、三(河)の旧地を領し、居城を駿府に占メ候儀、当時の上策なり」(「逸事史補」松平春嶽全集第1巻 原書房)と述べており、一翁はおそらく龍馬に対しても上述のような大政奉還論を語ったと思われます。

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む7

また龍馬は勝海舟松平慶永の尽力で、1863(文久3)年2月25日京都土佐藩邸で謹慎7日の処分により脱藩の罪を許され、同年3月6日藩から航海術の修行を命ぜられました。同年3月20日付姉乙女宛初書簡で龍馬は次のように述べています「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿といふ人のでし(弟子)になり、日々兼而(かねて)思付所をせい(精)といたしおり申候(中略)あにさん(坂本権平)にもそふだん(相談)いたし候所このころハおゝきに御きげんよろしくなりそのおゆるしがいで申候国のため天下のためちから(力)おつくしおり申候。どふぞおんよろこひねかいあけ、かしこ。」(「坂本龍馬関係文書一」)。

同年4月23日将軍徳川家茂が大阪湾の海防状況を視察した時、側近にあった勝海舟が神戸村で操練局建設の必要を訴えたところただちに許可され(「海舟秘録」氷川清話)、翌日幕府は兵庫付近の神戸に海軍所と造艦所建設を決定、海舟は海軍所で海軍の教授を自由にすべきこと、及びその費用として毎年三千両を支給することなどを決定しました。龍馬は同年5月16日海舟の命により、松平慶永に海軍所の費用を援助してもらうため越前に赴いています。

龍馬は同年5月17日付の姉乙女宛の書簡で「(前略)近き内には大坂より十里あまりの地にて、兵庫という処にておゝきに海軍ををしえ候処をこしらへ、又四十間五十間もある船をこしらへ、弟子(塾生)共にも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初(はじめ)栄太郎(甥の高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし時々船乗のけいこもいたし(中略)すこしヱヘン顔(得意顔)をしてひそかにおり申候。(中略)猶(なお)ヱヘンヱヘン、かしこ」(「坂本龍馬関係文書」一)と四、五十間(70m~90m)もある船を建造したとか、塾生が四、五百人もいるなどと云っているのは彼の願望のようにおもわれますが、このような内容を得意顔で姉乙女にあかるく語っている龍馬の姿が目に浮かぶようです。龍馬は実際に神戸海軍操練所と神戸塾の塾頭となり、その「稽古学問」とは航海術・運用術・砲術・造船学・測量学・船具学・算術・機関学から天文・暦数・英語などの広範囲に及び、塾生には河田小龍門下の饅頭屋近藤長次郎(上杉宗次郎)・焼継屋馬之助[新宮駟(しめ)]・医者の長岡謙吉、それから甥の高松太郎(坂本直)・脱藩の同志沢村惣之丞(関雄之助)・紀州藩脱藩伊達小次郎(陸奥宗光)その他伊東祐亨(薩摩藩士)などもいました。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む8

1863(文久3)年4月20日将軍家茂は攘夷期限を5月10日とする旨天皇に奏上、長州藩は5月10日下関通過の米船を砲撃、23日には仏軍艦、26日には蘭軍艦を砲撃しました。これに対して同年6月1日米軍艦ワイオミングが報復攻撃、5日には仏軍艦2隻が下関砲台を攻撃し、上陸してこれを占領しました(「維新史料綱要」巻4)。

 同年6月29日付龍馬の姉乙女宛の書簡では「(前略)然ニ誠になけくへき事ハながと(長門)の国に軍(いくさ)初(始)り、後月より六度の戦に日本甚利すくなくあきれはてたる事ハ其長州てたゝかいたる(外国)船を江戸でしふく(修復)いたし又長州でたヽかい申候是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候(中略)龍馬二、三家の大名とやくそくをかたくし(中略)朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて(中略)日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすへくとの神願ニて候」(「坂本龍馬関係文書」一)と述べています。この書簡からも判るように、龍馬は勝海舟大久保一翁に接近したからといって佐幕派に転向したのではないことに注意する必要がありましょう。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む9

江戸で公武合体・雄藩連合を策していた前土佐藩主山内豊信(容堂)は1862(文久2)年4月8日の土佐藩参政吉田東洋暗殺以後、土佐勤皇党の破約攘夷方針に押されているかのような土佐藩の動向につよい不満をもっていました。

1863(文久3)年4月豊信が高知に帰ってくると、同年5月24日郷士以下の軽格の藩士すべてが集合させられ、藩奉行職は「一旦朋党の盟約相結び候輩といへども先非を改め、正道に相帰候得は、既往之小過は深く糾明仰付られず」と事実上の土佐勤王党解散命令を布告しました(「高知県史」近世篇 高知県)。

同年8月18日の政変が起こり、京都の政治情勢は一変、会津藩薩摩藩公武合体派は三条実美尊攘派公卿を退け、尊攘派長州藩は禁門警衛の任務を解任されました。この政治情勢変化に呼応して、同年9月21日土佐藩武市瑞山ら土佐勤皇党の主な指導者を投獄、翌日藩はこの勤王党弾圧が京都朝廷からのご沙汰であると藩内に布告しています(瑞山会「維新土佐勤王史」)。

武市瑞山獄中自画像(提供:フリー百科辞典ウイキペディア(Wikipedia)

 このころ勝海舟とともに江戸にあった坂本龍馬に対して江戸の土佐藩邸から龍馬召喚要求をうけた勝海舟は同年12月6日の書簡(54「土佐藩御目付衆宛」文久3年12月6日付「勝海舟全集」別巻1 勁草書房)で、龍馬は勉励修行中であるからと丁重に修行年限延長を要請しました。しかし土佐藩側も海舟の希望を拒絶、龍馬も藩の召喚命令に応じなかったため、龍馬は再び脱藩者となりました。

  1865(慶応1)年閏5月11日武市瑞山土佐藩尊攘派は処刑されました(「維新史料綱要」巻6)

 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む10

 京都を追われた長州藩は1864(元治1)6月5日新撰組尊攘派志士を襲った池田屋事件をきっかけに再びその勢力回復を企て出兵しましたが、1864(元治1)年7月18日薩摩・会津両藩がこれを退けた禁門の変が起こり、同年7月23日には長州藩追討の朝命が出されました。池田屋事件では龍馬と同郷の神戸塾生望月亀弥太新撰組に殺害されています(「維新史料綱要」巻5)。

神戸塾生高松太郎が海舟の命で観光丸乗員用として大量の防寒毛布を外国商人から買い込むと、これは「禁門の変」で敗北した長州浪人をかくまうためであろうという噂が広がりました。さらに神戸塾はそれら過激分子の巣窟となっていると嫌疑をうけ、同年9月19日幕府は全塾生の出処姓名の提出を命令するに至ったのです(土居晴夫「坂本龍馬系譜」)。

同年10月21日勝海舟は役職罷免、江戸に召喚されたので、神戸海軍操練所碑石を庄屋生島四郎太夫に命じてこれを地中に埋めさせ、塾生坂本龍馬はじめ高松太郎陸奥陽之助(宗光)らは、おそらく海舟のはからいにより、薩摩藩家老小松帯刀西郷隆盛らの庇護をうけ頭髪・服装も薩摩風にして大坂薩摩屋敷に潜伏しました。

神戸旅行・観光めぐりー神戸の史跡―海軍営之碑

 このころ小松帯刀(清廉)は大久保一蔵(利通)に次のような書簡を送っています「神戸、勝方え罷居候土州人(中略)坂元(本)龍馬と申す人(中略)当分土佐国政向甚厳敷不法の取扱有之、罷帰候へば則ち命を絶ち候由、(中略)潜居の相談承り、余計の事ながら右辺浪人体之者を以て、航海之手先に召使候得ば可宜と、西郷抔滞京中談判もいたし置候間、大坂行(御)屋敷へ内々相潜め置き候」(元治元年十月「坂本龍馬関係文書」一)。

 薩摩藩は前年の薩英戦争で多大の損害を受け、海軍再建をはかっていたときで、龍馬ら神戸塾生を「航海之手先」に使おうとしていたのです。