城山三郎「男子の本懐」を読む1~10

城山三郎「男子の本懐」を読む 1

 城山三郎「男子の本懐」(「城山三郎全集」1 新潮社)は「週刊朝日」[1979(昭和54)年3月23日号~同年11月20日号]に連載されたノンフィクション小説で、第27代首相浜口雄幸と彼の盟友井上準之助蔵相の生涯をたどった作品です。

 浜口雄幸は1870(明治3)年4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷(からたに)の水口家にうまれました(浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)。

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 水口家は土佐藩の山林見回りを勤めるお山方の家柄で、彼の父水口胤平(たねひら)は、明治時代になっても、山林官として同じ仕事をつづけていました。

 雄幸の長兄義清は十六も年上で、五台山竹林寺の勧学院に弟子入りしてあまり家におらず、次兄義正は八つ違いの腕白大将で、これも留守勝ちでした。

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 郷士の娘で母親の繁子は7年ぶりに身ごもり、両親は娘の出生を期待したのですが、生まれたのは男子であったため、やむなく「雄幸」と名をつけ「おさち」と呼ぶことによって満足したといわれます(小柳津五郎「浜口雄幸伝」伝記叢書 大空社)。

 少年になると雄幸はがっしりとした体つきになり、獅子鼻で眉が上がり、どんぐり眼に角ばった顔つきになってきました。母は家のきりもりや畑仕事に追われ、雄幸には構わなくなったので、雄幸は山あいの一軒家で幼いときからひとりぼっちで、一日の大半を過ごし、やがて字が読めるようになると、むさぼるように読書にふけりました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 2

 近くに高知県下最初の小学校の一つであった孕(はらみ)尋常小学校ができましたが、2学級しかなく。正規の教員もおらず、長兄の義清が教えたりしました。

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 雄幸は学校から帰ってもほとんど本ばかり読んでいたので成績優秀、高知中学(高知県高知追手前高校の前身)に入学すると、往復4里の道のりで毎朝6時前には家を出て、学校に着くとまだ校門が開かず、その前で本を読むことも珍しくありませんでした。3年生を終わると成績優秀で飛び級して5年生に編入されたのですが、体育だけはにが手で跳び箱が飛びこせず、箱の上に尻餅をついてしまう状態でした。

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 土佐出身の自由民権運動の指導者板垣退助(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む8参照)を盟主とする自由党の活躍時代で、中江兆民(「火の虚舟」を読む1参照)の政治結社も動きだして政治運動も活発でした。雄幸もこのような雰囲気の中で、会合に出席して、公然と主張を述べたりすることもあり、少数ながら友人もできましたが、そのつき合い方が通常とは異なっていました。かれは友人の家へ遊びにいっても、自分からはほとんど口をきかず、部屋の隅に坐ったり寝ころんだりして2~3時間過ごしてから、ふいに立ちあがって帰っていくのです。

 当時高知中学校に、教え子全員の寸評をした漢学教師がいましたが、この教師による雄幸評は「雲くさい」の一語であったそうです(小柳津五郎「前掲書」)。

 中学校5年のとき、雄幸に養子縁組の話が持ち込まれました。浜口家は高知市の南東約50㌔の安芸郡田野町郷士で、剣客としても有名な浜口義立(よしなり)には男子二人が夭折、夏子という高知の女子師範に学ぶ娘一人しかおりませんでした。よい婿養子を迎えるために、義立は友人知己に頼んで歩いたのですが、それでは満足できず、高知中学校で卒業生から在校生まで、成績・操行・身上などを調べ上げた結果、学業成績抜群、志操堅固で三男坊の水口雄幸を見出だし、校門に立って首実検までして惚れこんだようです(北田悌子「父浜口雄幸」日比谷書房)。

 浜口義立はやがて水口家に出かけ、雄幸の養子縁組を申し入れました。雄幸の父水口胤平は浜口義立の熱意に圧倒されて本人の意思を確かめると、どうでもいい様子だったので、高知中学校の卒業式が終わると、19歳の雄幸は仲人に伴われて16歳の夏子と初対面の挨拶をし、養子縁組の盃を交わしました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 3

 養子縁組の盃を交わすと、雄幸は海を渡って大阪に赴き、第三高等(中)学校(京都大学総合人間学部・岡山大学医学部の前身)に入学、法科に在籍、1889(明治22)年学校の移転に伴い、京都で下宿生活をするようになり、幣原喜重郎(「伊藤博文安重根」を読む3参照)らと首席を争いました。同校在学中すでに「ライオン」と綽名されていたようです(小柳津五郎「前掲書」)。

華麗なる旧制高校巡礼―第三高等学校 

 溝渕進馬という高知中学以来の友人と時々相撲をとったりするだけで、あとは従来通り黙々と読書に耽る毎日でした。夏冬の休暇に田野へ帰省しても、黙って読書やひとりで川辺、海岸を散歩したりするだけで、だれとも口をきこうともしません。一度か二度彼が唐谷の実家まで約40㌔の道のりを馬の背にゆられて帰ったときも、馬を引く下男と全く口をきかず、例外として「もう、行かう」の一語だけ口を開いたと下男が報告したそうです(北田悌子「前掲書」)。夏子や養家の人々は最初とまどったようですが、事前に雄幸の性格を聞いていたので、そっと見守るだけでした。

 数え20歳のとき、彼の父胤平は死去、三高在学中21歳で夏子と結婚、やがて帝国大学法科へ進学、最初の一年は寄宿舎生活でしたが、翌年夏子が上京し一戸を構えるようになりました。

 雄幸は相変わらず、身なりを構わず、黙々と登下校して、運動もせず趣味も持たず、倶楽部やサークル活動にも参加せず、ちょっと鎌倉の円覚寺へ参禅したことがあるだけでした。当時の東大の学生は天下国家を論ずる風潮がさかんでしたが、雄幸は傍聴しても討論に参加することはありませんでした。彼は政治家志望でしたが、これからの政治家は財政経済に通暁することが必要と考え、アダム・スミスの「国富論」を読みつづけました。

 1895(明治28)年7月雄幸は東大を卒業しましたが、卒業時の成績は小野塚喜平次(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造4参照)がトップで、浜口は2番でした。

 高等文官試験の最中、雄幸の長女和子が危篤状態となり、一時試験をあきらめようとしましたが、夏子が必死になだめ、思いとどまりました(今井清一浜口雄幸伝」上巻 朔北社)。試験最終日における憲法の口頭試問で、彼は試験官の一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読む―Ⅰ-吉野作造3参照)と憲法の解釈について対立、幸いにも合格して大蔵省に入省しましたが、和子は死去、、雄幸の表情は暗かったのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 4

 大蔵省内では新人なのに年齢より老けた感じで、同僚と酒で羽目をはずすこともなければ、喫煙もしません。上役に煙たがられたのか、入省1年目に山形県収税長に転出、半年後には松江に飛ばされ、山形と松江で1年2箇月経過すると、本省会計課長を命ぜられました。

 しかし浜口雄幸大蔵大臣経費の一部を削減したことから、その復活を求める大臣秘書官と衝突、たちまち名古屋へ、1年足らずで収税官として四国の松山へ転任、長い不遇ないわゆるドサ廻りの境遇が始まりましたが、彼は黙々と職務に精勤、深夜まで相変わらず読書に励み、ときには書画に親しみました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー浜口雄幸

 松山に1年居てさらに九州の熊本に税務監督局長の肩書で赴任することになり、ここで高知中学の同期生だった熊本医大教授山崎正薫に出会いました。浜口夫妻は健康状態も悪く山崎教授の尽力をうけましたが、山崎教授は浜口家について「贔屓目に見ても余りに粗末な身なりや、住居も局長のそれとして随分ひどい。家が粗末な上に室内には装飾一つなく、掃除も行き届かないという有様で、いかにも貧乏臭かった。(中略)君が何だか以前と違って元気がなくて意気消沈して居たように見受けた。」(浜口前総裁追悼号 「民政」付録 民政社)と述べています。

 しかし経済学を中心に、勉強はつづけていました。松山以来、ずっとロンドン・タイムスを購読、草深い日本の田舎にいても、国際的視野を失わないよう心がけたのです。

 東京にいた友人たちもやきもきして運動し、若槻礼次郎の尽力で1902(明治35)年1月浜口はようやく熊本と同じ税務監督局長として東京に戻りました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 5

 しかし東京税務監督局長も1年半で、浜口は外局の専売局へ転出となり、肩書は煙草専売局書記官兼臨時煙草製造準備局事務官となりました。このころから彼は煙草を吸うようになります。

たばこと塩の博物館―たばこと塩のあれこれーたばこの歴史と文化―明治以降のたばこ文化―明治のたばこ商たちー専売の時代(戦前)―世界の塩・日本の塩―日本の塩

 専売局での最初の仕事は従来行われていた民間業者による煙草の製造をやめさせることでした。2年半後部長となり、帝国議会の委員会ではじめて政府委員として答弁に立たされ、さらに1年経って専売局長官となりました。

 長官となった浜口は塩の製造をコストの安い大規模塩田に集中し、零細な塩田を廃止しょうとする問題に直面しました。零細業者の反対は激しかったのです。議会でもきびしい批判にさらされたとき、浜口は冷静に、資料を手にすることもなく、暗記した主要な数字を挙げて答えたので、自由民権運動以来の論客島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)が、「唯今の政府委員の答弁は明快で、本員の大いに満足するところであります。」(尼子止「平民宰相浜口雄幸」 御厨貴監修「歴代総理大臣伝記叢書」19 ゆまに書房)と称賛したほどでした。 

塩事業センターー塩の知識―歴史編―制度の変遷  

 このような浜口の取り組みに注目したのが初代満鉄南満州鉄道・「坂の上の雲」を読む48・「伊藤博文安重根」を読む12参照)総裁となった後藤新平でした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー後藤新平

 後藤は浜口に満鉄理事への就任を要請しました。満鉄理事は当時の中央官庁における次官以上の地位といわれ、はるかに高い俸給も約束されていたにもかかわらず、浜口は塩田整理問題の未完を理由に、後藤の要請を辞退したのです(浜口雄幸「前掲書」)。

 1908(明治41)年7月14日第2次桂太郎内閣が成立、後藤新平逓信大臣に就任すると、彼は再び浜口を逓信次官に迎えたい意向を示し、これも大蔵官僚として、専売局長官以上の昇任は期待できぬ浜口にとって有利な人事であった筈ですが、満鉄理事人事のときと同じ理由で浜口は今回も辞退しました。

 塩田整理は1911(明治44)年総て完了、天皇は浜口の労をねぎらって金盃を下賜しました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 6

 1912(大正1)年12月21日第3次桂太郎内閣が成立、後藤新平が再び逓信大臣に就任すると、後藤は再び浜口の逓信次官引っ張り出しにかかりました。まさに中国の故事にいう三顧の礼というべきでしょう。

故事成語大辞典―サイト内検索―三顧の礼   

 策士の一面を持つ後藤新平にとって、愚直ともいえる上記のような浜口雄幸の身の処し方は、そうした側面に乏しい後藤に新鮮な魅力として感じられたのではないでしょうか。

 浜口は大蔵省の先輩で同内閣の蔵相若槻礼次郎の意見も聞いた(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史―古風庵回顧録―」講談社学術文庫)のですが、塩田整理は完了しており、後藤の要請を辞退する理由がありません。第3次桂太郎内閣は成立当初から短命が予想され(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13~14参照)、かかる内閣の傘下に入ることは浜口にとって不利益であることがわかっていたにもかかわらず、彼は後藤の知遇に応えて逓信次官就任を受諾、専売局長官を退職しました。予想通り同内閣は翌年2月11日倒壊、浜口も同次官を辞任して無職の身となったのです。

 これより先桂太郎は新党立憲同志会を結成、若槻礼次郎後藤新平も参加、浜口もこれに同調して入党、後藤は同会結党直後、諸種の対立から同会を脱党しましたが(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)、浜口は後藤と行動を共にすることはありませんでした(浜口雄幸「前掲書」)。

 1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が成立、若槻礼次郎大蔵大臣に就任(新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会)すると、若槻は浜口を大蔵次官に起用しました(浜口雄幸略歴 浜口雄幸「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―わー若槻礼次郎

 左遷による地方回りと外局勤務という大蔵省の主流から外れたコースをたどってきた浜口雄幸は、ここでやっと大蔵省首脳部に立ち、その手腕を発揮する機会に遭遇したのです。    

 しかし彼は感慨にふけっている暇はありませんでした。同内閣成立早々の同年6月28日サラエボ事件をきっかけとして第1次世界大戦が勃発、日本も同年8月15日ドイツに宣戦布告して大戦に参加しました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)。大戦勃発による臨時軍事費の調達や次年度予算編成に忙殺されるなかで、浜口は横浜正金銀行頭取井上準之助としばしば顔合わせをするようになりました。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 7

  井上準之助は1869(明治2)年3月25日、大分県日田郡大鶴村(日田市大鶴町)で代々造り酒屋を営む庄屋井上清・ひな子夫妻の第七子五男として生まれました(青木得三「井上準之助伝」井上準之助論叢5 明治百年史叢書 原書房 )。

おいでひた.com―サイト内検索―清渓文庫(井上準之助の生家を記念館にしたもの)

 7歳のとき叔父井上簡一の養子に出されました。井上簡一は広瀬淡窓の咸宜園に学び塾を営んでいましたが、準之助はこの養父の許から小学校に通い、級長になったのですが餓鬼大将でもありました。

 あるとき、大木に上ってぼんやりしていると、通りがかりの老人が「高い木の上で考へてござらっしゃるが、郡長にでもなるのかえ」と声をかけると、準之助少年は「俺は郡長ぐらゐにはならぬ。なれば大臣になるさ。」とやり返したそうです。

 11歳のとき養父簡一が急死のため、家督相続、12歳で豆田町の郡立教英中学に入学、次兄が豆田町へ養子に行っていたので、その家に間借りして勉強しました。しかし中学2年を終ってリュウマチに罹り、さらに心臓を病む不幸に見舞われ、好転しません。

 医者に学業の放棄をすすめられ、同中学校をを退学、久留米に名医を訪ねて1年半、ようやく健康を回復して大鶴村の実家に戻りました。

 でも実家は家業が傾き、母は父に代わって長男初太郎とともに家業の立て直しに懸命で、準之助には冷淡でした。それに家業を手伝っても失敗が多く、彼は母の許しを得て門司から三兄良三郎の世話で兄の勤務する日本郵船の貨客船に乗って上京しました。だがこれといった就職先もなく、成立学舎などで勉強、一高を受験しましたが、それまで漢学中心の教育を受けてきて、英語や数学ができなかったため不合格でした。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 8

 次いで第二高等(中)学校(東北大学教養部の前身)の補欠募集を受験して合格、1887(明治20)年、19歳で仙台での学生生活がはじまりました。

華麗なる旧制高校巡礼―第二高等学校―片平丁校舎  

 井上準之助について後輩の結城豊太郎(興銀総裁)は「井上さんはあそこを第二の故郷以上に憧れ、常々同級生殊に高山樗牛を懐しみ、後々まで二高生に話しかくることを此上なく楽しんでおられたが、先年同校に開校二十五周年記念式があって参られたことがある。(中略)あの時井上さんの母校に対する懐かしそうな態度といったら尋常なものではなかった。日本銀行総裁時代に、俺れは総裁をやめたら高等学校の校長になって見たいと時々言うて居られたが、(中略)若し二高の校長になる機会があったら、欣然就任せられたことであろう。」と述べています(青木得三「前掲書」序文)。

 二高では小編成で友人に恵まれ、井上がとくに親しくなったのは高山樗牛であり、両人は首席を競い、寮では同部屋で起居しました。高山が深夜まで勉強するのに対して、井上は夜10時ころには寝てしまうタイプでした。英語に関してはおくれをとり戻そうと猛勉強、英語会には高山と二人で出席してシェイクスピア劇では井上が重要な役割をつとめました(清水浩「清渓おち穂」井上準之助論叢編纂会)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー高山樗牛 

 医学部の学生と宿舎の問題でもめたことがありました。血の気の多い弁のたつ高山が強気で相手を「大体貴公らはコモンセンスが無い」というと、ドイツ語には明るいが英語は苦手な相手がコモンセンスを「昏盲精神」と聞きちがえて大騒ぎになりました。このとき井上が仲裁に立ち、両者の食い違いを明らかにして仲直りしましたが、彼はもめごとをまとめるのがうまかったようです。

 二高を卒業して級友が離れ離れになる日、井上は学友たちにこう述べました。「これからも、より以上に健康には注意しなければならぬと思っている。(中略)勉強よりも健康が大事だから、みんなも誓って一つ身体を丈夫にしようじゃないか」(清水浩「前掲書」)

 大病を経験した井上にとって、健康を軸に、合理的な生活設計をーという生き方が彼の生涯を貫いていくのです。

 

城山三郎「男子の本懐」を読む 9

 井上は浜口より1年遅れて東大法科へ進学、寄宿舎では就寝前に約1時間半ほど勉強する程度、同期生より2~3年年長でしたから、同室の仲間と口角あわを飛ばして議論することはありませんでした。

 卒業前の1年は麹町区富士見町の兄良三郎の家に寄宿、とりよせた原書による法律の勉強を開始しました。彼は弁護士志望で、世話になった兄に役立つようにと、商法、それもイギリスの海商法を中心に判例を研究するというような勉強に励み、商法の口頭試験で優秀な成績をとったので、卒業成績は2番でした。

 恩師や友人は官吏になることをすすめてくれましたが、役所はどこも窮屈な職場と思われ、それに井上が勉強したのは公法(憲法行政法など)ではなく商法が中心で、それを生かせる職業がいいと思っていたのです。

 そうした彼を見かねたように、兄良三郎がこんな話を準之助に持ち込んできました。同じ大分出身の山本達雄日本銀行の理事をしている。かねて面識があるところから、弟の就職を頼んでみると、こころよく採用してくれるということでした。若手を外国に出すことも考えているそうで、ひとつ行ってみる気はないかという話です(清水浩「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本達雄

 準之助はとくに希望したわけではありませんでしたが、勉強もできるようだし、わるい職場ではなさそうだと思い、日本銀行に就職することにしました。1896(明治29)年のことです。

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―日本銀行百年史

 

城山三郎「男子の本懐」を読む10

 井上の最初の勤務地は日本銀行大阪支店で、初任給は25円、貸付割引係に配属となり、帳面付けと算盤の訓練から始まりました。支店員は全員和服を着ていたのに、井上は背広を着用して出勤、英語が得意で外人客が来るともっぱら井上独りの出番でした(清水浩「前掲書」)。

日本銀行大阪支店―大阪支店のご案内―支店の歴史

 彼はやがて本店に呼び戻され、翌年銀行業務研究のため、イギリスとベルギーへ2年間の出張を命ぜられました(「留学日記」井上準之助論叢4)。

 1897(明治30)年10月、井上は同銀行函館支店から呼び戻された東大卒の1年先輩土方久徴とともに横浜を出帆、ロンドンに赴きましたが、日銀最初の海外研修であったためか先方の受け入れ態勢も整っておらず、英国中央銀行であるイングランド銀行は両人の研修受け入れを認めません。

 日本公使館[加藤高明駐英公使在任(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)]から交渉してもらってもだめで、結局日本へ最初に銀行業務を教えるために来日したシャンド(Alexander Allan Shand 土屋喬雄「お雇い外国人」8 金融財政 鹿島研究所出版会)が関係するパースバンクに見習いとして受け入れてもらいました。

 土方が支店詰めだったのに対して、井上は本店詰めで技術的なことよりも銀行の仕組みや運営に興味をもちました。暇なときは本屋に行き、金融関係だけでなく、経済・政治・歴史・文学などさまざまな分野の本を買い込みました。親友高山樗牛のための本も購入して日本へ送ったようです。

 井上の日銀就職を世話してくれた山本達雄は郵便汽船会社三菱の出身で、もともと岩崎弥太郎(「竜馬がゆく」を読む16参照)の補佐役をつとめ、松方正義の推薦で1889(明治22)年日銀総裁となった川田小一郎の引き立てにより、日銀入りをした人物で、1898(明治31)年10月20日43歳の若さで日銀総裁となりました。

 しかし私学出身で中途採用の山本に対する帝大出身者の多い日銀内部の反感は激化、山本総裁就任4ヵ月で理事・局長・支店長の大半11名が辞表を提出して山本を失脚させようとしました(日銀ストライキ事件・「日本銀行八十年史」日本銀行史料調査室))。

 しかし山本は彼等の辞表を受理して人事の刷新を企て、1899(明治32)年横浜正金銀行副頭取高橋是清を日銀副総裁に迎えたのですが、この非常事態のためロンドンにいた井上らの若手までが日本へ呼び戻されました(「書翰」仙台 高岡松郎宛 明治32年5月21日付 井上準之助論叢4)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー松方正義 

 

 

 

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む41~50

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む41

 ここへ来てから半月ばかり後、11月号の「青鞜」と野枝さんからの厚い手紙が届きました。その手紙の内容は、大体つぎのようなものでした。

 「自分がつくった雑誌があまりに不出来なので、自分にあいそがつきた。出来るなら12月号の編集はお断りしたい。」と一応12月号の編集を断ったうえで、「この仕事をあなたの代理としてやるのはやりにくくて困る。もしあなたが『青鞜』の編集、経営のすべてを私共の手に委(まか)して下されば、もう一度覚悟し直して、辻と一緒に出来るだけやってみてもいいとも思う」といい、「とにかく冷静なあなたの判断を待ちます。」と書いてありました。

 彼女はとりあえず「12月号は、あなたが一たん引受けたことであり、とにかく今のままでやって下さい。これからのことは今考えています。わたくしの考えがまとまるまでしばらく待って下さい」という意味の返事を出しました。

 自分自身の内部の声は、ここで右か左かの決断をしいられれば、躊躇(ちゅうちょ)することなく、奥村と二人きりで静かに勉強したり、書いたりという自由な生活を選ぶことでしょう。そのためには「青鞜」はここできれいに廃刊すべきです。

 しかし、そう思う一方で、もしほんとうに野枝さんたちの手で続けてもらえるものなら、それも結構だけれど、野枝さんの現在の生活でそれが可能だとは、どうしても彼女には思えないのでした。でもとにかく会ってよく話してみようと思い、野枝さんの手紙を受取ってから約5日後に上京しました。けっきょく、野枝さんの烈しい気性におされて廃刊を断念、野枝さんに「青鞜」を任せることにしました。その日はそのまま別れました。

 二日目に改めて彼女の上駒込の家の事務所に来てもらい、青鞜社の所有品全部を野枝さんの引っ越し先、小石川竹早町の家にへ運んでもらいました。

 これで1915(大正4)年以降の「青鞜」は名実ともにすべて野枝さんの責任において発行されることになりました。

 彼女はその日すぐ上駒込の家をたたみ、荷物は曙町の家の物置に移して、ふたたび奥村の待つ御宿海岸の宿に引返しました。そしてこの美しい海べで大正4年の元旦を、奥村とふたりで心しずかに迎えたのでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む42

 御宿海岸との別れを惜しみながら、やがて東京へ帰り、小石川西原町一ノ四に新居を定めました。この借家に落ちつくと、すぐ奥村は近くなった小石川の植物園へ日課のように大きなカンバスをさげて描(か)きに出かけます。彼女は山田嘉吉(らいてう研究会編「前掲書」)先生のお宅へ通い、まずウォード(らうてう研究会編「前掲書」)の社会学の勉強をはじめることにしました。そのかたわら、食べるための必要から、生まれてはじめて小説というものを書きはじめました。「時事新報」に連載された「峠」という小説(「平塚らいてう著作集」2)がそれですが、前年、御宿に滞在中、訪ねて来た「時事新報」の記者との交渉の中から生まれたことで、それも森田先生との、あの塩原事件をテーマにしてということでした。

 ところが、書いているうちに、ある日突然胸のむかつきを覚えるようになり、すぐつわり(傍点、筆者省略)ということはわかりました。その気分の悪さに加えて、「峠」を書きだしてからの、奥村の態度の変わり方は、彼女にはつわり以上にもこたえました。まだ数え年二十四歳の若い男の心には、自分が父親になるという実感ももてなかったでしょう。まして一方で嫉妬になやんでいる心にはー。

 こうして、けっきょく「峠」はつわりの苦しみと、奥村の嫉妬のはねかえりのために、心ならずも、途中で筆を折ることになってしまいました。 ずっと後にきいたことですが、徳富蘆花(とくとみろか 「大山巌」を読む45参照)さんが、この作品に興味をもたれ、毎朝読んでいられたということでしたが、亡くなられたあと、遺品を整理していたら、「峠」の切りぬきが出てきたと、愛子未亡人からうかがったことがあります。

 母となることにも、自主的でなければならない。すべての婦人が母となるについて、自由をもつべきであるという考えのもとに、恋愛を肯定したのちにも、なお母となることを避けて来た彼女ですが、子どもがほしくなければ、自制すべきだという考えに支配されがちな彼女は、全面的には避妊を受けいれかねるという甚だ不徹底な態度の結果、母となる十分の条件がととのわないうちに、心ならずも、母となる日を迎えることになってしまいました。

 こんな思いのとりこになっているとき、偶々やはり妊娠中の原田皐月さんが、彼女と同じような悩みのなかからまことに大胆な堕胎肯定論を、その月(大正4年)の「青鞜」(5巻6号)誌上に発表しました。それは「獄中の女より男に」(堀場清子編「前掲書」)と題するもので、堕胎罪をおかした女が、獄中から男にあてた手紙の形をとったものでした。

 皐月さんのいおうとしていることは、けっきょく親として満足できる状態でないかぎり、親になるべきではない。そのためには堕胎もやむを得ない。それが法律にふれることであっても、自分の信念にしたがうほかないということで、いかにも皐月さんらしく、思いきったものでした。「青鞜」(5巻6号)は久しぶりに発売禁止の処分をうけました。

 皐月さんのこの堕胎論に対して、エレン・ケイの母性主義を信奉する山田わか(らいてう研究会編「前掲書」)さんは、真正面から反対し、四周年記念号(5巻8号)に「堕胎に就いて」の一文を寄せました(堀場清子編「前掲書」)。

歴史が眠る多摩霊園―頭文字―やー山田わか 

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む43

 彼女にとっても、この問題は、母となる日を前にして、いうまでもなく切実なものでした。同じ四周年記念号に彼女は「個人としての生活と性としての生活との間の争闘に就いて」(「平塚らいてう著作集」2)という長文の感想を寄せました。それは野枝さんあての手紙の形式で書いたもので、それは大体、こんな意味のことでした。

 「自分も妊娠の初期に一時やはり堕胎の妄想にとらわれたことがあった。一番気になることは、今子どもを否定することが、自分たちの現在および未来を通しての生活全体のために、はたしてもっとも正しい、そして賢いことだろうか。他日悔いるようなことはしたくないということであった。もしここに十分な思慮と落ちつきをもって堕胎を行なう人がいたとしたら、それをも許しがたい罪悪だと責められるだろうか。」

 このような一連の堕胎論議も、妊娠中絶という言葉で、平気で行われている今日の時代からは、どのように見られ、受けとられることでしょうか。

 避妊問題についても同様です。いま避妊は当然の個人の権利だというように考えられていますが、当時はそうした視野はなく、避妊の方法など実際的な知識を与えられる機会など全くなかった時代(避妊薬のあることをなにかで知っていた程度)でした。日本で避妊が公然と社会的な問題になったのはサンガー夫人の来日[1922(大正11)年3月10日 新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会]以後のことです。

 彼女の書いた「個人としての生活と性としての生活との間の争闘に就いて」の一文に対して、このとき、まだお目にかかったことのない有島武郎氏から、初めて長文の手紙をもらいました。安子夫人が「青鞜」を読んでいられた関係で、お目にふれたものらしく、「たいへん感動して読んだ……改めて敬意を表する」というような懇切な内容のもので恐縮しました。

北海道ニセコ町―まちのご案内―有島記念館―有島武郎についてー有島武郎略年譜  

 こういう女の問題を、真面目に読んでくれる男のひとのあるのはうれしいことでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む44

 ひどかったつわりが、ようやく回復しはじめた1915(大正4)年7月初旬、彼女たちは、西原町の家をたたんで、四谷南伊賀町の、山田嘉吉先生の裏隣の貸家へ移ることになりました。山田先生は社会学が専門で、婦人問題についても造詣が深く、当時彼女が取り組んでいたエレン・ケイについての知識も豊富で、毎朝おわかさんのためにケイの著書を読んであげていることを知り、その仲間に自分もいれていただいていたわけです。 ここに来て、いよいよ午前のエレン・ケイの「児童の世紀」を勉強する時間のほかに、午後の時間を設けて、ウォードを読むことになりました。

 レスター・ウォード(1841-1913)はアメリカの有名な社会学者で、最初に社会学という新しい学問を体系化した人です。

 青鞜社員の斎賀琴(子)(のちの原田・らいてう研究会編「前掲書」)さんらは彼女より先に、山田先生のもとで、英語を習っていたのですが、それは斎賀さんが意にそわぬ結婚を強いられて家出し、恩師宮田修氏の家に厄介になっていたころのことでした。

JKSK 女子教育奨励会―黄金の鍵 語りつぐ、女性の物語―バックナンバーリストー2003年7月 『青鞜』第9回 「家父長制度と新しい女」斎賀琴子

 斎賀さんの「青鞜」(5巻10号)に出ている「戦禍」(堀場清子編「前掲書」)という感想は、いま読み返しても、つよい感銘をうける、反戦的文章といえましょう。

 1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が勃発(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)しておりますが、「青鞜」誌上には、ほとんどその反映が見られません。そのなかで、斎賀さんのこの感想は、貴重なものでした。

 「(前略)恐ろしい戦争の惨禍は只に幾多の貴い精霊を犠牲にし、その白骨を風雨に曝すばかりではなく、残された人々の上に負い難い苦痛を授けます。一国にとりましても勝敗何れにかゝはらず、損害を斎(もたら)すもので御座ゐます。何故に人類は多額の費用と時と知識とを、無益にして徒な殺生に耽るのでせうか!」

 南伊賀町に移った1915(大正4)年の夏、そのころの奥村は、フランス語の勉強と、植物園へスケッチに通うことを仕事にしていましたが、お盆前後から、だんだん咳きこみ方が激しくなってきました。医者嫌いの奥村がようやく納得して、診察を受けた結果は、一期の終りか二期のはじめという診断でした。

 七度前後の熱が五、六日つづいたところで、ようやく院長からゆるされて、汽車にのり、茅ケ崎の南湖院へ奥村を送ったのは、秋風の吹きはじめたころでした。

 身重のからだでいまより以上に働くことは、思うにまかせないことでした。いろいろと仕事の約束をしては、借りられる限りの金を商店や雑誌社から借り、奥村の絵も、売れるかぎりは売るということにしました。ときにはおわかさんに、急場しのぎの借用を申しこむこともありました。このあたりのことは、翌1916(大正5)年の「中央公論」12月号に「厄年」という題で書いた小説(「平塚らいてう著作集」2)に詳しく出ております。

 いよいよ出産の予定日をむかえ、最初の陣痛を覚えた彼女は、赤ん坊の産着や手まわりの支度をととのえ、俥をやとって、本郷東片町の篠田病院へ向かいました。この病院長は女医で曙町の家のかかりつけの医師であり、ここをすすめてくれたのは母です。

 院長からは前もって、齢をとってからの初産であり、多分難産だろうとは警告されていました。ようやく明け方になって生まれた赤児は、逆児(さかご)で、胞衣(えな)を首に巻きつけ、仮死状態でこの世にあらわれ、しばらくして力強い呱々(ここ)の声を上げました。

 病院では、一にも二にも彼女のことを気遣い、面会謝絶の札を出してくれましたが、どこから洩れるものか新聞記者たちが、毎日のように押しかけて来ます。いちばん最初に花の鉢をもって見えたのは田中王堂氏で、たまたま押しかけてきた新聞記者を、おだやかな笑顔で追いかえしてくれました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む45

 子どもの籍をどうするか—−このことは、妊娠に気づいたときから、胸にあったことですが、いよいよ子どもの出生届を出すきわになって、はたと困ってしまいました。というのは、いわゆる私生児を生むこと、これに対する社会の非難も、少しも恐れる彼女ではありませんが、父がこうむるであろう今後の迷惑については、胸の痛むものがありました。

 子どもは奥村と彼女二人のものに相違ありませんが、結婚届を出さず、二人は戸籍を一つにしていませんから、子どもの籍を入れるとすれば、母方に属するのが自然であると思い、彼女はその前に分家の手続きをとろうとしたのでした。出生届の日限のこともあり、気をもむうちに、ようやく家から書類が届き、彼女は分家の戸主ということになりました。

 さっそく父の認知した庶子として、彼女の戸籍に入れるよう、使いをたのんで区役所へその手続きをさせにやったのですが、戸籍吏がこれを受けつけてくれません。父が認めた子どもは、庶子として父方の家に入るのだといってきかない、それをようやくのことで、母方の戸籍に入れることができました。

Weblio辞書―項目を検索―庶子―庶子に似た言葉―私生児  

 奥村は彼女の籍のことも、子どもの籍のこともまったく無関心で、そんな形式などどうでもよいという人間ですから、こうしたことはすべて彼女のひとりの考えではこびました。父の認知した子どもは、すべて「庶子」の名で呼ばれるものと思っていましたが、曙生の場合は—−−暁に生まれたので、曙生と名前をつけました−−−母方の家に入ったために、戸籍上「私生児」となっていることを、あとで知りました。

 こうして、奥村のいない家に、生まれたばかりの赤ん坊と暮らすようになって、思ったことは、この新しい生命の存在が、彼女の心までもこうも変えてしまうものかというおどろきでした。彼女の心はかぎりなくやさしい気持に満たされ、愛らしさの思いが胸にふくらんでくるのです。

 けれども一方では、にわかにふえた雑務と睡眠不足、時をかまわぬ泣き声が、彼女を苦しめます。

 こうして新たに自分の中に生まれた母の愛と、エゴイズムの葛藤にわれとわが心をのぞきこむような思いですごしているある日、名も知らぬ訪問者がわが家を訪れて、出産祝いの贈物を置いてゆきました。この人が、二葉保育園の野口幽香女史の下で働く徳永恕(とくながゆき)さんと知ったのは、のちのことです。

 世間のあざけりの的であった「新しい女」の生んだ子どもを、いちはやく祝福してくれた徳永さんは貧民街の保育事業にとびこまれた人で、齢は彼女と同じくらいでしょうか。徳永さんはその後毎年12月9日の曙生の誕生日には、彼女たち一家がどこに引越しどこに住んでいても、一度も忘れることなくかならずプレゼントをくださるようになりました。これが曙生の女学校卒業の年までつづいております。

 彼女たち親子に対する、過分な厚情の動機といったものについて、その後、人を介して伺ってみたことがありました。徳永さんは、言葉少なく、こんなふうに語られたといいます。

 「私がこんな仕事をするようになったのは、絶対愛に生きたいという気持からで、私の対象は神の子、キリストよりほかなかったのでした。(中略)この自分の絶対愛に生きたいという気持が、平塚先生の示して下さった絶対の生き方に、うたれることになったのでしょうか。絶対の歩み方、絶対恋愛の実行者として生きられたことに、私は敬意を表さずにいられなかったのですが、引っこみ思案の私は、親しくおたずねする勇気が、なかったのでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む46

 南伊賀町の家をたたんで、奥村の待つ茅ケ崎へ向かったのは、彼女の30回目の誕生日、1916(大正5)年2月10日の翌日でした。

 前にいたことのある懇意な家の一室を借りて、そこから毎日曙生をはんてん(ねんねこ半纏)におんぶして、病院の奥村のもとへ、お弁当を届けにゆく日課がはじまりました。

もりのいえ 菜の花日記―キーワード検索(このブログ内)―ねんねこはんてんー ねんねこはんてんでお散歩

 生まれながら菜食主義者の奥村には、病院の結核患者向きの、わけてもきらいな牛乳や生玉子の毎日多量につく献立がよほどこたえるようでした。栄養のあるもので、奥村の口にあうような菜食料理のお弁当をつくってゆくことが、まずさしあたりの彼女の仕事なのです。

 うれしいことには彼女たちの茅ケ崎へくるのを待ちかまえていたように、奥村の病状が奇蹟的に好転しはじめました。そしてやがて、ベッドのなかから「海気室」まで出ることを許されるようになると、まるでピクニック気分で、そこでいっしょにお弁当を食べるのを、たのしみにするようになりました。海気室というのは、小松林のなかの、海に面して建ちならぶあけ放たれた小屋ですが、少しよくなった患者たちが、ここへ出てきて、きれいな海の空気を存分に吸うことになっています。

 やがて夏も終わるころ、入院生活から自宅療養にきりかえることを、院長に許してもらい、南湖院に近い場所にある、「人参湯」という湯屋の廊下つづきのはなれ座敷を借りうけ、そこへ奥村をむかえいれました。育児と看護と生活のための仕事、という三つのことをかかえては、とうてい家事に手がまわりかねます。このとき結婚いらいはじめて、手伝いの娘を頼むことにしました。赤ん坊への感染を恐れる院長から、消毒についてやかましくいわれていましたから、消毒に要する手間だけでもたいへんです。 それに、育児にかける手間が、予想をこえたものでした。一カ月近くも病院にいるあいだ、彼女から全く離されていた赤ん坊は、人工栄養のゴムの乳首にすっかり慣れてしまって、彼女の飲みにくい小さな乳首をきらい、じれて火がつくように泣き立て、そのうちとうとう母乳を、飲まなくなってしまいました。

 すると、もともとさほど出のよくない彼女の乳は、まもなくとまってしまい、人工栄養に頼るほかなくなってしまいました。

 ミルクの支度を待ちかねて、烈しく泣く子、そのうえ入院中、看護婦が抱き癖をつけてしまったので、下に寝かせるとすぐ泣くので、泣かせまいと思えば夜となく、昼となく抱いていなければなりません。隣室の病人の安眠をさまたげてはならないと赤ん坊を抱いて、人参湯の長い廊下をホイホイあやしながら行きかえりして夜を明かすようなこともあり、新米の母親は、こちらこそ泣きたいような思いをくり返したものでした。

 実際母の仕事というものは、無数の不規則な雑務の連続で、かつて経験したことのない気ぜわしさ、とりとめない腹立たしさのような焦燥感に、仕事のための二晩や三晩の徹夜など平気な彼女が、すっかり疲れてしまいました。

 しかし曙生はやがて母の顔をよく覚え、彼女に対して特別の笑い方をするようになりました。そうなると彼女の母性もまた、赤ん坊と同じく、日ごとに成長してゆくのが、はっきりと感じられるのでした。

 はじめて母となっての心の葛藤はいなみがたいものではありましたが、この茅ケ崎での毎日は、いわば、彼女が主婦としての生活に没頭した時期であり、それはそれとして苦しみのなかに十分たのしさもあったといえます。奥村も、やがてもう寝たり起きたりという回復状態となり、ぼつぼつ写生に出ることも許されました。高田院長は破格の厚意で、医療費を、奥村の画と引換えにするよう申し出てくれました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む47

 伊藤野枝さんが、大杉(栄 「日本の労働運動」を読む37参照・らいてう研究会編「前掲書」)さんのもとへ走ったことを耳にしたのは、その年[1916(大正5)年]の4月のことです。辻(潤 「元始、女性は太陽であった」を読む28参照)さんとの家庭生活については、いろいろな悩みを訴えられてはいましたが、大杉さんについては、野枝さんの口から直接きかされたことは一度もありませんでした。

 茅ケ崎で暮らすようになって、野枝さんと会う機会もなくなった彼女の耳に、きこえてくる野枝さんと大杉さんとの噂は、しぜんと彼女の胸に、大杉さんの糟糠の妻堀保子さんの、病身のさびしげな姿を思い起こさせ、野枝さんの新しい愛の行く手のきびしさを、考えさせるのでした。しかも一方、大杉さんのフランス語研究会に出入する神近市子(らいてう研究会編「前掲書」)さんと大杉さんとの噂がやがてよそからきこえてくるようになると、いっそう彼女は、あやぶまずにはいられませんでした。

港区ゆかりの人物データベースーゆかりの人物リストーかー神近市子

 野枝さんの近況を案じながらも、なんの便りもなく過ぎているところへ、とつぜん野枝さんから、家出を告げる手紙が届いて、彼女を驚かせました。ごく簡単な文面で、むろんこの手紙にも大杉さんのことは、ひとこともふれておりません。

 長男の一ちゃんを生んでからの、野枝さんの生活は、いちだんとたいへんだったように思います。辻さんとの相愛生活のはじめから、姑、小姑夫婦との雑居生活のなかへ、異分子として入った野枝さんは、辻さんの家族との感情的な摩擦や、貧困の苦しみから逃れる日はなかったのでした。

 しかも、辻さんはお子さんが生まれてからも、相変わらずお金になる仕事をしようとしませんし、子どもに対しても、父親らしい愛情を示したり、世話をするといったこともありません。お姑さんも、孫を可愛がる世間普通のおばあさんらしいところがなく、あまり面倒などみてくれないので、いつ訪ねていってみても、野枝さんが家のなかのただ一人の働き手というように、忙しそうに見えました。自分の勉強や思索や、仕事のための時間を、まったく失ってしまった野枝さんは、それでも負けぬ気をふるい起こして、お子さんを膝にしながら、あわただしい心で原稿を書いておりました。

 ことに、長く住み馴れた染井の地に居られなくなり、小石川竹早町のある家に、姑や小姑夫婦らといっしょに住むようになった1914(大正3)年夏の野枝さんは、いたましいまでにやつれが出てどこかイライラとヒステリカルな状態にさえなっていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む48

 伊藤野枝さんは、辻さんの交友関係を通じて、社会主義者の影響を知らず知らずうけたということもありましょうが、端的にはそれは、辻さんに欠けているもの(たとえば実践力)をもっている大杉さんに対する微妙な愛情(こころ)の屈折を示すものであったと思います。

 彼女が千葉県御宿海岸にいったあと、編集をまかせた「青鞜」4巻10号(大正3年11月号)と次号11号の「編集室より」で、野枝さんは、大杉、荒畑(寒村 「坂の上の雲」を読む19参照)両氏の仕事に敬意を表したりしています(定本「伊藤野枝全集」第二巻)。

 やがて野枝さんの家庭生活の根底を破壊するような、重大な問題がおこりました。それは辻さんが、野枝さんの従姉の千代子さんに、愛を移したという事件です。野枝さんはこの裏切られた痛手について、「青鞜」5巻7号の「偶感二、三」のなかで、切々と語っています。そしてそれからまもない7月中旬には、三ヵ月の滞在期間を予定して、九州の実家へお産のためという表面の理由で、辻さんや長男といっしょに帰りました。そのため留守中の「青鞜」の事務は発売所の日月社に、編集は生田花世(「元始、女性は太陽であった」を読む38~39参照)さんに委任したのでした。

 これは、彼女のまったくの想像にすぎませんが、二人のこの旅行は、お産のためとはいえ、東京での行き詰まった生活や、忙しい仕事から離れて、傷ついた二人の間の愛をふたたびもとにかえしたいふたりの願いがあってのことではなかったでしょうか。

 しかし野枝さんのこれらの願いも、努力も、結果から見るとすべて失敗でした。野枝さん夫妻が東京に帰ったのが、だんだんのびて11月下旬、長男も赤ちゃんもいっしょでした。 

 「青鞜」は新年号から創刊以来の規約も形式も捨てて、見るからに簡素な、貧弱な、よくいえば圧縮した感じのものに変わりました。2月号も続いて出ました。そしてその4月に、野枝さんは辻さんも長男も「青鞜」もなにもかも捨て、ただ赤ちゃんひとりだけ連れて家出を決行したのです。それはいうまでもなく、大杉栄氏のもとに走ったのです。

 こうして「青鞜」は、6巻2号(大正5年2月)以後、無期休刊の状態に入りました。野枝さんの手に移ってから、それでも1年2ヵ月です。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む49

 茅ケ崎へ、なんの前ぶれもなく、大杉さんと野枝さんが連れ立って見えたのは、その年の秋11月6日の昼下りのことです。葉山へゆく途中を、奥村の見舞に寄ってくれたということでした。

 野枝さんが、日本髪を結ったのは、前にも見て知っていますが、いま目の前に見る野枝さんは、下町の年増の結う、つぶし銀杏返しとかいう、世話にくだけた髪を結い、縞お召(絹織物の一種、お召縮緬の略)の着物を、抜き衣紋(えもん)に着て(後襟を下げ、襟足が見えるように着て)、帯をしめた格好はどう見ても芸者ほどのアカぬけしたものではなく、お茶屋の女中というところです。思わず、「変わったわね」と連発する彼女に、野枝さんはニヤニヤ笑うばかりでした。

てんちょの部屋―てんちょ的日本髪―記録(髪型別)―輪者―銀杏返し

 大杉さんには、後にも先にも、このとき唯一度お目にかかったきりですが、この日の大杉さんは、痩せた、けれど、がっちりしたからだに大島(大島紬の略)かなにかの飛白(かすり)の着流し(袴をつけぬ和装)で、色黒のきびしい顔に、クルクルと大きな目の印象が、なにより先にくる人でした。

 二月以後、ずっと休刊をつづけている「青鞜」のことにふれられるのが、その日の野枝さんには、いちばんつらいことだったのでしょう。廃刊を主張する彼女に真正面から反対し、全責任を負うからぜひとも自分にやらせてほしいといい張ってきた手前、いまさら野枝さんとして弱音は吐けますまい。しかしそれも、野枝さんのその場のせめてものつよがりであったのでしょうか。その後「青鞜」はついに出ませんでした。この日、大杉さんと野枝さんには二人の尾行がついていました。

 午後の日が傾きかけたころ、これから逗子に行くというふたりを、彼女たちは道に立って見送りました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む50(最終回)

 葉山の「日蔭茶屋事件」(らいてう研究会編「前掲書」)[1916(大正5)年11月9日(新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会)]はその2日後の事件でした。

臼井吉見の「安曇野」を歩くー94.日蔭茶屋事件

 大正5年11月10日の東京朝日新聞は「大杉栄 情婦に刺さる 被害者は知名の社会主義者、 凶行者は婦人記者神近市子、相州葉山日蔭の茶屋の惨劇」という見出しもとに、この行き過ぎた自由恋愛の生んだ不祥事件を伝えました。

 「青鞜」から遠ざかっていった神近市子さんとは、その後直接のつきあいがなくなっておりましたが、嫉妬の激情から、大杉さんを刺さなければならないほどの深い二人の間柄とはまったく知らずにいました。

 彼女は恋愛の自由ということを踏みはずしたあの多角恋愛の破綻が、古い封建道徳に反対し、新しい性道徳を打ちたてようと努力するものの行く手の大きな支障となることを、おそれずにはいられませんでした。そのころ彼女は「いわゆる自由恋愛とその制限」(「平塚らいてう著作集」2)と題する、次のような一文を発表しています。

 「(前略)恋愛の自由といふことは、氏(大杉栄)等が意味するやうな、一種の一夫多妻主義(或時は多夫一婦ともなり、多夫多妻ともなる)委しく言へば、相愛の男女は別居して、各自独立の生計を営み、また若し是等の男女にして他の男女に恋愛を感ずれば、其等とも同時に、しかも遠慮なしに結合することが出来るのみならず、愛が醒めれば、子供の有無に拘らず、いつでも勝手に別れることが出来るというやうな無責任な、無制限な、従って共同生活に対する願望も、その永遠の意志をも、欫いた性的関係でありませうか。これは恋愛の自由の甚しき乱用でなくて何でせう」「然るにその新婦人と呼ばれる者の中から真の恋愛の自由は私が前に述べたやうな、永久の共同生活に対する願望と、未来の子供に対する責任感との伴った恋愛のみにある事を忘れ、自分の愛人の間違った恋愛観を、深き反省も批判もなく受け容れ、それを実行させるやうな婦人を出したといふことは、しかもその果は殺傷沙汰を引き起したといふことは、どう考へても残念なことでした。」

 大杉さんは野枝さんと同棲をつづけ、堀保子さんは別居して、彼女たちが住んでいた山田さんの裏の借家に、ひとりさびしく余生を送りました。そして大杉夫妻があの悲惨な運命に斃(たお)れた(甘粕事件「労働運動二十年」を読む26参照)のち、半年ほどで、そのあと追うようにして、病のため永眠されたそうです。

 多くの錯雑した、容易に解決しがたい問題がー少なくとも個人の力ではどうすることもできないような多くの問題が、目の前にむらがってきました。

 ここで、彼女たちの「青鞜」は終わりました。そして「日蔭茶屋事件」が好むと好まざるとにかかわらず、彼女たちの「青鞜」の挽歌であったこともいなみ得ないことです。同時に彼女自身の青春も、このへんで終わったのではないかと思います。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む31~40

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む31

 ジャーナリズムの非難、攻撃、揶揄(やゆ)と同調して、彼等の描く青鞜社なるものを目の敵にして騒いだのは当時の女子教育家たちでした。下田歌子を筆頭に津田梅子というような人びとが、おそらく「青鞜」は読みもせず,見当はずれの批判をしました。彼女の母校女子大の成瀬校長までが、この年の「中央公論」4月号に「現今日本に起こりつつある所謂新しい女の一派は(中略)、いかにも常識が欠けてをる。自分の事以外親の事も家の事もそれらは総て顧みないといふやうな人がある。」ときめつけました。

 青鞜社の受難期にに際して、社員の結束を新たにして出発するために、公開の文芸研究会と、主として地方の社員のための講義録の発行を計画したのでした。「青鞜」三巻四号の巻頭には見開きで、「青鞜社文芸研究会会員募集」の要項がでております。ところが1913(大正2)年4月7日開催予定の同上研究会は会場確保に苦労したにもかかわらず、予定の人数が集まらず、中止に追いこまれました。彼女たちは「青鞜」をとりまく世評の嵐のなかで、急速に婦人問題の方向へと傾いていきました。

 新しい事務所ができてひと息ついたころ、同年4月25日警視庁高等検閲係から出頭通知を受けました。保持さんと中野さんが出向くと、『「青鞜」4月号(三巻四号)には日本婦人在来の美徳を乱すようなところがたくさんあり、発売禁止するところだが、編集者に注意するにとどめておく』と申し渡されました。とくに名指しはされませんが、同誌4月号に彼女の書いた「世の婦人達に」(「平塚らいてう著作集」1)が当局の忌諱にふれたのでした。 この小文で彼女は、良妻賢母主義に対する疑問を提出し、結婚のみにしばられた在来の女の生き方を否定し、現行の結婚制度をー主として民法親族篇の不条理をあげて、女の新しい生き方を訴えています。また上記の頑迷な女子教育家に対する挑戦でもありました。

OKWave―民法上の家の廃止   

 それから間もなく、同年5月1日出版した彼女の処女評論集「円窓より」(東雲堂刊 複製版 叢書女性論8 大空社)が、発売とともにただちに発禁となりました。これはいままで「青鞜」其の他へ発表した評論、感想などを収めたものですが、この中に「世の婦人達に」が入っていたからで、彼女は「世の婦人達に」を削除、改版し、書名も装幀も全部変えて「扃(とざし)ある窓にて」の名で、またすぐに出しました。

 青鞜社に対する世間のあまりの非難に対して、このころから生田先生が幾分か逃げ腰気味になられたようにも思います。新しい女を認めながら、感情のうえでは解放された女の姿よりも、家のなかでひっそりと縫いものなどしている女を讃美する先生にとって、だんだん婦人解放問題へと傾斜してゆく「青鞜」の女たちは感情的に否定したい存在となっていたのかもしれません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む32

 思いがけない運命の扉が開かれました。ふたたび奥村の姿を見る日がきたのです。しかもその道をつけたのが紅吉でしたから、なにか皮肉といえば皮肉な思いもします。

 生田先生の家に寄寓していた紅吉はあるとき日ごろ親しくしている上山草人氏宅を訪れ、同氏夫人が開いていた眉墨などの化粧品を売る店「かかし屋」で、帝国劇場において近代劇協会が1913(大正2)年3月27日から31日まで上演する(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)、ゲーテ作、森鴎外訳「ファウスト」に奥村が出演することを耳にしたのです。

国立国会図書館―電子展示会―写真の中の明治・大正―東京編―キーワード検索―帝国劇場

 自分がさんざん脅かした相手であることも、それがもとで彼女から離れていったということもまるで忘れたかのように、紅吉は顔を輝かせながら彼女のもとへ飛んで来て、手柄顔にこのことを伝えるのでした。

 近代劇協会から招待されていた彼女は3月27日の初日に帝国劇場にひとりで出かけました。日本ではじめて上演されるこの「ファウスト」(岩波文庫)の配役は上山草人ファウストを演じ、奥村は「アウエルバッハの窖(あなぐら)の学生・酒宴の場」の学生に扮して鼠(ねずみ)のうたをうたっていました。自分が来たことだけを告げるために、幕間に、真紅の小さなバラの花束を楽屋へ届けて、彼とは会わずに帰りました。

 奥村が、この「ファウスト」の舞台に出ることになったきっかけが、いかにも奥村らしい、のんきな話からはじまったことを、のちに聞かされました。

 奥村は、あの燕の手紙を彼女によこしたあと、有楽座で上演中の文芸協会の(バーナード)ショウ(らいてう研究会編「前掲書」)の喜劇「二十世紀」(「春陽堂」)を観に出掛けたとき、幕間に廊下を歩いてくる一人の男の姿に興味をもちました。「どうしてそんなにぼくの顔を見るんですか」と先方の男原田潤(声楽家)が声をかけてきたのがきっかけで、二人はつきあうようになり、南房州の海岸で放浪生活を楽しんでいました。

 やがて近代劇協会の上山草人氏から原田さん宛の、上演する「ファウスト」出演勧誘の電報が届き、原田さんに勧められるままに「アルバイト」のつもりで試験をうけて、一座に加えてもらったのだそうです。「ファウスト」は帝劇上演以後、同年5月1日から大阪の北浜帝国座で公演することになり、奥村も大阪にゆき、彼女の病気を大阪朝日新聞の学芸消息欄で知って、絵葉書の便りを彼女によこしてくれました。その一葉の絵葉書がつたえてくれるぬくもりに、彼女の心は満たされました。

Weblio辞書―項目を検索―上山草人

 奥村の住所を近代劇協会其の他へ問い合わせて、大塚窪町の新妻莞さんのアドレスを奥村の下宿先と信じた彼女は、処女出版の「円窓より」に手紙を添えて、その宛先に送りました。ところが新妻さんは奥村宛の彼女の手紙を奥村には渡さなかったのです。

 奥村は6月初め帰京すると、すぐ曙町の家を訪ねてくれたのですが、なかへ入りかねて、置手紙を門のポストにへ残したまま帰りました。彼女は奥村がうらめしく、すぐ追いかけて手紙を書きました。奥村とはその二、三日あとに再会しました。向かい合う二人の心の絆(きずな)は、どうしようもない力で、つよく、かたく結ばれてしまったのです。

 この日の朝、彼女は新妻さんから、妙な手紙を受けとっていました。なんにしても新妻さんとしては、一人の親しい友人を奪われることの嫉妬(?)もいくらかはあったかもしれませんが、それよりも、彼女と接近しようという気持としか思えません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む33

 再会の日から、ほど近い6月の下旬、彼女は奥村を誘い、新緑の赤城の山へ、二人だけの時を求めて、旅立ちました。

赤城山ポータルサイト   

 この山上で、奥村は白樺の林や山つつじの咲き乱れた高原や、放牧の牛などスケッチ板四、五枚の収穫をもって彼女より一足さきに山を下りました。有楽座でやる伊庭孝の旗あげ芝居のバーナード・ショウの「武器と人」(「早稲田大学出版部」)の稽古がはじまるためですが、彼女はなお数日残って「青鞜」に送るかきかけの原稿をここで書きあげることにしました。ところが、まったく思いもかけぬことが起こりました。

 「至急親展」と朱字で書いた新妻さんからの手紙が東京の自宅から転送されて来たのです。それはまるで脅迫状で「自分を無視する気なら、お礼として、今度の事実の全部と、あなたが奥村にあたえた手紙の全部を公開する……」という内容のものです。

 彼女は即座に筆をとって、「二人の愛に対しては、何人の干渉も絶対に許しません。どんな障碍もきっと克服します」というような意味の相当長い公開状を書き、山から青鞜社に送りました。これが「青鞜」9月号に「手紙の中から」(「平塚らいてう著作集」1)として発表されたものです。

 公開状の形式をとった理由の一つは、直接新妻さんに返事など出したくなかったからだけではなく、因習的な世間の圧迫、周囲の干渉に悩み、苦しんでいた当時の青年男女のこころ(筆者傍点省略)を代弁して、対社会的に、あらゆる障碍とたたかって、恋愛の権利を主張し、その自由を確立する必要を同時に感じていたからでした。

 奥村を赤城に誘ったときの気持は、まだそれほどつきつめたものではなかったのでしたが、赤城を境にして、二人はもうどうしようもない力で、一つの道を歩みはじめました。

 そのころ奥村は築地の南小田原町の下宿に原田潤さんといっしょにいましたが、曙町のすぐ近くの小石川原町に移り、しばしば彼女の家を訪ねてくるようになりました。奥村はよそを訪ねたら適当な時間に切り上げるということができないたち(筆者傍点省略)で、母にしてみれば、奥村の存在がどんなにか気になったことでしょう。「もうこれ以上このまま家にいるわけにはいかないのだ、やがては家を出なければ……」という決意が、だんだんと心にかたまってくるのでした。

 9月のある日の午後、彼女は奥村をつれて、突然海禅寺にでかけ、中原秀岳和尚を奥村に紹介しましたが、奥村にとって、同和尚はなじめない存在でしかなかったようです。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む34

 家を出る前に彼女は、どうしても一度、奥村の母に会いたいと思うようになりました。そこで奥村にも話したうえで、訪ねることにしました。

 もう秋風のたつころでした。奥村の家は藤沢の遊行寺の近くにありますが、いきなりそこを訪ねることを遠慮し、-80歳を越えしかも失明しているという彼の父を驚かしたくなかったのでー駅前の旅館から使いのものを出し、旅館の奥座敷に母を迎えました。

盆踊りの世界 特別企画 盆踊りのふるさと藤沢―文化拠点 遊行寺について

見るからに善良そうな地方人らしい老婦人は、無愛想とも見える人ですが、それでも初対面の彼女に対して家庭の事情をうちあけ、目の不自由な年寄の世話で手いっぱいで、なにをしてやることもできませんから、よろしく頼むと繰返されました。

 小石川原町の奥村の下宿は未亡人らしい品のよい老婦人が、身内の若い娘を使ってやっている素人下宿ですが、あまりしばしば彼女がそこを訪ねることが、女主人の気に障ったものか、ある日とつぜん奥村によそへ越してほしいと申し出ました。彼女はいよいよ、家を出るときの迫ったことを知りました。

 といっても、家を出てから奥村と営む生活について、明らかな見通しをもっていたわけではありません。現行の家族制度にもとづく結婚の形態に、反発しないではいられない彼女としては、世間並みの結婚生活というものをまったく考えていませんでしたから、二人の世界はいよいよ未知の冒険ともいえるものでした。

 それで、彼女は奥村に思いきって8項目のほどの質問状を出し、責任のある回答を求めることにしました、その8項目の中には① 今後、ふたりの愛の生活の上にどれほどの苦難が起こってもあなたはわたしといっしょにそれに堪えうるか。(中略)② もしわたしが最後まで結婚を望まず、むしろ結婚という(今日の制度としての)男女関係を拒むものとしたら、あなたはどうするか。③ 結婚はしないが同棲は望むとすればどう答えるか。④ 結婚も同棲も望まず、最後までふたりの愛と仕事の自由を尊重して別居を望むとしたら、あなたはどうするか。⑤ 恋愛があり、それにともなう欲求もありながら、まだ子どもは欲しくないとしたらあなたはどう思うか。⑥ 今後の生活についてあなたはどんな成算があるのか。-大体にこんなようなことを挙げました。これに対する奥村の回答は、自然な、素直なもので、柔軟な受けとり方に感心しました。彼女の家出の決意はいよいよかたまり、、この上は実行あるのみとなりました。

 その年の大晦日の夜、二人は行きつけの鎧橋際の「メーゾン鴻の巣」で、この年最後の晩餐を共にしました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む35

 1913(大正2)年9月、青鞜社創立2周年を期して、彼女たちはいいよ社則の改正に踏み切りました。例えば、第1条の「本社は女流文学の発達を計り云々」は「本社は女子の覚醒を促し云々」と改められ、また「本社の目的に賛同したる女流文学者、将来女流文学者たらんとする者、及び文学愛好の女子は人種を問わず社員とする云々」という5条は全部削られました。そして、在来の社則によった社員を一応全部解散し、新社則のもとに責任を感じ、新しい決意をもって,改めて入社を申込んでもらうことにしたのでした。「青鞜」もこれで従来の婦人文芸誌という狭い観念から脱却することができたわけですが、このことは、前からの彼女の望むところであったのは確かでした。

 それにいま一つ、社の財政確立の課題も一方にありました。それで社則の改正と同時に、青鞜社補助団という別個のものを、青鞜社の事業の完成のために、経済的な補助をするという目的でつくりました。

 補助団には社員はもちろん、社員以外の支持者多数の入会を希望していたものの、女の経済力のない時代のことですから、けっきょく入会者は社員と直接購読者の範囲で、予期したほどの結果は得られませんでした。社員の中には社費の払えないという貧しさにいるひとも、少数ながらありました。

 今度の新社則では、全員から社費をもらわないことにしたのです。大部分の社員が進んで補助団に加入し、いままで以上の高い会費を負担してくれました。この補助団の構想は、おばさん(保持研子)だけの知恵でなく、後に保持さんと結婚した小野さん、岩野泡鳴夫妻の助言もあったように思われます。

 東雲堂に発行と発売を一任した「青鞜」は、その時の最初の部数は二千部ほどのものでしたが、それがぐんぐん伸びて、最盛期には三千部に達しました。ところが編集費は元のままでしたから(「元始、女性は太陽であった」を読む26参照)、東雲堂が儲けすぎている、この際編集費の値上げをしてもらおうと、保持さんがいいだしたのです。ところがこの編集費値上げ要求は、東雲堂側から一蹴されることとなりました。そのため東雲堂との関係は1913(大正2)年の三巻十号かぎりで切れ、社員の荒木郁子さんが紹介してくれた懇意な書店―神田南神保町の尚文堂に発売を一任することになりました。しかし売上部数はへり、地方へ行きわたっていないこともわかりました。

 1914(大正3)年春ころ、これも荒木さんの紹介で、岩波書店にまかせる話がまとまりました。そのころ、岩波書店の主人、岩波茂雄氏一家の住んでいた南神保町の借家は、荒木さんの持ち家か、あるいは、荒木さんが管理していた家で、彼女は荒木さんに案内され、岩波氏とお店の方で会いました。彼は30歳をちょっと越えた歳のころで、思いのほかのうちとけた態度で初対面の彼女によく話しました。 それで間もなく保持さんを連れて二回目の面会をし、「青鞜」についての取りきめも万事うまく運んで、早速原稿を入れ、ゲラ刷りの初校というところまですらすらと進んだところで、突然また思いもよらぬ事態がおこりました。

諏訪市―サイト内の検索―岩波茂雄 

 そのとき校正に出掛けたのは保持さんと、たしか伊藤野枝さんの二人ですが、岩波氏の奥さんが、おそらく初対面の挨拶もかねて、校正刷りをもって二階へあがってきたのを受けとるのに、保持さんが岩波氏の奥さんとは知らず、ただ「うん」といったということで、奥さんがすっかり腹を立ててしまいました。

 翌日、彼女宛に、岩波氏から長い丁重なことわりの手紙が速達便で届いたときは、あまりの意外にびっくりしました。真面目そのもののような岩波氏が、奥さんの強い抗議に困惑しながら、いそいでこの手紙を認めていられる様子が目に見えて、恐縮しながらも、なにかおかしくて、吹き出しそうになったことを覚えております。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む36

 1914(大正3)年1月13日予定通り、彼女は家を出、いよいよ独立にふみきりました。まず、金の用意が必要でした。つぎに二人の住むところを探さねばなりません。都合よく、青鞜社の事務所に近い、巣鴨のとげぬき地蔵前の裏通り、廃兵院の近くに小さな二階家(植木屋の広い庭にぽつんと建った離れ家)を見つけ、その閑静さがなによりも気に入りました。

巣鴨地蔵通り商店街―御参りをするーとげぬき地蔵尊 高岩寺  

 奥村の方は、もうこれでいつでも引越せるわけですが、彼女の方には、両親の承諾を求めるという大きな問題が最後にありました。自分の気持を父はもとより、母にも十分にいいあらわすには、筆の力をかりるほかありません。そこで、両親あての手紙をしたためることにしたのですが、それは長い長い手紙で書くのに二、三日かかったように思います。ようやく書きあげた手紙を、すぐ母の手に渡しました。母もそれと知って、涙を浮かべていました。

 このときの手紙は「青鞜」四巻二号に「独立するに就いて両親に」(「平塚らいてう著作集」1)と題して載せました。この手紙は私信ですが、あえて公表することにしました。古い封建的な結婚制度に反対し、恋愛が発展して自然的に実を結んだ、自由な共同生活に新しい性道徳の基礎をおく彼女の考えと、それを身をもって行なうことの意義を、社会に、ことに多くの同じ問題になやむ婦人たちに、知らせたい気持からでした。

 こうして、両親が見て見ぬふりをしてくれるなかで、彼女は、家を出る支度にひとりでとりかかりました。円窓の部屋に置いてあった机、本箱などや、さしあたり必要な手廻りのものを入れた行李(こうり)1個、ふとん包などを、若い、家事見習いに来ていた母の親戚の娘が手伝ってくれて、出入りの俥屋(くるまや)に運ばせました。

 さて、こうして一日先に引越していた奥村に迎えられ、ぽつんと建った離れ家に落着きました。

 「青鞜」誌上で、ふたりの共同生活を公表してから、新しい女への非難がいっそう激しくなりました。非難の中心点は、奥村が彼女より五つも年下であるということ、恋愛から入った自由結婚で、不道徳で、野合というものではないかということ、その上、法律を無視し

同棲しながら結婚届を出すのを拒んでいるーつまり合法的な結婚でないということでした。

 しかし世間からなんといわれようと彼女たち二人は、愛する者同士であり、二人の間柄は、日本婚姻法に定められているような、夫と妻の関係ではありませんし、またあってはならないのでした。自分の納得できない法律で、自分たちの共同生活を承認し、また、保証してもらうという、そんな矛盾した、不合理なことが出来るでしょうか。こ こで彼女が結婚届を出すことは、現行のこの結婚制度を、認めることにほかならないのです。法律結婚をしないことが、この時代として可能な、唯一の抵抗だと考えた彼女は、最初から既成観念のともなう、「結婚」という言葉を使うことさえ避け、とくに「共同生活」といって、はっきりそれと区別していたのでした。

 また彼女は、女が結婚すると、いままでの姓を捨て、男の姓を名のらねばならないことにも、前まえから大きな疑問と不満をもっていました。

 親の家を離れるとともに、たちまちひしひしと身に迫るものは貧乏でした。質屋への使いは奥村の役目です。奥村は質屋通いには慣れており、牛込の方に馴染みの店がありました。

 炊事は、その折りおりの都合でどちらかが引き受け、また時にはいっしょにしました。奥村は自炊をしたことがあるので、料理もうまくつくりました。家事には興味がなく、仕事に気をとられて、煮物をよく焦がすような彼女に較べて、まだしも奥村の方が、おいしいものをつくってくれたものです。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む37

 こんな話を聞いた伊藤野枝さんが、彼女を助けるつもりで、炊事を引き受けましょう、実費程度のものを出して下されば……と申し出てくれました。

 彼女は台所から解放されるのがなによりもうれしく、野枝さん夫婦の家と道路一つへだてた上駒込妙義神社前の新しい貸家に移り、野枝さんの家へ、たしか月十円であったか出すことにして、奥村といっしょに昼と夜の食事をしにゆくことになりました。

宗教法人 東京都神社庁―都内神社のご紹介―豊島区―妙義神社

 そのころ野枝さんの家には辻(潤)さんと野枝さんと赤ちゃんとの三人暮らしでした。いつ行っても辻さんは、三畳の書斎のまんなかに机を置き、スピノザの石版刷りの額の下で、翻訳のペンを運んでいましたが、疲れると好きな尺八を吹いて楽しんでいるようでした。

 辻さんは、野枝さんを最初「青鞜」に導いた人であり、青鞜社の運動についてはもちろん、もっと広く婦人問題、婦人運動についても、深い理解をもつ人でした。

 ところで野枝さんのつくってくれる食事ですが、いま思うと、よくあそこで食事をしたものだと、おかしく思われます。家の中には、炊事道具などほとんどなく、金盥(かなだらい)がすき焼き鍋に変わったり、鏡を裏返して、俎板(まないた)代りに使われたりしていました。茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯の盛りつけです。

 野枝さんは、料理が下手というより、そんなことはどうでもいいというふうで、コマ切れのシチューまがいのものを、ご飯の上にかけたものなど、得体の知れないものをよくつくりました。仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気です。

 野枝さんの家と垣一つへだてて野上弥生子(のがみやえこ・らいてう研究会編「前掲書」)さんのお宅があって、ちょうどそのころ野上さんご夫妻は、大分の郷里へ帰国中でした。その留守番を、野枝さんが頼まれていたので、広い野上さんのお家の方へ行って、食事をすることもまれにはありました。

 野枝さんのせっかくの好意ではじまったこの共同炊事を、生まれつき肉嫌いで、食物に好悪のひどい奥村が我慢しきれないのは無理もありません。一カ月も続かなかったかと思います。

 そのあと彼女たちは、駒込橋近くの河内屋という、やや高級なめし屋に通うことにして、炊事の時間を浮かして、勉強にあてました。夫婦で通う人など、彼女たちのほかにはありません。ここには、季節ものがいろいろあって、今日は木の芽田楽が出来るとか、茄子のしぎやきが出来るとかあるいは粕汁だとか、その日その日の特別なものが、茶半紙に書いて貼り出してあるので、つい誘惑されてそれもとることになり、予算を超過するのが、悩みの種でした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む38

 青鞜社事務所を任せている、保持さんの上にも、変化がおこっていました。保持さんの、最初の恋愛の相手は、南湖院の薬局で働いていた薬剤師のKさんでしたが、自分の薬局を開いてから結婚するという、彼の煮え切らない態度に保持さんは不満で、婚約は解消されました。Kさんと婚約解消のあと、新しい恋人の小野東(丸善勤務で南湖院入院患者だった)さんを得た保持さんには、難関があって、小野さんの家庭の問題(小野東は妻帯者)が、なかなか思うように片づかないのです。多くの障害を乗り越えて、二人は結ばれることになりましたが、そんな悩みをかかえているせいか、保持さんはいつも暗い顔で考え込んでいるようになり、事務所の仕事が、停滞して困るようになりました。

 いまでいう、ノイローゼ状態のつづく保持さんに困った彼女たちは、相談のうえ、保持さんにひとまず静養することを勧めました。 1914(大正3)年4月末に保持さんは四国今治へ久しぶりでの帰国の旅に立ち、それで、巣鴨の事務所を一応たたみ、書類その他の家具を上駒込の彼女の家に運び、いや応なしに、編集だけでなく、経営その他一切の責任をしょい込むことになりました。

 保持さんが郷里に立つ前か後か忘れましたが、枇杷(びわ)の実の熟するころ、枇杷の産地、西伊豆の土肥(とい)温泉にふたりででかけました。留守中のことは野枝さんに頼み、1週間以内の約束ででかけました。この旅のことは「七日間の旅」という題で「青鞜」に出しましたが、このときの写真がいま二枚残っております。温泉町の写真屋を呼んできてわざわざ撮らせたまずい写真ですが、これが彼女たちのいま思えば結婚記念写真であり、この旅行がいわば、新婚旅行かもしれません。

といおんせん 伊豆土肥の観光情報サイト   

 1914(大正3)年の「青鞜」を語る上で、ぜひ落としてならないのは、西崎花世(はなよ)さんと安田皐月(さつき)さんのことです。

 大正2年の暮のことですが、西崎花世さんが曙町の家へ訪ねてこられました。久しぶりに円窓の部屋で向かい合った花世さんは銀杏返し(「元始、女性は太陽であった」を読む49参照)に結った髪が乱れかかりひどくやつれていました。先ごろから下町のことぶき亭という寄席に女中として住み込み、おもに下足番をやっていることなど話し出しました。

 花世さんは、そこでの毎日がかなり激しい労働ではあるけれど、いろいろ変わった生活を見ることができて、その間にノートを何冊も書いた、毎日見聞したことをなんでも学生ふうに書いていると、満足そうに話します。そしてことぶき亭でのわずかな収入では、青鞜社の会費が払えないというので、むろん彼女は、会費はいらないから、原稿をどしどし書いて送ってほしいといいました。

 花世さんが、大正2年から3年にかけて書いたあの多くの感想は、「青鞜」誌上に発表されたあらゆる文学のなかの、最もとはいえないまでも価値高きものであったといえるでしょう。

 1914(大正3)年1月号の「青鞜」に発表された「恋愛及生活難に対して」(「青鞜」第四巻上 不二出版)という感想などが、多感の、若き詩人生田春月(「元始、女性は太陽であった」を読む29参照)氏の魂をゆり動かし、花世さんが春月氏と結婚したのは3、4月ころのことでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む39

 この年、生田長江氏主幹の文芸評論雑誌「反響」9月号に、花世さんは「食べることと貞操と」という、この人独自の例の告白的感想文を発表しました。たまたまこれが導火線となって、安田皐月さんが「生きることと貞操と」題して、痛烈な駁(ばく)文を、この年十二月の「青鞜」に発表しました。つづいて、伊藤野枝さんが「貞操についての雑感」(定本「伊藤野枝全集」第二巻 学芸書林)を書き、この三人の貞操感に対して彼女が最後に、「処女の真価」(「平塚らいてう著作集」2)という一文を書くというようなことで、「青鞜」は大正3年から4年にかけて、貞操論―もっとも、未婚婦人の場合の貞操問題でしたがーで、賑わうことになりました。

 花世さんの「反響」の所説は、次のようなものです。「女が食べるために、ことに自分だけでなく、養育の責任ある弟妹などある場合はなおさら、他に生活手段がないとき、女の最後のものを食に代えることは、やむを得ないこととして許されるべきである。(中略)在来の道徳が処女を捨てさせまいとするのは、それが決して罪悪だからではない。処女であることが、結婚の有利な条件だからに過ぎない。だから結婚の場合の不利さえ覚悟の上なら、貞操を売って生活するのも、また自由ではないか。」

 ところが安田皐月(らいてう研究会編「前掲書」)さんにすれば、こんな考えや行ないは、自己を侮辱し、女性を侮辱したもので、腹立たしくてならないものなのでした。「(前略)操といふものは、人間の、少なくも女の全般であるべき筈だ。決して決して部分ではない。部分的宝ではない。これだけが貞操で、これからが貞操の外だなどと言ひ得るわけがない。人間の全部がそれでなければならない。(後略)」と皐月さんはいいます。

 皐月さんのこの一文(堀場清子編「前掲書」)は、肝心の貞操がなぜそれほど大切なのかということの説明が、ほとんど欠けていましたが、それが在来の女徳としての貞操観念でないのはあきらかなことで、それを、自己とか、愛とかいう言葉に置きかえてもよいと思われる内容のものでした。

 この一文を書いたときの皐月さんは、新たな恋愛のさなかにいたので、なおさら花世さんの論旨に納得しかねるものがあったのでしょう。ところで、その相手というのが、原田潤さんであったことには、その偶然に驚きました。

 原田潤さんは、彼女たちと前後して、帝劇の女優をしていた人と結婚しましたが、この人は重いつわりがもとで急逝しました。新妻を失った原田さんは、悲しみのあまり、流浪の旅に出て、千葉の大原海岸にやってきました。

 そのころ、皐月さんは、隠退して、この地大原で余生を送っていた父上、母上といっしょに住んでいましたが、たまたまこの放浪の原田さんに出会って、同情、世話をしているうちに恋愛が芽生えたということです。

 この恋愛に勇気づけられて、皐月さんは一人で生きる道を切り開こうと、東京へ帰って、小石川白山の坂の途中に「サツキ」という水菓子(果物)店(らいてう研究会編「前掲書」コラム)を開きました。 前々からの青鞜社員であった皐月さんと原田さんは、年が改まると間もなく結婚しました。

 その後、原田さんは小林一三氏に招かれて宝塚少女歌劇の創設にあたることになり、大阪に移住、彼女と同じころに最初の子どもが生まれました。

宝塚歌劇

 やがて原田さんにに女性問題がつぎつぎに起こったことのほかに、二番目の子どもが疫痢から精薄児となり、その子どもの扱い方や教育の仕方について、二人はいつも対立するようになりました。

 それから二十年、結婚生活に絶望した皐月さんは、子どもを一人連れて、生活での苦闘の末、病気となり、友人、知人の救いの手をもしりぞけ、四十六年の生涯を自分自身の手で立ち切ってしまいました。

 同じく二十年後、花世さんもまた、結婚生活の苦労を重ねた上で、夫君を失われたのでした。けれども花世さんの場合は、皐月さんの場合とは反対に、自殺者は夫君春月氏であったことを思うとき、同じ明治、大正の時代を、いずれも女性として荊(いばら)の道を切り開きながらたたかってきた人ながら、その生き方の上の大きな相違を思わずにはいられません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む40

 花世、皐月、野枝三氏の所説のあとをうけて最後に彼女の書いた「処女の真価」という一文は一応、この論争のしめくくりとなったものでしたから、その要旨を次に記しておきます。

 「処女は重んじなければならぬ。(中略)軽々しくそれを捨ててはならぬーと、だれもが無条件で思いこんでいるが、処女を捨てることが、なぜ不道徳なのだろう。生田、原田、伊藤の三氏は、(中略)処女それ自身の真価についてきわめようとする態度のないことでは、一致している。

 すべての女子は彼女の所有する処女を、捨てるにもっとも適当な時がくるまで、大切に保たねばならない。(後略)」

 この「もっとも適当な時」の説明について「恋人に対する霊的憧憬(愛情)の中から官能的要求を生じ、自己の人格内に両者の一致結合を真に感じた場合ではあるまいか。(後略)」と書いています。

 この文章は、田中王堂(「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 6参照)氏の目にとまり、大変褒められたのは意外なことでした。巣鴨宮仲の岩野泡鳴氏のお宅でお目にかかったことがありましたが、王堂氏は岩野氏のお宅をよく訪ねていたようで、清子さんにも相当好意をもっていたらしく、二人で散歩に出かけた話など、清子さんから聞いていました。王堂氏は、当時もう六十歳を過ぎていられたでしょうか見るからに〝上品な老紳士〟といった感じで、もの腰がどこか女性的な、控え目がちな人柄でした。

 1915(大正4)年のことですが、「丁酉倫理会」の新年会に招かれ、夫婦で出席することになっていたようですが、王堂氏は独身、彼女は夫婦出席を知らず、一人で出席し、二人並んですわらされ、それを皆が冷やかします。その夜の帰り道、どうことわっても彼女の家まで送ってくれようとするのに、困ってしまいました。

 保持さんが郷里に帰り、案じていた通り、「青鞜」に関する一切の仕事が、彼女一人の肩にかかってきました。5月~8月と号を重ねてどうにかやってはゆきましたものの、自分の原稿もその中で書かねばならないというあわただしさに加えて、毎月の欠損を、自分たちの生活とともに心配してゆかねばなりません。

 そのうち、頭痛もはじまり、そのため9月号は休んでしまい、1914(大正3)年9月であるべき「三周年記念号」を10月に入ってようやく発行したものの、そのときの彼女はもうなにをする気力もない人間となっていました。砂丘が美しいと原田さんから聞いていた、上総(かずさ)の御宿(おんじゅく)海岸へまるで逃げるように、絵具箱をもった奥村といっしょに東京をたちました。それは10月12日のことです。

おんじゅく 御宿町観光協会公式サイト 

 留守中のことはすべて野枝さんに頼みました。赤ちゃんをかかえて、人一倍忙しい野枝さんですけれど、「お留守の間のことは引受けます。辻にも手伝ってもらいますからー」と、旅にでる彼女を励ましてくれるのをほんとうにうれしく思いました。

 御宿海岸には、この年いっぱい滞在の予定でしたので、しばらくこの地に1軒しかない旅館にいたあと、漁師の家の広い部屋へ移り、当座の必需品は母屋(おもや)から借りて、形ばかりの自炊生活をしました。

 彼女もお天気さえよければ、朝から浜に出て、半裸体で日光浴をしたり、歩けるだけ歩き、疲れれば坐ったり、寝たり、時には本を読んだりしました。夜は東京の出版元から送ってくる「現代と婦人の生活」(のちに反響社より刊行)とエレン・ケイの「恋愛と結婚」の校正をしました。

 

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む21~30

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む21

 1911(明治44)年、かぞえ年26歳を迎えた彼女は、相変わらず坐禅と図書館通い、それに英語の勉強に明け暮れて、人ともあまり交わらず、といってこれという仕事もない毎日を送っておりました。

 こんな彼女に対して、生田先生はしばしば、女ばかりの文芸雑誌の発行をお勧めになるのでした。あるいは、先生のお勧めではじめた先きの閨秀文学会の回覧雑誌―森田先生との事件で一回きりで中絶したーが、ずっとまだ尾を引いていたのかもしれません。

 生田先生のせっかくのお勧めも、彼女はいいかげんに聞き流していましたが、生田先生は雑誌の話をなかなかお忘れにならず、だんだん具体的な計画まで話されるようになりました。

 何部刷って、印刷費はいくらぐらいかかる。そのぐらいの費用は、お母さんに御頼みになればきっと出してくださいますよ。お友達を集めて、一つ本当にやってごらんなさいーと、いよいよ熱心に勧められるのでした。

 彼女はそのころ彼女の家を泊り場所にしていた保持研(子)さん(「元始、女性は太陽であった」を読む14参照・らいてう研究会編「前掲書」)に生田先生からのお話をもらしたのです。保持さんは四国の今治の人で結核療養の後、再び学校にもどって、同年春ようやく卒業、寮をひきはらってから、そのころ姉はもう結婚して、夫の任地神戸へいっていましたから、彼女の家に寄寓して東京で職をさがしていました。

 生田先生からのお話に保持さんはとびつき、「ぜひやりたい、いっしょにやりましょう」と、まだ決心のきまらない彼女を促します。

 そこで二人の計画を母に話すと、「そんなことなら、あなたのためにとってあるお金があるから、そのなかから幾らか出してあげましょう」といって、最初の印刷費百円を、「お父さんは承知なさるまいけれど…」と、出してくれることになりました。雑誌が出るまでには、この百円のほかにも、少しずつたびたび母からもらっております。

 雑誌発行の趣意書や規約草案ができると、まっさきに生田先生を訪ね、保持さんをまず先生に紹介して、「二人でやってみようかと思います」というと、たいへんよろこんでくださいました。

 生田先生を保持さんとお訪ねしたのは同年5月29日でしたが、この日は雑誌の誌名のことが話にでました。生田先生も、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って「いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。」ということになったのでした。

Weblio辞書―検索―青鞜

 明治二十年代の日本では、このブルー・ストッキングを紺足袋党と訳したといいますが、彼女たちは生田先生と相談して、これに「青鞜」の訳字を使うことにしました(田中久子『「青鞜」とヨーロッパのブルー・ストッキングについて』(「国語と国文学」1965年7月号 至文堂)。
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む22

 1911(明治44)年6月1日青鞜社第1回発起人会が開催され、中野初子、木内錠(てい)子、物集(もずめ)和子(らいてう研究会編「前掲書」)、保持研子、平塚 明の5人が発起人となり、同社事務所(らいてう研究会編「前掲書」コラム)は物集氏宅に設置することになりましたが、彼女は保持さん以外とはだれもそう親しくはありませんでした。

発祥の地コレクションー東京文京区―青鞜社(文京区)-「青鞜社」発祥の地

 はじめて発起人会を開催した駒込林町の物集邸は樹木に囲まれた宏大な屋敷でした。本来ならば彼女の家に事務所を置くべきでしたが、父への遠慮もあり、片手間仕事で「青鞜」をやろうとしていた当時の彼女にしてみれば、こんなことで自分の本拠をかき乱されたくないと願っていたからです。このときの会合で、雑誌の編集発行人を中野初子さんに、雑誌の表紙は長沼智恵子(のちの高村光太郎夫人・らいてう研究会編「前掲書」)さんに引受けてもらうことになりました。

 麹町六番町の与謝野さんのお住居を、訪ねたときの印象も忘れられません。4年前の閨秀文学会当時とは大変な変り様で、萩、桔梗などの秋草模様の浴衣がけに、はやりの大前髪をくずれるにまかせたようなお姿は、むしろ個性的で異様にさえ見えました。

 ともかく賛助員になって頂きたいこと、創刊号にぜひ御寄稿願いたいことなど、ずい分欲ばったことを頼んで帰りました。ところが与謝野さんの原稿(十あまりの短詩「そぞろごと」)は第一着の原稿として8月7日に到着し、「青鞜」創刊号巻頭に掲げました(抄 堀場清子編「『青鞜』女性解放論集」岩波文庫)。

 いよいよ「青鞜」を世に送り出すにあたっては、「発刊の辞」といったものが必要ではないかということになり、忙しい保持さんから「あなた書いて頂戴」ということになって、彼女が引受けることになりました。八月下旬のむし暑い夜から夜明けごろまでに、ひと息に書きあげました。「元始、女性は太陽であった」の一文(「平塚らいてう著作集」1 大月書店)は、ずいぶん稚拙で舌足らずなものではありましたが、そのころの彼女の張りつめた魂の息吹きが、ひたむきに吐露されております。

 創刊の辞を書きあげたとき、彼女は雷鳥を筆名にすることを思いつきました。「雷鳥」を「らいてう」とひらがな書きにしたのは、雷という字のイメージが、あの鳥の姿にも、彼女自身にもなにかしっくりしないように思われたからです。このときから、半世紀をこえる「らいてう」-雷鳥との因縁は、松本平を越えて北アルプスを朝夕のぞむ、信州の山の中の生活(「元始、女性は太陽であった」を読む19参照)から生まれたものでした。 1911(明治44)年9月1日雑誌「青鞜」(復刻版 龍溪書舎)が創刊されました。

しづのをだまきー過去の記事―2011年09月21日 「青鞜」創刊号―本文を読む

  「青鞜」創刊号の反響は予想外に大きなものでした。現在の女の生活に、疑いや不満や失望を抱きながら、因襲の重石(おもし)をハネのけるだけの勇気と実力を欠いていたこの時代の多くの若い女性の胸に、「女ばかりで作った女の雑誌」「青鞜」の出現が、一つの衝撃を与えたことは確かでした。

 「青鞜」の運動というと、すぐいわゆる婦人解放と、世間から思われていますが、それは婦人の政治的、社会的解放を主張したものでなく、この時分の彼女の頭の中には欧米流のいわゆる女権論というものは全く入っていませんでした。しかし、後日、その発展段階において政治的、経済的、社会的な婦人の自由と独立への要求として発芽するものは内蔵されていたと見るべきでしょう。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む23

 1911(明治44)年9月22日~24日坪内逍遥の文芸協会が同協会研究所第1回試演会で、イプセン(らいてう研究会編「前掲書」)作・島村抱月訳「人形の家」を初演、松井須磨子(「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)4参照)のノラは好評だったといわれています(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)。

Net個人指導道場―読書感想文 Archives―外国文学編―ヘンリック・イプセン(ノルウェー)―人形の家   

 さらに同年11月開場した椅子席の帝国劇場で「人形の家」が再演されると、圧倒的な話題となり、ノラに扮した松井須磨子(らいてう研究会編「前掲書」)の評判はすばらしいものでした。

 当時は新劇運動の発生期で、イプセンの投げかけたこの問題劇のテーマは、文壇はもとより社会的にも大きな論議を集めました。

 「人形の家」(岩波文庫)について、彼女は女子大時代に、だれの訳文であったか日本語訳を読んでいて、一人でこっそり後ろの席で見ました。松井さんの舞台はこのときがはじめてでしたが、どういうものか劇自体からも、松井さんの演技からも、世評のような感動が伝わってきませんでした。

 「人形の家」の合評「社員のノラ批評及感想」は「青鞜」翌四十五年1月号の付録に掲載されました。この合評に彼女は無署名ですが、家出をするノラの自覚というものが、次元の低い安易なものであるから、ノラはまずなによりも、その自覚が本物になってこそ、真の人間としての自由も独立も得られるのだから、中途半端な自覚(?)から家出するノラを危ぶんでいるのでした(「平塚らいてう著作集」1)。

 1912(明治45)年4月18日「青鞜」は二巻四号(小説特集号)に掲載された荒木郁子(らいてう研究会編「前掲書」)の小説「手紙」(堀場清子編「前掲書」)によって、最初の発禁処分を受けました。荒木さんの小説「手紙」の内容は、人妻が若い愛人にあてた手紙の形式で、密会のよろこびを語るといった官能的なものでした。

 荒木さんは「青鞜」創刊の最初からの社員で、神田三崎町の玉名館という旅館の女主人として、彼女より年下の女性でした。女子大卒業生がほとんどの最初の社員にまじって、毛色の変わった荒木さんが入社したのは、保持さんの紹介によるものでした。

 荒木さんは、ものの考え方にとくに新しいもの、進歩的なものを意識的にもっていたわけではなく、むしろ感覚的、情緒的に素早くものをとらえて行動するひとでしたから、当時としては因習的ななにものにも縛られず、その環境のなかで大胆で自由な生き方をした一つの典型的な女性でした。

 発禁処分を受けたことも一つの原因となって、物集邸内に「青鞜」事務所を置くことを断られ、この年5月半ばに、本郷区駒込蓬莱町万年山勝林寺に、事務所を移すことになりました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む24

 青鞜社には毎日のように、日本全国の文学好きな若い女からー時には男も混じっていろいろの真面目な、また不真面目な手紙や葉書が舞こんでいましたが、そのなかに混って尾竹(富本)一枝(らいてう研究会編「前掲書」・渡辺澄子「尾竹紅吉伝」不二出版)さんの手紙は異色のものでした。それからたびたび手紙がくるようになり、社内では「大阪のへんな人」ということで、すっかり知られた存在となっていたのですが、たまたま年末の社員会にに出席した小林哥津(かつ・らいてう研究会編「前掲書」)さんから彼女はこの未知の、大阪の「へんな人」についていろいろと聞くことができたのでした。

 小林さんは、発起人の一人の木内錠(子)と学校がいっしょだった関係で、木内さんの紹介で創刊の年の10月に社員になった人でした。小林さんの遠縁にあたる早稲田の学生と尾竹(富本)一枝(尾竹越堂画伯の長女)さんが知り合いだったことから、前に一枝さんが上京して尾竹竹坡(ちくは 画伯 一枝の叔父)氏の家に寄寓していたときに紹介され、それから二人は手紙のやりとりをすることになったのだそうです。

 一枝さんはそれからも手紙を矢つぎばやによこしましたが、自分の名前が手紙のたびごとにいろいろ変わり、それがいつの間にか「紅吉(こうきち)」「紅吉」と自分を呼び出しました。彼女はこの変わり者に入社承諾の返事を出し「あなたは絵を勉強していられるそうですが(女子美術学校中退)、『青鞜』の素晴らしい表紙を描いてみる気はありませんか。いいものが出来れば、今のをいつでも取替えます」と書き添えました。

 1912(明治45)年4月尾竹紅吉が小林さんに連れられて、彼女の円窓の部屋(「元始、女性は太陽であった」を読む15参照)を訪ねてきました。

 はじめて見る紅吉という人は、細かい、男ものの久留米絣の対の着物と羽織にセルの袴をはき、すらりと伸び切った大きな丸みのある身体とふくよかな丸顔をもつ可愛らしい少年のような人でした。

 このとき以来紅吉はよく訪ねてくるようになり、社の事務所へも顔を出して、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事など、なんでも手伝ってくれるようになりました。

 大阪から一家が上京して中根岸に落ち着くと、さっそく自宅を提供して、同年5月13日同人会を開き、みんなで巽(たつみ)画会第12回展覧会に出品した紅吉の二曲一双の屏風の作品が三等賞をとったこと、及び社員の林(河野)千歳(らいてう研究会編「前掲書」)さんがズーデルマン(らいてう研究会編「前掲書」)の「故郷」に、マグダの妹役で出て成功をおさめたことに祝杯をあげたのでした。

1912(明治45)年5月3日ズーデルマン作・島村抱月訳「故郷」(文芸協会3回公演)有楽座にて初演(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)。  

 林千歳さんは「紅吉」と同じころ「青鞜」に入社した人で女子大国文科卒、ご主人の林和氏は劇作家で、同時に俳優でしたから二人で舞台に立っていました。「故郷」では、マグダの妹マリーに扮して「松井須磨子に次いでの有材」と評されましたが、松井さんとは違った知性の持主で、それがかえって舞台で伸びる邪魔となったかもしれません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む25

 彼女たちが「新しい女」と呼ばれるようになったのは、既述のようにイプセンの「人形の家」を「青鞜」で取り上げたのにひきつづき、同人作「幽霊」(岩波文庫)を話題に上せ、さらにズーデルマンの「故郷」[「世界文学全集」第35巻(近代戯曲集)新潮社]が上演禁止となり世論が沸騰すると、その女主人公マグダの生き方をめぐって6月号で論評(「平塚らいてう著作集」1)を加えました。ノラやマグダを論じたことが、そのまま「ノラを礼賛しマグダを理想とする」新しい女というふうに受けとられ、「和製ノラ養成所青鞜社」などとジャーナリズムは揶揄します。

 こうして青鞜社の女たちが、時の言葉「新しい女」の名の下に、ジャーナリズムの好奇の眼にさらされているとき、紅吉がなんの考えもなく、無邪気に、得意気に「青鞜」誌上に書いたことなどが災いしたものか、国民新聞に1912(明治45)年7月11日から4日間にわたって「所謂新しい女」の見出しで、想像を逞しくしたデマ記事があらわれました。

 この「国民新聞」の記事にもある「雷鳥が美少年に五色の酒を与へ、少年が麦藁で吸ふのを恍惚として眺めている」とか「吉原遊興」については、いまなお青鞜社のスキャンダルとして話題にされますが、このことには紅吉がからんでおります。

 「青鞜」は発足以来、経営を助けるために、みんなが手分けして広告(らいてう研究会編「前掲書」コラム)をとっておりましたが、文学雑誌などによくレストラン兼バー「鴻の巣」(らいてう研究会編「前掲書」コラム)の広告の出ているのを見た紅吉はここから広告をもらうために同店に赴き、主人からフランスでいま流行しているという五色の酒を、眼の前で注いで見せられました。これは一つのコップに、比重、色彩の異なった酒を、重いものから順に注ぎ分けたものですが、紅吉はそれを飲んだわけでもないのに、それからことごとに五色の酒について書き立てるようになったのです。  

 「吉原遊興」という伝説も、これは、紅吉が「鴻の巣」で五色の酒を見せられたあとのことですが、ある日紅吉が叔父の尾竹竹坡氏からの話として、吉原見学の誘いを突然もちこみました。

 紅吉から持ち込まれた話があまりにも急でしたから、やっと連絡のついた中野初子さんと彼女(平塚明)、紅吉の三人が、竹坡氏がお膳立てをしておいてくれたお茶屋を通して、妓楼に上がったのでした。そこは吉原でも一番格式の高い「大文字楼」で「栄山」という花魁(おいらん)の部屋に通されました。おすしやお酒が出て、「栄山」をかこみながら話ををしたわけですが、その夜彼女ら三人は花魁とは別の部屋に泊り、翌朝帰りました。

 紅吉は吉原見学も黙っていられず、そのころ越堂氏の下にに出入りしていた、東京日日新聞社会部記者小野賢一郎さんに、このことを話したので、「吉原遊興」のニュースはたちまち世間にひろまり、じつに下品な攻撃がはじまったのでした。

 青鞜社に対する世間の非難攻撃は、とりわけ彼女に対して強く、だれの仕業か、彼女の家には石のつぶてが投げられたりしたものでした。

 南湖院での長い闘病生活の間に、クリスチャンのような一面ももっていた保持さんにとっては、女だてらの吉原登楼ということが、許しがたく思われたのでしょう。怒りながらも保持さんは外部からの青鞜社に対する非難に対しては、どこまでもたたかってゆくという、つよい態度と気力を示し、受難期の「青鞜」をもり立ててゆく頼もしい存在でした。

 青鞜社内に内訌こそは起こりませんでしたが、こうしたジャーナリズムの攻撃がもとで、動揺が起こったのは事実でした。紅吉は「退社してお詫びします」といいますが、彼女は紅吉のこれくらいの過失を責めようという気持にはなれませんでした。このころ紅吉は自分の左腕に刃物をあてるという自分の肉体を傷つけるというようなこともしております。やがて紅吉は肺結核の宣告が下され、茅ケ崎の南湖院でしばらく療養生活を送ることになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む26

 8月の半ばを過ぎたある日、彼女たち(保持、紅吉、平塚)は南湖院(らいてう研究会編「前掲書」コラム)の応接間で、二人の未知の男客を迎えました。その一人は、当時文芸図書の出版社として有名な東雲堂の若主人で、詩人でもあった西村陽吉(らいてう研究会編「前掲書」)さんです。たまたま紅吉は竹坡氏との関係で西村さんと知り合いの間柄でした。そんなことから、東雲堂が「青鞜」の発行経営を引受けたいという希望を、紅吉を橋渡しにして先ごろから申し込まれていたのでした。今後は東雲堂に発行、発売をまかせることにして、こちらは編集と校正だけするということで、最終的な取りきめをするために、若主人がわざわざ茅ケ崎へ訪ねてみえたのです。当時東雲堂からは、北原白秋編集の「朱欒(ザムボア)」という詩歌雑誌が出ているほか、そのころの新しい文芸関係の出版物が発行されていて、そこから持ち込まれた話は、「青鞜」にとっても悪い話ではなかったのです。

茅ケ崎市文化生涯学習ポータルサイト マナコレー文化・歴史―文化・歴史写真アーカイブー②-最盛期の南湖院

 さて、このときの西村さんの連れの客というのは、西村さんにくらべ、骨太で、図抜けた長身に真黒な長髪をまん中からわけた面長の青白い顔が、異様なまでに印象的な青年で、奥村博(らいてう研究会編「前掲書」)と名乗りました。

 このとき奥村が西村さんと同行したいきさつはあとで聞いたことですが、その日の朝、奥村は父の知人に会うため、藤沢駅の待合室で、列車の入ってくるのを待っていましたが、向かい側のベンチににかけている若い男の手にしている雑誌「朱欒」が目に入りました。奥村はその「朱欒」最新号が見たくてたまらず、見知らぬ青年に声をかけて、それを見せてもらいました。その青年が西村さんで、「これから茅ケ崎の南湖院へ用があって行くのですが、ごいっしょにどうです?」と誘われました。病院の応接室で最初に彼女を見た瞬間、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見たーと、奥村はのちに述懐しました。

 ところが、後に知ったことですが、その夜か、その翌朝かに、早くも紅吉は、らいてうが奥村の再来訪を待っているという内容の手紙を、紅吉の署名入りで出していたのです。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む27

 二、三日して写生の帰りだといってスケッチ箱をもった奥村が突然彼女の宿である漁師の家を訪ねてきました。彼女はふと「青鞜」1周年記念号の表紙を、この人にかいてもらいたい気になり、さっそく頼んだのでした。

 彼女は奥村を連れて、南湖院に行き、紅吉の提案で保持さんと保持さんの親しい入院患者の小野さんを誘って、その日の夜、柳島(馬入川が茅ケ崎の海にそそぐ川口の洲のあたり)に小舟を出しました。奥村は藤沢に帰る汽車にのりおくれ、保持さんの紹介で、病院の松林の奥の藁屋に泊まることになり、彼女は自分の宿へ引き上げました。

 ところが激しい雷鳴に驚いた彼女は宿のおかみさんに提灯をもって付き添ってもらい、奥村を迎えにゆきました。その夜大きな緑色の蚊帳の中に寝床を並べて朝を迎えたときから、奥村に対する彼女の関心は、しだいに関心以上のものへと、急速に高まってゆくのでした。

 こうして奥村が彼女の宿で一夜を過ごしたことは、夜明けを待ちかねて彼女の宿の様子を窺いに来た紅吉の知るところとなりました。すっかり逆上した紅吉は「きっとこの復讐はするつもりです。わたしはらいてうを恋しています」というような脅迫状を奥村に送って、奥村を驚かせたのです。

 この年1912(明治45)年7月30日には明治天皇崩御され(「労働運動二十年」を読む6参照)、9月13日の大葬の日を待って、乃木大将夫妻殉死があるなど、新聞、雑誌は天皇の御病中から、大きくその関係記事を取り上げるという時代でした。

四国の山なみーTopjcs―土佐の怪異譚―(参考)乃木希典の殉死

 「天皇」を意識することも、社会に目を向けることも少ないこのころの彼女たちでしたから、奥村の表紙に飾られた「青鞜」1周年記念号には、世を挙げての諒闇色といったものはなにひとつ反映されていません。

 9月が訪れると彼女は東京へ帰り、やがて紅吉も月の半ばには退院して東京に帰りました。

 このころ奥村は城ヶ島に渡り、そこの宿に滞在して画をかいていました。そんなある日前田夕暮氏の主宰する短歌雑誌「詩歌」の同人で編集の手伝いなどもしている新妻莞(にいづまかん)さんが奥村を訪ねてきて、奥村と同居することになりました。

 しかるに新妻さんは、奥村宛に届く手紙などから彼女の存在を知って「あんな女とは絶交するのが若い君の身のためだ」と熱心に忠告、奥村は紅吉の脅迫状のこともあり、すっかり不愉快になって、彼女に一通の手紙に気持ちを「若い燕」の寓話に託して彼女の前から姿を消してしまいました。この寓話は新妻さんが作った「お話」を書いたものですが、このときから「若い燕」ということばが時の流行語となり、いまなお生きているようです。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む28

 たしか晩春のころと思いますが、彼女のもとへ、九州に住む未知の少女から長い手紙が届きました。差出人は「福岡県糸島(いとしま)郡今宿(いましゅく)村 伊藤野枝(らいてう研究会編「前掲書」)」と、素直な、しっかりした字で書いてあります。その内容は肉親たちから強制されている結婚の苦痛などを訴えたもので、手紙を一読した彼女は、本気で一生懸命に、からだごと自分の悩みをぶっつけてくるような、その内容につよく動かされました。近いうちに上京してお訪ねするから、ぜひ会ってほしいと書いてあります。

 それから何日か後に九州の少女が彼女を訪ねてきました。紅吉よりも、哥津ちゃんよりもずっと子どもっぽい感じで、その黒目勝ちの大きく澄んだ眼は、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さでみひらかれていました。

 そのときの野枝さんの話は、さきに寄越(よこ)した手紙の内容を、より具体的にしたもので、今は上野女学校で英語の先生であった辻潤(らいてう研究会編「前掲書」)氏の家に、世話になっている、とのことでした。一度九州へ帰ってすっかり後かたづけをしてくるといって帰った野枝さんから、家人の隙を窺って再度の家出をしようと思うが、その旅費をなんとか都合して送ってほしいとの再度の手紙を受け取ったのは、それから一(ひと)月近くのちのことでした。

 彼女はまず野枝さんが世話になっていたという辻さんの意見を尋ねてみると、彼は野枝さんの上京後のことは自分が責任をもつということでしたから、彼女は自分のポケットマネーから旅費を送ることにしました。当時の彼女は野枝さんが再度上京して辻さんとの相愛生活をはじめてからも、なおそれに気づかず、妊娠したときいてやっと気がつくという有様でした。辻さんが野枝さんのことで職を失ったことはあとできいて知ったことでした。

「五色の酒」や「吉原遊興」事件によってまき起こった世間の誤解や非難が、新しい女の上に集中するにつれて、社の内部には、「わたしは新しい女ではない」という逃避的な声がつよまり、われ一人よしとする逃げ腰の態度が、社員のなかに目立つようになっていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む29

 これに対して、彼女(平塚明)はここに改めて、「新しい女」とは何か、とみずからに問いかけ、真実を主張し、悪ジャーナリズムにあやまられた新しい女の実態を示すことで、勇敢に起ちあがらなければいけないと考えたのでした。

 「中央公論」編集長の滝田樗陰(「大正デモクラシーの群像」読むⅠ―吉野作造9参照)さんが再度来訪して大正2年(1913)新年号に「新しい女」という題の文章の寄稿を頼まれ、断りきれず、その日に書いたのが「自分は新しい女である」(「平塚らいてう著作集」1)という書き出しの小文です。この文章は、のちに幾分か字句の修正をしてその後の著書(平塚らいてう「円窓より」複製版 叢書女性論8 大空社)に収録してあります。「青鞜」同年第三巻一号は「新しい女、其他婦人問題について」と題する特集を付録とし、同付録にらいてう訳のエレン・ケイ(らいてう研究会編「前掲書」著「恋愛と結婚」 原田実訳 岩波文庫)の掲載が始まりました。

 生田先生のおすすめで同年2月15日青鞜社(新しい女)講演会(らいてう研究会編「前掲書」コラム)が開催され、生田長江のほか、馬場孤蝶、阿部次郎(らいてう研究会編「前掲書」)、岩野泡鳴の諸先生および岩野清子(泡鳴夫人 青鞜社員)さんが演壇に立たれました(阿部次郎は講演予定だったが、風邪のため中止となり、出席のみ)。

 講演会の準備を進める社員のなかに、ビラや入場券の作成を受け持って、たのしそうに動きまわっている、紅吉の姿もありました。すでにおもて向きは退社となっていながら、紅吉は編集室へも彼女の円窓の部屋へも、相変わらず顔を見せていますし、三巻新年号からの表紙絵―それはアダムとイブを描いたすぐれたものでしたがーを、自分で木版を彫るなど、たいした骨のおり方でした[その絵の下絵は、富本健吉(らいてう研究会編「前掲書」)氏の描かれたものであることを、紅吉自身の話でによって最近知りました]。

 どんなきっかけで紅吉が生田先生宅へ寄寓ようになったのか、よく分かりませんが、生田家にいる姉のもとへ、家からのおつかい役で来りする紅吉の妹、福美(ふくみ)さんを、佐藤春夫が見染めたのもこのころでした。

 そのころ、佐藤さんは慶応義塾の学生で生田家に玄関番の生田春月(らいてう研究会編「前掲書」)とともに同居していたのでしたが、佐藤さんから託された恋文を、紅吉が福美さんに手渡すようなこともあったようでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む30

 1913(大正2)年初頭、国内の政情は大きくゆれ動いていました。第3次桂太郎内閣に対する尾崎行雄の弾劾演説が同年2月5日の議会で行われ、同内閣が倒壊する大正政変(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13~14、「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造8参照)が起こっていましたが、こうした新しい時代の胎動をよそに、「新しい女」に対する偏見と迫害は根強いものがありました。

青鞜」第三巻二号は「婦人問題の解決」福田英子(「田中正造の生涯」を読む28参照)、「冷酷なる愛情観と婦人問題」岩野泡鳴、「談話の代りに」阿部次郎、「恋愛と結婚」エレン・ケイ、らいてう訳を付録として掲載したのでしたが、これが同年2月8日「安寧秩序をを害するもの」という理由で、発禁処分となりました。だれの書いたものが抵触するかについてはふれられていませんが、福田さんの「婦人問題の解決」は、社会主義的婦人論の荒筋のようなものでした。もしこの論文が当局の忌諱(きい)にふれたとするなら、おそらくその内容よりも、平民社(「日本の労働運動」を読む32参照)に関係のある、福田さんの名前がいけなかったのでしょう。

 ところが、この発禁処分がもとで、彼女の家庭では父との間に一悶着が持ち上がりました。「青鞜」への世間の悪評に、いままでただ一言も文句をいったことのない父が、このときは自分の部屋に彼女を呼びつけ、真正面から怒りをぶっつけたのでした。

内田聖子のホームページー聖子・歴史の小径-福田英子と解放運動

 「青鞜」の原稿を依頼した当時、福田さんは、石川三四郎(「日本の労働運動」を読む40参照)さんといっしょに横浜の根岸に住んでいました。後に青鞜社の巣鴨の事務所[1913(大正2)年4月移転 ]へ見えるようになったころは、石川さんを海外へ送り出したあと、上京して駒込橋付近で養鶏をしていたのでしょうか、生みたて玉子を売り歩いていました。

 はじめてお会いした福田さんの印象は、大柄な中年を過ぎたこわい感じの婦人で、ちょっとたじろぐ思いでした。でも老いた女壮士といった風格がどこかにありました。

 彼女は後に福田さんを姉に紹介しました。姉は義兄が逓信省庶務課長であった関係で、新橋汐留(しおどめ)駅に近い逓信省の官舎に住んでいました。

 姉の方でも話し好きの福田さんをいい話し相手にしていたらしく、やがて福田さんはしげしげと姉のところに出入りするようになりました。

 1927(昭和2)年5月2日福田さんは危篤状態のなかで、礼をいいたいからどうしても姉に会わせてほしいと家人にせがんだそうで、知らせを受けて、姉は南品川の福田さん宅に駆けつけましたが、間に合いませんでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11~20

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11

 女学校四、五年の一時期に、彼女が富士登山を思いたった気持の背景には、その当時、女性の富士登山者がぼつぼつ現れて、それを新聞などが賞賛的に書き立てていたことなどもいくらか影響したのでしょうか。

 いよいよ夏休みとなり、彼女は精一杯の勇気をふるって、父に富士登山の許しを求めました。小さいころ、あれほど父に可愛がられていた彼女でしたが、いつのころからか次第に、父に対して、気軽に話ができないようになっていました。はたして、彼女のひたすらな望みは、ひとたまりもなく父に退けられました。「馬鹿な。そんなところは女や子どもの行くところじゃないよ。」嘲りとあわれみをふくんだ、彼女にとってはなんとも不愉快な表情で、父ははねつけました。彼女はまったく承服できない気持のまま、にじみ出る涙をおさえて、黙って引きさがるだけでした。

松本正剛の千夜千冊―バックナンバーで探すー全読譜―1201-1300-1206-平塚らいてう

 その年の秋であったか、翌年の春であったか、祖母に付き添われて、胸を病む姉が久しく療養していた小田原十字町の宿を足がかりにして、海賊組のひとりの友達といっしょに、草鞋(わらじ)ばきで箱根の旧道を登ったことで、彼女は悶々とした思いを多少解消した形になりました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む12

 五年生のころ、クラスで隣の席に、当時仏教学者として名高かった、村上専精(せんじょう)博士の娘さんがいました。新聞かなにかでこの村上さんのお父さんの講演会のあることを知った彼女はその講演会に行ってみる気になりました。

 会場は神田の錦輝館で、法然(ほうねん)上人か親鸞(しんらん)上人の何百年祭かの記年講演会でした。当時の彼女は、この講演や会場の雰囲気から大きな感銘を受けました。いま振りかえってみると、村上博士の講演からうけた感銘がのちに彼女を、宗教や哲学に近づける一つの機縁となったことは、疑いないことのように思われます。

 こうして急速度に、宗教や倫理、哲学などの方向に興味をもちはじめた彼女は、今後の研究に打ちこんでゆくために、開校まだ日の浅い、日本女子大学への入学を願うようになりました。

日本女子大学―大学案内―建学の精神と歴史   

 当時女子大には、国文科、英文科、家政科の三つの科がありましたが、彼女の志望は英文科でした。ところが、彼女の志望を父に話してみると。「女の子が学問をすると、かえって不幸になる」と彼女の希望は一言のもとにはねつけられたのです。そのとき父が「親の義務は女学校だけで済んでいるのだ」といったことばが、その後いつまでも、彼女の耳底に残りました。

 物ごとを一途に思いつめてあとへひかない彼女の性質をよく知っている母は、母親らしい愛情から、彼女のためにいろいろとりなしてくれ、そのおかげで、「英文科ではいけないが、家政科ならば…」という条件つきで、ようやく父から女子大入学の許しが出ました。

 大きな期待に胸を躍らせながら、創立間もない女子大の第3回入学生として、目白の校門をくぐったのは、1903(明治36)年4月のことでした。この時分の女子大生には何年か小学校の先生をしてきた人とか、未亡人、現に家庭をもちながら入学してきた人などもいて、なかには「小母さん」と呼んでいいような、中年の婦人もいました

。家政科の学生は百人近くいて一番多く、国文科ががもっとも学生の少ない科でした。「自主、自学」を建前とする学校だけに、すべてのことが生徒の自治にまかされているので、お茶の水ではまったく経験しないことばかりでした。

 週1回、午後二時間の校長の実践倫理は、各部の新入生を一堂に集めて行われるのですが、あくまでも、自学、自習、創造性の尊重ということに重点を置いて、たんなる知識の詰込み、形式主義の教育を排撃するという成瀬先生の説明は、お茶の水の押しつけ教育にうんざりしていた彼女をどれほど喜ばせたことでしょう。試験というものがなく、成績点もなければ、落第もなく、卒業のとき論文を出すだけという女子大の教育は、入学したばかりの彼女には、まったく理想的なものに映りました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む13

 さて、こうして通学していると、当時の女子大は寮生活が中心でしたから、寮に入らないと本当の校風が分からないということで、リーダーがしきりに寮に入ることを勧めるようになりました。彼女は、家の反対を押し切るようにして、二年のはじめころ寮にはいることにしました。

 そのころの寮は学校の構内の裏側にあり、木造日本建築の下宿屋のような建物で、棟割り長屋式に幾棟かに別れて立っており、それが一寮から七寮までありました。一寮が一家族ということになっていて、およそ二十人ほどですが、付属女学校の生徒から大学の上級生までがふくまれていて、寮母は上級生か女の先生がつとめました。

 彼女が入った七寮は付属高女の平野先生が寮監で、その下に家政科三年生の大岡蔦枝さんがお母さん役で責任をもち、その下に彼女と信州飯田出身で付属高女からきた出野柳さんがリーダー役で活躍していました。

 自分からすすんで寮に入った彼女でしたが、やがて寮の生活に疑問と幻滅を感じるようになりました。寮は八畳の部屋に四人ほど入っているのですが、机に向かっても、向い合わせの机に人がすわっているので、気持が落着きません。夜は夜で、修養会とか、何々会とか集まりばかりが多く、それらにいちいち出席していたら、自分のことがなにも出来なくなるのでした。

 自主、自治、独創ということは、成瀬先生からつねづねいわれていることですし、また自学自習主義が建前であるはずなのに、自主的な研究時間などは全くなく、同じような会合につぶす時間があまりにも多いことも、納得できないことでした。

 こうした学生の会合には、いつも出るのを渋っていた彼女でしたが、家政科の授業にはまじめに出席しました。料理の実習には、週二回の午後の時間が全部あてられていましたが、彼女はたいていさぼって、図書室に行ったり、文科へ傍聴にゆくことにしていたので、大体料理が出来上がるころを見はからって料理室にゆき、試食の段どりになると、すまして食べるだけはたべたものです。

 文科の講義では、西洋美術史の大塚保治先生は、「お百度詣り」の詩で有名な、竹柏園(佐佐木信綱の雅号)の歌人、大塚楠緒子(なおこ 「坂の上の雲」を読む21参照)さんの御夫君で、文学博士、帝大の教授ですが、この先生の講義のときは講堂がいっぱいになりました。幻燈でラファエルやミケランジェロの絵が見られるので、たのしい時間でした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む14

 学生が勉強しないことについての疑問とともに、もう一つ彼女には釈然としないことがありました。そのころの女子大では、家政学部が成瀬教育の寄りどころのようになっていて、学校にとって大事なお客様(主として当時の政、財界の知名人)が学校に見えると、その接待役は家政科の学生でした。お料理からお菓子なにもかもみんな学生の手作りですから、こんなとき真先きに働くような人が、共同奉仕の精神の持主として賞讃されるのでした。彼女はそんな評価の仕方が納得できないので、こうした接待のときはさぼりがちでした。

 それよりももっといやなことは、こうした後援者に対する成瀬校長の、過度な感謝の態度というか、その表現の仕方で、彼女は校長がつくづく気の毒になってしまうのでした。

 岩崎、三井、三菱、住友、渋沢などの財界の当主や、伊藤、大隈、近衛、西園寺などの政界の代表的人物が、なにかの時には学校へ見え、まれには話をきくこともありましたが、この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどなく、こういう種類の人たちをとうてい彼女は偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした。

 とくに大隈伯はいかにも傲慢な感じの爺さんで、横柄な口のきき方でした。その説くところの女子教育の必要も、女子自身を認めてのことでなく、日本が列強に伍して行くようになって、女が相変わらずバカでは国の辱(はじ)だとか、男子が進歩したのに、女子がそれにともなわないでは、内助はおろか、男子の足手まといになるだけで、けっきょく、それだけ日本の国力が減退することになるといったものなので、呆れました。

 こうした周囲の雰囲気のなかで、彼女はやがて、成瀬先生の講義そのものに対しても、いままでのように打ちこめなくなってきたのでした。校長の実践倫理の講話は、校内では至上命令的で「神の声」のようなものですから、コントのポジティヴィズム実証主義)のあとジェイムスのプラグマティズム(「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A) 3参照)が説かれるようになると、ひどく狭い実用主義、実利主義が学内を風靡するようになり、彼女にはもう我慢できないことでした。

独学ノートー単語検索―実証主義   

 こうした雰囲気のなかで、勉強しているもの、本などにかじりついている者は異端視され、ことに実証主義的でない本など読んでいる者は危険思想の持主としてかんたんに睨まれるようになりました。

 とにかくそのころの彼女は読書欲にかられ、まるで本の虫のようにして書物を漁ったものでした。読むものは、宗教、哲学、倫理関係のもので、彼女はちょっとの休み時間にも図書室にかけこみ、ときには講義を休んで終日ここですごすようなこともありました。九時半だったかの消燈後も、食堂へこっそり入って、ろうそくの火で本を読んでいて、寮監にたしなめられたことなど思い出します。

 そうこうしているうちに、彼女は突然発熱し、パラチブスという診断を校医から受けて、家へ帰されました。

 彼女に女子大入学を許した以上、姉にも女子大の教育をうけさすべきだという父の意向で国文科ならば入ってもいいという姉に父が妥協、姉は彼女より1年遅れて、女子大国文科にはいりましたが、二年になって肺結核の初期という診断で療養生活に入り、結局中途退学してしまいました。やがて結核専門の療養所である茅ケ崎海岸の南湖院で同級生の保持研(子)(よしこ)さんと闘病生活を慰めあっていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む15

 当時の日本は日露戦争のさなかで、国をあげて戦争に協力していましたが、自分の内的な問題にばかりとり組んでいた彼女は、一度も慰問袋をつくったりするようなことをやった覚えがありません。

 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」については、当時女子大が明星派の新しい文学を拒否していたからか、学校では話題にならなかったように思います。もともと学校自体も、ときの政治問題などについて、学生を社会的影響から隔離しようという方針でしたから、この時分の女子大生は、彼女に限らず、そのほとんどが新聞を読んだり、読まなかったりで、、どちらかといえば、読まない日の方が多かったことでしょう。いまふりかえってみて、日露戦争の印象は、小学生時代の日清戦争の記憶よりもずっと希薄なのはおどろくばかりです。  

 先にいた七寮を、なにかの用事で訪ねたついでに、木村政(子)(らいてう研究会編「『青鞜』人物事典」大修館書店)という同級生の部屋に立ち寄ったとき、机の上に置かれた「禅海一瀾」という和綴木版刷り、上下二巻の本が目にとまりました。著者は鎌倉円覚寺の初代管長今北洪川老師ですが、めくっているうちに、ふと、「大道求于心。勿求于外。」(大道を外に求めてはいけない、心に求めよ)という文字が目に入りました。このことばこそ観念の世界の彷徨に息づまりそうになっている、現在の自分に対する、直接警告のことばではありませんか。

楽道庵ホームページー根源的大道としての禅  

 この本は禅家の立場から、儒教―ことに論語、大学、中庸のなかの諸徳を批判したもののようでした。彼女は息をのむ思いで、矢もたてもなくこの本を借りうけて帰りました。

 それから間もないある日、彼女は木村さんに案内されて、日暮里の田んぼのなかの一軒家、「両忘庵」の偏額(へんがく 門戸または室内にかけた額)のかかったつつましい門をくぐりました。女子大三年の初夏のころだったと思います。

 迷いも悟りも二つながら忘れるというこの両忘庵の庵主、釈宗活老師は鎌倉円覚寺二代管長、釈宗演老師の法嗣(仏法統の後継者)で、両忘庵で独り暮しをされ、後藤宗碩(そうせき)という大学生が侍者(和尚に侍して雑用を務める者)をつとめていました。

 この日彼女は、相見(面会)につづいて参禅を許され、老師から公案(参禅者に示す課題)を頂き、後藤さんから坐り方を教えてもらい、その日から彼女にとって坐禅という、自己探究の果てしのない、きびしい旅がはじまりました。

 しかし他方で、卒業期が近づき、卒業論文提出の締切日がきてしまいました。この学校には試験というものが全然なく、卒業論文を提出して卒業がきまるので、クラスの人たちはみんな早くから、論文に夢中になっていました。しかしこの人たちとは反対に、いままで得たあらゆる知識を捨てる修行に日夜骨身をくだいている彼女には、論文を書くのはじつに辛いことでした。といって卒業だけはどうしてもしてしまいたかったので、短いものを、なるだけ時間をかけずに書くことにしました。

 1906(明治39)年3月数え年二十の春、彼女は家政科らしからぬ筋違いの論文がパスして、家政科第3回卒業生として社会に送り出されました。

 同年冬、一応健康を回復した姉と、帝大卒業を控えた義兄との結婚式が挙げられました。

 姉たちは結婚とともに姉たちのために建てた新しい家に引越しましたので、彼女は義兄がそれまで占領していた別棟の二間つづきの部屋に移りました。

 大きな円窓のある三畳の狭い方の部屋を書斎にし、四枚の襖で仕切られた四畳半を寝室兼坐禅の間として、そこには床の間に花瓶、床脇に香炉一つ置くほか何ももちこまないことにしました。床の間には、宗活老師にたのんで揮毫してもらった、書の掛け軸をかけました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む16

 卒業とともに、英語の書物を自由に読みこなせるように、英語の力をつけようと思った彼女は、両親には無断で、麹町の女子英学塾(津田塾大学の前身)[校長 津田梅子(久米邦武「米欧回覧実記」を読む2参照)]予科二年に入学しました。その帰りには近くにある三島中洲先生の二松(にしょう)学舎に寄って漢文の講義をききました。それは禅をはじめてから、漢文で書いた書物を読むことが多くなったからです。そのために必要な学費は、家からもらう小遣いと、女子大三年のとき、講習会其の他で貴族院速記者に習った速記の収入でどうにかやりくりをしました。  

 しかし女子英学塾の授業は狭い意味での語学教育に終始し、使う教科書も内容のないものでしたから、彼女は一学年の終わりを待たず。飯田町仲坂下の成美女子英語学校に転じました。1907(明治40)年の正月だったかと思います。

 こうして英語学校。二松学舎、速記の仕事という忙しい生活の中でも。両忘庵通いはいっそう熱心につづけました。ようやく老師に認められて見性(けんしょう 悟りの境地)を許されたのは、女子大卒業の年の夏で、慧薫という安名(あんみょう 禅宗で新たに得度受戒した者に初めて授与する法諱)を老師からいただきました。

 求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。さすがにうれしさのやり場がなく、彼女はその日、すぐに家に帰る気になれず、足にまかせてどこまでも歩きました。それからの彼女はずいぶん大きく変わりました。坐禅の先輩の木村政子さんといい相棒になって、芝居や寄席のような場所にも、足を運ぶようになりました。

 1907(明治40)年正月から通いだした成美女子英語学校はユニヴァサリストという教会付属の学校で、ここは英学塾のように文章をやたらに暗記させることもなく、出欠席もとらないという自由な学校で、読むものも英学塾より面白いのが取り柄でした。

 ここで生田(長江)先生から、若きウェルテルの悩み、相馬(御風)先生にアンデルセンの童話、などを学びました。生田先生も相馬先生もまだそれぞれの大学を出て一、二年というところで、生田先生は少しのひげをぴんとひねりあげて、頭髪もきれいに分け、いつも洋服をきちんと着込んだ身だしなみのよい紳士でした。相馬先生は、赤門出の先生方のなかに、ひとり早稲田出ということでやや異色の存在でしたが。いつも粗末な和服姿で、気どりがなく、やさしいけれども神経質な気むずかしさと、どこか気の小さな人のよさの感じられる方でした。

花の絵―文化(CULTURE)―月別インデックスーNovember 2011-―不屈の評論家 生田長江について   

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む17

 同年6月になって成美のなかに閨秀(けいしゅう 学芸に秀でた婦人)文学会(らいてう研究会編「前掲書」用語解説)という、若い女性ばかりの文学研究会が生まれました。これは女性の文章に、非常に興味をもっていられた生田先生の肝入りでつくられた会で、講師の顔ぶれは新詩社系の人びとが中心で、与謝野晶子戸川秋骨平田禿木馬場孤蝶(らいてう研究会編「前掲書」)、相馬御風、などの諸先生と生田長江先生、そのお友達の森田草平先生などでした。

渋谷・時空探究―一覧―第三話 与謝野晶子と東京新詩社

 会員は成美で英語を勉強している生徒有志のほか、外部からも加わって、全部で十数人ほど、彼女も誘われるままによろこんでこの会に加わりました。学校の授業のあと、一週に一回の集まりを開きましたが、おそらく講師の先生方は無報酬で来ていられたにちがいありません。

 はじめて見る与謝野先生の印象が、いままで想像していた人と、あまりに違うことにびっくりしました。ふだん着らしく着くたびれた、しわだらけの着物といい、髷をゆわえた黒い打紐がのぞいて垂れ下っているような不器用な髪の結い方といい、見るからにたいへんななかから、無理に引っぱり出されてきたという感じでした。やがて先生の源氏物語の講義が始まりましたが、それはまるでひとりごとのようなもので、しかもそれを関西弁で話されるので、講義の内容は誰にもほとんどわからずじまいでした。

 彼女は閨秀文学会に加入してから生田先生の推薦で急速にツルゲーネフモーパッサンなどの外国文学に親しむようになり、他方「万葉集」などの国文学を系統的に読みはじめていました。これは閨秀文学会で知り合った青山(山川)菊栄さんの刺激が多分にあったように思います。

フェミニズムの源流 山川菊栄  

 アメリカへ布教のため、弟子たちを連れて旅立たれた両忘庵主の釈宗活老師から、自分の留守中、他の師家につくなと戒められていましたが、あるとき興津清見寺住職の坂上真浄老師の提唱(禅宗で宗師が大衆のために宗旨の大綱を提示して説法すること)があったときその枯淡な印象が忘れられず、浅草松葉町の海禅寺で同老師の接心(禅宗で僧が禅の教義を示すこと)があると聞くと、紹介もなしに参禅することになりました。

 そのころの長らく無住だった海禅寺を復興させるため、鎌倉(円覚寺)から住職代理として、手腕のある青年僧中原秀岳和尚が来ていたのです。

 その日も海禅寺で参禅していた彼女は夜の八、九時になっているのに気付くと、急いで立ち上がり、宗務室の中原秀岳和尚が開けてくれた潜り戸から外へ出ようとしたとき、この青年僧になんのためらいもなく、和尚の好意に対するあいさつとして、接吻してしまったのです。

 数日後、中原秀岳和尚から結婚申し込みをうけ、当惑した彼女は木村さんに宥め役になってもらい、かなりの時を経過して、3人はなんでも遠慮なく話し合えるようになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む18

 閨秀文学会の会員の作品を集めて、回覧雑誌をつくることになり、このとき彼女は小説を生まれてはじめて書きました。彼女のほかに小説を書いたのは青山(山川)さん一人でした。彼女の「愛の末日」と題する小説は全くの想像で、女子大か何かを出た女性が恋愛を清算し、独立を決意して、地方の女学校の教師となって、愛人にわかれて、任地にひとり旅立って行くというようなものでした。

 この小説(?)を読んだ森田先生から、長い批評の手紙をもらったのは、1908(明治41)年1月末のことでした。

Weblio辞書―項目を検索―森田草平―ダヌンツイオ  

 達筆の薄墨で巻紙にしたためられた森田先生の手紙は「愛の末日」についての過分の讃辞にみちたものでしたが、彼女も巻紙に筆で返事を返事をしたためてだし、文通するようになりました。

 かくしてオープンな若い男女交際の場に乏しい当時の日本において、森田草平は彼女を男女関係の経験者と思い込んだ形跡があり、彼女は森田草平のだらしのない男女関係の実態をよく知らず、デートを重ねるうちに、森田草平が説くダヌンチオ「死の勝利」(生田長江訳 昭和初期世界名作翻訳全集22 ゆまに書房)の世界へと彼女が引き込まれていったようです。 

 1908(明治41)年3月24日森田草平・平塚明子心中未遂で塩原尾頭峠(栃木県)を徘徊中、発見されました[塩原(煤煙)事件](新聞集成「明治編年史」第13巻 財政経済学会)。

クリック20世紀―1908-1908/3/24森田草平・平塚らいてう心中未遂(煤煙事件)  

 二人は宇都宮警察の巡査に発見され、、案内された温泉宿には生田先生、すこし遅れて母まで来ていました。母とともに帰宅して、心痛のため腸をこわして寝床についていた父は、、深く頭をたれて枕元に坐った彼女を見すえて、「たいへんなことをしてくれたね」といっただけでしたが、激怒を精いっぱいおさえていることは彼女のからだにすぐ感じられました。

 この事件の解決策として夏目(漱石)先生の側から、生田先生を通じて、父に述べられたことは、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにご両親に十分謝罪させる、その上で時期を見て平塚家へ令嬢との結婚を申込ませる」という内容だったようです。ところが父は、直接娘におききなさいと無愛想に答えたらしく、母に案内されて彼女の部屋に入ってきた生田先生に彼女は森田先生との結婚の意思はないと申しました。事件の後始末が、事件の当事者同士の話し合いにゆだねられず、第三者による結論としての結婚のおしつけに彼女は不満だったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー夏目漱石

 その後何日かして夏目先生(一高の語学教師として彼女の父とは面識あり)から父あての「あの男を生かすために、今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。」という内容の丁重な親展の手紙がきました。 母は父に代わって、それは受け入れがたいことを伝えに、夏目家を訪れましたが、夏目先生の強い懇願をうけ、父の意向は通らずじまいでした。

漱石は正直に『よく解らない』といいながら、この事件の表に出た形と想いとはくいちがっていることを指摘している。」(塩原尾花峠・雪の彷徨事件 井手文子「平塚らいてうー近代と神秘―」新潮選書)
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む19

 山から帰って十日ほどあと、いちはやく母校の女子大から、除名の通知がもたらされました。寮監で桜楓会(同大同窓会)役員の出野柳さんが、その使者役となって彼女の家にみえました。彼女は「自分としては、母校の名を傷つけるようなことをしたとは思いませんが、桜楓会でそういうふうになさりたいのなら、むろんわたくしはそれをお受けします」とあっさり答えました。

 こうして世間がかってな見方で騒ぎ立てることはうるさく、不快なことには相違ありませんが、いちばん失礼だとおもったのは当時の新聞記者の、面会を強要するひどい態度です。

わかってもらえそうな程度のことを少しばかり話すと、それが違った意味のものに作りあげられているのには驚きました。

 こんなことから、父は彼女を当分の間、家に置きたくないといいはじめ、彼女は鎌倉の円覚寺や母とともに茅ケ崎の貸別荘で過ごしたりしました。今度の事件の渦中に木村さんも巻き込まれた形となり、母校の女子大から妙な眼で睨(にら)まれるようになったので、女学校の家事の先生になって急きょ関西へ赴任してしまいました。

 1908(明治41)年9月初め、かつてお茶の水高女で「海賊組」の一人であり、女高師を出て松本の高等女学校に赴任した小林郁さんを訪ねて、彼女はひとりで、信州の旅に向かいました。

 一時小林さんから紹介された松本市内の繭問屋の蔵座敷に滞在しましたが、1週間ほどで松本から数里東南方の東筑摩郡中山村字和泉の養鯉所に落ち着くことになりました。彼女はここで散策と坐禅と読書に明け暮れる毎日を過ごしたのです。

Goro―登山と散策 

 森田先生からは、この山のなかへも時おり手紙がきました。先生は謹慎していた夏目先生の自宅から、近くの、牛込横寺町にあるお寺に下宿し、そこで小説「煤煙」(岩波文庫)を書きはじめていました。彼女はそれが作品として立派なものであってほしいと願っていました。

 やがて朝夕眺めていた日本アルプスの連峰は雪をかぶり、彼女の部屋にも炬燵が入って、信州滞在も終りを告げねばならない季節となりました。  こんなとき、森田先生から、例の小説がだいたい書けた。朝日新聞に、夏目先生の紹介で、来春元旦から発表されることになったと知らせてきました。
 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む20

 中山村の養鯉池から引き上げたのは、十二月のなかばに入ってからでした。信州から帰京後、彼女は神田美土代町の日本禅学堂において、坐禅修行をはじめました。日本禅学堂はお寺ではなく、中原南天棒全忠老師(鎌倉禅の批判者)門下の駿足といわれた岡田自適(外科開業医)が私財を投じて独力で開いたものでした。

 森田先生の創作「煤煙」は、予告通り1909(明治42)年元旦から「東京朝日」に連載されました。新聞は毎朝配達されてきますから、父や母の眼に触れないはずはなく、読んでいるかも知れないのです。彼女も部屋に持ち込んで、ひそかに読んでいました。

 もともと「死の勝利」を下敷にしたともいえるこの小説が、自分の実感によるものでないのは仕方がないとしても、あれほど自分の趣味や嗜好で、また自分よがりの勝手な解釈で作り上げないでもよさそうなものだと思われるのでした。しかしほんとうに「一生懸命」に書いた苦心の作であることだけは、はっきりと感じられます。

 1909((明治42)年十二月下旬彼女は西宮市海清寺禅堂において臘八接心(釈迦が成道した12月8日にちなんで12月1日から8日まで徹夜で行われる接心)に参加、南天棒老師より「全明」の安名を受けました。

 一方新たな意気込みで英語の勉強にとりくみ、同年4月から神田の正則英語学校に通い、ここで斉藤秀三郎先生の英文法を聴きましたが、まるで講釈師がするように、折々扇子で机をたたいて講義されるのには驚きました。馬場孤蝶先生や生田先生宅へも時折伺っておりましたが、社会や政治の問題を、自分自身の問題として考えることもなければ、当時(明治43)年、世上やかましくさわがれた幸徳事件(「日本の労働運動」を読む47~48参照)についても、生田先生のところで話題に出るほか、とくに関心はもちませんでした。

 塩原事件以来、海禅寺へふたたび出入りするようになったのは、1910(明治43)年の夏のことでした(「元始、女性は太陽であった」を読む16参照)。

 その年の暑中休暇に東京へ帰ってきた木村さん(「元始、女性は太陽であった」を読む15・19参照)が海禅寺にゆくと、秀岳和尚が彼女にひどく会いたがっているということで、木村さんに連れられるような格好で、再び出入りするようになったのでした。それがきっかけで、その後、木村さんが関西へ帰ってからもひとりでたまには海禅寺を訪ねたりするようになりました。

 遊びの味を覚えた和尚は、お酒が入ると馴染みの若い芸者の話などを得意そうにきかせるので、彼女がその待合を見たいといったことから、その日和尚の行きつけの待合に出掛けることになりました。

 ここでついに彼女は和尚と結ばれることになりました。しかし未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。それにしても、塩原事件というものがなかったなら、和尚とそんな関係になることは考えられないことでした。彼女にも性に対する好奇心が、無意識のうちに育っていたことは確かなことのように思われます。

 和尚は、それ以後の彼女に対する態度も控え目で、積極的に自分から待合へなど誘うようなことはありませんでした。

 

 

 

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む1~10

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 1

 平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」(大月書店)下巻に収録された、小林登美枝「らいてう先生と私」(1971年8月15日付)は本書の成立事情について、次のように述べています。

 「(前略)らいてう先生の自伝原稿は、私が先生のお話をうかがってまとめたものに、先生が綿密、丹念に手をいれられたうえで、それを私が清書し、さらにまた先生が目を通されるという作業をくりかえしながら、書きすすめました。(中略)

 原稿として完結しなかった、「青鞜」以後のらいてう先生の歩みのあとについては、「外伝」または「評伝」といった形ででも、いずれ私がまとめなければならない、責任を感じております。(後略)」

 上述の如く「同上書」には続巻・完結篇もありますが、これについては、いずれ検討したいと思います。

 彼女は1886(明治19)年2月10日、父平塚定二郎、母光沢(つや)の三女として、東京市麹町区三番町で出生、明(はる)と名付けられました(平塚らいてう年譜 「元始、女性は太陽であった」下巻 大月書店)。両親の最初の子為(いね)は夭折、二番目の姉は1885(明治18)年1月30日、孝明天皇祭の日に生まれたので孝(たか)と名付けられたのです。母が彼女を身ごもると、姉は母の乳から離されて、乳母が雇われました。

 のちに彼女が見た平塚家の系図によれば、三浦大介義明は相模国三浦の豪族で、鎌倉幕府に仕えたその一族の為重が箱根の賊を平らげた功績により、相模国平塚郷に三千町歩を賜り、三浦姓を平塚に改めたことが記録されています。

風雲戦国史―戦国武将の家紋―地方別戦国武将の家紋と系譜―関東の武将―神奈川県―三浦氏

 豊臣秀吉が天下を統一したとき、為重から7代目の因幡守為広は岐阜垂井城主として、秀吉に仕えていましたが、関ヶ原の戦い石田三成方について敗死、その弟越中守為景は捕えられましたが、許されて紀州徳川頼宣に仕え、兄為広の遺児3人を紀州侯に仕えさせると、自身は退官出家、久賀入道と名乗りました。

 為景には子がなかったので、兄為広の遺児の末弟勘兵衛を養子とし、代々勘兵衛を名乗り、御旗奉行の役職を勤め七百石の知行を賜っていました。彼女(平塚明)の祖父に当たる勘兵衛為忠は明治維新の際に洋式訓練を受けた紀州兵の中隊長として、神戸外人居留地の保護に当たったそうです。

 1871(明治4)年の廃藩置県により、為忠は紀州を離れることを決意、先祖伝来の屋敷と全財産を先妻の長男と二人の娘に与え、後妻の八重と、その間に生まれた二人の子供を連れ、東京に出てきました。これが1872(明治5)年のことで、父定二郎の15歳のときのことでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 2

 父の話によると、このとき和歌山から東京に着くのに、汽船の故障などで5日もかかりました。祖父は当時陸軍の会計局長を勤めていた従兄津田出(いずる 紀州藩改革の功労者で岩倉具視に招聘される)を頼って、津田家の執事として彼の麹町下六番町の屋敷に住まわせてもらい、父も玄関番をしました。

和歌山県ふるさとアーカイブー紀の国の先人たちー「社会・政治」の先人たちー津田出

 津田出は役所が窮屈だといって、九段坂上の陸軍偕行社(陸軍将校の社交・互助を目的とした団体)をよく利用しました。父もそこへ手伝いにいくようになり、給仕のような仕事をしていたようです。この偕行社にドイツ語の出来る松見という紀州出身の人がいて、地位は低いのに軍人の間では重んじられていたので、父は自分もドイツ語で身を立てようと決心、松見にドイツ語を教えてもらい、やがて正則のドイツ語を教える駿河台の私塾に通うための学費を作る目的で豆売りなどもして苦労しました。やがて外国語学校に入るための学費約200円を祖父から出してもらい、1876(明治9)年神田一橋に開校されていた外国語学校(東京外国語学校 東京外国語大学の前身)を受験合格しました。

東京外国語大学―大学紹介―大学の歴史・沿革―大学の歩み  

 やがて卒業間近という時期に、以前から床についていた祖父の病気が長びいて、経済的に追いつめられ、やむなく同校を退学しようとしたところ、校長から才を惜しまれて、生徒から一躍教師に抜擢され、月給25円を給与されるに至りました。

 祖父の死後、父は官界に入り、農商務省・外務省を経て1886(明治19)年会計検査院に移り、翌年憲法制定に伴う会計検査院法制定の必要から院長に随行して、先進諸国の会計検査院法調査のため欧米諸国を歴訪しました。出発にあたり、院長は伊藤総理に呼ばれてプロシャ(ドイツ)の会計法を詳細に調べて来るよう命ぜられたということです。

 帰朝後父は1924(大正13)年66歳で官界を引退するまで40年間会計検査院に勤務し続けたのでした。

 父はいつも忙しかったのでしょうが、私生活では実に趣味がひろく、子供たちの遊び相手にもよくなってくれた、家庭的な父親でした。父は彼女を「ハル公」と呼び、末っ子の彼女が余程可愛かったのでしょうか、暇さえあれば彼女の相手になって遊んでくれました。五目並べや、お正月にはトランプの「二十一」・「ばばぬき」などをいつまでも倦きずに子供達の相手になって遊んでくれたものです。冬にはストーブや火鉢にあたりながら、グリムやイソップなどの童話を話してくれました。

 いまから考えてもおかしいのは、父が編物を上手にしたことです。彼女は小さな丸い手の甲にあかぎれが出来るので、父が、赤地に白い線をいれて、指が出るようになった手袋を編んでくれたのが気に入り、いつもそれをはめていたのを思い出します。「学校へいって、お父さんが編んだのだなんていうんじゃないよ」と笑いながら口どめされたところをみると、父としてはちょっと恥ずかしかったのでしょうか。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 3

 母は田安家(御三卿の一、徳川吉宗の3男宗武がたてた家柄)の御典医(将軍や大名に仕える医師)飯島芳庵の三女で父より5年後の1864(元治1)年に生まれました。飯島家の初代芳庵が若くして死去し、実子が幼少だったので、田安家の殿様の御声がかりで、同じ田安家の漢方医であった高野家から妻子とも養子に入り、二代目芳庵として典医の職をついだのだそうです。

 母の生家飯島家は代々江戸住まいで本郷丸山町に大きな屋敷があり、暮らし向きも豊かでした。飯島家の末娘であった母は寺子屋で読み書き算盤を習い、踊りは五つぐらいから稽古したらしく、常磐津(ときわず 浄瑠璃の流派)は数え年十七歳で結婚する前に名取り(音曲・舞踊などを習うものが師匠から芸名を許されること)になっていました。

歌舞伎へのお誘いー歌舞伎の表現―音による表現―常磐津節

 その飯島家から、母が津田家の長屋住まいをしている父のところへ嫁いだのは、父の人物に芳庵が惚れこみ、末娘をくれる気になったからでした。

 江戸育ちの母は祖母の紀州弁がわからず、父は遊芸の雰囲気を好まなかったようで、せっかく嫁入り道具に持ってきた二丁の三味線を、納戸(なんど 屋内でとくに衣服・調度などを納める室)の奥にかけたまま一度も弾くことをゆるされませんでした。小姑の父の妹も同居していましたので、母はその育った時代の女の生き方として自分を殺すことに努めたような人でしたが、父からは、しとやかな美しい妻として愛されていたに違いありません。母の遺品の中に、母が若いころ習っていた茶の湯の本で、父が筆記してやったものが残っています。

 父が欧米巡遊に出かけていたころ、母は文明開化の先端をゆく官吏の家庭の主婦として、自分を再教育するために、家からあまり遠くない中六番町にあった桜井女塾[校長 矢島楫子(「田中正造の生涯」を読む22参照) 後の女子学院]に通い英語の勉強を、また一ツ橋の女子職業学校に洋裁や編物や刺繍などを学びに通ったりしていたので、彼女(平塚明)は自然と祖母の世話になることが多くなりました。

 当時の彼女の家は欧化主義の全盛時代のことでもあり、洋間の父の書斎には天井から大きな釣りランプが下がり、ストーブをたき、母は洋服を着て、ハイカラな刺繍や編物をするという雰囲気だったのに比べて、母の実家の古めかしい空気や貞庵(母の義理の兄)の奥さんが長火鉢の前で煙管(きせる)で刻み煙草を吸う姿が異様な印象として思い出されます。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 4

 母が学校に出かけて留守の間、幼いわたくしたち姉妹の遊び相手になってくれるのは祖母の八重でした。祖母が紀州のどんな家の出身かは知りませんが、生まれ年は1833(天保4)年だったと思います。どこか堅苦しく、いつも取り澄ました感じの母にくらべて、祖母は開けっぴろげで庶民的で、身なりなどもいっこうに構おうとしません。

 読み書きは得意でなく、耳学問で知識をこやしてきた人でしたが、淘宮(とうきゅう)術の木版和綴じの本だけは、かなり熱心に読んでいるのをよく見かけました。

発祥の地コレクションー東京文京区―淘宮術(文京区)-淘宮術発祥之地

 母が学校に出かけて留守の間、彼女たちは祖母に連れられて、招魂社(靖国神社の前身)の境内にあそびにゆくのが日課でした。彼女は祖母に背負われ、姉は乳母が背負いました。ときには大村益次郎の銅像の建っている馬場を抜けて富士見小学校のあたりまで行きます。その途中に、みんなが琉球屋敷とよんでいる琉球王尚(しょう)家の邸宅があり、その前を通ると、髪をひっつめに結って長い銀のかんざしをさし、左前に着物を着た男の琉球人の歩いている異様な姿を、よく見かけたものでした。

 招魂社の表通り、つまり九段坂上の通りに絵草紙屋があって、この店先には欠かさず立ったものでした。彼女が祖母にせがんでよく出かけたのは千鳥ヶ淵の鴨の群れの見物でした。

 少し遠出をするときは、お猿のいる山王様(日枝神社)にも行きましたが、数寄屋橋を渡って、銀座の松崎へ、月に1回くらいお煎餅を買いにゆくのも楽しみの一つでした。松崎の帰り道は、かならずお堀端の青草の上、柳の木陰で一休みして、お堀端に浮かぶ鴨を見ながら、そこでお煎餅の一、二枚を食べることにしていました。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 5

 1890(明治23)年春、数え年5歳で、富士見町6丁目の富士見小学校付属富士見幼稚園に入りました。最初しばらくは祖母の送り迎えで、あとは姉といっしょに、招魂社の馬場を通りぬけて通うことになりました。

 幼稚園に通う彼女たち姉妹の服装は、ふだんはたいてい洋服に靴、帽子という格好ですが、式の日にはちりめんの友禅の着物に、紫繻子の袴をはいたりします。それでいて履物は、いつもの編みあげ靴、それにラシャで出来たつばのある帽子をかぶったりしたのですから、、いまから思うとずいぶんおかしな格好をしたものでした。そのころ、洋服はまだ珍しく、洋服で通ってくるのは、九段坂上の富士見軒という洋食屋の娘で、青柳さんという子と、お母さんがドイツ人の高橋オルガさんという子と彼女たちぐらいなものでした。

 こうした集団生活の中に入ってみると、生まれつきはにかみ屋で孤独を好む性格が一層はっきりしました。他の子どもが愉快そうに遊んでいるとき、彼女は片隅で、ただそれを見ているのです。こうした引っ込み思案の性格は、もって生まれたものと、一つには声帯の発達が不均等で声の幅が狭く、大きな声がどうしても出せないところからもきていたようです。

 1892(明治25)年彼女は富士見小学校へ入学しました。そのころは、今のように、家で勉強するようなことはなく、家でやることといえば、手習いといっていた習字の稽古くらいのことで、予習、復習などしたことがありません。受持の先生はたしか高橋先生という男の先生で、なんとなく動作や話の仕方に活気がなく、そのうえ、学課もやさしいことばかりなので、学校もあまり楽しくありませんでした。学校の記憶はほとんど薄れてしまいましたが、招魂社を中心にした学校の往き帰りのことは、いまだによく覚えております。お能をはじめて見たのも、相撲というものを知ったのも、招魂社でのことでした。

千代田区立富士見小学校―沿革  

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 6

 三番町界隈に芸者屋が多くなり、父はもっと閑静な土地を求めて、1894(明治27)年家を解体し本郷駒込曙町13番地に移転、この辺鄙(へんぴ)な駒込の地を選んだわけは、父がその年から、駒込追分町にある一高(東大教養学部の前身)で、ドイツ語を教えることになったからで、そのため彼女は本郷西片町の誠之小学校へ転校しました。

文京区立誠之小学校―学校紹介―誠之小学校の歴史

 富士見小学校は女の先生が多かったのに、誠之は裁縫の先生を除いて、男の先生ばかりでした。受持の先生は二階堂先生といって、色黒で鼻が高く、中背のがっちりした好青年でしたが、大きな声で子どもたちの名前を呼びつけにし、こちらも大声で「ハイッ」とすぐ元気よく答えないと叱られるのでした。

 紀元節とか天長節の挙式は、いつも戸外の運動場で、寒風の中で行われました。校長先生が教育勅語を読みおえるまで、、頭だけ下げて、じっと耐えていなければならないのでした。このころの子どもには、それがあたり前でもあったのです。そして「今日のよき日は大君の…」などを声のかぎりうたい、小さな鳥の子餅の包みをだいて、大喜びで家へ帰るのでした。

四大節  

 学課はまったく楽なもので、富士見小学校と同じように、勉強はほとんどしませんでしたが、たいてい総代を通しました。

 いまにして思えば、二階堂先生は彼女の非社交的な性格や、自由の世界を内部に求めようとする求心的な性向を、一番早く発見してくれた人といえましょう。お手玉や手まり、おはじきなどの遊びもさかんでした。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 7

 当時は日清戦争のさなかで、世を挙げて軍国調の時代でした。大勝利を祝う提灯行列など、で、子どもたちはみんな戦争のことをよく知っていました。

 突然二階堂先生が兵隊にとられたと聞いたときは、みんなびっくりしました。ところが、しばらく学校に見えなかった先生が、ある日堂々たる近衛兵(このえへい 天皇の親兵)の美しい軍服姿で、学校に現れました。 こんなときにもはにかみ屋の彼女はだまってはなれたところから先生をなつかしく眺めたことでした。

 もう一つこの先生で忘れられないことは、遼東半島還付について、教室でなにかの時間にとくに話をされたときのことです。戦勝国である日本が、当然、清国から頒(わ)けてもらうべき遼東半島を露、独、仏の三国干渉のため、涙をのんで還付しなければならなくなった事の次第を、子どもにもわかりやすく諄々と説き、「臥薪嘗胆」と黒板に大きく書いて、子どもたちに強く訴えられたのでした。日清戦争の思い出が、いまだに日露戦争よりもはるかにあざやかなのは、この二階堂先生の影響が少なからずあったのでしょう。

語語源由来辞典―検索―臥薪嘗胆 

 彼女の家に「為平塚大兄」として、伊藤博文の書が掛軸になって残っておりますが、それは1895(明治28)年10月31日は、日本が清国からの償金の第一回の払い込みをロンドンでで受取った日(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)で、晩年の父の話ですと、その日会計検査院の渡辺院長が、総理大臣伊藤博文をはじめ、陸海両軍の各大臣、次官、、会計局長などを芝の紅葉館に招待して、日清戦役関係の軍事費の検査状況を報告し、そのあとで祝宴を開いたその席上、父の請いをいれて書いてくれたものとのことでした。

 おそらくこのとき、戦勝のかげの犠牲者―戦死者や戦傷者のこと、その遺家族のことなど、その席にいるだれ一人として、思い浮かべてもみなかったことでしょう。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 8

 1898(明治31)年4月、彼女はお茶の水にあった東京女子高等師範学校付属高等女学校へ入学しました。誠之では、組の大半が小学校卒業だけでやめ、お茶の水に入ったのは彼女だけ、ほかに二人ほど、小石川竹早町にあった府立の高女に入りました。

 そのころの女学校といえば、お茶の水や府立高女のほかに、上流の子女のための華族女学校(後の学習院女子部)、私立の虎の門女学館、跡見女学校、明治女学校、横浜のフェリス女学校などで、高女以上では女高師と男女共学の上野の音楽学校の二つしかありませんでした。

 女高師付属のお茶の水女学校へ入ったのは、自分から志望したのではなく、父のいいつけに従ったまでで、女学校へ入学したことを、とくにうれしいとも思いませんでした。試験は学課一通りのほかに、裁縫の実技まであって、袷(あわせ)の右の袖を縫わされました。学課試験についてなにも思い出せないのは、みんなやさしい問題ばかりだったからでしょう。

お茶の水女子大学附属高等学校―本校について―学校概要―沿革

 そのころは制服というものがなく、和服に袴と靴というのが、女学生一般の服装でした。

 お茶の水の生徒は、上中流の家庭の子女がほとんどで、彼女の組にも何人かの大名華族のほかに、明治新政府に勲功のあった新華族―いわゆる軍閥、官僚、政商というような人たちの娘が大勢いました。

 女学校へ入ってからも、彼女は発育がわるく、全体としてよほどおくてだったのでしょう。担任の矢作先生が初潮の話をしてくれたのが、なんのことかさっぱりわかりませんでした。むろん、異性への興味などあろう筈もありません。

 祖母は彼女の眉頭にほんの二、三本の柔らかい毛が逆生えしているのまでちゃんと見つけて、これは目上の人のいうことを「ハイ」と素直に聞くことのできない性分で、女にはよくない相だと、たびたび彼女にいい聞かせたものでした。後年の自分のあるいた道を思うと、祖母の人相術に思いあたるふしもありますが、祖母は早くから、孫の人となりを予見していたのでしょうか。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 9

 お茶の水に進学してからも、唱歌を除いて、学校の課目はどれもやさしく、成績も一番か二番を下ることはありませんでした。

 英語は自由課目ですが、英語をやらないものは、その時間を裁縫にあてられていて、彼女は父や母の考えからでしょうが、裁縫をやらされていました。それが二年生か三年生かのときに、どうしても英語が勉強したくなり、姉といっしょに学校外で、個人教授の先生について習うようになりました。

 とにかく自分からいいだして英語を習ったことは、自発的に両親に頼んでやった、はじめてのことでした。おそらくそれは、当時の父の復古思想に対する、彼女の最初の、無意識の反抗であったかもしれません。

 彼女が女学校に入学した明治三十年代前後は、鹿鳴館時代を頂点とした欧化主義からの反動期で、万事が復古調の世相となり、彼女の家でも、日清戦争の少し前ころから、今まで洋間だった父と母の居間が畳敷きとなり、洋装、束髪で、前髪をちぢれさせていた母が丸髷を結うようになり、姉と彼女も、洋服から紫矢絣の着物に変えて、稚児髷を結うという変わりようでした。 

いこまいけ高岡―周辺の市町村の見所―氷見市―まるまげ祭りー丸髷

ニッポンつれづれ帖―ブログ内検索―稚児髷  

 教育勅語がでたのは1890(明治23)年でしたが、その後2、3年して彼女の家からは、半裸体のような西洋美人の半身像の額が消え、教育勅語(「大山巌」を読む29参照)の横額が掲げられるようになりました。

 1898(明治31)年には、明治23年に公布されて以来、「民法出デテ忠孝滅ブ」[ボアソナード民法草案を批判した穂積八束論文(『法学新報』5号 明治24年8月刊)の題名]と非難され、その施行が無期延期となったボアソナード(「大山巌を読む26」参照)案の民法にかわって、新民法が実施されました。さらに1900(明治33)年には「治安警察法」(「日本の労働運動」を読む18参照)が生まれ、いっさいの政治活動から女性がしめ出され、封建的家族制度と政治的不平等に苦しめられることになりますが、このような時代の空気が、父の女子教育に対する態度にも反映したに違いありません。

 文部省直属のお茶の水女学校では日本の家族制度維持を根本思想として、徹底した良妻賢母主義教育が行われていました。1899(明治32)年に出された高等女学校令には、学問や知識、教養よりも、家庭生活に直接役立つもの、裁縫、家政、手芸、行儀作法、芸能を重視するという、その教育内容が、はっきりと掲げられています。

 受持の矢作先生からから受けた授業は、世にもあじけない、心と心のふれ合いのないものでした。すべての学課を、形式的に教科書どおりに教え、教科書にあることを丸暗記させるだけで、生徒が自発的に考えたり、興味をもって勉強してゆくような教え方ではないのでした。あれほど索漠とした授業に、よくみんな辛抱したものだと思いますが、あの時代の娘たちは、それに疑問をもつこともなかったのでした。

 とくに運動好きというわけでもない彼女が、三年生のころからテニスに熱中しはじめたというのは、、一つには、学課のつまらなさの反動であったのかもしれません。

 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む10

 こんななかで、彼女はいつか数人の親しい友達をもつようになりました。この仲間は、結婚などしないで、なにかをやってゆこうという気持に、つよく燃えていました。

 彼女たちは因習的な結婚に反発し、つくられた女らしさに反抗して、わざと身なりを構わず、いつも真黒な顔をしていました。

 いつも伸びよう伸びようとする心の芽を、押えつけられているような気分で、学校生活を送っていた彼女たちは三年生の歴史に時間に「倭寇(わこう)」の話を聞いて、その雄大、奔放な精神にすっかり感激してしまいました。やがて彼女たちは、自分たちのグループを「海賊組」と命名しました。彼女はそのころから、授業のなかでもっとも反発をおぼえる「修身の時間」をボイコットするようになりました。

 修身は矢作先生の受持ちですが、女(おんな)大学式のひからびた内容の教科書(例えば山内一豊の妻の話など)を、ただ読んでゆくだけの講義に、つくづく退屈したからでした。

寉渓書院―江戸思想史への招待-―江戸の教育思想に学ぶー5.江戸時代の女性用教科書

 おそらくこの退屈な授業に耐えられなかったのは、彼女一人ではなかったと思いますが、授業を欠席するというような、思いきったことをする生徒は、彼女一人だけでした。修身という大切な授業をボイコットしながら、あの厳しい矢作先生から、ふしぎなことに、彼女は一度も叱られませんでした。ふだんから温和しく、成績もよかった彼女は、多分、先生の気にいるような生徒だったのでしょう。

 

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)11~20

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)11

 

 1915(大正4)年1月加藤高明外相の訓令にもとづき、日置益駐華公使中華民国大総統袁世凱に5号21ヵ条要求を提出、秘密交渉とするよう求めました。5月4日閣議は21ヵ条要求から第5号を削除、5月7日日置公使最後通牒(自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ、自由行動をとるべき旨を述べた外交文書、通常一定期限を付ける)を中国政府に交付、同年5月7日中国政府は日本の要求を承認、同月25日21ヵ条要求に基づく日中条約並びに交換公文に調印しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17参照)。

 これに対して吉野作造は列強と並んだ日本の中国分割参加を積極的に支持していましたが(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造 9参照)、湛山は露骨なる領土侵略政策の敢行は帝国百年の禍根をのこすものと批判して次のように述べています。

 「(前略)そもそも我が対支要求の内容はこれであると、未だ当局からの明示には接せぬが、内外の新聞に各様に報ぜられたものによって、ほぼ想像は出来る。(中略)欧洲列強が自分の火事に全力を傾け、他を顧みるの遑(いとま)なきに乗じて、(中略)南満および福建に、我が立場を確立する要求を支那に持ち出したのである。(中略)

 しかしながら、いかに支那が積弊の余の衰弱国であるとしても、(中略)かような大胆な希望が、(中略)果して無事に、安々と、実現し得られるものであろうか。(中略)吾輩はこの点において大疑問がある。(中略)

 支那の独立や、支那人の希望の如き、毫(ごう)も眼中に置くの要なし、これを破却し、蹂躙(じゅうりん ふみにじる)して可なりというのであろうか。(中略)

 もしも、支那が(中略)わが要求の大部分を容れたらば、吾輩は意外なる局面を惹起(じゃっき)して来はせぬかを恐れる。(中略)これらの諸国(欧米列強)は日英同盟破毀を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、(中略)それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。(中略)

 その直接の責任は(中略)大隈首相と加藤外相の失策にあるといわねばならぬ。」(「禍根をのこす外交政策東洋経済新報 大正4.5.5号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)12

 

 1916(大正5)年、雑誌「中央公論」1月号に吉野作造は論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」を発表、いわゆる民本主義の主張を展開しました(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造10参照)。

 吉野によれば、民主主義とは「国家の主権は法理上人民に在るべし」という意味で、民本主義とは「国家の主権の活動の基本目標は政治上人民に在るべし」という意味に用いられる。

 かかる意味で唱えられる民主主義は我が国で容れることのできない危険思想であるが、民本主義の精神は、明治初年以来我が国の国是であったとし、我が国における国民主権論を否認したのです(「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造16参照)。

 これに対して湛山は、吉野が民本主義論を展開したとほぼ同時期に、山川均に代表されるような社会主義者とは異なった観点からの国民主権論を次のように論述しています。「(前略)代議政治を以て、君主もしくは貴族から、民衆が主権を奪うたものと言うけれども、私の見解を以てすれば、そうではない。元来主権は国民全体にあったのである。それをただ円滑に働かしむるものが代議政治である。(後略)」(「代議政治の論理」東洋経済新報 大正4.7.25号 時論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 このような国民主権の立場から、湛山は帝国議会常設の必要を説いて、次のように主張するのです。「(前略)吾輩は、我が帝国議会の会期を三ヵ月とせる現在の規定を改めて十二ヶ月とし(即ち一年中常設)、ただ議事なき場合には議会自ら休会することに致したい。

(中略)もっとも帝国議会の会期をかく改むるには、憲法の改正を要する。即ちその第四十二条に「帝国議会ハ三箇月ヲ以テ会期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ」とあるを、「帝国議会ハ十二箇月を以テ会期トス」とせねばならぬ。(中略)

憲法の改正は勅命による必要あり、(中略)あるいは断行に躊躇する向きもあろう。(中略)国民の希望にして、而して善事なれば、勿論勅命も賜ること疑いない。」(「帝国議会を年中常設とすべし」東洋経済新報 大正5.8.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)13

 

 1917(大正6)年ロシア革命が起こり、同年11月レーニンの指導するボルシェヴィイキ政権が樹立されました。これに対してアメリカならびに日本など連合国は1918(大正7)年チェコ軍救出を名目にシベリア出兵を敢行するに至りました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。

 これに対して湛山はシベリア出兵に反対して次のように主張しています。「(前略)露国の問題に関し、何よりもまず我が国民の注意を乞いたいは、やはり同国の革命の性質である。幾十百年の間、他国民のほとんど想像だも出来ぬ激しさを以て圧伏せられて来た農民労働者が、一時にその圧迫を蹴破って起ったのが、今回の露国の革命である。不幸にして露国の農民労働者には教育が足りない。民衆政治の訓練が足りない。(中略)彼らは(中略)勝手次第に地主の土地財産を強奪分配せるが如き、その一例である。(中略)

 これさえ改まれば、即ちそこに統一は生じ、そこに混乱は終熄(しゅうそく)する。しかしながら、そは果して外国の圧迫で、能く行い得る処であろうか。(中略)今の露国で反革命党を援け、あるいは革命党を圧迫するのは、あたかも明治維新の際、幕府を援け、討幕党を圧迫するのと異ならない。(中略)ただ彼らの首領たる識者の努力に待つより他に途はない。

 故に吾輩はいう。過激派を承認しろ過激派を援けろと。(中略)ここに疑うべからざる一の事実は、(中略)露国の主権は、過激派政府が握っておることである。(中略)無名の兵を露国に出だし、露国民の憤激を買うが如きは絶対にすべからざる事である。もしそれ過激派政府が、恣(ほしいまま)に戦争を熄(や)めたという非難にに対しては、吾輩は、戦争を熄めたは一過激派政府の所為にあらずして、実に露国の実情がこれを熄めざるを得ざらしめたものと見る。(後略)」(「過激派政府を承認せよ」大正7.7.25号 東洋経済新報 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)14

 

 1918(大正7)年夏、シベリア出兵とほぼ同時に起こった米騒動(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)について、湛山は次のように述べています。

 「(前略)政府ならびにいわゆる官僚政治家の多くは、米騒動を以て単純に米価の騰貴に帰し、米価さえ引き下げれば、それで万事解決、(中略)今後再び騒擾を起し得ぬように、騒擾犯者を厳罰に処して今後を懲(こ)らすべしなどというものさえある。(中略)

 もし今日の我が思想界に危険なものがありとすれば、これに優るものはない。(中略)

 しからば米価は何が故にかくの如く暴騰をしたのか。(中略)米価の狂騰は即ち全く政府の愚劣なる輸出奨励の作出した思惑の結果と見るほかに説明のしようがないのではないか。

(中略)その結果は大多数の無産者の犠牲を以て、少数有産者に利益を与うることになる。

(中略)今回の事件は(中略)有産対無産の階級戦の大烽火を挙げたるの観さえある。されば吾輩は(中略)単に米騒擾に過ぎずなどと軽視し、もしも多数を騒擾罪に問うて懲罰に付する如きあらば、かえって由々しき結果を惹起するに至るべきを深く恐るるものである。」

(「騒擾の政治的意義」東洋経済新報 大正7.9.5号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 1918(大正7)年1月、米大統領ウイルソンが掲げた14カ条の提案(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)における民族自決主義の呼びかけは大きな感動をよびました。パリ講和会議が開催された1919(大正8)年、3月に起こった朝鮮の独立を要求する三・一運動(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造26~27参照)について湛山は次のように論述しています。

 『(前略)在鮮邦人について、這次(しゃじ)暴動(三・一運動)に関する所感を叩け。(中略)彼らはいう、「(前略)群衆が団を成して喧騒はしたが、暴力を訴うる元気も憤激も看取し得なんだ。あれで何が出来るものか」と。(中略)彼らはまた眉を顰(ひそ)めて、鮮人のために日本婦人の辱めらるるもの続出するので、婦人の夜出を戒め居る旨を語りながら、これを単に鮮人の悪習に帰して居る。(中略)

 およそいかなる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来ほとんどない。(中略)衷心から日本の属国たるを喜ぶ鮮人はおそらく一人もなかろう。故に鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するは勿論、(中略)その反抗はいよいよ強烈を加うるに相違ない。(中略)

  もし鮮人のこの反抗を緩和し、無用の犠牲を回避する道ありとせば、畢竟(ひっきょう)鮮人を自治の民族たらしむるほかにない。しかるに(中略)鮮人の暴動を見て、鮮人元気なし、腰抜けなり、というて、鮮人の暴動を軽侮し、はた鮮人の日本婦人凌辱を、(中略)単なる悪習と見去る如きは、何という無反省のことだろう。(中略)はたまた鮮人の生活を奪い居ることに気が注(つ)かぬのか。かくの如き理解の下には、断じて何らの善後策もあり得る訳がない。』(「鮮人暴動に対する理解」東洋経済新報 大正8.5.15号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 同年東洋経済新報社に入社した高橋亀吉は、記事を書いても湛山から文章が下手だと酷評され、屑かごに棄てられる有様でした。しかし同社の編集会議では編集記者たちが取材したテーマを自由に討論する気風に富み、湛山が編集長となってから、その気風は一段と活発になり、高橋はここで実力を養うことができたのです(鳥羽欽一郎「生涯現役―エコノミスト高橋亀吉東洋経済新報社)。

東洋経済新報社 創立115周年記念サイトー湛山・亀吉のプロフィールー石橋湛山 高橋亀吉

 米騒動をきっかけに、同年再び普選運動が盛り上がり(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)、普通選挙期成同盟会なるものが数寄屋(すきや)橋付近の小さなレストランの二階に設けられ、3月1日には、日比谷の音楽堂前広場で国民大会を開き、そこから直ちに示威行列を行って、銀座を通過し、二重橋前で万歳を三唱して散会しました。湛山は当時「東洋経済新報」の仕事が忙しくて、街頭運動に参加することは好まなかったのですが前々からの関係もあって引っ張り出されました。

 「しかし日本の普通選挙は、あまりにもおくれておこなわれた。(中略)せめて大正七、八年ごろ、諸政党が(中略)普選実行の決意をいだいたら、日本の民主主義はその時代にもっと固まり、したがって、昭和六年以後軍閥官僚が再びその勢力を盛り返すがごとき不幸を防ぎ得たかもしれない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)15

 

 1921(大正10)年米大統領ハーディングの提唱により軍備制限ならびに太平洋・極東問題を議題とするワシントン会議が開催され、我が国も参加しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)。

東洋経済新報社 創立 115周年記念サイトー東洋経済の歩みを動画で見る

 このワシントン会議について湛山は次のように述べています。「(前略)在朝在野の政治家に振り向きもせられなんだ軍備縮少会議が、ついに公然米国から提議せられた。おまけに、太平洋および極東問題もこの会議において討議せらるべしという。(中略)吾輩は欧州戦争中から、必ずこの事あるべきを繰り返して戒告し、政府に国民に、その政策を改むべきを勧めて来た。(中略)

 我が国の総ての禍根は、(中略)小欲に囚(とらわ)れていることだ、(中略)我が国民には、その大欲がない。朝鮮や、台湾、支那満州、またはシベリヤ樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。(中略)彼らには、まだ、何もかも棄てて掛れば、奪われる物はないということに気づかぬのだ。(中略)

 例えば満州を棄てる、山東を棄てる、其の他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、(中略)また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。

 英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば(中略)その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、其の他の列強属領地は、一斉に、(中略)我にも自由を許せと騒ぎ立つだろう。(中略)

 以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりする人があるかも知れぬ。(中略)しかしかくいうただけでは納得し得ぬ人々のために、吾輩は更に次号に、決して思い煩う必要なきことを、具体的に述ぶるであろう。」(「一切を棄つるの覚悟」太平洋会議に対する我が態度 東洋経済新報 大正10.7.23号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)16

 

 「(前略)吾輩の議論(前号に述べた如き)に反対する者は、、多分次の二点を挙げて来るだろうと思う。

 (一)我が国はこれらの場所を、しっかりと抑えて置かねば、経済的に、また国防的に自立することが出来ない。少なくも、そを脅(おびや)かさるる虞(おそ)れがある。

 (二)列強はいずれも海外に広大な殖民地を有しておる。しからざれば米国の如くその国自らが広大である。而して彼らはその広大にして天産豊なる土地に障壁を設けて、他国民の入るを許さない。この事実の前に立って、日本に独り、海外の領土または勢力範囲を棄てよというは不公平である。

 (中略)第一点より論ぜん。朝鮮・樺太・台湾ないし満州を抑えて置くこと、また支那シベリヤに干渉することは、果して我が国に利益であるか。(中略)まず経済上より見るに、けだしこれらの土地が我が国に幾許(いくばく)の経済的利益を与えておるかは、貿易の数字で調べるが、一番の早道である。今試みに大正九年(1920)の貿易(朝鮮及び台湾の分は各同地の総督府の調査、関東州の分は「本邦貿易月表」に依る。当ブログの筆者、本文掲載の統計数字を省略)を見るに、我が内地および樺太に対して、この三地(朝鮮・台湾・関東州)を合せて、昨年我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした。(中略)

 もし経済的自立ということをいうならば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国といわねばならない。(中略)

 しからばこれらの土地が、軍事的に我が国に必要なりという点はどうか。軍備については、(中略)(一)他国を侵略するか、あるいは(二)他国に侵略せらるる虞れがあるかの二つの場合のほかにはない。他国を侵略する意図もなし、また他国から侵略せらるる虞れもないならば、警察以上の兵力は、海陸ともに、絶対に用はない。(中略)

 しかしながら吾輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的でないとすれば、(中略)一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのかということである。(中略)我が国を侵略する虞れがあるとすれば、(中略)戦争勃発の危険の最も多いのは、むしろ支那またはシベリヤである。(中略)さればもし我が国にして支那またはシベリヤを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起らない(中略)。」(「大日本主義の幻想」一東洋経済新報 大正10.7.30号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)17

 

 「(前略)前号の吾輩の議論では、なおその証明足らずという人があるかも知れぬ。例えば内地との貿易額は、なるほど比較的僅少(きんしょう)であるかも知れぬが、(中略)それらの地方に内地人が移住して生活しておる者もある、それが多いならば、仮令(たとい)内地との貿易額は少なくとも、以てそれらの地方を経済的に価値なしとはいえぬであろうと。

(中略)最近の調査(大正七~八年 当ブログの筆者統計数字を省略)によるに、内地人にして台湾・朝鮮・樺太・関東州を含める全満州・露領アジア・支那本部に住せる者は総計八十万人には満たぬ。これに対して我が人口はは明治三十八(1905)年日露戦当時から大正7(1918)年末までに九百四十五万の増加だ。(中略)九百四十五万人に対する八十万人足らずでは、ようやく八分六厘弱に過ぎぬ。(中略)内地に住む者は六千万人だ。八十万人の者のために、六千万人の者の幸福を忘れないが肝要である。

 一体、海外へ単に人間を多数送り、(中略)人口問題を解決しようなどいうことは、間違いである。(中略)悪くいうなら、資本と技術と企業脳力とを持って行って、先方の労働を搾取(エキスプロイット)する。もし海外領土を有することに、大なる経済的利益があるとするなら、その利益の来る所以は、ただここにある。(中略)

 しかし世の中には、以上の議論を以てしても、なお吾輩の説に承服せぬ者があるであろう。(中略)それは仮りに彼らの盲信する如く、大日本主義が、我に有利の政策なりとするも、そは今後久しきにわたって、とうてい遂行し難き事情の下にあるものなること、これである。

(中略)思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族、または異国民を併合し支配するが如きことは、とうてい出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うるほかないことになるであろう。(中略)即ち大日本主義は、いかに利益があるにしても、永く維持し得ぬのである。

 (中略)また軍事的にいうならば、大日本主義を固執すればこそ、軍備を要するのであって、これを棄つれば軍備はいらない。(中略)吾輩は次に、前号所掲の論者の第二点に答うるであろう。」(「大日本主義の幻想」二 東洋経済新報 大正10.8.6号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)18

 

 「吾輩の主張に対する反対論の第二点は、列強が広大なる殖民地または領土を有するに、日本に独り狭小なる国土に跼蹐(きょくせき 身の置き処のない思い)せよというは不公平であるという論である。

(中略)吾輩が我が国に大日本主義を棄てよと勧むるは決して小日本の国土に跼蹐せよとの意味ではない。これに反して我が国民が、世界を我が国土として活躍するためには、即ち大日本主義を棄てねばならぬというのである。(中略)しかしながら世界には現前の事実として、大なる領土を国の内外に所有し、而して他国民のここに入るを許さぬ強国がある。されば日本もまた彼らと競争して行くがためには、どこかに領土を拡げねばならぬではないかという論の起るのも、一応もっともでないではない。

 これに対しては、吾輩は三つの点から答える。第一は前すでに説ける如く今になってはもはや我が国は(中略)四隣の諸民族諸国民を敵とするに過ぎず、実際において何ら利する処なしということこれである。第二は(中略)列強の過去において得たる海外領土なるものは、漸次独立すべき運命にある、(中略)第三は我が国は(中略)列強にその領土を解放させる策を取る(中略)例えば我が国が朝鮮・台湾に自治を許し、あるいは独立を許したりとせよ、英国は果してインドや、エジプトを今日のままに行けようか、米国はフィリピンを今日のままにして置けようか。(中略)道徳はただ口で説いただけでは駄目だ。(中略)他人に構わず、己れまず実行する、ここに初めて道徳の威力は現わるる。ヴェルサイユ会議において、我が大使が提案した人種平等待遇問題(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)の如き、わけもなく葬り去られた所以はここにある。我が国は、自ら実行していぬことを主張し、他にだけ実行を迫ったのである(鈴木文治「労働運動二十年」を読む18参照)。(中略)

 かくいわば、あるいはいうであろう。仮りに列強いずれも、その海外領土は解放するとするも、なお米国の如き自国の広大なる処がある。また解放せられたるそれぞれの国も、あるいは皆その国境を閉じて、他国の者を入れぬかもしれぬ。これらに対してはどうすると。

 これについては吾輩は次の如く答うる。(中略)それは移民についての話である。商人が、米国内で商業を営むに、何の妨げもない。(中略)一人の労働者を米国に送る代りに、その労働者が生産する生糸をまたはその他の品を米国に売る方が善い。(中略)

 あるいはいうかも知れぬ。自国の領土でなければ、そこで或る種の産業は営むことが出来ぬ。例えばいずれの国でも鉱業の如きは、外国人の経営するを許さない。あるいは仮りに経営し得たりとするも、少しくそれが盛んになれば、何のかのというて妨げられる。あたかも米国における日本人の農業の如き、それであると。これはいかにももっともの苦情である。

(中略)しかし吾輩の見る処によれば、(中略)なお外国人が、経済的に、そこに活動する範囲は相当に大きく開かれておる。(中略)仮令種々の制限はあるにしても、資本さえあるならば、これを外国の生産業に投じ、間接にそれを経営する道は、決して乏しくないのである。(中略)しからば則ち我が国は、いずれにしてもまずその資本を豊富にすることが急務である。(中略)而してその資本を豊富にするの道は、ただ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。(中略)

 以上の諸理由により吾輩は、我が国が大日本主義を棄つることは、何らの不利を我が国に醸さない。否(中略)かえって大なる利益を、我に与うるものなるを断言する。(中略)

 もし(中略)米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢(きょうまん おごりあなどる)であって、東洋の諸民族ないし世界の弱小国民を虐ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲(ようちょう こらしめる)すべし。(中略)今回の太平洋会議は、実に我が国が、この大政策を試むべき、第一の舞台である。」(「大日本主義の幻想」三 東洋経済新報 大正10.8.13号 社説 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)19

 

 1922(大正11)年2月1日元老山県有朋が死去しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む25参照)。

 湛山は彼の死去に際して、次のように述べています。「山県有朋公は、去る一日、八十五歳で、なくなられた。(中略)維新の元勲のかくて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。

(中略)急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。(中略)

 政友会は二日に陸軍縮小建議案を議会に提出した。(中略)憲政会の領袖さえ、天下取りの政党は、うかと陸軍縮小などは叫べないという世の中だ(加藤総裁はその後これを唱えたといえども)。(中略)陸軍閥が恐いからだ。(中略)その背後に絶大の政治権力を有する山公が控えていたからだ。しかるに憲政会よりも(中略)八方円満主義の政友会が事もあろうに陸軍縮小の建議をする。山公の死、少なくともその予感がなくては出来ない事だ。(後略)」(「死もまた社会奉仕」 東洋経済新報 大正11.2.11号 小評論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

落合道人「わたしの落合町誌」―カテゴリ-気になるエトセトラー2007.08.31石橋湛山は「主婦之友」の愛読者だった

 また1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災(松尾尊兊「大正デモクラシーの群像」を読むⅠ-吉野作造28参照)における朝鮮人虐殺について、湛山は次のように論述しています。「(前略)鮮人というから(中略)個々の不良の徒が混乱に際して、若干の犯罪をした。それも官憲の発表によれば、ほとんど皆風説に等しく、(中略)かくてはその犯罪者が、果して鮮人であったか内地人であったかも、わからぬわけである。(中略)日本は万斛(ばんこく 非常に多量)の血と涙とを以て、過般(かはん さきごろ)の罪をつぐなわなければならぬ。」(「精神の復興とは」 東洋経済新報 大正12.10.27号 小評論 松尾尊兊編「石橋湛山評論集」岩波文庫

 しかし上述のような、現在の日本国憲法の理念を先取りしたとも言える東洋経済新報における湛山の主張は当時の日本では少数派にとどまり、国民の間に広く浸透することはありませんでした。

 

江宮隆之「政治的良心に従います」-石橋湛山の生涯―を読む(A)20(最終回)

 片山 潜に対する日本政府の圧迫は、同氏がソ連に入国後も継続しました。それは日本に残した同氏の夫人(声楽家原信子の姉の娘 たま 1903片山の先妻フデ死去後 再婚 片山潜「自伝」年譜 岩波書店)に対してです。地方で女学校の教師をしていた夫人は、突然東洋経済新報社に湛山を尋ねて来て、学校に就職しても片山潜の妻とわかると首にされ困っている、片山とは文通もないので、法律上離婚する方法はあるまいかということでした。

 幸いに片山氏の戸籍は神田区にあり、湛山は片山氏と親しかった区長を区役所に尋ね相談、区長に、片山氏から離婚に異議がないという意思表示を手紙ででもしてもらえないか、といわれたので、ロンドンの友人を通じて、湛山は片山氏にその事情を申し送りました。片山氏の返事の中にペン書きで「離婚を承諾す。片山 潜」と記述した紙片が同封されていたので、湛山は同紙片を区長に見せ、手続きは一切区長がやってくれました。それは大正12(1923)年4月でした。

 「(前略)世の中には、片山氏がいたために、東洋経済新報は社会主義化したといった人があったと聞いたが、もしほんとうにそんな評判があったとすれば、それは全然事実に反する想像であった。(中略)

 私は、こうして、しばしば片山氏と手紙のやり取りをしたが、しかしその後『東洋経済新報』も過激な議論を書くというので、官憲から目をつけられているらしいので、万一家宅捜索でも受けては、やっかいだと思い、片山氏からの手紙は一切焼いてしまった。しかし近ごろ、古手紙類を調べて見たら、右の離婚を承諾すという紙片と、二、三枚の葉書が残っているのを発見した。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫