美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む11~20

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む11

 第二点に我が憲法上、天皇の統治の大権は万能無制限の権力であるや否や、此点に付きましても我が国体を論じまする者は、動もすれば絶対無制限なる万能の権力が 天皇に属していることが我が国体の存する所であると言う者があるのでありまするが、私は之を以て我が国体の認識に於て大いなる誤であると信じて居るものであります。君主が万能の権力を有すると云うようなのは、是は純然たる西洋の思想である。「ローマ」法や、十七八世紀の「フランス」などの思想でありまして、我が歴史上に於きましては、如何なる時代に於ても、天皇の無制限なる万能の権力を以て臣民に命令し給うと云うようなことは曾て無かつたことであります。天の下しろしめすと云うことは、決して無限の権力を行わせられるといふ意味ではありませぬ。憲法の上諭の中には「朕が親愛する所の臣民は即ち朕が祖宗の恵撫慈養したまいし所の臣民なるを念い」云々と仰せられて居ります。即ち歴代天皇の臣民に対する関係を「恵撫慈養」と云う言葉を以て御示しになつて居るのであります。それは無制限なる権力を振り廻すと云うような思想とは全く正反対であります。況や憲法第四条には「天皇は国の元首にして統治権ヲを総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と明言されて居ります。又憲法の上諭の中にも、「朕及朕が子孫は将来此の憲法の条章に循い之を行うことを愆(あやま)らざるべし」と仰せられて居りまして、天皇の統治の大権が憲法の規定に従つて行わせられなければならないものであると云うことは明々白々疑を容るべき余地もないのであります。天皇帝国議会に対する関係に於きましても、亦憲法の条規に従つて行わせらるべきことは申す迄もありませぬ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む12

 菊池男爵は恰も私の著書の中に、議会が全然 天皇の命令に服従しないものであると述べて居るかの如くに論ぜられまして、若しそうとすれば解散の命があつても、それに拘らず会議を開くことが出来ることになると云うような議論をせられて居るのでありまするが、それも同君が曾て私の書物を通読せられないか、又は読んでも之を理解せられない明白な証拠であります。議会が天皇の大命に依つて召集せられ、又開会、閉会、停会及衆義院の解散を命ぜられることは、憲法第七条に明に規定して居る所でありまして、又私の書物の中にも縷々説明して居る所であります。私の申して居りまするのは唯是等憲法又は法律に定つて居りまする事柄を除いて、それ以外に於て即ち憲法の条規に基かないで、天皇が議会に命令し給うことはないと言つて居るのであります。議会が原則として 天皇の命令に服するものでないと言つて居りまするのは其の意味でありまして、「原則として」と申すのは、特定の定めあるものを除いてと云ふ意味であることは言う迄もないのであります。

 詳しく申せば議会が立法又は予算に協賛し、緊急勅令其の他を承諾し又は上奏及建議を為し、質問に依つて政府の弁明を求むるのは、何れも議会の自己の独立の意見に依つて為すものであつて、勅命を奉じて、勅命に従つて之を為すものではないと言うのであります。一例を立法の協賛に取りまするならば、法律案は或は政府から提出され、或は議院から提出するものもありまするが、議院提出案に付きましては固より君命を奉じて協賛するものでないことは言う迄もないことであります。政府提出案に付きましても、議会は自己の独立の意見に依つて之を可決すると否決するとの自由を持つて居ることは、誰も疑わない所であろうと思ひます。若し議会が陛下の命令を受けて、其の命令の儘可決しなければならぬもので、之を修正し又は否決する自由がないと致しますれば、それは協賛とは言われ得ないものであり、議会制度設置の目的は全く失われてしまう外はないのであります。それであるからこそ憲法第六十六条には、皇室経費に付きまして特に議会の協賛を要せずと明言せられて居るのであります。それとも菊池男爵は議会に於て政府提出の法律案を否決し、其協賛を拒んだ場合には、議会は違勅の責を負わなければならぬものと考えておいでなのでありましょううか。上奏、建議、質問等に至りましては、君命に従つて之を為すものでないことは固より言う迄もありませぬ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む13

菊池男爵は其御演説の中に、陛下の御信任に依つて大政輔弼の重責に当つて居られまする国務大臣に対して、現内閣は儀表たるに足らない内閣であると判決を下すより外はないと言われまするし、又 陛下の至高顧問府たる枢密院議長に対しても、極端な悪言を放たれて居ります。それは畏くも陛下の御任命が其の人を得て居らないと云うことに外ならないのであります。若し議会の独立性を否定いたしまして、議会は一に勅命に従つて其の権能を行うものとしまするならば、 陛下の御信任遊ばされて居ります是等の重臣に対し、如何にして斯の如き非難の言を吐くことが許され得るでありましょうか。それは議会の独立性を前提としてのみ説明し得らるる所であります。

或は又私が、議会は国民代表の機関であつて、天皇の機関ではなく、天皇から権限を与えられたものではないと言つて居るのに対して、甚しい非難を加へて居るものもあります。

併し議会が 天皇の御任命に係る官府ではなく、国民代表の機関として設けられて居ることは一般に疑われない所であり、それが議会が旧制度の元老院や今日の枢密院と、法律上の地位を異にする所以であります。元老院枢密院は、 天皇の官吏から成立つて居るもので、元老院議官と云い、枢密顧問官と云うのでありまして官と云う文字は 天皇の機関たることを示す文字であります。天皇が之を御任命遊ばされまするのは、即ちそれに其権限を授与せらるる行為であります。帝国議会を構成しまするものは之に反して、議員と申し議官とは申しませぬ。それは 天皇の機関として設けられて居るものでない証拠であります。再び憲法義解を引用いたしますると、第三十三条の註には「貴族院は貴紳を集め衆議院は庶民に選ぶ両院合同して一の帝国議会を成立し以て全国の公議を代表す」とありまして、即ち全国の公議を代表する為に設けられて居るものであることは憲法義解に於ても明に認めて居る所であります。それが元老院枢密院のような 天皇の機関と区別せられねばならぬことは明白であろうと思います。

以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めている所であり、又近頃に至って初めて私の唱え出したものではなく、三十年来既に主張し来つたものであります。今に至つて斯の如き非難が本議場に現われると云うようなことは、私の思も依らなかつた所であります。今日此席上に於て斯の如き憲法の講釈めいたことを申しますのは甚だ恐縮でありますが、是も万己むを得ないものと御諒察を願ひます。私の切に希望いたしまするのは、若し私の学説に付て批評せられまするならば、処々から拾ひ集めた断片的な片言隻句を捉えて徒に讒誣中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明にし、真の意味を理解して然る後に批評せられたいことであります。之を以て弁明の辞と致します。」

 この一身上の弁明について、美濃部亮吉は次のように述べています。「私も、父のこの弁明の演説をききに行った。貴族院議席も傍聴席も超満員だった。     

 父は東大の講義の時とはちがい、前夜おそくまでかかって作った原稿を手に、二時間に及ぶ弁明の演説を行った。それは、やや学者風にすぎ、大学における講義じみてはいたが、なかなか迫力のある名演説であった。

 貴族院では、壇上で行われる演説には、一切拍手をしないのを原則としていた。しかし、父の演説に対しては、少数ではあるが拍手が起った。拍手をしたのは9人だったとも3、4人だったともいわれている。元の東大総長小野塚喜平次(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造4参照)先生、物理学者の田中館愛橘(たなかだてあいきつ)博士等が拍手したということである。小野塚先生は、この時父の演説に拍手を送ったというので、右翼団体ににらまれ、一時は護衛までつく騒ぎだった。」(美濃部亮吉「前掲書」)

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田中館愛橘

 菊池武夫は美濃部の弁明演説を聴いて、「そうか。それならよろし」と呟いたといわれていますが、美濃部の演説のあと、議席からこう述べています。

 「午前、美濃部議員から一身上のご弁明がございましたが、私は殊更に美濃部議員を罵詈(ばり)いたすことを目的として申しあげたものではございませぬ。あのご本を全部通覧いたしまして今日のご説明のように感ぜられまするならば、何も問題にならぬのでございます。一身上の弁明に事を藉(か)りまして、互に討論に陥るやの感もございますので、発言をいたさぬことにいたしたいと思います」しかし菊池は美濃部の弁明演説を聞いたときの感想を後に撤回しました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 14

 岡田啓介首相は大要「美濃部学説は法律学説として久しい間に亘(わた)って唱えられ、幾多の論議を重ねられた問題だが、これが国民道徳上に悪影響を及ぼし、または不敬に亘るものとした場合、何らかの処置を要するについては慎重な考慮をする考えである」という内容の答弁をしました。

 菊池が軍部大臣の意見をただすと、陸海軍大臣天皇機関説に反対である旨の答弁がありました

 右翼団体貴族院の美濃部追求に呼応して「機関説撲滅同盟」を結成、その理論的中心は蓑田胸喜一派でした。

Weblio辞書―検索―蓑田胸喜(みのだむねき)

 第六十七議会における貴族院天皇機関説排撃運動は衆議院にも反映、政友会の山本悌二郎が美濃部学説を攻撃するに至りました。

 同年3月20日、貴族院は「政教刷新に関する建議」を満場一致可決、衆議院も同月22日、政友会、民政党、国民党3派の共同提出による「国体明徴に関する決議案」を満場一で可決しました。

 天皇機関説はついに政治問題化したのです。軍部がそのファッショ的権力を推し進めるために、同調者をして機関説を攻撃させていることとは離れて、政友会は単純にも岡田内閣打倒のために機関説を攻撃したのであります。政友会はただ眼先の獲物を追って、政党政治を自滅させるのです。これら右翼の政府攻撃は平沼の陰謀でもありました。

  当時政友会は野党でありながら絶対多数を擁していました。彼らは何とかして政権を握ろうとあせっていました。それには床次竹二郎らが脱党して入閣したこと、宿敵の民政党が与党の立場だったことなどに反発があったからでもありますが、内相に後藤文夫(内務官僚出身)がいて、岡田内閣が実質的に官僚内閣の性格を帯びていたことにもよるのでした。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む15

 軍部は機関説問題で岡田内閣を批判しはじめました。とくに陸軍内部ではその派閥争いにからんで、荒木貞夫(「花々と星々と」を読む35参照)陸相、真崎甚三郎教育総監などの皇道派が激しく機関説を攻撃しました。

Weblio辞書―検索―統制派―皇道派―真崎甚三郎―教育総監(部)

  政友会は軍部右翼の機関説攻撃を利用して岡田追い落としにかかり、美濃部と同様に機関説を奉じる枢密院議長一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)や法制局長官金森徳次郎をやめさせようとしました。

 平沼は裏で政友会と手を握り、一木を追い出して枢府議長の椅子を狙い、宮中勢力の一角を握ろうとしていました。

 政府としては機関説を処分すれば、一木、金森にまで追及の手が伸びるので、それを防ぐ唯一の方法は、美濃部に機関説の誤りを認めさせ、謹慎の意を表して公職を辞めさせるにあったのです。

 また美濃部の実兄俊吉(元朝鮮銀行総裁)も政府筋から弟の説得を頼まれて動いています(原田熊雄述「西園寺公と政局」第4巻 岩波書店)。

 「四面楚歌のなかにあって、父は一歩も退(ひ)かなかった。自分の憲法学説の正しいことを飽くまでも確信し、少しの疑いもさしはさまなかった。自分の学説の誤りを認めたり、公職を辞するなど思いもよらないことであった。父は、政府側からくるあらゆる勧奨をはねつけた。」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」文芸春秋

 同年2月28日代議士江藤源九郎は東京地検の岩村検事正を訪ね、美濃部を不敬罪(「蟹工船」を読む22参照)として告発しました。これは美濃部の憲法精義には国務に関する詔勅を批判するも憲法上差支えなしとしていることがその理由の中心となっていました。

 同年4月4日真崎甚三郎教育総監は機関説が国体に反する旨部内訓示しました。次いで4月10日松田文相は各学校に対して国体明徴に関する訓示を発し、4月13日南関東軍司令官は関東軍に国体観念明徴に関しての訓示を発しました。民間右翼の諸団体もこれに呼応して動いたのです。

 では天皇機関説が宮中方面ではどのように受け取られていたのでしょうか。当時の侍従武官長本庄繁陸軍大将の日記「本庄日記」(明治百年史叢書 原書房)によって読者は天皇がすぐれた判断の持主であったことを知るでしょう。

 「四月八日午後二時、御召しがあった。

 この日上聞に達した真崎教育総監の機関説に関する訓示なるものは『自分の同意を得たという意味であるか』との御下問があったので、決して左様なことはなく、これは全く総監の職責上出したものだが、こと重要であるため、報告の意味で上聞に達したものでございます、と奉答した。同九日午後三時半御召しがあり、『教育総監の訓示を見るに、天皇は国家統治の主体なりと説いてある。国家統治の主体といえば、すなわち、国家を法人と認めて、その国家を組織する或る部分ということに帰着する。しからば、いわゆる天皇機関説と用語こそ異なれ、論解の根本に至っては何ら異るところはない。ただ機関の文字が適当でなく、むしろ器官の文字が近いのではないか。また右の教育総監の訓示の中には「国家を以て統治の主体となし、天皇を以て国家の機関となす」の説を反駁しているが、これも根本的においては天皇を以て国家統治の主体というのと大同小異である。しかるに、これを排撃するの一方において天皇を以て国家統治の主体というのは自家撞着(じかどうちゃく ある人の言動が前後で食い違い、つじつまがあわないこと)である。

美濃部らの云う詔勅を論評し云々とか、議会は天皇の命といえどもこれに従うを要せずというが如き、また「機関」なる文字そのものが穏当でないだけである。』と仰せられた。」(「本庄日記」昭和十年四月八日 松本清張現代語訳 以下同文)

「美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して不忠の者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が、一体何人日本におるか」(鈴木貫太郎侍従長の伝える天皇の発言 原田熊雄述「西園寺公と政局」第4巻 岩波書店

このように天皇天皇機関説を基本的に支持していたことが分かります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む16

「翌(四月)二十五日、林陸相、真崎教育総監と別室に会し、陛下の思召しを語り、学説までも深入(り)する考(え)ならば、各自が直接内奏なされたい旨を述べた。これに対し、林、真崎両人とも、機関説の思想を排撃することが主体で、敢て学説を論議するものではないが故に、武官長(本庄)よりこの旨を奏上してくれ、とのことで別れた。」(「本庄日記」同上年四月二十五日)

「五月二十二日、この日午前陛下は出光海軍武官(侍従武官)を召され、海軍の天皇機関説に関する意向を聞かれた上で、「軍部が自分の意に従わずして天皇主権説を云うのは矛盾ではないか」との御下問があった。これに対して出光(万平)武官(海軍少将)は次のように奉答した由の報告をうけた。

―そのときどきの御事務について大御心に添わないようなことがあっても、それを天皇主権の事実に添わずとせられ、ひいて重大なる国体に関する解説を云々せられんとするのは本末を誤るものと拝察します。陛下はしばらく臣下の論議を高処より静視遊ばされ、これらの説に超越して大観あらせらるるがよいかと存じます。(「本庄日記」同上年五月二十二日)

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 出光海軍武官は天皇に、万事われわれに任して下さい、あなたは黙っていらっしゃい、、といったのであります。「事務上」という言葉をつかっていますが、これは方便で、軍部の全行動のことであるのはいうまでもありません。

伊藤博文明治憲法を作るときに、、天皇の大権を国務大臣が輔弼(ほひつ)するという道をつくりました。かたちの上では天皇の執政権を臣下が輔佐し、その命を受けて政務の代行をするというのですが、、その責任はすべて輔弼の臣が負うことにしました。

 たとえば、明治のドイツ人医師「ベルツの日記」(明治33年5月9日 東京 岩波文庫・「大山巌」を読む21参照)には次の記載があります。

 「伊藤(博文)のいわく『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところでっ礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。」

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む17

  美濃部が東京地方検事局に初めて召喚されて出頭したのは同年4月7日でした。

 当時美濃部を取り調べた主任検事戸沢重雄に尾崎士郎は直接取材して「小説 天皇機関説」(「長編小説全集5 尾崎士郎篇 新潮社)を書きました。(松本清張が)戸沢に問い合わせると、美濃部訊問の経緯は、尾崎の同上小説にすべて誤りなく出ているから、あれで間違いないということでありました。

Weblio辞書―検索―尾崎士郎

 戸沢検事にとって美濃部は恩師でした。普通裁判用語としては被告を呼ぶのに「おまえ」というならわしになっているが、戸沢はさすがに美濃部を「おまえ」とは呼べませんでした。いろいろ考えた末、結局「博士」ということに落ちついたのです。

 美濃部の第1回取調べが済むと、検察首脳部では前日作成の美濃部聴取書を検討し、再喚問の必要はないと声明しました。この時点では検事局側は問題の詔勅批判(家永三郎美濃部達吉の思想史的研究」第一章三、四 岩波書店)の一部を訂正(教育勅語を批判の対象から除外)しているので、その著書「憲法撮要」「逐条憲法精義」「「日本憲法の基本主義」の3著を発禁の行政処分にすることで事を収めようとしていたのです。

 小原法相らは美濃部が「憲法撮要」「逐条憲法精義」の2著書を、すすんで絶版とすると再声明することで不起訴にしたい考えでした。

  ところが美濃部は取調べが終わって小石川竹早町の自宅に帰ると、そこに待ち受けていた新聞記者に、その感想を次のように語りました。

「自分の著書については、かねて前から字句の訂正を加えたいと考えていたのだが、政府が希望するところとはなお隔たりがあるようだ。自分は何も間違ったことを言っているのでもないから、学説を変えるなどということは絶対にあり得ない。」当時他の学者で美濃部に援助を申し出る者は一人もいませんでした。

美濃部が新聞記者に語った感想は軍部を憤慨させ、美濃部を早く起訴しろと司法当局に迫りました。また右翼や在郷軍人会は美濃部を葬れといいう声を大にし、美濃部の家には脅迫電話や投書が殺到しました。

このような情勢の中で、政府(岡田啓介内閣)は、一木喜徳郎や金森徳次郎に疵がつかず、内閣の存立を守るためには、美濃部がすすんでその憲法理論の誤りを認める声明を出し、謹慎の意を表すること、具体的にはには貴族院議員の辞任を望むほかはありませんでした。

美濃部はこのような圧力をなかなか承認しようとはしなかったのですが、彼に対する貴族院議員辞職の勧告はあらゆる方面からなされました。9月に入って美濃部は松本蒸治の説得により公職を辞退する決意を固めました。それは松本が司法省の友人であった中島次官、大森民事局長から、詔勅批判の件で美濃部を起訴せざるを得ないが、美濃部が公職を辞退するなら起訴猶予とするから、何とか辞職の方向にすすめてくれ、とたのまれたためでありました。

「九月九日の夜のことだったと覚えている。(中略)父は案外あっさりと松本博士のすすめに従った。(中略)隣りに住んでいた私も呼ばれ、『亮吉、貴族院をやめることにしたよ』と笑いながら言った。(中略)しかし、父はあくまで、辞職したから起訴猶予になったという形をとりたくない、起訴猶予になってから、世間を騒がして相すまなかったということで公職を辞退することにしたいと主張した。そして父のいい分が通った」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」)

 美濃部は公職を辞退するつもりであると述べたので、9月19日、美濃部に起訴猶予の内定がなされました。起訴猶予といっても、美濃部の著書が出版法に抵触しているので、有罪とされたのです。美濃部はこの決定が公表される同月21日貴族院議員辞職を声明しました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む18

 ところが、同じ日、美濃部はその声明を記者団に次ぎのように発表しました。

 「私がひきつづき在職していることはますます貴族院の空気を混乱させるおそれがあると考えたので、私は職を退くのが至当であると思ったのである。もし当時すぐに辞職を申し出たとすれば、私が自ら自分の学説の非なることを認めたものであり、起訴を免れるために公職を辞したものと解せられることは必然であって、それは私の学問的生命を自ら放棄し、醜名を千載に残すものと考えるし、一方には、私自身としては私の著書が法律にふれるとは夢にも思わないが、もし検察当局の意見として法律に背くものと認めらるるとならば、いさぎよく法の裁きを受け、万一有罪と決するならば、甘んじて刑に服するのが私として当然とるべき態度であろうと思ったので、今日までその決心を実行することを差控えていた次第である。

 くれぐれも申し上げるが、それは私の学説を翻すとか、自分の著書の間違っていたことを認めるとかいう問題ではなく、ただ私が議員としての職分を尽すことが甚だ困難となったことを深く感じたためにほかならない。」

 美濃部のこに声明文は、またもや軍部や右翼を刺戟しました。司法省はまたもや困惑し、美濃部に対して、その声明文を取消さない限り、起訴猶予を取消すと迫ったので美濃部も「さきの談話は自分の真意に副わないものだから、これを取消す」と再声明せざるを得ませんでした。

 一方軍の内部にも重大な変化が起っていました。同年7月には真崎甚三郎教育総監が無理矢理に更迭させられました。真崎は機関説排撃の先頭にたつ皇道派の中心人物で、真崎更迭は軍内部の統制派と皇道派の抗争のあらわれであり、真崎罷免を激怒した相沢三郎中佐は8月12日白昼、統制派の実力者永田鉄山(陸軍少将)軍務局長を陸軍省内の局長室で刺殺しました。

クリック20世紀―年表ファイルー1935/8/12 相沢事件

 このような事件は美濃部問題とは直接つながらないが、軍部を狂的にファッショ化する契機となりました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む19

 美濃部は貴族院議員を辞職して以来、新築の吉祥寺の自宅に引込みました。当時、この界隈はまだひらけていず、檪(くぬぎ)林の武蔵野がそのまま残っていました。

 そうした隠退生活に入った美濃部のもとには、依然として右翼からの脅迫状が絶えなかったのです。彼の親友たちは彼の身辺を気づかい、また警察でも常時自宅の周囲に護衛の警官を配置していました。

1936(昭和11)年2月20日第19回総選挙があり、天皇機関説をもっとも攻撃していた政友会は惨敗、鈴木喜三郎政友会総裁は落選、その反面機関説に消極的だった民政党が進出し、無産政党も5名から21名に躍進しました。国民は軍部ファッショが戦争を誘発する危機を感じとっていたのでしょう。

 総選挙の結果が新聞に発表された同月21日の午前8時過ぎに自動車が美濃部宅に着き、黒い木綿の着物と同じ羽織を着て袴をはいた30前後の男が果物籠を提げて降りました。

 ちょうど、その時、護衛の警官たちは裏の檪林に雉を見つけたというので、そっちのほうにまわっていました。門前に残っていたのは磯山という若い巡査だけでした。彼は客を格別不審に思わず、客が玄関のベルを押すのを見送りました。

 玄関にでた夫人に「福岡市天神町、元判事弁護士 小田俊雄」の名刺を差し出し、自分はかつて東大法科に学び、先生の講義を受けた者であるが、上京を機会にぜひ先生の謦咳(けいがい)に接したい、といいました。

鐘華会ホームページー高砂支部―高砂文庫―吉田登 美濃部達吉の妻多美

について

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む20(最終回)

その名刺を見た美濃部は、数多い教え子の一人であろうと思い、応接間に通しました。その男はもっていた果物籠を美濃部に差出すのではなく、自分の横にぴったりと置いていました。

 小田弁護士と称する男は、時局問題などについて美濃部にいろいうろ質問しましたが、その眼つきの少しく鋭いことを除けば、者柔かくて静かでした。話は2時間近くもかかりましたが、最後に小田は果物籠からたたんだ奉書のような紙を差出しました。

 美濃部が何気なく披いてみると、いきなり「天誅(てんちゅう)」という大きな字がありました。つづいて、「逆徒美濃部達吉、皇国に生を享け、皇恩の無窮一門一統に及び、身は社会の上流に位し、飢餓を知らず、旦(あした)霜を踏みて田を耕する労苦を知らず、夕(ゆうべ)にー」とか「「皇国に弓を引き、臣民の大義を忘れ、汝堂々天皇は国家の統治の機関なりと主張し、その不臣たる観念たるや逆徒足利尊氏にまさりー」とか「汝を誅し大義名分を正す」といった文字が走り読みする彼の眼に飛び込みましだ。

 おどろいた美濃部はすぐに立ち上がり、帰りなさい、といいました。小田の手には再び果物籠の中に突っこまれました。美濃部が見たのは、その手に黒く光る拳銃でした。

 美濃部は跣足のまま玄関から外に走り出しました。男はあとから追い、一発を放ちました。これは美濃部の右足に当りました。結局兇漢を取押さえたのは磯山巡査でした。

 この事件は外部を刺戟することをはばかって、当局は新聞記事の掲載を禁止しました。美濃部は即日自動車で大学病院に送られ、脚の銃弾を抜き取る手術を受けたのですが、その入院は外部に絶対秘密とされ、病室も小児科の伝染病室でした。

 それから5日たった26日の早朝、美濃部宅と病院に警視庁から電話がかかって「いま陸軍の部隊が首相官邸はじめ、ほうぼうを襲撃しているが、その一部はそちらに向うかもしれないので、用心するようにー」と昂奮した様子で告げました。-二・二六事件の発生であったのです(松本清張「前掲書」・第22章 暴力ざた 美濃部に対して 宮沢俊義天皇機関説事件」下 有斐閣)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 1~10

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 1

[美濃部亮吉美濃部達吉の長男、東京教育大教授を経て東京都知事などを歴任)「苦悶するデモクラシー」文芸春秋]は1958(昭和33)年6月号から1959(昭和34)年1月号まで「文芸春秋」に連載したものを1冊にまとめ1959(昭和34)年3月出版したものです。本書はベストセラーとなり、毎日出版文化賞を受賞しました。それは1919(大正8)年から1940(昭和15)年までの間に起った、言論の自由に対する圧迫の個々の事件について具体的に書いたものです。本書は1968(昭和43)年に再版されました。本稿においては、「同上書」第三章だけを、他の記録や資料とともにご紹介するにとどめます。

  美濃部達吉(「男子の本懐」を読む27参照)は、1873(明治6)年5月7日父美濃部秀芳・母悦の次男としてに相生(あいおい)の松で有名な兵庫県高砂で生まれました。

高砂神社―『相生の松』と『尉と姥』―境内案内―五代目相生松

 父秀芳は医者でしたが、あまりはやらず、まちの子供たちに習字や漢学を教えて、主としてその月謝でくらしていたらしく、その生活もあまりゆたかではなかったようです。

ひろかずのブログー高砂市を歩く(41・46)申義堂研究(1・6)

ひろかずのブログー高砂市を歩く(77~79)美濃部達吉①~③

 達吉は子供のころから極端に人付き合いが悪く、鼻も悪くて洟をたらしていたが、神童といわれ、小学校6年の課程をとび抜けて進級、3~4年で終了しました。中学は高砂に近い小野中学校でしたが、その時の様子を知っている人がいないので、よくわかりません。しかい小学校・中学校とも、本にかじりついて、くそ勉強するというたちではなかったようです。

 のちに達吉は兄俊吉とともに地元の金持ちの援助による出世払いの約束で東京に遊学、第一高等学校に入学したときは、一年生のときチフスを患い、一年まるまる休学しましたが、二年への編入試験に及第し、そのまま三学年に入ったのです。亮吉は酒にほろ酔い機嫌の父達吉からよくこの自慢話を聞かされました。

華麗なる旧制高校巡礼―第一高等学校

/ 東大で美濃部は穂積八束(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)の憲法行政法の講義を聞きました。しかし一年おき交替の一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造3参照)の講義が彼を最も惹きつけたようです。彼の憲法論における天皇機関説は一木の強い影響があります。

 1897(明治30)年東京帝国大学法科大学を卒業したときは二番でした。学校のことは一向に勉強せず、親譲りの酒好きで酒ばかりの呑んでいたためだといわれています(美濃部亮吉「前掲書」)。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 2

 美濃部は大学に残れませんでした。一説によると、穂積八束に敬遠されたためといわれています。美濃部はやむなく内務省に入りましたが、同様の経歴をもつ一木が美濃部に同情したのでしょう。美濃部は間もなく内務省を辞め、帝大に戻って助教授となりました。

 1899(明治32)年、美濃部はヨーロッパに留学、大部分をドイツで暮しましたが、ハイデルベルク大学のイエリネックの学説に傾倒しました。美濃部にはイエリネックの「人権宣言論」の訳業があるほどです。しかしイエリネックの講義をきくことはしなかったようですぅ。

 1902(明治35)年に帰朝した美濃部は帝大法科教授に任命され、翌年、当時文部大臣で数学の菊池大麓の長女民子(多美子 亮吉の母)と結婚しました。仲人は一木喜徳郎でした(美濃部亮吉「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―きー菊池大麓

 大体、明治憲法は、明治十四、五年ころから起った自由民権運動の思潮に押されてつくられた点を考慮にいれなければならなりません。したがって、明治憲法は封建的な専制政治の面と民主主義的な面との二つを持っていました。美濃部の学説は、明治憲法を最大限度に民主主義的に解釈しようとしたものであります。

 明治憲法は、『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』(第一条)とのべ、『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権を総攬』(第四条)するものと表現しました。そして、さらに、統治権の総攬者である天皇について、まったく反対の性格を持たせる二つの表現を加えました。その一は、第四条の後半で、『此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ』と規定して、天皇専制君主としてかってなまねができないようにした点であります。そして第二は、第三条の『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』という天皇神格化の規定であります。この規定は、絶対君主をまず君主制一般としてとらえ、それを立憲君主的にする条文を加える半面、専制君主ともなしうる条文をもつけ加えておいたわけであります。

 天皇の大権を絶対無制限なものと考えたのは、明治時代、すでに穂積八束の学説があります。これに対して、東京帝国大学教授一木喜徳郎は、天皇の大権は立憲的立場から制限され得るものとしました。この二つの系統は上杉慎吉(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造21参照)と美濃部達吉とにそれぞれ継承されたのです(松本清張天皇機関説」昭和史発掘6 文芸春秋)。

 美濃部学説を、簡単にいうと、国家を主権者のある法人的団体と見なす考え方であります。日本の場合、この法人の主権者は天皇の「大権」で、この大権は天皇が勝手に行使するものではなく、国民の利益の上に立って行使されます。つまり、天皇の独裁の範囲を縮小し、それだけ議会のの権限を拡大するという一種の議会在権的なものでした。

 まず、世間に誤解を与えたのは、天皇機関説の「機関」という名でありました。機関といえば、機関車とか、、自動車のエンジンだとかいった機械のことを思い出します。そこで、万世一系の至尊を、そんな機械になぞらえるとは怪しからんという論が起ってきます。

 だか、美濃部のいう「機関」とはそんな意味ではありません。これについては早稲田大学教授浮田和民の言葉が妥当でしょう。

「美濃部博士が天皇は国家の最高機関なりと言ったので頗る不敬なる用語を為したるものとせられて居るが、学問上の研究に用ゆる言葉には元来不敬の論を挟む可きものではない。それは全く別問題である。機関というに二種の意味がある。一は器械学上の意味で、喞筒(ポンプ)を機関と言い又は蒸気機関というが如き是れである。二つには生物学上の意義で、脳髄や心臓、肺臓などを機関ということがある。此の意義ならば国家学に適用して差支はない。」(「無用なる憲法論」太陽第18巻第14号)

歴史が眠る多摩霊園―著名人―著名人全リストーあーうー浮田和民

 もっとも明治期には天皇の大権をめぐって二つの学説があるということだけで、両者の間に華々しい論争もなかったのです。

  問題の発端は、1912(明治45)年、美濃部達吉が書いた「憲法講話」(明治45年有斐閣刊行の復刻版 ゆまに書房)によって起されました。この著書は、その前年、、文部省の委嘱によって美濃部が中等教員夏季講習会で行った講演の速記を基礎とし、これに手を加えたものです。

 美濃部は「憲法講話」の序文に次のような意味のことを書いています。「憲政の知識が一般に普及していないことはほとんど意外なほどである。専門の学者で憲法のことを論ずる者の間にすら、なお言葉を国体に借りてひたすら専制的な思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、その絶対の服従を要求し、立憲政治の仮装のもとに、その実は専制政治を行おうする主張がしばしば聞かれる。私は憲法の研究に従う一人として、多年この有様を見て嘆き、もし機会があらば、国民教育のために平易に憲法の要領を述べた本を出したいと思っていた。そして、この本では憲法の根本精神を明らかにし、一部の人の間に流布されている変装的専制政治の主張を排することにもっとも努めた」

 こういって、彼は天皇の権力よりも議会の権力を重視しなければならないと主張しました。この序文に書かれた変装的専制政治の主張者とは、暗に穂積八束上杉慎吉を指しているのです。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 3

上杉慎吉は1878(明治11)年の生まれで、1903(明治36)年に東京帝国大学法科大学を卒業しました。彼はすこぶる好男子であったから、まる一年、吉原の花魁(おいらん)に世話されて、毎日遊廓から学校に通いました(根拠のあやしい噂話 第24章 戦後の証言 松本清張 宮沢俊義天皇機関説事件―史料は語るー」下 有斐閣)。それでいて卒業時に彼はちゃんと恩賜の銀時計をもらっています。この年大正デモクラシーの本尊吉野作造(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造参照)は同じく法科大学三年生でした。

YAHOO知恵袋―恩賜の銀時計について

 上杉の才能を見込んだ教授穂積八束は彼を呼んで自分の後継者にあてようとしたが、上杉は自分の放蕩癖を理由に一度は固辞しました。

 卒業と同時に上杉は講師をとび越えて、いきなり法科大学の助教授となったのです。

当時の彼は憲法学説では一木説の「国家法人説」「君主機関説」を信じていました。彼は1906(明治39)年から1909(明治42)年の間ドイツに留学しました。上杉慎吉もイエリネックの家に下宿していたのに、帰国後の上杉は急に国粋的になって、穂積八束憲法説の遵奉者になりました。その動機や理由がよく分かりません。上杉の講義は非常に面白く、奇智に富み、逆説的なことをいうのが得意で、脱線が甚しかったようです。

 上杉慎吉が美濃部の「憲法講話」を最初に非難したのは、ある県の教育会の席上で、なした講演をまとめた『国民教育・帝国憲法講義』という本でした。

 名目は中等学校教師相手の通俗講演だったが、目標は美濃部学説の攻撃であったのです。上杉は次のように美濃部学説を批判しています。

 「民主主義」(当時は反君主制を意味する)とは「人民があってはじめて君主がる」という「革命を意味する危険な思想」であると断じ、「君主ありて人民があり」という「歴史を無視して」君主国を転覆したためにフランス革命は失敗したのだと云いました。

 さらに上杉は、人民の性格は「絶対無制限の服従にある」といい、「国会はただ、天皇が政務を行わるるがために使用せられる所の機関である、事務所である」と規定し、美濃部の「君主は国家の機関であるとみる」説に反対して、「機関と申せば他人の使用人である、他人の手足である」ときめつけました(松本清張天皇機関説」昭和史発掘6 文芸春秋)。

これに対して美濃部達吉は「『帝国憲法講義』を評す」を発表して上杉の非難に答えました。美濃部は「国家は一つの団体であり、その団体自身が統治権の主体であると見るべきことは、今日の進歩したる学者の間には殆ど定説ともいうべきもので、これは君主主義の国たると民主主義の国たるとに少しも関係はない。

 しかるに著者(上杉慎吉)は之を批評して、その説は『やっぱり民主主義であります』と一言にして排斥し去って、読者をして恰もこの説を唱うる者は総て民主主義の人であるかの如く思わしむるのは、人を誣(し)うるの甚しいものである」と反撃しました。

 美濃部のこの反撃に対して、上杉慎吉は、雑誌「太陽」第18巻第8号大正元年8月号)に掲載された「国体に関する異説」という論文で大要つぎのように述べました

 「憲法講話が出ると、世間では美濃部博士と私とを以て好敵手でるという者がある。しかし私は美濃部君と相戦う意志はない。私は君と戦う能力がなく、かつ戦おうと欲するものではない。私は憲法を講ずるのに一生懸命であって、いささかの余裕もないのである。自己の学説は必ずかくのごとくでなければならないと信じている故に私はこれを云っているのである。美濃部博士がもしこの私の論文に対して弁駁を加えることがあっても、私はやはり同じことを繰返すだけであろう。」

 学界のそれまでの評価では、上杉の学力は美濃部のそれに及ばぬものとされていました。美濃部の論理は緻密で、その学問は上杉の神がかり的な直観主義とは対照的でした。ただ、美濃部があまりに学究的なために、人間味の点でははるかに上杉に譲ったということでした。つまり、あんまりおもしろい男ではなかったのです。

 明治の終りから大正の初ににかけて行われた美濃部・上杉の天皇機関説論争は法学界だけの問題で収り、。火の手は学界の垣根をこえて外に燃え移ることなく済みましだ。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 4

 だが、もちろん、支配階級や官僚派は美濃部の勝利に不満でした。当時の検事総長平沼騏一郎(「日本の労働運動」を読む47参照)はこういっています。

 「天皇機関説であるが、当時は誰も怪しまなかった。美濃部は判っていない。西洋流で勝ったにすぎぬ。司法省辺りでも若い者は、美濃部の方が偉いですねという。そこで一体日本の天皇を機関などと言うべきか、以後そんなことは言うなと叱ったことがある。

 あのとき山県(有朋)公は平沼の意見を聞いてこいと、学者を使者によこされた。そこで私は答えた。天皇を機関等と言うのは乱臣賊子だ。

 後にその使者に来た人に会った時、山県公も、平沼の言う通りだと言って居られたと言うことであった。」(平沼騏一郎回顧録編纂委員会「平沼騏一郎回顧録」)

 平沼談話のごとく、この時点では、さすがの山県も自由主義の時勢に押されてか、沈黙せざるをえなかったとみえます。このことは、穂積・上杉のあと、その直系の研究者が出てこなかったためにもよるのでしょう。

 これに反して、美濃部の学説は傍流ながらも若い研究者に影響を与えたため、多くの研究志望者が彼のもとに集りました。上杉の死後、美濃部派が実質的には東大の主流となったようなものです。あとを宮沢俊義が受け継ぐことになりました。

Weblio辞書―検索―宮沢俊義

 1920(大正9)年、美濃部は上杉の憲法講座と並んで憲法第二講座を担当するようになりました。彼は高等文官試験、外交官試験等の委員に選任され、1932(昭和7)年には貴族院議員にも勅選されました[ 1934(昭和9)年3月東大教授を定年退官 ]。このころが美濃部のもっとも恵まれた時代であったのです。

 しかし時代は少しずつ変ってきていました。昭和初年の浜口内閣による緊縮政策が空前の不況を誘い、農村の疲弊、都会の失業者の増加は 民主主義的風潮を根こそぎに国家主義に変えて行く絶好の機会になりました。

 1930(昭和5)年若槻礼次郎が首席全権となってロンドンで開かれた海軍軍縮会議は、ついに英米側の主張に押し切られて、日本は補助艦の比率でも大譲歩しなければなりませんでした。海軍はこれを不満とし、軍令部の承認しない軍事関係の条約は無効だと主張しました。

 浜口内閣は美濃部に意見を求めました。美濃部は憲法理論にもとづいて、海軍の軍縮に関する問題は政治問題であり、軍令部の口を出すべき事柄ではないと答えました。浜口内閣は、こうした美濃部の主張を参考にし、海軍を屈服させたのです。

 海軍は軍令部長加藤寛治を直接天皇に拝謁させ、条約拒絶の意見を述べさせようとしました。これを侍従長鈴木貫太郎が阻止したため、軍令部長の上奏は行われませんでした(鈴木貫太郎伝記編纂委員会「鈴木貫太郎伝」)。しかし、政府が兵力数を決めたのは天皇統帥権に関与したものであるとして、海軍から大権干犯問題(「男子の本懐」を読む27参照)が起されました。美濃部はあくまでも法理論から、条約は内閣で決めるものだといい、浜口首相はその理論通りに主張して、枢密院を屈服させたのです。統帥部は兵力の問題を決めるべきものでないと主張して海軍の恨みを買ったのです。

 1931(昭和6)年に起った満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)では、美濃部は陸軍の横暴をたしなめて、陸軍の敵意を買いました。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 5

 1932(昭和7)年5.15事件で犬養毅首相が海軍青年将校らに暗殺され(「花々と星々と」を読む39~40参照)、同政友会内閣が倒壊すると、同年5月26日斎藤実(「労働運動二十年」を読む16参照)内閣(政友・民政両党入閣の挙国一致内閣)が成立、政党内閣の慣例に終止符が打たれました。

1934(昭和9)年10月、陸軍省は「国防の本義と其の強化の提唱」というパンフレットを出しました。美濃部は、それまで機会あるごとに時事問題を論じ、軍部を抑えて議会に声援を送っていましたが、彼はこのパンフレットを見てただちに「中央公論」の誌上に筆を執り、「陸軍省発表の国防論を読む」を発表しました。

 美濃部は、その中でこう書いています。「この小冊子をよんで第一に感じられるのは、その全体を通じて好戦的、軍国主義的な思想の傾向が著しく現れていることである。劈頭第一に『たたかいは創造の父、文化の母である』とあって、戦争賛美の文句で始まっている。戦争は創造とは逆にこれを破壊するものである。学術や産業は全く度外視され、いつに国防すなわち国家の戦争能力のみに国家の生成発展が依存するように論じられている。

 世界を敵としてどうして国家の存立を維持することが出来ようか。それは結局国家の自滅を目指すものである。」

 1934(昭和9)年1月17日時事新報は「番町会問題をあばく」の連載を開始、これが帝人事件の端緒となりました。

クリック20世紀―年表ファイルー1934/04/18 帝人事件発覚

 同年7月3日斎藤実内閣は帝人事件で総辞職、元老西園寺公望は重臣と協議した結果を天皇に奏上、7月8日岡田啓介内閣(政友・民政両党入閣、政友会は入閣者を除名)が成立しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―おー岡田啓介 

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 6

 この帝人事件の取り調べの段階で、被告たちは革手錠をはめられて検事に訊問されていたことが被告の手記などで判明しました。逃亡のおそれのない、しかも社会的地位のある人々を強殺犯の被告と同様な扱いにしたことになり、さらに検事(背後勢力 平沼騏一郎)が被告に不利な自白を強要したという疑いが強くなりました。

 翌年1月23日貴族院本会議で美濃部は帝人事件をめぐる検事の人権蹂躪に関すて演説を行っています。時の法相は小山松吉で、貴族院での小山・美濃部の応酬は新聞に大きく報道されました。

 美濃部は検察当局の監督問題として、小山法相に次のような趣旨の質問を行いました。

 「今回の帝人事件については、しばしば検察当局に不当行為があるという噂を聞いたが、去る臨時議会岩田宙造博士(帝人事件被告弁護人)がこの点に言及せられたのを聞いて、私も疑惑を抱くようになったのである。私が疑問を抱くのは要約すると次の二点からである。その一は検事側が被告たちに対して不法の拘留があったのではないかという点だ。第二は、証拠の蒐集、被疑者の取調べに当って暴行凌辱(りょうじょく)行為がなかったかどうか。この二点について私は司法大臣に質問したいのである。

 実例をいえば、帝人事件の被疑者である岡崎旭(帝人常務)は、任意出頭の形式で大阪府警察部に喚ばれたが、そのまま二畳半の不潔な場所に8人の者と同居させられたまま留置されたが、此の際は何ら法的手続きがとられなかった。

また永野護帝人監査役)に対する革手錠の問題であるが、法相は自殺のおそれがあるによって革手錠をはめたといわれ、其の理由とされているようであるが、革手錠はむしろ被告を苦しめるためにはめたものとしかいわれない。」

 小山法相は美濃部博士のいわれたような事実はないと答弁しました。

 帝人事件はある意味で斎藤内閣打倒を志す平沼騏一郎と右翼・軍部の合作陰謀でもありました。とすれば検察当局を弾劾した美濃部が再び軍部に睨まれるのは当然です。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 7

 1935(昭和10)年2月19日菊池武夫貴族院美濃部達吉天皇機関説を大要つぎのように批判攻撃しました。

 文部大臣は、憲法の議論のことは学者に任すがよろしかろう、おれは天皇機関説に反対だ、こういうのである。

 ちょうど都合のいいようなことだから、国家といえば何でもいいかというようなことで、ドイツの学問の輸入じゃございませんか。みんなドイツへ行って学んできた者が、説が無いから種をお売りになる。なにも偉い独創なんぞいう頭は微塵もない。学者の学問倒れで、学匪(がくひ 匪は賊という意味)となったのでございます。

 ドイツはドイツでございます。共和国は共和国、おのおの学理をつくっている。日本は日本でです。日本憲法は独立した日本憲法、どこにこれが西洋の理論で行かねばならぬか、こういうものを学者の考究に任せるということはない。

 しかるに、美濃部博士にしても一木喜徳郎博士のものにいたしましても、恐ろしいことが書いてある。議会は、天皇の命に何も服するものじゃない、こういうような意味に書いてある。実におどろくべき私はお考えであると思う。」

 これに対して美濃部達吉は同年2月25日貴族院本会議で「一身上の弁明」を行い、反論しました。その全文は次の通りです(宮沢俊義天皇機関説事件  上 有斐閣)。

 「去る二月十九日の本会議に於きまして、菊池男爵其他の方から、私の著書のことに付きまして御発言がありましたに付き、茲に一言一身上の弁明を試むるの己むを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とする所であります。

 菊池男爵は昨年六十五議会に於きましても、私の著書の事を挙げられまして、斯の如き思想を懐いて居る者は文官高等試験委員から追払ふが宜いと云ふ様な、激しい言葉を以て非難せられたのであります。今議会に於きまして再び私の著書を挙げられまして、明白な叛逆的思想であると言われ、謀反人であると言われました。又学匪であると迄断言されたのであります。日本臣民に取りまして反逆者である、謀反人であると言われまするのは侮辱此上もない事と存ずるのであります。又学問を専攻して居ります者に取つて、学匪と言われます事は、等しく堪へ難い侮辱であると存ずるのであります。

私は斯の如き言論が貴族院に於て、公の議場に於て公言せられまして、それが議長からの取消の御命令もなく看過せられますことが、果して貴族院の品位の為に許され得る事であるかどうかを疑う者でありまするが、それは兎も角と致しまして、貴族院に於て、貴族院の此公の議場に於きまして、斯の如き侮辱を加へられました事に付ては、私と致しまして如何に致しても其儘には黙過し難いことと存ずるのであります。本議場に於きまして斯の如き問題を論議する事は、所柄甚だ不適当であると存じまするし、又貴重な時間を斯う云うことに費しまするのは、甚だ恐縮に存ずるのでありますし、私と致しましても不愉快至極の事に存ずるのでありまするが、万己むを得ざる事と御諒承を願いたいのであります。

凡そ如何なる学問に致しましても、其学問を専攻して居りまする者の学説を批判し、其当否を論じまするには、其批判者自身が其学問に付て相当の造詣を持つて居り、相当の批判能力を備えて居なければならぬと存ずるのであります。若し例えば私の如き法律学を専攻して居まする者が軍学に喙を容れまして、軍学者の専門の著述を批評すると云うようなことがあると致しますならば、それは、唯物笑に終るであらうと存ずるのであります。

Exciteブログ 人気タグ(写真)のブログをまとめ読みー天皇機関説問題

 私は菊池男爵が憲法の学問に付て、どれ程の御造詣があるのかは更に存じない者でありますが、菊池男爵の私の著書に付て論ぜられて居りまする所を速記録に依つて拝見いたしますると、同男爵が果して私の著書を御通読になつたのであるか、仮りに御読みになつたと致しましても、それを御理解なされて居るのであるかと云うことを深く疑う者であります。恐らくは或他の人から断片的に、私の著書の中の或片言隻句を示されて、其前後の連絡も顧みず、唯其片言隻句だけを見て、それをあらぬ意味に誤解されて、軽々に是は怪しからぬと感ぜられたのではなかろうかと想像せられるのであります。若し真に私の著書の全体を精読せられ、又正当にそれを理解せられて居りまするならば、斯の如き批判を加えらるべき理由は断じてないものと確信いたすのであります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 8

 菊池男爵は私の著書を以て我国体を否認し、君主主権を否定するものの如くに論ぜられて居りますが、それこそ実に同君が私の著書を読まれて居りませぬか、又は読んでもそれを理解せられて居られない明白な証拠であります。我が憲法上、国家統治の大権が天皇に属すると云うことは、天下万民一人として之を疑うべき者のあるべき筈はないのであります。憲法の上諭には「国家統治ノ大権ハ朕力之ヲ祖宗二承ケテ之ヲ子孫二伝フル所ナリ」と明言してあります。又憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。更に第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」とあるのでありまして、日月の如く明白であります。若し之をして否定する者がありますならば、それには反逆思想があると言われましても余儀ない事でありましょううが、私の著書の如何な場所に於きましても之を否定して居る所は決してないばかりか、却てそれが日本憲法の最も重要な基本原則であることを繰返し説明して居るのであります。

例えば、菊池男爵の挙げられました憲法精義十五頁から十六頁の所を御覧になりますれば、日本の憲法の基本主義と題しまして、其最も重要な基本主義は日本の国体を基礎とした君主主権主義である、之は西洋の文明から伝わつた立憲主義の要素を加えたのが日本の憲法の主要な原則である、即ち君主主権主義に加うるに立憲主義を以てしたのであると云う事を述べて居るのであります。又それは万世動かすべからざるもので、日本開闢以来曽て変動のない、又将来永遠に亘って動かすべからざるものであると云うことを言明して居るのであります。他の著述でありまする憲法撮要にも同じ事を申して居るのであります。菊池男爵は御挙げになりませぬでありましたが、私の憲法に関する著述は其外も明治三十九年には既に日本国法学を著して居りまするし、大正十年には日本憲法第一巻を出版して居ります。更に最近昭和九年には日本憲法の基本主義と題するものを出版いたして居りまするが、是等のものを御覧になりましても君主主権主義が日本の憲法の最も貴重な、最も根本的な原則であると云ふ事は何れに於きましても詳細に説明いたして居るのであります。

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 唯それに於きまして憲法上の法理論として問題になりまする点は、凡そ二点を挙げることが出来るのであります。第一点は、此天皇の統治の大権は、天皇の御一身に属する権利として観念せらるべきものであるが、又は 天皇が国の元首たる御地位に於て総攬し給ふ権能であるかと云う問題であります。一言で申しまするならば 天皇の統治の大権は法律上の観念に於て権利と見るべきであるか、権能と見るべきであるかと云うことに帰するのであります。第二点は、 天皇の大権は絶対に無制限な万能の権力であるか、又は憲法の条規に依つて行はせられまする制限ある権能であるか、此二点であります。私の著書に於て述べて居まする見解は、第一には、天皇の統治の大権は、法律上の観念としては権利と見るべきものではなくて、権能であるとなすものでありまするし、又第二に、それは万能無制限の権力ではなく、憲法の条規によつて行わせられる権能であるとなすものであります。

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む 9

此の二つの点が菊池男爵其他の方の御疑を生じた主たる原因であると信じまするので、成るべく簡単に其要領を述べて御疑を解くことに努めたいと思うのであります。

第一に、天皇の国家統治の大権は、法律上の御一身に属する権利と見るべきや否やと云う問題でありますが、是は法律学の初歩を学んだ者の熟知する所でありまするが、法律学に於て権利と申しまするのは、利益と云う事を要素とする観念でありまして、自己の利益の為に……自己の目的の為に存する法律上のカでなければ権利と云う観念には該当しないのであります。或人が或権利を持つと云うことは、其力を其人自身の利益の為に、言換れば其人自身の目的の為に認められて居ると云うことを意味するのであります。即ち権利主体と云えば利益の主体、目的の主体に外ならぬのであります。従つて国家統治の大権が天皇の御一身上の権利であると解しますならば、統治権が天皇の御一身の利益の為め、御一身の目的の為に存するカであるとするに帰するのであります。

そう云う見解が果して我が尊貴なる国体に通ずるでありましょうか。我が古来の歴史に於きまして如何なる時代に於ても天皇が御一身御一家の為に、御一家の利益の為に統治を行はせられるものであると云う様な思想の現われを見ることは出来ませぬ。天皇は我国開闢以来、天の下しろしめす大君と仰がれ給うのでありますが、天の下しろしめすのは決して御一身の為ではなく、全国家の為であると云う事は古来常に意識せられて居た事でありまするし、歴代の天皇の大詔の中にも、其事を明示されて居るものが少くないのであります。日本書紀に見えて居りまする崇神天皇の詔には「惟ふに我が皇祖、諸諸の天皇の宸極に光臨し給いしは豈一身の為ならむや、蓋し人神を司牧して天下を経倫する所以なり」とありまするし、仁徳天皇の詔には「其れ天の君を立つるは是れ百姓の為なり、然らば則ち君は百姓を以て本とす」とあります。

西洋の古い思想には国王が国を支配する事を以て、恰も国王の一家の財産の如くに考えて、一個人が自分の権利として財産を所有して居りまする如くに、国王は自分の一家の財産として国土国民を領有し支配して、之を子孫に伝えるものであるとして居った時代があるのであります。普通に斯くの如き思想を家産国思想、「パトリモニアル・セオリイ」家産説、家の財産であります家産説と申して居ります。国家を以て国王一家の財産の如くに看做すのであります。そう云う思想から申しますならば、統治権は国王の一身一家に属する権利であると云うことに帰するのであります。斯の如き西洋中世の思想は、日本の古来の歴史に於て曾て現われなかつた思想でありまして、固より我国体の容認する所ではないのであります。

伊藤(博文)公の憲法義解(宮沢俊義校註 岩波文庫)の第一条の註には「統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり」、「蓋祖宗其天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するに在つて一人一家に享奉するの私事にあらざることを示されたり、是れ即ち憲法の依て以て基礎をなす所以なり」とありますのも、是も同じ趣旨を示して居るのでありまして、統治が決して天皇の御一身の為に存するカではなく、従て法律上の観念と致しまして、天皇の御一身上の権利として見るべきものではない事を示して居るのであります。

古事記には、天照大神が出雲の大国主命に問わせられました言葉といたしまして、「汝がうしはける葦原の中つ国は我か御子のしらさむ国」云々とありまして、「うしはく」と云う言葉と「しらす」と云う言葉と書き別けしてあります。或国学者の説に依りますと、「うしはく」と云うのは私領と云ふ意味で、即ち自分の一身一家の為め土地人民を自分のものとして私領することを意味し、「しらす」は統治の意味で、即ち天下の為に土地人民を統べ治めることを意味すると云うことを唱えて居る人があります。此説が正しいかどうか私は能く承知しないのでありますが、若し仮りにそれが正当であると致しまするならば、天皇の御一身の権利として統治権を保有し給うものと解しまするのは、即ち天皇は国を「しらし」給うのではなくして国を「うしはく」ものとするに帰するのであります。それが我が国体に適する所以でないことは明白であらうと思います。

統治権は、天皇の御一身の為に存する力ではなく、従つて天皇の御一身に属する私の権利と見るべきものではないと致しまするならば、其権利の主体は法律上何であると見るべきでありましょうか。前にも申しまする通り権利の主体は即ち目的の主体でありますから、統治の権利主体と申せば即ち統治の目的の主体と云うことに外ならぬのであります。而して天皇が天の下しろしめしまするのは、天下国家の為であり、其の目的の帰属する所は永遠恒久の団体たる国家に外ならぬのでありまするから、我々は統治の権利主体は団体としての国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言換れば、国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬し給い、国家の一切の活動は立法も行政も司法も総て、天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。是が所謂機関説の生ずる所以であります。

所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以て申せば一つの法人と観念いたしまして 天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在しまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給い、天皇憲法に従つて行わせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずると云うことを言い表はすものであります。

Weblio辞書―検索―法人

 

美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」を読む10

国家を法人と見ると云うことは、勿論憲法の明文には掲げてないのでありまするが、是は憲法法律学の教科書ではないと云うことから生ずる当然の事柄であります。が併し憲法の条文の中には、国家を法人と見なければ説明することの出来ない規定は少からず見えて居るのであります。憲法は其の表題に於て既に大日本帝国憲法とありまして、即ち国家の憲法であることを明示して居りますのみならず、第五十五条及び第五十六条には「国務」といふ言葉が用いられて居りまして、統治の総べての作用は国家の事務であると云うことを示して居ります。第六十二条第三項には「国債」及び「国庫」とありまするし、第六十四条及び第七十二条には「国家の歳出歳入」と云う言葉が見えて居ります。又第六十六条には、国庫より皇室経費を支出すべき義務のあることを認めて居ります。総て是等の文字は国家自身が公債を起し、歳出歳入をなし、自己の財産を有し、皇室経費を支出する主体であることを明示して居るものであります。即ち国家それ自身が法人であると解しなければ、到底説明し得ない処であります。其の他国税と云い、国有財産と云い、国際条約というような言葉は、法律上普く公認せられて居りまするが、それは国家それ自身が租税を課し、財産を所有し、条約を結ぶものであることを示して居るものであることは申す迄もないのであります。即ち国家それ自身が一つの法人であり、権利主体であることがは、我が憲法及び法律の公認するところであると言わねばならないのであります。

併し法人と申しますると一つの団体であり、無形人でありまするから、其権利を行いまする為には、必ず法人を代表するものがあり、其者の行為が法律上法人の行為たる効力を有する者でなければならぬのでありまして、斯の如き法人を代表して法人の権利を行う者を、法律学上の観念として法人の機関と申すのであります。率然として天皇が国家の機関たる地位に在ますと云うようなことを申しますると、法律学の知識のない者は、或は不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、其意味するところは天皇の御一身、御一家の権利として統治権を保有し給うのではなく、それは国家の公事であり 天皇は御一身を以て国家を体現し給い、国家の総ての活動は、天皇に其最高の源を発し、 天皇の行為が天皇の御一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として、効力を生ずることを言い表はすものであります。例えば憲法明治天皇の欽定(「大山巌」を読む27参照)に係るものでありまするが、明治天皇御一個御一人の著作物ではなく、其名称に依つても示されて居りまする通り、大日本帝国憲法であり、国家の憲法として永久に効力を有するものであります。条約は憲法十三条に明言して居りまする通り、天皇の締結し給うところでありまするが、併しそれは国際条約、即ち国家と国家との条約として効力を有するものであります。若し所謂機関説を否定いたしまして、統治権は 天皇御一身に属する権利であるとしますならば、その統治権に基いて賦課せられまする租税は国税ではなく、天皇の御一身に属する収入とならなければなりませぬし、天皇の締結し給う条約は国際条約ではなくして、天皇御一身としての契約とならねばならぬのであります。其外国債と云い、国有財産と云い、国家の歳出歳入と云い、若し統治権が国家に属する権利であることを否定しまするならば、如何にして之を説明することが出来るのでありましょうか。

勿論統治権が国家に属する権利であると申しましても、それは決して天皇が統治の大権を有せられることを否定する趣意ではないことは申す迄もありませぬ。国家の一切の統治権は天皇が之を総攬し給うことは憲法の明言して居る処であります。私の主張しまする所は唯天皇の大権は天皇の御一身に属する私の権利ではなく、天皇が国家の元首として行わせらるる権能であり、国家の統治権を活動せしむるカ、即ち統治の総べての権能が天皇に其最高の源を発するものであると云うに在るのであります。それが我が国体に反するものでないことは勿論、最も良く我が国体に通する所以であらうと固く信じて疑わないのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林多喜二「蟹工船」を読む21~30

小林多喜二蟹工船」を読む21

 二時でもう夜が明けていた。絆天の袖にカガシのように手を通しながら、漁夫が段々を上がって来て、ハッチから首を出したまま、はじかれたように叫んだ。

 「あ、兎が飛んでる。-これァ大暴風(しけ)になるな。」三角波が立ってきていた。カムサッカの海に慣れている漁夫には、それがすぐ分る。「危ねえ、今日休みだべ。」

Weblio辞書―三角波

 川崎船を降ろすウインチの下で、其処、此処七、八人ずつ漁夫が固っていた。川崎船はどれもどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆすりながら海を見て、御互い云い合っている。

 「やめた、やめた!」「糞でも喰らえ、だ!」肩を押しあって、「おい引き上げるべ」と云った。雪だるまのように、漁夫達のかたまりがコブをつけて大きくなって行った。ほとんど一人も残さないで、、「糞壺」へ引きあげてきた。

 雑夫達は全部漁夫のところに連れ込まれた。一時間程するうちに、火夫と水夫も加わってきた。みな甲板に集まった。

 「要求条項」は吃り、学生、芝浦、威張んなが集ってきめた。それを皆の面前で、彼等につきつけることにした。

 監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。船長、雑夫長、工場代表などが何か相談をしていたらしいことが分るそのままの恰好で迎えた。

 監督は落ち付いていた。入ってゆくと、「やったな。」とニヤニヤ笑った。監督は「要求条項」と三百人の「誓約書」をチラチラ見ると、「後悔ないか。」とゆっくり云った。「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから。」

 云うより早かった。芝浦が監督のピストルをタタキ落すと、拳骨で頬をなぐりつけた。監督がハッと思って顔を押えた瞬間、吃りが丸椅子で横なぐりに足をさらった。監督は他愛なく横倒れになった。、

 「色よい返事だ? この野郎、フザけるな! 生命にかけての問題だんだ!」

 薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。あわてて「糞壺」に駆け込んだ。

大日本帝国海軍 所属艦艇―駆逐艦

 「我帝国の軍艦だ、俺達国民の味方だろう。」皆は「糞壺」からドヤドヤ甲板をかけ上がった。そして声を揃えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。

 駆逐艦からは三艘の汽艇が出て横付けになり、タラップを上ってきた水兵は帽子の顎紐をかけ、銃の先に着剣し、漁夫や水夫を取り囲んでしまった。

 「ざま、見やがれ!」監督だった。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒されて、代表の9人が銃剣を擬されたまま、、駆逐艦に護送されてしまった。

 「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分った。」

 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹缶詰の「献上品」を作ることになっていた。

 「俺達の本当の血と汗を絞り上げて作るものだ。フン、さぞかしうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起こさねばいいさ。」皆そんな気持ちで作った。「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

 

小林多喜二蟹工船」を読む22

 「「蟹工船」の後半を掲載した「戦旗」(当時12000部発行)1929(昭和4)年6月号は発売禁止となりましたが、前作の「一九二八年三月十五日」以上の反響を呼び起こしました。

 東京朝日新聞に掲載された「作品と批評」という評論で蔵原惟人は次のように述べています。

 「小林多喜二はその作品の根底に常に何等かの大きな社会問題を置こうとしている。(中略)由来わが国の文学にも社会的な問題をその根底に置いた作品は決して少なくない。しかし、それを客観的な芸術的形象の中に描き得た作品は、ブルジョア文学に於いてはわずかな例外(例えば藤村の『破戒』の如き)でしかなかった。(中略)小林多喜二の『蟹工船』は、その典型的な作品である。

 しかし、集団を描こうとするの余り、個人がその中に埋没してしまう危険がある。(中略)

プロレタリア作家は集団を描くために個人を全然埋没してしまってよいだろうか?」

Weblio辞書―蔵原惟人―不敬罪―宮本顕治・百合子

 この作品は、進歩的な評論家ばかりでなく、広く文壇的にも認められ、8月の読売新聞で、二九年度上半期の最高の作品として、多くの作家、評論家の推薦をうけました。

 「蟹工船」は単行本として戦旗社から日本プロレタリア作家叢書の1冊として出版発売され、発売禁止となりながらも、戦旗社の配布網を通じて短期間に15000部を売りつくしました。北海道でも札幌の維新堂と富貴堂で300部、小樽では稲穂町の丸文書店に立看板を出して発売、2~3日中に100冊も売れたほどでした。

 「蟹工船」を発表した直後、多喜二は小樽警察署に呼び出され、作品中献上品の缶詰に「石ころでも入れておけ!」という文章(「蟹工船」を読む21参照)について取調べを受け、翌年彼は治安維持法で逮捕投獄されたとき、再びこの問題で不敬罪の追起訴を受けました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む23

 多喜二は相次ぐ弾圧でほとんど壊滅した小樽の組合組織の再建に奔走しつつ、「中央公論」と契約して1929(昭和4)年7月6日中編小説「不在地主」を起稿しました。この小説は彼が身近に経験した磯野小作争議(「蟹工船」を読む10~11参照)における農民と労働者の共闘を描いた野心作でした。

 彼はこの小説のほとんど大部分のノート稿を銀行の勤務時間中に執筆、同僚の織田勝恵が彼を助けてくれました。同年9月10日彼は突然銀行の調査係から出納係に左遷されたのです。同年9月29日多喜二は「不在地主」(全集第2巻)を完成、「中央公論」編集部の雨宮庸蔵宛手紙を添えて送稿、同小説は10月19日に発売された「中央公論」11月号に発表されました。

 しかし発表された作品は著者に無断で最後の、物語の最後の舞台が農村から小樽に出て来た農場の小作人代表を加えて、労農争議共同委員会が組織され、争議が白熱化していく場面が省略されていました。

 多喜二は「中央公論」12月号に、削除された箇所を掲載してくれるよう依頼しましたが、容れられなかったので、蔵原惟人に「不在地主」原稿を送るよう「中央公論」編集者に頼み、「戦旗」に発表してもらうよう蔵原に要請、「不在地主」最後の章は「戦い」と題して「戦旗」12月号に掲載されました。

 「不在地主」の発表が直接の原因となって、多喜二は北海道拓殖銀行依願退職の形式で解雇されました。「不在地主」の原稿料は500円で、そのうち250円を母の名義で預金、残金は負債の返済や友人のために使用しました。同小説執筆を援助してくれた織田勝恵には縮緬の反物を贈ったのです。

 失職して彼は生活の不安を切実に感じましたが、そのことよりも、母を落胆させることが何よりつらかったようです。彼は銀行を解雇されたことを母に告げることができず、しばらく、毎朝いつものように背広に着換えて出勤のふりをして家を出ました。

2009/6/21NHKBSⅡ「いのちの記憶 小林多喜二」

 

小林多喜二蟹工船」を読む24

 当時北洋漁業を独占していた三菱系の日魯漁業の子会社北海製缶工場の労働者伊藤信二の助力をうけて、多喜二は1930(昭和5)年2月24日「工場細胞」(全集第3巻)を完成していました。

小樽市へようこそー検索―北海製缶小樽工場

 この作品を書きはじめたころから、彼は上京の決心を固めていましたが、その事には田口タキ(彩子)の問題もからんでいました。

 小樽の中央ホテルで働いていた田口は将来独立できる技術の習得を望んでいたのです。彼女は多喜二と相談して、東京で洋髪の学校に入学することを決め、月々の収入の中から、上京の費用を積み立てていました。

 若竹町の家には、幾春別の幸田夫妻に移住してもらって、店や母たちの面倒をみてもらうことになっていました。

 一方「一九二八年三月十五日」や「蟹工船」はソビエトで訳しはじめられており、「蟹工船」は中国で潘念之によって訳されていました。

 1930(昭和5)年3月末、多喜二は上京、田口の上京を待ちながら、中野区上町の斎藤次郎宅に下宿しました。彼の作品「工場細胞」は「改造」4~6月号に連載されました。

 田口は4月10日ころ上京、多喜二は斉藤次郎宅に近い同じ上町で部屋を借り、田口とともに生活しました。二人にとって幸せな短い一刻であったと思います。彼女は5月1日から洋髪専門の学校、代々木整容学院に入学を予定していました。

 同年5月中旬、戦旗社は戦旗防衛三千円基金募集運動を呼びかけ、さらに防衛講演を東京や関西方面に計画、江口渙、小林多喜二中野重治大宅壮一らを関西に派遣しました。講演会は京都を」はじめ大阪、山田、松阪(三重)の各地で開催されたのですが、5月23日多喜二も、他の同志とともに逮捕され、大阪島之内署に留置されました。

 これは5月20日に始まった警視庁による東京の戦旗社に対する捜索と逮捕の一環で、共産党への活動資金の援助をした学者、作家グループの検挙でした。

 多喜二は島之内署でひどい拷問をうけ、6月7日いったん釈放、4~5日後に帰京しました。田口は多喜二が関西へ旅立った後、代々木整容学院の寄宿舎に入っていました。

 しかし多喜二は6月24日再び警視庁特高に逮捕され、治安維持法違反で起訴をうけ、「蟹工船」記述内容による不敬罪の追起訴処分となったことは既述の通りです(「蟹工船」を読む22参照)。

 

小林多喜二蟹工船」を読む25

 1930(昭和5)年8月21日、多喜二は豊多摩刑務所(中野刑務所)に収容されました。

その独房はT字型の赤れんが建ての「南房」階上にあり、鉄格子のはまった高い小さな窓にすりガラスの回転窓がついていました。房は板敷で二畳の広さがあり、縁のない畳が一畳入っていて、その他日常生活に必要な最低限度の備品が備えられておりました。彼はここで63番と呼ばれていました。

なかの写真資料館―旧中野刑務所

 弟の三吾や田口などが、面会にきてくれました。田口は9月末に整容学院を卒業していましたが、頼りにしていた多喜二の思いがけない逮捕によって、様子もわからず、途方に暮れるばかりでした。獄中からの多喜二の手紙をもらっても、彼女は返事を書いていいのか迷ったようです。彼女がはじめて面会にいったのは同年10月半ばを過ぎたころでした。田口は学校を出て、そこの助手を勤め、住み込みで3円の手当をもらっていました。

 彼は田口に東京で不安定な生活をするより、小樽に帰って、若竹町の彼の自宅で母セキと一緒に暮すよう、しきりにすすめました。

 また彼はそのころ奈良に住んでいた志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)に手紙(同年12月13日付書簡 全集第7巻)を書いています。大阪で検挙されなかったら、彼はまだ一度も会ったことのない志賀直哉を奈良に訪問する積りだったのです。

 田口は同年12月27日義父が突然死去したという知らせをうけ、小樽へ帰りました。再婚してから、田口の母は3人の幼い子供を抱えていました。妹のミツは小樽の中央ホテルで働いていましたが、義父の死によって、母と4人の弟妹たちの生活が急に田口の肩にのしかかってきたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む26

 1931(昭和6)年1月22日午後9時半過ぎ、多喜二は豊多摩刑務所から保釈出獄しました。刑務所の門前で、弟三吾斎藤次郎壷井栄らが彼の出獄を出迎えました。

 多喜二の出獄を知ると、田口は妹のミツを連れて2月中旬小樽から上京、彼は田口に結婚の同意をもとめました。しかし彼女は意外にも彼の申し出を承諾しませんでした。

 彼女は彼を深く愛していただけでなく、、尊敬を含めた気持を持っていたのですが、思いがけない義父の死去によって、彼女が多喜二と結婚すれば、彼の生涯と仕事の上に、はかりしれない負担をかけると思ったからです。

 3月になると田口は本郷湯島に三畳の部屋を借りて妹と同居し、丸ノ内の常盤屋という料理店に勤務しました。せっかく習った洋髪の技術も、切迫した田口一家の家計を支える役には立たなかったようです。

 同年5月24日日本プロレタリア作家同盟第3回大会が築地小劇場で開催されましたが、同大会が終了してまもなく、多喜之は小樽若竹町の自宅へ帰りました。東京に家をもって、母をひきとりたいとかねて思っていたので、その打ち合わせのための帰省でした。

 帰京後の7月11日、日本プロレタリア作家同盟第1回執行委員会で、委員長江口渙、書記長に小林多喜二が選出されましたが、同月末杉並区馬橋3―375の借家に母セキ、弟三吾と住むことになりました。

 多喜二の母が上京する10日ほど以前に、田口の母も幼い子供を連れて上京していました。田口は少しでも収入を多くするために、丸ノ内の店をやめ、品川の鳥料理屋に勤め、妹も銀座のフランス料理店で働きました。田口一家7人は神田で六畳の部屋を借りて生活していたのです。多喜二はときどき訪ねてはみたのですが、田口とはほとんど会うこともできませんでした。

 作家同盟では創作の題材が限られ、類型化している傾向が指摘されていました。蔵原惟人はナップ機関誌「ナップ」9~10月号の「芸術的方法についての感想」と題する論文を谷本清の署名で発表、プロレタリア作家の作品を批評し、小林多喜二の作品について「工場細胞」などの創作が共通した問題に触れ、、作家が傍観者としてとどまることなく、現実の深い理解者となることが必要であると指摘しました。

 この蔵原の評論を原稿で読んだ多喜二は深い感銘を受け、彼は「ナップ」10月号から長編小説「転形期の人々」(全集第4巻)を連載しはじめました。

 同年9月18日満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)が起こって軍部による中国への侵略戦争が起こされ、ファシズム勢力の台頭に対する国際的な民主的統一戦線の結成が急務となりました。

 同年10月。彼は非合法の日本共産党[「労働運動二十年」を読む24参照、1922年11月コミンテルン(「蟹工船」を読む27参照)第4回大会で日本支部として承認]に入党し、作家同盟の党グループに参加して活動するようになりました。11月初め多喜二は奈良の志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)を訪ねました。プロレタリア作家として活躍するようになってからも、彼は志賀直哉に対して深い親しみと敬意をもちつづけ、著書を送って批評を乞うたりしていましたが、直接訪問したのはこの時がはじめてでした。

奈良学園セミナーハウス 志賀直哉旧居

 後に志賀直哉は、この日の多喜二を次のように語っています。「彼は実に暢気に話をして行ったよ。あの人は何も道楽がなく、将棋も麻雀(マージャン)もやれないといふので、仕方がないから一緒にあやめが池の遊園地へ遊びに行ったよ。僕はその時子供を連れて行ったが(中略)、木柵に凭れて、小林君は何かしら元気に子供の相手になったり、僕に話しかけたりしていたのが今でも目に見えるやうだ。(中略)ここへ来た時も、僕の話を黙ってきいて、少しも自分から理屈を言ったり、「批判」をやったりしなかった。(中略)それまで抱いてゐたプロレタリア作家というものにたいする僕の考えをすっかりなほしてくれたような人だ。」(「志賀直哉の文学縦横談」志賀直哉全集第14巻 岩波書店

 

小林多喜二蟹工船」を読む27

 

 1932(昭和7)年3月末ころ、多喜二は作家同盟第5回大会の一般報告「プロレタリア文学運動の当面の諸情勢及びその立ち遅れ克服のために」(全集第6巻)を杉並区馬橋の自宅で執筆していましたが、4月上旬宮本顕治・百合子夫妻を訪問している間に、馬橋の自宅が特高の捜査をうけたことを知り、のちに多喜二が結婚する伊藤ふじ子の紹介により、小石川区原町の木崎喜代方に移り、逮捕ををまぬがれ、地下活動に入りました。

 4月20日ころ、「プロレタリア文学」4月号の巻頭論文「第五回大会を前にして」(全集第6巻)を書きあげた後、多喜二は10日ばかり世話になった小石川区原町の家から麻布東町称名寺という寺の境内にある二階家の一室を借りてひそかに移り住みました。その隠れ家は上下一間ずつの家で、二階には家主の母子が住み、彼が借りた階下の5畳の部屋は一日中日光のはいらない陰気なところでした。彼は地下活動に入ってまもなく、伊藤ふじ子(沢地久枝「完本 昭和史のおんな」文芸春秋)と結婚して同棲しました。

 伊藤とは1931(昭和6)年の春ころからの知り合いで、彼女は画を学び、刺繍の仕事などもしていましたが、そのころ銀座の図案社に勤務していました。

 彼女のわずかな給料が、しばらく多喜二の地下活動をささえたのです。

 この後五、一五事件が起り、政党内閣最後の首相となった犬養毅が暗殺されました(「花々と星々と」を読む39~40)参照)。

 一方同年7月10日非合法下の日本共産党機関紙「赤旗」特別号はコミンテルン「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(河上肇訳32年テーゼ)を発表し(「現代史資料」14 社会主義運動1 みすず書房)、日本の天皇制封建遺制を分析、帝国主義戦争と天皇制に対する闘争を強調し、革命の性格が社会主義革命へ強行転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命であると主張しました。

独学ノートー単語検索―コミンテルン(第三インターナショナル)―河上肇

 この32年テーゼ(ドイツ語these 肯定的な主張)を現代の視点でみると、ソ連社会主義の理想化とロシア革命のパターンの日本への適用ではなかったのかと思います。

 日本の支配層はロシアのツァーを頂点とする専制支配者ほど頑迷ではなく、天皇を王道(力ではなく徳をもって治めるという中国の政治思想)の実現者とする古くからあった日本的尊王思想をもって、天皇を国民的統一の基軸とし、憲法を制定、議会を開設して、徐々に国民の意向聴取を拡大しつつ、不十分な民主化ではあったが、大正末期には政党内閣の慣例を確立するに至っていました。

 そして国民に対しては、天皇は国民を我が子のように慈しむという家族国家観(石田雄「家族国家観の構造と機能」明治政治思想史研究 未来社)の教育を確立していたのです。

 日本共産党はこの時点で、共産主義者ではない異なった思想信条を持つ人々とともに、軍部独裁と戦争への道に反対し、天皇制の下における民主的諸権利の拡大と平和を守るための民主統一戦線の結成に尽力すべきであったのです。

 日本共産党結党直後のコミンテルン及び同党内には上記のような統一戦線方針を重視する人々も居なかったわけではありません(松尾尊允「大正デモクラシー」第8章4 日本共産党と普選問題 岩波書店)が、32年テーゼ決定に参加した当時の日本共産党指導者たちはコミンテルンの圧倒的権威を前にして、未熟にも同テーゼを承服せざるを得なかったのでしょう。

 「帝国主義戦争の内乱への転化」とか「天皇制の転覆」などのスローガンは、日本の国民大衆にはなじめないもので、結局大部分の国民から孤立していかざるを得なかったのです。

 権力による弾圧と特高が党内に送りこんだスパイによって、党組織が壊滅していったのも、大部分の国民から孤立した組織であったために、スパイに撹乱されやすかったのではないでしょうか。

 

 

小林多喜二蟹工船」を読む28

 1932(昭和7)年7月、多気二は東町の隠れ家から比較的近い新網町へ移動しました。そこはにぎやかな商店街の裏の住宅地にある素人下宿で、三方がガラス障子になっており、西日をまともにうけ、トタン屋根の照り返しのきびしい二階の6畳の部屋でした。

 彼は七輪や炭箱などを物干台の片隅に並べて、炊事を二階でしていました。押し入れには不意に襲われたときの用意に草履を置き、屋根伝いに逃げるためで、大型トランクに一切の書籍や原稿等を入れて、連絡や会合で外出するときは、必ず施錠して出掛けました。

 彼はここに引っ越してから、間もなく中編小説「党生活者」(全集第4巻)の執筆をはじめ、最後の原稿を「中央公論」編集部におくったのは、同年8月25日でした。作品の内容と当時の事情から「中央公論」編集部はこの小説の発表を延期、多気二は予定の稿料の一部しか入手できませんでした。

 地下活動に入った後も、多気二は田口タキを訪問していますが、話が出来ないと弟の三吾に手紙(1932.8.20日付書簡 全集第7巻)をかいています。

 同年9月下旬、多気二は新網町の二階から、同区桜田町に一軒の小さな二階家を借りて移住、まもなく伊藤の母を郷里の静岡から呼び寄せ、かなり安定した隠れ家をもつことができました。しかし1933(昭和8)年1月10日ころ。伊藤ふじこが突然銀座の勤務先で逮捕、翌日の早朝、桜田町の隠れ家は数人の特高刑事に踏み込まれ、家宅捜索をうけました。多気二は用心して、数日前から他に泊っており、その日早朝連絡を済まして、特高が引き揚げた直後に帰宅したのでした。

 このような事情で彼は同年1月20日ころ、渋谷区羽沢町の国井喜三郎方の一室を借りて移転しました。伊藤ふじ子は2週間後に釈放されましたが、ふじ子との関係をたどって捜査される危険があり、その後多気二は伊藤と生活をともにすることはありませんでした。

北海道は素敵です!!―私は伊藤ふじ子が好き!!

 彼の最後の住居となった羽沢町の家は、彼の地下活動をひそかに援助してくれた村山籌子のはからいによるもので、国井家の主人は勤務先を仙台に持つ商工省の工芸関係の技官で当時海外出張中でした。同氏夫人は仙台の官舎に出掛けて不在のことが多く、婦人雑誌社に勤務していた長女が女と子供だけの家庭をきりまわしていました。村山籌子はこの人と親しかったのです。

 多喜二は新聞広告を見て訪れ、山野次郎という簿記の先生のふれこみで下宿しました。彼の荷物は大型トランク2個だけでしたが、それとなく事情を知った長女のひそかなこころづくしもあって、家中のあたかい親身なもてなしをうけました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む29

 1933(昭和8)年2月20日正午過ぎ、多喜二は赤坂福吉町の飲食店で今村恒夫とおちあい、共産青年同盟の指導部にいた三船留吉と時間をかけて会合をもつ予定でした。彼はまもなく今村とその店を出て、、今村の案内で待合街の路地を溜池の方へ歩いていきました。多喜二は変装用のロイド眼鏡をかけ、鼠色のソフトをかぶり、大島銘仙の着物に二重廻し(男性用の外套の一種、インバネスともいう)を着ていました。三船との連絡場所は近くの飲食店で、二人は約束の時刻にその店に入ると、そこには三船の姿はなく。築地警察署の特高刑事が張り込んでいました。後に分かったことですが、三船留吉は前年10月の一斉検挙後、地下組織に入り込んだ秘密警察のスパイの一人でした。

 二人は電車通りをめざして逃れようとしました。追跡する特高たちは「泥棒!」「泥棒!」と連呼、通行人や街の人たちの協力を求めたのです。「泥棒!」の叫び声に応じて、街角近くのガレージから、数名の屈強の男が飛び出して多喜二に襲いかかり、今村も自転車で追跡してきた特高に体当たりされて逮捕されました。

 関係者の証言によると、多喜二が虐殺されるまでの経過は次のような事情であったようです。

 築地署へ連行された多喜二は、はじめ自分は山野次郎だと言い張ったのですが、顔見知りの特高主任から、写真をつきつけられて本名を明かし、今村に『おい、もうこうなっては仕方がない。お互いに元気でやろうぜ』と声に力をこめて言い放ちました。それを聞いた特高は『何を生意気な』と云って、多喜二を寒中まるはだかにして、握り太のステッキでなぐりかかりました。

 二人はそれぞれ別室に連れていかれ、多喜二に対する残虐きわまる拷問は前後3時間以上に及び、彼がほとんど無意識状態になるまで続けられました。

 夕方同署第三檻房に投げ込まれた多喜二は大変苦しみ、やがて危篤状態となったので、保護室で医師が注射したらしく、担架で同署裏の前田病院に運ばれましたが、まもなく午後7時45分彼は絶命しました。

 特高警察は検事局と協議、翌2月21日午後3時ころ特別放送で心臓麻痺によるとする彼の急逝を発表、各紙夕刊も一斉に報道しました。

  小林多喜二急逝の報道は友人や同志におおきな衝撃を与えました。彼等は多喜二の母、弟の三吾と医師、弁護士の立会いで引き取りの交渉をすることにしたのですが、多喜二の母セキは孫をネンネコで背負って築地署に赴き(小林セキ述「前掲書」)、少し遅れて親戚の小林市司とともに、二人は同署特高室に入りました。同署は集まって来る友人や同志たちの入室を一切受け付けませんでした。

午後9時になって多喜二の母らはようやく前田病院に案内され、白布に包まれた多喜二の遺体を収容した寝台自動車は多喜二の母らも乗せて動き出しました。自動車は午後10時すぎようやく馬橋の小林宅に到着、やがて安田徳太郎

博士の指導の下死体の検査が始まりました。

Weblio辞書―安田徳太郎

 その凄惨極まりない遺体の状況の詳細は、手塚英孝「前掲書」下に記録されていますので、ご覧になってください。

 作家同盟などの友人や同志たちが次第につめかけ、その中にまじって田口タキと妹のミツもかけつけていました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む30(最終回)

 翌日の2月22日、前日から相談されていた遺体の解剖をすることになりました。心臓麻痺という検察当局の発表に対する真相の科学的実証が必要とかんがえられたからです。

 午前中佐々木孝丸と安田博士が大学病院と交渉しましたが、帝大と慶応大病院には当局の手廻しがあったらしく断られ、慈恵医科大病院は一旦解剖を引き受けたものの、後に拒絶してきました。

 一方警視庁と杉並署は多喜二宅近くの空き地に警戒本部を設置して警官が同家を包囲、葬儀、通夜に親戚以外の参集を許さぬと通告、家の中から近親者以外を追い出し、弔問にくる人たちを検束しはじめました。

 2月23日も弔問者は家に近づくこともできませんでした。弔電は前日からひっきりなしに届き、奈良の志賀直哉からも弔文(昭和8年2月24日 日記 志賀直哉全集第11巻)が届きました。

 告別式は予定通り同日午後2時から行われました。参列者は多喜二母セキ、弟三吾、田口タキと妹、江口渙ら13人で、江口渙が司会者として故人の生涯と業績について語ろうとしたのですが、言葉半ばでつづけることができませんでした。

 午後3時すぎ多喜二の柩は杉並区堀の内の火葬場に向いましたが、警視庁と杉並署の特高は火葬場の入口まで警戒を解かなかったのです。

  多喜二の死を知って、志賀直哉は同年2月25日の日記(志賀直哉全集第11巻)に「アンタンたる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と書いています。

 その後の田口タキの人生については、小林セキ述「前掲書」をご覧下さい。

あの人の人生を知ろうー文学者編―小林多喜二

 3月18日~30日まで小林多喜二創作「沼尻村」(全集第4巻)が追悼公演として築地小劇場で(大沢幹夫脚色・岡倉士郎演出)新築地劇団によって上演されました。

 中国の作家魯迅は次のような弔詞をよせてきました。「日本と中国との大衆はもとより兄弟である。(中略)我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」

 最近小林多喜二の代表作の一つ「蟹工船」が若い人々を中心によく読まれて

いるようです。ブラック企業で過重労働に従事する人々や非正規労働者の劣悪な労働条件は「蟹工船」に描写された労働者の実態が決して過去のものではないことを示しています。多喜二はこの作品を通じて、現代の若者を励ましているように思われます。。

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小林多喜二「蟹工船」を読む11~20

小林多喜二蟹工船」を読む11

1927(昭和2)年3月3日小作人代表伴利八・阿部亀之助ら15名は約200名の労組員の出迎えを受けて小樽駅に到着、吹雪の中を赤だすきをかけた小作人代表を先頭にして、磯野店や商業会議所へデモ行進しました。争議団は労農共同闘争委員会を組織、同月6日争議の経過と実情を述べた「市民に訴う」というビラを全市に配布し、7日には磯野争議真相発表演説会を開催、警察官との乱闘騒ぎまで起りました。小作人代表は磯野との交渉を要求しましたが、地主側は組合幹部の立会を拒絶、小作人代表との会見を拒否し続けました。

 同月14日夜、本願寺説教所で、地主糾弾の2回目の演説会が労働農民党小樽支部、小作争議共同委、小樽合同労組、日農北海道連合会主催で開催されました。

 このときの様子を小林多喜二は「折々帳」(日記 全集第7巻)で次のように述べています。「磯野進の小作争議の演説を聞こうとして行ってみたところ、何十人という巡査が表に居り、入場を拒絶している。外では沢山の人達が立ち去りもしないで、興奮し、官憲とブルジョワの横暴をならしていた。(中略)皆目覚めているのだ。自分も興奮して帰ってきた。」

まもなく彼は争議の中心的指導者の一人であった武内清の要請に応じて、「北海タイムス」(「北門新報」の後継紙)小樽支社に勤務していた寺田行雄の紹介で秘かに会い、北海道拓殖銀行で収集できる磯野側の情報を提供する役を引き受けました。

 同年3月30日磯野は市会議員中島親平の調停に応じ、労組、農組代表、市会議員、弁護士、新聞記者らの立会の下、交渉の開始を争議団に申し入れました。交渉は3回あり、最後の4月8日は午前9時より24時間連続した交渉の結果、争議は小作人側の要求の大半を認めて解決しました。

 この争議中、多喜二は応援にきた函館合同労働組合や小樽の労働農民党との話し合いの席で、函館の安田銀行支店に勤務する高商の同期生乗富道夫の消息を久しぶりに知ることができました。乗富は労働農民党に入党し、函館の組合とも関係があり、産業労働調査所の仕事にも熱心に従事していました。

Weblio辞書―産業労働調査所―労働農民党―芥川龍之介―里見弴

 安田銀行函館支店は、ソビエト国営トラスト函館支社との取引関係があり、乗富は北洋漁業に深い関心をもち、北洋漁業の調査研究で知られるようになっていました。

 同年5月20日多喜二ら「クラルテ」同人は、改造社主催の文芸講演で北海道に来た芥川龍之介と里見弴を小樽妙見町の料理屋「新中島」に招き、歓迎座談会を開いて

います。

小野病院に住んで働いていた田口タキとは、ときどき映画をみたり、散歩をしたり、手紙のやりとりをしたりしていましたが、同年5月28日タキはまた一通の手紙を残して、小野病院から姿を消しました。前日タキから電話があって、二人で寿司を食べ小樽公園を散歩したのに、タキに別段変った様子はみられなかったのです。

 6月1日になって、多喜二はようやくタキの荷物を預かった便利屋(運送屋)を探し出し、タキが5月28日の朝一番列車で室蘭へ立ったことを知りました。

 内省的なタキの心には自己卑下があり、結婚など彼を不幸に陥れるだけで到底考えることも出来ないことであったようです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む12

1926(大正15)年、蟹工船秩父丸の遭難事件や博愛丸と英航丸で起きた漁夫や雑夫の虐待事件が「小樽新聞」や「北海タイムス」で大きく報道され、社会問題になっていました。

 秩父丸は同年4月26日北千島の幌莚島沖で暴風雨に遭って坐礁、254人中170人が行方不明になりました。しかも同月17日秩父丸と前後して函館を出港して、近くを航行していた英航丸や2、3の蟹工船は救助信号を受けながら救助に赴かなかったのです。

 「小樽新聞」は5月2日号で「英航丸が見て見ぬ振り、同船が救助していたらこの惨事は起らぬ」、また同月6日号に「秩父丸の遭難に醜い稼業敵、救助信号を受けながら知らぬ顔の蟹工船」という見出しで、この事件を糾弾しました。

 同年9月には博愛丸や英航丸の漁夫、雑夫の虐待事件が詳しく報ぜられました。

 仮病とみなされた病人の雑夫をウインチ(物体の上げ下ろし、運搬、引っ張り作業などに使用するもので、巻き揚げ機ともよばれる)で高くつりあげるとか、麻縄で旋盤の鉄柱に縛り付け、胸に「この者仮病につき縄を解く事を禁ず、工場長」とボール紙に書いて結びつけ、一杯の水も与えなかったことや、仕事場で監督たちが棍棒や青竹を持って監視、欠伸をしたり、ちょっとでも手を休めると殴りつけ、酷使に疲れ果てた漁夫を縛り上げて、アルコールを浸した綿に火をつけ、股間にほうりこんだりする惨状を、「この世ながらの生地獄」「あくび一つに唸り飛ぶ棍棒」などの見出しで報道されました。

戦時下に喪われた日本の商船―昭和20年1-6月―0618博愛丸

 秩父丸の救助信号を無視した英航丸では虐待のため脱走をはかった4人の雑夫を監督たちが鉄の蟹かきで半殺しにした事件が原因で自然発生的なストライキが起こりました。

 「北海タイムス」9月13日号に「各蟹工船内は恰も闘牛場の観あり」という水産講習所の調査報告を掲載していましたが、上述のような漁業労働者の闘争について詳細には報道していません。

 多喜二は1927(昭和2)年3月以来、拓殖銀行の資料用の新聞から関係記事の切り張りをしたり、また土曜から日曜にかけて、函館の乗富道夫を訪ね、乗富の案内で停泊中の蟹工船の実地調査で、蟹工船の漁夫と直接会って話を聞き、漁業労働組合の人たちからも多くの具体的知識を得ました。長年北洋漁業の資料の収集と調査をしていた乗富の援助によって、多喜二はその調査を正確に深めることに役立ったのです。

 1920(大正9)年から始まった北洋漁業蟹工船は缶詰工場の設備を持つ母船を中心に、川崎船とよばれる小型漁船でとった蟹を缶詰にする海の移動缶詰工場の船でありました。1925((大正14)年ころになると蟹工船は大型化し、1500トン前後の中古船を改造、なかには病院船を改造(例 博愛丸)したものもありました。

 このような蟹工船は1926(大正15)年には12隻、翌年には18隻となり、生産高も1926年23万箱、1927年には33万箱に増加しました。

 当時の北洋漁業は日魯漁業と大洋漁業の独占化がすすみ、1928(昭和3)年「日ソ業業条約」(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)成立以前は漁業権を巡ってソビエト政権との間に複雑な対立があり、12海里を領海とするソビエト法を無視、日本は3海里外は公海として、海防艦の護衛により蟹漁業が行われていたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む13

 1928(昭和3)年1月21日衆議院解散、多喜二は働農民党から北海道一区立候補の非合法日本共産党員山本懸蔵を応援 東倶知安方面の演説に参加、2月20日、第16回総選挙(最初の普通選挙)が実施されました。その結果無産政党は約48万票を獲得、8人の当選者を出し、うち労働農民党は山本宣治ら2人が当選しました。

 同年3月15日、田中義一内閣は共産党員の大検挙(3.15事件)を実施、488人が治安維持法違反で起訴される情勢の中、同年3月25日全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、同年5月ナップは機関誌「戦旗」を創刊しました。小樽でもナップ支部が発足、多喜二は支部書記として機関誌配布の責任者になりました。

 同年6月29日、緊急勅令により、政府は治安維持法を改め、死刑・無期刑を追加、7月3日には、未設置の全県警察部に思想犯を取り締まる特別高等(特高)課を設置するに至りました。

 同年5月26日多喜二は中編小説「一九二八年三月十五日」(全集第2巻)を起稿(「戦旗」の同年11・12月号に掲載、発禁となったが、秘かに配布される)、7月多喜二は銀行為替係から調査係へ異動、8月17日同上小説を完成し、つづいて10月28日中編小説「蟹工船」を起稿、翌年3月30日同小説を書き上げました。

 1929(昭和4)年4月16日政府(田中義一内閣)は前年に続いて共産党員大検挙を実施(4.16事件)、党組織は壊滅的打撃をうけました。

Weblio辞書―三.一五事件―四.一六事件―山本宣治

 同年4月20日早朝、若竹町の多喜二の自宅が家宅捜査を受け、彼自身も小樽警察署に拘引されましたが、その日のうちに釈放されました。

 同年5月14日の夕方、多喜二は田口タキと再会することができました。タキははじめ室蘭に赴いたのですが、やがて札幌に行って病院の見習看護婦として住み込み、またひそかに小樽にもどり、名も彩子と改め、小樽駅前通りの中央ホテルに住み込んで3階の部屋係を勤めていたのです。

 そのようなタキの消息を多喜二は知ってはいましたが、ホテルへ直接彼女を訪ねていくことには、なんとなく気おくれを感じていました。その日彼は友人と駅前通りを歩きながら、ホテルの前にさしかかると、偶然ホテルの入口にたたずむタキを見つけたのでした。

 同年5月16日の手紙(書簡 全集第7巻)で彼はつぎのように述べています。「この前の夜は、又私達には忘れることの出来ない日になった。彩子ちゃんも、こんな事が、二度あるとは思っていなかったと云った。(中略)お互いにそう変わっていないので、本当に嬉しかった。

 僕のしている仕事、(中略)僕はそのためには一生さえ捧げている積りなのだ。-だから、何時僕は彩子ちゃんの前から居なくならなければならないかも知れないのだ。(中略)外に出ることがあったら、何時でも電話をかけて下さい。僕たちのやっていること(中略)是非分ってもらいたい。(中略)

 彩子ちゃんは、誰にも頼って生きていない。(中略)僕はどんな処にいようが、彩子ちゃんをしっかりと信じることが出来るのだ。-常に困難を切り開いて前進しようー僕も」

 

小林多喜二蟹工船」を読む14

 小説「蟹工船」は、1929(昭和4)年の「戦旗」5、6月号に発表されました。この小説(新日本文庫・全集第2巻)は次のような言葉から始まります。

 「おい、地獄さ、行(え)ぐんだで!」

 函館港に停泊する蟹工船「博光丸」に雇われた漁夫たちの様々な生態が描写され、彼等に対して監督が次のように訓示する。「一寸(ちょっと)云って置く。(中略)この蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲(もうけ)仕事と見るべきではなく、(中略)我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの闘いだ(な)んだ。

(中略)日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだ(中略)。だからこそ(中略)我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。-それを今流行(はや)りの露助の真似をして、とんでもないことをケシかけるものがあるとしたら、(中略)日本帝国を売るものだ。よツく覚えておいて貰うことにする。」

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 函館を出港した博光丸は宗谷海峡に入ったころから、烈しい時化に襲われた。

 船長室に無電係があわててかけ込んできた。「船長、大変です。S,O,Sです。」「S,O,S?―何船だ!?」「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです。」

 「ボロ船だ、それァ!」浅川(監督)が雨合羽を着たまま、隅の方の椅子に腰をかけていた。

 船長は舵機室に上がるため急いでドアを開けようとした。いきなり浅川が船長の右肩をつかんだ。「余計な寄道せって誰が命令したんだ。」「船長としてだ。」

 船長の前に立ちはだかった監督が侮辱した調子で抑えつけた。「おい、一体これァ誰の船だんだ。会社が傭船してるんだで、金を払って。ものを云るのァ会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ糞場の紙位えの価値もねえんだど。―あんなものにかかわてみろ。一週間もフイになっるんだ。」

 船長は咽喉へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいた。

 

小林多喜二蟹工船」を読む15

 霧雨にボカされたカムサッカの沿線が八ッ目鰻のように延びて見えた。沖合四浬のところに博光丸が碇を下した。-三浬までロシアの領海なので、、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた。」

 網さばきが終って、何時からでも蟹漁が出来る準備が出来た。カムサッカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入ってゴロ寝をした。

 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。監督は漁夫たちを見廻って、風邪をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。

 風はなかったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木(すりこぎ)のように感覚が無くなった。

 雑夫長が十四、五人の雑夫を工場に追いこんでいた。彼の持っている竹の先には皮がついていた。それは工場で怠けているものを機械の枠越しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように造られていた。

 スチームでウインチが廻り出し、川崎船は一斉に降りはじめた。昼過ぎから、空の模様が変わってきて、薄い海霧(ガス)が一面に淡くかかった。

Weblio辞書―川崎船

 煙突の警笛が荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。-遠く本船を離れて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化を犯して帰ってくるのだった。

 薄暗い機関室の降り口で、漁夫と水夫が騒いでいた。「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」

 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れた処に投錨していた××丸から「突風」の警戒報を受け取っていた。それには若し川崎船が出ていたら、至急呼び戻すように附け加えられていた。その時「こんな事に一々ビクビクしていたら、このカムサスカまでワザワザ来て仕事なんて出来るかい。」-そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。それを聞いた最初の漁夫は怒鳴った。「人間の命を何だって思ってやがるんだ。」「人間の命?」「そうよ」「所が、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ。」

 

小林多喜二蟹工船」を読む16

 夕方になる迄に川崎船は二艘を残してそれでも全部帰ってくることが出来た。一艘は水船になってしまったために漁夫が別の川崎船に移って帰ってきたが、他の一艘は漁夫共に全然行方不明となった。

 翌日、川崎船の捜索かたがた、蟹の後を追って、本船が移動することになった。「人間の五、六匹何でもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。

 九時近いころになって、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。が、それは探していた第一号ではなく、もっと新しい第36号と番号の打たれているものだった。明らかに××丸のものらしかった。第36川崎船はウインチで博光丸のブリッジに引きあげられた。監督は大工を呼んだ。「何です。」「カンナ、カンナ」

 -川崎船の第36号の「3」がカンナで削り落されて、「第六号川崎船」になってしまった。「これでよし。うッはァ、様(ざま)見やがれ!」監督は哄笑した。

 漁夫達は行方不明になった仲間の荷物などを調べたりして万一の時にすぐ処置できるように取り纏めた。北海道の奥地で色々なことをやってきたという男が低い声で「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔(とむら)い合戦をやるんだ。」と云った。「奴、一人位タタキ落とせるべよ。」

 博光丸が元の位置に帰ってから三日して突然(!)その行方不明になっていた川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。

釧路市HP―市立博物館―常設展―2階―釧路の近世・近代1-川崎船

 大暴風雨の次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサッカの岸に打ち上げられていた。そして近所のロシア人に救われたのだった。

 難破のことが知れると、村の人達が沢山集って来た。丁度帰る日にロシア人が四、五人やって来て、中に支那人が一人交じっていた。赤い鬚の男が大声で手振りをして話し始めた。支那人が日本語をしゃべり出したが、それは順序の狂った日本語で、言葉と言葉が酔っ払いのようによろめいていた。

 「貴方々、プロレタリア。-分る?」「うん」

(今度は逆に、胸を張って威張ってみせる)働かない人、これ。-分る?」

「ロシア、働かない人いない。-分る?」

彼等は漠然とこれが「恐ろしい」「赤化」というものではなかろうか、と考えた。が、然し何よりグイ、グイ引きつけられていった。

「プロレタリア、貴方々、みんな、これ(子供のお手々つないでの真似)強くなる。大丈夫。分る?」「ん、ん!」

漁夫達は「糞壺」(漁夫の居室)の入口に時々眼をやり、その話をもっともっとうながした。

 

小林多喜二蟹工船」を読む17

 無電係は、他の船の交換している無電を聞いて、その収獲を一々監督に知らせた。それによると、本船はどうしても負けているらしい事が分って、監督はアセリ出した。監督や雑夫長はわざと「船員」と「漁夫、雑夫」の間に、仕事の上で競争させるように仕組んだ。

 同じ蟹つぶしをしていながら、「船員に負けた」となると、(自分の儲けになる仕事でもないのに、)漁夫や雑夫は「何に糞ッ!」という気になる。監督は「手を打って」喜んだ。

 然し五日、六日になると、両方とも気抜けしたように、仕事の高が減って行った。監督は、今度は勝った組に「賞品」を出すことを始めた。監督は「賞品」の外に、逆に、一番働きの少ないものに「焼き」を入れることを貼紙した。鉄棒を真赤に焼いて、それを身体にそのまま当てることだった。彼等は「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。仕事が尻上りに目盛をあげて行った。

 皆は夕飯が終って、「糞壺」の真ん中に一つ取りつけてある、割目が地図のようにはいっているガタガタのストーヴに寄っていた。お互いの身体から少し温ってくると、湯気が立った。蟹の生ッ臭い匂いがムレて、ムッと鼻に来た。

 「カムサッカで死にたくないなー。」「中積船、函館ば出たとよ。―無電係の人云ってた。」

海外の万国反応記―検索―カムチャッカ半島―海外の反応―質問雑談―2014年9月26日―海外「ロシアの最東端、カムチャッカ半島には一体何があるんだ?」

 「帰りてえな。」「帰れるもんか。」「中積船でヨク逃げる奴がいるってな。」「んか!?-ええな。」

 「漁に出る振りして、カムサッカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやっているものもいるッてな。」

 学生あがりの漁夫があくびをしながら、ゴシゴシ胸を掻いた。垢が乾いて薄い雲母のように剥げてきた。

 「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺もー。」この漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。北海道の労働者達には「工場」とは想像もつかない「立派な処」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ。」と云った。

 お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭く汚れて仕様がなかった。然し1週間もすると、、三日置きになり、1箇月経つと1週間一度、、そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費を防ぐためだった。然し船長や監督は毎日お湯に入った。それは 濫費にならなかった。

 身体が蟹の汁で汚れて、それがそのまま何日も続く。それで虱や南京虫が湧かない筈がなかった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む18

 

  こちらから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊しあげられて居る雑夫が、ハッキリ黒く浮び出て見えた。

 ウインチに吊るされた雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている口から、泡を出していた。大工が行った時、雑夫長が薪を脇にはさんで、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな。大工は薪をちらっと見た。

 漁夫達は何日も続く過労のため、だんだん朝起られなくなっていた。「どうしたんだ。タタキ起こすど!」

 病人は皆布団を剥ぎとられて、甲板へ押し出された。学生上りの雑夫が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていたが、そのまま横倒しに、後ろへ倒れてしまった。仲間があわてて、彼をハッチに連れて行こうとした。

シートラスト株式会社―カニを知る

 監督が口笛を吹きながら工場へ降りてきた。「誰が仕事を離れったんだ!」

 「誰が!?―」思わずグッときた一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。「誰がァー? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり廻した。それから急に大声で笑いだした。「水を持って来い!」

 監督は桶一杯の水を、床に横たわっている学生あがりの雑夫に浴びせた。

 次の朝、雑夫が工場に降りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生上りの雑夫が縛りつけられているのを見た。首をガクリ胸に落とし込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露わに見せていた。そして子供の前掛けのように、監督の筆致で「此ノ者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄ヲ解クコトヲ禁ズ。」と書いたボール紙を吊るしていた。

 皆が仕舞かけると、「今日は九時迄だ。」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞だッて云う時だけ、手廻わしを早くしやがって!」

 朝だった。タラップをノロノロ降りながら、炭山から来た男が「とても続かねえや。」と云った。前の日は十時近くまでやって、身体は壊れかかった機械のようにギクギクしていた。

 「俺ァ仕事サボるんだ。」「ずるけてサボるんでねえんだ。働けねえからだよ。」

 その日監督は、鶏冠(とさか)をピンと立てた喧嘩鶏のように工場を廻って歩き、怒鳴り散らした。がノロノロ仕事をしているのが一人や二人でなしに、あっちでもこっちでもーほとんど全部なので、ただイライラ歩き廻ることしか出来なかった。監督の棍棒が何の役にも立たない!

 それが船員や漁夫にも移っていった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む19

 「中積船だ! 中積船だ!」上甲板で叫んでいるのが下迄聞えた。中積船は何カ月も何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂いがしていた。

 彼等は「糞壺」の棚に大きく安坐(あぐら)をかいて荷物を解いた。彼等はその何処からでも、陸にある「自家(うち)」の匂い、乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚(はだ)の匂いを探した。

 中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り込んで来ていた。出来上がった缶詰を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を写すことになった。

 夜になると、酒、焼酎、するめ、にしめ、バット(1906年に発売された大衆向け紙巻きたばこ「ゴールデンバット」の略称)、キャラメルが皆の間に配られた。

Toms Toy Box―素晴らしき人生―ゴールデンバット

 監督が白い幕の前に出て来て「日本男児」だとか云いだした。大部分は聞いていなかった。

 「やめろ、やめろ!」「お前なんかひっこめ!」後から怒鳴る。

「六角棒の方が似合うぞ!」皆ドッと笑った。監督は顔を赤くして引っ込んだ。

 写真が終ってから皆は祝い酒に酔った。長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ベロベロに参ってしまった。

 余程過ぎてからだった。-「糞壺」の階段を漁夫が転がってきた。着物と右手がすっかり血だらけになっていた。「出刃、出刃!出刃を取ってくれ!」土間を葡いながら叫んでいた。「浅川の野郎、何処へ行きやがったんだ。居ねえんだ。殺してやる。」

 監督になぐられたことのある漁夫だった。-その男はストーヴのデレッキ(火かき棒)を持って、眼の色を変えて、また出ていった。

 次の朝になって、監督の窓硝子からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に毀されていたことが分かった。監督だけは、何処にいたのか運よく「こわされて」いなかった。

 

小林多喜二蟹工船」を読む20

 毎年の割に比較すると、蟹の漁獲高はハッキリ減少していた。他の船の様子を聞いてみると、昨年よりは成績がいいらしかった。

 監督は無線電信を盗み聞かせて、他の船の網でもかまわず、ドンドン上げさせた。他船の網を手当たり次第に上げるようになって、、仕事が尻上がりに忙しくなった。

  

仕事を少しでも怠けたと見るときには大焼きを入れる。

  組をなして怠けたものにはカムサッカ体操をさせる。

  罰として賃銀棒引き、

      函館へ帰ったら、警察に引き渡す。

  いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺される

  ものと思うべし。

                     浅 川 監 督

                     雑  夫  長

 

この大きなビラが工場の降り口に貼られた。監督は弾丸をつめッぱなしにしたピストルを始終持っていて、鴎や船の何処かに見当をつけて撃った。ギョッとする漁夫を見てニヤニ笑った。

 監督は手下をつれて夜三回まわってきた。3、4人固っていると、怒鳴りつけた。「鎖」がただ眼に見えないだけの違いだった。

 「俺ァ、キット殺されるべよ。」芝浦の漁夫が「馬鹿!」と横から怒鳴った。

「今殺されているんでねえか。小刻みによ。ピストルは何時でも持っているが、あれァ「手」なんだ。彼奴等は、俺達を殺せば自分の方で損するんだ。本当の目的は、俺達をウンと働かせて、しこたま儲けることなんだ。この滅茶苦茶は。まるで蚕に食われている桑の葉のように、俺達の身体が殺されているんだ。」

 芝浦は手を振りながらしゃべっていた。「金持はこの船一艘で純手取り四、五十万円ッて金をせしめるんだ。-分かるか。皆んな俺達の力さ。-んだから,んと威張るんだ。あっちの方が俺達をおっかながってるんだ。ビクビクすんな。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林多喜二「蟹工船」を読む 1~10

小林多喜二蟹工船」を読む 1

 小林多喜二蟹工船」(「新日本文庫」・小林多喜二全集 第2巻 新日本出版社 以下全集と略)は「戦旗」(「全日本無産者芸術連盟」ナップ機関誌)1929(昭和4年)の5、6月号に掲載された小説で、「左翼的批評家だけでなく、一般文壇でも高く評価され、一九二九年度上半期の最大傑作と評された」(村山知義「解説」新日本文庫)作品です。1953(昭和28)年山村聡監督により映画化されました。

 まず、小林多喜二の生涯を生いたちから辿ってみましょう。彼は1903(明治36)年10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村川口十七番地(1905 大館市川口236の2)で父小林末松、母セキの次男として生まれました(年譜 手塚英孝「小林多喜二」下 新日本新書 新日本出版社)。

大館郷土博物館―文化財マップー文化財を見るー大館―大館地域の文化財―詳細 小林多喜二生誕の地碑―詳細を見る

/ 小林家は代々「多治右衛門」と称した地主の家から、多喜二の祖父多吉郎の代に分家した家柄でした。多吉郎は佐竹藩の城下町大館(おおだて)に近い宿駅だった川口で旅宿を営んでいました。多吉郎の妻オヨとの間に二男一女があり、長男を慶義、次男を末松と名付けました。

 明治維新後、宿駅は廃止され、大館の発展とは逆に川口は次弟に衰退していったのですが、明治十年代の末ころまでは、小林家は家業の旅宿をつづけ、かたわら人を雇って耕作し、村でもかなり裕福でした。

 小林家の長男慶義は家業をかえりみず、関係した事業に失敗して、多額の負債をかかえ、没落していきました。慶義一家は一時上京したこともあったのですが成功せず、郷里の秋田にも帰れなくなり、1893(明治26)年東京から直接北海道へ開墾百姓として移住したのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 2

 多吉郎は1895(明治28)年71歳で死去、末松は兄の失敗により急に変化した境遇と労苦で、まだ四十を過ぎたばかりだというのに、心臓を痛めていました。、彼は地主に抗議して小作料を引き下げることもせず、自分の身体をこわしてまで働くことで耐えたのです。母セキは秋になると、野菜や豆や南瓜などを籠にいれて大館へ売り歩き、家計を助けました。

 1893(明治26)年青森から敷設されはじめた奥羽本線は6年目に大館まで開通、次いで大館と秋田を結ぶ工事が川口の丘に沿って着手されましたが、結局農民の貧窮化をもたらし、北海道の開墾百姓として移住する農民が増加していきました。

 長兄の慶義は北海道の小樽郊外の潮見台で開墾百姓をやっていましたが、かれの長男幸蔵は小樽色内町の山田靴屋の徒弟奉公から稲穂町の石原源蔵というパン屋の徒弟になりました。山田も石原もクリスチャンだった影響で幸蔵もキリスト教に帰依したのです。

 1903(明治36)年、慶義と幸蔵は石原源蔵から稲穂町の店を譲り受け、石原の指導と援助をうけながら、独立して小林三星(みつぼし)堂というパン店を開業するに至りました。

おいしいパンnet―パンの知恵袋―パンの歴史―日本の歴史

 日露戦争が始まった1904(明治37)年5月、小樽は大火に見舞われて、中心街の大半を焼き尽くし、三星堂も類焼したのですが、慶義親子は同業者に先んじて潮見台にパン工場を建て、パンの製造をはじめ、数ヵ月後にはパン工場新富町に移し、店を開きました。

 翌年春、小樽港は樺太進攻のため、海軍の秘密根拠地となりました(「坂の上の雲」を読む45参照)。慶義父子は御用商人として約10箇月の間に、30余隻の海軍艦船に数十万円の食パンを売り込んだのです。かくして三星堂は火災と戦争を巧みに利用して、小樽屈指のパン店に成長しました。

 小樽でしっかりした社会的地位を築くと、慶義は弟の末松に秋田をひきはらって小樽に移住するようしきりに勧めました。しかし末松夫婦は長年住み慣れた故郷を捨てる決心がつきませんでした。

 1907(明治40)年5月、法事で帰郷した慶義に、末松夫婦はその春村の小学校を卒業した長男多喜郎を小樽で上級学校にいれてやると勧められて、それに従ったのでした。

 ところがその年の9月末多喜郎は急性腹膜炎で重態となり、小樽にかけつけた両親の看護も虚しく、10月5日死去してしまったのでした。 

 長年の過労と長男逝去の衝撃からが末松は百姓仕事に耐えられなくなり、それが北海道移住の動機となって、同年12月、末松一家は馬橇にのって、村人に見送られながら、深い雪のなかを大館駅に向けて出発しました。小林多喜二が4歳のときのことでした。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 3

 「私は四つか五つの時、北海道へ渡って来たので、そんなによくは秋田の故里を知っていない。北海道へ来て、爾来二十四年間小樽に住んだ。従って私の『育った』故里は小樽であり、事実から云えば小樽が私の本当の故里であるように思う」(小林多喜二「故里の顔」女人芸術 1932年1月 全集 第5巻)

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 明治初年まで小樽は「オタルナイ」(アイヌ語で砂川を意味する)と呼ばれ、東方から日本海の風波にさらされる三方を険しい丘陵にかこまれた漁村でした。しかしその後北海道開発の基地として日露戦争後には石狩の農産物と石炭の集散地となり、近代的商港に発展していたのです。

 1907(明治40)年12月小樽に移住した小林末松一家は翌年正月を新富町の伯父慶義の家で迎えたのですが、まもなく若竹町に新居を構えました。そこはさびれた漁師町で小樽湾の南端に位置し、背面は海岸近くに突き出た懸崖が浜つづきを区切っていました。

 海岸そいに北海道本線が通じ、末松一家の家はこの線路にそった道路に面した部落はずれの海岸近くにありました。裏はすぐ線路でした。

 二部屋の平家は伯父慶義が隠居所に建てたものでしたが、多喜二の両親はここで小林三星堂パン店の支店を開いたのです。

 末松一家は地元で最初の他国者だったので、土地の人に珍しがられ、秋田弁も面白がられて、わざわざ店先へのぞきに来る人もいた程でした。

 多喜二の父は毎朝薄暗いうちに起床して、小樽中央にあるパン工場へ「アンパン」「代用パン(砂糖漬けの赤豆をパンの中にいれたもの)」「ミソパン」などを仕入れに行き、丁度働きに出掛ける労働者や学校へ行く生徒たちがパンを買いに来る時刻に間に合うように帰って来るのでした。

 昼近くになると、大福やパンを入れたガラス箱を担いで、防波堤などの工事に従事する土工の作業現場などに売りに行きました。

 多喜二の幼年期に彼は近所の遊び友達から「パン屋のオンジ」と呼ばれていました。両親や姉が彼を「オンジ」(東北地方で「弟」を意味する)と呼んでいたからです。兄多喜郎死去後も両親らは彼を昔からの呼び名で呼んでいたのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 4

 1910(明治43)年4月、多喜二は小樽区立潮見台尋常小学校に入学しました。生徒は約600名で、、大半が港で働く貧しい自由労働者か小商人の子供たちで、汚れた着物を着た前だれ姿の児童が多く、校章も校旗もありませんでした。

 毎年5月20日前後、小樽の小学校連合運動会が花園公園グランドで開催されました。

そば会席 小笠原―小樽公園、花園公園? 

 これは小樽の年中行事の一つとなって、桜の満開の季節でもあり、その期日には銀行や企業・商店なども休業する処が多く、毎年人出でにぎわいました。

 この運動会にはどの学校も新しいユニフォームを作ったのですが、全市小学校の対抗試合で。多喜二の母校だけユニフォームがなく、みすぼらしさがめだったのです。

 他の学校の生徒はみな一斉に笑い、『潮田の学校、ビンボ学校。運動服ないとて、ベソかいたア』と冷やかしました。

 「私は未だに運動会の来る一日一日が、どんなに『つらかった』かを覚えている。それはどうにも堪え難い気持ちだった。(中略)八つか九つの子供らしくもなく、私はうつむいて、キリキリと唇を噛んだ。この運動会のことが、あたかも柱に刻みこんだ爪跡のように、何時までも私の心に残されている。」(小林多喜二「地区の人々」改造 1933年3月 全集 第4巻)

 1916(大正5)年3月、多喜二は潮見台小学校を卒業、4月から伯父慶義の援助で庁立小樽商業学校に入学しました。同校は1913(大正2)年に創設された5年制(本科3年、予科2年)の商業学校で、創立の翌年に起こった第一次世界大戦による好景気で入学希望者は増加、100名の入学定員に対して入学希望者数は毎年450名前後という難関校でした。

 好景気による輸出増大で物価は暴騰し、戦争成金がうまれる一方で、労働者の賃金の上昇はこれに及ばず、多くの民衆が深刻な生活難に陥りました(「労働運動二十年」を読む15~17参照)。1918(大正7)年に富山県から起こった米騒動は各地に波及、北海道では同年8月函館で、9月には空知郡の炭坑で暴動が起こり、小樽でも同年10月豆選工場でストライキが起こりました

 多喜二は新富町の伯父の家に住み込み、パン工場の手伝いをしながら通学しました。朝学校に行く前に、トラックに乗って、パンの配達をさせられました。トラックの行けない処へは荷車に折箱を積んで小売店を廻りました。それで彼は学校で坐ると、どんなに努力しても居眠りばかりしていたようです(小林多喜二「転形期の人々」全集 第4巻)。米騒動の直後から、伯父の工場ではビルマ豆をまぜた安価な代用パンの売り出しをはじめました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 5

 創立当初の小樽商業は大正デモクラシーの風潮(「大正デ3モクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10~25参照)による影響をうけて、学生の自治と自由を重視していました。

 多喜二は三本線の入った制帽と粗末な制服を身につけ、冬には着古したマントをはおって通学していました。いつも代用パンを古新聞紙に包んだ彼の昼弁当はクラスの中で評判になっていました。しかし彼はそんなことには無頓着で、小学生時代とは全く違う、明るく屈託のない少年になっていたのです。

 1917(大正6)年の予科二年のころから、多喜二は友人とともに水彩画を描きはじめました。教室の廊下にささやかな展覧会が開催されるようになりました。

 そのころ博文館発行「文章世界」でこま絵(カット)の懸賞募集があり、多喜二も1919(大正8)年6月号に「札幌の附近」が入選、その後選外佳作となったものもありました。

 小樽商業の絵のサークルは、その後小羊画会と名付けられ、同年11月1日と2日に稲穂町の中央倶楽部で、第1回の洋画展覧会を開催、多喜二は水彩画6点を出品しました。

 1920(大正9)年5月29・30日、第2回小羊画会が中央倶楽部で開催され、多喜二は水彩画ABCの三点を出品、Cが色彩の扱い方で優れているとの「北門日報」[1891年小樽で金子元三郎によって創刊された新聞、初代主筆中江兆民(「火の虚舟」を読む19参照)、後札幌に進出]の批評を受けました。暫くの後小羊画会は白洋洋画研究所と改名、同年9月18・19日、中央倶楽部で白洋画会が開かれ、多喜二は風景画5点を出品しています。

カムイミンタラアーカイブズーカムイミンタラアーカイブズを詳しく検索するー検索メニューー発行年月―2005年09月号(特集)多喜二の「未完成性」が問いかけるもの ノーマ・フィールドさん 小林多喜二を語る

 しかし、この展覧会が終了すると、伯父の命令で多喜二は絵をやめさせられました。1920(大正9)年3月株式市場の株価は暴落、戦後恐慌(「労働運動二十年」を読む20参照)が始まり、こうした伯父の多喜二に対する冷酷な仕打ちは、日本経済の変化を意識した緊張の反映だったのかもしれません。

 ある朝、伯父は彼の絵道具を庭にたたきつけて、云いました。

 「『絵にこれば馬鹿になるんだぜ。Kの息子を見れ、やれ絵かきになると言って東京に飛び出し、いい加減帰って来て、一万円くれって、親から取って洋行する。三十も四十にもなって、まだ嬶(かかあ)もとれないんだ。貴様もそんな馬鹿になりたいか。』

 抗弁するのは不利益な事だった。彼は(中略)立ち上がった。居間へ行って洋服へ着換にかかった。一人となった時、彼の眼は期せずして涙が流れ出た。今までの凡ての感情が一時にあふれ出た。」(小林多喜二「石と砂」全集第6巻)

 ひそかな熱意をこめてとった絵筆を捨てることは、多喜二にとって大きな打撃でした。しかし、他方このことが、すでに才能をひらめかせていた文筆に対する意欲を高める動機となっていったのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 6

 多喜二は同校予科在学中から、彼の作文は優れた個性に満ちていました。渡辺卓という漢文の教師は作文の時間に推薦作文を読み上げたものでしたが、その中にはいつも多喜二の文章が入っていました。 

 1919(大正8)」年4月、本科2年になると、彼は校友会誌「尊商」の編集委員に選ばれました。同誌は国語教師の担任でしたが、編集はほとんど選ばれた生徒の編集委員に任されていました。かくして多喜二の作文が同誌に屡掲載されるようになり、また「文章世界」5月号に彼の詩(全集第6巻)「北海道の冬」などが発表されるようになっていたのです。同年6月からの修学旅行に家が貧しいため、彼は参加できませんでした。

 1920(大正9)年伯父の命令で絵筆を棄ててからも、「石と砂」を執筆、これを除く「晩春の新開地」などの文章が相次いで「尊商」に発表されています。監視されているような雰囲気の中で、彼は必死の勢いで創作に集中していったのです。

白樺文学館―多喜二ライブラリー

 1921(大正10)年3月、多喜二は小樽商業学校を卒業、同年5月、伯父の援助をうけ、小樽高等商業学校小樽商科大学の前身)に入学するとともに、新富町の伯父の家を去り、若竹町の自宅から通学するようになりました。

 1922(大正11)年4月、多喜二は2年に進級、第二外国語にフランスを選択、課外活動としては高浜年尾とともに校友会誌の編集委員に選出されています。彼は同誌に殆ど毎号寄稿するとともに、「小説倶楽部」や「新興文学」に投稿、入選作もありました。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 7

 1923(大正12)年9月、関東大震災(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)が起こりました。この年の11月17~18日(土・日曜)小樽高商例年の学生外国語劇大会が関東大震災義捐として雨天体操場で開催されました。

 多喜二はフランス語劇メーテルリンク「青い鳥」に出演しましたが、、小樽中学出身で小樽高商では多喜二の一年下級学年であった伊藤整(「小林多喜二の思い出」「伊藤整全集」20 新潮社)は多喜二と共演しました(年譜 「同全集」24)。

小樽の二人の青春 小林多喜二と伊藤整

 また多喜二自身も盛会だった当夜の模様をつぎのように描いています。「音楽の序奏が始まった。その音につれて幕がスルスルと引かれた。猫が出た。劇は進む。チルチル、ミチル、犬がでる。木々のざわめきがして木の精がとび出す。やがて動物の精もでなければならなくなった。

 兎が一番先に出た。兎がピョンピヨン飛んで出たとき、ワッというドヨメキが起った。馬は勢よくとび出た。牛はノロノロと出ていった。羊がフラフラと出ていくと、その辺に散らしておいた紙屑をひろいあげて、頭にかぶっている模型の口の中に入れた。観客はことごとに笑わせられた。」(「ある役割」全集第1巻) 高商1年のころから、多喜二は白樺派(「花々と星々と」を読む27参照)の志賀直哉(「田中正造の生涯」を読む24参照)の作品を学び始めていましたが、のちに直接手紙を書くようになり、自作を送って批評を乞うようになりました(志賀直哉全集 別巻 岩波書店)。

 志賀直哉は1922(大正11)年3月、千葉の我孫子から京都市外粟田口に移り、同年秋には山科に住んでいました。

 多喜二は校友会誌などに発表した創作についての批評をもとめたのでしたが、これに対する志賀直哉の感想はきびしいものでした。

 

小林多喜二蟹工船」を読む 8

 1924(大正13)年3月10日、多喜二は北海道拓殖銀行に入社しました。その年の新規採用者47人は同銀行札幌本店で、約1箇月間の研修を受けた後、彼は本俸70円で小樽支店に配属され、また約2箇月間計算係として計算と記帳の実務を習得すると、為替係にまわされました。彼は初給料の中から中古バイオリンを買って、音楽好きな弟三吾に与えました。

 多喜二が同銀行小樽支店に勤務するようになった同じ月、彼の主宰する小樽商業時代からの仲間による同人雑誌「クラルテ」第1集が創刊されました。

 同年7月11日父末松が脱腸で入院、手術後の経過が悪く、8月2日58歳で死去しました。

 多喜二は当時伯父の次男経営の苫小牧パン店で働く弟三吾を呼び、父死去後の自宅パン店を手伝わせることにしました。

 同年10月ころ、多喜二ははじめて田口タキという女性にに出会ったのです。田口タキは入船町のやまき屋という小料理屋(小樽ではそば屋と呼ばれる)の美人で評判だった酌婦でした。多喜二は「クラルテ」の仲間に誘われて、好奇心からでかけたのでしたが、田口タキは彼に深い印象を与えました。

 彼女は1908(明治41)年5月、小樽近郊の高島という海岸町で出生、父はその土地で屋台そばを売り、母は秋田からの移住者でした。タキが15歳の暮れ、父は新たにはじめた商売に失敗し、ひどい吹雪の夜、高島を夜逃げして、函館に近い父の郷里森町の親戚を頼っていきました。しかしどうにもならなくて、1922(大正11)年1月末、彼女は父から手伝いにいってくれと頼まれ、何も知らずに室蘭の銘酒屋に売られていきました。

 娘を売ったわずかな金で田口一家9人は函館から小樽長橋の場末に移り、父は日雇いで暮らしていましたが、12月中旬、若竹町の踏切りで鉄道自殺、のちタキの母は再婚、残された田口一家は親族に引き取られ離散しました。

 田口タキが室蘭から小樽入船町のやまき屋へ転売されてきたのは父の死後4箇月目のことで、彼女は17歳になっていました。彼女は内攻的なつつましさの中に、不幸から逃れようとする必死の願いを秘めていたのです。

遠い憧れー北の国から(札幌便)―2009年人物―小樽の青春 小林多喜二物語(6)

 

小林多喜二蟹工船」を読む 9

その後多喜二は客を装ってときどきタキを訪ねるようになりました。タキを知って半年後の1925(大正14)年3月、多喜二はタキへの手紙(書簡 全集第7巻)で次のように述べています。

 「『闇があるから光がある』

そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というものが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味ってみなければならない。

 瀧ちゃん達はイヤな生活をしている。然し、それでも決して将来の明るい生活を目当てにすることを忘れないようにねえ。そして苦しいこともその為だ、と我慢をしてくれ。

 僕は学校を出てからまだ二年しかならない。だから金も別にない。瀧ちゃんを一日も早く出してやりたいと思っても、ただそれは思うだけのことでしかないんだ。これはこの前の晩お話した通りだ。然し僕は本当にこの強い愛をもっている。安心してくれ、頼りないことだけれども、何時かこの愛で完全に瀧ちゃんを救ってみせる。瀧ちゃんも悲しいこと、苦しいことがあったら、その度に僕のこの愛のことを思って、我慢し、苦しみ、悲しみに打ち勝ってくれ」

 それから3週間後、多喜二は秘かに上京、東京商科大学を受験しましたが不合格でした。彼は銀行の仕事に生き甲斐を感じることができず、母の了解を得、上京して苦学しながら、作家として身を立てる考えでしたが、夢を果たすことができませんでした。「クラルテ」も四集を発行しましたが、毎号欠損つづきで、続刊も困難な状態となっていました。

クリック20世紀―人物ファイルーカー小林多喜二

 同年秋、多喜二はタキが一日も早く自由の身になるために、血のにじむような貯金をしていることを知ってつよく心を動かされ、思い切って「クラルテ」仲間の島田正策に相談しました。島田は貯金の大半を割いて200円を貸してくれたのですが、田口タキをやまき屋から身請けするには500円必要でした。

 多喜ニは母の承諾を得て、年末賞与の全額をタキの身請けのために差し出しました。

 かくして自由の身となった田口タキは義父の許に引き取られましたが、彼女はまた義父に売りとばされかねないので、多喜二は彼女のために小樽山手の奥沢に部屋を借りて住まわせたのです。しかし奥沢での彼女の生活を、俸給88円の多喜二が支えることは困難でした。

 1926(大正15)年4月下旬、多喜二は事情を知った母のすすめで、若竹町の自宅にタキを住まわせることにしました(小林セキ述「母の語る小林多喜二新日本出版社)。タキが奥沢から引っ越して来る日、彼の母は赤飯をたいて彼女を迎え入れたのでした。

 ところが同年11月11日、タキは意外にも、多喜二に宛てた一通の手紙を残して家出してしまったのです。

 「タキ子が家出をした。俺が東京へ出て勉強したいために、自分がいたら、いろいろな点で俺を困らし、纏ることになるだろうという考えである。家出をしても決して堕落の道はたどらないということを書いてある。(中略)今俺がタキちゃんを救えるたった一つの方法は結婚だ!」(日記(折々帳)11月11日 全集第7巻)18日の晩、よっやくタキが花園町の小野病院で住み込んで働いていることをつきとめることができました。しかし自活したいというタキの固い決心を知ると、多喜二は無理につれ帰ることもできませんでした。また多喜二の希望であった東京での就職も思うように実現できなかったのです。

 

小林多喜二蟹工船」を読む10

 1926(大正15)年北海道は全域に降霜が早く、1913(大正2)年の大凶作に次ぐほどの凶作となりました。

 1925(大正14)年日本農民組合北海道連合会が創立されたとき、同連合会は5支部600名の小さな組織にすぎませんでしたが、翌年には石狩を中心に、天塩(てしお)、十勝(とかち)、北見の農耕地帯で急速にその組織を拡大、43支部約3000名の農民を組織していました。

 同年夏から小作料減免運動が同連合会各支部で闘われ、永山の板谷農場、比布の有隣農場、妹背牛(もせうし)の池田農場、鷹栖の岐阜農場、裏臼の富士拓殖農場、富良野(ふらの)の磯野農場などの不在地主の農場で小作争議が起こりました。これら農場の多くは、一時激化する様相をみせましたが、ほどなく地主との妥協が成立したのに、富士拓殖と磯野農場の争議は解決の見通しがなく、、とくに磯野農場では地主側の態度が強硬で、争議は次第に深刻化していきました。

 北海道で国有地の払い下げによる不在地主の農場が増加しはじめたのは、低利資金の供給をうけることができるようになった1897((明治30)年ころからで、1900(明治33)年北海道拓殖銀行は低利資金の融資機関として創立されました。

 空知(そらち)郡下富良野村の磯野農場は約250町歩の面積で小作人は48戸、家族を加えると約200人、北海道では中規模の農場でした。

職人の遺した仕事―Archives―Desember 2012―Calendar16―レンガ積み職人が遺した建造物~北海道編(Ⅰ)昭和の文学に登場した旧磯野商店倉庫(小樽市)

 小樽に住む地主磯野進は小樽商業会議所会頭で米穀海産問屋を所有し、精米、澱粉工場も経営、北海道でも有力な実業家の一人でありました。

 他の農場と同じように、磯野農場ははじめ排水が悪く、2、3日の雨で泥沼化する土地を小作人の長年の努力で水田にした農地で、地主磯野は米が収穫できるようになった後も稲作より軽い畑年貢でよいと約束しながら、実際は北海道でももっとも高い5割以上の小作料を徴収していたのでした。

 1926(大正15)年度の収穫高を地主側は七割六分六厘作と主張、小作人側は最高四割七分、最低一割七分、平均二割二分を主張、ひらきが大きく、妥協の見通しは困難でした。小作人側は伴利八、阿部亀之助ら37人が申請人になって、同年12月中旬小作料減免要求を旭川地方裁判所に提訴、かくして磯野小作争議は次第に全道的な注目を浴びる問題となったのです。

 

 

 

 

 

 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む31~40

犬養道子「花々と星々と」を読む31

 それが、椿の咲きつくして、桃や桜の咲く季節になると、再び開けられました。「なにィ、クモォ? 平気じゃい、平気じゃい。ヒヒヒ」脳のてっぺんから湧き出るような、甲高い声の人が谷間の部屋にやって来たからです。

古島一雄(花々と星々と」を読む15参照)。正岡子規(「坂の上の雲」を読む5・7~8参照)と、『日本及日本人』の雑誌編集室で一緒であった若き日を持つ彼は、護憲運動の陰の大役者でありました。犬養木堂の右の手よと、世に知られる人でした。

 彼は道子を孫のように可愛がり、且つからかったのです。「りんごの、一番うまいとこ、どこか知っちよるかい」「知らない」「そりゃな、皮と果肉(み)のちょうど、あいだよ。じいさんにそう言うて、皮と果肉の間をもろうて来い。ヒヒヒ!」

 他にもいろんな人が来ました。頭山満。彼にしたがう、仕込杖の壮士たち。李王殿下。久邇宮さま。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―とー頭山満

 けれどー道子が恐れていた人は来ませんでした。幸いにも四ツ谷のお祖母ちゃまは、蜘蛛の多い、だっだっぴろい、そしてお湯の塩っぱい熱海はおきらいなのでした。

 その祖母ちゃまの前では、茹でられた伊勢海老のように固くつっぱりかえる母が、碁盤を前にさし向う古島さんと祖父のわきでは、横坐りさえするのでした。甘ったれて、ねえおとうさま、こんやのおかず何にしたらいいかしらんねえ、なぞ言うのでした。

「がんもどきでええよ、仲さん」「わしが干物を買(こ)うて来てやるよ、仲さん」祖父は母にやさしかったのです。

 道子はだんだんと元気になって行きました。古島さんが海べから、毎日バケツに汐を汲んで来て、「海水浴」と言って道子のゼロゼロ言う胸に塗ってくれました。 

 老人ふたりは彼女を、掌中の玉のごとくに扱いました。日光浴のかたわらで、祖父はせっせと蜜柑汁をしぼり、りんごを磨(す)りました。

 梅園そばの蜂園から取りよせた蜂蜜や、椿の大島から人にたのんで持って来てもらった蜂蜜を、祖父は丹念に、りんご汁にまぜ入れて、日光浴の彼女に飲ませるのでありました。

 半生を賭して、ついに議会を通過させ、めでたく陽の目を見させた普通選挙法が、全国の心ある人々をよろこばせたその直後、彼は政界を引退しました。

 観樹邸での日光浴の日々はまた、そのような彼の、悠々自適の閑日でもあったのです。

 若葉が、さしも広い観樹邸の、座敷の奥まで緑の色を流しこむころ、彼女たちはその邸に別れを告げました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む32

 1925(大正14)年孫文は北京にて死去、1929(昭和4)年孫文の陵墓中山陵が南京に完成すると、犬養毅孫文移霊祭に招待されました(第4回中国訪問)。同年5月20日犬養は令息健、古島一雄、萱野長知らとともに東京発、翌日神戸から長崎丸で出港上海に向かいました。また頭山満一行及び故宮崎寅蔵(滔天)遺族一行も招かれています。

Weblio辞書―検索―萱野長知―宮崎寅蔵 

 犬養らは同月23日上海上陸、この夜上海市長張群は犬養一行のために盛大な歓迎会を開催、張群市長の挨拶があり、犬養が謝辞を述べ、ただちに通訳によって同席の中国人に伝えられました。同謝辞において犬養は次のように語っています。

「自分が孫君を援助したなどとは、洵(まこと)に心苦しき次第である。唯だ孫君とは東亜の大局に対し同じ目的を持って居った事と同じ境遇に居った為めに、互いに理解して扶け合ったに過ぎぬ。」 

 5月27日南京に到着、同月28日孫文の霊柩の到着を出迎えました。犬養は祭文を朗読、6月1日孫文の霊柩を城外の墓陵に奉安する儀式が挙行されました。

ツーチャイナー地域別で探すー南京を知るー2015年9月22日 南京市の中山陵

 6月3日夜犬養毅頭山満ら一行は蒋介石の自邸に招待され、中国側は胡漢民、戴天仇(「花々と星々と」を読む30参照)らの要人が出席しました。6月4日南京発、揚州を経て上海着、6月8日海路青島に向かい済南より曲阜聖廟と孔子の墓に参拝、天津、北平(北京)に出て7月3日帰京しました。

 中国訪問後、犬養は再び信州富士見の白林荘で悠々自適の生活にもどったのですが、1929(昭和4)年8月22日早朝荘内散策中転倒して腰部を捻挫、病臥療養の身となりました。傷がようやく癒えて、同年9月25日帰京、つづいて湯河原の天野屋(「日本の労働運動」を読む47参照)別館の浴客となり、上記の如く急死した田中義一政友会総裁の告別式に臨んだ後も、引き続き湯河原で療養生活を送っていました。

 田中の死後、政友会内では鈴木(喜三郎)、床次(竹二郎)、中橋(徳五郎)、山本(条太郎 「花々と星々と」を読む38参照)、久原(房之助)ら後継総裁説が乱れ飛び、分裂しかねない情勢となっていました。 よって10月7日政友会長老、顧問、前閣僚等は協議の結果、犬養毅を総裁に推戴することに決し、翌8日幹事長森恪は犬養を湯河原に訪問、総裁就任についての諾否の内意を伺ったのです。これに対して犬養は次のように答えたそうです(「東京朝日新聞」10月9日夕刊 鷲尾義直「前掲書」中 引用)。

 「自分は党の諸君の期待するやうには働けるとは思って居ない。若し党の現状に於て自分がこの老体を提して出ることが大局の上から必要であるといふことであれば、自分も政友会の一党員として党の為め最善を尽すべき大なる義務と責任があるのだから、此際謹んでお引受けしようう。」

 1929(昭和4)年10月12日立憲政友会臨時大会が党本部で開催され、犬養毅は第6代政友会総裁に推戴されました(小林雄吾「立憲政友会史」7 日本図書センター)。

日本漢文の世界―英傑の遺墨が語る日本の近代―作品リストー犬養毅(木堂)

 第57議会(1929:12.26開会、30.1.21解散)の休会明けの1930(昭和5)年1月20日、開催された政友会大会に於いて、犬養は政党の争いは政策を以ってすべきことを強調し、金解禁問題(「男子の本懐」を読む24参照)について大要次のように述べています。

 「金の解禁に対しては、勿論その趣旨に於ては賛成であるが、それを断行するには、その時期を見ることが必要であり、またこれに対する準備は欠くべからざる要点である。

 然るに現内閣は単に財政及び公私経済の緊縮のみを以て絶対の準備対策としたことは、我が経済界の将来にとって甚だ憂慮すべきことである。これが為めに全国都鄙全般に亙る不景気は益々深刻となり、失業者は日共に激増し、此の勢を以て進めば如何なる事態を醸成するか測り知れぬ趨勢である。先づこれが応急善後の対策を行うて当面の急を救ひ、不用意なる解禁の惨禍を出来得る限り緩和せしめることに努力しなければならぬと思ふ。」

 同年2月20日第17回総選挙の結果、民政党が第1党となり、政友会は第2党にとどまりましたが、第58議会(1930.4,23開会、5.13閉会)において犬養はロンドン海軍軍縮条約(「男子の本懐」を読む26参照)について、浜口首相をはじめとする閣僚に対して、つぎのように質問演説(要旨)しています。

 「第一ハ軍縮会議ニ於ケル結末デアリマス。是ハ総理大臣ノ御演説並ニ外務大臣ノ御演説ヲ承リマシテモ、是デ国防上ノ危険ハナイト云フコトヲ断定的ニ申サレテ居ルノデアリマス。所デ此兵力量ヲ以テ確ニ安全ニ国防ガ出来ルヤ否ヤト云コトニ付テハ、私共非常ナ疑ヲ持ッテ居ルノデアリマス。

 用兵ノ責任ニ当ッテ居ル(海軍)軍令部長ハ、回訓後ニ声明シタモノガアル、此声明書ニ依リマスト、七割ヲ欠ケタ米国案ヲ基礎ニシタ譲歩デアル、此兵力量デハドンナ事ヲシテモ国防ハ出来ナイ斯ウ断言致シテ居ルノデアリマス。国務大臣ハ軍事専門家ノ意見ヲ十分ニ斟酌シタト申サレテ居ル、併ナガラ軍事専門家ノ意見ト言ヘバ、軍令部ガ其中心デナケレバナラヌ、是デハ国民ハ安心出来ナイ。」

 また政友会の鳩山一郎軍縮問題を内閣が云々することは天皇統帥権の干犯(「男子の本懐」を読む27参照)に当たると浜口内閣を批判しました。

 1930(昭和5)年11月14日浜口首相は東京駅で狙撃され、翌1931(昭和6)年4月13日首相病状悪化のため浜口内閣が総辞職、4月14日第2次若槻礼次郎内閣が成立しました(「男子の本懐」を読む35参照)。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む33

 鎌倉の住まいは由比ヶ浜近くにある四間ほどの安普請の貸家でした。「規則正しい」散歩と日光浴にきたえられ、道子はめっきり元気をとりもどしはじめました。弟も、魚やおまじりを喜んで食べるようになりました。

 しかしある夜。二階の寝室で眠っていた道子は突き抜けに階下から聞えて来るはげしい声で眼をさましました。ふいに、何かの投げられる音がしました。

「あなた、ほんとに変わったわ。知らない人だわ。あたし、子供つれて行きます……」

「まだわからないか。行くなら行け」階下はそのまましんとなりました。彼女はいつか、枕を抱きしめて声を忍ばせて泣いていました。1929(昭和4)年の10月のこと。

 今思えばそれは、四ツ谷のお祖父ちゃまが、急逝した田中陸軍大将のあとを受けて、政友会総裁になった(「男子の本懐」を読む22参照)直後のことでした。

  政友会は明治の終りに当時の民党野党の一部が割れて、長年の政敵伊藤博文(「伊藤博文安重根」を読む1参照)公に降参して成った政党(「大山巌」を読む48参照)でした。 

 野党ひとすじに生きたお祖父ちゃまにとっては、許しがたい存在でしたが、普選法の議会通過と共に、お祖父ちゃまは守りぬいた孤塁である革新クラブを政友会に明け渡し、自分だけは「節を守って」身を退きました。

 そんな因縁の政友会の総裁を、なぜ、晩節の時代に入るべき老人が引き受けたのでしょう。軍閥の台頭―理由はただひとつ、それでありました。 中国の主権を認めず、門戸開放を許さず、日本だけの特殊権益の地として満州を中国から切りはなし、やがては中国、さらには米国も相手どろうとする軍の、狂気の沙汰を押えるには、多数党政党の首領となって天下をとるより他に道はのこされていませんでした。お祖父ちゃまは異常な覚悟で、遺言を認(したた)め、、死ぬつもりで総裁を受諾したのです。

 台頭しているのは軍ばかりではありませんでした。政党は生ぬるし、よろしく強硬策に出るべしと謳い、国内の不況と農村の疲弊に不満を爆発させつつ、危機感に沸き立つ右翼もまた。

 彼が総裁を引き受けた政友会の当時の幹事長は政党切っての「軍部派」で、政党も、議会も、すべてを軍に屈服させねば日本は「国難」を乗り切れず、「東西の新体制」も樹立できないと考える森恪(もりつとむ)でありました。

 他にも政友会には、鮎川義介(あいかわよしすけ)の一族の、巨大なる日産コンツェルンを背景に、利権と軍との結びつきから軍に著しく近い、久原房之助(くはらふさのすけ)などという長老もいました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―あー鮎川義介―くー久原房之助―もー森恪 

れきしのおべんきょう(・・  )メモメモー検索ー日産コンツェルンー2013年02月16日(土)編集  

 そんな党を押さえ、軍と対決の方向にひきずって行くのは、ほとんど無謀とも見える大仕事なのでした。

 その大仕事に、「おとうさんをひとりで放り出してよいものか」、芸術は人間性のためのものだが、軍閥による人間性の圧迫を、政治によって解き放すことも広義に解釈すれば「芸術ではないかと、パパは思ったんだよ」、ずっとのちに、父はそう告白しました。

 「おとうさんには後継ぎが要る……ぼくはこの次の選挙に出る」、覚悟し予想していたことではあったが、東中野千七百を片づけて引揚げたのも、「そのため」でした。

 新聞に、お祖父ちゃまの写真が屡々出るようになり、、母は丹念にそれを切り抜きました。

 桜山のあでやかなお祖母ちゃまが、同じ鎌倉の大町に引越して来たのもそのころでした。小さな家で、がらんとしていました。

 「ねえママ、どうしたのよ」道子はお祖母ちゃまの家からの帰り道に訊きました。「そうねえ」と母は遠くを見ながら言いました。それから急に母はふり向き、唐突な動作で彼女を抱きしめました。「ねえ道ちゃん、ママはねー」しかし母はしまいまで言いませんでした。

 いつもの声になって別のことを言いました。「さあ、海に行きましょう。海はいいのよ。とてもいいのよ」

  冬が来ました。父は破かれた原稿用紙を枯葉と一緒に焼き、母は東京から来た白い大きな紙をひろげては鉛筆を片手に考えごとをするのでした。「これ、何よ」「おうち」と母が言いました。「道ちゃんのおうちだ」と原稿用紙を綴じていた父が熱心に言いました。

 「お祖父ちゃんのおうちの裏庭をつぶして、そのおうちを建てるんだよ。いいねえ、四ツ谷に住めば学校まで歩いて行けるもの」

 松飾りのとれるころ、由比ヶ浜の家に行李やバスケットや唐草模様の緑の風呂敷がひっぱり出され、拡げられました。

 「引っ越すの?ポーラとロリータ(犬の名前)は」「大丈夫よ。箱に入れて汽車に乗せるの」

 小っちゃな子供ではなくなって帰って来た東京の、四ツ谷での生活もまた、それまでとはがらりと変りました。ひどく働き者の、しかし犬は大きらいのかよという女中と、江古田のばあやと呼ばれる活溌でよく笑うばあやが雇い入れられ、母は道子と弟をその二人にまかせ切りにして、ほとんど終日どこかに行くようになりました。父は黒っぽい洋服を着こんで、朝早く出かけ夜おそくまで帰って来ませんでした。

 二人ともこうして留守だというのに、多勢の見知らぬ人が来るようになりました。彼らは父のことを先生と呼び、「先生は最高点だ」などと言うのでした。かよはその人たちを愛想よくもてなしては「でも二区は大へんですよ。鳩山さんがいるからね。しっかりたのみます」「なにね」と、とくに下卑らしい一人が口をとがらせて、「犬は鳩より強いときまってまさあ。ハ、ハ、ハ」

 「万歳! 万歳! 最高点だぞ!」「勝った! 勝った!」潮のように人々が家になだれこみ、狂気じみたにぎわいが何日もつづく忙しさの中で、二匹の犬は身をもだえ大きく息を吐いて、そのまま動かなくなりました。

 「かわいそうに。さみしかったろうに。ごめんね」と、犬が死んでからはじめて東中野のころのママに戻って犬小屋の前にしゃがんだ母は、寝もやらず泣き明かした道子の肩を抱いてささやきました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む34

 お祖父ちゃまのすぐそばに住むようになってから、彼女は「この上等な植木屋」の、意外のさみしさに気づくようになりました。

 ある午後でした。あれは雨もようの日であったでしょうか。彼女は書斎の襖を開けました。祖父は机に向って、チョンと坐って背中を丸めて何かしきりに書いていたものと見えました。「お祖父ちゃま、何してる」「ちょっと来(こ)う。道公、おやつが欲しくないか」

 彼は眼鏡をはずし、硯の蓋をきちんと閉めました。それから書架の筆や書物をどけて、取り出したのはビスケットの罐でありました。白髪のジョージ・ワシントンの顔の描いてある赤い罐の蓋を開けて中をのぞきこみました。「まだあるわ、フ、フ。だいぶあるわ」

 「ちょっと待っておれ」水洗便所の水道のカランをひねる音がして、お祖父ちゃまは歯磨用コップに水を入れて持ってきました。

 彼女たち二人は毛氈の上に、赤い罐をはさんで、向き合って、水を飲み、ビスケットを食べました。「仲々、うまい」と彼は言い、道子を見てニッと笑いました。

 道子にしてみれば、水とビスケット二枚のおやつはあまりにもわびしかったのですが、満足しきっているらしいお祖父ちゃまを見ては、可哀想で言えませんでした。

 襖を開けかける彼女に、彼は「道公や、ママはシチューをつくるか」「うん」

 「じゃあな、こんどシチューをつくったら、ママに、おじいちゃんにも分けるように言うてくれ。忘れるでないぞ。」

 お祖父ちゃまはシチューや、油のいためものが好きでありました。が、木場の色街で育ったお祖母ちゃまはそう言うものが大きらいで、お祖父ちゃまは、お祖母ちゃまのお好みの、「あっさりした」煮つけを食べさせられていました。

 何しろ「打清((清国朝廷)興中(漢民族の中国)の革命の父孫文が、こっそり亡命してお祖父ちゃまにかくまわれていたころも、(当時の日本の政府すじはその亡命人の滞日を好まなかったので)大貧乏のさなかとは言え、菜種油で米を炒めて食べさせることすらしなかったのでした。

  それから、お祖父ちゃまが、東京や横浜の支那居留民の子弟や留学生の世話を、「日支共存共栄」のために一心に手がけたころ、「しょっちゅうやって来てはお風呂に入って行った書生は親子丼が好きで、よくおかわりをしたもんでござんす。支那の人は親子丼が好きと見えるねえ」しかし、「支那人が親子丼を好き」というわけではなく、親子丼が犬養家の食物の中で「一番油こい」ものだったから、にちがいありません。

 「ほんとうにあの書生は親子丼ををいつもお代わりしたっけが」あの書生の名は、蒋介石と言いました。

YAHOO知恵袋―教養と学問、サイエンスー歴史―中国史―蒋介石は日本に留学していたって本当ですか? 

 日常の食べものでさえ、そんな具合でありましたから、おびただしい書類や蔵書の整理などとなると、彼は全く、孤立無援といってもよい状態にいました。 

 彼女にしてみれば、ただ祖父が何となくあわれであったのです。

 蔵書は支那本が多くありました。一時は支那学の学者を志したほどの彼の、支那の文物・歴史への深い愛着と理解とが土台となってのことでありました。そしてまた、その人の来る日には、顔じゅう柔和な微笑で満たされるほどの「お祖父ちゃまのお友達」は京都大学碩学支那学の泰斗である内藤湖南先生でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー内藤湖南

 支那書だから、洋とじとちがって、一冊ずつ積み重ねます。背表紙がないので、書架の前に立っても、どれがどれだかわかりません。だから一冊ごとに、古ハガキ余白のメモに書名が書きこまれて、はさんでありました。

 そこまでは彼は自分でやりました。しかし、虫干し、種類別、年代順などとなるともう、お手上げでした。政界は複雑微妙に揺れており、彼は決して見かけほどひまな「植木屋」ではなかったのであります。そしてまた、四ツ谷に移り住んでからは、彼の腹心の秘書となった父も、蔵書整理を手伝うひまはとても持てないのでした。

 「たれか、よい人はおらぬかの」お祖父ちゃまが父にそう言ったのは、いつごろだったでしょうか。「訊いてみますよ」と父は言いました。「菊池にでも聞いてみますよ。きっと見つかりますよ」菊池とは文芸春秋菊池寛さんのことでした。

もっと高松―検索ー文化財課―文化財課トップページー施設一覧―菊池寛記念館HP―菊池寛について 

 そしてある日「お父さん、いい人が見つかりましたよ。菊池君が、あの人なら、と太鼓判を押してくれましたよ」「おお、そうか」とお祖父ちゃまは可愛い笑顔を見せました。

 その人との出会いの日は記念すべき日でした。意外にも若い女の人であったことで、海老茶の袴をはいていたとは、道子の記憶違いだったのでしょうか。

石井桃子です」と、その人はそれこそお祖父ちゃまの丹精の、バラのように薄ら紅い頬に笑みを湛えて自己紹介をしました。清潔で温かでした。

香寺大好きー3月(10日)生まれの偉人伝―石井桃子

 石井桃子(児童文学者)さんが来るようになってから、お祖父ちゃまのどこかしらにまつわっていたあのあわれっぽい雰囲気が、さっぱり取れてなくなったのを道子はじきに発見しました。

 最後の重い任を負って死んでゆく、ほんの僅か前のことでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む35

 しかし軍部の暴走により1931(昭和6)年9月18日満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)が起こると、同年9月21日中国は柳条湖事件国際連盟に提訴、連盟理事会は同年10月24日日本への期限付き満州撤兵勧告案を可決しました。

 同年11月10日犬養毅総裁は政友会貴衆両院議員並びに各府県支部長、院外有力者五百余名を集めて所信を演説し、満州事変の原因を支那軍の鉄道破壊としつつも、事変発生直後自ら進んで真相を宣明すべきに拘わらず、この当然の処置を怠り、甚だしく遅延した結果、吾国を国際会議に於て終始被告の地位に立つの已むなきに到らしめたことを当局の失態として非難しました。

 また曩(さき)に我が党政務調査会に於て、金輸出再禁止の必要があると主張したのは、是が金本位統制維持の唯一の手段たるを信ずる故であると述べています(鷲尾義直「前掲書」中)。

 若槻内閣は閣内不一致に陥り、同年12月11日総辞職、12月12日興津にあった元老西園寺公望は急遽上京、参内後神田駿河台の自邸に入り、犬養毅の来邸を求めました。

 同夜午後8時犬養は参内、天皇から後継内閣組閣命令を受け、帰途高橋是清を訪問、帰邸後直ちに組閣に着手、電話で交渉し来邸を求めたのは同夜のうちでした。

 同年12月13日成立した犬養毅(政友会単独)内閣閣僚は次の通りです。首相兼外相 犬養毅(後  外相 芳沢謙吉)・内相 中橋徳五郎・蔵相 高橋是清陸相 荒木貞夫海相 大角岑生・法相 鈴木喜三郎・文相 鳩山一郎・農相 山本悌二郎・商相 前田米蔵・逓相 三土忠造・鉄相 床次竹二郎・拓相 秦 豊助・内閣書記官長 森  恪

近代日本人の肖像―日本語―あー荒木貞夫―もー森恪

 

犬養道子「花々と星々と」を読む36

 1931(昭和6)年12月12日深更から13日払暁にかけてが組閣で、15日にはもう、何ごとも起らなかったような、「ふだんの」生活が永田町で送られていたのです。(道子たち親子は、総理大臣官邸裏手の秘書官邸2号に入りました。)

首相官邸HP―検索―旧首相官邸バーチャルツアー 

 まだ四ツ谷にいた間にも組閣終了と同時のすみやかさで、ほとんどひっきりなしに全国とくに郷里選挙区の岡山県から届きはじめたお守り札は、お祖父ちゃまのところではなしに道子たちの家の床の間に着く端から積まれました。あんまり沢山、連日到着するので床の間に置き切れなくなり、とうとう彼女の居室寝室に当てられた二階六畳の違い棚にまで積みあげられました。

 彼女はまず、日本間(私生活用の棟ぜんぶの称号で、洋間ももちろんあったに拘らず、ややこしい呼び方で呼ばれていた)とは杉の一枚戸によって仕切られた向うがわにある総理大臣官邸事務館(つまりほんとの意味での官邸)を探検しはじめました。思ったよりずっと広く、迷路のような廊下があって、探検は仲々渉りませんでした。オーケストラの演奏場を中二階に突き出させたルイ王朝風とやらの大宴会場が忽然とあらわれるかと思えば、 わざとかくしたような小さな洋間が、通称「芝の愛宕山」のこんもりした緑とそこにそびえるJOAK(NHKの前身)のラジオ塔を窓枠の額ぶちにおさめて、人待顔に出て出て来たりしました。

 またある時。学習院の校門の扉より大きい(と思われた)彫りをほどこした扉を力いっぱい開けてみたら、長細いテーブルに向ってお祖父ちゃまはじめ、高橋(是清)さんや鳩山(一郎)さんや荒木(貞夫)中将(当時)がいかめしい顔で坐って話しこんでいました。

 「おっと。入っちゃいかんぞ、あとで、な」お祖父ちゃまはそれでも微笑して彼女に言い聞かせるような弁解するような調子で言いました。閣議だったのです。

 愛情とか手しおとかの感じの丸切り欠けた庭が、日本間右手正面のひねこびた泉水からはじまって洋官邸前面の芝生につづいていました。洋官邸と日本間の丁度結ばれるあたりの正面に一本だけ、場ちがいな明るさで溌溂と伸び、梢を大きくひろげる榧(かや)の木がありました。

 あるときは衿に議員ポッチと略綬をつけた黒背広の正装のまま、あるときは袖口に揮毫の墨の汚れをつけた着流しのまま、お祖父ちゃまがこの榧の木のもとに屡々佇みつくすようになったのは引越してから間もなくのことで。正装のときも着流しのときも、彼は議場演壇の上で見せるあの姿勢をーつまり軽くこぶしをにぎった左手を背にまわし右手を自然に前方に流した姿勢をとって。たったひとつ演壇上とちがう(新聞写真)のは生来の猫背をいささか反らせていたことで、反り身にならなければ、溌溂と張った梢を見ることはできなかったからです。 

 1932(昭和7)年。官邸日本間付の「まかない」のつくった、おいしくないお雑煮を、そそくさと祝った日からさして間もない風の冷たい午後、道子は急にお祖父ちゃまに会いたくなって、日本間の庭に出かけて行きました。お祖父ちゃまはあの榧の大樹の下に佇んでいました。考えごとをしている、そう感じて遠慮がちに道子は低く呼びました、お祖父ちゃま、何見てる。

 「道公か……寒いのう」しかし彼は衿巻もつけず外套も手袋もつけていませんでした。そして見上げて、彼の疲れはてた表情に一驚したのです。

  ワシントンは日本軍部の「反省」をすでに大正時代以来つよく迫り、「満蒙のためのシベリア出兵」にも口を入れていました。国内的にも不況と農村疲弊による危機感が狂おしく昂まって、貧苦に追いつめられた農村出身の若い兵たちの間には、無為の政党への憎悪感がふくれ上り、それは一直線に「日本の生命線・満蒙進出」と「へっぴり腰の堕落政党打破」とにつながって来ていました。「政党・議会政治」にまっこうから反対の軍部にとっての絶好の背景でありました。そう言う背景の中から、1931(昭和6)年9月18日に柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こったのです。

 その彼らの背後には陸軍中将荒木貞夫陸相関東軍路線を支持・推進する内閣書記官長森恪(「花々と星々と」を読む35参照)がいました。満州の宗主権を中華民国の手に返し(即ち日本軍満州占領を解き)、そののち満州の経済開発をあらためて中華民国と日本国双方の対等で平等な話しあいにもとづき協力して行うという処理案を唯一のものと考え、軍の意向と正面衝突するその処理案遂行のために身を挺したお祖父ちゃまの内閣に、あるまじき「矛盾」と後世の史家の多くは言います。

 しかし最も「危険な」ふたりを己が懐中に抱えることによって彼らの動きを牽制したいと彼は叶わぬ望みを望んだのでありました。しかし彼は、死にゆく者に対して知識と技術のすべてを注ぐ医者にも似て、人事の限りを尽そうとしたのでありました。尽した人事のもひとつは、大蔵大臣高橋是清の出馬を乞うたことで、金の面で軍を抑える筋金入りの役者として、高橋翁はゆきづまった財政金融の不安を、些かなりとも安定の方向にひきずれる人物でした。

 お祖父ちゃまは一日でも永らえれば一日長く軍を抑えることもできようかと、彼は持病蓄膿症を毎日大野耳鼻医師に来診を乞うことによって癒そうとし、酒を絶ち、塩分を避けていたのでした。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む37

 「道公、卒業式が近いな」彼女は1932(昭和7)年3月、女子学習院前期(小学 4年編成)を卒業し、中期(中学)に進学する予定でした。

「お祖父ちゃんは今日はちと用がある―が、あしたの夕方、大野先生の来たあとならええわ、お祖父ちゃんの部屋の来(こ)う」言い終って再び彼は榧を仰ぎました。

 大野医師の退(さが)ったあと、お祖父ちゃまは、蓄膿症洗滌のため布かせた布団の上で、枕にもたれてちょこんと座っていました。

 「なあ道公」とお祖父ちゃまは切り出しました、「卒業はひとつけじめになるでな、ええ機会と思うてお祖父ちゃんはー」少し間をおいて、「道公に記念をのこしたい…」

「これは孫さん(孫逸仙)の葬式に(支那に)行った折、お祖父ちゃんが見つけた硯で…わるいものではない」それから彼は端渓というものについて少し語りました。

八ヶ岳通信―濃淡庵 小角堂―濃淡庵硯林ー硯譜―基礎知識―その3 端渓硯 

 「それからこの水差しは」ともひとつの箱を開けて、優に美しい一品を、皺深い手で撫でつつ、「やはり支那のものだ。このふたつ……」 

「それからの、楠瀬(名は日年、お祖父ちゃの旧友で彼の表装、硯箱づくりを一手に手がけた)に言うてつくらせたが」と、のこるひとつの箱の中から一本の軸をとり出し、母に手伝わせてひろげました。それはお祖父ちゃまがすでに2年前道子のためとくに書いてくれた「訓戒」でした。濃緑に金粉をあしらった茶掛風の軸の書は子供の眼にもみごとと映りました。「恕」

 …自分は14歳で父を亡くしてから貧窮困苦のうちに成長した、世の辛酸と人の心のうつりかわりを知って人となった、だから他人に対してもあのころの自分の境遇にあるならばと思いやらずにいられぬ。使用人を叱責したことのないのはそのためである。恕せ。思いやれ。恕の心を忘れるな。女孫道子にのこしたい訓はこれである、と。

 おとうさまこんな貴いものをと言いかける母に、「それその反物を取っておくれ、道公や、お祖父ちゃんは道公に着物の一枚を買(こ)うてやったことがなかったな。卒業式に(当時、女子学習院の式服は銘仙紫無地の紋服に袴であった)着てゆく羽織を一枚と思うてとりよせた。お祖父ちゃんの好きなのを三反えらんでな」ふいに茶目っ気たっぷりに笑って、「三反もらおうなどと欲張ってはいかぬぞ。その三反の中から好きなのをおえらび。一反だけだぞ、ハ、ハ」

 彼女はただもう上気して、銘仙に珍しく白の小梅模様を飛ばした紫地のがあって、彼女はためらうことなくそれを指しました、「これ。これがいい」「そうか、それからと、」と

 彼は布団の上から枕もとの小机に手を伸ばしひき出しを開けて(そのひき出しの奥には厳重の封をほどこした遺書―総理大臣拝命の夜ひそかに清書した遺書が入っていた)一包の紙をとり出しました。

 「お祖父ちゃんの友人の支那の人からもろうて大切にしてきた紙じゃ。乾隆(けんりゅう)の帝(みかど 清の第6代皇帝高宗の称、乾隆は年号)の御紙(ぎょし)じゃ。つまり、のう」と乾隆御紙を説明してから「道公にのこす。大切にせいよ」

香寺大好きー8月(13日)生まれの偉人伝―乾隆帝

夏樹美術株式会社―文房具の買い取りについてー紙―乾隆紙

 御紙はこの上なく美しく思われました。一枚は白地に金泥の梅の図。一枚は碧紫の濃淡。愛する孫に遺品を手ずから与えることを思い立つほど、迫り来る「時」をあの風のある一月の午後、彼は榧の梢に「見ていた」にちがいなかったのでしょう…

 新内閣は成立同日閣議で金輸出再禁止を決定、大蔵省は金貨幣・金地金輸出許可制に関する件を公布しました。

 第60議会(1931,12.26開会、32.1.21解散)において犬養首相兼外相は同年12月27日満州問題に関する声明を発表し、「帝国政府は連盟規約、不戦条約(1928.8.27調印 外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)、その他各種条約、及び今次事件関する理事会両度の決議を忠実に遵守せんことを期するものにして、その間政府に於て凡ゆる手段を尽し、日支両軍の衝突を予防するに努めたる誠心誠意と、隠忍自重とは、全く前記諸条約及決議に基く義務に忠実ならんとする精神に出でたるものなること、必ずや世界輿論の認識を得べきを信ず。」と述べています。

 1932(昭和7)年1月21日衆議院解散、2月9日前蔵相井上準之助血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。2月20日第18回総選挙が実施され、政友会が大勝、第1党となりました。

 しかるに軍部は満蒙の実質的日本領土化をめざす中国からの独立方針により、同年1月7日陸軍中央部は、陸・海・外3省の協定による支那問題処理方針要綱(満州独立の方針)を関東軍参謀板垣征四郎に指示、同年3月1日満州国建国宣言を発表、宣統廃帝溥儀が同国執政に就任しました。3月5日には三井合名理事長団琢磨血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。

 これに対して、同年3月12日閣議は満蒙処理方針要綱(支那問題処理方案要綱 「現代史資料」7 満州事変 みすず書房)を決定、軍部方針を表面的に追認しながら、これとはことなる裏工作がすすめられていました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む38

 「何か起る、何か起る…」四囲の空気の切迫は、もう子供にもそれとわかるほどになっていました。

 「ねえ道ちゃん、お祖父ちゃまのとこにできるだけちょいちょい行ってあげようね」と母が言い、父もそう言うので、彼女は総理官邸日本間にべったりといることにしました。

 だがー史料と記憶はどうも食い違っていて、その人(萱野長知「花々と星々と」を読む32参照)が蒼惶として、且つ秘かに、台所口から日本間に「再び」やって来たのは、桜の蕾のふくらむころでした。

 萱野長知。曽て東京留学時代の汪精衛などと共に革新的な「民報」を編し、お祖父ちゃまの早稲田の寓居に中国革命の父孫先生が滞在されたころ、入りびたりであった中国通。武漢での革命戦に孫先生のもとで実際に戦ったこともある熱血漢。お祖父ちゃまを理解し、軍と親軍派が「生命線」と呼ぶ対大陸軍略こそ実は日本を「殺してしまう」愚策と信じてお祖父ちゃまの右手となることを肯じた男。

 1931(昭和6)年の押しつまるころ、お祖父ちゃまは萱野さんを密かに招き、当時中華民国政府の孫科あての極秘の親書を持たせ、商社員を装わせて、軍の背後での日支和平工作第一歩をかためようとしたのです。

 萱野さんは軍の眼をかすめ変名でみごと上海に入り南京に着きました。「国父孫文先生の同志、いま来(きた)る。日中永遠の友好を願って満蒙問題処理のため来る」と下にも置かず中国政府に礼遇されました、日本軍は気づいていませんーと告げる密書がお祖父ちゃまにとどきました。1932(昭和7)年2月初めのこと。

 お祖父ちゃまは飛びたつ思いで、中国政府と正式に交渉すべき第二の人物を秘かに招きました。それは武漢のころ、孫文に三百万円の大金を都合して助けた男。議会政治のみが日本を救う道と信じて動じぬ男、「三十年先だけを見ている」豪胆でしかも細心な男―山本条太郎(山条)でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本条太郎

 彼は、お祖父ちゃまから「萱野・孫科会談を協定書としてな、調印して来てくれないか」と持ちかけられると、軍に知られれば生命の危険があることを承知しながら、「ああ、行って来てやるよ」と豪快に言い放ったのでした。

  内閣書記官長森恪が、じいさん日本間で何かごそごそやっているなと敏感に気づいたのはそのころでした。三井での創設以来の切れ手と曽ていわれた森が、萱野さんや山条さんのいかにも茶飲み話風に出入りするお祖父ちゃまならぬお祖母ちゃまの部屋を臭いとにらんだのは当然だったでしょう。ただちに秘密電報が関東軍の石原中佐に飛び、同時に逓信省(郵政省)に手をまわした森は総理あて一切の電報を押さえたのです。「ダ ケツナル」その一文を最後に、萱野さんからの音信は絶えました。

満鉄と関東軍―昭和初期の内閣―犬養毅 

 

犬養道子「花々と星々と」を読む39

  同年5月15日は爽やかに輝いてまことに日曜日らしい日曜日でした。「今日はね、おひる、みんな外よ」と母が笑いながら言いました。「お祖母ちゃまね、こんやおるすなの。だからおるすの間に、ウフフーだってお祖母ちゃまバタは臭いっておっしゃるでしょーお祖父ちゃまにおいしい洋食、上げるのよ。A1(エイワン それは当時出来た、『一番上等の』フランス料理店であった)にたのむんだけどたのむだけじゃあ具合が悪いからね、まずみんなで食べに行って、たのんで、取ってくるの」「お祖父ちゃま、今から夕方をお待ちかねなの」

 コンソメと軽い一品と特別焼のパンを注文してA1を出たのは午後1時半ころでした。道子は総理官邸に出る一本手前の筋で車を降りました。いまはもうなくなりましたが、そこには外務大臣官舎(旧有栖川宮邸)があり、芳沢(外相)のいとこたちが「テニスをしよう」とさそいをとうにかけて来ていたのを思いだしたからでした。「おそくも5時半にはお祖父ちゃまんとこに来るのよ、お待ちかねだからね」と母は外相官邸の広い車寄せに小走りに入る道子の背に言葉を投げました。「ママと康ちゃん(道子の弟)はもう行ってますからね。パパも5時には用をすませていらっしゃるからね」

 ラケット遊びの途中でしかし道子はさすがに気になり出しました。「いま何時?」「4時半」「そろそろ帰る」と彼女は言いました。「やだァ道ちゃん、もう少し」少し少しと釣られて5時になり、陽はもはや傾いていました。

 そのころ、母は日本間台所のまかないに指図をし了えて、少々早いはわかっていましたが御馳走の前に食堂でお茶でも一服と思い、お祖父ちゃまを呼びに行きました。お祖父ちゃまは喜んで、母のあとから食堂に向いました。

 ちょうど廊下が鍵の手になる中庭の角まできたとき、母は異様な足音と物のはじけるような「ふしぎな音」を耳にしました。(それは護衛田中巡査の撃たれた音だったのです)

 何ごと、と立ち止まったとき、ころぶが如く、護衛のもひとり、村田巡査が走りこみました。「暴漢です、お逃げ下さい!お逃げください!」

東京紅團―テーマ別散歩情報―戦前を歩くー5.15事件を巡る(下)

 「いいや、逃げぬ」お祖父ちゃまはしずかに言いました。「逃げない、会おう」言葉の終りやらぬうち、海軍少尉の制服をつけた二人と陸軍士官候補生姿の三人が土足のまま、疾風の勢であらわれました。お祖父ちゃまを見ると矢庭にひとりが拳銃を突き出し引き金を引いたのですが弾丸は出ませんでした。

 「まあ、急(せ)ぐな」「撃つのはいつでも撃てる。あっちに行って話を聞こう……ついて来い」お祖父ちゃまは先にたってひょこひょこと歩きはじめました。4人の若者は一瞬気を呑まれた風におとなしくあとにつづきました。

 母は本能的に弟を抱きあげて胸の中に包みこみました。その胸にひとりが拳銃をぴたりとつけたので、母は中庭とのさかいをなすガラス戸に釘づけとなりました。

 

犬養道子「花々と星々と」を読む40(最終回)

 お祖父ちゃまは嫁と孫から一番遠い「突き出た日本間」に暴漢を誘導しました。床の間を背に、中央の卓を前に坐り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう…」

 そのとき、母は自由に動かせる眼のはしに、前の5人よりはるかに殺気立った後続4人の「突き出た日本間」に走りこむさまをチラととらえました。

 「問答無用、撃て!」の大声。次々と九つの銃声。母の胸に拳銃をつきつけたひとりも最後の瞬間走り去って撃ちました。彼が走ると同時に母は弟をその場に置いて、日本間に駆け込みました。

 こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中でお祖父ちゃまは、卓に両手を突っ張り、しゃんと坐っていました。指は煙草を落していませんでした。母につづいてこれまた台所から馳け入ったお祖父ちゃま付きのあのテルが、おろおろすがりつく手を払うと、「呼んでこい、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じてから、ちょっと待て、まず「煙草に火をつけろ」しかし火はつきませんでした。テルが激しく震えていたからです。テルは震えつつも若いモンを呼びに走りましたが、無駄でした。

  母はお祖父ちゃまが即死でないのを確かめると、その日の午後も宅診を願った大野医師がまだ官邸にいたので、お祖父ちゃまの応急手当を依頼するとともに、青山(外科)博士以下数人の名医に電話したのでした。

 「大変です!大変です!総理が…」テニスコートに向って外相官舎付きの事務官が叫びつつ駈けこんだのは5時20分ころです。

 道子は外相公用車にとにかく乗ったのをおぼえています。顎紐を結んだ警官数十人が続々と詰めかけていたので、正門から入れず、裏道で車を降り、勝手知った道をいとこたちの先頭に立って裏門から内玄関へ。さいしょに目についたのは、蹴破られたあの杉戸で、、戸のわきに田中巡査が倒れ、数人が「しっかりしろ大丈夫だ」と叫びつつ手当をしていました。「突き出た日本間」の襖は大きく開け放たれ、縁側近くにお祖父ちゃまの横たわっているのが見えました。応急の包帯で頭から首にかけて包まれた姿で。

 「入っちゃだめ」と母が洗面器と白布を手にして廊下まで出て来て言いました。「大丈夫です」彼女は声をあげて泣きました。

 そのころから続々と医師団が到着しはじめ、お出ましだったお祖母ちゃまも芳沢の伯母さまも父も、閣僚も次々に小走りの緊張し切った姿を見せました。

 6時40分に医師団の最初の発表がありました。こめかみと顎から入った弾丸3発。背にも4発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命は取りとめる」

 8時過ぎ、お祖父ちゃまは布団ごとかつがれていつもの部屋に移されました。彼女はのぞきに行きました。

 「心配せんでええわ、なに、痛いかって? 弾丸が入ったのじゃから少々痛むのは当たりまえだ。まあ、みんな少し休んだらどうかな」

 で、道子はごったがえす官邸をぬけ出してひとまず秘書官舎に帰りました。かよにすすめられて、客のためつくった炒り鶏(とり)と五目ずしをつまんでから、赤いセルの寝間着に着かえた彼女は廊下をうろうろと歩きまわりました。

 10時過ぎ、あわただしく玄関の戸が叩かれ、だれかが上ずった声で呼んでいました。「道子さま!道子さま!早く、早く!」

 ―お祖父ちゃまの部屋のたたずまいは、8時に見たときと一変していました。窓辺に低く置かれたスタンド以外一切の電灯は消され、黄ばんだ丸い小さな光の環の中で、包帯に包まれたお祖父ちゃまの口を少しあけた顔だけが浮いていました。苦痛のかげはなく、顔はいつものようにーいや、いつもよりははるかに柔和にみえました。呼吸は間遠であり弱くありました。

 医師団は彼女たち家族を取り巻いて粛然と起立していました。その背後に高橋蔵相。鳩山文相。鈴木法相。中橋内相…

 お祖父ちゃまの安らかな顔に白布のかけられたのは午後11時26分でした。まろぶがごとく彼女は庭に走り出ました。まっすぐにあの榧の根もとに。涙はもはや涸れ、仰げば、澄んだ暁の空に星が無数にきらめいているのが見えました。待っても待っても、しかしお祖父ちゃまの魂は見えませんでした。