小林多喜二「蟹工船」を読む21~30

小林多喜二蟹工船」を読む21

 二時でもう夜が明けていた。絆天の袖にカガシのように手を通しながら、漁夫が段々を上がって来て、ハッチから首を出したまま、はじかれたように叫んだ。

 「あ、兎が飛んでる。-これァ大暴風(しけ)になるな。」三角波が立ってきていた。カムサッカの海に慣れている漁夫には、それがすぐ分る。「危ねえ、今日休みだべ。」

Weblio辞書―三角波

 川崎船を降ろすウインチの下で、其処、此処七、八人ずつ漁夫が固っていた。川崎船はどれもどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆすりながら海を見て、御互い云い合っている。

 「やめた、やめた!」「糞でも喰らえ、だ!」肩を押しあって、「おい引き上げるべ」と云った。雪だるまのように、漁夫達のかたまりがコブをつけて大きくなって行った。ほとんど一人も残さないで、、「糞壺」へ引きあげてきた。

 雑夫達は全部漁夫のところに連れ込まれた。一時間程するうちに、火夫と水夫も加わってきた。みな甲板に集まった。

 「要求条項」は吃り、学生、芝浦、威張んなが集ってきめた。それを皆の面前で、彼等につきつけることにした。

 監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。船長、雑夫長、工場代表などが何か相談をしていたらしいことが分るそのままの恰好で迎えた。

 監督は落ち付いていた。入ってゆくと、「やったな。」とニヤニヤ笑った。監督は「要求条項」と三百人の「誓約書」をチラチラ見ると、「後悔ないか。」とゆっくり云った。「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから。」

 云うより早かった。芝浦が監督のピストルをタタキ落すと、拳骨で頬をなぐりつけた。監督がハッと思って顔を押えた瞬間、吃りが丸椅子で横なぐりに足をさらった。監督は他愛なく横倒れになった。、

 「色よい返事だ? この野郎、フザけるな! 生命にかけての問題だんだ!」

 薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。あわてて「糞壺」に駆け込んだ。

大日本帝国海軍 所属艦艇―駆逐艦

 「我帝国の軍艦だ、俺達国民の味方だろう。」皆は「糞壺」からドヤドヤ甲板をかけ上がった。そして声を揃えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。

 駆逐艦からは三艘の汽艇が出て横付けになり、タラップを上ってきた水兵は帽子の顎紐をかけ、銃の先に着剣し、漁夫や水夫を取り囲んでしまった。

 「ざま、見やがれ!」監督だった。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒されて、代表の9人が銃剣を擬されたまま、、駆逐艦に護送されてしまった。

 「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分った。」

 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹缶詰の「献上品」を作ることになっていた。

 「俺達の本当の血と汗を絞り上げて作るものだ。フン、さぞかしうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起こさねばいいさ。」皆そんな気持ちで作った。「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

 

小林多喜二蟹工船」を読む22

 「「蟹工船」の後半を掲載した「戦旗」(当時12000部発行)1929(昭和4)年6月号は発売禁止となりましたが、前作の「一九二八年三月十五日」以上の反響を呼び起こしました。

 東京朝日新聞に掲載された「作品と批評」という評論で蔵原惟人は次のように述べています。

 「小林多喜二はその作品の根底に常に何等かの大きな社会問題を置こうとしている。(中略)由来わが国の文学にも社会的な問題をその根底に置いた作品は決して少なくない。しかし、それを客観的な芸術的形象の中に描き得た作品は、ブルジョア文学に於いてはわずかな例外(例えば藤村の『破戒』の如き)でしかなかった。(中略)小林多喜二の『蟹工船』は、その典型的な作品である。

 しかし、集団を描こうとするの余り、個人がその中に埋没してしまう危険がある。(中略)

プロレタリア作家は集団を描くために個人を全然埋没してしまってよいだろうか?」

Weblio辞書―蔵原惟人―不敬罪―宮本顕治・百合子

 この作品は、進歩的な評論家ばかりでなく、広く文壇的にも認められ、8月の読売新聞で、二九年度上半期の最高の作品として、多くの作家、評論家の推薦をうけました。

 「蟹工船」は単行本として戦旗社から日本プロレタリア作家叢書の1冊として出版発売され、発売禁止となりながらも、戦旗社の配布網を通じて短期間に15000部を売りつくしました。北海道でも札幌の維新堂と富貴堂で300部、小樽では稲穂町の丸文書店に立看板を出して発売、2~3日中に100冊も売れたほどでした。

 「蟹工船」を発表した直後、多喜二は小樽警察署に呼び出され、作品中献上品の缶詰に「石ころでも入れておけ!」という文章(「蟹工船」を読む21参照)について取調べを受け、翌年彼は治安維持法で逮捕投獄されたとき、再びこの問題で不敬罪の追起訴を受けました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む23

 多喜二は相次ぐ弾圧でほとんど壊滅した小樽の組合組織の再建に奔走しつつ、「中央公論」と契約して1929(昭和4)年7月6日中編小説「不在地主」を起稿しました。この小説は彼が身近に経験した磯野小作争議(「蟹工船」を読む10~11参照)における農民と労働者の共闘を描いた野心作でした。

 彼はこの小説のほとんど大部分のノート稿を銀行の勤務時間中に執筆、同僚の織田勝恵が彼を助けてくれました。同年9月10日彼は突然銀行の調査係から出納係に左遷されたのです。同年9月29日多喜二は「不在地主」(全集第2巻)を完成、「中央公論」編集部の雨宮庸蔵宛手紙を添えて送稿、同小説は10月19日に発売された「中央公論」11月号に発表されました。

 しかし発表された作品は著者に無断で最後の、物語の最後の舞台が農村から小樽に出て来た農場の小作人代表を加えて、労農争議共同委員会が組織され、争議が白熱化していく場面が省略されていました。

 多喜二は「中央公論」12月号に、削除された箇所を掲載してくれるよう依頼しましたが、容れられなかったので、蔵原惟人に「不在地主」原稿を送るよう「中央公論」編集者に頼み、「戦旗」に発表してもらうよう蔵原に要請、「不在地主」最後の章は「戦い」と題して「戦旗」12月号に掲載されました。

 「不在地主」の発表が直接の原因となって、多喜二は北海道拓殖銀行依願退職の形式で解雇されました。「不在地主」の原稿料は500円で、そのうち250円を母の名義で預金、残金は負債の返済や友人のために使用しました。同小説執筆を援助してくれた織田勝恵には縮緬の反物を贈ったのです。

 失職して彼は生活の不安を切実に感じましたが、そのことよりも、母を落胆させることが何よりつらかったようです。彼は銀行を解雇されたことを母に告げることができず、しばらく、毎朝いつものように背広に着換えて出勤のふりをして家を出ました。

2009/6/21NHKBSⅡ「いのちの記憶 小林多喜二」

 

小林多喜二蟹工船」を読む24

 当時北洋漁業を独占していた三菱系の日魯漁業の子会社北海製缶工場の労働者伊藤信二の助力をうけて、多喜二は1930(昭和5)年2月24日「工場細胞」(全集第3巻)を完成していました。

小樽市へようこそー検索―北海製缶小樽工場

 この作品を書きはじめたころから、彼は上京の決心を固めていましたが、その事には田口タキ(彩子)の問題もからんでいました。

 小樽の中央ホテルで働いていた田口は将来独立できる技術の習得を望んでいたのです。彼女は多喜二と相談して、東京で洋髪の学校に入学することを決め、月々の収入の中から、上京の費用を積み立てていました。

 若竹町の家には、幾春別の幸田夫妻に移住してもらって、店や母たちの面倒をみてもらうことになっていました。

 一方「一九二八年三月十五日」や「蟹工船」はソビエトで訳しはじめられており、「蟹工船」は中国で潘念之によって訳されていました。

 1930(昭和5)年3月末、多喜二は上京、田口の上京を待ちながら、中野区上町の斎藤次郎宅に下宿しました。彼の作品「工場細胞」は「改造」4~6月号に連載されました。

 田口は4月10日ころ上京、多喜二は斉藤次郎宅に近い同じ上町で部屋を借り、田口とともに生活しました。二人にとって幸せな短い一刻であったと思います。彼女は5月1日から洋髪専門の学校、代々木整容学院に入学を予定していました。

 同年5月中旬、戦旗社は戦旗防衛三千円基金募集運動を呼びかけ、さらに防衛講演を東京や関西方面に計画、江口渙、小林多喜二中野重治大宅壮一らを関西に派遣しました。講演会は京都を」はじめ大阪、山田、松阪(三重)の各地で開催されたのですが、5月23日多喜二も、他の同志とともに逮捕され、大阪島之内署に留置されました。

 これは5月20日に始まった警視庁による東京の戦旗社に対する捜索と逮捕の一環で、共産党への活動資金の援助をした学者、作家グループの検挙でした。

 多喜二は島之内署でひどい拷問をうけ、6月7日いったん釈放、4~5日後に帰京しました。田口は多喜二が関西へ旅立った後、代々木整容学院の寄宿舎に入っていました。

 しかし多喜二は6月24日再び警視庁特高に逮捕され、治安維持法違反で起訴をうけ、「蟹工船」記述内容による不敬罪の追起訴処分となったことは既述の通りです(「蟹工船」を読む22参照)。

 

小林多喜二蟹工船」を読む25

 1930(昭和5)年8月21日、多喜二は豊多摩刑務所(中野刑務所)に収容されました。

その独房はT字型の赤れんが建ての「南房」階上にあり、鉄格子のはまった高い小さな窓にすりガラスの回転窓がついていました。房は板敷で二畳の広さがあり、縁のない畳が一畳入っていて、その他日常生活に必要な最低限度の備品が備えられておりました。彼はここで63番と呼ばれていました。

なかの写真資料館―旧中野刑務所

 弟の三吾や田口などが、面会にきてくれました。田口は9月末に整容学院を卒業していましたが、頼りにしていた多喜二の思いがけない逮捕によって、様子もわからず、途方に暮れるばかりでした。獄中からの多喜二の手紙をもらっても、彼女は返事を書いていいのか迷ったようです。彼女がはじめて面会にいったのは同年10月半ばを過ぎたころでした。田口は学校を出て、そこの助手を勤め、住み込みで3円の手当をもらっていました。

 彼は田口に東京で不安定な生活をするより、小樽に帰って、若竹町の彼の自宅で母セキと一緒に暮すよう、しきりにすすめました。

 また彼はそのころ奈良に住んでいた志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)に手紙(同年12月13日付書簡 全集第7巻)を書いています。大阪で検挙されなかったら、彼はまだ一度も会ったことのない志賀直哉を奈良に訪問する積りだったのです。

 田口は同年12月27日義父が突然死去したという知らせをうけ、小樽へ帰りました。再婚してから、田口の母は3人の幼い子供を抱えていました。妹のミツは小樽の中央ホテルで働いていましたが、義父の死によって、母と4人の弟妹たちの生活が急に田口の肩にのしかかってきたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む26

 1931(昭和6)年1月22日午後9時半過ぎ、多喜二は豊多摩刑務所から保釈出獄しました。刑務所の門前で、弟三吾斎藤次郎壷井栄らが彼の出獄を出迎えました。

 多喜二の出獄を知ると、田口は妹のミツを連れて2月中旬小樽から上京、彼は田口に結婚の同意をもとめました。しかし彼女は意外にも彼の申し出を承諾しませんでした。

 彼女は彼を深く愛していただけでなく、、尊敬を含めた気持を持っていたのですが、思いがけない義父の死去によって、彼女が多喜二と結婚すれば、彼の生涯と仕事の上に、はかりしれない負担をかけると思ったからです。

 3月になると田口は本郷湯島に三畳の部屋を借りて妹と同居し、丸ノ内の常盤屋という料理店に勤務しました。せっかく習った洋髪の技術も、切迫した田口一家の家計を支える役には立たなかったようです。

 同年5月24日日本プロレタリア作家同盟第3回大会が築地小劇場で開催されましたが、同大会が終了してまもなく、多喜之は小樽若竹町の自宅へ帰りました。東京に家をもって、母をひきとりたいとかねて思っていたので、その打ち合わせのための帰省でした。

 帰京後の7月11日、日本プロレタリア作家同盟第1回執行委員会で、委員長江口渙、書記長に小林多喜二が選出されましたが、同月末杉並区馬橋3―375の借家に母セキ、弟三吾と住むことになりました。

 多喜二の母が上京する10日ほど以前に、田口の母も幼い子供を連れて上京していました。田口は少しでも収入を多くするために、丸ノ内の店をやめ、品川の鳥料理屋に勤め、妹も銀座のフランス料理店で働きました。田口一家7人は神田で六畳の部屋を借りて生活していたのです。多喜二はときどき訪ねてはみたのですが、田口とはほとんど会うこともできませんでした。

 作家同盟では創作の題材が限られ、類型化している傾向が指摘されていました。蔵原惟人はナップ機関誌「ナップ」9~10月号の「芸術的方法についての感想」と題する論文を谷本清の署名で発表、プロレタリア作家の作品を批評し、小林多喜二の作品について「工場細胞」などの創作が共通した問題に触れ、、作家が傍観者としてとどまることなく、現実の深い理解者となることが必要であると指摘しました。

 この蔵原の評論を原稿で読んだ多喜二は深い感銘を受け、彼は「ナップ」10月号から長編小説「転形期の人々」(全集第4巻)を連載しはじめました。

 同年9月18日満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)が起こって軍部による中国への侵略戦争が起こされ、ファシズム勢力の台頭に対する国際的な民主的統一戦線の結成が急務となりました。

 同年10月。彼は非合法の日本共産党[「労働運動二十年」を読む24参照、1922年11月コミンテルン(「蟹工船」を読む27参照)第4回大会で日本支部として承認]に入党し、作家同盟の党グループに参加して活動するようになりました。11月初め多喜二は奈良の志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)を訪ねました。プロレタリア作家として活躍するようになってからも、彼は志賀直哉に対して深い親しみと敬意をもちつづけ、著書を送って批評を乞うたりしていましたが、直接訪問したのはこの時がはじめてでした。

奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居

 後に志賀直哉は、この日の多喜二を次のように語っています。「彼は実に暢気に話をして行ったよ。あの人は何も道楽がなく、将棋も麻雀(マージャン)もやれないといふので、仕方がないから一緒にあやめが池の遊園地へ遊びに行ったよ。僕はその時子供を連れて行ったが(中略)、木柵に凭れて、小林君は何かしら元気に子供の相手になったり、僕に話しかけたりしていたのが今でも目に見えるやうだ。(中略)ここへ来た時も、僕の話を黙ってきいて、少しも自分から理屈を言ったり、「批判」をやったりしなかった。(中略)それまで抱いてゐたプロレタリア作家というものにたいする僕の考えをすっかりなほしてくれたような人だ。」(「志賀直哉の文学縦横談」志賀直哉全集第14巻 岩波書店

 

小林多喜二蟹工船」を読む27

 

 1932(昭和7)年3月末ころ、多喜二は作家同盟第5回大会の一般報告「プロレタリア文学運動の当面の諸情勢及びその立ち遅れ克服のために」(全集第6巻)を杉並区馬橋の自宅で執筆していましたが、4月上旬宮本顕治・百合子夫妻を訪問している間に、馬橋の自宅が特高の捜査をうけたことを知り、のちに多喜二が結婚する伊藤ふじ子の紹介により、小石川区原町の木崎喜代方に移り、逮捕ををまぬがれ、地下活動に入りました。

 4月20日ころ、「プロレタリア文学」4月号の巻頭論文「第五回大会を前にして」(全集第6巻)を書きあげた後、多喜二は10日ばかり世話になった小石川区原町の家から麻布東町称名寺という寺の境内にある二階家の一室を借りてひそかに移り住みました。その隠れ家は上下一間ずつの家で、二階には家主の母子が住み、彼が借りた階下の5畳の部屋は一日中日光のはいらない陰気なところでした。彼は地下活動に入ってまもなく、伊藤ふじ子(沢地久枝「完本 昭和史のおんな」文芸春秋)と結婚して同棲しました。

 伊藤とは1931(昭和6)年の春ころからの知り合いで、彼女は画を学び、刺繍の仕事などもしていましたが、そのころ銀座の図案社に勤務していました。

 彼女のわずかな給料が、しばらく多喜二の地下活動をささえたのです。

 この後五、一五事件が起り、政党内閣最後の首相となった犬養毅が暗殺されました(「花々と星々と」を読む39~40)参照)。

 一方同年7月10日非合法下の日本共産党機関紙「赤旗」特別号はコミンテルン「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(河上肇訳32年テーゼ)を発表し(「現代史資料」14 社会主義運動1 みすず書房)、日本の天皇制封建遺制を分析、帝国主義戦争と天皇制に対する闘争を強調し、革命の性格が社会主義革命へ強行転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命であると主張しました。

独学ノートー単語検索―コミンテルン(第三インターナショナル)―河上肇

 この32年テーゼ(ドイツ語these 肯定的な主張)を現代の視点でみると、ソ連社会主義の理想化とロシア革命のパターンの日本への適用ではなかったのかと思います。

 日本の支配層はロシアのツァーを頂点とする専制支配者ほど頑迷ではなく、天皇を王道(力ではなく徳をもって治めるという中国の政治思想)の実現者とする古くからあった日本的尊王思想をもって、天皇を国民的統一の基軸とし、憲法を制定、議会を開設して、徐々に国民の意向聴取を拡大しつつ、不十分な民主化ではあったが、大正末期には政党内閣の慣例を確立するに至っていました。

 そして国民に対しては、天皇は国民を我が子のように慈しむという家族国家観(石田雄「家族国家観の構造と機能」明治政治思想史研究 未来社)の教育を確立していたのです。

 日本共産党はこの時点で、共産主義者ではない異なった思想信条を持つ人々とともに、軍部独裁と戦争への道に反対し、天皇制の下における民主的諸権利の拡大と平和を守るための民主統一戦線の結成に尽力すべきであったのです。

 日本共産党結党直後のコミンテルン及び同党内には上記のような統一戦線方針を重視する人々も居なかったわけではありません(松尾尊允「大正デモクラシー」第8章4 日本共産党と普選問題 岩波書店)が、32年テーゼ決定に参加した当時の日本共産党指導者たちはコミンテルンの圧倒的権威を前にして、未熟にも同テーゼを承服せざるを得なかったのでしょう。

 「帝国主義戦争の内乱への転化」とか「天皇制の転覆」などのスローガンは、日本の国民大衆にはなじめないもので、結局大部分の国民から孤立していかざるを得なかったのです。

 権力による弾圧と特高が党内に送りこんだスパイによって、党組織が壊滅していったのも、大部分の国民から孤立した組織であったために、スパイに撹乱されやすかったのではないでしょうか。

 

 

小林多喜二蟹工船」を読む28

 1932(昭和7)年7月、多気二は東町の隠れ家から比較的近い新網町へ移動しました。そこはにぎやかな商店街の裏の住宅地にある素人下宿で、三方がガラス障子になっており、西日をまともにうけ、トタン屋根の照り返しのきびしい二階の6畳の部屋でした。

 彼は七輪や炭箱などを物干台の片隅に並べて、炊事を二階でしていました。押し入れには不意に襲われたときの用意に草履を置き、屋根伝いに逃げるためで、大型トランクに一切の書籍や原稿等を入れて、連絡や会合で外出するときは、必ず施錠して出掛けました。

 彼はここに引っ越してから、間もなく中編小説「党生活者」(全集第4巻)の執筆をはじめ、最後の原稿を「中央公論」編集部におくったのは、同年8月25日でした。作品の内容と当時の事情から「中央公論」編集部はこの小説の発表を延期、多気二は予定の稿料の一部しか入手できませんでした。

 地下活動に入った後も、多気二は田口タキを訪問していますが、話が出来ないと弟の三吾に手紙(1932.8.20日付書簡 全集第7巻)をかいています。

 同年9月下旬、多気二は新網町の二階から、同区桜田町に一軒の小さな二階家を借りて移住、まもなく伊藤の母を郷里の静岡から呼び寄せ、かなり安定した隠れ家をもつことができました。しかし1933(昭和8)年1月10日ころ。伊藤ふじこが突然銀座の勤務先で逮捕、翌日の早朝、桜田町の隠れ家は数人の特高刑事に踏み込まれ、家宅捜索をうけました。多気二は用心して、数日前から他に泊っており、その日早朝連絡を済まして、特高が引き揚げた直後に帰宅したのでした。

 このような事情で彼は同年1月20日ころ、渋谷区羽沢町の国井喜三郎方の一室を借りて移転しました。伊藤ふじ子は2週間後に釈放されましたが、ふじ子との関係をたどって捜査される危険があり、その後多気二は伊藤と生活をともにすることはありませんでした。

北海道は素敵です!!―私は伊藤ふじ子が好き!!

 彼の最後の住居となった羽沢町の家は、彼の地下活動をひそかに援助してくれた村山籌子のはからいによるもので、国井家の主人は勤務先を仙台に持つ商工省の工芸関係の技官で当時海外出張中でした。同氏夫人は仙台の官舎に出掛けて不在のことが多く、婦人雑誌社に勤務していた長女が女と子供だけの家庭をきりまわしていました。村山籌子はこの人と親しかったのです。

 多喜二は新聞広告を見て訪れ、山野次郎という簿記の先生のふれこみで下宿しました。彼の荷物は大型トランク2個だけでしたが、それとなく事情を知った長女のひそかなこころづくしもあって、家中のあたかい親身なもてなしをうけました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む29

 1933(昭和8)年2月20日正午過ぎ、多喜二は赤坂福吉町の飲食店で今村恒夫とおちあい、共産青年同盟の指導部にいた三船留吉と時間をかけて会合をもつ予定でした。彼はまもなく今村とその店を出て、、今村の案内で待合街の路地を溜池の方へ歩いていきました。多喜二は変装用のロイド眼鏡をかけ、鼠色のソフトをかぶり、大島銘仙の着物に二重廻し(男性用の外套の一種、インバネスともいう)を着ていました。三船との連絡場所は近くの飲食店で、二人は約束の時刻にその店に入ると、そこには三船の姿はなく。築地警察署の特高刑事が張り込んでいました。後に分かったことですが、三船留吉は前年10月の一斉検挙後、地下組織に入り込んだ秘密警察のスパイの一人でした。

 二人は電車通りをめざして逃れようとしました。追跡する特高たちは「泥棒!」「泥棒!」と連呼、通行人や街の人たちの協力を求めたのです。「泥棒!」の叫び声に応じて、街角近くのガレージから、数名の屈強の男が飛び出して多喜二に襲いかかり、今村も自転車で追跡してきた特高に体当たりされて逮捕されました。

 関係者の証言によると、多喜二が虐殺されるまでの経過は次のような事情であったようです。

 築地署へ連行された多喜二は、はじめ自分は山野次郎だと言い張ったのですが、顔見知りの特高主任から、写真をつきつけられて本名を明かし、今村に『おい、もうこうなっては仕方がない。お互いに元気でやろうぜ』と声に力をこめて言い放ちました。それを聞いた特高は『何を生意気な』と云って、多喜二を寒中まるはだかにして、握り太のステッキでなぐりかかりました。

 二人はそれぞれ別室に連れていかれ、多喜二に対する残虐きわまる拷問は前後3時間以上に及び、彼がほとんど無意識状態になるまで続けられました。

 夕方同署第三檻房に投げ込まれた多喜二は大変苦しみ、やがて危篤状態となったので、保護室で医師が注射したらしく、担架で同署裏の前田病院に運ばれましたが、まもなく午後7時45分彼は絶命しました。

 特高警察は検事局と協議、翌2月21日午後3時ころ特別放送で心臓麻痺によるとする彼の急逝を発表、各紙夕刊も一斉に報道しました。

  小林多喜二急逝の報道は友人や同志におおきな衝撃を与えました。彼等は多喜二の母、弟の三吾と医師、弁護士の立会いで引き取りの交渉をすることにしたのですが、多喜二の母セキは孫をネンネコで背負って築地署に赴き(小林セキ述「前掲書」)、少し遅れて親戚の小林市司とともに、二人は同署特高室に入りました。同署は集まって来る友人や同志たちの入室を一切受け付けませんでした。

午後9時になって多喜二の母らはようやく前田病院に案内され、白布に包まれた多喜二の遺体を収容した寝台自動車は多喜二の母らも乗せて動き出しました。自動車は午後10時すぎようやく馬橋の小林宅に到着、やがて安田徳太郎

博士の指導の下死体の検査が始まりました。

Weblio辞書―安田徳太郎

 その凄惨極まりない遺体の状況の詳細は、手塚英孝「前掲書」下に記録されていますので、ご覧になってください。

 作家同盟などの友人や同志たちが次第につめかけ、その中にまじって田口タキと妹のミツもかけつけていました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む30(最終回)

 翌日の2月22日、前日から相談されていた遺体の解剖をすることになりました。心臓麻痺という検察当局の発表に対する真相の科学的実証が必要とかんがえられたからです。

 午前中佐々木孝丸と安田博士が大学病院と交渉しましたが、帝大と慶応大病院には当局の手廻しがあったらしく断られ、慈恵医科大病院は一旦解剖を引き受けたものの、後に拒絶してきました。

 一方警視庁と杉並署は多喜二宅近くの空き地に警戒本部を設置して警官が同家を包囲、葬儀、通夜に親戚以外の参集を許さぬと通告、家の中から近親者以外を追い出し、弔問にくる人たちを検束しはじめました。

 2月23日も弔問者は家に近づくこともできませんでした。弔電は前日からひっきりなしに届き、奈良の志賀直哉からも弔文(昭和8年2月24日 日記 志賀直哉全集第11巻)が届きました。

 告別式は予定通り同日午後2時から行われました。参列者は多喜二母セキ、弟三吾、田口タキと妹、江口渙ら13人で、江口渙が司会者として故人の生涯と業績について語ろうとしたのですが、言葉半ばでつづけることができませんでした。

 午後3時すぎ多喜二の柩は杉並区堀の内の火葬場に向いましたが、警視庁と杉並署の特高は火葬場の入口まで警戒を解かなかったのです。

  多喜二の死を知って、志賀直哉は同年2月25日の日記(志賀直哉全集第11巻)に「アンタンたる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と書いています。

 その後の田口タキの人生については、小林セキ述「前掲書」をご覧下さい。

あの人の人生を知ろうー文学者編―小林多喜二

 3月18日~30日まで小林多喜二創作「沼尻村」(全集第4巻)が追悼公演として築地小劇場で(大沢幹夫脚色・岡倉士郎演出)新築地劇団によって上演されました。

 中国の作家魯迅は次のような弔詞をよせてきました。「日本と中国との大衆はもとより兄弟である。(中略)我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」

 最近小林多喜二の代表作の一つ「蟹工船」が若い人々を中心によく読まれて

いるようです。ブラック企業で過重労働に従事する人々や非正規労働者の劣悪な労働条件は「蟹工船」に描写された労働者の実態が決して過去のものではないことを示しています。多喜二はこの作品を通じて、現代の若者を励ましているように思われます。。

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