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司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む1~10

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む1

 司馬遼太郎「世に棲む日日」(「文芸春秋」)は幕末の長州藩吉田松陰高杉晋作の生涯を通じて描写した小説で、1969(昭和44)年2月から1970(昭和45)年12月まで「週刊朝日」に連載され、1972(昭和47)年この小説その他の業績に対して「吉川英治文学賞」を受賞した作品です。

 毛利氏は鎌倉幕府御家人大江広元の四男季光が本拠相模国毛利荘の地名により毛利氏を称したのが始まりとされています。毛利季光鎌倉幕府評定衆となりましたが、三浦氏の乱で四男経光を残し滅亡、経光は四男時親に安芸国吉田荘を譲り時親は鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏について生き延び、安芸毛利氏の基礎を築きました。

風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―中国・四国の武将―毛利氏

 戦国時代毛利元就は1557(弘治3)年大内義長を討滅、五カ国の大名となり、毛利氏は豊臣政権の下においても中国地方八カ国112万石を領有していました。しかし関ヶ原の戦いで敗北、毛利輝元は引退、秀就を藩祖とし周防・長門二国(長州藩)に減封、萩城を本拠として36万石余の外様大名となりました(「寛政重修諸家譜」卷第616-618)。

 長州藩の藩支配機構には当役(行相 こうしょう)と当職(国相 こくしょう)があり、当役は常時藩主に随い藩政に参画、当職は国許にいて藩財政と民政を担当しました。当役の力は次第に当職を超え、やがてその実権は手元役や右筆に移っていきました。

 藩の支配地は宰判(行政区)と呼ばれるほぼ郡に相当する地域に分かれ、幕末には18宰判で構成されていました。

 農民は原則として四公六民の貢租を負担していましたが、累積する藩財政の赤字負担のため多くの馳走米銀(貢租以外の上納米銀)を負担させられていました。

 しかし藩は1762(宝暦12)年に完了した検地による新高41600余石を財源とし、従来の藩会計から独立した会計役所である撫育局を設立、この資本を専売制・新田開発や越荷方など藩外への金融・倉庫業経営に充てて資本蓄積をはかりました。例えば藩は農民に対し馳走米銀だけでなく、農民が作る主な産物を産物会所で強制的に安く買い上げ、

特定の商人と結託して大坂その他で売却、莫大な利益を上げていました(田中彰「幕末の長州藩中公新書)。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む2

 1830(天保1)年8月、瀬戸内海に面する上関・熊毛・都濃の諸宰判で藩専売制に反対する一揆が起こり、翌年7月26日萩から中関に向かう藩産物方御用商人の荷物から皮革が発見されたことをきっかけに、一揆は現在の防府市から山口に波及しその参加者数は約6万人に達したといわれています。

 1831(天保2)年の天保一揆となった原因としては長州藩でそのころ秋の収穫時以前に牛馬の皮を運搬すると、嵐がおこって凶作となるという迷信が影響力を持っていました。しかし当年は豊作であったため、藩産物会所の役人たちは凶作になって米価を高くしなければ、それまでに買い付けた米・産物で損をしないために皮革を運んだといわれています(「浮世の有様」四 日本庶民生活史料集成 第11巻 三一書房)。

 同年8月2日吉田宰判の代官林喜八郎らは連名で次のような「覚(おぼえ)」を出しました。「一、みなみな腹立尤(もっとも)に候。一、上は御気毒に被思召上儀に候。一、早々しつまりかへるべし。」(大田報助「毛利十一代史」第41冊巻之107 邦憲公記 公爵毛利家蔵版)。

 しかし一揆は鎮まるどころか、日本海側や山間部の村々に拡大、一揆参加の村々は百カ村を越え、13万人以上の農民がこれに加わったと藩側に報告されています。

 この一揆で、ほとんど殺人が起こらなかったといわれているにもかかわらず、被差別部落民だけは焼き討ちをかけられ、多数が打ち殺されたといわれています。一揆のきっかけとなった皮革生産は被差別部落民の主な仕事であったことを考えると、なぜこんなことが起こったかお分かりでしょう(田中彰「前掲書」)。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む3

 藩当局は天保一揆の圧力に譲歩し、山口や室積の藍の専売会所を廃止するとともに、村役人や各地の代官を更迭しました。しかし表面的な譲歩だけでは事態を収拾することができず、根本的な藩政改革が必要であったことは明らかです。

 1831(天保2)年10月23日村田清風が江戸当役用談役に登用されました。翌年長州藩天保の改革基本綱領が作成されました。この年藩の負債は8万貫に達していました(田中彰「前掲書」)。その時村田清風は次のように述べています。「鎌倉以来六百年、芸(安芸)来三百年之御家と御国を百姓蹴立候口惜さ之事。」(「此度談」)また彼は後年「此乱(天保一揆)何事より萌さしたるか、克々(よくよく)工夫あるへき事なり。罪は政をなす人ニあるへし。出納を司る役人ニはなしと知るへし」(「病翁宇波言」)とも記述しています(「村田清風全集」上巻 マツノ書店)。

維新の志士たちー幕末維新出来事一覧―3 幕末雄藩の改革―長州藩―長州藩の藩政改革―村田清風の改革

 1837(天保8)年毛利敬親が藩主となり、この藩主の下で村田清風らはこれまでの慣例を破った人材登用を実施し、藩財政を公開して、家格にこだわらない実務担当者の意見を求めました。

 1843(天保14)年4月15日に発令された三十七カ年賦皆済仕法は藩及び藩士の借財解決策でその内容は①藩債については1貫目に付き年々30目(匁)の割合で37カ年納入すれば、元利皆済とし、②藩士の借財については藩が肩替りして37年間元金据え置きにし、年利2朱を支払い、期限末年には元金皆済とする(末松謙澄「防長回天史」第一編第20章 天保嘉永年間の民政 柏書房)というものでした。その他蝋・櫨の専売制の変更や越荷(北陸や九州から下関を経由して大坂方面へ出荷される商品)方の拡大・強化(越荷を抵当として金融・あるいは貨物の一時保管による料金徴収等)など、村田清風の改革は多方面にわたりました。

 吉田松陰は青年時代に村田清風に会ったことがあり、深くその人物に敬服し、清風もまた松陰に嘱望し激励しました(土屋矢之介に与ふる書「野山獄文稿」山口県教育会「吉田松陰全集」第4巻・前参政村田翁を挽す「松陰詩稿」「松陰全集」第7巻・8 村田清風宛書簡・185小田村伊之介宛書簡「松陰全集」第8巻 岩波書店)。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む4

 この小説は作者が長州藩の城下町であった萩から、松本村の吉田松陰墓を訪ねるところから始まります。

 吉田松陰は1830(天保1)年8月4日長門国萩松本村で藩士杉百合之助常道(家禄26石)の次男として誕生しました。母の名は滝といいます。幼名虎之助・後寅次郎その他、名は矩方(のりかた)、字(あざな 実名以外につけた名)は子義その他、一時の変名もありました。

 1835(天保6)年吉田大助賢良(同年4月死去)の養子となり吉田姓を名乗りました。吉田家は代々山鹿流兵学師範として毛利家に仕える家柄で家禄57石余を受けていましたが、松陰は杉家に同居していました。 松陰は6歳の幼少であったので、藩命により家学の高弟渡辺六郎兵衛・叔父玉木文之進らに家学教授を代理させました。

 「松陰は幼少の頃より、『遊び』てふことは知らざりしものの如し。年頃の朋輩と伍して、紙鳶を上ぐるとか、独楽を廻すとかの戯に耽ることは絶えて之なく、常に机に向ひて青表紙(漢書)を繙くか、筆管を操るかの外、他あらざりき。」

「松陰が年少の頃、実父、又は叔父の許にて書を学ぶに、実父も叔父も極めて厳格なる人なりしかば、三尺の童子に対するものとは思われざること屡〃なりしと。」(松宮丹畝「松陰先生の令妹を訪ふ」吉田松陰全集第12巻 岩波書店

 1839(天保10)年11月にははじめて藩校明倫館に出仕して家学を講義し、山田宇右衛門らに後見させました。翌年4月藩主が自ら文武師範を城中に召して、その学芸を試そうとした時、松陰ははじめて「武教全書」(山鹿素行の主著)戦法篇を講義しました。

 しかしその学問は「武教全書」の解釈を主とするものに過ぎなかったのです。

 1842(天保13)年玉木文之進は松下村塾を開き、杉梅太郎・松陰兄弟らはその塾生となりました。

ぶらり萩あるきー観光スポットー松本エリアー松下村塾

 1845(弘化2)年松陰は山田宇右衛門の薦めにより藩士山田亦介(村田清風の甥)について長沼流兵学も兼修しました。この時亦介は近頃強大な欧夷(欧米列強)がしきりに東洋諸国を侵略し、その害毒が皇国(日本)に及ぼうとしていることを説き、松陰を激励(「含章斎山田先生に与ふる書 戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻 岩波書店)、松陰に国事に奔走することの重要性について示唆を与えました。

 翌年山田宇右衛門にも同様の影響をうけ、寝食を忘れて辺防を講究しています(「講孟余話」尽心下篇第35章 吉田松陰全集第3巻)

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む5

 1849(嘉永2)年6月松陰は藩命により須佐・大津・豊浦・赤馬ヶ関(下関)などの海岸を巡視(「廻浦紀略」吉田松陰全集第10巻)、翌年には萩から九州に赴き、平戸に50余日滞在して葉山佐内・山鹿万介に家学を究問、長崎では漢語を学び、唐館・蘭館に遊び、蘭艦に上がり、高橋景保訳の海外事情書などに接し、熊本において宮部鼎蔵らと交友、また唖弟敏三郎のために清正公廟で祈願しました(「西遊日記」吉田松陰全集第10巻)。

 1851(嘉永4)年3月兵学研究のため、松陰は藩主に従って江戸へ赴き、江戸で安積艮斎(あさかごんさい)・古賀茶渓・山鹿素水・佐久間象山に学び、剣を藩士平岡弥三兵衛門下に学びました。

 同年7月松陰は東北諸国遊歴を許可され、宮部鼎蔵と仇討ちの計画を持つ江幡五郎とはいずれ落ち合うことにして、出発の日を赤穂義士仇討ち決行の12月15日としました。  しかるにその直前「過所(旅行のための身分証明書)」が発行されておらず、藩主はすでに国許に帰っていて、それは江戸藩邸の独断では処理できない案件でした。

 ここにおいて松陰は過所の下付をまたず、藩邸を亡命して江戸を出発してしまいました。

 彼には「仮令(たとい)今日君親に負(そむ)くとも、後来決して国と家とに負かじ」(51「兄梅太郎宛書簡」嘉永4年12月12日付 吉田松陰全集第8巻)という判断があったからです。

 松陰は翌1852(嘉永5)年にかけて松野他三郎の変名で水戸に赴き、会沢恒蔵(正志斎)らを訪ね、水戸学に接して感銘をうけたようです。さらに弘前・青森・盛岡・仙台・米沢等を歴訪(「東北遊日記」吉田松陰全集第10巻)、同年4月江戸に帰り藩邸に待罪書を提出、帰国の命が下ったので同年5月萩に帰り、やがて杉家に謹慎して命を待ちました。

同年11月ころから松陰号を常用しています。

歴史から学ぶ大和魂―会沢正志斎と新論

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む6

 1852(嘉永5)年12月9日松陰は亡命の罪により士籍を削り、世禄を奪われ、実父杉百合之助の育(はぐくみ 保護下におく)となりました。藩主は松陰を惜しみかつ憐れみ、父百合之助に10年間諸国遊学を申請させ(「関係公文書類」吉田松陰全集第11巻)、翌1853(嘉永6)年正月16日藩は松陰遊学を許可しました。

 松陰は同年正月26日萩を出発、讃岐・摂津・河内・大和を経て、伊勢大廟に参拝、さらに美濃・信濃・上野を通過して5月24日江戸に到着しました。

 米艦の浦賀来航を聞くと、同年6月4日直ちに現地に赴き、同月10日江戸に帰り(「葵丑遊歴日録」吉田松陰全集第10巻)、藩邸に意見書を提出するとともに、佐久間象山らと時事を討論しました。同年9月18日佐久間象山らと相談して海外事情視察のため当時長崎に停泊中の露艦に乗り込もうとして長崎へ出発、10月27日長崎に到着しましたが、露艦はすでに出航した後でした(「長崎紀行」吉田松陰全集第10巻)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー佐久間象山

 1854(安政1)年3月5日金子重之助(重輔)とともに米艦に乗り込み、海外に赴こうとして江戸から神奈川に至ったが機会を得ず、同月7日佐久間象山に会い「投夷書」(吉田松陰全集 第10巻)を見せ、下田に至り同月27日上陸した米人に「投夷書」を渡し、同日夜金子とともに米艦に乗り込もうとして拒否され、翌日自首しました(「日本遠征記」を読む17参照)。松陰は江戸に護送される途中、三島では被差別部落民3~4人が番に当り、松陰の話を聞いて興奮、別れ際には松陰の唐丸籠(罪人を護送する籠)から離れ難い様子を示したそうで(「回顧録」吉田松陰全集 第10巻)、松陰が被差別部落民に偏見をもっていなかった様子が分かります。同年4月15日幕府は両人を江戸伝馬町の獄舎に拘禁、9月18日麻布の長州藩邸に幽閉、同月23日両人は江戸を出発、10月24日萩に到着、幕命では父杉百合之助の許における蟄居でしたが、藩は幕府に気兼ねしたのか、父百合之助に借牢願を提出させ、松陰は野山獄(藩の士分の罪人を収容)、金子は岩倉獄(士分以外の罪人収容)に収容されました(「回顧録」)。1855(安政2)年正月11日金子重之助は獄中病死し、松陰は彼を悲しむ詩を作り、その行状記録(「金子重輔行状」吉田松陰全集第1巻)を著しています。  

幕末・維新風雲伝―花燃ゆー野山獄と岩倉獄とは? 長州藩の牢獄

 このころの松陰は幕府の処置に憤激し、攘夷運動に対する共感をもっていましたが、単純な攘夷論者ではなく、ただちに討幕論に賛成もしませんでした。彼は、中国においては「天下は天下の天下」であるが、わが国では「天皇一人の天下」である、という熱烈な皇室至上主義者でした(奈良本辰也「吉田松陰岩波新書)。

一方この年松陰は対外問題について「魯墨講和一定(露米両国と和親条約を締結したこと)、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失ふ可らず、ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養ひ、取易き朝鮮満州支那を切り従へ、交易にて魯墨に失ふ所は土地にて鮮満に償ふべし」[1855(安政2)年4月24日付萩野山獄から兄に寄せた「獄是帳」(181)吉田松陰全集第8巻]と述べ、後年大日本帝国が推進した朝鮮・中国への侵略を予言するかのような主張を展開しているのです。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む7

 松陰が入獄したころ、野山獄には11人の囚人が収容されていました。その中には在獄47年の長期にわたる74歳の大深虎之助、もっとも短期の者は1年の平川梅太郎(42歳)で、ただ一人の女囚であり在獄2年の高須久子(37歳)もいました。11人の囚人の中、藩命による囚人は2人だけで9人は親族からのの申し出による禁錮だったのです。

 高330石取りの家柄の寡婦であった高須久子は陽気な性格で浄瑠璃・京歌やチョンガレ(後に浪花節につながる)に凝り、やがてこれらの芸能を生業とする被差別部落の勇吉や弥八らを自宅に呼び寄せ、ときには翌朝まで宿泊させることもありました。このことを一族は久子乱心とし、やがて1851(嘉永4)年藩の取調べの結果久子を密通と決め付けようとしましたが、久子は被差別部落の人々との付き合いを「都(すべ)て平人同様の取扱」をしたまでとし密通を否定しました。藩は1853(嘉永6)年久子に野山獄入りを命じたのです(「嘉永四亥十二月より同六丑五月迄高洲彦次郎并母祖母御咎一件」<山口県文書館毛利家文庫蔵>田中彰吉田松陰中公新書引用)。

 松陰はここで獄内は囚人の自治にまかせ、獄中で読書その他の学芸を身につけさせるべきことを「福堂策」(吉田松陰全集第2巻)で主張し、獄中座談会や読書会を開いて「孟子」を講義しました(「講孟余話」吉田松陰全集第3巻)。このような状態で松陰と高須久子は急速に接近していきました。松陰は「詩文拾遺」(吉田松陰全集第7巻)に「高須未亡人に数々のいさ(を)し(子細の意味か)をものがたりし跡にて 清らかな夏木のかげにやすろへど人ぞいふらん花に迷ふと 矩方(松陰)」とほのかな久子への慕情の漂う和歌を残しています。

幕末・維新風雲伝―花燃ゆー高須久子~野山獄での吉田松陰との俳句

 松陰に対する藩の処置が過重であるとの批判があり、1855(安政2)年12月15日松陰は野山獄を出て杉家に謹慎となったとき、高須久子は「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」(「獄中俳諧」(附録)送別詠草 吉田松陰全集第2巻)の一句を松陰に贈っています。松陰は外部との接触を禁止されましたが、近隣の子弟で密かに松陰の教えを受けるものがありました。

 松陰は野山獄収容の囚人釈放を藩に働きかけ、翌年10月ころには7人が放免されましたが、高須久子は放免されませんでした。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む8

 1856(安政3)年8月には友人とともに尊王攘夷問題について大いに論究(「丙辰幽室文稿」また読む七則 吉田松陰全集第4巻)、同年12月18日梅田雲浜が萩にきて松陰と会見しています。

 1857(安政4)年11月5日外弟久保清太郎とともに杉家の小屋を修理して松下村塾を開き、松陰が事実上の主宰者で、翌1858(安政5)年3月11日塾舎が門人増加により狭くなったので増築完了しました(「戊午幽室文稿」中村理三郎に贈る 吉田松陰全集第5巻)。

 藩校明倫館には士分以下の足軽・中間(ちゅうげん)などの子弟は入学を許可されなかったので、身分が低くても気骨のあるものや士分でも時局に敏感なものはすすんで松陰門下に集まるようになったのです。

 「○松陰先生は罪人なりとて、村塾に往くことを嫌ふ父兄多し。子弟の往くものあれば、読書の稽古ならばよけれども、御政事向の事を議することありては済まぬぞと戒告するほどなり。

 ○始めて先生に見え、教えを乞ふものに対しては、必ず先づ何の為に学問するかと問はる。之に答ふるもの、大抵、どうも書物が読めぬ故、稽古してよく読めるやうにならんといふ。先生乃ち之れに訓へて曰く、学者になってはいかぬ、人は実行が第一である、書物の如きは心掛けさへすれば、実務に服する間には、自然読み得るに至るものなりと。」(「渡辺蒿蔵談話第一」 吉田松陰全集第12巻)

 「六、塾には飛耳長目録と云ふものありて、今日の新聞様のものを書き綴りしものである。主に交友又は上方(京都)より来る商人などの談によれり。」(「渡辺蒿蔵談話第二」 吉田松陰全集第12巻)

 同年4月12日勅諭(通商条約調印は諸大名の意見を奏上した後、再び勅裁を請うべし)のことを在京の久坂玄瑞からの報で知り、時事に関する策問を門人に与えています(316号品川弥二郎宛書簡附録 村塾策問一道 吉田松陰全集第9巻)

 同年4月23日井伊直弼大老に就任、同月25日幕府は諸大名に勅書を示して通商条約調印の可否を諮問しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」)。同年5月12日幕府諮問が萩に達し、松陰もただちに「愚論」・「亜墨利加人取扱方の議」二文を記述しています(「吉田松陰年譜」吉田松陰全集第1巻)。

 しかるに同年6月19日幕府は日米修好通商条約・貿易章程を無勅許調印しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」)。かくして松陰の幕政批判は直接行動計画による幕政阻止に向かい、同年9月9日書簡を江戸の松浦松洞に送り水野土佐守忠央(紀州新宮藩主 南紀派 井伊直弼と結ぶ)暗殺の策を授け(363号書簡 吉田松陰全集全集第9巻)、11月6日同志17名と血盟して老中間部詮勝(井伊大老の下で尊攘派弾圧)要撃(待ち伏せして攻撃する)しょうとし、藩要人に声援をもとめ(「384・385号書簡」 吉田松陰全集第9巻)、12月15日出発しようとしました。

藩当局は驚愕して借牢願出の形式をとり、松陰投獄の命令が下され、同月26日入獄したのです(「吉田松陰年譜」吉田松陰全集第1巻「戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻)。かくして松陰は再び高須久子と出会うことになりました。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む9

 1859(安政6)年4月7日当時萩にきていた北山安世(佐久間象山の甥)に松陰は次のような書簡(533号書簡 吉田松陰全集第9巻)を送っています。「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれども一も裨益なし。徒らに岸獄に坐するを得るのみ。(中略)今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」また「只今の勢いにては諸侯は勿論捌けず、(中略)草莽に止るべし。(中略)天下を跋渉して百姓一揆にても起りたる所へ付込み奇策あるべきか。」(517号書簡「安政6年3月26日野村和作・入江杉蔵宛」吉田松陰全集第9巻)とも云っており、ナポレオンの西欧封建制度に対する「自由」のための戦いを思い起こし、場合によっては百姓一揆の力を利用してでも「草莽」(民間人)が立ち上がることこそ日本を救う道であると主張しているのです。

 しかし井伊大老の所謂安政の大獄の嵐の中で同年4月19日幕府より江戸藩邸へ松陰東送の命が下され、長井雅楽ら幕命を伝える使者が5月13日ころ萩に到着しました。

 

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む10

 松陰の東送を知って高須久子は「手のとはぬ(手の届かぬ)雲に樗(あふち 栴檀の花)の咲く日かな」(「東行前日記」松陰先生東行送別詩歌集(編者附載)吉田松陰全集第11巻)の一句を残し、松陰は「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ 矩方 箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん 高須うしに申し上ぐるとて 一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす) 松陰」(「詩文拾遺」全集第7巻)と詠んでいます。

 松陰の妹は「三十年の生涯は短しと云はば短きも、一般の人より観れば、妻を迎へ家を成すべき年なりしなり。されど松陰は年漸く長じて後は諸方に出遊し、其の国に居るの時は御咎めの身の上蟄居を申付けられたるものなれば、妻帯など云う相談は湧き出づべき由もなかりき。(中略)松陰は生涯婦人に関係せることは無かりしなり。」(松宮丹畝「前掲書」)と述べていますが、松陰にとって高須久子の存在は彼の短い生涯を彩る紅一点であったようです(田中彰「松陰と女囚と明治維新NHKブックス)。

 幕府の松陰東送の目的は梅田雲浜との関係を明らかにすることでした。しかし1859(安政6)年7月9日松陰は伝馬町の獄につながれ、取り調べの過程で幕府が全く知らなかった老中間部詮勝詰問計画を陳述(「関係公文書類」全集第11巻)、さらに尋問の結果同年10月16日口書(口供書)読み聞かせがありました。翌日死を覚悟した松陰は同月26日「留魂録」を記録し、そのはじめに「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」(「詩文拾遺」吉田松陰全集第7巻)の一首を書き上げたのです。同月27日評定所で罪状の申し渡しがあり、同日伝馬町の獄舎で死刑を執行されました。

 尾寺新之丞・飯田正伯・桂小五郎・伊藤利助(博文)らが遺骸受け取りに奔走、同月29日小塚原回向院下屋敷常行庵に葬りました(「葬祭関係文書」吉田松陰全集第11巻)。