司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む11~20

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む11

 高杉晋作は1839(天保10)年8月20日長門国萩で出生しました。晋作は通称で、本名は春風、字は暢夫(のぶお)といいます。高杉家は毛利家に仕える家柄で晋作の父は高杉小忠太春樹といい、長州藩12代藩主斉広・13代藩主敬親に仕えた中級武士(禄高200石 ただし藩財政窮乏による知行召し上げにより実質40石程度)で藩主敬親・世子定広(支藩徳山毛利家から養子となる)の側近を勤めました。母は道といい同藩大西家より嫁ぎ、長男晋作を生みました(「高杉小忠太履歴材料」・「安政二年分限帳」梅渓昇「高杉晋作吉川弘文館引用)。

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 1854(安政1)年ころ藩校明倫館入舎(通学)生となりましたが、そのころの明倫館の学風はかつての学頭山縣太華に代表されるような経書[けいしょ 四書(論語孟子・大学・中庸)五経(易経書経詩経礼記・春秋)などの総称]の訓詁(古文の字句の解釈)のみで、時局の論議を避ける空気が支配的でした。

 晋作はこうした明倫館の風潮にあきたらず、1857(安政4)年8~9月ころ吉田松陰の指導する松下村塾に学ぶようになりました(「世に棲む日日」を読む8参照)。これより以前晋作のよき競争相手であった久坂玄瑞がすでに松陰門下生となっていたようです。

 1858(安政5)年幕府による日米修好通称条約の無勅許調印に吉田松陰は反対の態度をとり、弟子たちに時局に関する策問を与えましたが、 高杉晋作は同年5月ころ「弾正益田君(藩家老益田右衛門介)に奉るの書」(堀哲三郎編「高杉晋作全集」下 論策 新人物往来社)をまとめ、松陰はこれを賞賛しています(「暢夫の対策を評す」「戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻)。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む12

 願いにより高杉晋作の江戸遊学が許可され、同年7月18日晋作は松陰から「高杉暢夫を送る叙」(「戊午幽室文稿」)を贈られ萩を出発、同年8月16日ころ江戸に到着しました。

 やがて松陰は同年末老中間部詮勝要撃策などを実行しようとするなど(「世に棲む日日」を読む8参照)の動きを見せ、同年11月24日付の重大な内容の書簡を高杉晋作久坂玄瑞・飯田正伯・尾寺新之丞・中谷正亮ら5人に送っていますが、これに対して高杉晋作ら5人は同年12月11日師吉田松陰に江戸から次のような手紙を送りました。

 「先生此度正論赫々、御苦心の程誠に以て感激奉り候、然る処天下の時勢も、今日に至り大いに変り、諸藩鉾を斂(おさ)め旁観仕り候事、甚以て歎息の至に候得共、将軍 宣下も相済み人気稍静まり候得は、義旗一挙実に容易ならざる事にて、却而社稷の害を生る事必然の儀に御座候、然りと雖も幕吏猖獗(しょうけつ)、有志の外、諸侯に隠居を令せられ候乎、或は交易開け候上には、必ず旁観成ぬ勢に相成り申すべく、此時に方(あた)り、実に御互い国の為鞠躬尽瘁(きくきゅうじんすい)仕る可し。夫迄は胸を押さへ、鉾を斂め、何にも社稷の害仕出ぬ様、国の為万々祈り奉り候」(東行先生五十年祭記念会「東行先生遺文」民友社)

 高杉晋作らは松陰に対して長州藩に被害が及ばないように自重をもとめたのです。1859(安政6)年10月藩命により帰国した晋作は吉田松陰刑死を知り無念の思いにさいなまれたことでしょう。帰国した晋作を待っていたのは婚礼で、父高杉小忠太より井上平右衛門(江戸藩邸留守居役)の次女政(まさ)(雅・雅子・政子などともいう)を晋作の嫁に迎える申し入れが行われ、1860(万延1)年正月18日結婚式が挙行されました(「伜婦申請御願申上候事」「高杉晋作全集」 上 新人物往来社・「東行未亡人の追憶」「新聞集成大正編年史 大正五年版」上 東京朝日5月9日 明治大正昭和新聞研究会)。

 同年2月7日杉家で松陰百日祭が開催されたとき、高杉ら松陰門下生が集まって団子岩の吉田家墓地(萩市椿東)に松陰墓がたてられ師の前髪などを納めました。墓前の石灯籠に「高杉春風」の名があります。

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司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む13

 1860(万延1)年3月の桜田門外の変以後幕府の権威は失墜し、その公武合体策としての和宮降嫁問題もその主導権は幕府から朝廷へと移りつつありました。

 1861(文久1)年3月28日長州藩は直目付(じきめつけ)長井雅楽(ながいうた)の建策により、諸藩の中でもいちはやく公武周旋の具体策として「航海遠略策」を藩論と決定しました。それは幕府の過去の開国政策を支持し、朝廷を説得して攘夷の放棄を求める方針であったのです。

 同年3月11日世子定広の小姓となっていた晋作は当時江戸桜田藩邸にいた世子に近侍していましたが、江戸にいた松陰門下生らは攘夷の立場から松陰の遺志をついで草莽の志士となり幕府権力に抵抗しようと決心していました。

 このころ幕府が貿易視察のため幕府役人を上海・香港に派遣しようとしていたので、世子定広は桂小五郎の意見を入れて、晋作が軽挙暴発しないよう高杉晋作を使節一行に同行させようとし、幕府の許可を得ることに成功しました。

 1862(文久2)年正月3日晋作は江戸桜田藩邸を長崎に向けて出発、2月初旬には長崎に到着したと思われます。晋作が長崎を同年4月出港するまでに、坂下門外の変寺田屋騒動(「天璋院篤姫」を読む12参照)が起こっています。

 同年4月27日高杉晋作は幕府役人使者として千歳丸(せんざいまる 幕府がイギリス商人より買い入れた帆船)に乗船、この船には幕府役人の従者として佐賀藩士中牟田倉之助(中村孝也「中牟田倉之助伝」)・水夫として薩摩藩士五代才助(友厚)が同船していました。同船はイギリス人船長はじめ同国人が操船を司り4月29日長崎出港、5月6日上海港に到着しました(「航海日録」)。同船は7月5日上海を出港、7月15日長崎に帰着したのですが、高杉晋作はこの航海について「遊清(ゆうしん)五録」[「航海日録」(A)「上海淹留(えんりゅう)日録」「外情探索録」「内情探索録」「崎陽雑録」 田中彰校注「日本近代思想大系」1 開国)岩波書店]を帰国後、同年夏長崎で執筆しています。

 晋作らが上海に渡航した時清国は太平天国の乱の最中で、列強の清国蚕食と清国衰退を悲しみ、速に攘夷の策(列強対抗策)をとらないとわが国も清国の二の舞になる危険を強調しています(「続航海日録」)。さらに佐賀・薩摩両藩が長崎・上海航路ならびに貿易事情の調査や蒸気船の購入に積極的であることを知り、長州藩の立ち遅れを感じています(「内情探索録」)。

また長崎から上海に至る精しい英国式航海技術の記録「航海日録」(B)(田中彰校注「前掲書」の表現による)はのちの海軍総督としての晋作の活躍に大いに役立ったのです。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―上海

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む14

 高杉晋作が上海に渡航している間に、久坂玄瑞長州藩尊攘派は1862(文久2)年4月19日付で「長井雅楽公武周旋弾劾書」を藩主ならびに藩首脳に提出、薩摩藩に対抗して反幕府運動を展開しようとしていました。かくして同年7月24日京都河原町藩邸で世子以下周布政之助桂小五郎ら藩首脳は「航海遠略策」を放棄、「破約攘夷」の藩論を決定しました(「周布政之助伝」)。世子は朝廷から勅使大原重徳の江戸下向を薩摩藩と協力してして補佐するようにと命ぜられ、同年閏8月19日ころ江戸に到着していました。また同年10月には三条実美ら勅使が東下、攘夷を幕府に迫り、世子も勅使を補佐せよとの勅命が下っていました。しかし幕府は容易に態度を明らかにしようしませんでした。晋作も江戸派遣の藩命により、途中京都に立ち寄って藩主に清国の情勢を報告、同年閏8月15日ころ江戸に到着したと思われます。晋作は幕府が攘夷の勅命に従わないのを憤慨していました。

 同年11月13日某公使武州金沢の名所(横浜市金沢区)に遊ぶことを聞き出した志道聞多(しじぶんた 井上馨)はこれを公使暗殺の好機会として高杉晋作長州藩尊攘派と実行に移すことを決め、相談の場所として使った品川の妓楼土蔵相模の費用や金沢行きの旅費などの調達を志道聞多が引き受けました。この計画は世子の知るところとなって失敗しましたが、彼等は「血盟書」を作って団結を維持、同年12月世子が京都に向かうと同年12月13日未明当時建築中の品川御殿山の英国公使館焼き討ちを決行しました(井上侯伝記編纂会編「世外井上公伝」第1巻 明治百年史叢書 原書房)。

幕末維新の現場を歩くー東京―品川―品川エリアーイギリス公使館焼打ち事件―土蔵相模跡

 1861(文久1)年8月朝廷より幕府に安政の大獄以来の国事罪人死者の罪名を削除せよとの勅旨が出たので、1863(文久3)年正月5日高杉晋作らは藩許を得て吉田松陰遺骨を小塚原から若林大夫山(東京都世田谷区 松陰神社の地)に改葬しました(「松陰先生埋葬并改葬及神社の創建」吉田松陰全集第11巻)。

松陰神社ー神社由緒    

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む15

 1863(文久3)年3月4日将軍家茂は家光以来229年振りの上洛を果たしましたが、家茂はなかなか江戸へ帰れず、同年4月20日攘夷期限を同年5月10日とする旨を天皇に奏上しました。同年5月10日長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃、以後続々と外国船に砲撃を加えるに至りました(「天璋院篤姫」を読む13参照)。

 将軍上洛とほぼ同じ頃上京した晋作は酒と女に日を過ごす毎日でしたが、隠遁を決心し剃髪、西行法師を慕って東行と名乗り、同年4月帰国して萩の東郊に草庵住まいしていました。しかし外国船砲撃開始以後晋作は同年6月5日山口政事堂において藩主父子に新軍編成策を進言、赤間関(下関)出張を命ぜられ直ちに現地へ赴き、竹崎(下関市竹崎町)の廻船問屋白石正一郎宅に宿泊しました(「白石正一郎日記」文久3年6月6日条 下関市教育委編「白石家文書」国書刊行会)。

幕末トラベラーズー下関の史跡―地図―白石正一郎宅跡

このとき彼は「夫れ兵に正奇あり。(中略)今吾徒の新に編成せんと欲する所は、寡兵を以て敵衆の虚を衝き、神出鬼没して彼を悩すものに在り。常に奇道を以て勝を制するものなれば、命ずるに奇兵隊の称を以てせん。」(「防長回天史」第三編下第39章 戦後の馬関)と述べ、諸人の賛成を得ました。

 奇兵隊とは正規軍(武士身分のみで構成された軍隊)に対して、正規軍でない軍隊の意で、軍隊構成を武士中心とするものの一般民衆の入隊を認めることを特徴としています。しかし袖印を武士身分は白絹地、足軽以下は晒布(さらしぬの)で区別し、身分制度を撤廃した訳ではありません(梅渓昇「高杉晋作吉川弘文館)。このような軍隊を創建した背景の多くは上海における強力な列強銃隊を見て、号令による統制が困難で兵力増強にも限界がある武士身分のみの軍隊よりも、身分差別のない軍隊のほうが兵力増強が容易でかつ規律統制しやすいことを見抜いた晋作の卓見によるものでしょう。

 奇兵隊につづいて猟師隊、被差別部落の希望者を選抜して屠勇隊、力士隊の編成も行われました。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む16

 長州藩をはじめとする尊攘派の政局主導を快く思わず、幕府権威回復を望む会津藩(藩主 松平容保 京都守護職)・薩摩藩は1863(文久3)年8月18日宮中クーデタにより宮中尊攘派を一掃、長州藩兵は京都を撤退しました(八月十八日の政変・「天璋院篤姫」を読む13参照)。

 かくして同年8月29日長州藩俗論(恭順)派椋梨藤太らは藩首脳の更迭を藩主に直訴、藩首脳の人事異動が行われる中で、高杉晋作も一時政務座役御免となり、奇兵隊も一旦解散令が出されたのですが、撤回され山口から小郡(おごおり)移転を命ぜられました。

 官位剥奪処分を受けた三条実美ら七卿は長州藩を頼り、晋作は藩主の命により同年9月10日三田尻に赴き、世子上京を報告、奇兵隊三田尻山口県防府市)に駐屯して七卿の護衛に当ることとなりました[「防長回天史」第4編上第3章 堺町門変後の毛利氏(其二)]。

 しかしこうした長州藩の対朝廷策を手ぬるいとし、来島又兵衛が組織する遊撃軍は京都へ出兵しようとする動きを見せ、憂慮した藩主父子は晋作に来島又兵衛らを鎮静するように説得させました。しかるに来島は晋作の説得に応ぜず、進退に窮した晋作は脱藩して京都長州藩邸の同志らと連絡をとり、島津久光暗殺計画の謀議に参加するも果たせず、在京の桂小五郎らの説得により、1864(元治1)年3月末帰国、野山獄に入獄させられました(「高杉晋作獄中手記」高杉晋作全集 下 日記)。

同年6月5日新撰組京都三条池田屋を襲撃、松下村塾における晋作の親友吉田稔麿らが殺害されると藩論は出兵を決定、同年年7月19日長州藩兵は御所諸門を襲撃、会津・薩摩両藩兵に敗北(禁門の変来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自刃しました(「防長回天史」第4編上第14章 甲子七月十九日の変)。

図解・池田屋事件  

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む17

これより先1864(元治1)年4月英・仏・米・蘭の4国は幕府に対して長州藩に制裁を加えて下関海峡の封鎖を解くよう要求、安全に対する保証が得られないときは直接行動を開始するであろうと通告していたのです(石井孝「増訂明治維新の国際的環境」分冊一 吉川弘文館)。

 1863(文久3)年年5月10日長州藩による外国船砲撃に勝算がないと考えていた長州藩首脳の一人周布政之助は同年5月12日井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)その他5名をイギリスに留学させていました。彼らはロンドンで留学中「(ロンドン)タイムス」紙上で長州藩の下関における外国船砲撃に諸国が合同で反撃しようとしていることを知り、井上と伊藤は1864(元治1)年3月中旬ロンドンを出帆、同年6月10日横浜に帰着しました。両人は英国領事ガワーの紹介で英国公使館通訳官アーネスト・サトウに面談、英公使オールコックに会見して4国連合艦隊の出発猶予を要請、同公使は英艦で両人に長州藩主宛覚書を託して周防灘にある豊後姫島に送ることにしました。両人は6月26日藩主父子に攘夷の無謀と開国の必要を言上しましたが、藩論を変えるには至らなかったのです(伊藤博文伝編纂委「伊藤博文伝」上巻 春畝公追頌会・「世外井上公伝」)。

井上は7月21日萩に赴き高杉晋作を訪問、晋作はこのとき野山獄をでて座敷牢に謹慎中でしたが、井上の開国論に賛成の意を表明しました。

 同年8月5日4国連合艦隊は下関海峡沿岸の諸砲台を砲撃沈黙させ、陸戦隊が上陸して諸砲台を占領しました(「維新史料綱要」巻5)。

 かくして8月8日長州藩は井上の提案により仮に晋作を主席家老宍戸備前の養子として宍戸刑馬(ししどぎょうま)と名乗らせ正使とし他2名を副使として4国連合艦隊との講和にあたらせたのです(「世外井上公伝」)。

 「正午に帰艦すると、例の伊藤俊輔が来ていた。長州は講和を希望し、全権を委任された家老、すなわち世襲の顧問官が談判に来るとのことであった。そこでその偉い人を迎えに1隻のボートを出した。まもなく家老が旗艦(英艦ユーリアラス号)の後甲板に到着した。

 家老は黄色の地に大きな淡青色の紋章のついた大紋(だいもん)と称する礼服をきて、絹の帽子をかぶっていたが、中部甲板を通つたときそれを脱いだ。

 彼等三名は、その姓名を、長門の家老宍戸備前の養子宍戸刑馬、参政の杉徳輔、渡辺内蔵太と名のった。

 日本の使者の態度に次第に現れてきた変化を観察すると、なかなかおもしろい。使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案を何の反対もなく承認してしまった。それには大いに伊藤の影響があったようだ。」(アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」上 岩波文庫)。

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講和交渉は最終的には同年8月14日付で停戦協定書に藩主の署名捺印を得て成立に至りました(「和戦一件」山口県文書館 毛利家文庫所蔵 梅渓昇「前掲書」引用)。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む18

1864(元治1)年7月23日幕府は長州藩征討の勅命を受け、西南21藩に出兵を命令しました(第1次長州征伐)。

当時長州藩には俗論派(絶対恭順)と正義派(武備恭順)の二派が対立していました。俗論派は主として萩城下の世禄の武士を基盤とする勢力で藩首脳を更迭し、奇兵隊などの諸隊を解散し、禁門の変首謀者を厳罰にして幕府に絶対恭順の意志を表明すべしと主張、これに対して正義派は奇兵隊など諸隊の幹部を基盤とする勢力で、幕府の攻撃には徹底抗戦し、敗北して長州藩滅亡もやむなしと主張していました。高杉晋作井上聞多は勿論正義派に属しており、井上が俗論派の拠点夜襲を企てるとこれを事前に察知した俗論派は同年9月25日夜山口政事堂から帰宅する途中の井上を襲撃、重傷を負わせました(「世外井上公伝」)。

このような情勢の中で同年10月藩主父子は俗論派に擁せられて萩城に帰り、俗論派首領椋梨藤太が政務役となり藩政を掌握するに至ったのです。

 晋作は山口で重傷の井上を見舞い、ついで俗論派の解散命令にも服従せず幕府軍の来襲に備えて、三田尻から徳地(山口県徳地町)に移動していた奇兵隊の軍監山県狂介(有朋)らを訪ね、10月29日下関の白石正一郎宅に潜伏しました(「白石正一郎日記」元治元年10月29日条)。

 同年11月朔日晋作は博多に向かい(「白石正一郎日記」)、筑前藩士月形洗蔵の紹介で野村望東尼(ぼうとうに)の平尾山荘(福岡市中央区平尾)に滞在することになりました(江島茂逸編述「贈正五位望東禅尼伝」野史台維新史料叢書十五 東大出版会)。

幕末歴史探訪―野村望東尼―平尾山荘

 征長総督徳川慶勝長州藩の伏罪・山口城の破却・五卿(七卿のうち錦小路頼徳死去、沢宣嘉別行動)の引渡しの3条件実行で幕府軍の撤退をはかるという西郷隆盛の意見を許容していたので、11月下旬の時点で五卿引渡しさえ実行されれば、第一次長州征伐は終了するはずであったのです。同年11月18日征長総督徳川慶勝長州藩毛利敬親父子恭順の状及び進撃猶予を命ぜんことを朝廷・幕府に報告しています(「天璋院篤姫」を読む14参照)。

 しかるに奇兵隊ら諸隊は既述のごとく藩の解散命令に従わず、五卿を奉じて山口に集結、山口残留の家老に藩主父子への歎願書(藩主の山口帰還、俗論の抑制など)を呈出、また五卿は諸隊の要請により使者を派遣して藩主に歎願書が届くよう尽力しました。 

 藩当局による諸隊討伐の噂が広がり、同年11月17日五卿と諸隊は長府の功山寺(下関市長府川端町)及びその周辺に移動しました[「防長回天史」第四編下第24章 元治元年冬期の毛利氏(其三)]。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む19

 1864(元治1)年12月15日高杉晋作は夜半三条実美ら五卿が滞在する雪の功山寺に現れ、挨拶の後酒を飲んで辞去、下関の伊崎新地の会所を襲撃、船で三田尻に赴き、藩の軍艦癸亥丸(帆船)を乗組員とともに奪って下関に回航、海上砲台としました[「防長回天史」第四編下第26章 元治元年冬期の毛利氏(其五)]。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―功山寺―大田絵堂

 このとき晋作は長府の大庭伝七に手紙を出して、自分が死亡したときの墓碑銘を記しているところをみると、死を覚悟していたことがわかります。しかし「死後の墓前にて芸妓御集め、三絃(三味線)など御鳴らし御祭り下され候様頼み奉り候。」(「高杉晋作全集」 上 131書簡)と書いているのは、芸妓を集めた遊び好きな晋作の性格を示して興味深いものがあります。

 幕府は同年12月27日当時五卿引渡しが行われていなかったにもかかわらず、藩内は鎮静したとして諸軍に撤兵を命令していましたが(「徳川慶喜公伝」3 東洋文庫98 平凡社)、上記の如く長州藩は内戦状態に陥っていたのです。

 俗論派は晋作挙兵を知って追討軍を絵堂に進軍させましたが、山県狂介の率いる奇兵隊らの諸隊は1865(慶応1)年正月7日未明絵堂駐留の粟屋帯刀指揮の追討軍を襲撃、絵堂背後の大田を占拠、正月20日ころ諸隊は山口を拠点として萩の俗論派とにらみあう態勢となっていました[「防長回天史」第五編上 第2章 慶応元年春期の毛利氏(其一)]。正月28日晋作は軍艦癸亥丸を萩の海上に回航し艦砲射撃(空砲)をおこなって威嚇、海陸双方から萩へ進撃する勢いを示しました。

 このような情勢を背景として正義派の藩政掌握、俗論派の凋落が進行、同年2月22日藩主毛利敬親は正義派の主張を承認、藩士にその趣旨を諭告、内戦は終結しました。つづいて藩主は諸隊の要望を受け入れ藩庁を山口に移転させました(「同上」第五編上 第3章)。

 下関はその西端の一部が本藩の領地で、大部分は支藩長府藩のものであり、本藩と長府藩の地の中間に支藩清末藩領がありました。本藩は下関すべてを領地とすべく両支藩と交渉未解決になっていたのでした。やがて本藩が外国応接掛高杉晋作伊藤俊輔らの意見をとりあげ下関開港の実現をはかろうとする動きが外部にもれ、長府・清末両支藩の壮士らは晋作らを襲撃しようとする不穏な情勢となり、晋作らは一時潜伏するのやむなきに至りました。

 同年4月中旬ころ晋作は備後屋三介と変名し商人の身なりで愛妾おうの(おのぶ)と伊予の道後温泉に遊び、讃岐の金毘羅宮に参詣、榎井(えない)村(香川県多度郡琴平町

の詩人にして侠客日柳(くさなぎ)長次郎(燕石)の許に隠れていました。やがて危険も去ったので同年5月ころ下関に帰りました(「伊藤博文伝」上巻 第五編第2章)。

三水会ホームページー既成実施事項―4 琴平に関係ある人物―日柳燕石―5 燕石年譜

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む20(最終回)

すでに幕府は1865(慶応1)年2月5日長州藩主父子を江戸に護送するよう命じましたが(「維新史料綱要」巻6)、正義派が藩政を掌握した長州藩がこのような幕命に応ずるはずもなく、幕府軍の長州再征を覚悟しなければならない情勢となってきました。

同年閏5月22日家茂は上洛参内し、長州再征を上奏、朝廷は同年9月21日長州再征の勅許を下しましたので、幕府は同年11月7日彦根藩などに長州征討のための動員を命令しました(「天璋院篤姫」を読む15参照)。

かくして長州藩は新式の銃砲と艦船を外国から輸入しなければなりませんでしたが、長崎で公然と外国貿易できない長州藩に代わって薩摩藩名義で武器を購入し、これを下関に輸送したのは土佐脱藩の坂本竜馬とその亀山社中(後の海援隊)でした。例えば1865(慶応1)年7月21日長州藩井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)は海援隊薩摩藩家老小松帯刀らの斡旋により、長崎グラバー商会から銃砲を購入しています。こうして薩長両藩の接近が進展、1866(慶応2)年1月21日長州藩木戸貫治(孝允)と薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)は坂本竜馬らの斡旋により、京都薩摩藩邸で薩長合従の盟約(薩長連合)を結びました(「天璋院篤姫」を読む14参照)。

 同年6月7日幕府軍艦一隻が長州藩周防大島山口県東部)を砲撃し幕兵が同島に上陸、第2次長州征討が開始されました(「維新史料綱要」巻6)。海軍総督高杉晋作が指揮、同年6月12日丙寅丸は夜襲をかけて幕艦4隻に打撃を与え、大島守備兵は同島を奪還しました[「防長回天史」第五編中 第29章 四境戦争(其一)]。

また九州では老中小笠原長行が小倉・熊本などの諸藩兵より成る幕府軍を統括、海を渡って下関を攻撃しようとしていました。これにたいする長州軍主力は奇兵隊で総督は山内梅三郎、晋作は参謀、軍監山県狂介らが指揮、小倉城攻略をめざして同年7月渡海襲撃を繰り返しました(高杉晋作全集 上 書簡223)。7月末に至り、老中小笠原長行は将軍家茂死去(同年7月20日)の秘報に接して退去(「維新史料綱要」巻6)、同年8月2日長州軍は小倉を占領しました[「防長回天史」第五編中 第37章 四境戦争の進行(其二)]。

 このころすでに高杉晋作の病状は進行(「白石正一郎日記」白石家文書 慶応2年7月22日条 国書刊行会)、下関の藩医が診察しています。彼は1867(慶応3)年4月14日未明30年に満たぬ短い生涯を閉じました(「高杉暢夫墓誌」東行遺稿序「東行先生遺文」)。

 野村望東尼と唱和した晋作辞世の句として「面白き事もなき世におもしろく 東行 すみなすものはこヽろなりけり 望東」(江島茂逸編「前掲書」)が有名ですが、梅渓昇氏によればこの歌はの臨終の際に作られたものとはいえないといわれています(梅渓昇「前掲書」)。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―馬関 下関市―東行庵

 この小説はわずか27年と8ヶ月の短い生涯をとじた高杉晋作の最後の描写で終了しています。

 最後に既述の「東行未亡人の追懐」(「世に棲む日日」を読む12参照)の一部を掲げます。

「東行は廿九で逝くなりましたが、殆どオチオチ宅に居りませんでした。私が東行の処に参りましたのは十六の年、万延元年の一月で確か十八日でした。『自分の命は何時捨てなければならぬか分からぬ』と平素から口癖のように言い含められておりました。八年も連れ添って居て一度も叱られた事は御座いません。それに至って子煩悩で、逝ったのは馬関に出張中でうわごとの間にもモー為るだけはしたから後は頼んだぞ山県、福田などヽ云われました。御国の為にはもう少し生きて居たい丈と仰っやられましたが、十分療治も出来なかったのは遺憾でした。」