犬養道子「花々と星々と」を読む31~40

犬養道子「花々と星々と」を読む31

 それが、椿の咲きつくして、桃や桜の咲く季節になると、再び開けられました。「なにィ、クモォ? 平気じゃい、平気じゃい。ヒヒヒ」脳のてっぺんから湧き出るような、甲高い声の人が谷間の部屋にやって来たからです。

古島一雄(花々と星々と」を読む15参照)。正岡子規(「坂の上の雲」を読む5・7~8参照)と、『日本及日本人』の雑誌編集室で一緒であった若き日を持つ彼は、護憲運動の陰の大役者でありました。犬養木堂の右の手よと、世に知られる人でした。

 彼は道子を孫のように可愛がり、且つからかったのです。「りんごの、一番うまいとこ、どこか知っちよるかい」「知らない」「そりゃな、皮と果肉(み)のちょうど、あいだよ。じいさんにそう言うて、皮と果肉の間をもろうて来い。ヒヒヒ!」

 他にもいろんな人が来ました。頭山満。彼にしたがう、仕込杖の壮士たち。李王殿下。久邇宮さま。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―とー頭山満

 けれどー道子が恐れていた人は来ませんでした。幸いにも四ツ谷のお祖母ちゃまは、蜘蛛の多い、だっだっぴろい、そしてお湯の塩っぱい熱海はおきらいなのでした。

 その祖母ちゃまの前では、茹でられた伊勢海老のように固くつっぱりかえる母が、碁盤を前にさし向う古島さんと祖父のわきでは、横坐りさえするのでした。甘ったれて、ねえおとうさま、こんやのおかず何にしたらいいかしらんねえ、なぞ言うのでした。

「がんもどきでええよ、仲さん」「わしが干物を買(こ)うて来てやるよ、仲さん」祖父は母にやさしかったのです。

 道子はだんだんと元気になって行きました。古島さんが海べから、毎日バケツに汐を汲んで来て、「海水浴」と言って道子のゼロゼロ言う胸に塗ってくれました。 

 老人ふたりは彼女を、掌中の玉のごとくに扱いました。日光浴のかたわらで、祖父はせっせと蜜柑汁をしぼり、りんごを磨(す)りました。

 梅園そばの蜂園から取りよせた蜂蜜や、椿の大島から人にたのんで持って来てもらった蜂蜜を、祖父は丹念に、りんご汁にまぜ入れて、日光浴の彼女に飲ませるのでありました。

 半生を賭して、ついに議会を通過させ、めでたく陽の目を見させた普通選挙法が、全国の心ある人々をよろこばせたその直後、彼は政界を引退しました。

 観樹邸での日光浴の日々はまた、そのような彼の、悠々自適の閑日でもあったのです。

 若葉が、さしも広い観樹邸の、座敷の奥まで緑の色を流しこむころ、彼女たちはその邸に別れを告げました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む32

 1925(大正14)年孫文は北京にて死去、1929(昭和4)年孫文の陵墓中山陵が南京に完成すると、犬養毅孫文移霊祭に招待されました(第4回中国訪問)。同年5月20日犬養は令息健、古島一雄、萱野長知らとともに東京発、翌日神戸から長崎丸で出港上海に向かいました。また頭山満一行及び故宮崎寅蔵(滔天)遺族一行も招かれています。

Weblio辞書―検索―萱野長知―宮崎寅蔵 

 犬養らは同月23日上海上陸、この夜上海市長張群は犬養一行のために盛大な歓迎会を開催、張群市長の挨拶があり、犬養が謝辞を述べ、ただちに通訳によって同席の中国人に伝えられました。同謝辞において犬養は次のように語っています。

「自分が孫君を援助したなどとは、洵(まこと)に心苦しき次第である。唯だ孫君とは東亜の大局に対し同じ目的を持って居った事と同じ境遇に居った為めに、互いに理解して扶け合ったに過ぎぬ。」 

 5月27日南京に到着、同月28日孫文の霊柩の到着を出迎えました。犬養は祭文を朗読、6月1日孫文の霊柩を城外の墓陵に奉安する儀式が挙行されました。

ツーチャイナー地域別で探すー南京を知るー2015年9月22日 南京市の中山陵

 6月3日夜犬養毅頭山満ら一行は蒋介石の自邸に招待され、中国側は胡漢民、戴天仇(「花々と星々と」を読む30参照)らの要人が出席しました。6月4日南京発、揚州を経て上海着、6月8日海路青島に向かい済南より曲阜聖廟と孔子の墓に参拝、天津、北平(北京)に出て7月3日帰京しました。

 中国訪問後、犬養は再び信州富士見の白林荘で悠々自適の生活にもどったのですが、1929(昭和4)年8月22日早朝荘内散策中転倒して腰部を捻挫、病臥療養の身となりました。傷がようやく癒えて、同年9月25日帰京、つづいて湯河原の天野屋(「日本の労働運動」を読む47参照)別館の浴客となり、上記の如く急死した田中義一政友会総裁の告別式に臨んだ後も、引き続き湯河原で療養生活を送っていました。

 田中の死後、政友会内では鈴木(喜三郎)、床次(竹二郎)、中橋(徳五郎)、山本(条太郎 「花々と星々と」を読む38参照)、久原(房之助)ら後継総裁説が乱れ飛び、分裂しかねない情勢となっていました。 よって10月7日政友会長老、顧問、前閣僚等は協議の結果、犬養毅を総裁に推戴することに決し、翌8日幹事長森恪は犬養を湯河原に訪問、総裁就任についての諾否の内意を伺ったのです。これに対して犬養は次のように答えたそうです(「東京朝日新聞」10月9日夕刊 鷲尾義直「前掲書」中 引用)。

 「自分は党の諸君の期待するやうには働けるとは思って居ない。若し党の現状に於て自分がこの老体を提して出ることが大局の上から必要であるといふことであれば、自分も政友会の一党員として党の為め最善を尽すべき大なる義務と責任があるのだから、此際謹んでお引受けしようう。」

 1929(昭和4)年10月12日立憲政友会臨時大会が党本部で開催され、犬養毅は第6代政友会総裁に推戴されました(小林雄吾「立憲政友会史」7 日本図書センター)。

日本漢文の世界―英傑の遺墨が語る日本の近代―作品リストー犬養毅(木堂)

 第57議会(1929:12.26開会、30.1.21解散)の休会明けの1930(昭和5)年1月20日、開催された政友会大会に於いて、犬養は政党の争いは政策を以ってすべきことを強調し、金解禁問題(「男子の本懐」を読む24参照)について大要次のように述べています。

 「金の解禁に対しては、勿論その趣旨に於ては賛成であるが、それを断行するには、その時期を見ることが必要であり、またこれに対する準備は欠くべからざる要点である。

 然るに現内閣は単に財政及び公私経済の緊縮のみを以て絶対の準備対策としたことは、我が経済界の将来にとって甚だ憂慮すべきことである。これが為めに全国都鄙全般に亙る不景気は益々深刻となり、失業者は日共に激増し、此の勢を以て進めば如何なる事態を醸成するか測り知れぬ趨勢である。先づこれが応急善後の対策を行うて当面の急を救ひ、不用意なる解禁の惨禍を出来得る限り緩和せしめることに努力しなければならぬと思ふ。」

 同年2月20日第17回総選挙の結果、民政党が第1党となり、政友会は第2党にとどまりましたが、第58議会(1930.4,23開会、5.13閉会)において犬養はロンドン海軍軍縮条約(「男子の本懐」を読む26参照)について、浜口首相をはじめとする閣僚に対して、つぎのように質問演説(要旨)しています。

 「第一ハ軍縮会議ニ於ケル結末デアリマス。是ハ総理大臣ノ御演説並ニ外務大臣ノ御演説ヲ承リマシテモ、是デ国防上ノ危険ハナイト云フコトヲ断定的ニ申サレテ居ルノデアリマス。所デ此兵力量ヲ以テ確ニ安全ニ国防ガ出来ルヤ否ヤト云コトニ付テハ、私共非常ナ疑ヲ持ッテ居ルノデアリマス。

 用兵ノ責任ニ当ッテ居ル(海軍)軍令部長ハ、回訓後ニ声明シタモノガアル、此声明書ニ依リマスト、七割ヲ欠ケタ米国案ヲ基礎ニシタ譲歩デアル、此兵力量デハドンナ事ヲシテモ国防ハ出来ナイ斯ウ断言致シテ居ルノデアリマス。国務大臣ハ軍事専門家ノ意見ヲ十分ニ斟酌シタト申サレテ居ル、併ナガラ軍事専門家ノ意見ト言ヘバ、軍令部ガ其中心デナケレバナラヌ、是デハ国民ハ安心出来ナイ。」

 また政友会の鳩山一郎軍縮問題を内閣が云々することは天皇統帥権の干犯(「男子の本懐」を読む27参照)に当たると浜口内閣を批判しました。

 1930(昭和5)年11月14日浜口首相は東京駅で狙撃され、翌1931(昭和6)年4月13日首相病状悪化のため浜口内閣が総辞職、4月14日第2次若槻礼次郎内閣が成立しました(「男子の本懐」を読む35参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む33

 鎌倉の住まいは由比ヶ浜近くにある四間ほどの安普請の貸家でした。「規則正しい」散歩と日光浴にきたえられ、道子はめっきり元気をとりもどしはじめました。弟も、魚やおまじりを喜んで食べるようになりました。

 しかしある夜。二階の寝室で眠っていた道子は突き抜けに階下から聞えて来るはげしい声で眼をさましました。ふいに、何かの投げられる音がしました。

「あなた、ほんとに変わったわ。知らない人だわ。あたし、子供つれて行きます……」

「まだわからないか。行くなら行け」階下はそのまましんとなりました。彼女はいつか、枕を抱きしめて声を忍ばせて泣いていました。1929(昭和4)年の10月のこと。

 今思えばそれは、四ツ谷のお祖父ちゃまが、急逝した田中陸軍大将のあとを受けて、政友会総裁になった(「男子の本懐」を読む22参照)直後のことでした。

  政友会は明治の終りに当時の民党野党の一部が割れて、長年の政敵伊藤博文(「伊藤博文安重根」を読む1参照)公に降参して成った政党(「大山巌」を読む48参照)でした。 

 野党ひとすじに生きたお祖父ちゃまにとっては、許しがたい存在でしたが、普選法の議会通過と共に、お祖父ちゃまは守りぬいた孤塁である革新クラブを政友会に明け渡し、自分だけは「節を守って」身を退きました。

 そんな因縁の政友会の総裁を、なぜ、晩節の時代に入るべき老人が引き受けたのでしょう。軍閥の台頭―理由はただひとつ、それでありました。 中国の主権を認めず、門戸開放を許さず、日本だけの特殊権益の地として満州を中国から切りはなし、やがては中国、さらには米国も相手どろうとする軍の、狂気の沙汰を押えるには、多数党政党の首領となって天下をとるより他に道はのこされていませんでした。お祖父ちゃまは異常な覚悟で、遺言を認(したた)め、、死ぬつもりで総裁を受諾したのです。

 台頭しているのは軍ばかりではありませんでした。政党は生ぬるし、よろしく強硬策に出るべしと謳い、国内の不況と農村の疲弊に不満を爆発させつつ、危機感に沸き立つ右翼もまた。

 彼が総裁を引き受けた政友会の当時の幹事長は政党切っての「軍部派」で、政党も、議会も、すべてを軍に屈服させねば日本は「国難」を乗り切れず、「東西の新体制」も樹立できないと考える森恪(もりつとむ)でありました。

 他にも政友会には、鮎川義介(あいかわよしすけ)の一族の、巨大なる日産コンツェルンを背景に、利権と軍との結びつきから軍に著しく近い、久原房之助(くはらふさのすけ)などという長老もいました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―あー鮎川義介―くー久原房之助―もー森恪 

れきしのおべんきょう(・・  )メモメモー検索ー日産コンツェルンー2013年02月16日(土)編集  

 そんな党を押さえ、軍と対決の方向にひきずって行くのは、ほとんど無謀とも見える大仕事なのでした。

 その大仕事に、「おとうさんをひとりで放り出してよいものか」、芸術は人間性のためのものだが、軍閥による人間性の圧迫を、政治によって解き放すことも広義に解釈すれば「芸術ではないかと、パパは思ったんだよ」、ずっとのちに、父はそう告白しました。

 「おとうさんには後継ぎが要る……ぼくはこの次の選挙に出る」、覚悟し予想していたことではあったが、東中野千七百を片づけて引揚げたのも、「そのため」でした。

 新聞に、お祖父ちゃまの写真が屡々出るようになり、、母は丹念にそれを切り抜きました。

 桜山のあでやかなお祖母ちゃまが、同じ鎌倉の大町に引越して来たのもそのころでした。小さな家で、がらんとしていました。

 「ねえママ、どうしたのよ」道子はお祖母ちゃまの家からの帰り道に訊きました。「そうねえ」と母は遠くを見ながら言いました。それから急に母はふり向き、唐突な動作で彼女を抱きしめました。「ねえ道ちゃん、ママはねー」しかし母はしまいまで言いませんでした。

 いつもの声になって別のことを言いました。「さあ、海に行きましょう。海はいいのよ。とてもいいのよ」

  冬が来ました。父は破かれた原稿用紙を枯葉と一緒に焼き、母は東京から来た白い大きな紙をひろげては鉛筆を片手に考えごとをするのでした。「これ、何よ」「おうち」と母が言いました。「道ちゃんのおうちだ」と原稿用紙を綴じていた父が熱心に言いました。

 「お祖父ちゃんのおうちの裏庭をつぶして、そのおうちを建てるんだよ。いいねえ、四ツ谷に住めば学校まで歩いて行けるもの」

 松飾りのとれるころ、由比ヶ浜の家に行李やバスケットや唐草模様の緑の風呂敷がひっぱり出され、拡げられました。

 「引っ越すの?ポーラとロリータ(犬の名前)は」「大丈夫よ。箱に入れて汽車に乗せるの」

 小っちゃな子供ではなくなって帰って来た東京の、四ツ谷での生活もまた、それまでとはがらりと変りました。ひどく働き者の、しかし犬は大きらいのかよという女中と、江古田のばあやと呼ばれる活溌でよく笑うばあやが雇い入れられ、母は道子と弟をその二人にまかせ切りにして、ほとんど終日どこかに行くようになりました。父は黒っぽい洋服を着こんで、朝早く出かけ夜おそくまで帰って来ませんでした。

 二人ともこうして留守だというのに、多勢の見知らぬ人が来るようになりました。彼らは父のことを先生と呼び、「先生は最高点だ」などと言うのでした。かよはその人たちを愛想よくもてなしては「でも二区は大へんですよ。鳩山さんがいるからね。しっかりたのみます」「なにね」と、とくに下卑らしい一人が口をとがらせて、「犬は鳩より強いときまってまさあ。ハ、ハ、ハ」

 「万歳! 万歳! 最高点だぞ!」「勝った! 勝った!」潮のように人々が家になだれこみ、狂気じみたにぎわいが何日もつづく忙しさの中で、二匹の犬は身をもだえ大きく息を吐いて、そのまま動かなくなりました。

 「かわいそうに。さみしかったろうに。ごめんね」と、犬が死んでからはじめて東中野のころのママに戻って犬小屋の前にしゃがんだ母は、寝もやらず泣き明かした道子の肩を抱いてささやきました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む34

 お祖父ちゃまのすぐそばに住むようになってから、彼女は「この上等な植木屋」の、意外のさみしさに気づくようになりました。

 ある午後でした。あれは雨もようの日であったでしょうか。彼女は書斎の襖を開けました。祖父は机に向って、チョンと坐って背中を丸めて何かしきりに書いていたものと見えました。「お祖父ちゃま、何してる」「ちょっと来(こ)う。道公、おやつが欲しくないか」

 彼は眼鏡をはずし、硯の蓋をきちんと閉めました。それから書架の筆や書物をどけて、取り出したのはビスケットの罐でありました。白髪のジョージ・ワシントンの顔の描いてある赤い罐の蓋を開けて中をのぞきこみました。「まだあるわ、フ、フ。だいぶあるわ」

 「ちょっと待っておれ」水洗便所の水道のカランをひねる音がして、お祖父ちゃまは歯磨用コップに水を入れて持ってきました。

 彼女たち二人は毛氈の上に、赤い罐をはさんで、向き合って、水を飲み、ビスケットを食べました。「仲々、うまい」と彼は言い、道子を見てニッと笑いました。

 道子にしてみれば、水とビスケット二枚のおやつはあまりにもわびしかったのですが、満足しきっているらしいお祖父ちゃまを見ては、可哀想で言えませんでした。

 襖を開けかける彼女に、彼は「道公や、ママはシチューをつくるか」「うん」

 「じゃあな、こんどシチューをつくったら、ママに、おじいちゃんにも分けるように言うてくれ。忘れるでないぞ。」

 お祖父ちゃまはシチューや、油のいためものが好きでありました。が、木場の色街で育ったお祖母ちゃまはそう言うものが大きらいで、お祖父ちゃまは、お祖母ちゃまのお好みの、「あっさりした」煮つけを食べさせられていました。

 何しろ「打清((清国朝廷)興中(漢民族の中国)の革命の父孫文が、こっそり亡命してお祖父ちゃまにかくまわれていたころも、(当時の日本の政府すじはその亡命人の滞日を好まなかったので)大貧乏のさなかとは言え、菜種油で米を炒めて食べさせることすらしなかったのでした。

  それから、お祖父ちゃまが、東京や横浜の支那居留民の子弟や留学生の世話を、「日支共存共栄」のために一心に手がけたころ、「しょっちゅうやって来てはお風呂に入って行った書生は親子丼が好きで、よくおかわりをしたもんでござんす。支那の人は親子丼が好きと見えるねえ」しかし、「支那人が親子丼を好き」というわけではなく、親子丼が犬養家の食物の中で「一番油こい」ものだったから、にちがいありません。

 「ほんとうにあの書生は親子丼ををいつもお代わりしたっけが」あの書生の名は、蒋介石と言いました。

YAHOO知恵袋―教養と学問、サイエンスー歴史―中国史―蒋介石は日本に留学していたって本当ですか? 

 日常の食べものでさえ、そんな具合でありましたから、おびただしい書類や蔵書の整理などとなると、彼は全く、孤立無援といってもよい状態にいました。 

 彼女にしてみれば、ただ祖父が何となくあわれであったのです。

 蔵書は支那本が多くありました。一時は支那学の学者を志したほどの彼の、支那の文物・歴史への深い愛着と理解とが土台となってのことでありました。そしてまた、その人の来る日には、顔じゅう柔和な微笑で満たされるほどの「お祖父ちゃまのお友達」は京都大学碩学支那学の泰斗である内藤湖南先生でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー内藤湖南

 支那書だから、洋とじとちがって、一冊ずつ積み重ねます。背表紙がないので、書架の前に立っても、どれがどれだかわかりません。だから一冊ごとに、古ハガキ余白のメモに書名が書きこまれて、はさんでありました。

 そこまでは彼は自分でやりました。しかし、虫干し、種類別、年代順などとなるともう、お手上げでした。政界は複雑微妙に揺れており、彼は決して見かけほどひまな「植木屋」ではなかったのであります。そしてまた、四ツ谷に移り住んでからは、彼の腹心の秘書となった父も、蔵書整理を手伝うひまはとても持てないのでした。

 「たれか、よい人はおらぬかの」お祖父ちゃまが父にそう言ったのは、いつごろだったでしょうか。「訊いてみますよ」と父は言いました。「菊池にでも聞いてみますよ。きっと見つかりますよ」菊池とは文芸春秋菊池寛さんのことでした。

もっと高松―検索ー文化財課―文化財課トップページー施設一覧―菊池寛記念館HP―菊池寛について 

 そしてある日「お父さん、いい人が見つかりましたよ。菊池君が、あの人なら、と太鼓判を押してくれましたよ」「おお、そうか」とお祖父ちゃまは可愛い笑顔を見せました。

 その人との出会いの日は記念すべき日でした。意外にも若い女の人であったことで、海老茶の袴をはいていたとは、道子の記憶違いだったのでしょうか。

石井桃子です」と、その人はそれこそお祖父ちゃまの丹精の、バラのように薄ら紅い頬に笑みを湛えて自己紹介をしました。清潔で温かでした。

香寺大好きー3月(10日)生まれの偉人伝―石井桃子

 石井桃子(児童文学者)さんが来るようになってから、お祖父ちゃまのどこかしらにまつわっていたあのあわれっぽい雰囲気が、さっぱり取れてなくなったのを道子はじきに発見しました。

 最後の重い任を負って死んでゆく、ほんの僅か前のことでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む35

 しかし軍部の暴走により1931(昭和6)年9月18日満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)が起こると、同年9月21日中国は柳条湖事件国際連盟に提訴、連盟理事会は同年10月24日日本への期限付き満州撤兵勧告案を可決しました。

 同年11月10日犬養毅総裁は政友会貴衆両院議員並びに各府県支部長、院外有力者五百余名を集めて所信を演説し、満州事変の原因を支那軍の鉄道破壊としつつも、事変発生直後自ら進んで真相を宣明すべきに拘わらず、この当然の処置を怠り、甚だしく遅延した結果、吾国を国際会議に於て終始被告の地位に立つの已むなきに到らしめたことを当局の失態として非難しました。

 また曩(さき)に我が党政務調査会に於て、金輸出再禁止の必要があると主張したのは、是が金本位統制維持の唯一の手段たるを信ずる故であると述べています(鷲尾義直「前掲書」中)。

 若槻内閣は閣内不一致に陥り、同年12月11日総辞職、12月12日興津にあった元老西園寺公望は急遽上京、参内後神田駿河台の自邸に入り、犬養毅の来邸を求めました。

 同夜午後8時犬養は参内、天皇から後継内閣組閣命令を受け、帰途高橋是清を訪問、帰邸後直ちに組閣に着手、電話で交渉し来邸を求めたのは同夜のうちでした。

 同年12月13日成立した犬養毅(政友会単独)内閣閣僚は次の通りです。首相兼外相 犬養毅(後  外相 芳沢謙吉)・内相 中橋徳五郎・蔵相 高橋是清陸相 荒木貞夫海相 大角岑生・法相 鈴木喜三郎・文相 鳩山一郎・農相 山本悌二郎・商相 前田米蔵・逓相 三土忠造・鉄相 床次竹二郎・拓相 秦 豊助・内閣書記官長 森  恪

近代日本人の肖像―日本語―あー荒木貞夫―もー森恪

 

犬養道子「花々と星々と」を読む36

 1931(昭和6)年12月12日深更から13日払暁にかけてが組閣で、15日にはもう、何ごとも起らなかったような、「ふだんの」生活が永田町で送られていたのです。(道子たち親子は、総理大臣官邸裏手の秘書官邸2号に入りました。)

首相官邸HP―検索―旧首相官邸バーチャルツアー 

 まだ四ツ谷にいた間にも組閣終了と同時のすみやかさで、ほとんどひっきりなしに全国とくに郷里選挙区の岡山県から届きはじめたお守り札は、お祖父ちゃまのところではなしに道子たちの家の床の間に着く端から積まれました。あんまり沢山、連日到着するので床の間に置き切れなくなり、とうとう彼女の居室寝室に当てられた二階六畳の違い棚にまで積みあげられました。

 彼女はまず、日本間(私生活用の棟ぜんぶの称号で、洋間ももちろんあったに拘らず、ややこしい呼び方で呼ばれていた)とは杉の一枚戸によって仕切られた向うがわにある総理大臣官邸事務館(つまりほんとの意味での官邸)を探検しはじめました。思ったよりずっと広く、迷路のような廊下があって、探検は仲々渉りませんでした。オーケストラの演奏場を中二階に突き出させたルイ王朝風とやらの大宴会場が忽然とあらわれるかと思えば、 わざとかくしたような小さな洋間が、通称「芝の愛宕山」のこんもりした緑とそこにそびえるJOAK(NHKの前身)のラジオ塔を窓枠の額ぶちにおさめて、人待顔に出て出て来たりしました。

 またある時。学習院の校門の扉より大きい(と思われた)彫りをほどこした扉を力いっぱい開けてみたら、長細いテーブルに向ってお祖父ちゃまはじめ、高橋(是清)さんや鳩山(一郎)さんや荒木(貞夫)中将(当時)がいかめしい顔で坐って話しこんでいました。

 「おっと。入っちゃいかんぞ、あとで、な」お祖父ちゃまはそれでも微笑して彼女に言い聞かせるような弁解するような調子で言いました。閣議だったのです。

 愛情とか手しおとかの感じの丸切り欠けた庭が、日本間右手正面のひねこびた泉水からはじまって洋官邸前面の芝生につづいていました。洋官邸と日本間の丁度結ばれるあたりの正面に一本だけ、場ちがいな明るさで溌溂と伸び、梢を大きくひろげる榧(かや)の木がありました。

 あるときは衿に議員ポッチと略綬をつけた黒背広の正装のまま、あるときは袖口に揮毫の墨の汚れをつけた着流しのまま、お祖父ちゃまがこの榧の木のもとに屡々佇みつくすようになったのは引越してから間もなくのことで。正装のときも着流しのときも、彼は議場演壇の上で見せるあの姿勢をーつまり軽くこぶしをにぎった左手を背にまわし右手を自然に前方に流した姿勢をとって。たったひとつ演壇上とちがう(新聞写真)のは生来の猫背をいささか反らせていたことで、反り身にならなければ、溌溂と張った梢を見ることはできなかったからです。 

 1932(昭和7)年。官邸日本間付の「まかない」のつくった、おいしくないお雑煮を、そそくさと祝った日からさして間もない風の冷たい午後、道子は急にお祖父ちゃまに会いたくなって、日本間の庭に出かけて行きました。お祖父ちゃまはあの榧の大樹の下に佇んでいました。考えごとをしている、そう感じて遠慮がちに道子は低く呼びました、お祖父ちゃま、何見てる。

 「道公か……寒いのう」しかし彼は衿巻もつけず外套も手袋もつけていませんでした。そして見上げて、彼の疲れはてた表情に一驚したのです。

  ワシントンは日本軍部の「反省」をすでに大正時代以来つよく迫り、「満蒙のためのシベリア出兵」にも口を入れていました。国内的にも不況と農村疲弊による危機感が狂おしく昂まって、貧苦に追いつめられた農村出身の若い兵たちの間には、無為の政党への憎悪感がふくれ上り、それは一直線に「日本の生命線・満蒙進出」と「へっぴり腰の堕落政党打破」とにつながって来ていました。「政党・議会政治」にまっこうから反対の軍部にとっての絶好の背景でありました。そう言う背景の中から、1931(昭和6)年9月18日に柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こったのです。

 その彼らの背後には陸軍中将荒木貞夫陸相関東軍路線を支持・推進する内閣書記官長森恪(「花々と星々と」を読む35参照)がいました。満州の宗主権を中華民国の手に返し(即ち日本軍満州占領を解き)、そののち満州の経済開発をあらためて中華民国と日本国双方の対等で平等な話しあいにもとづき協力して行うという処理案を唯一のものと考え、軍の意向と正面衝突するその処理案遂行のために身を挺したお祖父ちゃまの内閣に、あるまじき「矛盾」と後世の史家の多くは言います。

 しかし最も「危険な」ふたりを己が懐中に抱えることによって彼らの動きを牽制したいと彼は叶わぬ望みを望んだのでありました。しかし彼は、死にゆく者に対して知識と技術のすべてを注ぐ医者にも似て、人事の限りを尽そうとしたのでありました。尽した人事のもひとつは、大蔵大臣高橋是清の出馬を乞うたことで、金の面で軍を抑える筋金入りの役者として、高橋翁はゆきづまった財政金融の不安を、些かなりとも安定の方向にひきずれる人物でした。

 お祖父ちゃまは一日でも永らえれば一日長く軍を抑えることもできようかと、彼は持病蓄膿症を毎日大野耳鼻医師に来診を乞うことによって癒そうとし、酒を絶ち、塩分を避けていたのでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む37

 「道公、卒業式が近いな」彼女は1932(昭和7)年3月、女子学習院前期(小学 4年編成)を卒業し、中期(中学)に進学する予定でした。

「お祖父ちゃんは今日はちと用がある―が、あしたの夕方、大野先生の来たあとならええわ、お祖父ちゃんの部屋の来(こ)う」言い終って再び彼は榧を仰ぎました。

 大野医師の退(さが)ったあと、お祖父ちゃまは、蓄膿症洗滌のため布かせた布団の上で、枕にもたれてちょこんと座っていました。

 「なあ道公」とお祖父ちゃまは切り出しました、「卒業はひとつけじめになるでな、ええ機会と思うてお祖父ちゃんはー」少し間をおいて、「道公に記念をのこしたい…」

「これは孫さん(孫逸仙)の葬式に(支那に)行った折、お祖父ちゃんが見つけた硯で…わるいものではない」それから彼は端渓というものについて少し語りました。

八ヶ岳通信―濃淡庵 小角堂―濃淡庵硯林ー硯譜―基礎知識―その3 端渓硯 

 「それからこの水差しは」ともひとつの箱を開けて、優に美しい一品を、皺深い手で撫でつつ、「やはり支那のものだ。このふたつ……」 

「それからの、楠瀬(名は日年、お祖父ちゃの旧友で彼の表装、硯箱づくりを一手に手がけた)に言うてつくらせたが」と、のこるひとつの箱の中から一本の軸をとり出し、母に手伝わせてひろげました。それはお祖父ちゃまがすでに2年前道子のためとくに書いてくれた「訓戒」でした。濃緑に金粉をあしらった茶掛風の軸の書は子供の眼にもみごとと映りました。「恕」

 …自分は14歳で父を亡くしてから貧窮困苦のうちに成長した、世の辛酸と人の心のうつりかわりを知って人となった、だから他人に対してもあのころの自分の境遇にあるならばと思いやらずにいられぬ。使用人を叱責したことのないのはそのためである。恕せ。思いやれ。恕の心を忘れるな。女孫道子にのこしたい訓はこれである、と。

 おとうさまこんな貴いものをと言いかける母に、「それその反物を取っておくれ、道公や、お祖父ちゃんは道公に着物の一枚を買(こ)うてやったことがなかったな。卒業式に(当時、女子学習院の式服は銘仙紫無地の紋服に袴であった)着てゆく羽織を一枚と思うてとりよせた。お祖父ちゃんの好きなのを三反えらんでな」ふいに茶目っ気たっぷりに笑って、「三反もらおうなどと欲張ってはいかぬぞ。その三反の中から好きなのをおえらび。一反だけだぞ、ハ、ハ」

 彼女はただもう上気して、銘仙に珍しく白の小梅模様を飛ばした紫地のがあって、彼女はためらうことなくそれを指しました、「これ。これがいい」「そうか、それからと、」と

 彼は布団の上から枕もとの小机に手を伸ばしひき出しを開けて(そのひき出しの奥には厳重の封をほどこした遺書―総理大臣拝命の夜ひそかに清書した遺書が入っていた)一包の紙をとり出しました。

 「お祖父ちゃんの友人の支那の人からもろうて大切にしてきた紙じゃ。乾隆(けんりゅう)の帝(みかど 清の第6代皇帝高宗の称、乾隆は年号)の御紙(ぎょし)じゃ。つまり、のう」と乾隆御紙を説明してから「道公にのこす。大切にせいよ」

香寺大好きー8月(13日)生まれの偉人伝―乾隆帝

夏樹美術株式会社―文房具の買い取りについてー紙―乾隆紙

 御紙はこの上なく美しく思われました。一枚は白地に金泥の梅の図。一枚は碧紫の濃淡。愛する孫に遺品を手ずから与えることを思い立つほど、迫り来る「時」をあの風のある一月の午後、彼は榧の梢に「見ていた」にちがいなかったのでしょう…

 新内閣は成立同日閣議で金輸出再禁止を決定、大蔵省は金貨幣・金地金輸出許可制に関する件を公布しました。

 第60議会(1931,12.26開会、32.1.21解散)において犬養首相兼外相は同年12月27日満州問題に関する声明を発表し、「帝国政府は連盟規約、不戦条約(1928.8.27調印 外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)、その他各種条約、及び今次事件関する理事会両度の決議を忠実に遵守せんことを期するものにして、その間政府に於て凡ゆる手段を尽し、日支両軍の衝突を予防するに努めたる誠心誠意と、隠忍自重とは、全く前記諸条約及決議に基く義務に忠実ならんとする精神に出でたるものなること、必ずや世界輿論の認識を得べきを信ず。」と述べています。

 1932(昭和7)年1月21日衆議院解散、2月9日前蔵相井上準之助血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。2月20日第18回総選挙が実施され、政友会が大勝、第1党となりました。

 しかるに軍部は満蒙の実質的日本領土化をめざす中国からの独立方針により、同年1月7日陸軍中央部は、陸・海・外3省の協定による支那問題処理方針要綱(満州独立の方針)を関東軍参謀板垣征四郎に指示、同年3月1日満州国建国宣言を発表、宣統廃帝溥儀が同国執政に就任しました。3月5日には三井合名理事長団琢磨血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。

 これに対して、同年3月12日閣議は満蒙処理方針要綱(支那問題処理方案要綱 「現代史資料」7 満州事変 みすず書房)を決定、軍部方針を表面的に追認しながら、これとはことなる裏工作がすすめられていました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む38

 「何か起る、何か起る…」四囲の空気の切迫は、もう子供にもそれとわかるほどになっていました。

 「ねえ道ちゃん、お祖父ちゃまのとこにできるだけちょいちょい行ってあげようね」と母が言い、父もそう言うので、彼女は総理官邸日本間にべったりといることにしました。

 だがー史料と記憶はどうも食い違っていて、その人(萱野長知「花々と星々と」を読む32参照)が蒼惶として、且つ秘かに、台所口から日本間に「再び」やって来たのは、桜の蕾のふくらむころでした。

 萱野長知。曽て東京留学時代の汪精衛などと共に革新的な「民報」を編し、お祖父ちゃまの早稲田の寓居に中国革命の父孫先生が滞在されたころ、入りびたりであった中国通。武漢での革命戦に孫先生のもとで実際に戦ったこともある熱血漢。お祖父ちゃまを理解し、軍と親軍派が「生命線」と呼ぶ対大陸軍略こそ実は日本を「殺してしまう」愚策と信じてお祖父ちゃまの右手となることを肯じた男。

 1931(昭和6)年の押しつまるころ、お祖父ちゃまは萱野さんを密かに招き、当時中華民国政府の孫科あての極秘の親書を持たせ、商社員を装わせて、軍の背後での日支和平工作第一歩をかためようとしたのです。

 萱野さんは軍の眼をかすめ変名でみごと上海に入り南京に着きました。「国父孫文先生の同志、いま来(きた)る。日中永遠の友好を願って満蒙問題処理のため来る」と下にも置かず中国政府に礼遇されました、日本軍は気づいていませんーと告げる密書がお祖父ちゃまにとどきました。1932(昭和7)年2月初めのこと。

 お祖父ちゃまは飛びたつ思いで、中国政府と正式に交渉すべき第二の人物を秘かに招きました。それは武漢のころ、孫文に三百万円の大金を都合して助けた男。議会政治のみが日本を救う道と信じて動じぬ男、「三十年先だけを見ている」豪胆でしかも細心な男―山本条太郎(山条)でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本条太郎

 彼は、お祖父ちゃまから「萱野・孫科会談を協定書としてな、調印して来てくれないか」と持ちかけられると、軍に知られれば生命の危険があることを承知しながら、「ああ、行って来てやるよ」と豪快に言い放ったのでした。

  内閣書記官長森恪が、じいさん日本間で何かごそごそやっているなと敏感に気づいたのはそのころでした。三井での創設以来の切れ手と曽ていわれた森が、萱野さんや山条さんのいかにも茶飲み話風に出入りするお祖父ちゃまならぬお祖母ちゃまの部屋を臭いとにらんだのは当然だったでしょう。ただちに秘密電報が関東軍の石原中佐に飛び、同時に逓信省(郵政省)に手をまわした森は総理あて一切の電報を押さえたのです。「ダ ケツナル」その一文を最後に、萱野さんからの音信は絶えました。

満鉄と関東軍―昭和初期の内閣―犬養毅 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む39

  同年5月15日は爽やかに輝いてまことに日曜日らしい日曜日でした。「今日はね、おひる、みんな外よ」と母が笑いながら言いました。「お祖母ちゃまね、こんやおるすなの。だからおるすの間に、ウフフーだってお祖母ちゃまバタは臭いっておっしゃるでしょーお祖父ちゃまにおいしい洋食、上げるのよ。A1(エイワン それは当時出来た、『一番上等の』フランス料理店であった)にたのむんだけどたのむだけじゃあ具合が悪いからね、まずみんなで食べに行って、たのんで、取ってくるの」「お祖父ちゃま、今から夕方をお待ちかねなの」

 コンソメと軽い一品と特別焼のパンを注文してA1を出たのは午後1時半ころでした。道子は総理官邸に出る一本手前の筋で車を降りました。いまはもうなくなりましたが、そこには外務大臣官舎(旧有栖川宮邸)があり、芳沢(外相)のいとこたちが「テニスをしよう」とさそいをとうにかけて来ていたのを思いだしたからでした。「おそくも5時半にはお祖父ちゃまんとこに来るのよ、お待ちかねだからね」と母は外相官邸の広い車寄せに小走りに入る道子の背に言葉を投げました。「ママと康ちゃん(道子の弟)はもう行ってますからね。パパも5時には用をすませていらっしゃるからね」

 ラケット遊びの途中でしかし道子はさすがに気になり出しました。「いま何時?」「4時半」「そろそろ帰る」と彼女は言いました。「やだァ道ちゃん、もう少し」少し少しと釣られて5時になり、陽はもはや傾いていました。

 そのころ、母は日本間台所のまかないに指図をし了えて、少々早いはわかっていましたが御馳走の前に食堂でお茶でも一服と思い、お祖父ちゃまを呼びに行きました。お祖父ちゃまは喜んで、母のあとから食堂に向いました。

 ちょうど廊下が鍵の手になる中庭の角まできたとき、母は異様な足音と物のはじけるような「ふしぎな音」を耳にしました。(それは護衛田中巡査の撃たれた音だったのです)

 何ごと、と立ち止まったとき、ころぶが如く、護衛のもひとり、村田巡査が走りこみました。「暴漢です、お逃げ下さい!お逃げください!」

東京紅團―テーマ別散歩情報―戦前を歩くー5.15事件を巡る(下)

 「いいや、逃げぬ」お祖父ちゃまはしずかに言いました。「逃げない、会おう」言葉の終りやらぬうち、海軍少尉の制服をつけた二人と陸軍士官候補生姿の三人が土足のまま、疾風の勢であらわれました。お祖父ちゃまを見ると矢庭にひとりが拳銃を突き出し引き金を引いたのですが弾丸は出ませんでした。

 「まあ、急(せ)ぐな」「撃つのはいつでも撃てる。あっちに行って話を聞こう……ついて来い」お祖父ちゃまは先にたってひょこひょこと歩きはじめました。4人の若者は一瞬気を呑まれた風におとなしくあとにつづきました。

 母は本能的に弟を抱きあげて胸の中に包みこみました。その胸にひとりが拳銃をぴたりとつけたので、母は中庭とのさかいをなすガラス戸に釘づけとなりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む40(最終回)

 お祖父ちゃまは嫁と孫から一番遠い「突き出た日本間」に暴漢を誘導しました。床の間を背に、中央の卓を前に坐り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう…」

 そのとき、母は自由に動かせる眼のはしに、前の5人よりはるかに殺気立った後続4人の「突き出た日本間」に走りこむさまをチラととらえました。

 「問答無用、撃て!」の大声。次々と九つの銃声。母の胸に拳銃をつきつけたひとりも最後の瞬間走り去って撃ちました。彼が走ると同時に母は弟をその場に置いて、日本間に駆け込みました。

 こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中でお祖父ちゃまは、卓に両手を突っ張り、しゃんと坐っていました。指は煙草を落していませんでした。母につづいてこれまた台所から馳け入ったお祖父ちゃま付きのあのテルが、おろおろすがりつく手を払うと、「呼んでこい、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じてから、ちょっと待て、まず「煙草に火をつけろ」しかし火はつきませんでした。テルが激しく震えていたからです。テルは震えつつも若いモンを呼びに走りましたが、無駄でした。

  母はお祖父ちゃまが即死でないのを確かめると、その日の午後も宅診を願った大野医師がまだ官邸にいたので、お祖父ちゃまの応急手当を依頼するとともに、青山(外科)博士以下数人の名医に電話したのでした。

 「大変です!大変です!総理が…」テニスコートに向って外相官舎付きの事務官が叫びつつ駈けこんだのは5時20分ころです。

 道子は外相公用車にとにかく乗ったのをおぼえています。顎紐を結んだ警官数十人が続々と詰めかけていたので、正門から入れず、裏道で車を降り、勝手知った道をいとこたちの先頭に立って裏門から内玄関へ。さいしょに目についたのは、蹴破られたあの杉戸で、、戸のわきに田中巡査が倒れ、数人が「しっかりしろ大丈夫だ」と叫びつつ手当をしていました。「突き出た日本間」の襖は大きく開け放たれ、縁側近くにお祖父ちゃまの横たわっているのが見えました。応急の包帯で頭から首にかけて包まれた姿で。

 「入っちゃだめ」と母が洗面器と白布を手にして廊下まで出て来て言いました。「大丈夫です」彼女は声をあげて泣きました。

 そのころから続々と医師団が到着しはじめ、お出ましだったお祖母ちゃまも芳沢の伯母さまも父も、閣僚も次々に小走りの緊張し切った姿を見せました。

 6時40分に医師団の最初の発表がありました。こめかみと顎から入った弾丸3発。背にも4発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命は取りとめる」

 8時過ぎ、お祖父ちゃまは布団ごとかつがれていつもの部屋に移されました。彼女はのぞきに行きました。

 「心配せんでええわ、なに、痛いかって? 弾丸が入ったのじゃから少々痛むのは当たりまえだ。まあ、みんな少し休んだらどうかな」

 で、道子はごったがえす官邸をぬけ出してひとまず秘書官舎に帰りました。かよにすすめられて、客のためつくった炒り鶏(とり)と五目ずしをつまんでから、赤いセルの寝間着に着かえた彼女は廊下をうろうろと歩きまわりました。

 10時過ぎ、あわただしく玄関の戸が叩かれ、だれかが上ずった声で呼んでいました。「道子さま!道子さま!早く、早く!」

 ―お祖父ちゃまの部屋のたたずまいは、8時に見たときと一変していました。窓辺に低く置かれたスタンド以外一切の電灯は消され、黄ばんだ丸い小さな光の環の中で、包帯に包まれたお祖父ちゃまの口を少しあけた顔だけが浮いていました。苦痛のかげはなく、顔はいつものようにーいや、いつもよりははるかに柔和にみえました。呼吸は間遠であり弱くありました。

 医師団は彼女たち家族を取り巻いて粛然と起立していました。その背後に高橋蔵相。鳩山文相。鈴木法相。中橋内相…

 お祖父ちゃまの安らかな顔に白布のかけられたのは午後11時26分でした。まろぶがごとく彼女は庭に走り出ました。まっすぐにあの榧の根もとに。涙はもはや涸れ、仰げば、澄んだ暁の空に星が無数にきらめいているのが見えました。待っても待っても、しかしお祖父ちゃまの魂は見えませんでした。