幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-21

 藤村らは田島の報告を得て驚き、藤村が前田の所にやって来て、「我々は最初、この仕事が成功するまでは一切他人に秘しておくつもりだったが、すでに日本側出資額を50万円と契約した以上、我々だけの力だけでは及ばなくなった。どうしても株式会社を設立して株主を募る必要がある。この株主を作るために協力してもらいたい」ということであった

と前田は語り、さらに「そこで私は世話してやろうと思うが、君はどう考える」というから、高橋は「それはもう考える余地も何もないじゃないか、ただ場所が外国であり、外国人との共同事業であるから、欺かれることのないよう注意する必要はあろう。藤村の希望通り協力してはどうだ。」と勧めました。

 すると前田は「では君も株主として出資してくれるか」と訊くから「それは俺の力に応ずるだけに出資はしよう。万一の失敗を予期して、今の所1万円以上の出資は出来ない」と答えておきました。 

 それから前田は奔走して新たに20余名の出資者を集め、資本金50万円の「日秘鉱業株式会社」を設立しました。

 ところがこれら株主たちの間に、一体誰が日本側を代表してペルーへ行くか、第一その人を決めないと安心できないと云いだす者があり、協議の結果高橋が行ってくれるなら一番良いがどうだろうと前田から勧めて見よと、皆が一致して頼むからと、前田がまた来て「君一つ奮発して行ってくれまいか」とだしぬけの申し出です。

 高橋は既述の3条例実施のための仕事があることや、特許局新築のことなどを理由に前田の申し出を断りましたが、前田は高橋には内密に、当時三田尻に滞在していた井上農商務大臣に面会、後に高橋に「大臣にお願いして君の体は貰い受けて来た。奮発してくれ」といや応なしの懇請です。

よろしい、大臣が承諾し、株主が是非やれというなら決心しよう。それに大恩を受けた老祖母もすでに天寿をおえて心に残ることもありません。高橋はペルー行きを承諾し、農商務省は非職となりました。

 1889(明治22)年11月16日(36歳)、高橋はペルー銀山経営の全権代表として三たび太平洋を横断することとなりました。自宅から見送る品夫人(海軍技監原田宗助の妹 明治20年再婚 上塚司編「前掲書」下巻)の肩に、高橋はそっと手をかけてやりました(幸田真音「前掲書」)。

 乗船ゲーリック号は、この日の午前10時横浜の埠頭を離れました。今回の同航者は帰朝していた技師田島晴雄、雇員屋須弘平の両名で、同船の客にはリオ領事らがいました。海は3日目ころから少しずつ荒れ模様となり、5日目になると狂瀾奴濤甲板を洗う状態となり、船客の多くは船室から一歩も出られぬ有様でした。同船は12月1日午前3時桑港に到着しました。高橋らは午前9時に上陸、領事館員の案内でパレス・ホテルに投宿しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-22

 当時の桑港領事河北陸軍少佐は「近ごろの新聞によると、ペルー政府は国内における鉄道延長のために、英国のグレイス商会と借款の契約を結び、その抵当として税関、鉱山等の財源一切を提供したということである。貴君らが田島技師を遣わして買い入れたという鉱山もおそらく抵当の中に含まれているに相違ない。もしそうだとすれば、グレイス商会がそれを要求して引き揚げてしまえば、馬鹿を見ねばならぬではないか。貴君らの企ては実に危険だと思うがどうだ」ということでありました。

 それで高橋は「貴君の注意は誠にありがたい。しかし鉱山の買い入れについては、さきに田島を派遣し、かつ巌谷博士らが顧問となって、十分に確かめた上で決定した事柄であるから、手続きの上で遺漏なしと考える。」と答え、今後は互いに通信を怠らぬよう約束して領事館を辞去しました。

桑港滞在は2日間で、12月3日午前10時汽船アカプルコ号でペルーへ出発、船が南下するにつれて暖かくなり、5日目には甲板に日避けの天幕さえ貼りはじめられました。船はメキシコの海岸沿いに南下し、12月9日メキシコのマザッラン港に到着、ホテルで風呂を浴び、同日午後4時同港を出帆、12月12日午前3時アカプルコに、16日早朝にはグアテマラのサン・ホーゼに入港、ここから留守宅に書面を送りました。

同月21日にはコスタリカ国の第一の港キントウ港に到着、碇泊2日で出港、翌日パナマ港に入りました。

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 パナマにて船待ちすること1週間ばかりで、ようやくペルー行きの汽船サンタロサ号に乗り込み、同月30日午後5時パナマを出発、しました。

1890(明治23)年の正月元日は同号の甲板で迎え、午後7時赤道直下を通過しました。

 同月4日午前11時パイタ港に着き、ヘーレンの技師ドイツ人エルグレイマルが出迎えのため、同港に待ち受けていました。

船はさらに南航して、同月6日早朝サリペリ港を過ぎると、濃霧濛々として陽を覆い、天日ために暗きを覚えましたが、驚いたのは、船の白ペンキが一夜のうちに異変したことです。船員に聞くと、これを「カリヤオペイント」と称して、この辺で揚がる硫気のために起きるものであると云います。

かくして同月7日午後3時半カリヤオ港に到着しました。まもなく一人のスペイン人が船に来て、英語を解せないので、同行の屋須に通訳させると、「ヘーレンは避暑でリマ府にはいないが、今日の午後4時ころまでには出迎えのため来船のはずである。自分はヘーレンの命を受けて、荷物その他のお世話に参った」というので、屋須を附き添わせて、すべて荷物一切をこの人にまかせて、高橋と共に船を下りようとするところへ、ヘーレンが番頭のピエズラ、日本人伴竜などを連れてやって来ました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-23

お互いに初対面の挨拶を交わし、ヘーレン特別仕立ての小蒸気で上陸、途々田島が「ヘーレンは貴君のために別邸に新館を建てておいたから、すぐその方へお越し願いたいといっていますが、どうしましょう」というので、高橋は「そりゃ困る、断ってくれ」と即座に拒絶しました。しかしヘーレンからいたく親切に勧められるので、高橋も深くヘーレンの厚意に感謝し、新館行きを承諾しました。

 かくて一同共にカリヤオ港から汽車でリマ府に着くと、駅にはヘーレンの書記パッソブリオが馬車数輌を用意して出迎えていました。高橋はまずヘーレンの本邸に行き、日本におくる電信を認め、それより別邸に赴きました。

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 ヘーレンの別邸は広さ約1万坪で、周囲を高さ2丈ばかりの土塀で囲い、表門を入るると60間ばかりの石叩きの通路があり、左右両側には長屋様の建物が連なり、その一番端の方に内門があります。この門を入って石段を上ると正面に新築の館があります。中央は食堂で後庭に面して、長さ12、3間の遊廊が連なり、その壁の上には蔦蔓がからまり、その下に男女4個の大理石像が並んでいます。遊廊の左方には高橋のために設けられた事務室、客室、寝室があり、内部の装飾もすべてよく整っています。部室の前面は広い庭園で、その一方には昔イスパニア人が植えたという葡萄の木が連なっています。手近な所だけは日本の植木職松本某が造ったという日本風の山水園になています。園中には池があり、噴水塔からは数条の銀線を迸らせています。

 この日の晩餐を終わって、ヘーレンと閑談を交わしました。彼は「貴君の人となりは発起人諸氏ことに前田正名氏からの懇切な書面でよく承知していた。貴君がここに来ることを拒まれて失望したが、道理を尽くして勧告したら、貴君がたちまちそれを容れられたので、私は大いに喜び、安心した」というから、高橋は笑いながら「私の強情も道理の前には屈服するものであることを知られたことは、貴君の満足されるところであろう」と応酬しました。するとヘーレンは高橋の肩を叩きながら「そうだ、そうだ」と連呼して喜びました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-24

13日になって、ヘーレンとの間に、農鉱事業に関する契約改正の商議を始めました。高橋は談判のはじめに当って、日本出発の際、組合員の間に決められた下記の要項を提示しかつ説明しました。

1.会社営業の目的は農場を取り除き、鉱業専一とすること

2.会社の資本金を英貨15万ポンドとし、ペルー法律の定むるところにより有限責任とすること

3.会社の資本金はこれを折半し、その一半は日本側全権委員より、、他の一半はヘーレン氏において負担すること

4、会社の株式は少なくとも第1回の利益配当を行いたる後にあらざれば譲渡せざること

5.前条の譲渡を許す時といえども、本会社の認可を経て登記するに非ざれば譲渡の効力を生ぜざるものとす

6.坑夫は日本人を使用し、本会社の事務員技師らは会社の最大利益を得るに便なる限り日本人を使用すること

7、会社の設立には下の予算を標準とすること(略)

すなわち上述のように、高橋は第一番に組合の事業中より農場取り除きの談判をしました。これについてヘーレンは困難を訴えて抵抗を示しました。高橋は最初農場の価額は19000ポンドであったのを15000ポンドに減らし、日本組合はその中の3分の1を負担し、利益の3分の2を収むることとして折り合いをつけました。

16日から鉱山事業の談判を開始しました。高橋はそれについて原案通りを主張、その点については両者とも大体意見が一致しました。

 ただヘーレンから提供する鉱山の評価額について、議論が分かれてきました。ヘーレンがいうには「先ごろ自分は共有鉱山の隣接地で、9鉱山の借区をした。これらの借区のうち3借区は昨年田島技師の注意によって買い取ったものであるから、原価で提供する。しかし他の6借区はそれとは事情を異にしいるので、自分は農場の代わりにこれを13000ポンドで会社に提供することにしたい」と。

 高橋は「その借区が必要であるかどうか、またその値段が適当なものであるかどうか、自分では判断がつかぬので、田島技師に意見を聞いてみよう」と答え、田島に意見をもとめたところ、田島は「9箇所とも会社にとって必要であるが、6区で13000ポンドは少し高すぎる」と云います。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-25

高橋はヘーレンに対して「いずれにしても、自分は貴君の申し出に同意できない。共同の山を買いとった後に、その山の作業に必要な地続きの鉱区を手にいれ、それを高く会社に売りつけんとするのは面白くないことではないか。それよりもむしろこの邸宅を売ってはどうだ」と注意してやりました。

 ヘーレンはその間終始謹聴していましたが、やがて椅子を立ち、「ごもっともだ」と言って、いかにも欣(よろこ)びに堪えぬ様子で高橋の手を握りました。

 上述の通り、鉱山に関する談判も20日一通り片付きました。ヘ-レンとの談判中、高橋は閑をみて、ペルー大統領はじめ政府首脳並びに同国要人への挨拶に赴きました。

 1890(明治23)年1月27日には山口慎が技手坑夫職工ら合計17人を引率してカリヤオ港に到着するというので、田島、伴、ピエズラ、パッソンブリオらは出迎えのため、カリヤオまで赴き、午後6時ころに至って、ヘーレンの別邸に到着しました。

この日別邸では日の丸国旗を屋上に掲げ、高橋とヘーレンとは外門まで出迎えました。山口引率の坑夫ら17名はヘーレン別邸内の長屋に寝泊まりさせることとし、風習に慣れぬ間は、どんな不体裁をしでかさぬとも限らないので、みだりに門外に出ることを禁じ、邸内で適宜酒食を給し、出来るだけ品行を慎ませました。

 その間高橋とヘーレンは登山のことで、いろいろと打ち合わせました。例えばリマからカラワクラに行くには、非常に気候の激変があります。こちらで着ている衣服ではとても凌げないから、衣服はすべて新調せねばなりません。

今度はたとえ多くの費用が必要であっても、他日多数の坑夫らを登山させるときの試験となるものでありますから、十分の支度を整えてゆかねばならぬのです。

また高橋はヘーレンと相談して田島技師の年俸を英貨600ポンド、山口を庶務課長として年俸300ポンド、に定め、各人を呼んで、その旨を申し渡しました。すると田島技師のみはいかにも不満げで、高橋は不快に感じ、「そんなら今罷め給え」と申しました。

 この俸給の原則は、日本を出発する前に、会社の技師部にて、田島らが協議して定めたもので、日本金に換算すれば、600ポンドはそれよりも遙かに高いのですから、高橋は田島の不満を突き放したのです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-26

 ヘーレンが高橋と田島の仲に入って、しきりにとりなすので、田島もこの年俸を無条件で承諾することになりました。

1890(明治23)年2月22日にはカラワクラ鉱山に向けてリマ府を出発するので、8日ころから、その準備に忙殺されました。まず鉱山で要する採掘器具、日用品その他の荷造りをせねばなりません。しかも険しい山路を運ぶので、それに適当な量に包装する必要があります。チクラから鉱山までは羊や馬の背をかりねばなりません。

 かくして万端の用意がととのったので、2月22日高橋は山口庶務課長らと坑夫職工ら総勢14人を引率して、午前7時30分、リマ発の汽車で登山の途につきました。最初の予定では田島技師が一行の教導役として行くことになっていましたが、彼は坑夫たちの喧嘩の仲裁で怪我をしてしまい、高橋自身がその任に当ることとなったのです。同鉱山の空気の希薄、気候の激変のために、病気を引き起こしやすいので、途中3日間を費やしてチクラに達することとなりました。

高橋是清と3つの金銀山―3.ペルー銀山経営と失敗

 さてチクラに着いってみると、夜は持参の毛布だけでは、寒さを防ぐにたりないので、原住民の家に行って、あるだけの毛布を買いこんで配ったのですが、坑夫らは「こんなに寒くちゃ凍え死んでしまう、何とかしてくれ」と不平を訴えます。

高橋は「君らがそんなに寒がるなら、俺の着ている着物を剥いで持っていけ」と言ってたしなめたら、不平も止んでしまいました。

その内にだんだん希薄な空気にも慣れ、元気も回復してきたので、16日午前10時チクラ発、1万8千尺(約4000メートル)のアンデス山の最高地へと向かいました。

坑夫ら一同は徒歩、正午にはカサパルカに到着しました。ここにはアメリカのフレザーシアマル会社(鉱山機械製造会社)のガイヤル技師も来ていて、一緒に茶を飲み、同氏の設計した精煉所を見学しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-27

 2月17日はヤウリに向って出発、坑夫とは別に高橋と山口ら4人は朝6時に、ヤウリから下りてきたヘーレンの山の支配人カ-デナスの案内で、まずクレメン氏の鉱山事務所へ行き、その坑夫小舎を視察、その後ペスラやパッソンブリオは高橋らと別れて坑夫らの後を追って行きました。高橋と山口はカーデナスの教導で別路を進みます。

雪がしきりに降ってきました。右を望めば千仞の谷で、左はやや緩やかな傾斜であります。カーデナスを先頭に山口がそれに次ぎ、高橋が殿(しんがり)でした。そこは馬の背のようなっ嶮しい路、やっと登りつめたと思うころ、先頭のカーデナスは俄かに馬を止めて後ろの二人を見下ろしました。そのすぐ後ろを進んでいた山口も同時に馬をとめようとしましたが、馬の腹帯がゆるんで、鞍がズルズルと滑り落ちました。山口は驚いて拍車を入れると、鞍はスッポリと抜けて山口は数間下の岩に投げつけられ、抜けた鞍は馬の後脚にからみついて脚の自由を奪い、バタバタと後しさりしておりましたが、とうとう山口の上に大臀を落とし、さらに転倒して、高橋を左の谷に押し倒し、、馬自身は右の谷に墜落しました。

幸い左の谷はさまで嶮しい谷ではなく、高橋と馬は数間転げ落ちて、一畳敷きばかりの平らな雪の上に止まりました。高橋は大声で「山口、死んだか」と叫ぶと「死にはせぬ」という声がかすかに聞こえました。高橋が山口の所に飛んでゆくと、山口は痛みをこらえながら、ニッコリ笑って立ちあがりました。

 山口の馬はおよそ100尺近い断崖を転げ落ち、谷底ちかい深雪の中に首を突っ込み、、さかさになってもがいています。

カーデナスはいちはやく馬を下りて、谷底めがけて駈け下りて、山口の馬を引き起こしさかを上がってきました。馬は血だらけでいかにもあわれです。3人は再び嶮しい坂を登り、坂を滑り下りると坑夫らの一行に出会い、夕方5時ころようやくヤウリ村に到着、早速医師を呼んで山口その他の手当をしました。

ヤウリに着いた翌日の1890(明治23)年2月18日は非常な強雨でありました。ここに滞在中カーデナスらと、近く開始する仕事についていろいろと相談しました。

まずカーデナスは今後会社の使用人として働き、高橋の命令に服従するよう申しし渡しました。食糧の確保については、他日多数の日本人労働者が来着した場合、安い食糧を潤沢に供給できるか考究しました。ピエスラが言うには、米、玉蜀黍(とうもろこし)、馬鈴薯などについては自分に成案がある、肉類については、この近所に牧場を作って、羊を2~3000頭、牛を100頭くらいも飼えばよい。また運搬用のミウル(騾馬)もそこで飼えば、何百人の食糧でも供給できよう、というから高橋は承認を与えました。

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幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-28

 20日早朝坑夫らはカーデナスに引率されてカラワクラに向け出発しました。高橋はカラワクラで果して仕事が出来るかと思いました。燃料はアンデス山の苔しかなく、これで飯を焚いても、2度焚きする必要がありました。

25日いよいよ鉱山の開坑式を挙行しました。この日早朝から坑口に日秘両国の国旗を交叉し、その前に机を置き、日本の神々と同山神を祭り、神前には神酒と鉱石並びに鳥肉を供え、高橋以下役員、坑夫ら一同着席して式を行い、神酒を飲み廻し、それから酒宴を開始、踊りかつ歌い、その勢いで仕事にかかり、鉱石1噸を掘り出しました。坑夫らは坑内は大変暖かく、日本内地と違わないといって大喜びでした。

同年2月26日午後5時ヤウリに帰り、同月27日午前8時ヤウリから引き揚げて、午後1時半カサパルカに到着、ここにはガルランド氏経営のカサパルカ鉱山があるので、28日同鉱山を視察、その後チクラへと急ぐ途中のことでした。

案内者を先頭に山中の小径を進んでいましたが、やがて広漠たる平野に出ました。案内者は馬であったのですが、高橋はミウルに乗って、案内者のすぐ後から進んでいました。すると案内者の馬が突然驚いて後蹄を蹴立てて跳ね上がり、あわてて駈け去りました。すぐ後に続いた高橋のミウルは馬が跳ね上がった場所まで来ると、泥沼の中へ脚を踏み入れました。ミウルは高橋を載せたまま、たちまちズブズブと約半身を泥沼の中に埋め込んでしまいました。

こりゃ大変!と高橋はびっくりしました。下手に慌てると、ミウルと一緒に泥の中にうめられそうなので、高橋は静かにミウルから下りて命拾いをしました。

かくてその夕、5時半にチクラに着き、翌3月1日午前7時にチクラを発って、同日午後5時半にリマの本社に帰着しました。

同年3月26日になって、小池技手が突然山から下りてきました。小池は声を低くして「一大事が起こったので、内密に申し上げに参りました。」と云います。小池がいうには「この鉱山は数百年掘り尽くした廃坑であることは明らかである。自分は坑口をでると、すぐ山口支配人の所へ行って、このことを報告、翌日から秘密の内に鉱石を分析、その結果問題にならぬ貧鉱である。かくなる上は一刻も早く通知して対策をとるために自分が飛んで来た」ということでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-29

 意外な小池の報告に高橋は途方にくれ、直ちに田島に訊いてみました。「一体君は最初に山を買う時、実地をよく調査したのか、只今小池からの報告によると、山は全くの廃坑というのじゃないか」と詰問すると、田島は「実はあの時はよく調査をしませんでした。しかしもう一度山へ行って調査してみなければ、小池の言うことばかりも信じられません」

「しかし君の報告書には、4鉱区を買収した時に、実地調査をやったように書いてあるじゃないか」「何とも申し訳ありません」と言って田島は泣きながら「あの時の報告書はペルーの鉱山学校にあった雑誌を英語で読み聞かされたのをそのまま翻訳して送ったので、自分で行って調査したのじゃありません。私はもう一度山へ行って確かめて参ります」と白状しました。

 事ここに到って高橋の不安はますます加わるのみでありました。ただ不幸中の幸いともいうべきは、高橋がなお未だ改正契約に調印していなかったことであります。

高橋から鉱山に関する上述のような説明を聞いたヘーレンは非常に不機嫌で、「一体小池は誰の指図で山から下りてきたのか、この国では左様な場合はまず本社に伺いを立てることになっている」と云い、また「改正契約の調印までは、鉱山は自分の私有物である。田島の登山も許すことはできぬ」と興奮して云うので、高橋は「再調査に不同意であれば、自分はこれから日本へ電信を打って、本隊の渡航をしばらく見合わせるようにせねばならぬ。それに貴君は今日大変興奮しているので、十分談判ができぬ。今日はこれでお暇する」と言ってヘーレン邸を辞去し、宿に帰るとすぐ東京へ電報を発しました。

その後高橋とヘーレンとの間に話し合いが繰り返され、ヘーレンは次第に高橋の主張に同調する姿勢を見せて来ました。

同年4月2日高橋とヘーレンとの間に次ぎのような新契約が成立しました。

  1. 日本組合は新たに会社を組織し、ヘーレンの権利を全部6万磅にて買いとり、代金の内5万磅は現金をもって支払い、残り1万磅は新会社の株券をもって充当すること
  2. この計画は帰朝の上6カ月間に実行すべし。、もし上述期限内に実行すること能わざる時は、日本組合は現在共有の鉱山権を喪失すべし。
  3. 本契約の調印と共に、さきに田島、井上が日本発起人の代表として調印したる契約はその効力を失うべし。
  4. このたび会社創立の費用として出資したる3000ポンド余の金員については、これまでの清算をなすに及ばず、ただしこの条約調印の日ヘーレンより1500ポンドだけを日本組合に返戻すること(これは万一新条約の計画を実施する能はざる時坑夫その他の帰国旅費に充つるものとす)
  5. 新条約の期限中は、ヘーレンは日本坑夫に対し一定の賃銀を払い、かつこれまで通り家屋及び食物を無代価にて給与するものとす。
  6. ヘーレンは田島、山口、屋須、小池には給料を与えざるも、家屋と食物はこれを無代価にて交付するものとす。
  7. 6か月以内にヘーレンの権利を買いいれること能はざる旨を東京より電報したる時は、ヘーレンは直ちにその旨を山口に通じ、日本人」総体の帰国について金銭を除くほか万端の世話をなすものとす。
  8. この契約を実施せざることあるも双方共にに異議を申し立てざることまたこの契約書の日付け以前に定めたる事件はすべて無効とす。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-30(最終回)

 かくて高橋は急速に帰国の準備に取り掛かりました。それを聞いて我々も一緒に連れて帰ってもらいたいと坑夫が山口支配人まで申し出てきましたが。高橋が一足先に帰国し、山口は坑夫らとともに一時残留することになりました。

同年4月10日高橋はヘーレンはじめ在リマの社員一同の見送りを受けてカリヤオ港出帆のサンタ・クローサ号で帰国の途につきました。パナマに着くまで高橋は電報の略号を作るために苦心したのです。リマから日本への高橋の電報の内容がすべてヘーレンに通知されていることを高橋は知っていました。それに電報では詳細な情報を送ることはできませんし、ペルーにはまだ多数の日本人が在留し、ヘーレンの世話にならねばならない事情もあり、廃坑に過ぎない鉱山の実態を日本に連絡することはできませんでした。ただ日本から新たにペルへ送金することのないよう、遠廻しな表現で要請することしかできなかったのです。そうして同年6月5日東京へと帰り着きました。

帰国後高橋は株主を一堂に集め、今日までの事情をありのままに詳細に報告して、上述の通り田島の調査報告が全然嘘であったために、事業の計画は根底から覆り、到底前途見込みなきを感知したので、鉱山事業は断念放棄せねばならぬと考え、それには、さきに田島、井上両名が日本側全権代表としてヘーレンと取り交わした契約を破棄してきた旨を話しました。株主らは高橋の報告を聞いて非常に驚き、高橋の電報の意味を十分に了解できなかったことえを謝罪しました。

 一方ヘーレンに対しては、6月21日新会社設立のことは日本株主の賛成を得られなかったことを電報で通告し、ヘーレンはこのことをカラワクラの山口に通報、7月2日これを知った山口は直ちに坑夫らとともに日本へ帰る準備を開始しました。7月17日正午南米汽船会社船ランタロー号でカロヤオ港を発し、9月10日午前8時横浜に到着しました。

 これよりさき田島は、山口らがまだペルーにいた6月28日に脱走して何万円かの金を拐帯して行ったから、日本へ着いたら捕り押さえよとの電報でした。その後田島は帰国しましたが、藤村は1890(明治23)年10月10日発起人を代表して田島を詐欺罪で告訴、裁判の結果有罪となり確か3年半の懲役に処せられました。

高橋がペルーから帰って今度の事業の清算をしてみると、会社に対する高橋の持株は最初1万円であったが、全権代表となって行くとき会社の友人が立て替えてくれて、高橋の持株を500万円にしてくれました。

 ところが大損失で会社は解散することとなり、自分の持株の未払い分が16000円ばかりあり、このとき高橋の大塚窪町の家屋敷を処分、その家の裏の貸家に引っ越しました。

親切な知人が就職の世話をしてくれましたが、考えがあって高橋は官途にはつきませんでした。

 家族一同を集めて、高橋はペルー失敗のことから、福島農場、天沼鉱山の失敗、今日の事情一切を打ち明けて、「この上は運を天に委せて一家のものは一心となって家政を挽回するに努めねばならぬ。ついてはこれから田舎に引っ込んで大人も子供も一緒になって、一生懸命働いて見よう。しかもなお飢えるような場合になったら、皆も私と一緒に飢えてもらいたい」というと長男の是賢(14歳)は黙って聞いていましたが、次男の是福(10歳)は「そうなったら私はしじみ売りをして家計を助けます」と云ったので皆涙を呑みました。家内(品)は毛糸を編んで手内職をし、僅かな工賃を得ていました。

高橋是清子爵家 その1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-11

 それで公使館で相談の結果、原書記官が同行してくれることになりましたが、原は「君の専門的な用件には通弁できない。それで君の便宜のために英語の解る人に出て貰うよう交渉してみよう」と云い、特許局では英語の解る人を出して、高橋との応接に便利を計ってくれました。

 特許院ではフランスには特に発明保護の規則はない。発明者は雛形を特許局に提出する。そうして発明品の明細書や図面は、それぞれ種類によって分別し、一般公衆の閲覧に供しているということでありました。

 パリー滞在中のある日、谷大臣を其の旅宿に訪ねると、外出中であったので、しばらく応接間で待っていました。ちょうどそこへ河島醇(かわしまじゅん)が同じく大臣を訪ねてやってきて、当時日本で憲法制定に関する議論が高まっていたので、自然と民約憲法(民定憲法)を主張する河島と欽定憲法(君主が制定した憲法)を支持する高橋との間に大声で論争が起こりました。しかしこれがきっかけとなって河島とは親密となり、河島がこの夏は是非ベルリンへやって来い、加藤もやって来るはずだから3人でドイツ旅行をしようじゃないかと云いだしました。高橋もうん行こうと約束しました。

RETRIP―パリー

 同年5月3日午前10時、谷農商務大臣の随員の一人として、高橋はフランス大統領に謁見を許された後、同月5日午前9時パリーを発って、同夕刻ロンドンに帰り、園田夫人の厚意により、ケンジントンのホートランドロート46号の園田孝吉の家へ引っ越し、家人同様の待遇をうけました。

 パリー滞在中、河島、加藤済らとの約束もあるので、同年7月16日午前8時半、ロンドンのヴィクトリア・ステーションを発してベルリンへの旅に上りました。クインバローに着いたのが午後10時半、非常に月の美しい晩で、直ちにフラッシング行きの船に乗り込みましたがドーヴァー海峡の波は穏やかで、翌17日の午前6時過ぎには早くもオランダのフラッシングに着きました。上陸するとまもなくベルリン行きの汽車に乗り込みました。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-12

 高橋は相変わらず行き当たりばったり主義で、同じ車内にはアメリカ人夫婦と一人のドイツ人がいて、午後1時近くにオバーハウゼンという停車場に着くと、白いエプロンをつけたボーイが同車の客に弁当を運んで来ました。高橋が「俺にも一つ持って来い」とそのボーイに命じましたが、何時まで経っても持ってきません。そのうちに午後1時半になり、汽車はオバーハウゼンを出てしまいました。それで相客に「どうして自分には食事を持ってこないのだろうか」と尋ねると、「アナタは前もって電報で注文しておいたか」「否、頼まぬ」「それじゃ持って来ぬはずだ、この汽車で午飯を食うのに一番都合のよい所はあの停車場である。それでみな前の駅から電報で注文して置くのだ」ということでありました。

今朝、朝飯は5時半ころフラッシングに着く前に済ませたので空腹だが、弁当のありそうな停車場に止まりません。やっと午後3時ころウエストハリアのハムという停車場で、ようやくパンとハムを入手しましたが、パンは堅くて食べられず、ハムは塩辛くて、飲み物はないし、無理やりに詰め込んだら、たちまち腹痛を起こしました。

 午後10時46分にベルリン到着、荷物をポーターに頼みっぱなしで、ポーターの番号も聞かず、出口に出てしまいました。

他のポーターにセントラアル・ホテルまでの馬車を頼んだら、そのホテルなら向かいですと目前の建物を指して教えてくれました。荷物も一つも紛失せずチャンと先に届いていました。

RETRIP―ベルリン

 翌朝公使館に品川公使を訪問して到着の挨拶をしました。浜尾新が数日前サクソニーの旅行から帰ったとのことで、公使とともに同君を訪問しました。

 浜尾、中沢両君と中食を共にしましたが、両君がホテルにいるよりも何処か下宿を探したがよかろうと、いろいろ世話してくれて、ついに井上哲次郎の下宿している所に行くころになりました。

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上哲次郎

 当時ベルリンに在住していた主な邦人は、前述の諸氏のほかに公使館員として井上勝之助らがあり、商売人としては川崎甚兵衛らの一行あり、河島醇らの一行は高橋より一足先にフランスからやってきていました。

 7月中は米仏で調査した原稿の整理や、ビスマークについてのミューラー博士の講義を通訳つきで聴くことで過ごしましたが、高橋はドイツ語をやっていないので、調査の助手として、8月初めワグナーという人が2箇月100マークの給料で引き受けてくれました。

 かくして特許局長を訪ねて、とりあえっず特許に関する諸法令並びに参考書の分与を求めると、快く承諾し、2、3の局員に紹介してくれました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-13

 その後また特許局に行くと、局長は留守で、ショーテ代理の手許に発明意匠保護に関する現行法律の英訳をもってきてくれましたが、印刷の部数が少なかったので、これ1部しかない。面倒だが写し取ってほしい、と言われ、高橋は全部筆写しましたが、このため高橋の取調べはとても楽になりました。

 それから書類交換を求めたところ、ショーテは「それは日本公使館からドイツ外務省に申し出て、外務省から内務省に移牒して来る手続きを取ったがよい。」ということでありました。それで公使館に行って、明細書図面その他の交換をドイツ政府へ申し込んでもらい、ここでも書類交換の目的を達することが出来ました。

 調べてみると、ドイツの特許制度も仏国と同じく、米国のそれに比すれば、遙かに遅れていました。

 ベルリン滞在も長くなって、何時の間にか秋風そよぐころとりました。それに帰国の日も近づいてきたので、9月8日午前5時20分にベルリンのレエルテル・ステーションを立って、見送りの友人とハンブルグまで同行し、同地経由で英国に帰ることとなりました。

 汽車は広漠たる北ドイツの野を横切って、夜の10時過ぎにハンブルグに着き、直ちにクラウンプリンス・ホテルに投宿しました。

 RETRIP―ハンブルグ

 翌日我が名誉領事のパウルソーレンを訪問、すると同氏は「ここでみるべきものはウイルタゲン氏の魚の燻製工場のみである。この工場は秘密で誰にも見せないのだが、かねて貴君が見えることを聞いて、この人は実業家ではない農商務省の役人で、決して工場の秘密を盗むものではないと言って、承諾を得ておいたから、是非視察されたがよい」としきりに勧めてくれました。それで到着の日から2日目に、この工場を参観しました。

 その夕、カール・ロードに招かれ、ハンブルグ郊外のバーレンフィールドにある同氏の養父カイエンの邸を訪れました。カイエンは齢すでに古稀に近い老人でしたが、実に钁鑠(かくしゃく)たるものでありました。

 実に非常な厚遇を受けました。かつ老人の経歴談を聞いて、高橋は感激いたしました。その夜は思わず長居して、月を踏んで帰りました。かくてハンブルグ滞在前後4日、英国行きの汽船ネリッサ号に乗り込んだのは9月11日の午後9時、沖天の月がことに鮮やかな夜でありました。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-14

 英米独仏における特許制度の取り調べも一通り出来上がったので、高橋は1886(明治19)年10月7日に英京ロンドンを立って帰朝の途につきました。高橋が乗った船は意外に船足を早め、予定より3日間も早くホンコンに着きました。ところが接続船の都合でホンコンに1週間も滞在しなければなりません。故国を眼の前にしながら、1週間も船待ちをするのは堪えられず、船切符をすてて、別会社の船に乗りり込み、ホンコン着の翌日日本へむけて出発しました。この船は長崎にも神戸にも立ち寄らなかったので、最初の予定よりも9日間も早く横浜に到着しました。

 それから汽車で新橋駅に降りると、杉山会計局長がやって来て、「これからすぐに農商務省に来てくれ」と云うので、家にも帰らず、そのまま農商務省へ行きました。

 「一体何事だ」と訊くと、「実は山林局農務局所管の地所を売った金が8万円ほどある。省内の各局長は、それを各局に分割して、めいめいに使いたいという。近く君が帰るというので、実は君の意見も聞きたいと思って待っていた次第だ」

 「8万円の金を全部を俺に使わせてくれんか」「何にするんだ」「俺はそれで特許局を建てる」

 「君の留守中に省内の形勢は全く一変した。果してそんなことが出来るかどうか、とにかく次官に会って君の考えを話してみるがよい」ということでありました。

 思いがけない経緯で遅くなり、大塚窪町に着いたとき、すでに日はとっぷり暮れていました。久しぶりに見る我が家の窓の明りが微笑みながら手招きしているようで、坂を上る高橋の足取りも早くなります。

 息子たちはすでに布団に入っていましたが、養祖母の喜代子が寝ずに待っていてくれました。その夜は熟睡できず、翌朝風呂に入って、旅の垢を落とし、仏壇の柳(フジ)夫人(明治17年8月4日死去 上塚司編「前掲書」下巻)に手を合わせ、その後家族そろって朝食の食卓を囲みました(幸田真音「前掲書」)。

 翌日高橋が吉田次官邸を訪問して、商標、意匠、発明保護の三法律を新たにに成立する必要があることと同時に特許局を一個の独立の局としてその庁舎を建築するよう、また8万円は特許局新築の費用にあてるよう意見を述べると、次官は不機嫌な顔をして「それよりも取調べに行ったんだから、報告書から先に出せ。何もかもそれを見た上のことだ」と言われました。それで高橋は早速報告書の作成にとりかかりました。

 報告書が完成したのは1887(明治20)年正月で、それから商標条例、意匠条例、及び特許条例の起案に取りかかりました。

 その間にたびたび大臣次官が更迭し、これが成案となって、内閣に提出の準備が出来た時、黒田清隆が農商務大臣で、次官は英国で知りあいになった花房義質(はなぶさよしただ)が就任していました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上毅―くー黒田清隆

 ところが、その原案に対して、黒田清隆はなかなか判を押さず、内閣の議を経ることができません。しかも大臣は滅多に省には出てこないので、花房次官に苦情を訴えました。次官も気の毒がって、ある日自分が出掛けて行ったが、玄関払いを食ったと帰って来ました。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-15

 そのうちに大臣が久々に出省して高橋を呼び「自分はこの法律のことはよく解らない。いずれ必要なものだろうが、こうして法律を出せば、これに伴って必ず経費を要とする、経費のことは大蔵大臣が承知しなければ出来ないが、あなたはまず松方さんへ行ってよくこのことを説明し、承知されたらお出しなさい。私は今日判だけは押しておくが、その責任はとれない」と云いました。

 それで早速松方正義を大蔵省に訪問して事情を説明、松方は了承したが、間もなく内閣は更迭して黒田清隆がが総理大臣になりました。

 黒田の農商務大臣は期間がごく短かったので、高橋はあまり接触する機会がありませんでした。ある時省内の課長以上を三田の自邸に招いたことがありました。黒田は自ら立って酌をしながら酒を勧める有様でした。

 皆が神楽を見物しながら飲んでいると、大臣が「サア皆さん、ここから小便をしよう」と言って二階から小便を始めました。このように黒田は酒癖の悪いことで有名でした。

しかるに上記3条例は参事院で議論が沸騰し、なかなか通過が困難でした。特許条例を作るに当って、審判長の権限について、議論が沸騰しました。高橋は「特許証の有効無効を裁判するについては、特許局長が自ら審判長となって、これを判決し、かつこれをもって最終のものとせねばならぬ」と主張しました、すると井上毅が極力反対し、最終決定は大審院で下すべきものだ、と主張しましたが、同氏も一時の便法としてこれに賛成することとなり、いよいよ1898(明治31)年12月18日をもって旧法を廃止し、新たに商標条例、特許条例及び意匠条例が発布せられ、翌年3月1日から施行されることとなりました。

Weblio辞書―検索―大審院―コンドル

高橋は帰朝後、特許局独立の運動を始めました。元来、特許ならびに商標の事務は農商務省工務局内の専売特許所並びに商標登録所で取り扱ってきたのを明治19年2月16日勅令第2号をもって、農商務省に専売特許局という一局を置くこととなりました。

 これが我が国における工業所有権保護に関する特別の局を設けられた始まりです。

 しかるに農商務省特許局ではいけない、さらに一歩進めtて、真に独立したる局となさねばならぬと考え、八方力説した結果、明治20年12月に到り、勅令第73号をもって農商務省専売特許局が廃せられて、単に特許局となり、高橋は特許局長となりました。

 一方高橋は特許局新築の話を進めました。工部大学の教授で建築技師のコンドルに頼み設計してみると、どうしても12万円かかると云います。

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-16

 そこで杉山会計局長の手許に保管されていた例の8万円に不足する4万円は松方大蔵大臣の承認を得て確保しました。

新築の設計図が完成したころ、井上馨が農商務大臣に就任しました。井上は設計図を見て、注意のため申されるには「建築費として12万円とってあるが、かような建築にはいろいろと装飾や外柵などに費用がかかる。全部使わないで1万円くらいは別にとっておかなくては後で困ることが出来て来る。この建築は大倉組に請け負わせて、11万円で12万円の仕事をさせ、その代わりに11万円は前渡し金で渡してやることにする。残る1万円は別にしまっておけ」といわれるので、その通りにしました。

 井上と云う人はこんな細かいことにも気の付く人でした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上馨

 1885(明治18)年内閣制度の発足は、いうまでもなく、憲法制定の準備に外ならなかったのです。それとともに、時の台閣諸公らが窃かに憂えたことは、来るべき議会において、久しく抑圧された民権党が時の政府に突撃してくるのではないかという一事でありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-17

 そこで内閣の閣僚はこの際大いに事績を挙げて、世論の称賛を博し、民軍の鋭鋒にあたらねばならぬと覚悟するにいたりました。すなわち、その一つとして井上馨外相は条約改正に成果を挙げようと努めたのです。

 しかしその改正が甚だしく国威を損なうものであるとみなされたために、天下の輿論はこれに反対する気勢を示しました。しかのみならず、時の内閣は盛んに欧化政策をとり日比谷に鹿鳴館を作って社交上の機関となし、舞踏夜会に歓楽の夢を追うようになりました。この年4月、総理大臣官邸に行われた仮装舞踏会のごときは最もよく当時の風潮をあらわしたものであります。

Weblio辞書―検索―鹿鳴館―ボアソナード

 この浮華軽佻の風潮に憤慨する志士の一団は条約改正反対、風紀振粛を絶叫するに至りました。当時官職にあって、最も反対したものには、枢密院顧問官勝安房、谷農商務大臣、西郷海軍大臣ら、及び司法省雇外人ボアッソナードも。その一人で、いずれも政府に建白して、かくの如き粉飾的条約改正の無意味にして、何らの効果なきゆえを陳べました。

 前田正名も条約改正並びに当時の上流社会の欧化主義的風潮に向かって甚だしく憤慨した一人でありました。前田は人心作興の意見書なるものを書いて、病臥したので高橋にそれを井上毅の所へ持って行って、その意見を徴してもらいたいとの依頼を受けました。

 高橋は彼の意見書を携えて井上毅宅を訪問すると、井上は風邪で臥床中でしたが、特に病室に通されて面会してくれました。

 前田委託の意見書を差し出すと、井上は手にとって静かに一読し、「誠に結構だ」といいながら、すぐに話頭を転じて、当時の中心問題たる条約改正に及び、いろいろと意見を述べました。そうしてやがて手文庫から一通の書類を取り出し、「これはごく内密に前田に見せてくれ」とて託されました。

 その書類こそ条約改正に関する井上毅と当時の司法省お雇い外人のボアソナードとの対話の筆記でした。前田の読後、高橋が複写しておいたもので、高橋は今これを見るに、実に得られざる史料であるとのべて、その全文(省略)を本書(「高橋是清自伝」)に収録しています。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-18

 1888(明治21)年4月、第1次伊藤博文内閣は倒れ、黒田清隆を首相とするいわゆる元勲内閣の出現をみるに至り、農商務大臣には井上馨がその任に着きました。

 井上大臣と一緒に入ってきたのが、古沢滋(ふるざわしげる)、斎藤修一郎の両名で斎藤は秘書官、彼は学校時代からの知り合いでしたが、古沢と云う人はそれまで全く面識がありませんでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ふー古沢滋

 井上は大臣就任後、しばらく農商務省へは一切顔をみせませんでした。そうして斎藤を通じて高橋に「外国から新発明の機械を日本に輸入しようと思ってても、日本へ売ったら、すぐ模造するから困るといって、二つや三つくらいでは売らない状態である。ゆえに今日新式の機械を輸入することが必要であるから、その機械を保護するために、始めて輸入したる者には専売特許を与えるよう法律を作れ」と大臣の命令であるから、早速それをやってもらいたい、ということでありました。

 しばらくして井上がはじめて役所に出て来ました。大臣が出ると札がかえることになっていましたが、その札がひっくりかえるとほとんど同時に呼び鈴が鳴り、早速大臣室に行くと、「古沢や斎藤をもって申しつけていた法案は出来たか」と問われます。

 よって高橋は法律はすぐにできます、しかしこれについては、外国で聞いたこともありますので、私に少し意見がございますから、それを申し上げて御判断願った上のことにしたいと考えております、といって、かつて英国で自分が聞かさされて非常に印象深く感じた話をしました。

 それは英国滞在中のことでした。名は忘れましたが、確か特許局長の秘書官のウェップの雑談の中に、、「日本では今条約改正ということで大変に騒いでいるが、ここに考えねばならぬことは、今度の条約改正では、日本側から求めることはたくさんあるが、外国側から日本に要求して利益となることはほとんどない、強いていえば発明、商標、版権の保護ぐらいのものである。しかるに版権と商標とはすでに警察で保護しているということだが、その上に発明まで保護するということになれば、外国人が要求する事柄はすべて充たされて、あとには要求すべき利益はなにもなくなってしまう。それで発明の保護だけは決定せずに残しておいて、条約改正の時にうまく利用することが日本のためである」ということでありました。高橋はこのことを井上大臣に詳しく説明したのです。

 井上ははじめの間は怒ったような顔で聞いていましたが、そのうちに顔つきも和らいで、「よろしい、そんならもうその法律は作らんでもよい」といいました。

 高橋はこの時、これはかねて想像していた井上とは大変異(ちが)う。自説が誤っていることに気づけば、改むることにすこしも憚らぬという美質をもった人であることを知りました。

 それから高橋は井上の知遇を受けるようになり、やがて東京農林学校の校長に兼任を命ぜられたり、炭坑審査処理委員を命ぜられたりして、おおいに引き立てられました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-19

  そもそも高橋がどうしてペルーの銀山に関係するようになったかというと、彼が特許取取調べのために欧米諸国を巡っているうちに、特に感じた事柄がありました。

 それは当時日本人で商用で外国へ行く者は誠に少く、たまたまあっても、多くはベルリン、パリー、ロンドン、ニューヨークというような先進文明国の都市を廻るばかりでした。

しかもその多くは言葉も解らない人たちであるから、折角商談を持っていっても相手にされぬという風でありました。高橋はこの状況を見て、これはいかぬと痛感したので、帰朝早々前田正名にその話をしました。

 「そんな所に発展するよりも、もう少し文明の程度や富の程度も低く、人民も慠慢でない、そうして土地も広い所、例えばスペイン語ポルトガル語などが話されている南米、中米の諸国に向って市場の開拓を図ったがよい」と話したことがありました。

 それを覚えていたからでしょう。前田がある日高橋の所にやって来ました。「このごろ藤村紫朗が来て言うのには、これまで誰にも話さず、6~7人のものだけが申し合わせて、南米ペルーでオスカル・ヘーレンというドイツ人と共同して、銀山経営の話を進めて来た。

 すでに技師を派遣し実地踏査した上、共同経営の契約を取り交わしたが、最初の発起人だけでは力が及ばなくなってきた。この際会社を設立して株式を公募する必要に迫られている。ついては一臂の力を貸してもらいたいということであった」といって、この銀山の起りから、今日の成り行きを詳しく高橋に話ました。

 前田の話によれば、ドイツ人ヘーレンは親の遺産を相続して、1869(明治2)年日本にやって来て築地に家を構え、やがて日本を去って帰国し、ドイツの領事館員としてペルーに行き、バドロー大統領の姪と結婚、中央銀行総裁になり、ペルー実業界で知名の士となっているとのことでありました。

Weblio辞書―検索―ペルーの歴史

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-20

 同大統領は農業を盛んにする方針で、ヘーレンも政府からペルー北部の土地を払い下げてもらって農場経営に着手しましたが、ペルーの現地人は農業労働者には不適で、ヘーレンは勤勉な日本人を使いたいと思って、自分の雇人井上賢吉を日本に派遣し、農場の共同経営を説かしめることにしました。

 その時ヘーレンはペルーの産業紹介の意味でカラワクラ銀山の鉱石を井上に持たせて日本に帰したのです。井上は日本に帰ると、懇意であった城山静一に事情を話して助力を求めました。城山は直ちに井上を前山梨県令の藤村紫朗に紹介し、同時に実業家小野金六にも依頼しました。

当時はちょうど鉱山熱の盛んな時で、 藤村は井上持参の鉱石を見ると、早速それを鉱山学会の泰斗巌谷立太郎博士に分析鑑定を頼み、この鉱石はほとんど純銀に近い良鉱で、しかもその原産地カラワクラの銀山はドイツの鉱山雑誌にも載っている有名な山であることが判りました。

Weblio辞書―検索―巌谷立太郎

 これを聞いて藤村らは大喜びで、ヘーレンの使者井上の話では農場の経営ということであったが、それよりも鉱山の方が面白いと言って、藤村らは金五万円を醵出、銀山経営の計画を進めてしまったのです。

 しかし実地を調べてみないと安心できぬ、誰か適当な技師を選んで実地踏査させ、もし良かったら、ヘーレンと共同経営の契約を結ばせようと、その技師の選択方法を巌谷博士に依頼しました。すると博士は自分の部下の田島晴雄理学士を推薦してくれたので、1889(明治22)年11月28日田島技師は日本をたってッペルーに向い、翌23年1月23日リマ府に到着しました。1箇月後、田島から最初は電報、次いで書面で契約を取り交わしたことを知らせてきました。

 それによると、会社は資本金100万円とし、日本側とペルー側とで50万円ずつ分担することになっています。そうしてすでに4鉱区だけは25万円で買い取り、内日本側の負担に属する12万5千円はヘーレンが立て替えて支払ったので、その分だけは来る11月までに支払わねばならぬ。かつ農場の方も同時に着手することとなっています。

 来年4月までに農夫400人を日本側の負担でペルーに送り込む責任があります。ヘーレンの出資は農場、精煉所、その他の不動産で、坑夫、農夫の供給並びにこれに要する渡航費などはすべて日本側が負担しなければならぬということでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-1

1881(明治14)年の春になって、友人からいつまでも学校で教員をするだけでなく、文部省へ入って教育の事務をとってはどうかと勧められ、高橋も同感で、その話をすすめてもらいました。

 ところが当時文部省の小丞か何かであった浜尾新が高橋の行状ことに放蕩や仲買いの店をだしたり、銀相場に手を出したりしたことを聞いて、ああいう不身持ちの者を文部省に採用することに反対していることを知りました。

 それで早速浜尾を訪ねて相場に手をだしたのは30人ばかりの書生を養う費用を得るにあったこと、それも今はやめている、また放蕩の方は、これもおつきあいに行く程度のことで、遊廓にもいかなくなったことを話し、浜尾も納得して。明治14年4月御用掛を仰せつかり、地方学務局勤務を命ぜられました。

 高橋が文部省へ入ると、間もなく農商務省ができ、その官制を見ると、その所管事務として発明専売、商標登録保護のことが規定されていて、誰にこの仕事を担当させるか 困っていたようでした。

 このとき高橋のもとの遊び仲間であった旧越前藩士の山岡次郎が蔵前の工業学校教授で農商務省技師を兼務していました。この人がかつて高橋がモーレー博士の勧めで商標登録、専売特許のことなどを調査、その必要を提唱していたのを知っていて、同省河瀬秀治局長に話したので、高橋は農商務省に採用されることになりました。これが同年5月のことです。

農商務省では工務局調査課勤務を命ぜられ、もっぱら商標登録並びに発明専売規則の作成にあたりました。大阪の商業会議所は商標登録に賛成でしたが、東京の会議所は商標と暖廉(のれん)を混同し、暖廉というものは永く忠勤した番頭に、その主家から分け与えられるもので、それを登録して所有者の専有物として、一切他人が使えぬようにすることは我が商習慣になじまぬという理由で反対しましたが、後に撤回しました。

工務局長から、順序としてまず商標登録規則から始め、その後に発明専売規則にかかるがよい、と言われ、かくてこの取り調べが進み、参事院の会議に提出するまでに約2年有半の歳月を要しました。1884(明治17)年1月参事院本会議に上程され通過、ついで元老院の協賛を経て、同年6月7日布告第19号をもって商標条例発布、同年19月1日より実施となりました。

Weblio辞書―検索―登録商標―のれんわけー参事院―元老院

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-2

次に発明専売規則の作成にとりかかりました。その成案を参事院に提出しましたが、通過は困難でした。その理由は、すでに1871(明治4)年ころ発明専売略規則なるものが発布せられたが、発明の審査にあたる適当な人物として外国人を雇用しなければならず、かつろくな発明もできないという有様であったからです。

 そこへ森有礼が外国から帰り、高橋が早速挨拶に行くと、「このころ、何をしている」と尋ねられましたので、高橋は農商務省に入って、今は商標登録所長となり、発明専売規則の作成に努力し、ようやくその成案を得たので、参事院に提出しましたが、反対が多くて通過が容易でないということを話しました。。すると森は「そんなにむつかしいなら、俺が行って話をしてやろう」と云いました。

当時森は参事院議官であったが、めったに会議に出席することはなかったのですが、ある日会議に出席して、おおいに案の通過のために掩護してくれました。おかげでこの案はようやく参事院を通過、元老院に回付されました。高橋は臨時に内閣委員を仰せつけられ、その説明に当り、同院では相当の議論もあったが、箕作鱗祥の協力を得て、高橋案は無事通過、1885(明治18)年4月発布、同年7月1日施行、高橋は同年4月20日付で専売特許所長兼務を命ぜられました。

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前田正名―みー箕作鱗祥

森有礼の紹介で農商務省の書記官であった前田正名が高橋に会いたいと伝言があり、省内で面会したのは1883(明治16)年ころであったと思います。彼は熱心に殖産興業の急務を主張し、高橋は彼の意見に敬服いたしました。

 前田は第四課の人々を使って興業意見書の編纂に着手、同意見書の中に興業銀行設立の計画がありました。

 ところが大蔵省案を見ると」、その実行方法が農商務省は全然反対で、中央銀行を先に作って、各地方に支店を設けようとするものです。しかるに農商務省の計画は、地方を先にして中央を後にする案でした。従ってこの案が参事院会議に上程されると、その都度特別委員に付託されて、大蔵省からは銀行局長の加藤旦ら3人が出て説明に当り、農商務省からは高橋が1人出て応酬しました。同院議官の間では農商務省案支持は少なかったのです。

 この時西郷従道農商務卿が清国から帰朝、それで参事院の議官は農商務卿の出席を求めて議論を纏めるほかないということになりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-3

 これを聞いて高橋は書記官の前田正名、山林局長の武井守正、会計局長の杉山栄蔵、書記官の宮島信吉らと会合、明朝武井、宮島、高橋の3人で農商務卿を訪問することに決めました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー西郷従道―しー品川弥二郎―まー松方正義

西郷は3人の報告を恐い顔で聞くと「清国へ行く前、松方(正義)大蔵卿に早く出してくれとこちらから頼んで出して貰ったものである。それを農商務省の代表たる君(高橋)が廃棄を主張するとはどういうわけだ。その理由をいいなさい。」と気色ばんで云いました。

高橋が経過を説明すると西郷は「明朝本省にでるから、書記官以上を集めて意見を聴くことにしよう」と云いました。

 翌朝高橋は決心して、胃病で臥床していた品川弥二郎農商務大輔を官舎に訪問、昨日の西郷訪問の報告をして、高橋自身の懲戒免職を懇請しました。すると品川は、一体参事院での高橋の主張は省議なのか、高橋個人の意見なのかと質問、高橋は省の代表となったのであるから、私見を述べても差し支えないと思うと答えました。品川は「今朝の省議には自分も病を押して出席する」と涙を流して云いました。そこへ武井守正がやってきて、「西郷卿が我々の意見に同意されぬ場合は、あなたが高橋に命じてやらしたということにして、あなた一人で責任を取って頂きたいとお願いに参りました」というと、品川は「それは自分にとって何でもないことだ。西郷さんにお話ししてみよう」と引き受けてくれました。

時間が近くなったので出省すると、西郷が高橋を一番に呼び出して「昨日は十分に君の話を聞くことができなかった。も一度大蔵省案について話してもらいたい」というので高橋は農商務省が何故大蔵省案に反対するのかを1時間余り説明しました。西郷は「よく解りました。これから会議を開きましょう」といって局長、書記官を集めた会議が開かれました。出席者は一人ずつ順番に意見をのべましたが、西郷は「貸すときには協議せずして大蔵省が専断をもって貸しても、その後始末については農商務卿において(大蔵省が)責任をもたぬなどいうがごときは、義理にもいえたことじゃない」と厳然と云い放ちました。

 このとき高橋は感激して涙が滲みでたほどでした。西郷という人は経済のことなどなにも解らない人だと思っていましたが、外見の茫漠たるに引き換え腹の中ではちゃんと事の要領を掴まえ、頭脳も明敏で見かけによらぬ緻密な考えをもった人でありました。

 その後聞くところによれば、西郷から松方に話があって、大蔵省はこの案を撤回したということです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-4

高橋は1885(明治18)年(31歳)11月16日付で欧米出張の辞令を受け、同月21日付で農商務省書記官に任ぜられ、同月24日横浜出帆の船で米国へ出発することとなりました。同年11月16日内閣書記官「専売商標保護に関する現法実視の為欧米各国へ被差遣候事」との太政官辞令が届けられました。同時に西郷農商務卿は高橋を呼び、各国駐劄のわが公使に向って、公文の紹介及び依頼状を発すべき由を申し渡しました。

連日盛大な送別会が開かれ、森有礼からは「ゼネラル・イートン」(イートン将軍)への紹介状を認めて渡されました。

同年11月23日午後4時新橋駅から横浜へ向い、横浜では弁天通りの西村に休憩、夜に入って駅逓局の小蒸汽で乗船、「サン・パプロパ」号に乗り込みました。

 この船は貨物船で高橋は士官部室をあけてもらい、他に二人の若い留学生串田万蔵、吉田鉄太郎を伴っての旅立ちでした。高橋らの外に日本人乗客は早川竜介ら8~9人、うち2人は女子でした。いずれも下等船室でした。下等船室には多数の清国人も乗り込んでいました。上等船室にはフレツャアら5人の外国人乗客がいて、船のなかで懇意になりました。

 同年11月24日午前6時半、夜来の雨は晴れて、船は錨を解纜しました。ところがわが島影が消えるころ、非常な大嵐となり、その後3日間船客の多くは船室の外へ一歩も出ずに閉じ籠っていました。27日になって船客もようやく食堂に出るようになりました。

早川が甲板に上がって来ていうのには、「どうも大変なしくじりをやった。顔でも洗いたいと洗面所を探した、ちょうどそれらしい部室があったので中を見ると、何だか取り付けの器の横からチョロチョロと水が流れている。その滴りを掬い顔を洗ったり口をゆすいだりしてそこを出ようとすると一人の西洋人が這入ってきた、そっと窺ったら、西洋人はそこに立って小便をしている、そこで初めてさっきの器が小便壺であったことが判明した」と大笑いでした。

吉田鉄太郎も甲板に上がって来て、「下等はいかにも食物が悪い。せめて食物だけでも上等にしてもらえまいか」というから船の会計主任に話して、船の士官と一緒ということに取り計ってあげようという話になりました。そこで米貨15ドルを支払い、翌朝は大喜びで、まだ士官たちが出てこぬうちに一人で士官食堂に行って食事を注文しました。給仕の持ってきたメニューを見て上の方から順に三ッだけ指したら、パンの種類ばかり三ツ持ってきたといってこれもまた大笑いでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-5

サン・パプロパ号は同年12月9日午後、サンフランシスコの港外に到着しました。やがて防疫官、税関吏、船会社の社員らが乗り込んできて、それぞれ上陸についての手続きをしてくれました。今日は上等船客と下等船客の日本人に限り小荷物のみで上陸してもらいたいということになりました。

 高橋らは埠頭から馬車でパレス・ホテルに向いました。20年振りのサンフランシスコはどこを眺めても往時の面影を留めている所はありません。

 サンフランシスコには3日間滞在の予定で、その間努めて市中の見物、視察、それから昔馴染みの場所などを訪れることにしました。

領事館の宇田川・門井両君の案内でオークランドを訪れました。この地こそは高橋にとって忘れ難い所です。想い起せば、まだ14歳の少年のころ、高橋は自分で知らぬ間にヴァン・リードの手からブラウンに売り飛ばされ、何ヵ月か間をこの片田舎で働いていたのです。

 月冴える夜、高橋はブラウン家の家族や当時の知りあいを探し回りましたが、どうしても見当がつきません。朧げながらブラウン家や停車場のあったと覚ゆる所にやってきました。ふと見上げると、見覚えのある一本の樫の木が突き立っています。この木こそ高橋が毎日牛馬の手入れをした囲いの中で聳え立っていた大木でした。

 同じ夜遅く、ゴス町にフルベッキ夫人を訪ね、御茶の御馳走になりながら、夜の更けることも忘れて語り合いました。

桑港に着いて3日目の午後、高橋らはオークランド駅から汽車に乗ってニューヨークへと向いました。行くこと5日にして、同年12月17日午後2時シカゴにに到着、フレツチャア氏の電報により、出迎えてくれた日本人店員の武田、松井両君がただちにグランド・パシフィック・ホテルに案内してくれました。

 シカゴ滞在3日の間、ストクヤー(屠牛場)や物産取引所を見学し、19日午後3時串田、吉田両君を伴って、シカゴ市のデエホーン・ステーションを出発、かくて翌晩零時半ニューヨークに着き、とりあえずウインソル・ホテルに投宿しました。

 ニューヨークに着いて最初の仕事は洋服を作ることでした。高橋新吉ニューヨーク駐在領事が高橋の服装を見て、日本製でみっともないから、新調したらよいというので、早速洋服屋へ行って燕尾服、モーニング、フロックコート、各一揃い及び外套を注文しました。

注文の服が出来上がるまで1週間かかるというので、その間高橋領事の案内でニューヨークの諸所を見物しました。240フィートの高塔に上ったり、ブルックリン橋を渡って公園をドライブしたり、フィフスアベニュー劇場へ行って「ミカド」劇を見物したり、また取引所を参観したりしました。

RETRIP―ニューヨーク

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-6

 同年12月23日正午高橋は官制改正の電報を接受しました。即ちこれまでの太政官が内閣制に変更され、卿(きょう)、輔(ふ)といいていたのが、大臣、次官とよばれるようになり、西郷農商務卿は海軍大臣に転じ、谷干城が新たに農商務大臣に就任、同時に前田、武井両君は非職(地位はそのままで、職務を免ぜられること)となりました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー谷干城

ニューヨーク滞在中はちょうどクリスマスから年頭にかけてのことで、在留の日本人とは忘年会や新年会でたびたび会合する機会があり、また高橋領事の紹介で多数の米国人とも親しくなりました。ニューヨークの弁護士プリズンはことに特許制度の取り調べについては非常な好意を示してくれました。しきりに意匠保護法の必要を提唱して、日本でも速やかにこの法を設けた方がよい、英国の工芸技術が今日のように進歩発達をきたしたのは、一に本法の刺戟によるものであると言っていまっした。また発明品の特許審査の方法は、米国のように単に審査員の考えに一任するよりも、ドイツのように実際家の意見を徴する方がはるかによいと思うなどとも言い、いずれも高橋にとって良い参考となりました。

1886(明治19)年正月元日はニューヨークのウェストミンスター・ホテルで迎えました。洋服も出来上がったので、同月2日の夜、首府ワシントンに向かうことに決めました。

 同行した串田、吉田両君の処置については、高橋領事とも相談して松方幸次郎(松方正義の三男)のいるニュウブルンスウックのラットー・カレッジ附属のグランマー・スクールに入学させることにしました。

 高橋は予定通り、高橋領事とともにニューヨークを発し、翌日3日午前8時ワシントンに到着、公使館からは赤羽君らが出迎えてくれて、高橋を赤羽の宿であるN通り1514番地に案内してくれました。

当時の駐米公使は九鬼隆一で、早速九鬼公使を訪問しましたが、公使は病臥中で、特許院への同行は2、3日まってもらいたいとのこと、やがて公使に同道してもらい、内務卿を訪問し、特許院長モンゴメリーに面会をもとめましたが、院長は不在で彼の弟に紹介されました。弟はまた特許院書記長スカイラー・ズリーを呼んで、高橋を一同に紹介するよう申しつけました。

以後高橋は連日特許院に通って、ズリー書記長の懇切な指導を受けました。内務卿は高橋の便宜のため、とくに特許院自由参入券を交付してくれたので、その後は各部局に自由に出入して、帳簿のつけ方などを詳しく修得しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-7

一番感心したのはタイプライターの使用でありました。院長が用件を口述すると、速記士がそれを速記してすぐにタイプライターで打ち、見る見るうちに印字となって現れます。

このように高橋が一生懸命特許院で研究を続けている時、一等審査官補のジェームス・ビー・リッツルウッドという人から、日本政府の特許事務に雇われたしと九鬼公使まで申し込んできたといって移牒(管轄の違う役所へ文書で通知すること)してきたので、現在わが日本の専売特許法はただ内地人の発明を保護するいわゆる国内的のものたるに止まり、まだ外国人の顧問を必要とするの程度に達していないから、折角であるこけれども、日本政府においては雇入れの希望なしと返事しておきました。

このようにして実地研究のかたわら参好書類のごときも努めて蒐集しましたが、尚その詳細については、各部課の係員について聞かねばなりません。しかし係員の中には多数の婦人が交じっていて、女子との交際については少なからず苦慮しました。

婦人たちはよく高橋に「貴方はダンスをおやりですか」と聞くので、ダンスの稽古を始めようと思い付き、早速ダンシングの学校を探して入学を申し込みました。

校長はシェリダンという人で、その夫婦と娘さんが教師でした。男の弟子は少なく、女の方が多いようです。

 毎朝特許局にでかけるのが午前10時なので、その前の1~2時間を利用して教えてもらう約束をしました。授業料は1回2ドル、「私に踊りの稽古ができましょうか」と聞くと、シェリダン校長は「貴方は歩けますか」と逆襲してきました。「歩けます」と答えると、「そんならもちろん出来ます」といいます。

 そこには若い娘もおれば、人の妻君もいて、若い娘の中には特許局の婦人書記もいました。舞踏学校では独り特許局の婦人書記ばかりでなく、其の他多数の婦人とも懇意になりました。

ダンス学校を中心に、いろいろの挿話が生まれました。1月の末ころダンス学校へ行くと、懇意なリー嬢が「近いうちに貴方は大変ビックリすることがある」というので、「何です」と聞くと「貴方は外国人で、下宿におられるので、ごく内密に言っておきますが、近いうちに、サアプライズ・パアティが貴方の所へ押しかけるんです。それだけを貴方が心得ていらっさればよい」というのです。

 そこで下宿の主婦にサアプライズ・パアティとは何かと訊くと、それは男と女とが一組みになって一つの弁当の笊を下げて夜分に突然やってくる。そうして皆が持ってきた弁当は一緒にして列べておく。家の人でその席に出る人は同じく弁当の笊を用意して出しておきます。かくて参会の人々が集まると、ピアノを弾いたり、唄ったり、ダンスをしたりします。その後で男と女が籤引きで新たなパアティが出来、持ってきた弁当を籤引きでわけて一夕をたのしむ、なかなか面白いものだといいます。

YAHOO知恵袋―アメリカにおけるサプライズパアティー

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-8

ところがある日特許局に出ると、いよいよ今夜行くことに決まったと知らせてきたので、早速下宿の主婦にも知らせて、その用意をさせました。そのうちに赤羽も公使館から帰ってきたので、こちらでも二組のパアティを作り、一緒にでて、誠に愉快な一夕を過ごしました。

 また或る時、ダンス学校の校長シェリダンが「自分の子供弟子の親御さんたちから、子供たちに揃って日本服をきせてロシヤの水夫踊りを教えて貰いたいという注文があったので、家内や娘とも相談してみたが、日本服の見当がつかぬ、たまたま日本服の女子を写した写真があったので、それを見て工夫しているが、これでよいでしょうか」と、その写真を突き出されました。見ると芸人かなにかの子供の写真で、とても参考にはなりません。

ところが高橋は、その前に、ワシントンの教育博物館(スミソニアン博物館でしょう)で日本の女学校生徒がこさえた着物が6、7枚展示されてあったのを思い出したので、シェリダン師の娘さんを連れて博物館に行き、いろいろ説明して着物の着方や帯の締め方などを教えてやりました。

Weblio辞書―検索―スミソニアン博物館

するとそれをお手本にして、24、5人のお母さんたちが早速日本の着物をつくり出しました。その後きものができあがったので、娘たちに着せる稽古をするから、来て貰いたいというので、行ってみると。皆左前に着せてあったには噴飯しました。それで高橋が本当の着方を教えてやりました。

この舞踏会は4月と決まって、高橋にも是非それまでいて見て行ってもらいたいと云う話でしたが、日程の都合で、それを待たずに、3月の末日ロンドンに向け出発することになりました。

特許院書記長ズリーは親切な人で、高橋の米国における特許制度の調査が順調であったのは、この人のおかげです。同氏とは家庭的のも親密となり、彼の自宅は確かヴァージニア州にあったと思うが、しばしば晩餐に招待されることもありました。

 特許の取り調べを終えて、いよいよアメリカを去る前、また晩餐に招待されて、彼の自宅を訪問した時はちょうど末の男の児が生まれて間もないころでしたが、彼の夫人が「今別れてしまえば、高橋さんお名前はとても覚えておられない。末の子がまだ名前をつけていないので、これに高橋さんお名前をつけてもらったらどうでしょう」と云います。

 高橋も「それは大変結構だが、どっちを取りますか、高橋と是清とありますが、高橋は姓で、ブラウンとかスミスとかざらにある名前だ。いわゆるクリスチャン・ネームに当たるものは是清だが」というと、「そんなら両方を取ってコレキヨ・タカハシとしましょう」と末の子にそう名付けてしまいました。ところがその子が学校へ行くころになると、コレキヨタカハシでは長いので、平生(ふだん)は単に「コレ」「コレ」と呼ぶようになったと聞いています。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-9

 これから欧州大陸に渡らねばならぬから、英語のほかに仏語もドイツ語も解りません。それでは大陸の調査に不便であると考えたので、ドイツ語の独習書を買って独学を始めました。ところがこの方は独学でも一通りやれるという自信を得たのですが、仏語の方はどうも発音が困難で独学はとてもやれません。それでラロックという人に頼んで出教授してもらうことにしました。1週間に4回で、1箇月の謝礼が16ドルでありました。

 アメリカにおける取調べを終えて、いよいよ欧州に向かうべく汽船ネバタに乗り込んだのは1886(明治19)年3月30日、大西洋を10日航海して、4月10日午前8時リバープール港に着きました。

 高橋は行き当たりばったり主義で、港に着けばどうにかなるだろうくらいに考えていました。ところが船中で懇意となった人の話によると、船はリバープール港に着いてロンドンまでは汽車でゆかねばならぬ。だからあらかじロンドンの宿屋が分かっていなければ、船から揚げた荷物の届け先に困るから、上陸前に宿屋を決めておくがよいということでした。

 そこで高橋は船の中に備えてあった旅行便覧を見て、下宿屋を探すと、ちょうどポーチェスター・ガーデン7番地の下宿屋が、1週間30シリング乃至42シリングで泊めるという広告がでていたので、それを書き留めて、荷物はすべて船から直接そこへ届けさせることとし、ロンドンのチャーリングクロス。ステーションに着くと、直ちにいきなり馬車を雇って、そこへ乗り付けました。 

Weblio辞書―検索―チャーリングクロス駅

/ ベルを押すと、若い婦人が出て来て、「私は日本人だが、部室を一つ貸して貰いたい」と申し込むと、その婦人は「只今空いた部屋がございません」と言って奥へ引っ込み、やがて母らしい人を連れてきました。今度はそのお母さんが「どうして突然ここへ来ましたか、部屋はありませんが」と云います。

 「それは困る。部屋がなければ、どこかへ世話して貰いたい。もう荷物も、こちらに送りつけてもらうことになっている」と話しこんでいるうちに、この娘の父親が生前日本にいた話などが出て、母娘で何か相談していましたが、やがて母親が「大きな部屋があるにはありますが、長い間使用してないので整っておりません。一度ご覧になって下さい。」と云いました。行ってみると、なるほど大き過ぎて粗末だが、頼んで泊めてもらうことにしました。

 まず日本公使館を訪問、公使は河瀬真孝、書記官は大山綱介で、今夜公使館で在留日本人会が開かれるから出席せよと勧められましたが、荷物のことが気がかりなので断り、その会合に佐々木高美、園田孝吉両君が見えたら、自分の着いたことを伝えてもらいたいと高橋の名刺を置いて辞去しました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅡ-10

 翌朝早く佐々木君が来訪されたので、同道して日本領事館に園田孝吉を訪ねました。園田が「何処へ泊っている」と聞くので、事情を話すと、皆大笑いして、「そんな所より、僕の家へきてはどうだ」などという話もありましtが、好意を謝して辞退しました。

 ロンドンは在留邦人が多いので、賑やかに楽しく暮らしました。佐々木の下宿は以前末松謙澄のいたところで、主婦も大変な日本贔貭(ひいき)でした。よくそこで日本料理(といってもすき焼くらい)の御馳走になり、またその主婦が日本の歌を希望したので、高橋が「梅ケ枝の手水鉢」を亀甲万の茂木がピアノで伴奏、同じ文句を25回も唄いました。

Weblio辞書―検索―梅が枝節

  ある日やはり佐々木の宿で、日本公使館雇い英人某に紹介されました。高橋の特許取調べの話を聞いて、その英人がいうのに「英国政府に頼らないで、むしろ特許弁理士について学んだ方がよろしい。また近くイタリーで万国特許会議が開かれるので、イタリーへ行って多数諸国の特許関係の官吏ととも面会し、その人たちについて研究したらよかろう。

 ロンドンでは7~9の3箇月は皆他国二』旅行したり、地方に出掛けたりして不在になる人が多いから、この3箇月はロンドンを避けた方がよい。」また「英国の特許局の行政事務はほとんど研究の価値がない。アメリカのように、すべての書類について、調査することを許さぬかもしれぬ」と高橋の研究上すこぶる有益なる忠告をしてくれました。

 同年4月12~3日ころ、領事館に園田孝吉を訪問すると、近日井上勝之助夫妻のパリー着の報が来たので、園田夫妻は出迎えのためパリーへ行くという話でした。

 同時に谷(干城)農商務大臣もパリーに着くということであったので、それでは高橋も谷大臣に会うため、園田夫妻と同行してパリーへ行く約束をし、その後園田から同月23日午前9時40分にチャリングクロス・ステーションから出発する旨を手紙で報じて来ました。 

 園田領事夫妻と高橋は同日朝ロンドンをたって、その日の夕刻にはパリーに到着、停車場には三井物産の支店長岩下清周が出迎え、直ちにホテル・ペレーに案内してくれました。

  翌朝早く日本公使館に蜂須賀公使を訪ね、その時はじめて原敬に面会しました。彼は外務書記官として着任したばかりの時でした。

 近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー原敬

 谷農商務大臣は4月26日に到着、同月28日に谷大臣より、今度フランス大統領謁見の際、高橋も随員に加えておくからとの親切な話がありました。

 謁見を済ませるまでの間に、少しでも特許院の取調べを進めるために、蜂須賀公使を訪問、フランス政府に交渉を懇請、そのことにつき、原書記官らに相談しました。

 翌日商務省を訪問して特許局長に会い、英文で書いた質問書を手交、すると局長は「次の土曜日午後4時、通弁を連れておいでを乞う、さすれば質問に対して十分にお答えする」という話でありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-21~30

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-21

 このようんな経緯(いきさつ)で、やがて同藩の家老友常典膳と会見して正式に決定、そこで高橋はいくらかの月給を前借りして、その一部で洋服を誂え、他の一部で借財の始末をしました。もっとも本多らのために借りた250両の分は、すぐという訳にもゆかず、あらたに証文を書き直して、今後唐津藩から受け取る月給で元利を返すことになりました。

 高橋と一時結婚まで考え、高橋の祖母を引き取ってくれた東家桝吉の名にちんなんで、高橋は東太郎と名を変えて唐津に向かうこととなりました。

唐津へは家老の友常典膳も同行することとなり、顔見知りの意味で、一夕晩餐でも差し上げたいとて、誘われるままに、初めて吉原という所に連れて行かれました。

  いよいよ江戸をたって、海路神戸から真直ぐ長崎に向かい、長崎から鯛ノ浦を渡船し、轎(肩の上に担いで人を乗せるかごやこし)に乗って唐津の領内に入りました。藩では遠来の先生が着くというので、わざわざ少参事を遣わして、馬や轎を持って国境まで出迎えるという有様でした。

 その時同行したフランス式調練の先生が山脇という人、また喇叭の先生が多田という人で、いずれも幕府の侍でした。二人とも馬にのろうとしないので、高橋が馬に乗って急がせると、、轎は非常に遅れて、高橋が先頭で城下町に入り込みました。見ると路には一面に砂を盛って、箒目正しく掃除してあります。出迎えの人が襟を正して列んで実に大変な歓迎振りでした。

 かくて一行は城門前の御使者屋敷に案内され、夜になると40人ばかりの藩士が接待にやって来て、早速大広間で酒宴が始まりました。当時の風習として、かような宴席では、まず酒の飲み比べで人を敗かすことが、手柄のようになっていました。ところが山脇、多田両君とも酒を飲まぬため、高橋一人で40余人を相手に痛飲しなければならぬ次第で、これには高橋も随分弱りました。しかしそれが評判ろなり、歩兵の先生よりも英語の先生の方が偉いというもっぱらの噂となりました。

 高橋は早速城内にある士族邸を修繕して学校とし、直ちに50人の生徒を募集して授業を開始しました。ところが唐津藩では漢学と撃剣が盛んで、攘夷気分が濃厚でした。従って年輩者の間には英学に反対を主張するものも多かったのです。それに高橋が散切り頭に無腰という姿で乗り込んでいったことは、藩中に少なからず衝撃を与えたようです。

 ある日の夜、2~3人の藩士とともに城下に出て、一緒に酒を飲んでいると、その間に学校は火を出して焼けてしまったのです。これは反対派の放火であるといわれました。

 ちょうどその時、唐津藩主は東京に引っ越すこととなり、いままでの住居であったお城は空くこととなったので、高橋はこれを機会にお城を学校とする意見を出しました。幸いにして藩主も、藩の重役も、これに賛成したので、お城の御殿は耐恒寮(たいこうりょう 英学校の名))と変わってしまいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-22

 学校をお城に移転するとともに、生徒定員も250名に増加し藩費で養成することにしました。高橋自身の借財も皆済、月給100円という額は不要となったので、自分の取り分は60円とし、残りの40円は学校の維持費に繰り入れました。

 耐恒寮における高橋の教育方針は、大学南校でやったのと同じく、教室では一切英語で教えて、日本語はなるべく使わないようにしました。

「去華就実」と郷土の先覚者たちー 第3回 天野為之 第5回 致遠館 第6回 高橋是清と耐恒寮 第7回 辰野金吾 第8回 曽禰達蔵 第9回 掛下重次郎 第12回 大島小太郎

 しかし生徒の身になって考えると、習っている英語が外国人と対話するときに本当に役に立つのかどうか判断がつきません。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-23

ある時唐津の港に一隻の外国船が石炭を積みにやってきました。よい機会であるから、この際外国船へ連れて行って実地研究をやってはどうかとの注意もあったので、高橋はその船長の許可を受けて生徒たちをその外国船に連れていきました。生徒たちは学校で教わった英会話が本当のものであるということが分かって、一同大喜びした次第でありました。当時の初めからの生徒で、世に知られているのは、天野為之(「政治的良心に従います」-石橋湛山のの生涯―を読む5参照)博士、曽禰達蔵博士、工学士吉原礼助、裁判官の掛下重次郎、銀行家の大島小太郎らで、故人になった者には、化学者の渡辺栄次郎、工学博士の辰野金吾らがいます。

一方高橋は唐津に来てから、従来に増して酒を飲むようになりました。朝は教場に出る前に冷酒をやり、昼は一升、夜は学校の幹部などを集めて酒盛りをやるという風で、毎日平均三升ずつは飲んでいました。

 唐津藩の先輩で学校係の少参事であった中沢健作という人が、学校の一室を自分の部屋としていたが、ある日この人が、「東(あずま)さん、あなたは英学が堪能であろうが、まだ漢学をなさらないから惜しいことである。この際漢学をやってはどうです。失礼ながら私が御教授申そう」ということでした。高橋も「どうかお願い申す、何をやりますか」というと「まず『日本外史』(頼山陽の著作で漢文体の武家興亡史)からお始めになったらよかろう」ということでありました。 まず中沢に3度ばかり読んでもらい、その後高橋が自分で読んでみると、やはりところどころ読めません。やがて中沢に教わるのを止めて『玉篇』(部首別の漢字字典)を求め、夜酒を飲んだ後、毎晩3時間ほど学習、眠気がさしてくると、手の甲に灸をすえました。

Weblio辞書―検索―頼山陽

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-24

1871(明治4)年12月(18歳)に末になると学校は休みになったので、唐津藩の鯨取りを見物にゆきました。当時まだ鯨捕りは藩営でした。一行3人でまず呼子(よびこ)へ行って船饅頭(売春婦?)などを素見(ひやか)して、なんとかいう島(小川島)に渡り、そこの庄屋の家を借りて鯨捕りを待つことにしました。

Weblio辞書―検索―小川島

 船場の側に見張所があって、そこには唐津藩の少参事が裃を着けて坐っています。その裏山の高台には旗が立っていて、そこから番人が始終望遠鏡で見張っていて、鯨が見えると旗が揚がり、下にいる鯨船が時を移さず出動することになっていました。

 島に渡ったのは大晦日の晩で、夜になったら、一人だけが寝て、ほかの二人は飲み続けることにしようと觴(さかずき)をあげていました。

 1872(明治5)年正月3日に鯨が捕れ、8人乗りの船が数隻艪櫂を揃えて、掛け声高く漕いでゆき、銛(もり)を鯨に投げつけます。いよいよ鯨が着くと、まず薙刀なぎなた)のようなもので、一尺四方ばかりの肉を切り取り、それを釜のなかに入れると、その後は島の者の取り放題になります。

 夜になると少参事からいろいろの鯨の肉を送ってきたので、それでまた酒盛りをはじめました。その取りたての肉を食べてみると、いつも唐津で食べているものとは、まるで味が違い美味しいものです。

 学校は正月の7日から始まるので、5日には城下に戻ってきました。今度は家老はじめ知人の所に年始に行って、行く先々で酒を飲まされ、5~6日と二日続きけて飲みあるきました。 7日は始業式で朝生徒を列べ、四斗樽を据えて、まず高橋が大きな丼で一杯飲んで、それを第1列の生徒に廻し次に他の列の生徒に廻しました。

 8日の晩、相変わらず酒を飲んで寝ると、俄かに胸が痛くなってとうとう喀血しました。皆大変驚いて、そのころ長崎から赴任した唐津の医学校兼病院の先生の診察の結果、「こりゃ大変だ、大酒をやっちゃいかぬというのに、飲み過ぎるからだ、これは酒毒だ、君はこれで命を取られるぞ」と威されました。

 約2週間ばかりすると、気分も良くなり、座敷の中を歩けるようになりました。しかし病後は酒の臭いが厭になりましたが、久しぶりに二階から下に降りて見ると、例によって教員たちが飲んでいました。

 「先生一杯いかがです」というから「いや、もう私は臭いからが厭になった」というと、その内の一人が「臭いが厭なら鼻を摘まんで飲みなさい」としきりにいうので、その通りにしたら、なかなかうまい、性こりもなくまた酒飲みになってしまいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-25

高橋は、すでに男子が英学をやる以上、女子もやって、大いに西洋の事情を究めておかねばならぬと力説し、婦人の生徒も募集することになって、曽禰達蔵博士の妹およう、友常典膳の娘おたい、ならびにふくの3名が率先して入学しました。

 かくして学校の基礎が確立すると、外国人教師も招聘しなければならず、図書も外国に注文して相当のものを購入する必要があり、それには万事フルベッキ先生に相談するのがよいと考え、高橋は間もなく東京にでかけることとなりました。

 高橋が東京に滞在中、唐津から二人の藩士が上京してきて、「先生のお留守中に大変なことが持ち上がりました。それは、今度唐津藩伊万里県に合併されることになって、その出張所が唐津に出来ました。藩の製紙事業の益金分配のことで不審な点について密告するものがあり、友常大参事はじめ藩の主なるものは皆伊万里県に拘禁され、その上に学校は閉鎖され、藩士はことごとく閉門蟄居を命ぜられ、藩の青年たちは全く途方にくれています。ついてはどうぞ早く帰って学校が開くようお力添をねがいます。それから伊万里県では耶蘇教の信者は斬罪に処せられることになって、先生も耶蘇教に関係がありはせぬかと取り調べているそうです。」と大変に慌てた様子でありました。

 高橋は直ちにフルベッキ先生に唐津の状況を報告、この際外国人教師の招聘だけは中止を願い、耶蘇教信者に対する道理のない処分や学校の復活については先生から政府筋へ申し入れてもらいたい旨依頼し、高橋自身も内務省へ行って、このことを陳情しました。

 内務省では「そりゃ伊万里県のやり方があまりに酷いようだ。これ以上大げさにならないよう、こちらから指図をしよう」という話でした。

 高橋は東京から長崎へ急行し、長崎から唐津までは昼夜早轎で押い通し、唐津へついてみると、町も城内もヒッソリとして全く寂れています。

 高橋は伊万里県の唐津出張所へ行って、その乱暴な処置に厳しく談判すると、出張所では「そんなことなら学校だけは開校してもよい」ということになり、学校は1週間ばかりの内に再開されることとなりました。

 しかし伊万里に拘禁された友常らの赦免はなかなか出そうもなく、高橋は拘禁されている者に小遣銭を送る手配をしました。友常は自殺を企てましたが、未遂に終り、彼等はやがて赦免されて唐津へ帰ってきました。1872(明治5)年のことです。

 駅逓寮の前島密がら鈴木知雄にだれか英語のできる者はいないかと頼みがありました。、

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前島密

 1872(明治5)年‘19歳)の秋、唐津の耐恒寮を辞職して東京へ戻ると、鈴木が高橋を前島に紹介、前島は高橋に「郵便の事務は始まったばかり、その内に外国人も来ることになっているから、そうなれば君はその通訳をやってもらいたい。それまでは差当りアメリカの郵便規則を翻訳してもらえば結構だ。」ということでした。高橋が承諾すると早速大蔵省に呼び出され、時の大蔵大輔(たいふ)井上馨から大蔵省十等出仕という辞令を渡されました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-26

 しかし前島がもう一人通訳に適当な人物を探してほしいというので、かつて大学南校教官時代の同僚であった鴨池宣之を紹介し、採用と決したにもかかわらず、前島は高橋さえ不用なのにもう一人不要なものを作るわけにはいかぬと衆人環視の場で放言したため、高橋は憤慨して辞表を提出しました。以後駅逓寮のことは高橋の履歴書には一切書かぬことにしています。

大学南校はだんだん整備されて法学、理学、工業学、諸芸学、鉱山学など立派な学問を教える開成学校となりました。

Weblio辞書―検索―開成学校―箕作秋坪

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー佐佐木高行―すー末松謙澄

 それで高橋もも少し修業せねばならぬと考え、試験を受けて開成学校に入学しました。

高橋は以前と同様にフルベッキ先生の所で御世話になっていましたが、ここに佐々木高行令嬢静衛(しずえ)がフルベッキ先生のお嬢さんに英語を習いに来て居たのです。そしていつも静衛さんのお供をしてくる一人の青年に高橋が声をケテ懇意になりましたが、この青年が豊前出身の末松謙澄でした。

 そのころの高橋が生活費をどうしていたかについて述べると、開成学校で経済科を担当する教師ドクター・マッカーデーから『玉篇』の読み方をローマ字で写してくれと頼まれ、その報酬として月10円をもらっていました。それから同じく開成学校の理学の先生グリフィスが『膝栗毛』などを口で翻訳させて、それを自分で筆記していました。弥次郎兵衛、喜多八の五十三次ですから、随分卑猥な話も同先生は聞いていたのです。この方からも月10円の収入があり、合計20円がそのころの高橋の学資でした。食費はすべてフルベッキ先生が負担してくれたのです。

政府は1872(明治5)年5月東京師範学校を創立し、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)を校長にして官費生を募集、末松は同師範学校入学試験に合格、入学を予定していました。将来小学校教師になるつもりだったのです。

高橋は末松に、小学校教師になってもつまらない、末松が同師範学校に合格したのは漢学の素養があったじからだ、これから洋学をやてはどうか、と勧めました。ところが末松は、そうしたいけれども、自分には学費がないから駄目だ、と答えます。

 そこで高橋は「よし、そんな事情なら、英学は私が教えてやろう、その代り君が漢学を教えたまえ、毎日君がお供をしてここで待っている間にやればよい」といい、二人の意見が一致して、英学と漢学の交換教授がはじまりました。

 高橋はいきなりバレーの『万国史』から教えはじめましたが、末松の進歩はまことに著しいものでした。末松はいよいよ師範学校入学の時期がきましたが、彼もとうとう同校入学を思い止まる気持ちになり、佐々木高行夫人に相談すると、大変なpお叱を受け、もうお前のお世話は一切しませんと言われました。末松はそれから師範学校の箕作校長の所に行って同様のことを話すと、これまた大変に叱られました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-27

高橋はこの話を聞いて箕作校長の所へ押しかけ、大激論の結果、とうとう末松の入学辞退を許してもらうことになったのです。

 末松が師範学校をやめてしまうと、お互いに学資を稼がねばならぬので、高橋は二人で西洋の新聞を翻訳し、それを日本の新聞社に売りつけてみようじゃないかと提案しました。

当時の新聞の記事を見るとどれも日本の記事ばかりで、外国の事情などは載せていませんでした。それで高橋はフルベッキ先生の所には英米の新聞がたくさん来ており、なかでもロンドンの絵入新聞にはなかなか面白い記事があるので、高橋が読んで口で翻訳するから、末松はそれを文章に書き直すことになりました。

 そこで翻訳記事の見本を各新聞社に持ち込みましたが、いずれも見事に断られました。

最後に日日新聞に行くと、偶然にも岸田吟香に出会いました。この人は高橋が横浜でヘボン先生に英語を習っていたとき、先生に漢字を教えにきていたので、先生の邸内でしばしば顔をあわせたことがありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー岸田吟香

 この岸田とその下にいた南喜山景雄に相談すると、「こりゃ面白い、一つお頼みすることにしよう」ということになりました。

 ある日同新聞に高橋、末松の手になつ文章が掲載され、末松は大喜びしました。月末になったので料金を受け取りに新聞社に赴くと、南喜山がいくらほしいのか、と訊くので、

50円ほしい、と答えると、文句もいわず、50円支払ってくれました。これが慣例となって、以後翻訳記事が新聞に掲載されてもされなくても、月50円渡してくれました。

 佐佐木夫人から家庭教師を頼まれ、高橋はフルベッキ先生の所を出て、佐佐木家の長屋に引っ越し、祖母や弟妹と一緒に住むことになりました。ただ末松はまもなく佐佐木邸をでて下宿生活をするようになり、一人で外国新聞の翻訳を手掛けるようになったのです。

森有礼は駐米1年有半、1873(明治6)年7月に帰朝、明六社を創立してしきりに我が教育の振興を絶叫していました。

脚気が回復して高橋が久しぶりに森を訪問すると、「このごろ何をしている?」と訊ねるので、「只今開成学校に入学して修業しています」と答えましたが、森は「お前などはもう生徒の時代ではない。幸い文部省にモーレー博士を招聘したが、その通訳がいないので、文部省に出て、その通訳をやったらよかろう」と言われ、高橋は文部省に入省、十等出仕に任命されました。時に1873(明治6)年(20歳)10月のことです。御用召の日は佐佐木老侯の燕尾服を借りて出頭しました。役人になったので芝の仙台屋敷の長屋に引っ越しました。

高橋には異父妹香子(かねこ)がいました。高橋が14歳でアメリカへ旅立つ間際に、祖母が塩肴屋の高橋幸治郎の所で香子と対面させて、兄妹であることを明かしてくれたのです。高橋が文部省に入ると、高橋の家と同じ芝の新銭座の塩肴屋から香子は祖母に連れられて高橋の家にやって来ました。丈も高く色白のきれいな児で、芸妓屋から話を持ちかけられたということです。

 塩肴屋は富裕ではなく、香子を外に出したがっているという話を祖母が聞いて、彼女をこちらに貰いきったらよかろうと云いだしました。

それで早速塩肴屋と交渉、向うも承知して香子は高橋の方へ引き取ることになりました。

 香はそのころ九ツくらいで、祖母のシツケが随分辛かったらしく、時々逃げて帰るようなこともありましたが、祖母や高橋が云い聞かせて逃げ帰ることもなくなったのです。

 当時末松の友人で艣松塘(ろしょうとう)という詩人の娘采蘭とかいう先生がいて、香はそこで行儀作法や漢詩を作ることを仕込まれたこともありました。

 仙台屋敷の向う側に秋田の屋敷跡があって、二本松の林正十郎という人が買いとり、その四隅に大鳥圭介ら函館の敗将を住まわせていました。その一人荒井郁之助の構内に篠田雲鳳という老女史が住んでおり、彼女は開拓使の女学校の先生で、自宅には数人の熟生を置いて世間の評判もよいので、香を雲鳳の塾に入れ、漢書と習字を仕込んでもらいました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-28

 その熟生の内に西郷お柳(戸籍面ではフジ)という女が居て、大変によく妹の面倒をみてくれました。、高橋の祖母もこの女のことをよく知っていて、高橋が少しでも早く妻帯したらよかろうと、祖母はひそかに探していたので、この女に眼をつけて、「いかにもよい女と思うが貰ってはどうだ」という話でした。「祖母さんさえよろしければ、私はチットも異存はありません。どうか貰って下さい」と高橋が言って賛成しtので、、とうとうこの女と結婚することになりました。、これが1876(明治9)年(23歳)のことであります。

 高橋が文部省勤務当時、開成学校の校長に伴正順が任命されましたが、それ以前から同校教員にはいかがわしい人物が雇用され、甚だしい例として、外人の屠牛所の親爺が教員としてはいり込む有様でした。

高橋はこの状態に憤慨して、喬木太郎の変名で日日新聞紙上に校規紊乱を攻撃しました。当時の文部卿は西郷従道でしたが、万事文部大輔の田中不二麿に任せきりでした。

 田中が外人に会いに行くので、高橋が通弁として随行することになり、馬車に同乗して出かけました。馬車の中で喬木太郎の開成学校攻撃の話が出て、高橋が伴氏は校長に不適任であることを指摘すると、田中は「じゃだれを校長にしたらよいか」と尋ねるので、「今私と一緒にモーレー博士に附いている先輩の畠山義成君が校長になれば、学校もよくなりましょう」と答えました。畠山義成は洋行した一人でモーレー博士とは米国時代から懇意でした。またクリスチャンで温厚は人柄でした。その後伴氏の代わって畠山義成が開成学校の校長になると、開成学校は初めて事実上の専門学校の体をなすにいたりました。

この時文部省には視学官が4~5人居て終始全国に出張、教育の状態を視察してその報告書を出していました。それを皆高橋が翻訳してモーレー氏に伝達していたのです。モーレー氏は我が国教育制度確立のために文部省に雇用されたのですから、わが国の事情を理解してもらって、日本の歴史と国民性に適応した制度組織を作ってもらわねばならぬと努力したのでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-29

 元来モーレー先生が日本へ来るきっかけになったのは、アメリカで伊藤博文に知られ、たか、少なくとも伊藤が口切りをしたように聞いています。或る時伊藤夫妻の晩餐会に招待されて出席した時、夫人同士の談話は高橋が通訳しました。

 1873(明治6)年(20歳)の末ころであったと思います。勝海舟の屋敷が赤坂氷川にあったとき、モーレー博士が一度勝先生に挨拶したいということで、先方の都合を聞いてある日訪問することになりました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー勝海舟―はー馬場辰猪―まー正岡子規―めー目賀田種太郎

 モーレー博士はアメリカで勝小鹿(勝の令息)の数学の先生でありました。それで今度来日したから令息の消息を伝えて安心させたいというのが訪問の主旨だったのです。

玄関に取次に出て来た人は16~7歳の木綿の着物をきたきれいな娘で、式台に両手をつき、静かにモーレー博士の挨拶を承って、しばらくお待ちくださいと奥へ退く様子がいかにも気高く落ち付いていました。

やがて粗服の上に木綿の小倉袴を着けた一人のお爺さんが素足で出てきて「どうぞ、こちらへお靴のままで」と安内します。玄関を上がって右の方へ行き座敷に通ると純然たる日本家で、縁先近くに卓子があって、その周りに椅子が3つ列べてあります。

「さあ、お掛けなさい」と案内人はまず来客に勧めて、やがて自分も椅子に掛けました。モーレー博士も高橋もこの老人は勝家の用人だと思っていたのですが。実は勝海舟その人であったことが判ってびっくりしました。

モーレーが丁寧な挨拶をして小鹿の詳しい報告をし、高橋が通弁していると、相当年輩のお婆さんが白襟黒紋付の上に裲襠(うちかけ)を着て、着物の裾をひきずりながら静かにその席に現れました。すると勝はモーレーに「これが私の妻で小鹿の母です」と紹介します。

 モーレー博士は奥さんに対しても繰り返し小鹿のことを報告しましたが、その間夫人は腰も掛けずに立っておられるので、高橋が椅子から離れて、「これにおかけ下さい」と申しても、とうとう掛けられなかったのでした。

 それからまた勝とモーレー博士の問答となりました。勝は「ちょうどよい機会だから、かねて自分で解きかねている問題を2~3お尋ねしたい」と言って、質問したのですが、高等数学ですから、当時高橋は一切通弁できませんでした。すると勝は紙と硯を持ってこさせて、オランダ語か何かで、紙の上に図を引っ張り、手まねで聞くと、モーレー博士も紙の上で答えます。しばらくして勝家を辞去しました。

文部省に戻って同僚に「一体あの女中は何だろう」とというと、勝海舟の令嬢だということでした。その時のお嬢さんが故目賀田(種太郎)男夫人であったと思います。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-30(最終回)

1875(明治8)年(22歳)10月、モーレー博士は博覧会の要務を帯びて外国へ出張することになったので、高橋も大阪英語学校長に転勤を命ぜられました。しかし高橋は、そのころ一切の公職から引退していた後藤常(一条十次郎)の影響をうけて、大阪英語学校長を辞職、文部省内で高橋は気狂いになったと評判になったほどでした。だがやがて後藤とは意見がくい違うようになり、高橋は東京英語学校の教官になりました。これが1876(明治9)年(23歳)5月のことです。

これよりさき、モーレー博士が文部省へくるという噂がたつと、フルベッキ先生はもう自分はいらなくなるだろうから、小さくとも自分の家を持ちたいと高橋に相談をもちかけました。その当時は条約改正以前で外国人の不動産土地所有権は認められず、高橋に不動産の名義人になってもらいたいと博士に頼まれ、引き受けました。

そこで駿河台の鈴木町の日本家を買いとることになりました。そこの広い空き地に木造二階建ての洋館を建築してフルベッキ先生はここに移り住み、空いた日本家のは高橋が居住することになったのです。長男の是賢は1877(明治10)年ここで生まれました。

翌年フルベッキ先生は帰国することになり、この家は茅野茂兵衛に買いとられ、高橋は茅野の二階に引っ越しました。

 すでに1873(明治6)年9月征韓派が下野、翌年1月には板垣退助らが民選議院設立建白書を公表、佐賀に兵乱がおこり、世情は険悪となりました。しかし政府は諸般の改革をすすめていったので、これに反発して起ったのが熊本の神風連、秋月、萩の乱などであります。

東京英語学校在職中、高橋は討論会を起こして時事を論じ、馬場辰猪の自由貿易論に対して、保護貿易論を主張したりしましたが、やがて同校長排斥問題で辞職してしまいました。その後翻訳などで収入を得ながら、大学予備門に勤務するようになり、一時は廃校となった共立学校を再建、これが後の開成中学校の前身で、多数の大学予備門受験生を教えました。

Weblio辞書―検索―大学予備門

この時の教え子でのちに有名人となった正岡子規のような人も少なくありません。

坂の上の雲登場人物―高橋是清―高橋のエピソード(共立学校、文部省勤務)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-11~20

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-11

  やがてブラウン老人夫妻は「自分たちは清国へ行くことになった。自分の親戚で桑港の税関に勤務している親切な人がいる。お前はそこへ行ったらよかろう。そうしたら昼間は主人について税関の仕事の手伝いをしながら事務を覚えられる。夜や暇なときには、その家のお嬢さんが家庭教師を呼んで勉強しているから、それと一緒に学問を教わることが出来る。是非その家に行きなさい」と言って20ドルの金貨をくれました。それで高橋もいわれるままに承知したのです。

 やがてブラウン一族が清国へ出発するとき、高橋は桑港の埠頭まで見送りに行きましたが、そこに親戚の税関吏も来ていて、「御前も一緒に来て税関の仕事を手伝え、そうすれば仕事も覚えるし、語学の修業にもなる、また書物の勉強がしたいなら、自分の妻や娘と一緒に勉強したらよかろうと言って、生活用品などを買って、高橋の部屋も用意してくれました。

 その晩一条に上記のような事情を話すと、「それもいいけれど、今度行けばまた3年間はおらにゃならぬぞ、それでは何時まで経っても学校には行けぬぞ。このまま行かずににおれ」とそそのかします。高橋が「だがせっかく親切にしてくれるのをほったらかすのは気の毒だナァ」というと、一条は「向うでは御前を奴隷として買ったつもりでいる。南北戦争以来奴隷の売買は法度になっているのに、向うはその国禁を破っているのだから、こっちに言い分はいくらでもある、行かずにおれ」と引きとめました。それで高橋も決心して、そのまま行きませんでした。

 そのころ佐藤百太郎という人が日本茶や日本の雑貨を売る米人の店に勤めていて、横浜時代ヘボンの所に稽古にきていた仲間の一人でした。高橋はこの人の所へ行って事情を話したところ、佐藤の勤める店は人手不足で困っているところで、高橋はこの店で働くことになり、この店に引っ越しました。

 高橋がアメリカでそんなことをしているうちに、日本では非常な変転が行われていました。1866(慶応2)年12月孝明天皇薨去、翌3年正月明治天皇践祚、同年10月14日討幕の密勅が薩長両藩にくだり、同日徳川慶喜は政権を朝廷に奉還しました。

 故国でこのような騒動が起こっているとは思いもよらず、高橋は佐藤の店で売り上げ品の配達をしていたのですが、そこへ日本から『もしほぐさ』という当時の新聞が届きました。

Weblio辞書―検索―もしほ草

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-12

 それによると、徳川家の処分に対して不満を抱く一部の志士は彰義隊と号して上野に立て籠り輪王寺宮を奉じて官軍の命令を拒んだのです。そこで官軍は5月15日上野を攻撃、火を寛永寺にかけて、これを陥すに3日間もかかったと書いてありました。一条や高橋らは上野に3日かかるくらいなら、徳川方が勝つようになるかもしれぬと話し合いました。

 そのうちに維新の戦争のことがだんだん判ってきたので、ニューヨークへ行っていた富田・高木らは日本へ帰ると言ってやっきました。戦いが始まったから、一度様子を見てこねばならぬ。しかしいきなり自分たちが日本へ帰るのは少し危険だから、ひとまず上海に着いて、様子を聞いた上で日本へ帰れるようだったら帰ろう、もしいけなかったら、こちらに引き返すことにするから、君らはそれまでここに留まっておれと云いました。

 ところで高橋は一条とともに、実は自分はこういうわけで奴隷に売られていると経過を話したところ、富田も非常に驚いて、それはまず第一に契約書を取り戻さねばならぬと、いろいろ相談の結果、藩から命令を受けたことにして、当時幕府から桑港の名誉領事を嘱託されていたブルークスに訴えてみることにしました。

Weblio辞書―検索―名誉領事

 そこでブルークスは双方の言い分を聞くために、ヴァンリードを呼んで尋ねることとなり、ここに対決が始まりました。ところが富田・一条両人とも英語が十分にできません、高木がいくらかよく話せたっけれども、その対決を高橋が聞いていると「自分たちの言うことが道理である、だから自分たちの請求する通り契約を破棄することを御前が承諾するのが当然だ」という意味のことを言っているのですが、言葉が不十分で発音が拙いために、ヴァンリードはアグリー(同意する)という言葉をアングリー(怒る)と聞いてしまって、紳士に向かって怒っているという、いやそうじゃないという言葉の取り違いで、両方ともなかなか折れません。しかし終いにはそれが誤解であるということが判って、互いに大笑いになったような始末でありました。

 さて対決の結果はどうなったかというと、こちらからは第一仙台藩から高橋、鈴木両名分としてヴァンリードに渡してある金の清算書を見せて貰いたい、第二には奴隷の契約を破棄して貰いたいということをも申し出ました。するとヴァンリードは、自分は金を受け取っている。しかし高橋をブラウンの所へ3カ年期50ドルの約束で売ったのは横浜から桑港までの渡航費50ドルが立替えてあるためだといい抜けました。そこでブルークスがヴァンリードの立替えた50ドルはこれを返すこととし、同時に身売りの契約は破棄するということに採決され、高橋は天下晴れて自由の身となりました。

 さらに鈴木もヴァンリードから連れ戻すと、富田らは桑港をたって帰国の途につき、高橋は富田から便りがくるまでに、出来るだけ金を作っておかねばならぬと、相変わらず佐藤の店で品物の配達をして働いていました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-13

この時越前の医者某が維新の騒ぎで二束三文になった品物を買倒して、それをアメリカに持って来て一儲けしようとしました。その通弁として来たのが城山静一という宇和島藩士でした。

 ところが城山が着く少し前桑港の新聞に、今度日本政府から城山という領事が来るが、それはハワイにいる劣悪な労働条件で雇用された日本人を救いに来るのであると書いてありました。それで高橋らは城山を迎えに行き、一条の下宿に連れて来て新聞記事の話をすると、城山は驚いて、「じつは自分も医者もヴァンリードの世話で来たのだ。ヴァンリードがそんなに悪い奴なら、ここにいてはどんなひどい目に会うかもしれぬ、俺は帰る」と云い出し、それで早速医者と縁を切って高橋と同居することになりました。

 富田らは帰国した後何の音沙汰もなく、いつになったら便りがくるのか想像もつきませんでした。それに維新後の様子もまったく判らないので、高橋らは相談して、ひとまず帰国することに決めました。城山は医者と縁を切ったので無一文になっていたのですが、幸いにヴァンリードの立て替えを清算した残金が一条の手許にあったので、その金で一条、鈴木、城山、高橋4人の船賃(一人50ドル)を払い、また出来合いの新しい洋服を1着ずつ買い求めました。それでもなお一条の手許にはいくらかの余裕があったようです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-14

 船に乗り込んでから事務員に「どう、50ドルの切符で、清国人と一緒でない部屋へいれてもらいらい」と頼むと、高橋らの申し出に対して、「今は忙しいから、船が出たら取り計らう」ということでした。

 船が金門湾を出ると、船員が来て、部屋に案内してくれました。その部屋にはダブルベッドが三つ、3段になっていて、中央のベッドには、すでに大きな清国人が陣取っていて、高橋ら4人には上下の寝台が割り当てられていました。

 狭い部屋に夜締め切って寝ると窮屈で、それに清国人はしきりに鼾(いびき)をかき、無遠慮に放屁します。

 これをどう対処したらよいか4人で相談、城山が、まず上の者は紙屑でも果物の皮でも何でもよいから棄てる振りをして真ん中のベッドに落とすがよい、また下の者は下から足で突っ張って、清国人を寝台から突き落したらどうじゃと云いました。これに全員賛成して、その晩から早速実行、清国人は驚いて、一人は寝台から転げ落ちました。彼等ははじめ漢語で文句をいっていましtが、しまいには御機嫌を取り出し、果物などを高橋らに持ってくるようになり、結局彼等と仲好くなりました。

 船中では禁止されているのに清国人の多くは賭博をやっていました。船の事務員の承認を得て、高橋ら4人は船内を巡回して賭博を取り締まることになりました。殊に城山は大小を差して、ときにはそれを抜いて見せたりして威したりしたので、すこし薬が効きすぎて、城山らが賭博の現場に行きあたると、彼等はすぐに果物などを持って来て愛想をふりまくようになりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-15

。かくして城山、一条、鈴木、高橋の4人がいよいよ横浜に着いたのは、1868(明治元)年12月でした。これより先1867(慶応3)年高橋と鈴木がはじめて洋行するとき、幕府から貰った渡航免状には、彼等の身分は仙台藩の百姓ということになっていました。城山はそれを見て仙台藩は維新の戦争で賊となっている、このような免状が荷物の中にあっては上陸の際面倒だ、というのでその免状は海の中へ投げ込みました。船が碇を降ろすと運上所の人が乗り込んできました。

 旅券は海の中に投げ込んでしまったので、関門の通過が大問題です。それで高橋ら4人は相談して、荷物を持たずに新調の洋服姿で上陸することにしました。城山は「なるべく英語で話しながら外国人の真似をして関門を通りぬけ、神奈川の富田屋という宿屋へ行って待っておれ、俺が3人の荷物を始末して後から行く」というのでした。

 3人は船から上陸すると、ことさらに英語を使い、運上所の前では西洋の歌などを歌って、咎められることもなく神奈川の富田屋に落ち着くことができました。城山が姿を現したのははや正午過ぎで「実は荷物の検査で、高橋の行李からピストルが出て、それで大変手間をとった。一体何であんなものを持っていたのか」と訊くので、高橋が渡米するとき祖母から贈らてた短刀を、米人に頼まれてピストルと交換したもおのをそのまま行李に忘れていだと答えました。

 翌日3人は城山とともに江戸に入り、露月町までくると、高橋の生家川村の家がありました。一条に「ここが自分の実父の家だが、今はどうなっているかナァ」というと、一条は「そりゃいい塩梅(あんばい)だ、川村でお前一人だけでも隠まってくれればよいが、俺がちょっと行ってかけあってこよう」と門の中へ入っていきました。

 まもなく出て来た一条は「どうも様子を見ると、頼んでも駄目のようだ、聞けば川村の家も、近く引っ越さねばならぬということだ。」といいました。城山は「それじゃあもう俺たちの行く所は牛込の汁粉屋よりほかにはない」というので、他の者は別に当にする家を持っている者もないから、一同揃って城山の行く方向についていきました。

 牛込堀端田町の汁粉屋の家の裏に小さな二階建ての隠居所があり、それを城山が主人から借り受け、高橋ら3人はここに閉じこもることになりました。

 約一カ月ほど後、城山が3人のことを森有礼に話して世話を願うことにしてくれました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―もー森有礼

  森有礼は西洋から帰って朝廷の役人となり、外国官権判事に任ぜられ、神田錦町に住んでいました。1867(慶応3)年森が欧州から日本へ帰る途中桑港を通過し、一条や鈴木はその際森と会っていて顔み知りでした。そこで森は3人の世話を引き受け、自分の邸内に引き取りました。その時3人が従前の名前でいては危険だからといって、森自身で鈴木を鈴木五六郎、高橋を高橋和吉郎と改名、一条は自分で後藤常(つね)と変更しました。この時(明治元年)、高橋が15歳の時のことです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-16

 森有礼は当時23歳、まだ独身で家には会計係として18~9の若者と飯焚き夫婦がいるだけでした。5~6日たつと、森は高橋らを呼んで「俺が英学を教える。俺は忙しいからみなに一々教えるわけにゆかぬ。お前らの内で一番覚えのいい者一人だけに教える。それに当った者はよく覚えて、それを他の者に教えねばならぬ」といい渡されました。その一人に計らずも高橋が選ばれました。

 1869(明治2)年正月大学南校が出来たので、森はもう俺が教えなくてもよくなった、御前らは学校に入れといわれ、高橋らは3人ともその手続きをしましたが、3人とも英語が読め話が出来るというので、横浜の居留地で道路の技師をしていたハーレーについて学ばされ、同年3月語学がよく出来るということで、3人とも大学南校教官三等手伝いを仰せ付かりました。

Weblio辞書―検索―大学南校

 高橋らが帰国したことはいつしか国許の仙台にも知れ渡っていきました。鈴木六之助の実父古山亀之助が藩用で上京、噂を便りに鈴木らの住居を江戸中探し回りました。高橋の祖母もそれを聞くと単独でも上京すると云いだしましたが、老人が一人ではいかぬ、いずれ家族纏めていくからといってやっと思いとどまらせたそうです。

 古山は尋ねあるいてついに錦町の森邸に居ることを突き留め鈴木と高橋を訪ねてきました。二人が森に世話になっていることを告げると、古山は二人がこんなに息災でいることが判った以上、、自分は国許に急ぎの用があるといって帰りました。、

 鈴木の実父に居所を知られたので、自然と江戸藩邸の人々にもそれが伝わったと見え、ある日江戸詰の浅井利平と云う祖母と懇意な人が訪ねてきて、「今(旧仙台藩主)楽山公(伊達慶邦戊辰戦争に敗北、明治新政府に降伏)、芝の増上寺に蟄居しておられる。二人がアメリカから帰ったことを申し上げたら、会いたいとの思召しであるから、お目見得したらよかろう」といって、その手続きをしてくれました。

 それで高橋と鈴木はアメリカより帰りたての洋服を着て浅井に連れられ増上寺に罷りでました。八畳敷ばかりの狭い部屋に通されて控えていると、そこへ楽山公が二人の家来を従えて入ってこられました。それで浅井が二人をご紹介申し上げ、高橋と鈴木は坐ってお辞儀をしました。楽山公は起ったままでしたが、側におった侍が洋服のネクタイを首巻と思って静かな声で「御前の前だから首巻は取ってはどうじゃ」といいます。

 「これはネクタイでありまして附けているのが礼であります」と申し上げると「そうか」といって顧みて笑ったような有様でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-17

 それから楽山公が「何年修業していた、あちらはどんな風であったか」とお尋ねがあったので、それぞれお答えしました。すると楽山公がさらに「外国の詩を作るか」と仰せられたので、「とても我々は未熟で詩などはつくれません」「それじゃ詩吟をやれ」といわれたので二つの詩を朗吟しますと「そうか」と大変ご満足のご様子でした。そうして「なお今後も学問をして朝廷に忠義を尽くせ」と仰せられ、側近に手当の支給を命じて退出されました。しかし高橋らはお手当支給を辞退いたしました。

 1870(明治3)年初めころから森有礼は廃刀論を主張、森排撃の声は同郷の鹿児島からも巻き起こり、彼は故郷に帰ることを決心するに至りました。高橋らは依然として大学南校に奉職していましたが、政府は長崎にいたフルベッキ博士を大学南校教頭に任命、博士は校内に居住したので、高橋らも博士について歴史の回読をし、高橋は傍らバイブルの講義を聴いて自然にキリスト教信者の一人となりました。

フルベッキ考

  同年森は勅命により再び鹿児島から出て、今度は小弁務使(代理公使に相当する外交官)としてアメリカに赴くことになりました。彼はアメリカへ赴任するにあたり、高橋のことをフルベッキ博士と当時の大学大丞(明治新政府が直轄する教育機関および教育行政を統括する官庁である大学校の次官)であった加藤弘之に託して出発しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―かー加藤弘之

 高橋も一心不乱に勉強して、他日森が適当な機会に呼び寄せるといわれ、その日の来るのを楽しみにしていました。

 ところがっふとしたことから魔がさしてきました。1870(明治3)年(17歳)の秋のころ、高橋はすでにフルベッキ先生の許に引き移っていました。ある日高橋が学校から自分の部屋に帰ると、あまり懇意にしていなかった3人の立派な人が来て待っています。

 いずれも大学南校の下級生徒で、外人教師の役宅に住んで居る元越前藩の家老職であった人たちの息子―本多貴一、本多丑之助、駒與楚松の3人でした。「何の用事で来たのか」と聞くと、「実は今度グリフィス教授を福井藩の学校へ雇い入れることになったので、本多貴一は博士に附いて国へ帰れという命令が来ました。折角修業に出たのに今引き揚げて帰ることは誠に残念ですが、、3人があまりに勉強を怠って遊んでいたことが判ったからです。しかも困ったことに借財があって帰るにも帰られず、途方に暮れています。ついては貴殿の御配慮で何とかして、一時借財を返す工夫は出来ないでしょうか」という依頼でした。

 

 

幸田真音「天佑なり]を読むⅠ-18

 高橋がどのくらい借金があるのか訊ねると、250両必要だとのこと、高橋はそんな金は自分にはないが、幸い私の遠い親類筋にあたる商人がいるので話しをしてみようと言って早速浅草の牧田万象という商人に頼んだところ、方々をかき集めて2~3日中に用たてましょうと言ってくれました。

 翌日になると合計250両を揃えて持って来てくれたので、高橋がその借り手となって証文を入れ、3人を呼んでこれを渡すと、彼等は大いに喜んで礼を述べ、帰りました。

 しかるに数日を経ると、3人がまたやってきていうのには、藩の大参事が「君達も折角親から修業にだされたのに、今帰っては不本意だろう。しかし今後全く改心して勉強する気なら今度だけは自分から願って親から許しを受けてやろう」といってくれ、帰国しなくてもよいことになりました。ついては大金をを都合して頂いたお礼に一夕お招きしたいと云います。「さて夕飯はどこは行くのだ」と聞けば、両国の柏屋ということでありました。

Weblio辞書―検索―参事

 高橋が立派な日本の料理屋へ行ったのはこれが初めてで、本式の座敷で芸妓(げいしゃ)を見たのも、この時が初めてです。その夜主賓として招待されたので、3人は極めて鄭重に高橋をもてなしました。

 宴席の万端のことは越前の商人福井屋が周旋してくれました。3人はいずれも芸妓とはお馴染みと見えて、高橋がフト気が付くと、自分が主賓であるにもかかわらず、何となく廻りのものから疎んぜられ、軽蔑されているような風が見えます。

 そこで気を付けてみると、3人はいずれも美服で縮緬の着物や羽織を着て、博多の帯や仙台平の袴をつけています。腰のものを見ると、彼等の大小はいわば黄金造り、高橋の刀も一緒に並べてありましたが、高橋の大小は柳原へ行って1両2分で裃大小を整えてきたものでした。それに高橋の身装は木綿の着物に小倉の袴です。いかにしても見劣りします。いざ引上げということになると、3人の刀は芸者どもが紫の絥紗様のもので捧げながら玄関まで持ってでたのですが、高橋のものだけは床の間に投げ出されたままでした。

 招かれた以上こちらも返礼せねばなりません。あの茶屋で、あの芸妓達を呼んで御馳走してやろうと、福井屋(当時日本橋の銀町に古着渡世をしていた福井数右衛門)を呼んで、あの3人が着ているような着物や袴を作らせ、鍍金でよいから黄金造りの太刀を整えさせて、芸妓には少しばかりの御祝儀を振舞って、新年の元日の夕刻から3人を招待することにしました。今度は高橋も何ら3人と異ならない待遇でありました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-19

 3人は歌を唄ったり、踊ったりしますが、高橋はそんな真似はできません。そのころは踊りといっても角力甚句の踊り、唄といっても維新後の流行唄くらいのもので、3人は唄や踊りくらいは覚えたほうがよいと、それからは夜になると、当時高橋がおったフルベッキ先生の宅へ押しかけてきては歌や踊りを教えてくれました。ところがそれをフルベッキ先生のコックが窓越しに見てびっくりし、高橋は狂人になったのではないかと鈴木に告げたようで、それで鈴木がやって来て忠告してくれました。

Weblio辞書―検索―相撲甚句

 すでにコックに知られた以上、フルベッキ先生も伝え聞いているに相違ない。こうなってはもうこの邸にいるわけにはいかぬと思って、福井数右衛門に相談すると、空いている奥座敷を提供してくれるとのこと、早速フルベッキ先生の所へ行って、他に下宿したいと申し出ました。

 先生は多くを言わず「貴方は森さんがアメリカに行かれる時宜しく頼むということでお預かりしたが、自分でそう考えるなら下宿することもよかろう、しかしまた帰りたくなったら、遠慮なく何時でも戻ってきなさい」といいながら、机の上からファミリーバイブルと称する注釈付きの聖書をとって高橋に渡しました。それは高橋が先生かたキリスト教の講義を聞くとき、何時でも先生が自分の前に置いて見ておられたもので、黒い革表紙の大きな本です。それを手渡すときに「これは貴方に上げる、どんな場合でも、一日に一度は見るようになさい」と申されました。

 そうなると誰にも遠慮せず、放蕩はいよいよ募るばかりでありました。芸妓とも馴染みが出来て、自然学校も欠勤勝ちとなりました。放蕩の動機の一つは友人の山岡次郎君が藩命で洋行することになり、しばしば送別会で芸妓家へ行くことが頻繁となったためでした。

 ある日高橋と山岡が福井数右衛門の周旋で芸妓を連れて浅草の芝居見物に出掛けました。二人は桟敷の上で芸妓の長襦袢を着て痛飲していると、そこへ幕合となって、3人の外国人と2人の日本人が連れだって花道を高橋らの方へやってきました。高橋が花道の方を見ると、その連中は学校の外人教師でした。これには向うも驚いたが、高橋も驚きました。かくなる上は学校にいるワケにはいかぬと、辞表を提出したのです。

 加藤弘之が心配して「森さんから呼び寄せが来るまで待ってはどうだ」と親切に留めてくれましたが、自分の良心が許さず、加藤も「そうまで決心しているなら、やむを得ない」ととうとう辞職を許可してくれることになりました。

 高橋の多少の貯えはすぐ使い果してしまい、それに3人のために立て替えた借金に対しては、月々利子をいれねばならず、ついには元金まで返せと言われ、非常に困却しました。

 それに福井は高橋が辞職して収入はなくなり、貯えも使い果たしたと知ると、急に冷淡となり、「食料だけでも入れてもらいたい」などいうようになりました。

そこで高橋は持っている物は一切売り払ってしまい、フルベッキ先生からもらった聖書一冊だけは残していました。日に一度は欠かさず開いてみて、現在の自分はどうも良くない、これは早く改めねばならぬと感じましたが、女に対する迷いで、放蕩はどうしても止められませんでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-20

 芝に住んでいた高橋の祖母は薄々彼の放蕩を知ったらしく、福井屋へ訪ねてきました。高橋と馴染みだが、高橋より四つばかり年上の芸妓東(あずま)家桝吉(本名 お君)は不在で妹芸妓が家から朝ご飯やお菜を重箱に入れて、持って来ていました。福井の女房が「芝の祖母様がお見えになりました」と知らせてくれたので高橋も驚きました。

 「しばらく会わなかったが、マア達者で何よりです。してこちらの方々は」と二人の芸妓を見て訊ねられたので、高橋も弱って、咄嗟に「近所の方々です」と答えると、「アーそうでしたか、いろいろと孫がお世話になることでしょう。まだ年もゆかぬ未熟の者ですから何分よろしくお願いします。」と丁寧に挨拶されたので、二人の芸妓はいたたまれずに逃げ出しました。

 高橋はその後、小言を喰うと思っていましたが、一向に小言をいいません。そうして「お前も、もう意見をされる年合でもなかろうから、よく考えて一生を誤たぬようにしなさい。常にいっている通り、この祖母が朝夕神仏に祈っていることは、お前の出世することばかりです。」と懇々とさとし、福井屋にもよく高橋のことを頼んで帰られました。

 桝吉はこれを聞いて、祖母の態度によほど動かされたようでした。高橋を自分の家へ引き取るといいだしたのも、こういうことが因(もと)をなしているように思われます。

 しかし桝吉の家に行ってみると、そこには両親もおれば抱え妓もいる、わけて両親などとんでもない厄介者がやってきたと言わぬばかりにあしらいます。とうとう箱屋(箱にいれた三味線を持ち、芸妓の供をする者)のテ伝いまでしたのもこのころです。

 男一匹こんなことではいかぬと、ある日の夕方、その家の前で天を仰いで考え込んでいると、突然後ろから声をかけたものがあります。みれば維新前横浜時代の知り合いで小花万司という人でした。

 「オヤ、君は小花君だったネ、君は何をしている」「僕は内務省に勤めている。して君は何をしているか」「僕は何もしていない、何かしなくちゃならぬと思っている」

 「そりゃちょうどよい。このごろ肥前唐津藩で英語学校を建てたといって、その教師を探している。内務次官の渡辺さんから、見つけてくれと頼まれた。どうだろう、君があすこへ行っては」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-1~10

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-1

 幸田真音(こうだまいん)「天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債」は2011(平成23)年11月7日から東京新聞その他に連載を開始、2013(平成25)年角川書店から刊行され、第33回新田次郎賞を受賞した作品であり、高橋是清の生涯をたどった歴史経済小説です。

 この小説の序章は1936(昭和11)年2月26日早朝、赤坂表町の私邸で品(高橋是清の後妻)が眠れないまま起床してまもなく、兵隊の襲撃を告げる巡査の声を耳にする所から始まります。読者の興味を刺戟する効果をあげています。

  高橋是清は1854(嘉永7)年閏7月27日父幕府御用絵師川村庄右衛門守房と母きんの子として、江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)で誕生しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー伊東祐亨―たー高橋是清 

幸田真音「前掲書」下巻末に記述されている「主要参考文献・資料」のはじめに紹介されている、上塚司編・高橋是清(口述)「高橋是清自伝」下巻(中公文庫)に収録されている、上塚司記「高橋翁の実家および養家の略記」には、高橋是清の生年月を「安政元年閏七月」としていますが、安政元年改元はこの年11月27日なので、「嘉永七年閏七月」の誤りであり、幸田真音「前掲書」の記述を正しいと考えます。以下主として、上塚司編「前掲書」により、高橋是清の生涯を概観してみましょう。

 川村家は代々狩野家を師とする徳川幕府の御同朋(将軍近侍)頭支配絵師として、もっぱら江戸城本丸御屏風の御用を勤めていました。その芝露月町の住居はすこぶる数寄を凝らしたもので、なかんずく木材に至っては好事家の垂涎措かないものものでありました。

 守房の妻志津は長女文を生んで死去したので、彼は後妻時を迎え、時は四男二女を生みました。

 三男要之助が生まれると、侍女として北原きんが川村家に仕えたのですが、彼女の生んだ守房の末子が後年の高橋是清だったのです。

 北原きんの父北原三治郎は芝白金に住む薩州公出入りの富裕な肴屋で、妻との間にきんが生まれたのですが、三治郎はやがてこの妻と別れ後妻を迎えたため、きんは中門前町の叔母りん宅に寄寓するようになり、その後川村家の侍女となったのです、

 川村庄右衛門の後妻ときはきんがまだ年端も行かず妊娠したのを見て、厚くいたわり、秘かにきんを中門前町の叔母りん宅に帰らせ、きんは既述の通り男子を生み、庄右衛門に和喜次(高橋是清の幼名)と名付けられました。きんは16歳、川村庄右衛門は47歳のときのことです。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-2

  その後庄右衛門はときとも相談し、改めてきんの叔母りん並びに父三治郎と交渉して、きんを貰いうけようとしましたがまとまらず、金二百両と衣服調度を贈り、きんに暇がだされました。その後きんはしばらく親許に帰り、まもなく浜松町の塩肴屋高橋幸治郎に嫁ぎ、1862(文久2)年6月10日一女を生みなしたが、おりから江戸に流行した麻疹(はしか)にかかり、同月24日24歳で永眠しました。

 和喜次は生後まもなく他家に里子(他人に預けて養ってもらう子)として出すことになり、女髪結しもの仲介で仙台藩足軽高橋覚治是忠に預けられました。当時高橋家には高橋覚治夫妻の外に養祖父母高橋新治・喜代子夫妻が居りました(上塚 司「附録 高橋翁の実家および養家の略記」上塚 司編「高橋是清自伝」下 中公文庫)。

Weblio辞書―検索―幸田真音―上塚 司―大童信太夫

二年ほどたったころ和喜次を三田聖坂の菓子屋が養子にほしいと川村家へ相談にきました。川村家でもそれとなく貰い手を探していたので、川村から高橋の所へ和喜次を取り戻しに行ったのですが、高橋の祖母喜代子は「二年も育ててきたこの可愛い子を士(さむらい)ならとにかく、町人へやるのは可哀そうだ。足軽でもまだ自分の家へ貰っておいた方がよい」といって、留守居役(大名の江戸屋敷における役職)とも相談し、高橋家で貰うことにきまり、改めて川村家と協議しました。川村家では異議なく、かくして和喜次は高橋覚治の実子として藩に届け出て、高橋姓を名乗るに至ったのでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-3

 このような事情で和喜次は芝愛宕下の仙台藩江戸屋敷で、祖母の愛撫を受けて成長しました。この藩江戸屋敷の中には留守居役の住居が3軒、物書役の住居が同じく3軒、それに60余軒の足軽小者らの住居がありました。留守居役は時々交替して仙台から妻子を連れて来ると、和喜次の祖母喜代子が、その奥さまたちの面倒をみたり、留守居役に来客があると、女中たちに饗応の指図をしたりしていたので、留守居役とは懇意で重宝がられていたのです。

 やがて着任した若い留守居役大童信太夫は世の中の変遷に気つき、洋学でもやろうという同藩の若い武士たちにことの外目をかけていました。大童さんの母堂がなくなり、大崎猿町の仙台藩菩提所寿昌寺に葬られましたが、親孝行な大童さんは毎月命日に墓参りをした後、同寺の和尚と物語をしたり、碁を囲んだりすることが慣例となっていました。和喜次の祖母喜代子も信心深く、よく同寺に御参りしておりました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-4

 ある日同寺の和尚が喜代子に、給仕をしたりする子供が一人ほしいが、誰か藩中で心当たりの者があったら世話してほしいと申しました。当時のお寺は一種の登竜門で、士分の子弟をお小姓に置き、成人すると御家人の株を買って立派な侍にしてやるということが流行していたので、喜代子は和喜次に足軽では出世ができぬ、お前は足軽にはなさぬといつも言っていたくらいで、そのとき一緒に行っていた和喜次を顧みて、この子ではどうですかと頼みこみました。和尚は即座に承知してくれたので、和喜次はまもなくこの寺に奉公することになりました。

品川観光協会―寿昌寺

 大童が寺にやってきて和尚と食事を共にするときは必ず和喜次が給仕したので、彼は次第に大童と馴染みになったのです。初めて西洋の兵式教練を足軽に授けたのはこの人で、当時福沢諭吉と親しかった大童は福沢に頼んで外国新聞などを翻訳してもらい、、それによって外国の事情などを研究していました。

 そのうちに大童はどうしても英仏の学問をするものを横浜に派遣せねばならぬと考えるようになり、この人選に苦心したのです。当時江戸居住の藩士はみな交替勤番で独身が多く、妻子持ちは江戸屋敷の足軽小者しかいませんでした。大童はこの足軽小者の子供の中から、和喜次と鈴木六之助(後に日銀出納局長となった鈴木知雄)の両名が横浜へ洋学修業に出されました。これが1864(元治元)年のことで、鈴木と和喜次は同年の十二歳でした。

 元治元年と言えば桜田事件の直後で、攘夷論者が非常に力を得て、外国人の居る所と見れば何処でも切り込んでゆくという騒がしい時代でした。そこで和喜次と鈴木が横浜に英学の修業にゆくことになると、第一番に心配したのは祖母喜代子でした。横浜は物騒な処だから、子供らをやる前に、どんな所かみてこようと大童とも相談して横浜まで状況視察にでかけました。横浜から帰って来ると、祖母が横浜という所は出るのも入るにも吉田橋一つしかない、浪人たちがこの橋を壊したら出入できず、自分の可愛い孫をそん危ない所へ一人手放すわけにはいかないから、自分も一緒に行って飯や衣服の世話まで一切してやりたいと大童に話ました。大童も賛成してくれて、横浜の太田町の漢語通訳役宅の庭の空地に家を建てて、そこから和喜次と鈴木は「ドクトル ヘボン」夫人に、ヘボン夫妻が帰国後は横浜在住の宣教師「バラー」夫人の指導で英語を稽古しました。

 1866(慶応2)年横浜の大火で一時江戸に帰りましたが、祖母と懇意な訳読の先生太田栄次郎がやてきて、永く江戸にいてはようやく覚えた英語もわすれてしまう、異人館のボーイにでも住み込んだらどうかといわれ、大童も賛成してくれたので、和喜次は太田の紹介で英国の「バンキング・コーポレーション・オブ・ロンドン・インデヤ・アンド・チャイナ」という銀行の支配人シャンドという人に雇われることになりました。

 この銀行には支配人格の人が3人おり、3人ともボーイを置いて、部屋の掃除や食事中の給仕をさせたりしていました。3人のボーイの中、和喜次以外にもう一人の日本人ボーイがおり、他の一人は当時横浜に駐屯していた英国兵兵士の子供で、これ以外にボーイ頭格の日本人に芸州藩士で22~3歳の織田と云う人がおり、やはり英学修業のためにきていました。和喜次はこうしてボーイを勤めながら、暇をみて太田栄次郎の所で訳読を教えてもらったり、自習をしたりして別に学校へ通うことはありませんでした。

 その銀行には馬丁やコックもおり、その中にはならず者もいて、朝夕酒を飲み、賭博をするという有様で、当時和喜次は13歳であったが老けてみえて身体も大きかったので、馬丁やコックと一緒になって酒をのんだり、随分悪戯もしました。

 当時洋妾(ラシャメン)が流行して、夜になると婆さんに連れられて外国人の住居に通って行く、それが憎らしいので、馬丁どもが悪戯をする。和喜次も一緒になって婆さんの提灯の火を打ち落として真っ暗になったところで洋妾の簪(かんざし)などを引き抜いて棄てると、女どもが仰天して逃げてゆくのを見て、手をたたいて笑うという風でした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-5

従って和喜次の評判が悪くなっていったのは当然でした。浅間山下の洗濯屋の座敷を借りて、毎日太田栄次郎の所に通って勉強していた鈴木六之助が時々和喜次を訪ねてやってきました。彼は和喜次の善からぬ評判を聞いて、自分は今度アメリカに修業にやられることになったが、御前は評判が悪いので省かれそうだと云いました。

 万一鈴木のみが洋行して和喜次独りが取り残されるなら、祖母に申し訳なく、それなら自分独りで洋行してやろうと考え、ボーイ頭の織田に相談しました。

 織田は「近ごろは頻々外国から船が来る、うまく船長にでも頼めばボーイに使ってくれるだろう、君が強いて行きたいなら、俺が一つ探ってやろう」と引き受けてくれました。

 やがて織田は横浜寄港中の英捕鯨船長と交渉、和喜次に船長は和喜次をボーイに使ってくれること、最終的にはロンドンに帰るので、和喜次を学問の出来るような所へ世話をしてやろうと云ってくれました。和喜次はこの話を受諾して織田にも伝えました。

しかし、このことを大恩ある祖母に一言伝えねばならないが、伝えれば祖母はあるいは止めるかもしれず、黙って脱走しようと覚悟したものの、祖母のことが気がかりで躊躇していました。結局捕鯨船に乗り込んでから、祖母に手紙を書いて了解を得ようと決心がつきました。

 ところが仙台藩士星恂太郎いう人が英国兵式修業のため横浜に来て、衣食のためにヴァンリードというアメリカ人の商店(銃砲など販売)で働いており、織田と懇意で高橋和喜次が英捕鯨船で洋行しようとしている事情を話しました。

星は「うん、そりゃ今度勝さん(勝海舟)の息子の小鹿(ころく)がアメリカに留学するので、庄内藩からは高木三郎という人が同行することになったが、仙台藩からも富田鉄之助(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)を同行させてはどうかと勝さんから留守居役の大童信太夫まで話があったので、藩では富田を修学させることにきめた。それにちょうどよいついでであるから、かねて横浜に修業に出してある子供も一緒にやろうという話が出て鈴木はすでに決まったが高橋はどうも行状が悪いので問題になっているところだ。高橋がそれほど堅い決心なら、君のいう通り二人一緒に修業にやるように、自分から大童に話をしてみよう。とにかく本人にも一度会ってみたいから、高橋を自分の所へ寄越してくれ」ということでありました。

Weblio辞書―検索―富田鉄之助

 和喜次はこの話を織田から聞いて、翌日早速星を訪ねると、星は「その年輩で捕鯨船に乗って外国へ行くのは無謀だ。今度藩の方で留学生を出すについては君もきっとその中に加えるだろうから、この手紙を持って江戸の大童氏の所へ行け」といって、一通の添書を書いてくれました。和喜次はその添書を持って早速江戸の大童を訪ねると、大童は彼の姿を見て打解けた態度で笑って「まだ決まったわけではないが、とにかく横浜へ行って待っておれ」ということでした。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-6

 和喜次は洋行の願いが叶ったものと思って横浜に帰り、織田と星にその話をして、捕鯨船の方は織田からわけをいって断って貰いました。 

 1867(慶応3)年(14歳)の春も終わりに近いころ、高橋和喜次らのアメリカ行きの許可が出ました。勝小鹿、富田鉄之助、高木三郎の3人には、藩からそれぞれ学校に入学して勉強できるだけの手当を支給されることになったのですが、鈴木と高橋は未成年なので、向うで誰か世話を頼まねばならぬと大童から星に話があったので、星は主人のヴァンリードに依頼し、桑港(サンフランシスコ)にいるヴァンリードの両親が両人の世話を引き受けることになって、その旅費や学費は藩から直接ヴァンリードに渡してしまいました。

 出発の日が迫ってくると、祖母は和喜次に餞別の短刀を授け、男は義のためや恥辱をそそぐために死なねばならぬことがあると云って、切腹の作法まで教えてくれました。

 そのころ和喜次らはまだ髷を結って和服を着ていました。洋行するには断髪して洋服を着る必要があります。しかるにそのころは西洋人の仕立屋はありましたが、日本人の仕立屋にはろくな者はいませんでした。やむなくそのころ流行だった白金巾の綿ゴロでチョッキとズボンを拵え、黒の絹ゴロで上衣を拵えましたが、一列ボタンのフロックコートでした。

YAHOO知恵袋―白金巾の綿ゴロとはどのような着物なのでしょうか?

 帽子はフランス形を板紙で拵え、それに白い布片で後の方に日よけを垂らしたものでした。靴は買うにしても、まだどこにも靴屋はありませんでした。横浜中探しても、子供の足にあうものはなく、みんなイギリス兵のはいた大きなものばかりでした。やっとこれなら足に合いそうなものを探し当てたものの婦人用の古靴で、革製ではなく絹シュスで作ったものでした。

 かくして同年7月23日アメリカ船コロラド号が香港から横浜に入港、翌日和喜次は祖母に送られて乗船しましたが嬉しくてたまりませんでした。

 同年7月25日コロラド号は午前6時3発の号砲を合図に桑港に向けて出帆しました。同号はわずか6~700トン足らずの外輪船でありました。富田、高木、勝の3人は上等船室でしたが、高橋、鈴木のほか、薩摩藩伊東四郎(後の伊東祐亨海軍大将)らは下等船室でした。下等船室は移民の清国人が多く乗り込んでおり、薄暗くて臭気がムッと胸をつきました。多数の者が広い部屋に同居して、寝床も四本の柱に布で作ったハンモックが上下3段に吊ってあるだけで、高橋ら3人もそこに寝ました。朝飯などは大きなブリキの桶に入れて清国人と一緒に食わされるという風でしいた。便所は外輪車の上の床に四斗樽のような桶が3~4個並んでおり、その上に板が渡してあって、それを跨いで大小便をするのでした。とても堪らんので高橋は上等の客が食堂に出ている間にこっそり上等便所に入ることを覚えました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-7

 伊東は浴衣がけで酒ばかり飲んでいました。「君は飲めるか」と訊くので高橋は「うん飲める」といって、共に盃を傾けました。船に乗るときに富田から高橋と鈴木に小遣いとして20ドル金貨を1枚ずつくれたので、3度に1度は自分の金で買って飲み、それがなくなると、酒を飲まない鈴木の金貨まで取り上げて飲んでしまったのでした。

  同年8月18日午前11時桑港に到着しました。富田らはただちに出迎えの馬車に乗って桑港一流のホテル「リックハウス」に行ってしまいました。高橋らは以前仙台藩を脱走同様にして修業にきている一条十次郎、越前藩の窪村純雄のいずれかが迎えに来て、その案内で「ヴァンリード」の家に行くことになっていました。ところがその迎えがきていないので、伊東が『自分は「シティカレッジ」にいる金子という人に紹介状を持って来たので、これからその人を訪ねようと思う。君も一緒にきて通弁してくれないか』というので伊東と高橋二人は歩きだしました。伊東は羅紗(らしゃ)に金ボタンのついた鹿児島あたりの軍人服だったのでしょうが、高橋は例の綿ゴロのフロックコートに、船の中でよれよれになって膝まで縮み上がった白金巾の洋袴をつけ、婦人靴を履いていたので、傍らの目には可笑しかったでしょう。

 やっとのことで行きついてみると、学校は暑中休暇で金子は不在とのこと、港へ帰ろうとしたのですが、帰り路が分からなくなっていました。彼等の乗って来た船が桑港の湾内に入ると、なぜか檣頭高く日の丸の旗を掲げたのを思い出し、高い所に上がって海の方を眺め、日の丸の船の方向に帰ることでようやく港に帰ることができました。

 船へ帰るとまもなく迎えの人がやってきました。伊東の迎えには鹿児島の谷本という人、また高橋らの方には一条がやってきて、ここで伊東とわかれ、高橋らはひとまず一条の所におちつくことになりました。

 翌日高橋らは「リックハウス」の富田鉄之助らを訪問すると、富田は高橋に「君はこの船で帰れッ」と大変な権幕で叱りつけました。高橋が船の中で酒を飲み、おまけに鈴木の金まで飲んでしまったことをチャンと知っていたのです。一条が、これから十分に監督をして、決して乱暴なことはさせぬからと頼み込んだのですが、容易にお詫びがかなわず、3日間も通ってようやく勘気が解けました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-8

 ヴァンリードの家に行くと、大変喜んでくれて、お前たちの部屋はここだといって台所の向うにある離れ間に案内してくれました。食物も当たり前のものを食わされたのですが、それがだんだんと悪くなってどう見ても老人夫婦の食い残しとしか思えないものばかりとなりました。煮焚き料理の手伝いから、部屋の掃除や走り使いまでさせられます。

 日中学校に行けぬのは勿論、家に居ても勉強などはとてもできません。このように事情があまりに最初の予想を裏切っているので、高橋は憤慨してこう約束が違う以上、俺は働かないといって、何を命ぜられても云うことを聞きませんでしたが、鈴木はおとなしいので、いやいやながら働いていました。

 そのうちに妻君は、ある日のこと、オークランドに自分の知り合いで、大変大きな金持ちがいる、そこへ行くから一緒にこないかと云いました。高橋はこんな所とは異った所が見られると思って、喜んでお伴しました。

 我々が降りたステーションというのはほんの名ばかりで、雨降りのために、5間に1間半ほどの屋根がある程度、腰掛けもありませんでした。金持ちの家というのは川沿いの風景のよい所にあり、屋敷も大きく、畑や庭も広くて牛や馬も飼っていました。

 そこは若い夫婦きりで、それに西洋人と清国人の召使が一人ずつ居ました。両親と其の他の兄弟たちはワシントンにいっているということでした。

 ヴァンリード夫妻が高橋にあすこはすきかと訊くので、彼は大変好い所だと答えると、「それではあそこにいかないか。あの若夫婦は大変親切で、若主人は桑港の銀行員だから毎日桑港に通っている。それで昼は暇だから奥さんが学問を教えてくれる。」と言うので「それなら行ってもよい」と同意しました。

 するとヴァンリードは高橋と一条に自分の役所まで来てくれと云いました。ヴァンリードは公証人で、役所とは公証人役場のことだったのです。行ってみると例のオークランドの若主人も来て居て、やがてヴァンリードは1枚の書類を一条に渡して、二人にサインしろと云いました。一条はそれを見ていましたが、フランス語から英語に移って間もないころであり、何が書いてあるのかさっぱりわかりません。ヴァンリードの話によれば、要するにオークランドのブラウンという家に住み込むこと、そこへ行ったら学問も出来るということだけは分かりました。高橋は喜び勇んでその書類に署名しました。

 何しろ人の言うことなどにはチットも疑いをもたない年ごろではあるし、それに学問のことなんかも一向分からぬ、一条が書類を見て「何だかお前があっちに行ってしまう、なんでも3年ということが書いてある」というけれども、さらに疑いは起こしませんでした。大威張りで家に帰り、鈴木を羨ましがらせました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-9

 書類に署名した翌日かにいよいよオークランドへ引っ越すことになりました。荷物も無く裸一貫でオークランドの渡し場に行ってみると、若主人のブラウンが迎えに来ておりました。

霧の町・サンフランシスコ全景

 若主人のブラウンは毎日早朝桑港へ行き、夕方にならないと帰りません。その間若い妻君はピアノを弾いたり読書したり、また暇があれば、高橋に「スペンセリアン」の英習字を教えたり、読本を復習(さら)えたりして彼を可愛がってくれました。

 この家には清国人のコックとアイルランド人の夫婦がいて、清国人は料理の合間に洗濯や薪割りをやり、アイルランド人は2頭の馬と2頭の乳牛の世話と畑の手入れを受け持っていました。

 妻君に子供が生まれた後、清国人は解雇され、妻君が直接料理を担当するようになると、高橋に料理を覚えろと云い、ランプや部屋の掃除、窓硝子拭きまでやらなければならなくなりました。さらに若主人とアイルランド人との間に争いが起こり、アイルランド人夫妻はこのブラウン家を去ってしまったため、若主人は高橋に馬と牛の世話を命じました。

 高橋は横浜の「金の柱」で馬丁と一緒にいたので馬の扱い方は知っていました。それで馬の乗ってよければ世話をしましょうと答えました。

 彼は毎朝早く起きて馬と牛を小舎から引き出し、畑に連れて行き、草のあるところに杭を打って4、5間くらいの綱でつないでおけば、その範囲の草を自由に食べています。手入れでは刷毛で擦ってやると牛も馬も従順(おとな)しくいうことを聞きました。夕方になると小舎に入れて食事を与えます。 ただ乳牛の乳しぼりはうまくいかず、閉口して情けない思いをしました。

 その中に一旦解雇した清国人を再び呼び戻し、乳搾りと料理や洗濯の仕事をやり、従来アイルランド人がやっていた牛馬の世話と畑の手入れ、それに薪を鋸で挽くことが高橋の仕事として廻ってきました。そして高橋の挽いた薪材を割ることは清国人の分担ということに決まりました。

 こうして1週間のうち6日間はこんな仕事を繰り返し、日曜日になると馬に乗って広い野原を飛び回りました。

  ブラウン家から3里ほど離れた所にカピテン・ロッジャーという金持ちがいてブラウン家とは親しく交際していました。ある日ロッジャー家の娘さんが来て高橋に「今度私の家へお前の国の(関口)保兵衛という人が来て、大変よく働いてくれるが、言葉がさっぱり解らない。お前時々来て通弁をしてもらいたい」と云います。高橋は日曜日が来ると早速馬を飛ばして行きました。

 

幸田真音「天佑なり」を読むⅠ-10

 ある日曜日の朝例の如くでかけようとしましたが、清国人がその日に限ってなぜか牛の乳しぼりをやってくれないので、まだ乳を搾らぬうちに牛を遠くの方に繋いで、そのままロッジャー家へと行ってしまいました。その日の夕方になって帰るとブラウン家の妻君から、これからあんなことをしてはいかぬと優しく注意され、その晩はそれで済みました。

 しかし翌朝高橋は清国人と喧嘩になり、カッとなった高橋は逃げる清国人に鉞をなげつけ、祖母から贈られた短刀をポケットに入れました。清国人も用心して小さな斧をポケットに潜ませ、かくして両者の間に殺気がみなぎったのでした。

 夕方主人が帰って来て夕飯を済ませ夫婦が話している所へいきなり出掛けて行って、高橋は「私が清国人を殺すとドウなるでしょう」と訊きました。すると主人は妙な顔をして、「人を殺せば御前も殺される。なぜそんなことをいうか」と訊き返しました。

 そこでことの経過を話すと、主人は「そのことは自分も聞いている。だが御前も悪いのだ」と高橋をたしなめました。

 高橋はこの主人の言には少なからず不満でした。翌日夕方主人が帰ると、高橋は「暇を下さい。私はあんな奴と一緒にいるのは嫌です。」と申し出ました。すると主人は「御前は勝手に暇をとって帰るわけにはいかぬ。お前の身体は3年間は金を出して買ってあるのだ。現に御前は友人とともに書類にサインまでしたではないか」といいます。 

 高橋は驚きました。あの時署名したのは身売りの契約書だったのか。なんとかしてこここを逃げ出さにゃならぬと思って、主人に「そんなら一日だけ暇を下さい、明日桑港へいって友人と相談してくるから」というと、主人は「生意気ナッ」とといっていきなり高橋の頬を殴りました。

 翌日高橋は桑港に行って一条にこのことを話しました。一条も困惑して「困ったナァ」を連発するばかりでした。高橋は「俺はモウ帰らずにいようと思うがドウだ」と云うと、一条は「そりゃいけない、そんなことすりゃみんなお前が悪いことになる。マァも少し辛抱しろ。俺が何とか話をつける」と止めるので、ウンと乱暴して呆れ返らせ、向うから暇を出させるようにしてやろうと、それから毎日手当たり次第にランプや皿を打ちこわしました。ところが一向にききめがなく、主人も妻君もそれをみながら怒りもしません。これには高橋も当惑しました。

 そのうちにワシントンにいたブラウンの父親ジョン・ロース・ブラウンが清国駐在公使に任命され、大勢の家族や召使を連れてオークランドの邸へ帰ってきました。その中には7歳から11~2歳くらいの子供も2~3人いて、女中たちが帰って来たので、部屋やランプの掃除をしてくれるようになり、牛や馬もいなくなって、高橋の仕事は暇になりました。高橋少年も数え年の15歳くらいだったので、子供たちと仲よしになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

日文研データベースー洋妾とその子

 

 

 

 

 

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

1. はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

 高校程度の日本史学習から、さらに専門的な学習への橋渡しになるような史料ならびにインターネット上の映像などを紹介することでした。

 

2.ブログ名の由来を教えて!

 ブログ名「sarushibai s blogの「sarushibai」は、私のハンドルネームでもありますが、他人が真似できないようなものにしようと、苦心してつけました。

 

3.自分のブログで一番オススメの記事

犬養道子「花々と星々と」を読むをおすすめします。

 

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

 はてなブログを書き始めて、約10カ月にしかなりませんので、はてなの内容の理解が不十分ですが、できるだけ、多くのブロガーとお知り合い

になりたいと期待しています。

 

5.はてなブログに一言

 ヘルプの内容に難解な用語が多く、理解できない個所があります。

もうすこし平易な記述にしてください。