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明治憲法下の天皇制と日本資本主義

―戦後における日本見直し論批判の試みー

                                 

(東豊中高校社会科論壇 第二号 1985年5月20日発行に掲載)

     

はじめに

1 江戸時代の寄生地主制  3 明治維新の本質と天皇

2 明治時代の寄生地主制  4 自由民権運動と日清・日露戦争の評価

おわりに

 

はじめに

 

 1950(昭和25)年の朝鮮戦争によって日本の鉱工業生産は急上昇し、第二次大戦前の水準をたちまち突破した。そして1955~57(昭和30~32)年には「神武景気」とよばれた好景気にめぐまれ、日本の国民総生産は年々増大し、1968(昭和43)年にはアメリカについで資本主義国第2位の規模に達し、日本経済は世界経済の中で重要な地位を占めるに至った。

 このような戦後日本資本主義の急速な発展は日本近代史研究にも大きな影響を与えた。1955年ころから新しい問題意識で維新の変革の再検討が要請され、従来の労農派の立場をとる研究者以外によっても明治維新ブルジョア革命説が主張されるようになった。たとえば上山春平・河野健二両氏をその代表にあげることができる(1)。これらが日本史研究者の対象をみる視角や評価の方向に微妙な影響を与えたことは否定できない。

 ところでいわゆる「近代化論」はこのような日本見直し論と密接なかかわりの中で登場した。1961年駐日アメリカ大使として来日したエドウインライシャワーが「わたしは世界史上もっとも重要なのは過去九十年の日本の歴史である。その理由は西欧の近代化の範型を用いて近代化の過程を速め、しかも大成功を収めた唯一の例がその中にあるからであると思います。軍国主義などの困難な問題はいくつかありましたが、全般的にみれば大成功でした。日本の例は低開発国の<手本>となるべきものでしょう。」(2)とのべたのはこのような主張の初期を代表する見解で、以後その線上にアメリカ人日本史研究者の「近代化論」的視角にもとづく多くの論文著書が次々に発表された。近代化論の特徴的な論旨の一つは封建社会を、戦後第一期の主潮流のように、近代化への克服の対象として見るのではなく、むしろ近代化の積極的前提として、その連続面において再評価しようというのである(3)。

 ライシャワー大使の発言がアメリカの対日政策にそった政治的意図にうらづけられていたことは周知の事実であるが、1955年ころにはじまる日本見直し論は歴史教育の分野においても、当時の教育政策にそって大きな影響をもつようになった。例えば1956年度改訂版の高等学校用「指導要領」では前掲「史実を合理的・批判的に取り扱う態度を育てる」という目標がきえ、これにかわって「日本人としての自覚を高めるとともに、民族に対する豊かな愛情を育てる」が加えられた。また58年度中学校指導要領の「国際情勢と日本の地位の向上」の項に「朝鮮との関係、日清戦争日露戦争、条約改正などの学習を通して、複雑な国際関係の中で、国内の政治、経済、文化などの発展をもとにして、わが国の地位がどのように向上していったかを理解させる」といった侵略戦争の反省をぬきにした国際的地位の向上論がもりこまれている(4)。

 この論文において詳細に検討しようとする揖西光速・加藤俊彦・大島 清・大内 力共著「日本における資本主義の発達」(東京大学出版会)全13巻(以下「発達」と略)のうち第1巻が出版されたのは1954年であり、これは明治維新ブルジョア革命説にたつ労農派の代表的著書である。本書に展開されているような日本資本主義のとらえ方については、「発達」にくわしく紹介されているように、戦前からおこなわれてきた日本資本主義論争において、いわゆる講座派との間に多くの批判・反批判がかわされてきた。しかし「発達」は上記のような戦後における日本見直し論の一翼をになう役割を果たしてきたと考えられる。

 私がとりあげようとする主題はこのような日本資本主義論争の紹介やくりかえしではなくて、上述のような日本見直し論が正しい歴史認識の上にたった主張であるのかどうかを「発達」を素材として検討してみたいと考えるのである。ただし私の限られた力量のゆえに、検討の対象は「発達」全13巻のうち、主として幕末から明治期に至る4巻に限定する。また私は原史料を博捜する便宜にめぐまれていないので、私の目にとまった著書における著者の見解はできるだけさけ、そこに引用されている原史料もしくは史実を利用して私の主張を展開することとしたい。

(1) 石塚裕道・加藤幸三郎「近代史研究解説」(旧岩波講座「日本歴史」近代4)p319

(2) ライシャワー「日本近代の新しい見方」(講談社現代新書)p125

(3) 松本三之介「伝統と近代の問題」(新岩波講座「日本歴史」別巻1)p301

(4) 家永三郎「戦後の歴史教育」(旧岩波講座「日本歴史」別巻1)p330

    佐藤伸雄「歴史教育論」(現代歴史学の課題 上 青木書店)p129-130

 

1 江戸時代の寄生地主制

 

 「発達」の中の「日本資本主義の成立Ⅰ」(以下「成立Ⅰ」と略)は江戸時代の寄生地主制について次のように述べている。

(イ)寄生地主土豪的地主の場合をのぞけば、小作農との間に身分的差異があったとは考えられない。(ロ)地主と小作農に身分的差がなければ、この両者間に経済外強制の存在を主張することは誤りである。(ハ)このような地主制は農民が土地から切りはなされてプロレタリア化してゆく過程のひとつのあらわれであり、その意味でそれは資本の原始的蓄積の進行をいみするのである。(ニ)地主は小作農に対して直接経済外強制力をもっていないが、領主のもつ経済外強制力にバックアップされて小作料を徴収したがゆえに、地主、小作の関係も封建的関係であるとする折衷説も、小作人は小作料を負担することなしには生活をなしえないという、すぐれて経済的な関係を基礎として生じてくるのであるから、地主が封建的権力と結託していたことを強調することは木を見て森を見ざるそしりをまぬかれないであろう。(ホ)近代的土地所有とは農業が資本制生産様式によって支配されなくても、農民と土地が切りはなされた形になっているばあいには、すでに封建的土地所有は解体し、その本質を失っているとしなければならない(1)。

 上述の主張に対する反論として津田秀夫氏の論文(2)その他に紹介されている史実をあげてみたい。1738(元文3)年「松屋九兵ヱ下作人茅原町升屋源右エ門不埒ニ付、村方古法之通稲刈取候」(3)とあるように小作料不納に対する村落共同体としての強制執行が実施されていることを物語る史料がある。これが特殊な例でないことは、江戸時代一般に「小作料怠納の場合は地主から庄屋へ鎌止め(立毛差押)を申出、または地主直接にこれを行い…」(4)という状況であったという。これらの史実は地主・小作両者間に経済外強制の存在を実証しており、(イ)(ロ)の主張は誤りである。また大坂近郊の農村では村落内部の社会的分業にともなう余業の存在により、土地に対する依存度は小さかったから、地主に不満をもつ小作人は土地を離れるか、小作をするとしても経済的に有利な処をもとめることによって、居住村落内部では耕作放棄の結果手余地の問題が発生する。河州古市郡広瀬村の例では1711-1715年(正徳年中)に地主が申合せをして、小作人が他領の田地作りをしないよう領主に願書を出し、それが容認されるまでは結束をくずさないよう起請文をかいている(5)。泉州では1790(寛政2)年高持層から領主権の干渉を願い出て、これにより他領小作禁止の触が出され、違反者に処罰がおこなわれている(6)。正徳年中の史料では小作人が他領の田地作りをした場合、どのような処置がとられたか、前掲津田論文では原史料が紹介されていないので不明であるが、上述のような強制手段がとられたであろうと推定される。ただ幕末に時代が下るにつれて、地主の小作人に対する強制力は弱体化し、領主権力による補強がおこなわれざるをえなかった。しかし他領の田地作りをやった違反小作人に対する村落共同体規制が弱体化しつつあったとしても、上述のような起請文をかくこと自体、地主・小作人関係が対等でなかったことを示している。地主・小作人関係が対等であるなら、小作人がどこへ働きにゆこうと、それは小作人の自由であるはずだから。従って先進地帯においては(ニ)に指摘されているような小作人は小作料を負担することなしには生活をなしえないという主張はあてはまらず、むしろ地主は領主権をうしろだてとして、小作人の土地からの離脱をくいとめようとしているのである(7)。(ホ)の主張のように地主制そのものが農民を土地からきりはなすのではなく、領主と一体化した地主の経済外強制に対する小作人の闘争によって農民は土地から離れるのであり、(ホ)の主張を江戸時代寄生地主制の一般的特徴として概括することは困難であろう。

(1) 「成立Ⅰ」p80-90

(2) 津田秀夫「地主制形成期における小作騒動」(「明治維新と地主制」岩波書店

(3) 「明治維新と地主制」(岩波書店)p192

(4) 福島正夫「地租改正」(吉川弘文館)p51

(5) 「明治維新と地主制」(岩波書店)p198

(6) 前掲書p189

(7) 「成立Ⅰ」は農民の移動制限がとくに後進地帯において顕著であろうと推定

   (p85)しているが、この史料にみられるような先進地帯農村においても制限は存在したのである。

 

2 明治時代の寄生地主制 

 

 「成立Ⅱ」は明治時代の土地制度変革および地主制について次のようにのべている。(イ)

地租改正の内容は(一)旧貢租が収穫を標準として賦課されたのに対し法定地価が課税の標準とされた。(二)税率は3/100の定率とし、年の豊凶によって増減することはしない。(三)収納物件は一律に貨幣とした。(四)納税義務者は地券の交付によって確認された土地所有者とされた。(ロ)政府は原則として旧来の貢租負担者をもって土地所有者とし、これに地券を交付するという方針をとった。(ハ)新たに土地所有者として確定された者は、だいたいにおいて旧本百姓すなわち自作農と地主だったのであり、現実の耕作者ではあっても小前百姓には所有権が認められなかった。(ニ)このようにして成立した新地租は近代的租税としての本質をそなえたものといわなければならないであろう。(ホ)ただ地租の算定にさいして自家労賃費をもふくめた農業収益がすぐ収益価格の基礎とされたという点にブルジョア的には不十分さがみられる。(ヘ)地租改正の結果、地主・小作関係が維持されたとしても、この地主・小作関係が本質的に封建的関係でない以上、近代的土地所有を否定するいわれはない。一方農民層の分解について(ト)徳川期には、一方では地主と小作農への、また他方では、かなりの経営をおこなう手作地主=豪農と零細な兼業農家への階層分化がすすんでいたが、明治以降、とくに1880年代末までのほぼ20年間にこのような分解が急激にかつ全国的に進展したと考えられる。(チ)かかる農民層の分解こそ日本における資本の原始的蓄積の過程がもっとも端的にあらわれたものということができる。(リ)豪農は資本家的経営に発展しうる可能性をそなえていたが、明治期を通じて豪農は徐

々に解体し寄生地主化してゆく方向をたどった。

 上述の主張(ヘ)に対する反論として古島敏雄氏を中心とする京都近郊農村の実証的研究(1)に紹介されている原史料ならびに史実をあげてみたい。この村における小作証文(2)(明治18年1月、同32年6月)において、この農地はたとえ約束の小作期間内であっても地主の「臨時御入用之節ハ御沙汰次第速ニ御返地」しなければならないのであって、あくまで地主の農地を「小作させて頂く関係」なのである。また小作料は「豊凶に拘らず無間違急度相納」め「如何様之凶作タリトモ御勘弁有之外ニ強テ苦情申間敷」きものとされ、小作料の減免は小作人の懇願に応じて地主によってなされる恩恵にほかならない(3)。

またこの村には<出入り>という特定の小作人が特定の地主に特別な奉仕の義務を負い、これに対して地主が特殊な恩恵をあたえる関係がある。出入り関係はその出入りする地主の農地を比較的多く借りていた小作人がその子どもを地主の家の奉公にだし、そうすることによって発生したものが多い。奉公人は朝の5時から夜おそくまで働かされ、給料をもらわず盆暮の「おしきせ」だけであったが、ただ「長くいてくれたら、先のことはみてやる」ということばを唯一のたのしみとして働いていた。出入りは地主の家の人々に対してダンナサン(主人)オクサン(主婦)ボンサン(息子)トウサン(娘)とよんだのに対し、地主は出入りをよびすてにした。とくに女に対しては、本名のほかに松・竹・梅などという呼び名をつけて呼ぶことが多かった(4)。

 このような原史料ならびに史実から次のような主張をまとめることができる。明治初年政府による近代化政策がとられたが、地主・小作関係の近代化には及ばなかった。明治の地主・小作関係には経済外強制はみられず、従って明治の寄生地主制=封建制とはいえないが、上述のような人格的隷属関係の存在は近代的社会関係ということはできず、半封建制とよぶことが、その実態をもっともよく表現すると思われる。

 ただしこの村の小作関係は散掛り小作の形態をとっており、小作人が一人の地主から多くの農地を借りることはすくなく、地主と小作人のあいだの身分的な隷属関係は出入りの場合をのぞくとそれほどつよいものではない。そしてこのような身分的隷属関係の希薄さの理由としては上述のような散掛り小作のほか、都市近郊農村として労働力商品化の途が開かれていたことをあわせ考える必要があろう(5)。ただ出入りだけは一般の小作人にくらべて比較的多くのまとまった土地を出入り先の地主から借りており、この点から地主の身分的支配をうけやすい立場におかれているといえる。しかもこのような関係は明治時代だけでなく、大正・昭和を通じて存続したのである。本論文の主たる対象は明治の寄生地主制にあるが、参考までにこの時期における実情を紹介すると次の如くである。1915-6年の小作争議において地主は出入り関係を利用して小作人の結束をきりくずした(6)。そして出入り関係は戦後の農地改革時においてもなお存在していた(7)。戦後の農地改革を担当する久我村農地委で小作人代表久道和一郎は地主代表辻襄一と出入り関係にあり(8)、宅地解放で地主側の利益に同調した。このような史実を小作人が「経済的強制」のためやむなく受け入れたという理由で説明することはできないだろう。久我村は有利な就業の可能性があり、農業しか生活手段のない地域ではなかったのだから、小作人は「経済的強制」のゆえに出入り関係を維持しなければならなかったという主張は根拠薄弱である。地主と出入り関係にあった小作人たちは人格的隷属が地主との基本的な関係であって、経済的貧困による地主への依存はむしろ比重の軽いものでしかなかったといわざるをえない。戦後アメリカ占領軍が「日本政府は…日本農民を数世紀におよぶ封建的抑圧のもとにおいてきた経済的束縛を破壊するための、日本の土地を耕すものがかれらの労働の果実を享受する平等な機会をもつことを保証するような措置をとるよう指令される」とのべたのは日本の寄生地主制の本質を正しく把握したものと評価すべきであろう。

(1) 古島敏雄「寄生地主制の生成と展開―京都府乙訓郡久我村の実証的研究」(岩波書店

(2) 前掲書p184-6

(3) 江村栄一・中村政則編「日本民衆の歴史」6(三省堂)p360 山梨県根津家小作契約史料参照 地主小作契約が地主と小作人の対等を意味しないことは京都府とまったく同様である。

(4) 古島前掲書p189-195

(5) 前掲書p130、189

(6) 前掲書p165

(7) 前掲書p190

(8) 前掲書p211

 

3 明治維新の本質と天皇

 

 「成立Ⅰ」は明治維新の本質について次のようにのべている。(イ)どのような階級が政権をとろうとも、資本主義的発展に即応し、これを促進するような政策をとらざるをえなくなる場合、それはブルジョア政権というしかないであろう。(ロ)明治維新封建社会の胎内において形成されつつあった近代的土地所有を確立し、農民を封建的束縛から解放したのであって、それはブルジョア革命の課題をそれなりに果たしている。(ハ)明治維新ブルジョア革命であり、資本主義的生産様式の発展に即応した制度がこれによって形成されたものとみる。(ニ)資本主義が未発達である場合、国家収入のほとんどをすべて地租に依存せざるをえないのは、必然の結果である。日本の場合には急速に近代産業を育成しなければならず、ますます地租に依存する度合は強くなった。だからその政策が絶対主義的色彩をもつのは当然だが、維新政府は農奴制を制度的に解消しているから、明治政権は絶対王政とは本質的に異る。

 上述の主張に対する反論として下記の史実を指摘することができる。

 「(A)明治政権の対外政策と貿易」1869(明治2)年正月大村益次郎木戸孝允書簡に「主として兵力を以って韓地釜山を開かせられたく、是れ元より物産金銀の利益はこれあるまじく、却って御損失とは存じ奉り候へども…」とあり、木戸の征韓論には経済的利益は全く考慮されていない(1)。征韓派と非征韓派はいずれも征韓を必要とみていた点では同様であった。ただ順序・時期・方法の点で意見を異にしていた。たとえば征韓派下野の翌1874(明治7)年9月、朝鮮国王側近趙寧夏は「始めて貴国善隣の誼を知」り、日朝交渉再開をもとめる書信を外務省理事官森山 茂あてに通じた。しかしこの書信の意義は日本側(内治派)に無視され、森山理事官は軍艦の出動を要請した。この結果1875(明治8)年江華島事件がおこり、日本軍艦雲揚と江華島砲台との砲撃戦がおこった。江華島事件後日本は軍艦2隻を釜山に派遣し居留民保護の名目で朝鮮軍民に発砲し多数の重軽傷者を出した。1876(明治9)年の日朝修好条規は日本艦隊の示威と威圧のもとに調印された不平等条約であった。一方朝鮮開港後の日本の貿易における対朝鮮貿易のしめる地位は微々たるものであった(2)。1882年の壬午事変をきっかけに日本は対清戦争を想定した軍備拡張へとふみきった。1890(明治23)年山縣有朋首相は衆議院で「歳出の大部分を占めるものは即ち陸海軍の経費」であることを指摘しながら「国家独立自営の道に二域あり。第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである。その主権線とは国の彊域をいい、利益線とはその主権線の安危に密着の関係ある区域を申したのである。」と主張した(3)。山縣のいう利益線とは経済的利益のことではなく、自国の領土=主権線の外側に設定されるべき独占的勢力範囲=朝鮮をさす。一方1889-93(明治22-26)年に至る間の朝鮮向け輸出が輸出総額中にしめる比率は90年の2.2%を最高としてせいぜい1.4-1.8%にすぎない。日清戦争以前の輸出市場としての朝鮮の地位の低さからみて、日本産業資本の朝鮮市場確保の衝動なるものは論証しがたい(4)

日清戦争後日本資本主義は朝鮮・中国市場に決定的に依存するにいたったが1895年朝鮮国の輸出の95.3%、輸入の72.2%は日本が占めていたのが、1898年には各々79.2%と57.4%に下がっている。これは1895年におこった朝鮮王妃閔妃虐殺のような日本の朝鮮に対する政治的圧迫が経済上にも後退をもたらしたことを示している(5)。また日清戦争における宣戦布告勅語以来、天皇詔勅には「帝国ノ光栄」「帝国ノ威武」また「帝国ノ国利」という言葉が氾濫している(6)。さらに日露の外交交渉の場ではブルジョア的利害の計算よりも、国の威信や安全の擁護を名とする冒険主義がめだつ(7)

。 「(B)明治政府の殖産興業政策と日本資本主義の特徴」日本資本主義の基本的な特徴の一つは軍事的意義がきわめて大きいことである。陸軍では幕府直営の銃器火薬製造修理工場が東京砲兵工廠の基礎、幕府直営の長崎製鉄所の機械が大坂砲兵工廠の基礎、海軍では薩摩藩直営の鹿児島造船所所属の造兵機械が海軍造兵廠の基礎となり、幕府経営の造船所(製鉄所)が新しく海軍工廠=造船所として興起している。当初軍器の大部分が外国より輸入されていたが、1882年以降軍備拡張方針にもとづき、東京・大阪砲兵工廠を根幹とする官営軍事工場で日清・日露の両役を通じて造兵技術は世界的水準にせまった。たとえば1880年創製の村田銃は当時ドイツやフランスの小銃より優秀、1890年釜石鋳鉄の精錬鋳鉄で製造された弾丸の性能は従来のイタリヤ産の「グレゴリニー」鋳鉄より優秀であった。日清戦争直前(1893年)の民営工場の職工数、軍器工廠の職工数、軍器工廠の原動力数(馬力数)を各々100とすると、日露戦争直後にはそれぞれ114、831、3773の増加率を示しており、いわゆる産業革命期における民営工場職工数の激増のごときも、軍工廠職工数の躍進にくらべれば、てんで物の数でなかったことがわかるのである(8)。生糸・綿糸などの生産も製品を輸出して軍艦・兵器およびそのための鉄鋼や機械を輸入する外貨獲得に利用される意義が大きかった(9)。一方生産手段である紡績機械さえ製造不可能な技術水準のもとで、原動機とされたトルピン水車の製造を軍工廠に依存しなければならなかった(10)。

 1881年からの松方正義大蔵卿による財政改革は不換紙幣整理として有名であるが、82年からの軍備拡張8カ年計画にもとづく軍事費は82年以降の国家予算で警察費とあわせて急速に増大し、その合計は歳出合計の30%に達した(11)。1880年工場払下げ概則により官営工場払下げがおこなわれたが、官営軍事工場は一部をのぞいて払下げはおこなわれず、官営事業の軍事部門への重点強化が進行した(12)。軍器の素材としての鉄を生産する製鉄所において官営八幡製鉄所(1897年創設)と民営製鉄所(139工場)の1929(昭和4)年における総従業員数は32557人、22339人であり、原動力数(馬力数)は384548、167680で官営製鉄所は昭和の初頭においてさえ民間のそれを圧倒していた(13)。1883(明治16)年の中山鉄道建設決定以後、鉄道建設は軍事的輸送手段確保の観点から重視された。87(明治20)年3月参謀本部は「鉄道改良の議」において私鉄に至るまで、その建設を陸軍の支配下におさめることを天皇に上奏、伊藤首相にも通報した。1892(明治25)年鉄道敷設法が公布され、政府による幹線鉄道の建設、将来における私鉄鉄道の買収が決定された(14)。1906(明治39)年の鉄道国有法は鉄道を朝鮮縦貫鉄道、さらに南満の鉄道と連接させ、一貫した経営により軍事輸送網を確立すべく以前から軍部が熱望していたものであった(15)。鉄道国有法案は三井と三菱の猛烈な反対をよびおこした。三井は山陽鉄道の大株主であり、三菱は九州鉄道の大株主であった。三井や三菱は伊藤博文や井上 馨などの元老をも動かし、三菱財閥創設者岩崎弥太郎の女婿であった加藤高明外相は財閥の利益の擁護と軍部の外交介入をおさえられない不満もあって辞職したが、鉄道国有法の成立を阻止することはできなかった(16)。

 「(C)統帥権の独立の成立過程と軍部官僚の役割」明治初期太政官制のもとにおいては、軍隊に対する統帥権はいわば文官である左右大臣の掌握するところであった。1878(明治11)年12月にそれまで陸軍省の外局であった参謀局は廃止され、かわって参謀本部が設けられた。これから軍令機関である参謀本部と軍政機関である陸軍省が二元的に並立することになった。これは二度目のドイツ駐在を終わって帰国した桂 太郎の主張によるものである。このような統帥権の独立がおこなわれた理由は西南戦争の経験によるところが大きく、やがて1882(明治15)年に出された軍人勅諭では軍人の政治関与が戒められ、やがて政府および議会からの軍隊の独立を強調する制度として確立された(17)。

1889(明治22)年発布された大日本帝国憲法第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、この条項は天皇に直属する参謀本部および軍令部の設置で陸海軍の統帥が他のいかなる国家機関によってもおかされない天皇の大権事項となったことを意味するとの解釈が確立したことを示していた。憲法第12条「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」の規定も憲法起草者の伊藤博文はこの編成大権を実質的に行政府の輔弼事項にしょうとしたもののようであるが、のちに1900(明治33)年義和団鎮圧のための中国出兵に際し、参謀総長大山 巌は「出兵すべきや否やは内閣の決議を要する固より当然なれども、其兵力及び編成等に関しては本職其責に任じ調査決定すべき」であると主張して政府に兵力量を討議させなかった(18)。日露開戦後編成された韓国駐箚軍は天皇に直属し、軍司令官公使の上にたち、外交にも遠慮なく介入した。これは軍が日本の朝鮮・満州政策において政府を超越して行動する最初の例となった(19)。1906(明治39)年決定された「帝国陸軍作戦計画策定要領」は主敵をロシアと想定し、南満・関東州の日本の行政・満鉄経営その他すべての施策はこのような作戦計画に従属させられた。1907(明治40)年に決定された「帝国国防方針」(山県有朋はじめ参謀総長・海軍軍令部長の起案)について西園寺首相は「国防に要する兵力は…国力と相侔って緩急を参酌せしめられんことを願ふ」趣旨を天皇に伝えた。国の存亡に関する最高の政治方針である国防方針の決定に首相(政府)はこの程度しか関与できず、事実上は陸海軍の決定を追認させられるも同然であった。しかも国防方針は歴代の内閣を決定的に拘束した(20)。

 上述のような史実から下記のような主張をまとめることができる。天皇制の大陸への軍事的侵略主義は(A)により、かならずしも資本主義の発展に即応しこれを促進するような政策であったとはいえない。(B)により天皇制の殖産興業政策も基本的には上述のような軍事的侵略主義をささえるために実施されたものである。したがって殖産興業政策は資本主義的発展に即応し、これを促進したというよりも、軍事的侵略主義の結果として資本主義は発展したのである。(イ)(ハ)(ニ)のような主張は経済政策だけで国家権力の本質を規定しようとする誤りをおかしている。資本主義発展の結果としてブルジョアジーの政治勢力は増大し、彼等は主として政党勢力を通じ、内閣や衆議院など国家機構内にその勢力を確保した。しかし(C)によりとくに軍部官僚は統帥権の独立をたてに、大陸への軍事的侵略を推進しつつ、ブルジョアジーから、高度の独立性、超越性を保持して国家権力の主要部を掌握し、ブルジョア勢力の進出を拒否した。このような専制的国家機構をささえる重要な社会的基盤が1・2において考察した半封建的寄生地主制であった。このような特徴をもつ国家権力はブルジョア政権ではなく、絶対主義と呼ぶのが適切と考える。日本の資本主義が帝国主義の段階に入った後も、軍部官僚の国家権力支配の特徴は基本的に変化することなく、日本帝国主義の利害を代弁する国家権力として機能した。絶対主義天皇制が資本主義の高度に発達した帝国主義の利害を代弁することはありえないという主張はヨーロッパの絶対主義国家の特徴でもって歴史的伝統や政治風土の異なる東アジアに成立した明治憲法下の天皇制の本質を規定しようとする誤りをおかしているのである。明治憲法下の天皇制の本質は「絶対主義的理念・機構をもつ専制的侵略的帝国主義権力」(21)とよぶことが上述の史実の検討からもっとも適切と考えられる。

(1) 遠山茂樹明治維新」(岩波全書)p262

(2) 大江志乃夫「日本の産業革命」(岩波書店)p118-134

(3) 信夫清三郎「明治政治史」(弘文堂)p19

(4) 大江前掲書p233

(5) 井上 清「日本帝国主義の形成」(岩波書店)p47

(6) 芝原拓自「近代天皇制論」(新岩波講座「日本歴史」15)p354

(7) 井上前掲書p265

(8) 山田盛太郎「日本資本主義分析」(岩波書店)p70-96

(9) 井上前掲書p111 山本茂実「あヽ野麦峠」(朝日新聞社)p56

(10) 大江前掲書p136

(11) 家永三郎・井上清編「近代日本の争点」上(毎日新聞社)p300

(12) 大江前掲書p163

(13) 山田前掲書p115

(14) 大江前掲書p145

(15) 井上前掲書p346

(16) 信夫前掲書p152

(17) 岩井忠熊「軍事警察機構の確立」(新岩波講座「日本歴史」15)p192

(18) 井上前掲書p77

(19) 井上前掲書p244

(20) 井上前掲書p324-5

(21) 芝原前掲論文p352

 

4 自由民権運動と日清・日露戦争の評価

 

 「成立Ⅱ」は自由民権運動、「発達」の中の「日本資本主義の発展ⅠⅡ」(以下発展ⅠⅡと略)は日清・日露戦争について各々次のようにのべている。

(イ 自由民権運動)幕末の農民一揆は結果においては封建制度を崩壊せしめるひとつの原動力であり、その意味で進歩的な役割を果たした。しかし明治以後となるとその歴史的意義は異なってくる。明治政府は日本の当時の現実からいえばブルジョア的にすぎる諸制度を先進国から輸入し移植しようとしていたのであり、このような面に対して(地租改正)、

農民が対抗しようとしたかぎりでは、それは資本主義の発達を阻止し、歴史的には反動的意義をもつものにならざるをえなかった。1877(明治10)年ころまでの自由民権運動は「士族及び豪家の農商」の参政要求の立場から「有司専制」を攻撃したものにすぎない。士族の多くは没落せしめられるに至った不平のはけ口をここにもとめていたのであり、

ブルジョアデモクラシーの運動たる面があったとしても、それで一貫されたものではない。1881(明治14)年ころまでの運動ではいわゆる「士族民権」から「豪農民権」への移行があらわれてきている。全国の農村では農民一揆自由民権運動とむすびついて展開され、より広い「国民」的地盤をもちはじめた。その「国民」はブルジョア的意味における「国民」ではなかった。1882(明治15)年以降デフレーションの過程で農民や中小商工業者が急激な没落にさらされることによって、彼等の反抗は激化してゆき、民権運動は「貧民民権」たる色彩をおびる。多くは守旧的な観念のもち主であった士族や豪農は逆にそれに反対する立場に移行せざるをえなかった。

(ロ 日清戦争日清戦争絶対王政の植民地侵略戦争と同一視すべきではない。1880年代には中国・朝鮮において列強の侵略的抗争が激化しつつあった。そのような侵略に対抗しようとすれば、日本の勢力範囲を拡大し、そこに防衛線をつくらなければならない。したがって日清戦争は防衛戦争であったとしても、同時に後進国を侵略し、これを勢力範囲として確保することを目的とする側面をもち、その意味で反射された形の帝国主義戦争であった。日本資本主義は1890年の恐慌以後、海外貿易を伸張しようという欲求をつよくもち、したがって日清戦争は消極的な防衛的側面だけでなく積極的な面もあったと考えられる。

(ハ 日露戦争)井上清氏の「帝国主義」とは軍事的封建的帝国主義と本来の帝国主義の二重化されたもので、日清戦争が主として前者の帝国主義戦争であったのにたいして、日露戦争はこのような二重の帝国主義戦争であったという井上氏の主張はまったく誤った理解である。日本の資本主義が帝国主義段階に移行をはじめるのは1907(明治40)年にはじまる恐慌以後のことであり、その意味で日露戦争もせいぜい帝国主義への過渡期の戦争としか考えられない。世界史的にみた場合、日露戦争帝国主義列強の中国分割をきかけに発生しその点からみれば帝国主義戦争である。

 上述の主張(イ)に対する反論として下記の史実を指摘してみたい。明治政府は富国強兵策をうち出すことによってヨーロッパ列強と同一となることを目標とした。つまり資本主義の強行的創出をはかり、軍備拡張によりアジア諸国に対して断然侵略の方針をとる。これが富国強兵のコースであった。民権運動は政府の専制政治に対抗するとともに、強国追随の外交政策に対しても鋭い批判を浴びせた。「郵便報知新聞」(1881年3月26日)の社説は次のように主張する。「欧州に諸強国があるが、デンマーク・スイスなどの諸小国がこれに兼併されずに相並立するのをみると、結局腕力が権理に優らない証拠であろう。弱小にして腕力を恃む能はざるものも唯権理によって外国に応対争議することができるのである。」また1882年7月朝鮮京城の日本公使館が朝鮮軍隊と民衆の襲撃をうけた壬午事変に対する政府の出兵について「我邦の内治未だ整はざることを知らざるべからず、此戦乱の費幾何なるやを察せざるべからず、且征軍勝利の後、民権の上に如何なる結果を為すやを思慮せざるべからず」(「自由新聞」1882年8月8日)と平和をもって主眼となすことを強調した(1)。

 朝鮮への武力侵攻策が進められてゆくにつれて、この小国主義構想は次第に現実的基盤を失っていったが、小国主義思想が消滅したわけではない。1887年初頭中江兆民は「三酔人経綸問答」を発表し、洋学紳士・豪傑君・南海先生三者の口をかりて日本国家の進路を模索した。この三者はいずれも日本を「小弱の邦」と認識し、この小国日本をいかにして文明国とするかについて意見を闘わすのである。紳士君はヨーロッパ強国の侵略主義を次のように批判する。「ヨーロッパの東の端に一つの気狂い国があることを私は知っています。…劇薬をつかってみて、その効力が意外に激しかったので、驚き後悔しているのがドイツです。呉下の阿蒙(全然進歩せぬもの)とバカにして逆にはずかしめられ、恨みいきどおっているのがフランスです。土地屋敷をたくさん買い財産をためこんで人が盗みに来ないかと恐れ防禦の仕方に悩みぬいているのがイギリスです。気狂いどもが四・五人棍棒をふりまわして乱闘しているまん中でいとけないおさな子が遊びたわむれて、かえって怪我をしないですんでいる、それがベルギー・オランダ・スイスでしょうか。アメリカですか。」(2)この「三酔人経綸問答」を橋渡しとして小国主義論は明治後期の社会主義者たちへ引き継がれていくのである(3)。

 上述のような史実から下記の主張をまとめることができる。地租軽減を要求する農民の要求と結合した自由民権運動は3-(B)で述べた明治政府の軍備拡張と軍事工業育成中心の政策に反対する側面をもち、また大国追随の外交政策に対する批判をもっていたのであり、反動的でなく進歩的意義をもっていたものと評価されるべきである。日清戦争絶対王政の植民地侵略戦争と同一視すべきでないという(ロ)の主張についてはすでに3において詳論したところであるからくりかえさない。日清戦争=防衛戦争論は3-(A)で考察したように明治政権の成立当初からの軍事的侵略政策からみて誤った主張といわざるを得ない。日清戦争=防衛戦争論者は戦争が必然的に旅順虐殺(4)のような中国民衆の犠牲をともなうことをよく考えてみるべきではないだろうか。(ハ)の主張についても日露戦争

二重の帝国主義戦争論が正しいかどうかは別として3-(C)の考察から絶対主義の侵略的性格が日露戦争の重要な側面であったと思われる。

(1) 家永三郎・井上清編「近代日本の争点」上(毎日新聞社)p232-239

(2) 中江兆民「三酔人経綸問答」(岩波文庫)p55-56 桑原武夫現代語訳による。

(3) 家永・井上前掲書p234-239

(4) 藤村道生「日清戦争」(岩波新書)p132-133 日清戦争時旅順の日本軍は非戦闘員婦女子幼児など六万人を殺害、日本軍国主義の残虐性は世界に報道された。しかるに、時の伊藤博文首相はこの責任を不問に付したため、日本軍の残虐行為に対する罪悪感は失われ、そののちこの種の行為を続発させることになった。

 

おわりに

 

 「成立ⅠⅡ」「発展ⅠⅡ」の内容に対する私の批判と感想をまとめてみると下記の三点に要約できる。

 第一に寄生地主制のもつ封建的性格の過小評価がめだつ。第二に明治政府の近代化政策に対する過大評価と無批判、第三に反体制的運動もしくは思想に対する過小評価と無理解である。

 上述のような考え方がなぜ生まれたのであろうか。それは本書が用いている日本資本主義発達史研究の方法と深い関係があるように思われる。まず指摘しなければならないのは講座派の敵視である。本書には講座派に属する多くの学者の氏名とその著作の要約に多くのスペースがさかれているが、論理的に講座派をやりこめることに夢中となるあまり、原史料にたちかえり、自己の主張の正当性を検証するという歴史研究のもっとも基本的な出発点がなおざりにされていると思われる(1)。ついで問題となるのはヨーロッパ中心史観である。自己主張の論拠としてまずとりあげられることはヨーロッパの史実とこれに対するマルクスエンゲルス・レーニンの見解でこの二つを歴史を解釈する尺度として日本の史実を分析している(2)。この場合大切なことはヨーロッパの史実に日本の史実がいかに適合するかあるいは適合しないかといったことではなく、ヨーロッパの史実から抽象化された概念が日本の史実にあわないならば、その概念をいかに再検討するかということであろう(3)。また本書は題名からもわかるように、その分析対象は日本資本主義発達史であるが、著者が導き出した社会経済の特徴をもっていきなり国家権力・政治運動・対外戦争といった政治現象の本質を規定しようとする性急さに問題がある(4)。社会経済はなるほど政治などのいわゆる上部構造をのありかたを規定する根本要因ではあろうが、政治はそれ自体複雑な独自の要因をもってさまざまの変動をおこすのであって、政治が経済に及ぼす影響もまた大きい。政治権力は単なる社会経済の動きの機械的な反映ではありえないと思う。

 日本の近代化を日本の発展として高く評価することは、それ自体批判されることではない。しかしそれが日本の近代化の過程で根強く持続した前近代的側面をみすごすこと、および軍国主義が日本および他国の民衆にはかりしれない損害と打撃を与えた事実を忘れさることであってはならないだろう。またそうした事実を次代をになう若者たちに正しく伝えることが歴史教育者の担う重い責務である。

(1) たとえば「成立Ⅰ」p80四「地主制の本質」を見よ。「地主制のもとにおいても、小作農は土地に緊縛せられ」るという服部之総説に対する著者の反論としてあげられる主張はすべて「疑問が多いといわなければならない」とか「考えられない」という表現に終わっており、具体的史実や史料にもとづく反論はみられない。「服部氏のばあいには実証を欠いている」と主張するのならば、「成立Ⅰ」の著者も史料による実証で反論すべきであろう。

(2) たとえば「成立Ⅰ」p212 三「絶対王政」 p232 四「明治維新論」における著者の論法にこのような特徴がよくあらわれている。

(3) 遠山茂樹明治維新論」(「現代歴史学の課題」下 青木書店)p29以下の記述参照。この論文で著者が「この日本の国に絶対主義というものが成立したとしても、その絶対主義は西ヨーロッパで十六・十七世紀に出現したような古典的な絶対主義がそのままのかたちであらわれてくると考えること自体が非歴史的である。」と指摘しているような観点が大切である。

(4) 「成立Ⅰ」p247 五「天皇制」論において展開されるのはヨーロッパの史実とマルクスらの見解と講座派批判と明治政府の経済政策の評価であって、天皇制という政治機構そのものについての分析はない。同様に「発展Ⅰ」p190 一「日清戦争」についての歴史的規定づけ、「発展Ⅱ」p439 三「日露戦争の本質」においても同様で、明治維新ブルジョア革命説を強調するにとどまり、私が3-(A)(B)(C)で述べたような国家権力の絶対主義的対外政策についての言及は皆無である。